パソコン絵画徒然草

== 折々の記 ==






1月 1日(月) 「再開2年目に当たって」




 明けましておめでとうございます。と言いつつ、昨年父が亡くなったので喪中欠礼で迎える新年ではある。

 年末の徒然草にも書いたが、昨年は実に様々な出来事が我が身に降りかかり、生活が大きく変わった1年だった。今年は平穏な1年でありたいと毎年正月に思うが、その思いを例年以上に強く感じる。

 さて、昨年の1月から再開したこのサイトも、何とか2年目に入った。当初は勘を取り戻すのに苦労していた絵画制作の方も、さすがに日が経つにつれて軌道に乗り、昔の感覚が戻って来た。

 前回の再開時にもとまどったのがタブレットの操作感覚で、モニター画面を目で追いながら、手元で入力ペンを操るというのが難しい。長らくピアノに触っていなかった人にいきなり弾けと言ってもうまくいかないのと同じだ。

 幸いこちらは入門者と違って長年やって来た経験があるから、多少の戸惑いはあっても、暫くすると元の感覚が戻って来るものだ。前回サイトを再開した時にも同じような経験があったので、焦ることなくコツコツやっていたら、そのうち慣れた。

 このパソコン絵画徒然草については、昨年1年間、延々と奈良を散歩した記録を書き続けた。お蔭で身辺雑記的なものはあまりないまま終わった。今年の運営だが、昨年暮れに予告した通り、奈良以外の関西各地の訪問記録を再び書こうかと考えている。従って、今年も従来とは異なる運営になるわけで、身辺雑記を書くことはあまりないと思う。

 早速元旦から関西訪問記の第一話をアップしようと考えていたのだが、年末に原稿を見直したりしているうちに時間がなくなり、元旦に間に合わなかった。「一年の計は元旦にあり」なんて言いながら新年早々から目論見通りに行かないわけだが、まぁ仕方ない。関西各地の訪問記は次の三連休を使ってスタートすることにしたい。

 いずれにせよ、このサイトには決まった運営ルールなどないわけで、気の向くままやればよいと割り切っている。無理せず好きなようにやるのが長続きするコツであることを、これまでのサイト運営で学んだ。素人が余暇に営むサイトというのは、所詮そんなものだろう。

 そんなわけで、今後ともゆるりと気楽にやっていくつもりなので、引き続きのご愛顧をお願いする。





1月14日(日) 「くされ縁」




 年頭の挨拶でも述べたが、サイトを再開して1年経つ。作品制作の勘も戻り、以前のような感覚で絵を描けるようになった。これで万事滞りなく、と言いたいところだが、実は以前から抱えている問題があって、悩みのタネは尽きない。

 原因がどこにあるのか特定できていないのだが、ペイントソフト上で線を引くときに問題が生じるのである。 問題は二つあるが、根は同じ原因ではないかと推察している。

 一つは、時々線が引けなくなるのだ。ペンをタブレットの上で動かしても、線がパソコン画面に現れない。フリーズしているわけではなく、ソフトのタブをクリックしたり、レイヤーを切り替えたりと、他の機能は問題なく動く。

 おかしいと思って何度も線を引くのだが、結果は同じことである。仕方なく、一旦保存して画面を閉じ、再度そのファイルを呼び出してみると、引けていなかった線が引けているという奇々怪々なこともある。この時には、何度か引いた線が全て画面に出て来て使い物にならず、全て消して描き直しとなる。但し、毎回そうなるわけではなく、再度ファイルを呼び出しても、引けていないままということもある。

 もう一つの問題は、怪談のような話だが、一度引いた線が消えるのである。ペンで線を引いて、確かに画面にその線が現れるのだが、ちょっとすると引いたばかりの線が消えてしまうのである。画面を閉じて再度ファイルを呼び出すと、消えた線が復活していることもあれば、消えたまま二度と現れないこともある。この点は、上記の線が引けない問題と同じである。

 面を塗っているときにはこうした問題が起きたためしがなく、線を引くときにだけこの症状が現れる。しかも、線の太さには関係がない。太い線でも細い線でも同じことが起きる。いまだに原因が分からず、難儀している。

 私のパソコンは、絵を描くためにかなりスペックを高くしており、メモリー不足なんてことはあり得ない。32GBもメモリーを積んでいるパソコンって、普通の家庭にはそうそうないだろう。CPUも何世代か前のものだが、i7-4770で、ハイパースレッディングを実装してるため実質8コアで動いている。常駐する他のソフトがペイントソフトの動作を邪魔するなんてことはない。

 そうしてみると、原因はペイントソフトかペンタブレットということになる。ペンタブレットは少し前のものだが、いわゆる普及版の製品ではない。熟練者も使うことを前提に作られているIntuos5 touchで、これのせいで線が引けないなら、とうの昔に問題になっているはずだ。そうなると、原因はペイントソフトだろうか。

 私が作品制作に使っているペイントソフトは、Corel社の出しているPaintShop Proである。以前にも触れたことがあるが、現在このソフトは絵を描くためのソフトではない。写真のレタッチを主な機能とするソフトである。なんでそんなソフトで絵を描いているのかと訝る向きもあろう。それについてはくされ縁だと言うしかない。

 私がパソコンで絵を描き始めたのは十数年前だが、当時のペイントソフトの業界標準はAdobe社のPhotoshopだった。その地位は今でも変わらないと思うが、プロ仕様で当時10万円近くした。ものになるかどうか分からない趣味のためにそこまでの初期投資をするには勇気がいったし、ペンタブレットにも別途数万円の出費が必要だったので購入を断念した。そこで、Photoshopの廉価版的な位置付けのペイントソフトを探して、PaintShop Proに行き着いた。当時このソフトを出していたのは、Corel社とは別の会社だった。

 当時のPaintShop Proはペイント機能にも力を入れながらバージョンアップしていて、新しいバージョンが出ると私は必ず乗り換えていた。流れが変わったのが、PaintShop ProがCorel社に買い取られてからだ。あいにく、Corel社はPainterという高級ペイントソフトを別に持っていた。そこで同系統のソフトが二つあっても仕方がないと思ったのか、PaintShop Proの内容をかなり写真のレタッチに偏らせたものに方向転換したのだ。

 Corel社版のPaintShop Proを初めて使ったときに、勝手が違うのにとまどったことを、今でも覚えている。思えば、このときがソフトの乗り換え時だったのかもしれない。しかし私は、あまりにも長くPaintShop Proを使い過ぎていた。Corel社版のPaintShop Pro以上に勝手が違う他のペイントソフトに乗り換え、ソフトの仕様や機能をいちから覚えて、新しい描き方を模索する意欲が湧いて来なかったのである。それで、新装PaintShop Proに違和感と不満を抱きつつも、我慢して使い続けることにした。

 肉筆画でも、手に慣れた筆を新しいものに持ち替えると書き味が異なり、慣れるのに多少の時間を要するが、ペイントソフトの場合はその比ではない。線を引く、色を塗る以外に、ソフトの持つ様々な機能を使って絵を描いているし、時として自分流の描き方に合わせて様々なカスタマイズもしている。ペイントソフトを乗り換えようとすると、新しいソフトに全く同じ機能が搭載されている保証はないし、一見同じ機能でも実際の味わいは異なるため、新しいソフトに合った描き方を開拓せねばならない。これがかなり面倒なのだ。もちろん、これまで使っていたソフトにはない新たな機能もあり、新機軸を打ち出せるチャンスはあるが、手に馴染んだ手法が使えないとなると、何かと悔やまれるのではないかと心配してしまう。

 パソコンで絵を描くというのは、結局ペイントソフトとの二人三脚ではないかと思う。一度付き合い始めて軌道に乗ると、そのソフトから容易に離れられなくなるのである。そのソフトに多少の問題があっても、よほど不満が高まらないと乗り換えることはなかなかない。今のように、時々線が消える程度では、ソフトの乗り換えという決断まではいかないのである。これこそまさにくされ縁と言うしかない。





2月18日(日) 「天狗のうちわを求めて」




 1月の下旬に家族で高尾山に登った。昨年もこの時期に登ったので、冬の高尾山は二度目ということになる。

 高尾山のことは東京の人なら皆さんご存知だろうし、暫く前にミシュランで紹介されたというニュースもあったから、東京以外にお住まいの方もこの山の名前を聞いたことがあるかもしれない。八王子にある標高600メートルほどの山である。

 高尾山は、東京の人が自然に親しむための行楽地の代表格といった位置付けだが、八王子もこの辺りまで来ると幾らでも山はある。いや、山に登りたいだけなら八王子まで行かずとも、もっと近くにある。しかし、何故か東京の人は山と言うと高尾山を思い浮かべ、ゴールデンウィークや紅葉の季節は押すな押すなの大混雑となるのである。

 かくいう私もかつて、ゴールデンウィークに高尾山まで来たことがある。山道は渋滞して前に進まないし、山頂は広いのに弁当広げる余裕もないほどの激混みで、辟易したことを覚えている。その後は、山登りは埼玉方面に遠征することにして、暫く高尾山とは遠ざかっていた。それなのに再び、しかも冬に行き出したのは、天狗のうちわを求めてのことである。

 天狗のうちわの話を最初に聞いて来たのは女房である。何年か前に、元旦から節分までの期間限定で、高尾山の薬王院で天狗のうちわのお守りが売られているという話を友人から聞いたらしい。これを自宅の玄関に飾ると魔を払って福を呼んでくれるという。それで興味を覚えて1月に高尾山に登ったところ、想像以上にたくさんの人出で驚いたのが始まりである。その後は女房と娘とで1月に高尾山に登るのが恒例となり、前年に買った天狗のうちわを薬王院に納めて、また新しいうちわを買い求めるというサイクルが出来上がった。私が参加し始めたのは関西勤務から帰って来た昨年からである。

 私が参加し始めた昨年時点で、我が家の登山計画は女房と娘によってあらかたパターンが出来上がっており、私もそれに乗っかることにした。行きはケーブルカーで登り、ケーブルカーの駅にある売店でまずは天狗焼きを買う。天狗焼きは、たい焼きの鯛が天狗の顔に変わったお菓子と思ってもらえばよいが、中に入っている餡が特徴的で、大粒の黒豆が使われていておいしい。人気商品で午後には売り切れてしまうこともあるようだ。今回は売店が改装中ということで臨時店舗で営業していたが、予想外の長蛇の列で15分ほど並んだ。一人で買える個数にも制限があって、相変わらずの人気の高さを伺わせる。

 その後は、巨大なたこ杉など見ながら定番の1号路、いわゆる表参道コースをたどって薬王院へ向かう。薬王院は高尾山と一体化した寺院だが、元は奈良時代に行基が開き、薬師如来を祀った古刹である。

 行基のことは昨年奈良散歩記にも何回か書いたが、奈良時代を代表する高僧のわりに、僧侶としてのエリートコースを歩んだ人ではない。奈良時代の仏教は国家維持のためのものであり、一般の民衆に広く布教してまわることは、当時の僧侶には許されていなかった。それを破って民衆の中に入り、各地でお寺を建てて布教したのが行基であり、それゆえ朝廷からは当初弾圧を受けている。しかし、行基の圧倒的な人気に朝廷も途中から折れ、その活動を認めるようになる。行基はやがて奈良の大仏造営の取り仕切りを任されるまでになり、仏教界最高位の大僧正の称号を我が国で初めて得るに至るのである。

 古い寺院ではよくあることなのだが、行基が開いたこの薬王院も途中からその性格が微妙に変わる。南北朝時代に京都の醍醐寺から高僧が高尾山へ修行に来て、薬王院は修験道の色合いが濃くなる。醍醐寺は、豊臣秀吉の醍醐の花見で有名だが、そもそもは修験道の修行場として出発しており、真言宗系の修験道の大元締めである。初めは薬師如来が本尊だった薬王院に、もう一つ飯縄権現が本尊に加わったのはこの頃である。こちらは修験道の本尊という位置付けになる。

 さて、修験道や修行の場によく登場するのが天狗というわけで、天狗伝説というのはこの頃から出て来たのではなかろうかと私は思っている。修験道は、超人的な荒行を繰り返すことにより悟りを開き神や仏の領域に達せられるという教えであり、人間離れした力を持つ天狗とは親和性が高い。薬王院では、天狗を飯縄権現の従者と解しており、修験道の場にふさわしいエピソードとして、天狗伝説を積極的に広めていったのではなかろうか。

 そんなわけで、高尾山と天狗は切っても切れない仲なのだが、もう一つ、薬王院の節分の豆まきも有名ということで、天狗のうちわと並んで我が家が毎年購入している縁起物が、福豆である。これを買って帰り、節分の時に家族で食べている。

 薬王院で昨年の天狗のうちわを納め、新しいうちわと福豆を買い求めると、次は山頂を目指して山道を登る。薬王院自体が山頂近くにあるので、さほどの苦労もなく山頂へ着く。

 高尾山は多くの人が訪れる観光地なので、山頂とはいえ施設は充実していて、収容能力の高い大型トイレもあれば、食事も生ビールも楽しめる大きな飲食店もある。ただ我が家は毎度のことながら、広場の隅に陣取って、持って来たおにぎりを食べることにしている。そうしないとハイキングの気分が出ない。富士山が見えれば更に幸せだが、今年は残念ながら雲に隠れて見えなかった。

 食事を終えればあとは下山するだけだが、行きと違ってケーブルカーは使わず、麓まで歩くことにしている。コースは必ずしも決まっていないが、最近は沢伝いに降りる6号路を使っており、私が参加するようになった昨年も今年も、この道を下って下山した。冬場の6号路は沢沿いで凍結する箇所があるらしく、注意書きがあったが、午後に下山する分には問題ない。ただ、沢の中を歩くので、濡れた岩の上で足を滑らす危険性はあって、昨年も尻もちをついたハイカーを見掛けた。

 このルートの途中に琵琶滝という滝があるが、ここは修験道の修行の場の一つである。滝にはしめ縄が張られ、傍らに社もある。如何にも山の中の修行場という雰囲気で、立ち寄る価値のある場所である。今でも滝に打たれての修行を体験できるようだ。

 今年は、琵琶滝から流れる渓流沿いで、水を飲みに来たタヌキと出会った。上に掲げた写真はその時に撮ったものである。コンパクトデジカメの望遠モードで撮ったので、ややピンボケ気味だが、愛嬌のある表情は分かってもらえると思う。人の姿を見ても逃げるわけでもなく、悠々と歩いていた。

 6号路を1時間ほどかけて下山すると、駅近くでお茶とケーキで暫し休憩するのも、このところの我が家の習慣である。麓の駅近くにたくさんの飲食店や土産物屋があるのも高尾山の魅力だろうか。東京近辺で気楽に登れる山はたくさんあるが、施設の充実度はやはり高尾山が頭一つ抜けていて、代表的行楽地と誰もが認めるのも頷けるところである。

 その後は京王電鉄で一路新宿へ。昨年は様々な出来事が我が身に降り掛かったが、さて、今年は天狗のうちわの霊力で、幸せに暮らせるのだろうか。





3月18日(日) 「ブラシ」




 今回は1月に続き、パソコンを使った絵画制作の話でもしようかと思う。パソコン絵画徒然草は、本来こうしたテーマを扱うコーナーのはずだから、趣旨にかなった話題と言えよう。

 昨年から再開したパソコン絵画制作の延長線上で、最近熱心に取り組んでいるのがブラシの制作である。

 ブラシと言われても一般の方はおろか、油絵や水彩画を描いている人すらピンと来ないだろう。ブラシとは、パソコンで絵を描くときに使われる描画ソフトの機能の一部だからである。

 描画ソフトを立ち上げて、白紙の画面にマウスでクリックすると、黒い点が描かれる。そのままドラッグすれば線になる。マウスを1回クリックしたときに出来た黒い点を数珠つなぎにして線となるわけである。ブラシというのは、このマウスで一回クリックして描かれる黒い丸い点を、別の形に置き換えたものである。

 例えば、マウスでクリックすると、黒い点ではなくハートマークが描かれる。それをドラッグするとハートマークがズレながら続いていくが、通常はドラッグして使うのではなく、そのままクリックして描かれる形状を使う。画面上に絵のついたシールをポンッと貼るような感覚である。

 描画ソフトの機能として、画面上で図形を作れば、それをブラシとして登録できる。自分で作らなくとも、基本的な形状は描画ソフトに予め登録されているので、初心者でも気楽に使える便利な道具である。

 私は昔からちょくちょくこのブラシを絵画制作に使って来た。例えば、草原を描く際に、一本ずつ草を描いていたら途方もなく時間が掛かるので、予め描いた草の模様を何パターンかブラシとして登録しておき、微妙に色を変えながらそれを下地としてペタペタ塗っていく。その上から、部分々々を補足するように草を描き入れていく。こうすれば時間短縮にもなるし、途中で描き飽きてうんざりするリスクも減る。

 草以外にも、木々で覆われた山肌のパターンや水面のパターンなど、絵によく登場するものはブラシとして登録し多用している。ブラシにするためにパターンを描く際は、この先何度も使う大事なものだから、本作品の制作の時よりも丁寧に時間を掛けて描くことになる。この辺りは不思議な心理だと思う。

 もう一つの使い方として、エアブラシ機能を使ってかすれて濃淡のある丸い円を描いてブラシとして登録する。これで線を引くと、通常のハッキリした一本調子の線ではなく、鉛筆で描いたような枯れて味のある線ができる。このブラシを筆先に設定し草を一本々々描くと、自然な風合いが出て、まことに調子がいい。アイデア次第で、色々な使い方が出来るものである。

 さて、そんな私が再びブラシ制作に目覚めたのは、昨年たまたま描画ソフトの機能を解説してあるサイトで、写真からブラシを作る方法を見たからである。

 写真調の影絵のようなブラシがあることは前から知っていた。海外製品だが、この種のブラシをセットで販売していることもある。内容は非常に多岐にわたっており、サンプルを見ているだけで面白い。例えば、窓ガラスのひび割れや銃弾で空いた穴の跡、リアルな蜘蛛の巣、水中の泡、果ては機械の表面まで、よくもまぁこれだけ色々考えるわいというぐらいのバリエーションで、いずれも写真のようなリアルさである。

 そうした質の高いリアルなブラシは、プロの方々が高価なソフトを駆使して複雑な工程を経て作っておられるものだとばかり思っていたが、先に挙げた記事では、素人でも普通の描画ソフトで比較的簡単に作れることを知った。試しに見よう見真似で作ってみると、あっけないほど容易にブラシが出来た。

 上に掲げた青空の写真は、実は写真ではなく絵である。全て自作ブラシで構成されている。雲の部分は、私が初めて写真から作った試作品ブラシである。30分もかからずにこのレベルのものが出来上がり、その簡単さに拍子抜けした。木の枝も、その後色々作ったブラシの一つである。写真で撮影した実際の木の枝を、そのままブラシにしている。この2つのブラシを、青一色の画面にペタリと貼り付けただけで、制作時間は5分である。

 あまりに簡単にブラシが出来るものだから、面白がって色々作ったが、これを実際に自分の作品の中で使おうとすると、なかなか難しいことに気付いた。何より、形状がリアル過ぎるのだ。手書きの絵の中にこんなリアルな形状のものが登場すると、木に竹を継いだような違和感が生まれる。思わぬところで足元をすくわれたようで、私は落胆のため息をついた。さりとて、上に掲げた作品のようにリアルなブラシだけで絵を構成しても、何の感動も生まれない。単にフォトリアルなだけである。

 そうは言っても、せっかく作ったブラシが無駄になるのは惜しい。そこで、メインには使わず、脇役としてブラシを使うことを思いついた。例えば、雲のブラシを、雲としてではなく霧を描くときの構成要素として使う、あるいは、花を描いた時の背景の模様として使う。まぁ隠し味みたいなもので、そう言われてみるとブラシが使われているようだが、パッと見た目には分からない。これだと、画面の中に自然にブラシが溶け込んで、全体の雰囲気を壊さない。かくして私は、脇役に使えそうなブラシ作りを始めた。

 今やブラシ作りは、絵を描くのとは別の意味で、趣味の一つになった感もある。写真に写ったものを、そのままに使わず全く別の素材を構成する要素として使えないものかと考えながら色々試してみる。この辺りを工夫するところが何とも楽しいし、思わぬ発見もある。その挙句の悩みが、ブラシフォルダの分量が飛躍的に増えて、読込みに時間が掛かるようになったことだ。あちらを立てればこちらが立たずだが、だからと言って新規のブラシ作りを止める気は当分ない。汲めども尽きぬ興味深い世界である。





4月15日(日) 「照姫まつり」




 今年は春のスピードが速い。桜と新緑が一度にやって来て、藤が咲き、牡丹も満開となった。このままの調子で行くと、果たしてゴールデンウィークに見ごろの花は何になるのだろうか。昨年は夫婦で亀戸天神まで藤を見に行ったのだが、今年はその頃には藤は終わっているのではないか。春が来るのは嬉しいが、楽しむ間もなく過ぎていくのはちと困りものだ。

 さて、そのゴールデンウィークがあと2週間ほどでやって来るが、この時期に練馬区の石神井公園で「照姫まつり」が行われる。この祭りのことや照姫という人物について知ったのは、練馬区に引っ越して来た時だから、もう十数年前のことになる。

 通勤途上にあった地域の掲示板に「照姫まつり」のポスターが貼ってあって、照姫に扮した女性の写真が目を引いたのだ。この時私は、照姫が何者なのか全く知らなかった。ただ、「照姫は悲劇のヒロイン」みたいな宣伝文句だけは記憶に残った。

 ある年、ゴールデンウィークの予定を立てようとしていたところ、再び「照姫まつり」のお知らせが目に留まり、そこでようやく照姫が何者なのかを調べた。この周辺一帯を領地にしていた豊島氏の姫で、豊島氏が太田道灌との戦いに敗れた際に、居城としていた石神井城の三宝寺池に身を投げて亡くなったという話だった。それが悲劇のヒロインの由来なのだと分かった。

 豊島氏と聞いて、豊島区の名前の由来になった一族だというのは何となく分かったが、その豊島氏がどういう一族だったのかはほとんど知らない。土着の豪族の一つだろうくらいに思っていたが、資料館だったか何かの展示で、由緒正しい桓武平氏の系譜だと知った。

 桓武平氏は名前の通り、現在の京都に平安京を開いた桓武天皇を先祖に持つ関東武士団の血統である。桓武天皇は子宝に恵まれ、とても皇室内で養い切れない状態だったため、その多くを皇籍から離脱させた。いわゆる臣籍降下というやつである。皇族の身分を離れた子供たちは、貴族として地方にポストを得て赴任したりしたが、都に戻ることなく土着する者もあった。やがて武士として地方を治める例も出て来て、その代表例が桓武平氏というわけである。

 平安中期に関東で起きた平将門の乱の主人公平将門も、そうした桓武平氏の一人である。彼が朝廷から地域の支配権を奪い「新皇」を名乗ったのも、自らの出自が天皇家であったことが大きく影響しているのではないか。同時に朝廷が肝を冷やしたのも、国府を占拠し統治権を奪うという前代未聞の事態に加え、その血筋ゆえに地域全体が平将門の下でまとまっていく恐怖心もあったのだろう。

 東京に長らく暮らしていて歴史にも相応の興味はあるはずだが、つくづく自分は東京の歴史を知らないと実感する。

 私の周囲にも歴史好きが何人かいて、東京の旧跡など見て回っている話を聞くが、ほとんどは江戸時代ゆかりの場所である。東京で歴史と言えば江戸時代以降というのは、多くの東京人の共通認識になっている観もある。それ以前の話で知っていると言えば、太田道灌程度ではなかろうか。

 ちなみに、「照姫まつり」の照姫の悲劇が起きたのは、室町時代のことである。太田道灌と豊島泰経が現在の江古田付近で激突し、劣勢になった豊島軍が石神井城へ退却する。その後、太田道灌軍が石神井城へ総攻撃を仕掛けたのが4月の末であり、照姫が命を落としたのもその頃ということになる。現在の「照姫まつり」は、その命日に合わせて行われると聞く。

 一方の太田道灌は、東京人ならずとも大抵の人が知っている有名人だろう。江戸城を築いたことでも知られるが、そもそもは関東管領の上杉家を実質的に仕切る番頭格だった。豊島泰経は桓武平氏の流れをくむが、太田道灌は清和天皇から臣籍降下した摂津源氏の血筋である。ちなみに、太田道灌が江戸城を築いた江戸の地名は、桓武平氏の一派である江戸氏の名に由来する。

 江戸時代のことは日本史の授業で詳しく習うが、それ以前の関東の激動の歴史はあまり知られることはない。ただ、その名残は東京都内に幾つも残っているし、現在の地名の由来も、群雄割拠した武士団に関係するケースが多い。そうした人知れず埋もれた歴史が、何かの折に現代にひょっこり顔を出す。「照姫まつり」もそうした例の一つであろう。

 私は照姫のことを知ってから、地域の歴史の断片に行き会うと、背景を調べるようになった。そしてそのたびに、つくづく自分の住んでいる東京の歴史を知らないと実感する。徳川家康が入城する以前は何もなかった荒野のような錯覚を覚える東京だが、なかなかどうして幾多のドラマが織りなされている地である。東京に住むなら、もう少しその辺りも知っていて良かろうという気になるのである。





5月20日(日) 「ネットにおける匿名と実名」




 今年の3月にFacebook(フェイスブック)から大量の個人情報が持ち出されて米大統領選挙に利用されていたというニュースが報じられ、米国を中心に大騒ぎになった。利用されていた個人データは数千万人分というからケタ外れの規模だ。無断で使用した側はもちろん非難されたが、Facebookについても情報管理の甘さを指摘され、Facebookのマーク・ザッカーバーグCEOは米上院の公聴会にも呼び出された。Facebookは大幅な株価下落に見舞われ、何とか信頼を回復しようと、今日に至るまで矢継ぎ早に対策を講じている。

 私はFacebookに関する一連のニュースを見ながら、ネットにおける匿名と実名について色々考えさせられた。

 私がこの休日画廊というサイトを立ち上げたのは2001年のことで、当時のネット界では匿名が当たり前だった。個人のサイト活動は自身のホームページを持つのが一般的だったが、そこで自分の個人情報を包み隠さず披露しているケースは珍しかった。各人がハンドルネームを持ち、それで交流するのが普通だった。掲示板などでのやり取りを通じて、「この人は東北在住かな」とか「子持ちなんだな」とか推測する程度で、面と向かって「あなたの本名は何で、どういう素性の人ですか」なんて尋ねることはなかった。極端な話、相手が男性か女性かさえ分からない場合があった。

 当時、日本のサイト上でここまで匿名が広がっているのは珍しいことと言われ、実名でやり取するのが普通の海外のサイト事情などが紹介されもしたが、その記事自体が記者名を明かさない匿名記事形式だったので、ネット界に限らずマスコミも含めて「情報を公に発信するときは匿名で」というのが日本の常識だったのかもしれない。

 こうした流れが変化したのはいつ頃からだろうか。私も詳しくネット事情を追いかけているわけではないが、個人的な印象を言えば、ブログという新しい形式のウェッブサイトを個人が気軽に利用できるようになった辺りからではなかったかと思う。

 それまでの個人サイトは、ホームページ作成ソフトの力を借りるにしても、htmlについての最低限の知識がないと構築が難しかった。ある程度見栄えのするホームページを作るのは、初心者には骨の折れる作業だったと思う。それがブログでは、一切を提供側が用意してくれて、サイトで披露する写真や文章さえ用意できれば、誰でもすぐに立上げが可能になった。サイトに広告が掲載されるのを了解すれば、全て無料でスタートできるというメリットもあり、個人のネット参加が一気に加速した印象がある。

 ブログは日記形式なので更新状況が一目瞭然で、長く更新しないと見向きもされなくなる。ニュースを追いかけている記者や、商売の宣伝のためにサイトを利用している人ならともかく、一般の個人にそうそう提供できるネタがあるわけではない。そうなると必然的に日常生活の中から話題を探すことになり、個人情報をネット上に出すことが一般的になっていく。個人情報をネットに掲載する人が増えれば他の人々の抵抗感もなくなり、住所や電話番号はともかく、家族や家の内外を写した写真を掲載したり、運動会や旅行など家族行事について書くのが当たり前になっていく。

 おそらくこの延長線上にあるのが今のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)ブームで、Facebookはその代表例ということになろう。日本でも、招待制を柱とするmixi(ミクシィ)が人気を博し、匿名が当たり前だったサイト上の交流に、相手の氏素性が分かった者同士の交流が指向される時代が日本にも来たと言われたものだ。ちなみに、毎日の提供ネタに困ったブロガー向けに、Twitter(ツイッター)が登場して脚光を浴びたが、これにより、一層細かくリアルタイムで個人情報を提供する傾向が高まった気がする。

 私はと言えば、こうした時代の流れに真っ向から背いていて、いまだにSNSを一切やっていない。最近人気を博しているInstagram(インスタグラム)は、ウォーキングの途中で写真を撮るのが趣味の私に向いている気がするが、どうも食指が動かない。ネット上で個人情報が適切に管理されるという確信が持てないのだ。各SNSの利用規約には個人情報の取扱いについて色々書いてあって、最新の注意が払われているかのような印象を受けるが、Facebookをはじめ、これまで起こった様々な情報漏洩事件を思い出すにつけ、根深い不信感を拭い去ることが出来ない。結局漏洩した個人情報は二度と取り戻せないし、未来永劫不正に使い続けられる可能性がある。ハンドルネームなら捨てられるが、差替え不能な個人情報を危険にさらすのは、かなり勇気のいることだ。

 大切なものは失って初めて気付くという。日本人は周りのみんながやっているという言葉に弱いものだが、時代遅れと言われようが、私自身は今後とも個人情報の取扱いには保守的に臨もうと心に決めている。





6月17日(日) 「年忌法要」




 父が亡くなって1年が経つ。先般、一周忌の法要を行って、当時のことが色々思い出された。弔いの儀式は、亡くなった人のためにあるのではなく、残った遺族、友人・知人のためにあるとよく言われるが、こうして法要を主催する身になると、つくづくそう思う。

 今の仏教にとって最大の宗教行事は先祖供養だが、元々先祖供養のために出来た宗教でないことは広く知られているところだ。そもそも、亡くなった近親者を埋葬することは、仏教伝来以前の我が国でも行われていたことで、宗教があったのかどうかも判然としない縄文時代や弥生時代でも死者を一定の方式で埋葬したと思われる跡が発見されている。

 おそらく弔いの儀式の在り方は、その時代々々の人々の死生観によるところが大きいのだろう。文明の発達していない未熟な時代には、その時代なりの死に対する考え方があり、そこから想像を巡らせて弔いの在り方を考えたに違いない。従って、儀式の在り方は長い人類の歴史の中で変化して来ている。

 今の仏教の葬儀の在り方や年忌法要の決まりも、仏教の長い歴史の中で後付けで考え出されたものであり、初期の仏教の経典のどこを探しても、そんなことは書かれていない。そもそも年忌法要は古代中国の慣習が仏教に入り込んだもので、それが日本に輸入されて広まった。従って、釈迦の説いた仏教の教えとは何の関係もない。

 私は今回父の一周忌を行ったわけだが、仏教で重要とされる年忌法要は計10回ある。初七日から四十九日までの七日ごとの法要計7回と、百か日、一周忌、三回忌である。ちなみに、七回忌以降の年忌法要は日本人が勝手に作ったオリジナルだ。この10回の年忌法要を全てきちんとやったというご家庭は、どのくらいあるのだろうか。たいていは、初七日、四十九日、百か日、一周忌、三回忌の5回程度で終わっているのではないか。そのうえ、初七日は葬儀当日に繰り上げて行う例が多いだろう。

 元々10回の年忌法要を行うという考えは、あの世で行われる死者の裁判に合わせてこの世に残った遺族で、場外から応援演説を行うという思想で成り立っている。従って本来は、あの世で法廷が開かれているまさにその日にやらないと意味がないわけだが、こちらのご都合で勝手に日を変えてしまっているのが実情である。初七日の繰り上げもそうだし、一周忌や三回忌も、故人の命日当日に行っている例は少ないのではないか。

 信心深い人は、故人の供養をきちんとやらないと罰が当たると考えているのだろうが、既に十分罰が当たるほどに年忌法要は形骸化している。そしてその罰は、古代中国の思想が正しければ、残った遺族に当たっているわけではなく、応援演説なしの法廷に立たされた故人に当たっているわけである。ちなみに10回行われるあの世の裁判のうち、有名な閻魔大王が裁判官になるのは5回目の七日である三十五日である。まぁたいていの家庭では三十五日の法要をやっていないだろう。

 この話を聞いて「しまった!」と思う人がいるかもしれないが、別に気にする必要はない。冒頭に書いたように、全ての法要は残った遺族、友人・知人のために行われるのである。この世に残った者の都合に合わせて無理のない範囲でやればいい。故人を偲ぶのが目的なので、儀式として法要をやらなくとも、その日を機会に亡き親族のことを思い出せばいいのである。

 どうせあの世で裁判なんてやっていない。古代中国のあの世ではやっていたかもしれないが、ここは日本である。閻魔大王も唐の時代の官服を着ていることから分かるように、日本の仏様ではない。気にする必要などどこにもないのである。





7月15日(日) 「説明のない物語」




 これから本格的な夏の到来となるが、東京では既にお盆の品々がスーパーに並んでいる。新暦で7月にお盆をする家が多いからだろう。旧暦のお盆に慣れた身としては、この時期にお盆関係の品をまとめたワゴンを見るとちと調子が狂うが、ところ変われば習慣も異なる。まぁ、慣れるしかない。

 夏と言えば、昔は怪談が一つの風物詩で、この時期テレビや映画で怪談物をやっていたが、最近では古典的な怪談物のドラマや映画はほとんど見ることがない。現代の子供たちは、四谷怪談とか番町皿屋敷、牡丹灯籠、化け猫なんて知らないのではなかろうか。

 怪談はいつしかホラー物に取って代わられ、これでもかと見る人の恐怖を掻き立てる演出を競う時代になった。ホラー物に慣れた現代人が古典的な怪談を見ても、さして怖くないのかもしれない。

 私はミステリーや推理小説をよく読むが、ホラー小説はそれほど食指が動かない。読んだことがないわけではないが、つくづく面白いと思って耽読することはない。しかし、最近読んだ怪談物の中で、感心しながら読んだものがあった。岡本綺堂の怪談話である。

 若い人の中で岡本綺堂の名を知っている人はそう多くないのではないか。代表作に半七捕物帳があるが、捕物帳自体も時代小説好き以外はさして読んでいないジャンルかもしれない。最近ではテレビの時代劇もめっきり減ったし…。

 私が最初に岡本綺堂の作品を読んだのは半七捕物帳で、いわば日本の推理物の先駆けとして読み始めた。捕物帳はご存知のように、江戸時代を舞台に岡っ引きが活躍する物語で、野村胡堂の銭形平次や、横溝正史の人形佐七捕物帳なども有名だが、その出発点となったのが岡本綺堂の半七捕物帳なのである。そもそも、今では一般に使われる捕物帳という言葉を紹介したのも岡本綺堂であり、奉行所の御用部屋にある事件の記録簿のような帳面を捕物帳と呼んでいたと、第一話の冒頭で解説されている。

 複雑に謎が絡み合う本格的な推理小説ではないが、話の中身に味があり、何より江戸の習俗が話の端々に織り込まれ、読んでいて楽しい。その習俗描写の見事さは他に類を見ないと思うが、それもそのはず、岡本綺堂は明治5年生まれの幕臣の子である。おそらく、子供心に聞かされた家族の話や、まだ江戸の名残が濃厚に残っていた子供時代の東京の思い出により、物語のディテールがしっかりと肉付けされているのだろう。書物で読んだ知識が披露されているのではなく、実際自らそこに暮らしていたかのような描写の確からしさがある。時として、当たり前のように説明もなく当時の習俗が記されているものだから、読む方はこれは何のことかと戸惑うし、聞いたことのない単語も随所に出て来る。様々に解説が施される現代の時代小説に比べると不親切な面もあるが、それがかえって本物らしさを醸し出している気がするのだ。

 さて、岡本綺堂の紹介が長くなったが、話を元に戻して、彼の書いた怪談物の話である。私が読んだのは短編集を2冊だが、ホラーファンに予め断っておけば、現代の物差しからするとちっとも怖くないのである。人を怖がらせる度合いで勝負すれば、岡本綺堂の怪談は、工夫を凝らした現代もののホラーには到底かなわないと思う。ホラーというよりは怪異譚、あるいは不思議な話といった方がいいかもしれない。

 ではいったい、何に感心したかだが、怪異の原因が必ずしも説明されていない点である。

 現代もののホラーでは、恐ろしい出来事の裏にあるものは、話が終わるまでに解き明かされていく。そして、その原因の異常さにまた恐怖するといった具合に物語が進んでいく。しかし、岡本綺堂の怪談物の幾つかは、何故怪異が起きるのかの説明がない。話を最後まで読んで「あれ、これだけ」と思うことも多い。現代のホラーに慣れていると、どうしてそんなことが起きたのかの説明があると思うのだが、それを期待していると肩透かしをくらう。

 考えてみれば、怪異の全ては、果たして原因が特定され得るものなのだろうか。あまりネタバレ的なことを書くのもどうかと思うので具体的なストーリーに沿って申し上げることは控えるが、例えば、ある場所に怪異が起こるとする。しかし、怪異それ自身が口をきいて説明してくれるわけはないから、その原因が何かなんて、簡単に分かるものではなかろう。現代の幽霊譚でも、ここに出る幽霊は自殺した女の霊なのだろうなんて解説がついたりするが、当の幽霊本人が「私はここで自殺した〇〇です」なんて説明してくれないから、その推理が本当かどうかは分からない。そこは、犯人が捕まり犯行を自供する推理小説とは違うのである。

 現代の小説はやたらと合理的で、懇切丁寧に解説をしてくれる親切設計である。問題を出す以上は答も用意しないといけないという作家精神の現われなのだろう。それに慣れた身からすれば、背景の語られない怪異というのは、どこか居心地が悪い。物事は、原因が分かれば少しは納得感が湧くし、冷静に対応を考えられる。しかし、原因が何も分からないとなると、どう捉えたらよいのか分からず、不安が不安を呼ぶ。まぁそこに、本来の怪異の怖さがあるのかもしれぬ。

 現代と違い、まだまだ怪異の身近だった時代を過ごした人間の感覚からすれば「そんなにきれいさっぱり裏表が分かったりするかよ」という気持ちがあったのかもしれない。何故その屋敷が呪われるのか、その道具に過去どういう因縁があったのか。情報の少ない江戸の昔なら、分からないことは一杯あったのだろう。現代の作家なら、ここはもっと肉付けして色々因縁を語って話を掘り下げるんだろうなぁというところが、説明もなくさらりと終わる。そこが新鮮と言えば新鮮だし、江戸の怪異譚というものの本質を突いている気がする。

 結局怪異というのは、その原因が全く分からない時こそ、人を不安に陥れるものではなかろうか。岡本綺堂は、肌感覚としてそれを知っていた時代の人だったのだろう。





7月29日(日) 「酷暑」




 ようやく7月もあと僅かとなったが、この1ヶ月間は天災という言葉を幾度も実感した日々だった。

 「平成30年7月豪雨」と気象庁が命名した西日本を中心とした集中豪雨で月が明け、その後は東京都でも40℃台の気温を初めて記録する程の酷暑の日々となった。そして最後に台風12号が三重県に上陸し、西日本を横断して被害をもたらした後、ようやく月が終わろうとしている。振り返ると、洪水、土砂崩れ、熱中症などで幾多の犠牲者を出した天災の月だった。

 我が家では幸い天災に巻き込まれるということはなかったものの、途中で寝室のクーラーが壊れ、熱帯夜の寝苦しい夜を扇風機でしのぐという日々が続いた。修理を依頼しても電気店は大忙しで、なかなか来てくれない。ようやく7月も終わりになって、工事の人が駆け付けてくれた。高齢者が屋内で熱中症により死亡したというニュースを聞くつど、あながち他人ごとではないなと思ったものだ。

 子供が部活動で熱中症になり病院搬送されたといったニュースを幾度か見ているうちに、昔の夏はこんなに暑かっただろうかと思い返した。記憶にある限りでは、30℃を超えた時点で「今日はすごく暑い」と言っていた覚えがあるから、35℃が常態化していたこの7月の気温は、昔では到底考えられなかった異常気象だったのだと思う。ただ、35℃という気温は、今年に限らず最近では夏にたびたび目にする気温なので、やはり昔と今とでは気温のレベル感が明らかに違ってしまっているのだろう。そんな中でも「学校にクーラーなんて贅沢だ」みたいな意見を言う人がいるので、気合と根性で暑さなんか乗り越えられると思っている人が依然多いことに気付かされる。考えてみれば危険なことだし、その過信が熱中症につながるのだろう。

 この7月の猛暑は地球温暖化の影響という学者や専門家のコメントを目にするが、そうではないという意見もある。ただ、この猛暑は日本だけで起きている現象ではなく、世界各地で気温が上昇し、高温と乾燥による森林火災が多発しているところを見ると、地球規模で自然界に異常が起きているのは確かだ。7月の終わりには、国連の専門機関の一つである世界気象機関が「この異常気象は温暖化ガス増加による地球温暖化と関係したもの」と発表したようで、この見方が正しいとすると「たまたま暑かったのは今年だけ」という偶然説は採れない。つまり、来年以降もこんな感じの夏になる可能性が充分にあるということだ。

 夏と言えば、子供が元気に外で遊ぶ活動的な季節というイメージだったが、将来は、外に出て遊んだりすると命の危険がある季節になるのだろうか。プールの水温が高くなり過ぎて、次々に閉鎖されているというニュースを耳にすると、海辺以外では夏に泳ぎも出来ないという事態は、あながち笑い話ではない。

 絵の世界では、時として季節感というものが重視されるが、その季節感自体が根底から覆ろうとしている予感がある。そんな不安は杞憂に終わって欲しいものだが、この7月に起きた一連の出来事を見ていると、それを笑い飛ばすだけの勇気が必ずしも湧いて来ない。誰の作品だったか忘れたが、露出過多みたいな白茶けた街角に人っ子ひとりいない光景を描いた風景画を昔見たことがある。そのシュールレアリズムのような世界が現実のものとなる日が来るかもしれないと思うと、ぞっとする。それこそ、本当の意味の夏の怪談だという気がするのである。





8月19日(日) 「森田童子にまつわるいくつかの思い出」




 8月は旧盆があるのに加え、第二次世界大戦の戦没者慰霊の式典があったりして、亡くなった人を思い出す機会が何かと多い月だ。炎天下の強烈に明るい夏の日と、しめやかな鎮魂の儀式の組合せは、どこかしら合わないような気もするが、この時期と定まっているので致し方ない。毎年そう思いながら亡くなった人のことなどつらつら思い出す。

 亡くなった人と言えば、今年の4月に、シンガーソングライターの森田童子が亡くなったというニュースを聞いたことを思い出した。私にしてみれば、ちょっとした衝撃だった。

 森田童子のファンだったのかと訊かれると「はい、そうです」とは言いにくい。彼女のレコードは一枚も持っていないし、コンサートに行ったこともない。ただ、非常に印象に残る歌い手の一人だったことは間違いない。

 彼女が有名になったのは、1990年代にヒットしたテレビドラマの主題歌に選ばれたためということらしいが、残念ながら私はそのドラマを見たことがない。仕事が多忙を極めた時期で、ろくすっぽテレビを見ていなかった私は、そんなドラマがあることすら知らなかった。

 では、私が彼女を知ったのはいつかと言えば、まだ彼女が現役のシンガーソングライターだったはるか遠い昔だ。今でも覚えているが、彼女の歌を最初に聞いたのは友人の家でのことだった。

 当時私は中学生だったと思う。歌謡曲の黄金期で、クラスメートの多くはアイドル歌手に夢中だった。ただ、作り物的な恋愛ドラマを歌う歌謡曲に馴染めず、私と幾人かの友人はもっぱらフォークソングを聞いていた。そんな友人の一人の家に遊びに行った際「この曲はすごいぞ」と言って聴かされたのが、森田童子の「さよなら ぼくの ともだち」である。

 この曲を聴いて私は衝撃を受けた。それまでに聴いたフォークソングのどれとも違っていた。吉田拓郎、泉谷しげる、かぐや姫といったメジャーどころから、岡林信康、加川良、高田渡、友部正人など、一般の方があまり知らない歌手まで含めて、色々聴いて来たつもりだったし、メッセージ性の強い社会派の歌もたくさん知っていたが、「さよなら ぼくの ともだち」は、そのどれとも似ていない異質な歌だった。カーリーヘアに大きなサングラス、そして黒を基調とした地味な服を着た彼女の写真と、あの歌声との落差も大きかった。

 友人は僕に、彼女のLPレコードを2枚貸してくれた。ファーストアルバムとセカンドアルバムだった。彼女の曲の中でとりわけ心に残ったのは、最初に聴いた「さよなら ぼくの ともだち」と、セカンドアルバムに入っていた「ぼくたちの失敗」である。後にドラマの主題歌となって注目されたのは、この「ぼくたちの失敗」だったようだ。当時は、こんな曲を気に入ったのは私ぐらいのものかな、なんて思っていたが、そうではなかった。要するに、ほとんどの人が単に彼女の存在を知らなかっただけなのだろう。

 今と違ってインターネットもない時代、露出の極端に少ない彼女が一体何者なのかを知るのは簡単ではなかった。ただ幸いなことに彼女はまだ現役のシンガーソングライターで、音楽雑誌にインタビューが載ったり、曲にまつわるエピソードが紹介されたりした。在学中に学園紛争にかかわり、高校を中退して歌手デビューしたこと、「さよなら ぼくの ともだち」にはモデルとなった友人がいたことなど、彼女の名前を気に掛けていれば、徐々に情報が集まった。

 私は、彼女の歌もさることながら、その経歴にも強い印象を受けた。過激な一部の大学生がやっていると思っていた学園紛争に一女子高校生が関わるという事実、「さよなら ぼくの ともだち」に描かれたことがどこまで事実かは分からないが、薬でラリって行ったことのないメキシコの話を繰り返ししてくれる友人を持っていたというエピソード、そしてその友人の逮捕と死。学園紛争とは無縁の平和な田舎の高校生だった私には、およそ現実とは思えない無縁の世界だった。私は、テレビのニュースでしか見たことのない学園紛争のことを考え、そんな日常が手の届くところにある都会での高校生活がどんなものかを想像した。

 大学生になって京都に出た私は、その学園紛争というものを身近に感じることになった。入学式は途中からヘルメット姿の活動家に乗っ取られ、授業の始めや終わりには彼らが教室までオルグにやって来た。キャンパス内の至るところに政治的メッセージを書いた巨大な立て看板が掲げられ、一部の区域は事実上活動家勢力に占拠されて大学の事務職員すら立ち入れなかった。私が入学する少し前は、学内で授業をすることが難しい時期があり、教授が学生を連れて鴨川まで行き、河原に降りて授業していたこともあったと聞いた。

 私は終始ノンポリ学生だったが、大学構内に漂う学園紛争の空気感の中で、これが森田童子の歌の背景の一つなんだなと思った。「さよなら ぼくの ともだち」に出て来る長い髪をなびかせ髭をはやしたやさしい顔の学生は、キャンパス内に幾らでもいた。学生かどうかも分からない人が学生寮に出入りし、学内の治安は必ずしも良くはなかったが、居心地の悪さは微塵も感じなかった。私の田舎とも世間一般とも違う異空間にいるような4年間だった。

 「ぼくたちの失敗」という歌には、地下のジャズ喫茶やチャーリー・パーカーの名が登場しジャズの香りが漂っているが、これもまた当時の大学生活に色濃く染みついた空気感だった。ジャズは、歌謡曲ともフォーク・ロックとも違う、ちょっといかした哲学的音楽といった位置付けで、ジャズファンの学生も多かった。下宿していた部屋のお向かいさんは、同じ大学の大学院生だったが、彼もジャズが好きで、部屋にいる時にはよくレコードがかかっていた。「いいジャズ喫茶があるよ」と紹介してくれもしたが、フォーク好きだった私は、残念ながらご推薦の店に行くことはなかった。ただ、学生がたむろする喫茶店は、大学周辺に無数にあった。それぞれが好みの喫茶店を持ち、食事時や授業の合間にたむろしていた。

 しかし、全ては遠い昔の話である。大阪に勤務していた頃、京都まで足を延ばしたついでに何度か母校を訪れたが、あの頃の空気感は微塵もなくなっていて驚いた。立て看板はほとんど姿を消し、清潔で整然としたキャンパスに変わっていた。周辺の喫茶店も姿を消し、全国どこでも見かけるチェーン店に取って代わられていた。今の時代の学生が森田童子の歌を聴いても、その背景にあった時代の雰囲気は分からないだろう。

 そんな時代の変化を目の当たりにして東京に戻り、改めて森田童子の死を報を聞くと、一抹の感慨に耽らざるを得ない。おそらくそれは、同時代を生きてその空気を吸った人々には、多少なりとも共感して頂けるのではなかろうか。結局、本名も素顔も分からぬまま、彼女は東京の片隅でひっそりと亡くなった。人気ドラマの主題歌を歌った森田童子は最期まで正体を明かさず、みたいな調子で報じられると、私なぞは少々違和感を感じてしまう。時勢に乗れないまま不器用に生きる孤独な若者を歌った彼女には、最後まで世間の表舞台に出ない生き方こそが、よく似合っていた気がするのだ。





9月16日(日) 「あっという間に時代は変わる」




 私は酒の飲めない家系に生まれたお蔭で、アルコール類は全くダメである。にもかかわらず、仕事の都合や交友関係やらで酒の席に時々参加する。あればノンアルコールビールを注文して見た目だけみんなに合わせ、なければウーロン茶で宴席に加わる。

 私がそう注文すると「じゃあ私も…」なんて人が現れて、参加者の半数がノンアルコールになったこともあるから、世の中案外酒を飲まない人がいるんだなと実感する。私と同じように体質的に飲めない人もいれば、健康上の理由やその後の予定があるからなんて理由で敢えて飲まない人もいる。半数が飲まなくとも宴席は成立し、楽しくワイワイと歓談し時間は過ぎていく。

 昔はこうではなかった。私が社会人になった当時は、社会人たるもの飲むのが常識で、飲めないなんて言おうものなら、半人前扱いだった。面と向かって「それじゃあお前、この先世の中渡っていけないぞ」なんて真面目に説教されたし、せっかく無理して参加しているのに「飲まない奴と一緒だとシラケるから嫌だ」なんて面と向かって文句も言われた。ウーロン茶をはじめとするノンアルコールドリンクなど宴席で注文できる雰囲気ではなく、飲まないビールをコップになみなみと注がれた状態で、宴会の最後にお茶が出て来るまで一切水分補給なしなんて当たり前だった。

 宴席でアルコールを飲まないことが違和感なく許されるようになったのはいつ頃からだろうか。昔は飲酒の強要など珍しくもなく、急性アルコール中毒で救急車で運ばれた若手も多かったが、いつの間にやらそんな蛮行も消え失せた。アルコールハラスメントなんて言葉を聞くようになって、こりゃいったいどういう風の吹き回しだと驚くことしきりである。世の中というのは、かくも劇的に変化するものか。

 思い返せば、私が社会人になった当時、世間では当たり前の常識で、この先もずっと変わらないだろうと思っていたことが、時代と共に次々と崩壊した。

 私の友人の多くは銀行に就職したが、その頃は銀行に勤めれば一生安泰だと普通に信じられていた。銀行が潰れるなんて、日本が沈没するような事態でも起きない限り起こらないだろうとみんな考えていた。それがどうだろう。当時都銀に就職した友人は全て就職先の名前が変わり、途中でリタイアして別の道を歩むことになった人も何人もいる。今では都銀という言葉すら死語となっている。

 銀行に限らず、一部上場企業に就職すれば大船に乗ったようなもので、滅私奉公して働けば、一生面倒を見てもらえると誰しも思っていた。だから、大企業勤めは憧れの的で、入社できれば家庭を顧みず一生懸命働いた。むしろ会社こそが自分の家で、職場の同僚は家族も同然と考えている人が多かった。しかし、バブル崩壊後の経済不況の中、企業は長年勤めあげて来た多くの中高年をリストラし、会社は社員を大事にしてくれる存在ではないことを、世間が目の当たりにした。

 私が社会に出た頃は、土地神話というものがあり、土地をたくさん持てば将来は安泰だった。今では信じられないことだが、山持ちというのは金持ちと同義だった。山林王なんて言葉もあったぐらいだ。今では、東京都心部など地価の高い場所に土地を持っていれば別だろうが、地方に土地を持つことは資産ではなく負債だとまで言われる時代になった。山持ちなんて、憧れる人はどれくらいいるのだろうか。買いたいと言えば、安くで売ってくれる人がたくさんいるに違いない。そもそも山なんて、売りたくとも売れないのだから。

 こうして数え出せば切りがないのだが、ずっと続くだろうと思ったことは、片っ端から変わった。常識は非常識となり、信じていた者は裏切られた。

 このエッセイの題名にも使わせてもらっている吉田兼好の「徒然草」や、その少しあとの時代の鴨長明の「方丈記」は、無常観を通奏低音として書かれたものだが、私は昔古文の授業で習った際、そうした無常観は鎌倉から室町時代にかけての乱世を生きた二人だからこそ生まれて来たものだろうと思っていた。貴族が衰退して武家が群雄割拠し、至るところが戦場となって争いが起きる世の中では、あらゆるものが目まぐるしく変化し、人々は安定を求めるすべがない。一方、平和な時代を生きる我々には、安定した生活があり、将来についてもある程度見通していける。そんなふうに思っていた。しかし、現実にはそうではなかったのだ。

 小林秀雄の言葉を借りるわけではないが、無常というのは決して乱世の話だけではない。それはいついかなる時代にも変わらぬ社会のことわりである。社会に出て数十年経って、そんな当たり前のことにようやく気付いた。

 さて、これから世の中はどう変わっていくのだろうか。





9月30日(日) 「秋の雲を見上げて」




 今年の夏は酷暑の連続で辟易としたが、さすがにお彼岸を過ぎると暑さも収まり、週末のウォーキングも快適になって来た。結構遅くまで鳴いていたセミの声も聞こえなくなり、替わって昼間でも秋の虫の音が草むらから響いて来る。秋の虫たちは夏場から鳴いているらしいが、セミの大合唱にかき消されて、傍らを歩いていても耳には届かないものらしい。

 この時期、道を歩いていると、どこからともなく金木犀の香りが漂ってきて、あぁ秋だなぁと実感する。香りの主はどこに植えられているものやらと辺りを見回した目に秋の空が見え、刷毛をさっとひと刷きしたような雲が目に入る。この高い空にかすれたように流れる秋の雲を見ると、決まって子供時代のことを思い出す。

 小学生の頃、9月はどこかしら寂しい月だった。長い夏休みが終わり、学校が始まる。学校が嫌いというわけではなかったが、楽しかった夏休みの日々を思い返し、もうあの日は戻って来ないのかと寂しい気分になる。そのうち、運動会やら遠足やら秋の学校行事が始まって気が紛れるのだが、それまでの間、とりわけ9月の初めは何やら虚しかった。そして見上げた空に、夏のたくましい雲に替わって、かすれたような雲が消え入るように流れていた。そのはかない風情は、当時の私の心によく似合っていたと思う。

 しかし、そうした9月の寂しい気持ちは、中学、高校と年齢が上がるにつれて薄れていった。ましてや社会人になると、夏休みなど1週間かそこらのものだから、8月中に夏休み気分は終わってしまい、9月になっても格別の感慨はない。むしろ、これで少しは暑さが収まるだろうと歓迎したい気分になる。まぁそれでも、秋の空を見上げてあのかすれたような雲を見つけた時には、小学生の頃を思い出すのだから不思議なものである。

 この子供の頃に感じた9月の寂しさは、私の絵のひとつのテーマでもあるのだが、これをうまく画面に表現するのは難しい。紅葉の頃のような、これから冬に向かう時期の寂寥感ではなく、まだ緑濃い季節に感じるわずかばかりの虚しさである。実りの秋を迎える前のほんのつかの間の空白期間に、ふと心に感じる寂しさを絵にするには、何を題材に選べばいいのかといつも悩む。あの高い空を流れるかすれた雲を描いただけでは、爽やかな秋の気配しか感じてもらえない。では何を描けばいいのか。ここでひと工夫、題材にひねりが必要になるのだが、これがなかなか思い付かない。

 かくして何を描くかを考えあぐねていつも思うのは、しょせん絵を描く際の描画技術など、絵の題材選びに比べれば二の次の要素に過ぎないということである。自分の絵のうまい下手を気にする人がいるが、そんなものは練習すれば幾らでもうまくなる。何ら気にすることではない。むしろ、自分が何を題材に選び、見る人に何を伝えたいかの方がよほど重要である。こちらの方は練習すれば上達するというわけではない。ここに何かしらの勘違いがあるのではないかと時々思う。

 描く技術はスキル、自分の気持ちを伝えるために何を題材に選ぶかはセンスの問題である。スキルは磨けば磨くほど上達するが、センスは練習では伸びない。絵の先生が教えてくれるのはスキルであって、習っているうちにセンスまで磨かれたりはしない。センスは自分自身で伸ばすものだが、一生懸命頑張れば努力に応じた成果が出るという性質のものではない。かえって変な方向に向かうことだってある。そこが描画技術の向上とは違って難しいところである。

 かくして秋の雲は、今年も私に無力感を抱かせるように空に浮かぶ。あのはかない雲を見ると、小学生時代とはまた違った寂しさを感じるのである。





10月21日(日) 「秋の夜長の楽しみ」




 この季節、いつも思うのは、月が美しく見えるということである。夏の暑さはすっかり収まり、かといって本格的な寒さがやって来るにはまだ間がある。心地よい空気に包まれて夜道を歩いていると、家並みの途切れた辺りで空にかかる月に気付く。

  名月や池をめぐりて夜もすがら

 松尾芭蕉が秋の月見の席で詠んだと言われる句で、月を題材にした俳句の代表作として人口に膾炙している。誰しも、一度ならず聞いたことがあるだろう。芭蕉でなくとも、この季節、月を見ながら戸外をそぞろ歩いてみたい思いに駆られるものだ。

 10月は、旧暦で言えば9月頃ということになろうか。旧暦9月の別名は長月(ながつき)で、何が長いかというと夜が長いということらしい。秋の夜長という言葉がある通り、秋分を過ぎると昼より夜の方が長くなり始め、10月ともなるとハッキリ夜が長くなったと感じられる。

 過ごしやすい秋の夜長は、読書や勉強によし、お酒を飲む人には晩酌にもよしということになる。時代劇を見ていると、秋の夜長に縁側で、月を見ながら侍同士が酒を酌み交わすシーンが出て来るので、昔から日本人は秋の夜長を楽しんでいたに違いないと思ってしまう。上に掲げた芭蕉の句だって、庶民が秋の夜長を月見で楽しむ情景が思い浮かぶ。しかし、よく考えるとちょっとおかしくないかという気になる。

 支配層だった武家はいいとして、貧乏だった庶民は、秋の夜長に起きていて、余暇を楽しむ余裕なんてあったんだろうか。今と違って、電気を使った照明器具はない。昔ながらの照明器具というと蝋燭がすぐに思い浮かぶが、江戸時代には蝋燭はかなり高価な貴重品で、庶民がおいそれと使えるシロモノではなかったとされる。行燈にしたって、燃料の油もそうそう浪費できるわけではなく、秋の夜長の屋内は暗かったに違いない。だから、名月を戸外で愛でるくらいしか出来なかったのではないか。

 してみると、秋の夜長にゆったりと趣味に時間を費やすなんてことは、江戸時代にはおおよそ出来なくて、庶民にも電気照明が使えるようになった近代以降の習慣ということになる。秋の夜長を屋内で楽しむのは、案外と歴史の浅いものなのだ。昔の人は、何かの用がない限り、夜はさっさと寝てしまったことだろう。秋になると気候も良いため、暑くもなく寒くもなく、ぐっすり眠れたに違いない。

 私たちはともすれば、現代の生活の有様が昔から続いているものと勝手に思ってしまう。神主が祝詞を読み上げ新郎新婦がお神酒で三三九度の盃を飲み交わす神前の結婚式は明治以降に始まったものだし、花嫁修業の代表格として女性が茶道をたしなむようになったのも明治以降だ。一見古くからあると思われるものでも、起源はさして昔ではないことはよくある。

 考えてみれば、仮に江戸時代に、庶民が容易に照明の手当が出来たとして、いったい秋の夜長に何をするのだろうか。テレビやラジオは勿論ないし、読み書きができたとしても本は高価でおいそれとは手に入らない。遅くまで酒をちびちび飲むほど豊かではないはずだし、そもそも江戸時代の朝は早い。用もないのに夜更かしなどしていられなかったに違いない。

 結局のところ、現代人が秋の夜長を楽しめるのは、照明器具の発達のお蔭というより、余暇を楽しむ道具立てがそろったからということだろう。本や雑誌、テレビ、ラジオはもとより、インターネットの普及で幾らでも時間が過ごせる。酒やおつまみも容易に手に入り、小腹がすけば夜食も食べられる。時間さえあれば楽しむのに苦労はしないのが現代である。

 そんなことをあれこれ考えているうちに、思い出したことがある。子供時代、秋に山へキャンプに行った。公営キャンプ場の作り付けの立派なテントには電灯が付いていたが、遅くまで起きることもなく、みんな早々に眠ってしまった。テレビもラジオもなく、することがなかったからである。お蔭で翌朝は早くから目覚め、早朝のひんやりした空気の中で朝ご飯の支度を始めた。思い起こせば、あれが江戸時代の環境だったのだ。

 秋の夜長を楽しめるようになったそのことに、現代人はもっと感謝しなければいけないのだろう。





11月18日(日) 「ビジネスシーンのこだわりグッズ」




 以前から通勤電車の中で何となく気になっていたのだが、腕時計をしていない若い男性をよく見掛ける。時間を気にしなくともよい境遇ならまだしも、スーツを着たビジネスマンの中にも腕時計をしていない人がちらほらいる。私は、社会人になれば腕時計をするのは当たり前だと思っていたが、どうやら昨今はそうでもないらしい。スマホで時間が分かるからだろう。なるほど、腕時計を見る時間の何百倍、何千倍もスマホを見ている御仁が多い(笑)。

 一方、ビジネス誌を読んでいると、今でも腕時計の特集は多い。こんなの誰が買うんだろうという何百万円もする外国製高級腕時計が、これでもかというくらい登場する。こりゃ安めだなと思うものでも数十万円。何万円という価格帯のものは載っていない。腕時計は男がこだわるアイテムであるという既成概念が特集記事の背景にあるのだろうが、果たして今もそうなのだろうか。

 遠い昔、職場の同僚で、ボーナスが出るたびにそのほとんどを費やしてロレックスの腕時計を買っているヤツがいた。もちろん独身である。結婚したらそんなことは許されないはずで、独身時代のせめてもの楽しみだったのだろうか。「そんなにたくさん買ってどうするんだ」と訊くと、TPOに応じて着けて楽しんでいるのだと言う。高級腕時計を身に着けていると、そんなに楽しいものだろうかと訝ったが、まぁ人は人、自分は自分である。

 私自身は、腕時計にあまり頓着がない。就職祝いに伯父さんからプレゼントされた腕時計を長らく愛用していたが、やがて電池交換の際に分解修理しないとダメと時計屋に言われ、新しい腕時計に乗り換えた。実用一点張りの私は、軽くて、電池交換のいらないソーラ−式で、ついでに時刻合わせもいらない電波時計という現代風のものを購入したが、その際店員さんの説明で、高級時計のほとんどは自動巻きで、しかも重いということを知った。「何十万も出した時計の重みを実感したいんでしょう」なんて笑って解説してくれたが、何百万出しても重くて自動巻きなのだろう。

 いずれにせよ私は、ビジネスシーンでは依然として腕時計をする派だが、もう少し時代が進めば、多くのビジネスマンが腕時計をしなくなるのだろうか。腕時計が本当に男のこだわりアイテムなら、スマホが出て来たくらいではすたれない気がするが、その考えがそもそも間違いだったのだろうか。

 こだわりアイテムということでは、手帳もそういう位置付けだった。ひと昔前は、ファイロファックスに代表されるごついシステム手帳を片手に持って打合せの場に登場するのが、出来るビジネスマンの典型的スタイルとされ、みんな革製の高そうなシステム手帳を持っていたが、最近ではそうした人種はほとんど見掛けない。文房具売り場でハバを利かせていたシステム手帳コーナーはすっかり縮小され、店員さんに訊かないと場所が分からないことも多い。

 ではシステム手帳はどこに行ったのかというと、タブレットやスマホに取って代わられたのである。私はシステム手帳派ではなかったが、愛用していた薄っぺらな手帳はお払い箱となり、スケジュール管理やちょっとしたメモは、現在スマホで代用している。システム手帳派が持っていた、何万円もする革製のファイロファックスも、自宅やオフィスの片隅で眠っているに違いない。こだわりの必須アイテムの寿命は、ここでも短かったわけである。

 ビジネスシーンを彩る男の必須アイテム、こだわりグッズは、どんどんデジタル化され、機能第一の武骨なIT機器に取って代わられている。おそらくこの先もその傾向は変わらないのだろう。最近よく話題に出る、AIに奪われて将来なくなる職業のランキングを見ていると、こだわりグッズどころかビジネスマンそのものがITの技術革新に取って代わられて、いなくなってしまいそうだ。

 人間らしい対応はいつの時代になっても求められるはずで、AIに代替できたりしないと反論する人もいるが、人間臭いグッズだったはずの腕時計やシステム手帳の現状を見ていると、そう楽観もしていられないんじゃないかと不安になる。便利さを追求した先がそんな未来だったら、何のための技術進歩だったのだろうと思う日が来るに違いない。杞憂に終わると良いが…。





12月16日(日) 「スマホ嫌いの言い分」




 以前にも書いたことがあるかもしれないが、私はスマホがそれほど好きではない。

 機械音痴というわけではなく、パソコンについては一般人以上に知識があると思っているし、絵画制作に限らずかなり色々な用途に使いこなしている。ハード、ソフトとも故障したことは数々あれど、修理に出したことは一度もなく、全て自分で直している。パソコンそのものは好きだし、将来的な可能性にも大いに期待するところだが、スマホとなると何故か食指が動かない。

 私が現在持っているスマホは、最初に買ったままかれこれ4年以上使っている。その間、家族は何度か機種を乗り換えているが、私は新機種発売のニュースにさほど心を動かされることなく、できる限り長く現行機種を使い続けようと心に決めている。

 更に言えば、このスマホも、正確には私が買ったものではない。家族がスマホに乗り換えた後も私はガラケーを使い続けていた。しかし、LINEも使えないのでは家族同士の連絡に何かと不便という理由でスマホへの乗換えを促され、機種も家族が選んだ。私は言われるがままスマホを持ち始め、今に至っている。パソコンの各パーツへのこだわりならそれなりにあるが、スマホの機種や機能についてはあまり関心がなく、家族のお勧めにそのまま従った。

 人に言わせれば、スマホも小さなパソコンなのだから、パソコンに思い入れがあるならスマホにも相応の関心を持ってしかるべきということなのだが、そうならないのはどうしてなのだろう。

 つらつら考えてみれば、私は自分のパソコンに感じるフィット感のようなものをスマホに対して全くと言っていいほど感じない。私はパソコンを全て自作するが、パーツについては自分なりの使用方法を考えてそれに合ったものを選ぶ。大は小を兼ねるで全てを最高級の構成にしようなどとは思っておらず、不要だと感じるものは組み込まないし、重要でないと思うパーツは古いものを使いまわす。インストールするソフトウェアも自分の好みに応じて選択し、使ってみて気に入らなければ即座にアンインストールする。こうして出来上がったパソコンは自分の使用方法にフィットしているし、使っているうちに足らざる部分があれば、パーツやソフトを追加して自分のニーズに合った状態にしようと努力し続ける。

 一方、スマホはこうした個人的カスタマイズをほとんど許さない仕様になっている。機種は限られていて、押しなべて全ての機能が万遍なく盛り込まれている。言い換えれば、自分にとって不要な機能もたくさんついてくるし、それが価格に上乗せされている。

 当初からインストールされているアプリケーションソフトには出来の悪いものも含まれているが、それをアンインストールしようにも、完全削除はできない仕様になっている。消したはずのアプリのアップデートを求めるメッセージがポップアップして、うんざりすることしきりである。

 その多くは、メーカーが開発し、スマホにプリインストールされたアプリであり、使用しないのに居座り続ける分無駄にリソースが使われる結果になる。メーカーとしての優越的地位を乱用しているとしか思えないのだが、どうなんだろう。パソコンの世界では、Windowsで同じことをやったマイクロソフトが非難を浴びて既に方針を修正したのに、随分と時代遅れな話のように見える。

 要するに、スマホの世界がメーカー側のお仕着せになっていて、こちらの言うことはこれっぽっちも聞いてもらえない点が、私の気に障っているのである。例えば、スマホのハードに関して、どの程度の性能のCPUを使いメモリーはどの程度積みストレージをどの容量にするかを選べるとか、かわりにテレビチューナーは積まないとか、デジカメを持ち歩くのでカメラ機能はそこまで良くなくていいとかといった取捨選択ができるのであれば、随分話は違って来るのだが、こんな小型の精密機械じゃあそんな我が儘は到底聞いてもらえない。

 かくしてユーザーのニーズを全てカバーしようとするあまり、どのメーカーのスマホも機能にさほどの差がなくなったにもかかわらず、毎年春と秋に新モデルを投入して買換えを促す商法にもうんざりする。それを応援して新機能をこれでもかとプッシュするライターの記事も毎度見掛けるが、端末の値段は買い切りで10万円近くするのである。それって値段に見合った性能向上なのかと、記事を読んでいて疑いたくなる。壊れたわけでもないのにたびたび買い替えなければならない10万円相当の家電なんて、冷静に考えると馬鹿げているように思うのだが、どうなのだろう。世の中にはお金持ちの方がたくさんいるので、何にどれだけお金を使い満足するかは各人の自由だが、少なくとも私はこうした商法にうかうかと乗りたくはない。機種変更に食指が動かないのも、何だかメーカーの策略に乗せられているような気になるからだ。

 そんなわけで、時代の流れに逆らって使い続けている我がスマホだが、最近多少問題が生じている。アプリケーションのバージョンアップが進む中で、起動や動作がもたつくようになったのである。LINEは起動に時間が掛かるうえ、暫くしないとメッセージが届かないことがたびたびある。他の人のメッセージ受取りと30−40分ずれたりして、急ぐ連絡ならメールの方が早いケースもある。相手には「私のLINEには時差があるので、急ぎの用ならメールの方が良いかも」と断っているのだが、そのうち本格的にメッセージが来なくなったらアプリを使っている意味がなくなる。

 まぁその時が買換えの時なのかもしれないが、それは案外早く来るのかもしれない。これもメーカーが予め仕掛けた買換え時限爆弾なのだろうか。





12月28日(金) 「この一年を振り返って」




 今年もまもなく終わろうとしている。振り返ると、あっという間の1年だった。年を重ねると月日の経つのが早くなると聞くが、それを実感した1年であった。ただ、そう感じたのは少しずつ歳を取っているせいばかりではない。昨年に比べて、今年1年が平穏だったからだろう。

 思い返せば、昨年は我が身に様々なことが降りかかり、私生活もそれなりに変わった。不幸なことばかりではなかったのが幸いだが、長い人生において一つの区切りの年だった。それに比べ今年は、新しい生活環境にも慣れ、巡航速度で滞りなく1年が過ぎたように思う。格別幸運なことはなかったが、不幸なこともなかった。大過なく過ごせた1年だった。

 あとは、年の瀬の慌ただしさをやり過ごし、静かに元旦を迎えるだけである。日本人ほど神聖な気持ちで正月を迎えようとする国民はいない。1月1日は、年に12回ある月初の一日に過ぎないが、元旦だけは特別なものだ。大晦日まであとわずかだが、このまま何事もなく終わり、平穏な気分で除夜の鐘が聞けることを願っている。

 さて、この1年間、関西在住時の各地の訪問記を連載して来たが、これも年内をもって終わりとしたい。正直これで全てではなく、他にも訪問した場所は多々あるが、全てを書くのは無理だし、そんなことをしていたらいつまで経っても話が終わらない。この辺りでひと区切りを付けることにしたい。

 兵庫県が全く出て来ないじゃないかとか、熊野三山が詳しく出て来る一方で比叡山や高野山が出て来ないのはバランスを欠くのではないかというご意見もあろう。まぁ私自身も忸怩たる思いがないわけではないが、時間と掲載回数の制約ある中で選んだものだからご容赦願いたい。書き残したと後で思うことが出て来たら、単発の話として来年以降のパソコン絵画徒然草に記すことにしたい。

 いずれにせよ、来年からはまた身辺雑記などをぼちぼちと書いていくことになる。身辺雑記のみでこのパソコン絵画徒然草を構成するのは随分久しぶりのことなので、うまく続くか不安があるのだが、まぁ気楽な気持ちでのんびり行こう。今までもずっとそうやって来たのだから、何とかなるだろう。

 来年が良き年になることを願いつつ筆を置くことにしたい。皆様も良いお年を。






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