パソコン絵画徒然草

== 11月に徒然なるまま考えたこと ==






11月25日(水) 「小さな楽しみ」



 最近、秋の出張シーズンのピークに達しており、毎週どこかに泊付きの出張に行っている。出先ではスケジュールがギッシリ詰まっているから、のんびりする時間の余裕はなく、帰りの電車や飛行機に乗る頃にはドッと疲れている。

 そんな慌しい出張の中で、僅かばかりの楽しみといえば、朝早めに起きて、ホテルの周りを散歩することだ。ホテルといっても風光明媚なところにあるわけではなく、どちらかというとビジネス街近くの殺風景な立地のことが多いので、周りもビルだらけだ。従って散歩といっても、ビルの谷間をウロウロするだけである。

 最初は健康管理と朝食を兼ねて行き始めたのだが、7時頃に出掛けるものだから、ビジネス街は閑散としている。場所によっては、車の数もぐっと少ない。そんな中を、朝日を浴びながら歩いていると、都会の孤独ではないが、妙な静けさを感じる。普段たくさんの人が行き来する場所に全く人がいないというのは、どうにも不思議な雰囲気なのである。

 そんな中で、開いたばかりのコーヒーショップに入る。たいてい行き当たりばったりなのだが、目覚まし代わりにおいしいコーヒーが飲みたいものだから、スターバックスやドトールなど、コーヒーの味を売りにしている店を選ぶことが多い。そこで、モーニング用のセットや、パンとブレンドコーヒーの組合せで朝ご飯を食べる。もうその頃にはすっかり目が覚めている。朝歩くというのは、身体にいいものだということが実感できる。

 さて、そんな形で早朝のビジネス街のコーヒーショップに入るようになって、意外にお客さんがいることに気付く。中には、店が開く前から店頭で待っている人もいる。

 店内での過ごし方はまちまちで、私と同じように朝食を取っている人もいれば、単にコーヒーを飲んでいる人もいる。新聞や文庫本を読んでいる人もいれば、仕事の準備なのか書類に目を通している人もいる。ビジネス街だからサラリーマンだけかというとそうでもなく、ラフな格好の人もいる。でも、ほとんどは連れがいなくて一人である。

 何度もそうした経験をしているうちにふと思ったのだが、こういう人たちも、もしかしたら出張時の私と同じように、一日のうちの僅かな時間、ささやかな楽しみとして朝のひとときをここで過ごしているのではないか。もちろん、自宅で朝食の用意をするのが面倒なので、純粋に朝ご飯を食べに来ている人もいるのかもしれない。だが、職場のすぐ近くまで来て、仕事が始まるまでの間、のんびりとコーヒーショップで過ごすのを、ささやかな息抜きとして楽しんでいる人もいると思う。

 これから就職しようとする学生たちから、社会人としてうまくやっていくためのコツのようなものを尋ねられたことがある。そのとき言ったのは、社会人というのは何かとストレスが多いので、どんな小さなことでもいいから楽しみを持つようにするとよいという話だ。手間や時間のかかることだと、忙しさがつのるとやっていけなくなるから、ささいで長続きするものの方がいいとも言った。学生たちには具体的イメージが湧かなかったようだが、それは日常の中に小さな楽しみを探すと言い換えても良かったかもしれない。

 私は毎日の通勤途上で、何気ない自然に目を向けるようにしている。この季節だと柿の実の赤さを眺めたり、神社の森の色付き具合を観察したりするのを楽しみにしている。冬になっても見るものはある。畑に餌を求めてやってくる野鳥を眺めることもあれば、思い切り冷え込んだ日には道の脇に張った氷を観察することもある。実にささやかなことだが、ひととき自然の有り様に目をやると心がなごむ。それが私の言う小さな楽しみだ。

 出張先の朝のコーヒーショップで見かける人々の姿も、もしかしたらこれと同じことなのかなと思う。慌しい朝の時間の中に、僅かな休憩時間を入れる。そうして気持ちをなごませ、仕事のストレスに備える。そんなときには、職場の同僚はいない方がいい。一人で静かに過ごす方が楽しかろう。色々な形でのストレス解消があるものだなと気付かされる朝の散歩である。





11月19日(木) 「はかない季節に」



 あまり熱心なファンではないが、時々「YouTube」を見る。テレビ番組ではなく、音楽関係のプロモーションビデオやライブ演奏を視聴することが多い。4、5分のものを、気の向くまま幾つか見る程度である。

 YouTubeは動画共有サイトの草分け的存在で、その成功から、大手資本による多くの追随サイトが現れた。一種の社会現象にもなり、ネットにおける成功例の代表格だが、その歴史は著作権トラブルにまみれている。テレビなどの著作権付き映像満載なのだから、そうなったのも仕方なかろう。

 ただ、たまに検索していて、ほほぉ〜と思うような懐かしい映像に出会うことがある。古いテレビ番組やコマーシャルである。家庭用ビデオも普及していない時代に、誰がこんなものを録画していたのかと驚く。

 あるときふと思い立って、あのCMはないかと検索してみた。サントリーが遠い昔に流していたウイスキーの宣伝で、東北地方に伝わる雁供養の伝説を下敷きにしたものである。

 雁供養は不思議な話だ。言い伝えによれば、秋に雁たちは木の枝を口にくわえて北の国から海を渡ってくる。長旅で飛び疲れると、口にくわえていた枝を海に落とし、その上に止まって羽を休める。そうやって浜までたどりつくと、いらなくなった枝を浜辺に落として、さらに内陸に飛んでいく。やがて日本で冬を過ごした雁たちは、早春になると再び浜にやって来て、秋に自分が落とした枝を拾い、口にくわえて北の海に飛び去る。そのあとには、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が砂浜に残る。浜の漁師たちはその枝を拾い集めて風呂をたき、亡くなった雁たちの供養をしたのだという。

 夜の浜辺で焚き火にあたりながら漁師の話に聞き入る山口瞳氏が、CMの最後にしみじみとこう言う。「哀れな話だなぁ。日本人って不思議だなぁ。」

 その切ない話を私は好きだった。画面構成も、語りも良かった。CMながらひとつの立派な作品になっていた。何より、雁の命のはかなさが胸に響いた。出来ればもう一度見たいなぁと以前から思っていたので、期待して検索したが、さすがにそこまで古いCMはなかった。

 そんなことを思い出したのも、そろそろ渡り鳥が日本に飛来する時期だからだ。いや、それに加えて、秋は自然の中に生きるものたちの命のはかなさをじみじみと感じ入るのに、打ってつけの季節だからかもしれない。

 春に芽生え、夏に盛りを迎えた自然の生命力がかげり、やがて終焉を迎える姿をそこここに見るのは、冬の気配が忍び寄るこの晩秋の季節である。代表格は紅葉だろう。春の若葉が最後を迎えた姿が紅葉である。散りゆく最後の瞬間の輝きを、我々は晩秋の山々に見ることが出来る。美しくもはかない自然の最終章である。

 人間でなくとも、命あるものが果てる姿は誠に哀れで物悲しい。秋の野にはそうした自然の宿命が満ち溢れている。そのはかなさを、昔の人々は詩歌に読み、絵に表した。そうしたものたちの姿は、常なく変転する人間界の様相と似ていて、見る人の心に無常の念を湧き立たせたことだろう。

 芸術の秋なんて言われるが、季節がいいので趣味に身が入るというだけではないような気がする。自然の中で、様々なものたちの命が尽きていく姿を目の当たりにして、はかなく消えゆくものの姿を、せめて紙の上に留めようという気持ちが、人々を芸術に向かわせるのかもしれない。

 くだんのCMの山口瞳氏ではないが、哀れな話に感じ入る晩秋の日々である。





11月15日(日) 「技術と主題」



 先日、広尾の山種美術館で行われている速水御舟展に出掛けた。

 山種美術館は、戦前から戦後にかけて相場の世界で活躍した山崎種二氏が設立した、日本画収集で有名な美術館である。戦前に米相場で頭角を現した山崎種二氏は、後に株式相場に転じ、戦後には山種証券を創業した。彼の活躍は経済界だけに留まらず、美術界、教育界と多岐にわたっている。

 山種美術館は証券界ゆかりの美術館だけに、最初兜町でオープンしたと聞く。その後、千代田区三番町に仮移転し、この10月に広尾に移った。収蔵されているコレクションは質の高いものが多く、日本画の代表作品がきら星の如く並ぶ。美術の教科書でもお馴染みの竹内栖鳳の「斑猫」や、私の好きな東山魁夷の「年暮る」もここの収蔵品である。ちなみに「年暮る」は、12月からの「東山魁夷と昭和の日本画展」に出品される予定である。

 さて、そうした著名日本画家のコレクションの中でも、速水御舟の作品群はかなり充実しているようだ。実業家安宅英一氏の安宅コレクションから一挙に百点以上を買い取って質量とも充分な内容になったと聞く。今回は新美術館開館記念特別展として、その自慢の収蔵品を大規模に公開するとあって、テレビでも紹介されていた。

 速水御舟は、若くして将来を嘱望された日本画家だったが、腸チフスによりわずか40歳で夭逝した。そのため、作品数は少ないし、関東大震災で消失してしまった代表作もある。一般の人たちはその名を余り知らないだろうし、美術に関心のある人でも「炎舞」「名樹散椿」が頭に思い浮かぶ程度ではないか。この二つの作品は共に重要文化財に指定されており、山種美術館の所蔵である。

 速水御舟というと、私のイメージでは天才肌の日本画の達人であり、技術的に高い水準を誇っているという印象がある。現に、技法に関する質の高さはつとに知られているところで、彼の作品の随所にその力量がいかんなく発揮されている。明治から大正にかけて頭角を現した日本画家の多くに共通するように、彼もまた新しい日本画の在り方を模索し、様々なことにチャレンジした。そして、そうした非伝統的な新しい試みを支えるだけの高い技術を持っていたのだと思う。

 技法は、絵を描くうえでのひとつの道具であり、自分が作品に表そうとしている主題を具体的な形にして、見る人に分からしめるためには不可欠な要素である。これなくしては、いくら素晴らしいテーマとイメージを持っていたとしても、それを人になかなか理解してもらえない。

 反対に、技法だけがあっても、見る人に感動は生まれない。技術レベルが高いと感心はしてもらえるかもしれないが、相手の心を動かすだけの中身がなければ、作品は人の心の中に何も残さない。けれど、ヘタに技量がある人間は、時として技法だけの力技的な作品を制作してしまう。技法に振り回されて、自分の主題をないがしろにしてしまうのだ。

 御舟にもこの種の作品があり、その技術力は並々ならぬものがあるが、内容的には酷評されたと聞く。今回は出品されていないが、東京国立博物館所蔵の「京の舞妓」がそれである。

 つまるところ、絵を描くうえで技術と主題は車の両輪の如きものであり、両者がバランスしていなければ、作品はあらぬ方向に進む。ただ、「言うは易く行うは難し」で、絵画制作を続けていくにつれて両者がバランスよく育つとは限らない。絵の才能のある者は、時として技量が高まるスピードの方が速く、自分なりの主題が熟成していく前に、人目を惹くに足る技術が身に付いてしまいがちだ。そうなると、自分が何を描きたいのかという主題を確立する前に、ついつい技法に頼った作品を制作してしまう。

 切れすぎるナイフというのは時として危険だ。何に使うのかが分かったうえで振るわないと、思わぬケガをすることになる。「京の舞妓」で酷評を浴びた速水御舟は、その後長年にわたり人物画から遠ざかることになったという。





11月11日(水) 「温もりを求めて」



 11月に入ってから、時折初冬を思わせるような寒い日が混じるようになった。もうすぐ12月だし、東京では木枯らし1号が吹いたようだから、寒くなっても不思議ではない。

 週末に健康管理と画題探しを兼ねて行っている散策も、寒くなって来ると億劫になりがちだ。今のところはまだそんな状態ではないが、北風が強く吹く冬場は、歩いているだけでつらくなることがある。そんな中で長時間散策していると、防寒着に身を固めていても、どこかで暖を取りたくなることがある。けれど、繁華街ならいざ知らず、そんな便利な場所は、私の散歩コースにはめったにない。

 「めったにない」と書いたのは、皆無ではないということで、実はたまに立ち寄る無料の暖房付き休憩所がある。温室である。

 時々光が丘公園の方を回ることがあるが、ここには無料で入れる温室がある。どうして温室なんかあるのかと不思議に思われる方もあろうが、この公園にはゴミの焼却施設があり、そこから出る余熱で空気を温め、温室に送り込んでいるのである。いわば省エネ型温室で、うまく作ってあるなぁと感心する。

 場所が分かりにくいせいか、たいてい空いていて、休憩にはもってこいである。湿度もあるから冬場の乾燥で痛みがちな喉にもいい。施設自体は小さなもので、一回りするのにさして時間も掛からないから、ちょっと立ち寄ってフラッと見るには手ごろである。

 この前の休日に随分寒い日があり、光が丘方向に散策に出たものだから、久し振りにこの温室に立ち寄った。室内は心地良い暖かさで、おまけにほとんど人がいない。静かに温室の植物を鑑賞し、暖を取ったあとに戸外へ出た。

 温室の植物は、あまり絵の題材にはならないのだが、めったに見かけない種類のものばかりだから興味深い。咲いている花自体、珍しく美しいものが多いのだが、葉の形や色に、目を惹かれるものもある。まるで造花のようだと感心するのだが、そうした作り物的な美しさが、私の絵心に響かないのだろうなと思っている。

 私が題材に選ぶ植物は、たいてい野に咲いているようなものが多い。勿論、本当に自然に咲いているのではなく、誰かが手入れしているのだろうが、そんなふうに自然に見える植物が好きなのである。

 ただ、温室に咲く花も、南の国々に行けば自然の中で自生している野草なのだろう。だから、そういう地方に住む人が見れば、故郷の山河を思い浮かべるのかもしれない。私はそういうイメージを共有できないものだから、ただきれいで珍しいという思いしか湧きあがらない。

 そんな私でも、何度もこの温室に足を運ぶうちに、それぞれの植物とは顔馴染みになった。絵の題材にすることはめったにないのだけれど、野に咲く花々とはまた違った親しみを覚えるようになった。お蔭で、この前立ち寄った時には、懐かしさすら感じた。まぁそんな形の花との交流もあるのだなぁと思う。

 これから春になるまで、また何度か温室に足を運び、暫しの暖を楽しむことになるのだろう。温室の花とは、そんな僅かの間の付き合いでしかないが、せめてもの交流の証に、今年は1〜2枚絵にしてもいいかなと思っている。それもまた何がしかの縁ということだろう。





11月 3日(火) 「再び開設記念日を迎えて」



 今日「文化の日」は、我が「休日画廊」の開設記念日である。2001年11月3日に産声を上げた休日画廊は、かくして8年の歳月を刻んだことになる。振り返ると、実に長きにわたって活動してきたことになるが、本人にとってみれば、単に一枚一枚の作品の積み重ねでしかない。「塵も積もれば山となる」というが、まさにその通りだなと思う。

 開設以来、扱ってきたテーマは一貫していて、自分なりの自然観を絵にしてきただけである。ピカソのように、作品を描き進むに従って自分の追いかけるテーマや絵のタッチが大きく変化する人もいる。しかし私の場合は、大学時代に本格的に絵を描き始めてから何も変わることがない。同じような絵を淡々と描き続けている。

 自分でも「よく飽きないなぁ」と思っているくらいだから、ご覧になっている方々からすれば、よくも同じ主題と作風で次々に作品を制作できるものだと感心しておられるかもしれない。今では制作ペースが落ちたとはいえ、表紙絵を入れると毎月3枚は描いていることになる。パソコンで描くからこれだけの枚数をこなせるのであって、絵具と筆で描くとなると、働きながらの身には、なかなかしんどいペースだと思う。

 パソコンで描くようになって、絵を描きたいという欲求は取りあえず満たされているから、今さら忙しい合間を縫って絵具と筆で描こうという気力は湧いてこない。お蔭で、我が画材は押入れの中で十年以上眠り続けており、アクリルや透明水彩などのチューブ絵具はもう使い物にならないだろうと諦めている。そうなると、今一度絵具類を買い揃えないと、絵具と筆では描けないことになる。それもまた、もう一度自分の手で筆を取って描こうという気力を萎えさせる要因である。

 だからといってこの先もずっとパソコンで描き続けるかというと、そこは何とも確信が持てない。仕事が忙しくてとても絵を描いていられなくなったという環境変化が、私をパソコンに向かわせたのであって、その前提条件である日常生活の多忙さという要因に変化があれば、また絵筆を取ることがあるかもしれないなと思う。

 これまで油絵、水彩画、アクリル画、水墨画、日本画と、代表的な画材は一通りこなして来た身として、パソコンから肉筆画に戻るとなると、さて何画を選ぶだろうか。今でも日本画を意識した作風だから日本画に戻るのが自然かもしれないが、いざそういう場面になると色々悩むのではないかと思う。

 慣れ親しんだ元の画材に戻るのが有力な選択肢だろうが、せっかく自由時間が充分取れたのなら、新しい画材に挑戦するという手もあるかもしれない。その時には、色鉛筆やパステルという辺りが有力候補だろうし、あるいは原点に戻って、鉛筆画を極めるのも一案だ。そんなことで迷うのは嬉しい悩みだが、結論を出すのに時間がかかる気もする。そのために色々考えるのも楽しかろう。

 まぁそんな問題は、じっくり絵画制作に取り組める余裕が出来てから悩めばいいことで、当面は仕事とにらめっこしながらパソコンで絵を描く日々が続くと思う。パソコンですら描けないほど忙しい時期も今まであったから、せめてこうして作品を描き続けられる幸せを噛み締めながら、休日画廊での活動を続けていくことにしよう。

 さて明日から9年目。この先、どうなっていくのだろうか。





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