パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==






4月29日(水) 「風景画の中の小道具」



 風景画を描く際、私はあまり複雑な構図を選ばない。バランスが難しいということもあるが、もともとシンプルな構図が好きなのである。実際の風景でも、広い空間が続くような景色が好きである。建造物も何もない草原が好きだし、砂浜の向こうにただ海が広がっていれば、それでいい。

 広い空間は人を寛がせる。自然の中だけでなく、屋内についてもそう感じる。もちろん、色々な家具・小物を組み合わせて、手狭だけれど居心地のいい空間を作り出すことは出来る。だが、広い部屋には広い部屋なりの良さがある。それは、狭い空間では味わえないものである。

 さて、そんな広い空間、例えばどこまでも続く草原を絵にしたとしよう。そのまま描いて良い絵が出来るかというと、そういうわけにはいかない。シンプルな構図であるがゆえの、困った問題も起きてくる。シンプル過ぎて、どこか物足りないのである。現実の空間としては好ましいものでも、絵としては単調過ぎて退屈だということかもしれない。

 そんなとき、広い空間の邪魔をしない小道具を、何がしか添えたくなる。家をドーンと描いてしまうと、画面を占領してしまって、元々の主題である空間の広さが損なわれる。だが、単調さを打ち崩すためには、目に留まらないようなものでは意味がない。

 私はそういうとき、よく草原に杭を打ち込むことにしている。時として木製の柵ということもあるが、柵だと空間を区切ってしまって具合が悪いこともある。単なる木の杭がちょうどいいのである。

 木の杭というのは、空間を仕切っているようでいて、出入りが自由なものだから画面を分断したりはしない。むしろ、見る人の視点移動を誘う小道具として、便利な面もある。

 私の絵を見ていて、何故こんなに杭があるのか不思議に思われるかもしれないが、長い間この種の風景を描いてきて、自分なりに編み出した小道具なのである。本当は、別のものでもいいのだが、もう何十年も描いてきて、これがもっとも便利だという結論に達した。他に何かないかと思案した時期もあるのだが、結局のところ思いつかなかったのである。

 ただ、今でも時々草原の絵を描きながら、杭の他に何かないかなと思うことがある。でもなかなか思い浮かばず、気が付いたら杭を描いている。

 風景画の中の小道具というのは、色々ありそうで、実のところしっくりと絵に馴染むものはない。他の方の作品でいいアイデアを見つけたら、使わしてもらおうかなんて考えたこともあるが、いまだかつてこれぞという小道具にお目にかかったことがない。いや、私ほどシンプルな構図の作品が、世の中にめったにないからかもしれない。





4月23日(木) 「バイオリズム」



 私の作品制作は、時計が時を刻むのと同じように単調な行為の繰り返しだ。休日に散歩し、季節の移り変わりを眺めながら画題を得る。それを家に帰って淡々と作品に仕上げる。ただそれだけの繰り返しで、他にこれといって特殊なことをしているわけではない。まるで、朝起きて朝食を食べて出て行くのと同じだ。

 けれど、そんな同じことの繰り返しなのに、調子に乗ってスイスイ描けるときと、描き始めたはいいものの、行き詰ってはたと筆が止まるときがある。スランプというほど大袈裟なものではないが、何とも調子が出ないのである。

 バイオリズムという概念があって、平たく言えば、身体や心に生じるプラス・マイナスの周期をいうらしい。動物の身体の中では複雑なメカニズムがたくさん働いていて、それぞれ一定の周期を持っている。最も短いのは心臓が波打つ心拍数だろうか。他には寝たり起きたりの昼夜の周期がある。季節によっても体調は変化するのだろう。そして、一番大きな波は、年を重ねることにより生じる加齢の波ということになる。

 こうした幾つもの周期の重なり合いで、更に大きな波ができる。その大きなうねりが上下するたびに、心も身体も影響を受ける。心身ともに快調の時にはうねりは上向き、何となく調子が出ないときにはうねりは下向いている。まぁそんな感じなのだろう。

 絵を描く時にも、こうしたバイオリズムが影響を与えているように思う。良い画題をふっと思い付くとき、あるいは描き始めたらスイスイと筆が進むときは、おそらくバイオリズムが上向いているのだろう。逆に、何を見ても心が動かずひとつも画題を拾えないとき、描き始めて途中で行き詰るとき、これは波の具合が悪いのだろう。そんなときにはジタバタせずに、次のいいうねりが来るのを待つしかない。

 問題は、絵を描く週末に、いいバイオリズムが得られるとは限らないことだ。それが作品の出来不出来につながるケースもあるだろう。週末に散歩に出かけ、いい画題にめぐり合えるかどうかは、偶然に左右される。それと同じように、絵を描こうとするときに良いバイオリズムに乗ることが出来るかどうかは、運次第なのだ。

 ただ、バイオリズムというのは、完全に行き当りばったりのシロモノではない。心と身体のリズムなのだから、心がけ次第でコントロールできる部分もあるのだろう。心の落ち着きを保ち、体調管理に万全を期せば、よい波を呼ぶことが出来るのではないか。

 日頃あまり意識することのないバイオリズムだが、どうも思うように絵が描けないときには思い出す。思い出したところでどうなるわけでもないのだが、不調は自分の腕前のせいばかりではないと思えば、不思議となぐさめになったりする。まぁ人間も動物の一種なのだから仕方なかろう。のんびり構えて、次の波を待とう。





4月15日(水) 「不本意な公表」



 先日ニュースで、宮沢賢治の未発表の詩が見つかったと報道されていた。生家の蔵を解体した際に発見されたそうで、なんと蔵の梁の上に載せられていた地図の裏に、その詩は書かれていたという。宮沢賢治の未発表作品が世に出るのは、これが最後となるだろうということで、研究者の注目を集めていると聞く。

 「銀河鉄道の夜」に代表される宮沢賢治の作品には独特の世界観がありファンも多い。「風の又三郎」や「グスコーブドリの伝記」、「注文の多い料理店」など、子供の頃に賢治の童話に親しんだ人も沢山いるに違いない。詩では「雨ニモマケズ」が有名で、冒頭のフレーズは誰でも知っている。子供から大人まで、幅広い層に人気のある作家だから、今回発表された詩に関心を持つ人も多かろう。

 けれど私には、今回のニュースを喜ぶ人々を尻目に、ちょっと考えさせられるところもあった。この詩が世に出たことに対して、泉下の宮沢賢治自身はどう思うのだろうかと。

 生前に作品の発表を始めていた賢治にとって、自信作は当時自分の意思で世に送り出したはずだ。そうすると、手元に残った作品というのは、発表するのには躊躇する出来だったということだろう。そもそも賢治は、一旦完成した作品に繰り返し手を入れるので有名だったと聞く。従って、完成した形で生前に発表された作品は限られている。名作「銀河鉄道の夜」も未定稿のまま残されていたものだ。「風の又三郎」も生前の発表作品ではない。そうした未完成の作品が死後に次々と刊行されたことについて、泉下の賢治が知ったら、どう思うのだろうか。

 私も絵画制作において、下書きやラフスケッチのまま制作を中断した作品が多数ある。このまま描き進めてもどうにもならないと思いつつ、ただそのうち加筆したらひょっとして局面が変わるかもしれないとの一縷の望みを抱いて放置した作品群である。その思いも虚しく、結局そのまま部屋の隅で埋もれてしまったが、仮に自分の知らないところでそれが公開されたとしたら、あまりいい気はしないだろう。自分の作品としては公開したくないレベルのものだからだ。

 プロの画家の作品についても、死後に未発表作が公表され、ファンの関心を集めることがあるが、生前その作品の発表を控えていた当の本人にとって、決して本意ではないだろう。ファンとしては見たいが、本人としては隠したい領域というのは、芸術家であれば誰しも持っている。けれど、そうした作品が死後に見つかれば、多くの場合は公開されることになる。しかも、「未発表作を展示」などと喧伝され、展覧会の目玉になったりもする。

 ファンや研究者は、その作家や画家の全てを知りたい。本人が隠しているものがあったとすれば、なお知りたい。それが人の心理というものだろう。しかし、作品の発表は、ファンが喜び世間が評価すれば、作者の意に沿わなくてもいいのだろうか。作品を作る側からすれば、何とも複雑な気持ちになるのである。





4月 7日(火) 「迷子の楽しみ」



 いつになったら本格的な春がやってくるのだろうと思っていたら、急に気温が上がり一気に春めいた。通勤にコートを着なくてもいいようになったし、朝晩の冷え込みもゆるんだ。戸外を歩くのにはもってこいの季節の到来だ。

 特に用事もなくのんびりと散歩するのは、ストレス解消と健康管理に良いと思うのだが、そんな散歩のおりに詳しい地図を持って行ったり、事前にコースを下調べしたりするタイプの人と、そうでない人がいる。私はどちらかと言うと後者の方である。

 もちろん、全く見知らぬ土地に出掛けるときには事前に地図くらいは見る。だが、何度か行ったことのある場所だと、まぁ何とかなるだろうと手ぶらで出掛ける。あとは現地で、勘に頼ってあちこち歩く。そんないい加減な散歩術だから失敗もある。

 東京の道は幹線から脇道にそれると結構入り組んでいる。一見東西南北に碁盤の目状に道が組み合わさっているかのように見えても、実は微妙にカーブしていて、いつのまにか向かっている方向が変わっていることがある。多くの場合は、他の道と交わったところできちんとした十字路になっていないことに気付き、方向を確かめ直すのだが、時として、他の道も一緒にカーブしていて、気付かずにドンドン進んでしまうことがある。

 この種の錯覚にだまされて、全然違う方向に向かって歩き、かなり行ったところで間違いに気付いたことが何度かある。そんなときにどうするかというと、対策は二つある。そのまま間違った方向に歩き、どこかの幹線に一旦出てから自分の居場所を確かめる方法が一つ。もう一つは、あきらめて元の場所に引き返すという、ごく単純な方法である。

 どちらが賢いかというと、明らかに後者の方が賢い。私の経験でも、ダメージの少ないのは元の場所まで引き返すことである。だが、人間というものは、自分がしたことが完全に無駄になるのが嫌いで、ついつい行き着くところまで行ってしまう傾向にある。私も過去何度かそうした選択肢をとった挙句に失敗をしたことがある。

 しかし、間違いに気付いて行き着くところまで歩いて行ったところ、不思議な場所に出たり、予想外の景色に行き当たったりすることがある。この近くにこんな場所があったのかと驚いたこともあるし、おそらく地図には載っていないと思われる裏道に分け入った経験もある。そんな場所に共通して流れるのは、奇妙な静寂であり、妙に不思議な雰囲気である。異次元の空間にひょっこり迷い込んだような困惑を覚えたこともある。

 一見整然と並ぶ東京の街並みの裏側に、そんな不思議な空間が残されていることに驚くこともあるし、そこでふと絵の構想を思い立つこともある。けれど、そう感じるのは当初の一回だけである。その隠れスポットに通い慣れてしまうと、最初に感じた霊感のようなものは湧いて来なくなる。最初のインスピレーションを大切にしないと、この種の迷子感覚は楽しめないのである。そのためには、道に迷った当惑を捨てて、探検気分で歩くことが必要かもしれない。

 散歩には色々な楽しみがあるが、そんな異空間を見つける楽しみもまた格別のものがある。ただ、探しに行こうとしても見つからないのがこうした隠れスポットの特徴である。探検気分でいい加減に歩く。それが異空間を見つけるコツかもしれない。

 さて、またふらりと出掛けてみようか。





4月 1日(水) 「桜、再び」



 先週に引き続き、またもや桜の話である。

 ひところ暖かい日が続いたので、3月末が花見の好機になると思っていたが、季節は蛇行を繰り返しながら移り変わっていくようで、暖かくなったと思ったら、また冬の寒さがぶり返し、桜の開花スピードが鈍ってしまった。お蔭で本格的な花見の時期も少し先のこととなり、楽しみが先延ばしとなった。

 花見というと昔から酒が付きものだが、あの騒がしい宴はどうにも性に合わない。私自身が酒を飲まないということもあるが、何よりも、美しいものは静かに鑑賞したいという気持ちが強いからだ。美術館に大音量の音楽が流れていたら、誰しも興醒めだろう。桜についても同じことが言える。満開の桜が青空に映えるところを、ただ静かに見たい。ハラハラと花びらが散る道をそぞろ歩きたい。それが、桜の美しさを一番楽しめる鑑賞方法ではなかろうか。

 そうした点からは、上野にせよ飛鳥山にせよ、東京の桜の名所は何かと騒がしく、わざわざ足を運ぼうというインセンティブが湧かない。千鳥が淵はその点まだいいが、あれだけ大勢の人でこみあうと、ゆったりと鑑賞できない。一番いいのは、北の丸公園からお堀越しに千鳥が淵の桜を鑑賞することではないかと思っている。

 花の下で酒を飲んで騒ぐというのは、今に始まったことではない。「花見酒」という有名な落語があるが、江戸時代から隅田川や飛鳥山は桜の名所として庶民の人気の場所だったと聞く。娯楽の少ない江戸時代のことゆえ、せめて花見のときぐらいはと、みんなで酒や肴を持ち寄って、羽目を外しつつ楽しくやっていたのだろう。ただ、桜の種類は今のソメイヨシノではない。ソメイヨシノは、江戸末期から明治初期にかけて人工的に開発された品種だからである。

 では昔の日本人は、どんな桜を見ていたのだろうか。古来より桜の名所として名高い吉野山に咲くのはヤマザクラである。また、桜餅を包むのに使うのはオオシマザクラの葉である。他には樹齢を重ねて巨木に育つエドヒガンもある。昔の人々はこうした桜を愛でていたということだろうか。

 いまや桜といえば多くがソメイヨシノで、あたかもあれが本家であるかように錯覚しがちだが、数々の歌で詠まれ愛された桜はソメイヨシノではない。時代も変わり桜も変わったということだろう。葉が出る前に大きな花弁の美しい花をつけるソメイヨシノの並木もいいが、山間にひっそりと咲くヤマザクラを見ながら、昔の日本人の気持ちにひたってみるのも、また一興ではないか。

「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」(行尊)





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