パソコン絵画徒然草

== 1月に徒然なるまま考えたこと ==






1月28日(水) 「かすかな予感」



 今年の「休日画廊」も、例年通り変わりなくスタートし、いつもの自然体ペースで更新している。休日に出歩いた折に画題を拾い、家で暇を見つけてコツコツと作品に仕上げる。道具は昔から変わっておらず、描画ソフトもタブレットも古いままである。

 今さら新しいスタイルに挑戦するつもりもなく、古い道具を使い続けているのだが、描画ソフトは何代も進化してバージョンアップしているし、タブレットも新機能を盛り込んだ最新版が出ている。決して安価なものではないので、必要もないのに新しいものを買うつもりもないが、実は最近少々困ったことが起きている。

 私は絵を描く際、単純にタブレットで線を引き色を塗っているのではなく、描画ソフトの機能を駆使して色々な特殊効果を作品に施している。色のにじみを加えたり線を変化させたり、あるいは雪を降らせたり、霧をかけたり、全ては描画ソフトの特殊効果なくしては不可能である。絵具と筆で描く肉筆画と同じような感覚で出発しながら、長い時間をかけているうちにすっかりデジタル画家になっていたわけである。

 さて、困っているのは、その特殊効果を可能にする追加プログラムの形式である。この種の特殊効果を加える追加プログラムは、小さな容量で後から描画ソフトの中に読み込んで使う形になっていて、色々なサイトで販売ないし無料配布されている。ところが、私の使っている描画ソフトが古いものだから、最新版の追加プログラムの形式に対応しておらず、新しい特殊効果プログラムを試してみようとダウンロードしても、ソフトが読み込んでくれないのである。

 今まで通りに描くなら今まで通りの道具でも良いはずだというご意見もあろう。しかし、目の前に新しくて面白そうな追加のプログラムをぶら下げられると、ついつい使ってみたくなるのが人情というものだろう。さすがに使えなかったら恐いので、有料のものは購入しないが、無料配布されているものだと一縷の望みを託してダウンロードしてしまう。そして読み込んでみるとエラー表示。「この形式には対応していません」と警告が出る。全くもって虚しさを覚える瞬間である。

 更に厄介なのが、今の描画ソフトを単純にバージョンアップすれば解決するかというと、そこがよく分からないという点である。描画ソフトの世界標準はアドビ社のPhotoShopだが、私が使っているのは廉価版描画ソフトであるPaint Shop Proである。昔は同じような描画機能中心のソフトで追加プログラムもある程度互換性があったが、Paint Shop Proがコーレル社に身売りされて以降、このソフトは写真のレタッチ機能に重きを置いた別系統のソフトとしてバージョンアップされている。お蔭で最新版のPaint Shop ProがPhotoShopの描画系追加プログラムとどの程度互換性が保たれているのか、よく分からないのである。

 ある種の賭けで、最新版のPaint Shop Proにバージョンアップして新しい形式の追加プログラムを作動させてみるというのも一つの方法だが、合わなかったらせっかくの投資が無駄になる。そもそも私がPaint Shop Proをバージョンアップしないのは、今やこのソフトが描画ソフトではなくなりつつあるからで、追加プログラムの互換性がなかったら、何とも虚しい結末を迎えることになる。

 それならいっそ本家本元のPhotoShopに乗り換えるという手もあるのだが、グラフィックデザイナー向けのCS4は、定価が9万9750円と目玉が飛び出るほどの高額商品であり、おいそれと手を出せるシロモノではない。かといって廉価版のPhotoshop Elementsはデジカメ写真のレタッチに重きを置いた仕様のようで、どこまで絵を描く機能が充実しているのかよく分からないし・・・。

 結局、廉価版描画ソフトは、Paint Shop ProにせよPhotoShopにせよ、今やデジカメ写真用にシフトしていて、今後もその路線を歩み続けるのだろう。確かにこれだけデジカメが普及して、みんなパソコンで写真を管理するようになっているのだから、メーカー側としてユーザーの多い方に向けて商品内容をシフトしていくというのは、正しい選択ということになる。嘆いているのは私だけで、パソコンで絵を描くという趣味自体が、少々特殊で少数勢力だからこんなことになっているのだろうなぁ。

 絵というものは昔から何かと金のかかるもので、パトロンなしには芸術家は生き延びられない宿命にあったわけだが、これはデジタル時代の絵描きにも言えることかもしれない。かくして、このままずっと昔の道具立てだと、いつかは壁にぶち当たる予感がする。古いスタイルのままパソコン絵画を描き続けるといっても、限界はあろう。

 昔から、いつかソフトの問題で行き詰るときが来るのではないかというぼんやりとした予感はあったが、最近の特殊効果プログラムの互換性問題などを見ていると、そのときが少しずつ近付いているという実感を肌で感じるのである。





1月20日(火) 「絵と自然」



 冬だというのに、休日には寒い中を散歩方々戸外に出掛ける。気候が良ければそぞろ歩きの人も多いが、この季節に公園内を行くのは、ジョギングの方や健康管理上歩いている人ばかりである。私も半分は健康管理を兼ねているから、人のことは言えないが・・・。

 この季節に戸外を歩いていても、あまりたいした画題など拾えない。くすんだモノトーンの世界を行きながら、あちこちに目をやるが、惹き付けられるようなものはめったに出会わない。

 ただ、こうして歩きながら自然のたたずまいに注意深く目をやるようになってから、絵画制作に対する感覚が少しずつ変わって来たような気がする。いや、画題探しの自然観察は、絵を描くようになってからずっと続けて来ているから、感覚が変わって来たのは最近のことかもしれないが。

 何というのか、自然の有り様を絵にすることの意味を、改めて考えるようになった。そして、絵よりも結局自然の方が美しいのではないかと思うことが、以前に比べて強くなった。自然の中から美のエッセンスをつむぎ出してキャンバスや紙の上に展開してみるというのが、私なりの絵に対する考え方だが、そうして展開してみても、なお自然の方が美しいと思い知らされることが時折あるのである。

 昔はそこまでは思わなかった。対象を絵にすることの意義もそれなりに感じていた。それが最近、妙に気弱になり出したのは、心境の変化なのか、自然に対する観察眼が高まったせいなのか。いずれとも知れないが、様々に迷う気持ちが湧くときがある。

 昔、中島敦の「名人伝」という小説を読んで、いたく感じ入ったことがあった。弓の名人を志した若者が自分の師を超えるまでに腕を磨き、更なる高みを極めようと山に隠棲する伝説の名人に弟子入りする。そして何年か後に修行を終えて山を降りたかつての弓の名手は、精悍さも失せて弓を取ることもなくなる。晩年には弓という道具の存在そのものも忘れていたというエピソードで話は結ばれている。

 この小説の解釈は色々あるのかもしれないが、実に奇妙な味わいの話である。道を究めるということがどういうことか、暫し考えさせられる。ただ、最近自然を観察し題材を拾い絵を描く生活をしていると、不思議とこの話が思い出されるのである。

 そう言えば、ここのところ美術館に足を運ぶ回数が減った。昨年は、ついに日展にも行かなかった。以前ほど名作を見たいという欲望が湧かなくなった気もする。

 私もいつか「名人伝」の弓の名手のように、絵を描くことをやめて自然を愛でるのが一番だという心境にも達するのだろうか。嬉しくもあり、かつ嬉しくもないことではあるけれど・・・。





1月12日(月) 「今さらおせち料理」



 正月休みに更新して以来、1週間以上さぼっていたようだ。年明け早々は仕事の方が何かと慌しく、あまり心の余裕がなかったから、ついつい放置したままとなってしまった。この連休になってから、ようやく筆を取った次第である。

 さすがに1月も半ばになると正月気分は雲散霧消して、いつも通りの生活ペースに戻って来た。おせち料理は食べ尽くし、正月飾りも取り払った。

 おせち料理は、昔からの伝統や風習にのっとり、様式化されて一つの完成形を成しているが、元をたどれば各料理の組合せは、実に他愛もない根拠で決められている。どう他愛ないかと言うと、その多くは駄洒落的な要素を取り入れつつ、実に単純な発想で決められて来た。

 おせち料理に入っているメニューの中に駄洒落が幾つか取り入れられているのはご存知の方も多いだろう。昆布は「喜ぶ(よろコンブ)」から来ているし、黒豆は「まめに暮らす」をもじったものだ。おせち料理は江戸時代に生まれた庶民の食べ物であり、そのメニューには庶民らしい生活観やら思想やらが込められている。駄洒落であれ、単純な結び付きであれ、由来をたどってみると江戸時代の庶民の生活や発想が垣間見えるようで面白い。

 経済的な豊かさや家族の繁栄という観点では、田作りが豊作を、数の子、里芋が子孫繁栄の願いを込めたものだということは広く知られている。数の子は無数の卵で出来ているし、里芋も小芋が沢山付くから、それにあやかって沢山の子を授かろうという単純な発想だ。田作りは、肥料としても使われていたカタクチイワシを食べることで、農民たちが豊作を祈ったという。

 いずれも、農作が庶民の生活を支え、子供の数が家の労働力に直結した江戸時代の発想だ。農家の比率が格段に落ち、子供を生むのを抑制しがちな現代社会には、もう合わないのかもしれない。ただ、そんな謂われはこの際関係なく、縁起物としてみんな食べている。

 いつの頃からか、高級料亭が高額のおせち料理を出したり、洋食系や中華系の珍しいおせち料理がデパートに並んだりするようになった。それも新しい試みとして面白いかもしれないし、品格や高級化を目指す動きを好意的に受け止めて楽しむ人々がいるのも事実だ。しかし、その原点が上に述べたように江戸時代の庶民の素朴な発想にあったことを考えると、従来の延長線上というより、別の路線に入っていっている観もある。このまま突き進んでいくと、いつか、「おせち料理っていったい何なんだ」ということになるのではないか。

 どんなものであれ年経るに従って、伝統なるものがまとわりつき、それを更に高めて高級化や品格向上を図る方向に進む。そうなると、原点がどこにあったかは次第に忘れられ、いつのまにやら厳かで重々しい風情が漂うようになる。おせち料理もそういうことかもしれないが、元をたどれば庶民の機知に富んだユーモアの産物であり、かつ江戸時代の庶民が口に出来るような素朴な食材を使った料理だったはずだ。今一度江戸の庶民の諧謔にひたりながら原点に立ち返って味わってみるのも、如何にも正月らしくていいのではないか。





1月 4日(日) 「新年を寿ぐ」



 少々遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。本館の「休日画廊」同様、この「パソコン絵画徒然草」の方も、どうぞご愛顧賜りますよう、宜しくお願い致します。

 徒然草の更新としては、変則的な形でスタートすることになった。元旦に本館の方を更新しようとしたものだから、こっちにまで手が回らなかった。普通は平日に徒然草を更新して週末に本館の作品を更新しているから、ちょうど逆になった格好である。もっともこれも新年ゆえのことで、また来週からは元のスタイルに戻ることになる。

 今年は東京で静かな正月を迎えることになった。東京にいるときの新年の迎え方は、紅白歌合戦を見た後すぐに、近くの神社まで初詣に行くことが多い。神社までの距離は歩いて一分以内だから、ほぼ日付の変わったときには神社に到着しているわけだが、既に日付の変わる前から並んでいる人がいるから、暫し待つことになる。

 神社といっても、普段は住宅街に埋もれたような小さな社で、ほとんど人が参っているのを見たことがない。しかし、初詣ともなると氏子の方々が集まって火を焚いて参拝者の暖を取り、更には甘酒やら日本酒やらを振舞ってくれる。こうしたささやかだが温かいもてなしの心が地元神社のいいところで、都内の有名神社に行って何時間並んだって、こんなサービスは期待できない。

 今年もこの神社に初詣に行くところから正月がスタートしたわけだが、年末の慌しさから一夜明けると静かな正月になるという切り替わりが、私は何とも好きである。初詣や年始の挨拶に行く人を除けば、人も車も少なく、街全体がひっそりとしている。こんな静けさは正月くらいのものではないか。

 さて、サイト運営の方だが、昨年はちょっとした模様替えをした年だった。年頭には展示室の構成を見直して月ごとに作品を並べる方式に改めた。更に6月からはこの「パソコン絵画徒然草」を本館から切り離して別サイトに移し、写真を掲載しながら駄文を綴る形式に変えた。開設以来殆ど変化のないサイトなので、こんな僅かなことでも変化の年だったということになろうか。

 だが、今年に関してはこれといった模様替えのアイデアはない。新しいことを始めようという気力は新年を迎えるごとに衰え、今では淡々と絵を描き駄文を綴る日々となっている。「サイト訪問者を増やすために何をしようか」といったことは全く考えなくなった。人目を惹く努力をするより、自分なりに無理のないペースで更新していくことを心掛けようというのが正直なところである。

 肩の力を抜いて謙虚な心で自然と向き合い、よい画題に巡り合いたい。ただそれだけを思う静かな新年である。





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