パソコン絵画徒然草
== 3月に徒然なるまま考えたこと ==
3月25日(水) 「さくら、さくら」 |
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なかなか暖かくならないと思っていたら、一気に季節が進んだ感がある。激しい風雨の後に暖かい空気が入って来て、気温は上がり風も柔らかくなった。季節の変わり目とはこういうものだ。そして、ほどなく桜が咲いた。 毎年のことだが、この季節になると、桜の絵を描きたくなるし、桜の話もしたくなる。何とも不思議な花である。 日本人にとって花と言えば、遠い昔は梅だった。平安以前は梅の方が人気があった。それがいつの間にか桜に関心が移った。理由はよく分からない。ただ、長い間日本人は、この花に様々な思いを託し続けて来た。 「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだのは西行法師である。西行は、この歌の通りに亡くなったという話が伝わっているが、如何にも彼らしい最期かもしれない。桜を愛した歌人は多くいるだろうが、西行ほど桜が似合う人はいないように思う。 西行に限らず、桜の花に格別の思いを寄せる人は今でもたくさんいる。この季節の花は他にも多々あるが、やはり桜でなくてはならない理由がある。代替はきかないのである。ちょうど桜の咲く時期が、別れと出会いの季節であり、桜がそれに似合う脇役だからだろうか。 桜を歌った名曲もたくさんあり、いずれも大ヒットしたように思う。歌の良さだけでなく、桜そのものが、人々の心の琴線をそっとかき鳴らすからだろう。 また、桜が春の到来を告げる花であることも、昔から人々にこの花の印象を強くしている要因のように思う。暗く長い冬を耐え忍んできた人々に、桜の花が冬の終わりを告げる。暖房も食糧備蓄も充分でなかった時代には、冬は時として人の命を奪う恐ろしい試練の季節であったはずだ。桜の花をめでる人々の気持ちは、現代人とはまた違ったものだったろう。 ただ、桜がぱっと咲いてさっと散るため、いつの頃からか武士道と結び付いて、潔く散ることが美徳とされる精神論の象徴になってしまった面もある。第二次大戦中の軍歌などにも桜はたびたび登場するし、極めつけは機体が爆弾そのものだった特攻機「桜花」だろうか。何ともむごい名前のような気がする。 戦没者の慰霊碑がある千鳥が淵は、東京では名高い桜の名所で、満開の休日には桜並木に入るのに長蛇の列が靖国神社の前辺りまで続くことがある。お堀端に咲く見事な桜を見るにつけ、この花とそこにまつわる日本人の不幸な影に思いが行ってしまう。 しかし、その陰影もまた、桜の魅力の一つなのだろう。影があるゆえに光が当たる部分が映える。美しくもあり、また悲しくもある花である。 「さまざまの 事おもひ出す 桜哉」(松尾芭蕉) |
3月19日(木) 「手元に残した絵」 |
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昔からある暇つぶしの質問に「無人島に一人で暮らすとして、一つだけ持って行っていいと言われたら何を持って行くか」というのがある。これにはバリエーションが幾つかあって、「一冊だけ本を持って行けるとしたら何を」とか「一枚だけ音楽CDを持っていけるなら誰のCDか」とか、その答から各人の価値観を見出そうとするような類の質問が並ぶ。 これを絵画の世界に当てはめると「仮に無人島に一枚だけ絵(複製画を含む)を持って行けるとしたら、どの画家の絵を持って行くのか」ということになる。さて、皆さんはどうだろうか。各人、自分の好みの画家あるいは作品を、あれこれと頭に思い浮かべたことだろう。私はどうかと問われたら、直ちには決めかねるが、日本を思い出せるような作品を選ぶ気がする。 この質問の親戚みたいな話だが、自分の描いた絵の中で、最後まで手元に置いておきたいものはどれかという問には、何と答えるだろうか。絵を趣味とする者なら誰しも、あれやこれやと思い悩むのではないか。かくいう私も、直ちには答が思い浮かばない。ただ、処分もせずに持ち続けている絵があるのは事実だ。 私の場合には、人に譲ってしまった絵が多く、手元に残っているのはむしろ少数のような気がする。けれど、ずっと手放さずに引越しのつど持ち歩いている絵もある。一枚は大学時代に最後に描いた日本画の小品。もう一枚は同じ頃に描いた水彩画。いずれも特定の思い出があってのことではないのだが、手放せないでいる。 描いた絵を売って暮らしているプロの画家でも、誰にも譲らずに手元に置いておきたい作品があるようだ。門外不出というわけではなく、その画家の作品展があると貸し出されたりする。ただ、求められても、誰かに売ったりはしない。例外は、その人個人の美術館が出来たときに寄贈されるくらいだろうか。死後に遺族が、縁のある美術館に寄付する例もあるかもしれない。 面白いのは、そうした作品が必ずしも本人の代表作というわけではないことだ。勿論駄作ではないが、どうしてその作品をそんなに大事にしているのか、傍目には直ちに理解できないものが含まれている例がある。おそらく、画業の節目に当たる、特別の位置付けの作品なのだろう。あるいは、画家にとって大切な思い出がある作品かもしれない。 画家には画家なりの価値観がある。あるいは、作品に込めた特別の思いがある。それが時として、ファンや世間の評価とずれる。ただ、理由が必ずしも確かではなくとも、画家がどの絵に執着して最後まで手元に置いていたのか、ファンならずとも興味のあるところではなかろうか。しかし、これがなかなか公にされていない。 たまに有名画家の回顧展に出掛けると、作品解説の中で「この作品は画家が最後までアトリエに残していたものである」といった趣旨の説明を見掛けるが、そうした情報を画家ごとに横断的に集めた手元残置作品リストのようなものは、ついぞ見たことがない。 まさに画家が、無人島ならぬ天国に持って行った絵なのだから、もう少しみんな関心を持ってもいいじゃないかと私なぞは思うのである。 |
3月11日(水) 「本物に接する」 |
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絵が好きだという人は、世の中にたくさんいる。ただ、全ての人が身近なところで有名な絵を鑑賞できるわけではない。 東京に住んでいると、様々なジャンルの質の高い展覧会が幾つも開かれ、世界的な名画を見る機会も多い。けれど地方在住の方だと、絵画鑑賞についてそんなに恵まれた環境にはないはずだ。日展などの大規模公募展は全国を巡回するが、世界の有名美術館から借りて来た名画を展示する企画展だと、全国津々浦々を巡回しているだけの余裕がない。東京、大阪と、あと幾つかの大都市といったところが、せいぜいではないか。 いくら好きな画家の展覧会が開催されているとはいえ、地方から東京や大阪までわざわざ見に行くとなると、お金もかかるし日程的にも思うようになるまい。地方在住者にとっては、誠に不便である。 ではそういう人たちはどういう機会を利用して絵を鑑賞するかというと、多くは画集を買い求めたり、関係するテレビの番組を見たりといった間接的な鑑賞の仕方しかない。本物はなかなか見られないわけだ。 東京在住で絵が好きだという人の中でも、お気入りの絵の実物を見たことのある人は、意外に多くないのかもしれない。例えば、レオナルド・ダ・ビンチの絵が好きだという人の中で、モナリザや最後の晩餐を自分の目で直に見た人は、いったいどれくらいいるのだろうか。 音楽であっても同じことかもしれないが、絵の世界で本物に触れるというのは、意外に難しいものである。ずっと画集だけ見続けて、それでもその画家のファンという例は多数あるに違いない。そんな人たちは、機会あればせめて一度だけでも実際の作品をこの目で見てみたいと思っているのだろう。 科学技術が発達し、現物に忠実なイメージを比較的簡単に再現できるようになったが、それでも実物に接するのは容易なことではない。絵が展示されている現地に、自分で足を運ぶしかないが、モナリザを見にパリまで行くとなるとなぁ…。 絵に限らず芸術の世界では「自分の目や耳で本物に触れる必要がある」なんて言われ、それは確かに正しいことだとは思うけれど、現状を考えると、そんなことを言うのは如何にも酷な気がする。ある画家を本当に好きなんだけれど実際に自分の目で作品を見たことのない人は、肩身の狭い思いをしなければならないのだろうか。本物を見たことのある人に、ファンとして引け目を感じなければならないのだろうか。そんな議論はどこかおかしい気がする。ずっと画集だけ見続けたファンでも、立派な理解者ではなかろうか。 |
3月 3日(火) 「みつまた」 |
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この前の土曜日に、雨上がりの散歩に出掛けたところ、花が開きかけたみつまたを見つけた。普通の人なら通り過ぎてしまうような地味な植物だが、日本画を描いたことのある人なら、お馴染みの名前だろう。 日本画に使う画紙は、「楮(こうぞ)」、「三椏(みつまた)」、「雁皮(がんぴ)」などの植物の表皮を原料に作られている。紙の種類は様々で、制作用途や好みによってどの紙を使うかが違って来る。私は、大きめの作品を描くときには雲肌麻紙にどうさを引いて使っていたが、絹を使う人の方が多いのかもしれない。 絹を使わずに紙を使っていたのは、紙の方がパネルに張りやすかったという事情もあるが、むしろ主な理由は、その肌合いにある。和紙が持っている何とも言えない感触が好きだったのである。 絵具を含んだ筆が和紙の上を滑る感触が何とも言えず良かった。また、破墨や發墨、あるいは垂らし込みなどの滲みの技法を使うときに、絵具が紙の肌目に沿ってきれいに滲んでいく様子を見るのが好きだった。 パソコンで絵を描くようになって失ってしまった楽しみが、和紙の風合いを楽しむことである。パソコンで描くときには、手に伝わる感触は極めて硬質である。タブレットの上を入力用のペンが走る感覚は、固い下敷きの上でボールペンを走らせている感じである。手元の柔らかさがないと、絵も柔らかくならない感じがして、最初の頃はたいそう戸惑ったものだ。 今ではそんな硬質の筆感にもすっかり慣れたとはいえ、時々みつまたを見ると和紙の感触が甦る。食べ物を味わう要素の中で、味覚と並んで触角、つまり舌触りが重要とされるが、絵画制作にも同じことが言えると思う。 描画ソフトの機能はどんどん向上していくが、筆感だけはいまだにどうにもならない。そもそも、そんな凝った機能を求める人はごく少数派なのだろう。イラストにせよアニメにせよ、パソコンで描く絵のジャンル自体が、あの硬質の筆感に合っているような気もする。望むべくもないことだが、筆や紙の感覚がリアルに再現できるようになれば、パソコンで描く楽しみも増えるのになぁと思う。古いアナログ人間のノスタルジアかもしれないが・・・。 |
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