パソコン絵画徒然草

== 2月に徒然なるまま考えたこと ==






2月25日(水) 「野鳥」



 最近、家の周囲にいる野鳥の姿に注目するようになった。別に今になって数が増えたわけではなく、以前からいたのだろうが、今まで私の目には余り入らなかった。

 鳥といえば十把一絡げで、「カラスと雀と、その他野鳥」くらいのいい加減な捉え方しかしていなかった。それに、目に付くのはたいていカラスと雀で、カラスと出くわすのはゴミ置き場だったりするものだから、無意識に目をそむけていたのかもしれない。

 野鳥に注目するきっかけになったのは、真冬の朝、通勤途上で見かけた名も知れぬ鳥である。道路沿いに僅かに残された畑で、土を掘り返す姿が目に入った。チョコチョコと足早に進み、時折土をつつく。そして道路を通る通勤途上の人々を、首を伸ばして観察している。その動作が、妙にこっけいで愛嬌があった。

 その翌日も、同じ鳥が来ていた。しかもよく見ると畑の方々にいる。突然やって来たわけではなく以前からいたのだろうが、こっちが急ぎ足で歩いていたものだから、今まで気付かなかったのだろう。

 そんなことがあってから、通勤途上で鳥を観察するようになった。あの鳥は畑以外のところにもいるのだろうかと気になったのである。そうしたら、他にも違う種類の野鳥が幾つかいることに気付いた。見上げた木の枝に止まっているのは大型の野鳥だったり、木守りの柿をついばんでいるのは白黒ツートンカラーの野鳥だったり。今まで十把一絡げに野鳥と呼んでいたが、よく観察すれば色々な種類の鳥がいる。

 自分で描く花の名前すらよく知らない私のことゆえ、自慢じゃないが野鳥の名前もさっぱり判らない(笑)。それでも、カラスや雀を見慣れた目には、違う種類の鳥の姿は印象的で、注意して見るようになると、なかなか興味深い。自分の身近にこんな自然の姿もあったのかと、遅まきながら感じ入った次第である。

 日本画の世界にも「花鳥画」というジャンルがあって、花と共に野鳥も題材になっている。ただ、花と違って野鳥は動きが素早いので、写真ですらうまく撮れない。ましてやスケッチをとるのは至難の業である。お蔭で、花鳥画を得意とする画家の中には、作品制作の参考にするため、わざわざたくさんの野鳥を自宅で飼っている人もいる。ペットショップで売られている飼い鳥と違って、餌の問題も含めて飼育が大変だと思うし、病気で死んだからといって、おいそれと代わりを見つけることも出来まい。野鳥を題材にするのは、なかなか苦労の多いことだと思う。

 私としては、今のところ野鳥は見るだけということにしている。もちろん、風景の片隅にこんな鳥たちを配すれば、さぞや画面が引き締まるだろうなぁという密かな期待はあるのだが、花鳥画家の苦労を思えば、今ひとつ踏み切れないのである。





2月19日(木) 「春一番」



 東京では、先週金曜日に春一番が吹いたらしい。昼間オフィスにこもっていたので気付かなかったが、夜帰宅する頃は気温が上がり、歩くのに苦労するほどの強風が吹いていた。あれも春一番の続きだったのだろうか。

 明けて土曜日も暖かかった。コートなしで散歩できる陽気で、春の到来を感じた朝だった。いつもは閉めているパソコンの横の窓を開けて風を入れた。ふわりと暖かい空気が入って来て、「そういえば春というのはこんな感じだったな」と思い出した。あとでニュースを見たら、昼間の気温は都内で20度を超えていたようだ。

 ただし、当たり前のことながら、冬が終わったわけではない。春一番の吹いた後は、たいてい厳しい寒さが戻って来る。そうしているうちに、再びちょっと暖かい日もやってくる。寒い日と暖かい日が交互にやって来るようになって、少しずつ季節の歯車は春へと巡るのである。先週末のつかの間の陽気は春の予告編で、料理が出て来る前に匂いだけ嗅いだようなものだ。

 けれど、冬の寒さがゆるむ兆しは、そこかしこで感じる。日も少しずつ長くなっているし、木の枝にも新芽の膨らみが見える。紅梅は以前から咲いていたが、白梅もそろそろ見頃かなと思う。日の当たり具合もあるのだろうが、休日に歩く小道沿いの白梅など満開の様相である。そのうち、花の便りも方々で聞かれることだろう。

 手元の歳時記をひもとくと、「春一番」の季語の後は「風光る」「春疾風(はるはやて)」「春塵」「霾(つちふる)」「春雨」と続く。「霾」は見慣れぬ言葉だが、解説によれば黄砂のことらしい。強風に吹き上げられた中国やモンゴルの砂塵が、何千キロも旅して日本に届く。春疾風も早春に吹く強風のことであり、いずれも春一番と同様、強い風によって起こる現象を季語に仕立てている。冬から春への季節の交代には、強風が付き物らしい。ひと風ごとに春が近付くということだろうか。

 2月が一番寒いという印象が昔からあるが、それは「夜明け前が一番暗い」というのと同義なのだろうか。この先、春を告げる風を感じながら、暖かい日を待つことになる。強風は困りものだが、春への切り替えになくてはならないとなれば、これも致し方あるまい。暖かくなると、自然と足は戸外に向くことになる。春の息吹を探しに遠出するのもいいのではないか。春一番で春の匂いを嗅いで、3月が待ち遠しい今日この頃である。





2月11日(水) 「写真の効用」



 戸外に出掛けるときには、スケッチ替わりにデジカメで写真を撮ることが多いので、たいていはカメラを持参することにしている。但し愛用機は昔買ったもので、重くてかさばるため、携帯電話に付いているカメラを使うことも多い。私の携帯のカメラはCASIOのデジカメEXILIMのモバイル版なので、そこそこ画質もいい。但し、光学ズームなどは当然付いていないので、ある対象にフォーカスしようとして苦労することも多々ある。あくまでも代用という扱いである。

 昨年から、この「パソコン絵画徒然草」にも写真を掲載するようになったので、スケッチ替わりの写真だけでなく、風景そのものも撮るようになった。そう言うと「えっ、スケッチ替りって風景を撮っていたんじゃないの?」という声が聞こえてきそうだ。

 私が撮るスケッチ替わりの写真というのは、前にも書いたかもしれないが、実に奇妙なものが多い。草地だけを撮ったもの、木の幹だけ、あるいは水面だけみたいな、おおよそアルバムに載せる価値のないものが多いのである。それは、例えば水面というのは静止画だとどう見えるのかが知りたいからだし、木の幹の模様を覚えておきたいからである。要するに、資料写真を撮っている感覚である。

 そもそも私の風景画は、実際の風景をそのまま絵にしたものではない。実際の風景が制作のきっかけになることもあるし、建物や木など、画面の中心的主題だけはモデルがあるケースもある。ただ、そっくりそのまま実際の風景を再現している作品は、建物だけを描いたものなどごく一部を除いて存在しない。だから、スケッチ替わりの風景写真はさして必要ないのである。

 しかし、この徒然草に写真を載せるようになってからは、木の幹や地面というわけにもいかないから、風景も撮るようになった。なるべく自然の様子を題材にしたものを撮ろうとしているが、都内のことゆえ、そうそう自然が満喫できる場所はない。どちらを向いても無粋な高層マンションやら道路やらが画面に侵入して来る。仕方ないので、ある一角だけ切り取って周りに何があるのか見せないようなアングルで撮影するすべを覚えた。ド素人写真家にもそれなりに進化はあるのである。

 さて、そんな写真術を展開しているうちに色々考えさせられることがある。風景を切り取るという感覚は、どこか絵を描く時に似ている。不純物を取り除いて美のエッセンスのみを画面に残して絵は出来上がる。わざわざ、そこに転がっているゴミを一緒に描く人はいるまい。写真も同じことで、極力邪魔なものは画面から排除するようなアングルを選ぶ。そのためには立ち位置を変えたり、ズームをしたりして何とか画面の中の世界をきれいにしようと努力する。

 ただ、絵と違って写真には限界がある。どうしても消し去れないものがあるし、組み合わせられないものもある。例えば、木立の脇に無粋な看板類がある場合、木だけを撮影といってもうまくいかない。また、「反対方向にある二つの被写体が並んで存在しているといい構図なのに」と思っても、そんなことは出来っこない。写真家というのは、そうした辺りで地団太踏んでくやしがっているのだろうなぁと思う。

 おそらくそうした次元の操作となると写真では無理で、やはり絵に頼らざるを得ない。逆に、「いい構図という意味では、こうあるべきなのに」という思いから、絵の構想が生まれる。写真を撮りながら、限界を感じる部分は、絵の構想として取っておく。風景写真を撮りながら、新しい絵の題材探しを見つけたような気がする。





2月 3日(火) 「枯れ木の美」



 冬に散歩していて、自然を愛でることなどあるのかというのが、一般の方々の偽らざる気持ちだろう。確かに、くすんだ冬の風景の中で鑑賞するに値する景色はそうはない。雪など降れば世界が一変するから、それなりに美しい光景を見ることが出来るが、そうでもなければモノトーンの世界が広がるばかりで、惹き付けられるものはさしてないだろう。

 この季節、僅かながら花が咲く。さざんかや椿が代表的だが、水仙の可憐な姿も目にすることが出来る。他には何があるのかと問われれば答が難しいが、私なりに好きなのは、実は葉の落ちた木々の枝振りである。

 他の季節には葉が付いているので、木々の枝振りを見るのは難しい。大雑把には捉えられるかもしれないが、小枝の造形などは冬場でないと見られない。私は枝振りのいい木の下に暫し立ち止まり、枝を見上げてその造形美にいつも感心している。周りを行く人は、私が何に見入っているのか分からないだろう。木の先に何かが引っかかっているのかと思っている人もいるに違いない。

 枝振りの美しさを見ながら、自分もあんなふうな枝振りを自在に描いてみたいと思う。しかし、実際に描き出すとなかなか容易な作業ではない。自分の筆先からは、どうにも自然に枝が伸びないのである。

 考えてみれば、木の枝というのは美しさを競うためにあんなふうに伸びているのではない。単にその方が太陽光をうまく受け止められるだろうという知恵から、木が機能的に枝を展開しているのである。そんな機能的行動の結果が美しい枝振りを作り上げる。何気なく見過ごしていることではあるが、よく考えるとちょっと不思議な思いにかられる。

 木の枝に限らず、おおよそ殆どの自然の有り様は、機能面からああいう色や形になっている。花が美しいのも、美しくありたいと木や草が思っているからではなく、受粉するために虫を呼び寄せようと工夫した結果である。それを我々は美しいと感じ、美の根源のように感心して愛でている。自然界では、機能と美とがごく普通に並存しているのである。

 ひるがえって人間界はどうだろうか。機能重視は美しさを無視することになると多くの人が思っている。機能的に出来た近代都市の景観は、美的な観点から言えば昔ながらのひなびた風情の家屋には遠く及ばないとみんな感じているし、現にそうなのだろう。

 しかし、自然界は、人間様が難しいと思っている機能と美とを、いともたやすく両立させている。腕利きのデザイナーが呻吟しながら達成しようとしていることを、木や草はごく当たり前のように実現している。よく考えてみるとすごいことだし、改めて自然の成す偉業に感服してしまう。

 木の枝もそうした美の一つだろうが、それを模写しようとして中々かなわない自分の腕前というのは、いったい何なんだろうと思い知らされる。自然の中には、まだまだ我々人間が及ばないものがたくさん隠されている気がする冬の散歩である。





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