パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■双ヶ丘を訪ねて





 年も押しせまり、いよいよこの関西徒然訪問記も最終話となる。最後を締めくくるに当たり、このパソコン絵画徒然草の題名にもなっている吉田兼好(よしだけんこう)の徒然草(つれづれぐさ)ゆかりの地を紹介しようと思う。京都の西にある双ヶ丘(ならびがおか)である。

 夏の終わり頃、ここを中心に周囲の寺社などを巡る散策をしたのだが、その日のことを中心に、この地のもう一人の主人公である古代豪族の秦(はた)一族についても併せて記してみたい。

 まず向かったのは広隆寺(こうりゅうじ)である。このエリアへの行き方は幾つかあるが、いずれもすんなりとはいけない。広隆寺を目指したのは、ここから北側に上がっていくルートで進んだ方が、双ヶ丘に登るのに好都合と考えてのことである。

 広隆寺への最寄り駅は京福電鉄嵐山本線の太秦広隆寺駅(うずまさこうりゅうじえき)であるが、嵐山本線の起点が四条大宮(しじょうおおみや)と中途半端な場所にあるため、大阪から来る電車との乗換えがちょっと面倒である。この日は、阪急電車で西院駅(さいいんえき)まで行って京福嵐山本線に乗り換えることにした。西院駅は特急停車駅ではないため、桂で準急に乗り換える必要があるうえ、京福電鉄の駅は少々離れている。ただ、おそらくこのルートが最短のはずである。

 京福電車は、電車と言っても1両編成のチンチン電車で、のんびりしたスピードでガタゴトと進む。専用の線路の部分もあるが、他の自動車と混じって道路も走る。また、駅で降りようと思ったら、ブザーを押さなくてはいけない。バス並みである。かくして大阪の梅田駅を出てから太秦広隆寺駅までは1時間強と、意外に時間がかかった。

 太秦広隆寺駅は駅といってもバスの停留所に毛の生えた程度のものだから、電車を降りたら道路である。そして、目の前に広隆寺の山門がそびえている。横断歩道を渡って山門をくぐれば、広隆寺の境内となる。





 広隆寺に来た理由は二つある。一つは、この寺が聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)の一つだからである。この七大寺は、奈良にある法隆寺(ほうりゅうじ)、法起寺(ほうきじ)、中宮寺(ちゅうぐうじ)、橘寺(たちばなでら)と、大阪にある四天王寺(してんのうじ)、京都にあるこの広隆寺、そして今は廃寺となった奈良の葛木寺(かつらぎじ)である。以前奈良を散歩しながら、7つの寺のうち奈良に現存する4つは訪問し、大阪の四天王寺にも行った。従って、広隆寺に行けば今回の大阪暮らしで一応全て制覇したことになるというのが訪問の第一の理由である。そうは言っても、昔、広隆寺には来たことあるんだが…。

 もう一つの訪問の理由は、この寺が、この地域を本拠に活動していたとされる古代豪族の秦氏の氏寺だからである。広隆寺の別名が秦公寺(はたのきみでら)というのも、こうした由来によるものである。

 秦氏は、神話時代に朝鮮半島の百済から渡って来た渡来人である。遠い祖先は秦(しん)の始皇帝(しこうてい)とも称するが、事実かどうかは定かではない。養蚕・機織りの技術に秀でていたと言い、他に農耕、醸造、土木など大陸の優れた文化を持ち込んで、一目置かれていたようだ。

 秦氏の一族の居住地は関西に幾つかあるが、この周辺がかなり大きな拠点だったと伝えられる。今でも残る太秦(うずまさ)の地名は、秦氏にちなんだものである。

 広隆寺の創建は、京都に平安京が出来る以前のことであり、拝観時にもらったパンフレットによれば山城(やましろ)最古の寺院だという。山城は山代、山背の文字が当てられることもあるが、概ね現在の京都盆地を指していると見てよい。

 日本書紀によれば、聖徳太子が仏像を秦一族の長であった秦河勝(はたのかわかつ)に与え、これを祀る蜂岡寺(はちおかでら)という寺を秦河勝が建てたのが始まりだと伝えられる。ただ、蜂岡寺が本当に今の広隆寺の場所にあったかどうかは確認されておらず、別の場所に建てられていたものが、現在の地に移転したという説もあるようだ。





 広隆寺と言えば、有名な弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)があり、これが、聖徳太子が秦河勝に与えたとされる仏像だと、広隆寺のパンフレットには説明があるが、これを疑う説もある。

 広隆寺は境内の拝観は自由だが、仏像類は霊宝殿に収められ、ここに入るには入場料が必要である。仏像にあまり興味のない私だが、弥勒菩薩半跏思惟像は好きな仏像だし、広隆寺に来てこれを見ないと他に見るものがないので、珍しく拝観料を払って霊宝殿に入った。

 霊宝殿には、正面に3つの弥勒菩薩像がある。そのうち一つは単なる坐像、残り2つは半跏思惟像である。半跏思惟像は、右手を頬に軽く当てている像のことだが、宝冠を頭に載せたものが三体の真ん中にある。これがみんなが知る広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だが、通称を宝冠弥勒という。もう一体は、宝冠弥勒と同じようなポーズを取るが、小ぶりで泣いているようにも見えることから、泣き弥勒として知られている。どちらも国宝である。もう一体の坐像は重要文化財に指定されている。三体並ぶと、さすがに宝冠弥勒が群を抜いた傑作であるということが十分に理解できる。

 ところが、これらの弥勒菩薩像は広隆寺のご本尊ではない。聖徳太子からもらった仏像がそもそものご本尊だったはずだが、現在のご本尊は、なんと聖徳太子自身なのである。長い歴史のお寺ゆえか、本尊は時代と共に変わっており、創建当初は弥勒菩薩だったが、平安時代に入ると薬師如来(やくしにょらい)に本尊が変わり、最終的には聖徳太子に落ち着いたらしい。上司だった聖徳太子がご本尊というのは、お寺を建てた秦氏もビックリなのではないか。

 さすがに広隆寺、霊宝殿には国宝、重要文化財の仏像がゴロゴロしているから、仏像好きには一見の価値があるかもしれない。珍しいものとしては、広隆寺を建てた秦河勝とその夫人の像がある。

 境内は、思ったほど人もいなくて静かだった。さして広くない境内だし、アクセスも多少面倒とあって、観光客はあまり立ち寄らないのだろうか。

 さて、広隆寺を出た後は、山門前の通りを東に進む。どうもこの道は三条通らしい。暫く進むと三条通は南東方向にゆるくカーブするのだが、ここで三条通から離れて、そのまま東に延びる静かな街路を歩く。この道路沿いに、次なる目的地である木嶋神社(このしまじんじゃ)がある。





 道路の脇に鬱蒼とした森があり、古びた木の鳥居が聳えている。ここが木嶋神社の入り口である。境内は閑散としているが、よく整備されている。

 木嶋神社は通称で、境内の案内板に記された正式の名前は、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という。この長い名前をまともに知っている人はいないのではないか。更に言えば、木嶋神社という名前もあまり有名ではなく、一般に知られている俗称は蚕の社(かいこのやしろ)という奇妙なものである。最寄り駅となる京福電車の駅名も蚕ノ社駅というから、こっちの方が人口に膾炙していると思う。

 正確に言えば、木嶋神社と蚕の社は同じ敷地内にある別の神社である。木嶋神社が本殿に当たり、蚕の社は摂社という位置づけになる。蚕の社にも正式名称があって、蚕養神社(こかいじんじゃ)と言う。京都検定の公式テキストブックを見ると、養蚕神社と漢字がひっくり返って表記されているが、境内にある案内板の表記は蚕養神社であった。どちらの表記もあるのかもしれない。

 木嶋神社の創建年代は不明である。平安京が出来る以前からあって、境内の案内板では、成立は広隆寺と同時ということになっているが、これは、この神社が秦一族の氏神を祀ったという言い伝えに基づくものではなかろうか。

 祭神は、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・大国魂神(おおくにたまのかみ)・穂々出見命(ほほでみのみこと)・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)・瓊々杵命(ににぎのみこと)となっているが、このうち、瓊々杵命と穂々出見命、鵜茅葺不合命はそれぞれ親子関係にあり、最後の鵜茅葺不合命の子供が、初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)ということになる。残る二人の神のうち、主祭神とされる天御中主命は、この世が生まれた天地開闢のときに最初に現れた神の一人であり、もう一人の大国魂神は、日本の国そのものを神格化した存在である。こうして見ると、天地開闢から神武天皇までをつなぐ神様が並んで祭神になっている感が強い。

 正式の神社名にある天照御魂(あまてるみたま)というのが、このうちどの神を指しているのか不明だが、境内案内板の書き方では「御魂の総徳を感じて天照御魂と称し奉り」とあるので、5人の神を総称してこうした名前が付いているのかなという気もする。ただ、素直に読めば、天照大神(あまてらすおおみかみ)同様、太陽を神格化したものとも受け取れる。

 ところで、平安時代には、木嶋神社は雨乞いの神様として有名だったようだ。正式の神社名に現れる天照御魂が太陽を神格化したものだとしたら、何となく農業に関係のある神社とも思えて来る。言い伝えでは、秦氏が水の神とムスビの神を祀ったのが最初だとも言われている。ムスビの神はいわゆる産霊(むすび)のことで、万物を生み育てる原初の神を指しているのだろう。養蚕・機織りのほか、農耕、醸造を得意とした秦氏のことだから、氏神として農耕、醸造にまつわる神を祀るのは自然なことだったと思う。

 摂社の蚕の社こと、蚕養神社についても触れておこう。





 蚕養神社は、本殿の脇にある小さな祠である。もっとも、木嶋神社の本殿も、祠と言って差し支えない程度のものではあるが…。この神社に来て拝殿から拝むと、両方に参拝した形になる。そういう意味では、両社は一心同体の存在かもしれない。

 蚕養神社は、もちろん養蚕・機織りを得意とした秦氏と縁の深い神社である。氏神を祀るとなれば、ここに蚕に関係する社があるのは何ら不思議なことではない。境内の案内板によれば、蚕養神社には養蚕、織物、染色の神様が祀られているとある。

 よく知られていることだが、蚕は自然には存在しない昆虫である。起源は古代の中国とされ、どういうふうにして蚕が生まれたのかは分かっていない。蚕は自然に餌を見つけて取る能力がないとされ、野外に放っても野生化して増えたりはしない。また、成虫になると蛾になるのだが、飛ぶことが出来ない。人間が餌を与えて飼育しないと全滅してしまうという珍しい昆虫である。

 それゆえ、原産地の中国から誰かが生きた蚕を国内に持ち込み、飼育方法を伝授しないと、日本で絹は作れないわけである。それゆえ当時は独占しやすい技術だったのだろう。秦氏にとって、この養蚕は国内で優位に立てる貴重な分野であり、一族が栄えるための原動力の一つだったことが覗える。

 養蚕が秦氏など一部の技術者の独占だった時代が過ぎ、広く日本の農家の重要な収入源になると、この蚕養神社は絹織物に携わる者たちによって篤く信仰されるようになる。本社である木嶋神社よりも蚕の社の方が有名になり、ついには駅名にまでなったのは、それだけ戦前までの日本で養蚕が重要産業だったからであろう。

 さて、木嶋神社、蚕養神社のほかに、境内には注目に値する場所がある。本殿脇に一段窪んだ場所があり、そこは池の跡とされている。そしてその奥に奇妙な鳥居が立っているのである。





 池は、小さいものが3つつながった形をしており、元はそれぞれ満々と水をたたえていたようだ。ところが、周囲の建物の建設で水脈が切れ、現在では完全に干上がっている。

 境内の案内板によれば、元の池の名を元糺の池(もとただすのいけ)と言う。糺(ただす)と言うと、下鴨神社(しもがもじんじゃ)にある糺の森(ただすのもり)が思い浮かぶが、説明によれば、元はここにあった森を下鴨神社に移したため、ここが元の糺の森ということで、こう名付けられたと書いてある。嵯峨天皇(さがてんのう)の時代というから、平安京になってまもなくのことである。

 この元糺の池に土用の丑の日に手足を浸すと諸病にかからないという信仰があったと書いてあるが、下鴨神社の糺の森にある御手洗池でも、土用の丑の日に湧水に足を浸して健康を祈願する御手洗祭(みたらしまつり)という神事がある。偶然と言えばそれまでだが、両者は何らかの関係がありそうにも見える。

 下鴨神社は、遠い昔に奈良から移り住んで来た古代豪族の鴨(かも)一族の氏神を祀る神社である。鴨氏は加茂、賀茂など色々表記があるが、全て根は同じ奈良の葛城(かつらぎ)を支配していた豪族である。鴨氏は秦氏と古来より交流があったと伝えられている。森を移すなんてことは普通は考えられないが、両氏の交流の中で氏神同士の何らかの関係が築かれたのが、こうした言い伝えとして残っているのではなかろうか。

 ところで、この不思議な鳥居はいったい何なのだろう。説明書きによれば、三柱鳥居(みはしらとりい)と言うそうだ。三つの鳥居の中心部分には、石を組んで神座が造られ御幣が立てられている。これが本殿の祭神の神座であり、鳥居をこういう形に組むことにより、四方から拝めるという趣旨だと、境内案内板では解説してある。

 一方、これが古代に中国に伝わっていたキリスト教の影響を受けた鳥居だという説もある旨、説明書きに紹介されている。ちょっとビックリするような説だが、神社の創建が、大陸から渡って来た秦氏だったと考えれば、気になる話ではある。何故鳥居が三つなのか、それは三位一体を表しているからである。まぁよく出来た話だと思うが、キリスト教徒でもない秦氏が氏神を祀る場に異教を持ち込むなんて、ちょっと考えられない話である。

 この三柱鳥居、全国唯一の珍しい鳥居と書いてあるが、日本国内に幾つか同じような鳥居があるようだ。ただ、この木嶋神社のものが一番有名らしい。中には、この木嶋神社の三鳥居を手本に造られたものもあると聞く。

 かつては湧き水が湧く池の中心部だったのだろうから、秦氏が水の神を祀ったという言い伝えと関係しているのではなかろうか。

 今では訪ねる人もまばらな木嶋神社であるが、絹織物が日本の特産品であり重要な輸出物品であった時代には、業界関係の参拝客で栄えたものと思われる。縮緬業者の寄進した石碑が石垣に埋め込まれているのを見ると、往時の賑わいが偲ばれる。繊維産業がかつての勢いを失い、元糺の池の水が枯れた現在、神社の衰えは覆いようもないが、古代豪族秦氏の面影を偲ぶ意味でも、もう少し注目されてよい神社だと思う。

 木嶋神社を出て、その横の道を北に上がっていく。いよいよ本日のメインイベントではないが、話題の中心、双ヶ丘である。道を進むと、先の方に双ヶ丘が見えてくる。

 この双ヶ丘、標高が100m少々しかないため、現在では周囲からきれいにその姿を見ることが難しい。道の先が双ヶ丘の交差点であり、歩道橋の上から南端が見えるが、ビルと電線が邪魔してあまりに味気ない姿である。逆に、双ヶ丘の北側にあって少し山に向かって上った位置にある仁和寺(にんなじ)の境内からも撮影を試みたが、南北方向に丘が並ぶ山なので、北から見ても丘が並んでいる様子が分からない。仕方がないので、後日、嵯峨野(さがの)の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)を訪れた際に、境内から望遠レンズで撮影した写真を以下に掲げておく。左が北側となる。





 今回、双ヶ丘に登るに当たって地図を調べて、この山に丘が3つあることにようやく気付いた。双ヶ丘の名前に惑わされて、丘が2つ連なった構造だと勝手に思っていた。南北方向に丘が3つ並び、一番北が一の丘、真ん中が二の丘、一番南が三の丘と名付けられている。今回は、南方向から上がって、三の丘、二の丘、一の丘の順で回っていくことにした。この方が登山口が分かりやすかろうと思ってのことである。

 双ヶ丘交差点から山の麓を通る道路をウロウロするが、最初は入り口がよく分からない。当日、お祭りの準備で町内会の方々がテントを組み立てたりしておられたのだが、その作業している向こう側に登り口があったのである。傍らを通してもらって登山道に入る。

 コンクリートの緩い階段を上ると、山の周囲を囲むようにして延びる散策道がある。頂上に登るには、ここから上に続く階段を上がるのだが、この先は完全な土の山道である。最初は急で、一気に登ろうとすると息が切れる。所々急勾配だが、普通の人でも十分に登れる道である。

 やがて頂上らしき小高い場所に出る。これがどうやら三の丘らしい。よく見れば頂上の表示があったのかもしれないが、見つけられなかった。三の丘は山頂の一つではあるが、標高は78mしかない。登山と言えば登山だが、船岡山(ふなおかやま)よりも遥かに低い。残念ながら周りを木々に囲まれ、眺望は全く利かない。

 ここまでの登山道は概ねよく整備されているが、途中で途切れたように分かりにくくなっている個所もある。ただ、ちょっと先に行けば道の続きは見つかるため、歩くのに支障はない。残念ながら、頂上同様、道中の眺望は望めない。木立の中を土の道が続く、完全な山道である。

 三の丘を下り、二の丘に向かうところで脇道が分かれて東方向に延びている。きちんと新しい道標が付いていて、それによると脇道は「つれづれのみち」という名前である。徒然草を思い出して何となく惹かれるものがあったが、そちらに行くと下山することになるので、そのまま進む。

 この分かれ道の地点に京都市作成の案内板があり、今通って来た三の丘には「三の丘群集墳」という小規模な古墳の集積地があると説明されている。6世紀を中心としたものらしく、支配階級よりも下のクラスの墓がたくさんあるらしい。古墳だと思えるようなものはなかったが、小規模なものということで、天皇・豪族クラスの古墳をイメージしていては見つけられない規模なのだろう。吉田兼好ならずとも、古代より人気の地であったようだ。

 二の丘に向かって上がっていくところは少し開けていて、巨大な岩が剥き出しになっている。ここまでの道ではあまり気が付かなかったが、辺りを注意して眺めると、岩が多い地形らしい。あるいは、二の丘がそういう構造なのだろうか。





 ちょっとした景観だが、観光客でここに来る人はまずいないだろう。私の周りでも、双ヶ丘に行ったことのある人はいなかった。中には「そんなところに山があるんですか?!」といった驚きの反応もあった。兼好法師も徒然草も、現代では次第に忘れ去られようとしているらしい。

 暫く登って、二の丘の山頂に着く。今度は、頂上にある木の幹の上部に「二の丘山頂 標高102メートル」と書かれた木製の表示板を見つけた。三の丘もこんなふうに頂上の表示があったのかもしれないが、木々の上までしげしげと見上げなかったから気が付かなかった。

 二の丘の先は、道が急激に下っているのだが、その下り道の手前に東側に短い脇道があり、僅かながら展望が利くスポットがあった。そばには汚れて読み取りにくくなっているが、風景を解説した案内板もあった。「とおみのひろば」と書いてある。北野天満宮や五山送り火の松ヶ崎妙法の「法」が見えると解説してあるが、そう言われてみれば、あれが「法」を横から見たものかなと思える部分がかすかに見える程度だ。とおみのひろば自体が木々や雑草に浸食されているので、あまり左右に動くことが出来ない。以前はこの場所自体もっと広くて、眺望が利いたのだろう。

 そこから最後の一の丘を目指すのだが、道自体はドンドンと下っていて、本当に一の丘に行くのか心配になる。たかだか100mの山だから、このままだと麓に着いてしまうのじゃないかと思っていたら、一番下った場所に標識があり、そこからまた東西に脇道が出ている。標識には「こもれびのひろば」と「うたのぐち」と書かれている。いずれも下山する道だろう。

 標識の場所から一の丘に登って行く山道が延びていて、これが結構きつい。地図の感じからすれば、二の丘からかなり麓に近いところまで降りて、そこから一気に一の丘まで上がる構造になっているようだ。道は間違っていなかったわけで、安心する一方、またもやいちから山に登るような展開で疲れる。

 急勾配の坂道を暫く登り、何とか一の丘の山頂に着く。しかし、きつい道を登って来ただけのことはあり、ここからの眺望は素晴らしい。先ほどのとおみのひろばとは比べ物にならない。標高は116mと、ここが3つの丘の中で一番高い。

 この一の丘は、山頂の広場に、更にこんもりとした土の小山があって、ここに登ると眺望が利くのだが、傍らにある京都市の説明板では、どうもこの小山自体が古墳らしい。それも、先ほどの群集墳と違って、首長クラスの立派なものであることが発掘調査の結果分かっているようだ。ただ、6世紀後半から7世紀初頭のものと判明しているだけで、誰のものかは分かっていない。副葬品として石室から土器や装飾品も出土している。

 こうして見ると、双ヶ丘自体が古墳の集積地だが、これらの古墳が出来た頃は秦氏が活躍していた時代と重なる。広隆寺の創建は、聖徳太子が秦一族の長であった秦河勝に仏像を授け、秦河勝がこれを祀るため蜂岡寺を建てたのが始まりという話を最初の方に書いたが、聖徳太子自身が6世紀後半から7世紀初頭にかけての人である。秦氏の全盛期に、この場所にこれだけの古墳群を築いた一族が秦氏と関係ないはずはなく、おそらく秦氏の一族か、関係する人々の墓ではなかろうか。

 さて、お墓と分かると何だか申し訳ないが、景色見たさに最上部の丘の上にあがらせてもらう。ちゃんと階段がついているので、上がることは禁止されていないようだ。北正面に仁和寺の全貌が見える。これを望遠レンズで撮ったのが、冒頭の写真である。こうして見ると、双ヶ丘の北の端から仁和寺はすぐの距離である。

 あとは、西から南西方向にも眺望が利く。案内板がないので、どれがどこなのか分からないが、なかなか気持ちの良い眺めである。





 一の丘の山頂にあるものとして、もう一つ目を引くのは立派な石柱である。「右大臣贈正二位清原真人夏野公墓」と刻まれている。これは、双ヶ丘に山荘を営んでいた清原夏野(きよはらのなつの)のことである。

 清原夏野は平安初期の貴族だが、皇族の血を引いており、臣籍降下して公卿として活躍した。学識もあり有能な人だったようだ。当時の行政法規や民事法規の解釈を定めた令義解(りょうのぎげ)という文献を天皇の命で編纂する際の責任者にもなっている。

 ただ、清原夏野の山荘といっても、双ヶ丘の山の中にあったわけではない。あった場所は山の麓であり、現在は法金剛院(ほうこんごういん)というお寺になっている。また、墓所が山の上の古墳と同じ場所というのも妙な話だ。解説板も何もないので、ここに石柱が建てられた理由が分からない。何となく謎の存在である。

 平安の昔はこの周辺はかなり寂しい場所だったはずで、更に西に行けば京都の三大埋葬地の一つ化野(あだしの)がある。清原夏野もよくこんなところに別荘を設けたものだと思ってしまうが、実はこの辺りは貴族に人気の土地であり、他にも別荘が幾つかあったようだ。天皇が狩猟をする場所もこの近辺で、平安貴族にとっては遊興の地として有名だったわけである。

 さて、3つの丘を制覇して、ここからどうするかだが、北への降り口と東への降り口がある。北側に降りてそのまま仁和寺に行くというのも一つのアイデアだが、今回は東側に降りることにした。兼好法師ゆかりの長泉寺(ちょうせんじ)を見てみようと思ってのことである。

 一の丘から一旦こもれびのひろばに降りることにする。先ほどの分かれ道のところに戻らずとも、一の丘の山頂から直接広場に降りられる道があったので、それを使うことにした。ところがこれがなかなかの急坂で、降りるのが少々怖い箇所が幾つかあった。晴天で道が乾いていたから良かったものの、雨で湿っていたら、滑りそうな道である。

 こもれびのひろばで、京都市設置の詳細な地図を見て位置を確かめる。広場自体がほとんど麓に近い場所で、少し階段を降りると一般道である。

 ところで、京都市が山の中に設置している案内板を見ていて気付いたのだが、京都市では「雙ヶ岡」の漢字を使っている。先ほどたどって来た交差点の表記は双ヶ丘だったが、どちらが正しいのだろうか。気になって帰ってから調べたら、漢字自体は他にも色々使われているらしい。それだけ歴史ある場所ということだろうか。

 双ヶ丘の麓の一般道に出て南に歩く。少し行くと山側にこじんまりとしたお寺の門が見える。それが長泉寺だった。





 門前に「兼好法師舊跡」の石碑が立つが、残念ながら山門は閉じられて境内は拝観できなかった。このお寺と吉田兼好とがどういう関係にあるのか詳しく知らないが、ここに兼好法師の塚があると聞く。ただ、この塚は正式の墓なのかどうか分からない。

 吉田兼好は、双ヶ丘に庵を結んで晩年を過ごし、そこで徒然草を書いたと伝えられる。これは古典の授業で徒然草を習った方なら一度くらいは聞いたことがある話だろう。では、その庵はどこにあったのかというと、少なくともここではない。双ヶ丘の反対側に当たる西の麓だったと言われているが、正確な場所は分かっていない。

 徒然草は、執筆当初から注目されていたわけではない。兼好法師没後、かなり経ってから次第に人々に知られるようになり、一般的に有名になるのは江戸時代のことのようだ。従って、兼好法師が晩年に双ヶ丘で書いたという、よく知られる話も、確証は得られていない。中には、本当に吉田兼好が書いたのかという疑問まであるらしい。

 彼の没年も諸説あり、亡くなった場所も双ヶ丘ではなく伊賀の国という説がある。伊賀権守だった橘成忠(たちばなしげただ)に招かれて伊賀に庵を結んで没したという話である。実際、伊賀市にはその跡があるとも聞く。

 一方で、吉田兼好が、晩年に庵を結んだ双ヶ丘を愛していたのは事実で、ここに自分を葬って欲しいと生前希望していたという話も伝わる。実際に、兼好法師の墓と称するものが双ヶ丘の西の麓に古来よりあったようで、それを移したのが長泉寺の兼好塚とも言う。

 清少納言(せいしょうなごん)の枕草子(まくらのそうし)や鴨長明(かものちょうめい)の方丈記(ほうじょうき)と並ぶ古典の傑作随筆も、こうして見ると謎の多い書物だということが分かる。

 徒然草の評価にしても、人によって大きく分かれる。評論家の小林秀雄(こばやしひでお)が著書「徒然草」の中で吉田兼好をベタ褒めにして「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである」とまで言っている一方で、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は著書「侏儒の言葉」(しゅじゅのことば)の中で、徒然草をこうこき下ろしている。

 わたしは度たびこう言われている。―「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」 しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗(いまだかつて)愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

 こうして見て来ると、一見誰にも確かな存在であった徒然草の輪郭はぼやけて来るし、その曖昧な部分から様々な謎も生まれる。そして対照的に分かれる文芸界の大御所の評価も、我々一般人を大いに戸惑わせる。しかし、そこまで疑問、批判を浴びながらも、現在に至るまでその存在感が崩れないのが、この作品のすごいところかもしれない。まさに古典中の古典である。

 さて、その作者の吉田兼好だが、この人についても我々は意外と多くのことを知らない。

 まず誰もが正式の姓名だと思っている吉田兼好の名だが、本名は卜部兼好(うらべかねよし)と言う。生まれた年も亡くなった年も不明である。鎌倉末期から南北朝時代にかけての人だということが分かっている程度である。

 兼好の父は、京都の吉田神社(よしだじんじゃ)の神官であったという。左京区の京都大学のそばにある神社で、背後は吉田山(よしだやま)という小高い山になっている。その山の中腹に吉田神社がある。下が別の日に行った吉田神社の写真である。





 吉田神社は、有力貴族藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社(かすがたいしゃ)から勧請して来たもので、京都における藤原氏の氏神的存在でもあった。卜部家は、代々この吉田神社の神官を務める家柄であり、吉田兼好の名は、この神社の名前から後世に付けられた通称である。

 兼好自身は吉田神社の神職にはつかず、公卿の堀川具守(ほりかわとももり)に仕えた。やがて具守が天皇の外祖父となったため、兼好も朝廷内で出世するが、おそらく30歳頃に公職を投げうって出家したと推測される。理由は分からない。この出家により、法名として兼好(けんこう)と名乗るようになった。それゆえ、後世の人は兼好法師と呼んでいるわけである。

 その後の兼好法師の足跡は確かではない。鎌倉や大阪に住んだことがあるようだが、公職の身ではないので公式の記録は残っていない。彼の著作の記述や、僅かに残っている断片的な記録をつなぎ合わせて推測したところ、そうだろうということになっている程度である。

 こうして見て来ると、吉田兼好という人物の造形も多分に曖昧なところが多いことに気付く。何故出家したのか。その後はどう暮らしていたのか。要するに、彼の人生の軌跡は曖昧なのである。結局、晩年に双ヶ丘に隠棲した兼好法師という人物がいて、そこで徒然草という随筆を書いたと思われる。まぁ突き詰めれば、確からしいのはその程度ということか。

 ただ、だからといって徒然草という随筆の中身が変わるわけではない。我々はもしかしたら、何でも正確に深く知ろうとし過ぎているのかもしれない。鎌倉末期から南北朝時代を生きた一人の隠遁者が世の有様を見て感じたことの記録として、徒然草を素直に読めばよいのであろう。

 さて、長泉寺を後にして、道を南に下っていく。先ほど双ヶ丘の一の丘の上で清原夏野の石碑を見たので、彼が実際に住んでいたという山荘跡を見に行こうと思ってのことである。先ほど述べたように、現在は法金剛院という寺になっている。

 この日は法金剛院の中までは入らず、門前にて失礼したので、後日に訪れた際の庭園写真を下に掲げておく。門前の写真よりこの方が良かろう。紅葉の季節でも人は少なめで、しっとり落ち着いて紅葉を愛でられる。





 清原夏野については上の方で簡単に説明したが、皇族から臣籍降下して貴族となった人物で、先祖は日本書紀の編纂を指揮した舎人親王(とねりしんのう)である。清原(きよはら)と称する氏族の始まりが夏野であり、子孫には、枕草子で有名な清少納言がいる。

 夏野が双ヶ丘に山荘を持っていたのは有名だったようで、右大臣当時は双岡大臣(ならびがおかだいじん)の名でも知られていた。この山荘には、天皇も行幸したしたと伝えられる。

 法金剛院のパンフレットによれば、夏野の死後、山荘を寺に改め双丘寺(ならびがおかでら)と称した。その後、文徳天皇(もんとくてんのう)が伽藍を建て、名を天安寺(てんあんじ)に改めている。しかし、次第に寺勢は衰退したらしい。平安の末になってこの寺を再興したのが、鳥羽天皇(とばてんのう)の中宮で、待賢門院(たいけんもんいん)として知られる藤原璋子(ふじわらのしょうし)である。法金剛院の名も待賢門院が付けたものである。

 再興したというが、話は少々複雑である。藤原璋子は絶世の美女として知られている。名前の通り、藤原家の出であるが幼くして父を亡くし、時の絶対権力者である白河法皇(しらかわほうおう)に育てられた。やがて鳥羽天皇に嫁ぐが、白河法皇は院政を敷いて璋子を引き続き可愛がり、やがて璋子が後の崇徳天皇(すとくてんのう)を生んだ際も、白河法皇との子供と噂されるようになる。そんなこともあって鳥羽天皇との夫婦関係は冷え込み、白河法皇崩御後に院政を敷いた鳥羽院は、美福門院(びふくもんいん)として知られる藤原得子(ふじわらのなりこ)を寵愛するようになる。

 かくして後ろ盾を失い夫からも疎んじられた藤原璋子は朝廷に居場所がなくなり、出家せざるを得なくなる。こうして璋子は再興した法金剛院で仏門に入るのである。ただ、その後の璋子の人生ははかなく、わずか3年後に亡くなっている。この時には、疎遠になった鳥羽院も駆けつけ悲しんだという。

 法金剛院は花の寺として名高く、とりわけ蓮が見事だと聞く。元をたどれば、清原夏野が山荘に珍しい花を数々植えていたためらしい。この法金剛院の斜め前にJR花園駅(はなぞのえき)があり、この一帯の地名を花園(はなぞの)と呼ぶが、名前の起こりは、夏野が山荘に花々を植えていたことから来ているとも聞く。

 その四季折々の美しい景観を愛し、待賢門院藤原璋子ゆかりのこの寺を訪ねた僧がいる。かつて鳥羽院の北面武士(ほくめんのぶし)として朝廷に仕えながら若くして出家した西行(さいぎょう)である。西行は、北面武士時代から待賢門院のことを深く慕っていたという説もあるが、真相は定かではない。

 紅葉見て 君が袂(たもと)やしぐるらむ 昔の秋の色をしたいて (西行)

 さて、法金剛院を門前にて失礼し、丸太町通を東に進む。JR花園駅前を越えて暫く歩くと、左手に妙心寺(みょうしんじ)の参道が延びる。この後、先ほど双ヶ丘の一の丘から見た仁和寺に行こうと考えたが、普通の道を歩くのも味気ないので、申し訳ないが妙心寺の境内を通らせてもらおうと考えてのことである。





 妙心寺の境内はとにかく広い。散策がてら境内を歩いて北総門まで抜け、その後北西方向に延びる道をたどって仁和寺まで行くことにする。

 ところが行ってみると、南総門に工事中の柵が並んでいて、誘導されて門の脇から入ることになった。どうやら境内は水道工事中で、誘導の人の指示に従って、放生池脇の狭い通路を歩くことに…。これは運の悪い日に来てしまったものだと思ったが、工事の影響は仏殿の辺りまでだったので助かった。いずれにせよ、一般道を歩くよりは心地よい。

 妙心寺境内が広いのは、たくさんの塔頭が並んでいるからだ。その数は40を超えると言われている。以前に訪れた大徳寺(だいとくじ)もたくさんの塔頭を抱えて広い境内を持っていたが、お寺の構成としては似ているところがある。それもそのはず、妙心寺と大徳寺との関係はかなり深いのである。

 妙心寺の前身は、花園天皇(はなぞのてんのう)がこの地に造営した離宮の萩原殿(はぎわらどの)である。地名から花園御所(はなぞのごしょ)とも呼ばれた。花園天皇は鎌倉時代の人だが、禅宗に熱心で、大燈国師(だいとうこくし)として知られる臨済宗(りんざいしゅう)の高僧宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)を師とした。なお、花園天皇の名前は、遺言により花園の地名から付けられたものである。

 宗峰妙超は、元は天台宗(てんだいしゅう)の僧だったが途中で禅宗に移り、京都の紫野(むらさきの)に小堂を開いた。これが大徳寺の始まりである。出身が播磨だったこともあり、播磨の守護を務めた赤松家の庇護を受ける。やがて花園天皇が宗峰妙超に帰依し、大徳寺を祈願所と定めた。

 花園天皇は上皇から法皇となり、自らの離宮である萩原殿を禅寺にしようとするが、宗峰妙超は病に伏せる。花園法皇は宗峰妙超に後任の推挙を求めたところ、関山慧玄(かんざんえげん)を指名される。そして、寺の名を正法山妙心寺と名付けて間もなく、宗峰妙超は亡くなる。跡を継いだ関山慧玄によって妙心寺は開山されるのだが、その後、第6代の住持だった拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が足利将軍家と対立したため、一旦妙心寺は途絶えてしまうのである。

 妙心寺が復興するのは30年近く後のことで、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)という僧が招かれて再興が始まる。ところが、暫くして応仁の乱(おうにんのらん)が起きて伽藍は焼失。戦いが終わった後に、妙心寺住持だった義天玄承(ぎてんげんしょう)が開いた龍安寺(りょうあんじ)より雪江宗深(せっこうそうしん)が来て、再度復興に尽力した。ちなみに、大徳寺と妙心寺の関係が深いのと同じく、妙心寺と龍安寺の縁も深い。

 先ほど、妙心寺の塔頭が40を超えていると書いたが、妙心寺を再度復興させた雪江宗深の弟子4人が、それぞれ龍泉派(りょうせんは)、東海派(とうかいは)、霊雲派(れいうんは)、聖沢派(しょうたくは)を作って、各々の禅風を確立したことが大きいのではなかろうか。40以上の塔頭といっても、大徳寺同様、公開しているのはわずかであり、そのせいか観光客の姿もそれ程多くはない。そんな塔頭群の中を通る静かな道をのんびりと歩いた。

 妙心寺で有名なものとしては法堂天井に描かれた雲龍図と明智風呂(あけちぶろ)がある。

 雲龍図は、江戸時代に狩野派の巨匠として名を馳せた狩野探幽(かのうたんゆう)が、構想と制作を合わせると10年以上という長い歳月をかけて完成させたもので、別名を八方睨みの龍という。守護のために法堂の天井に龍を描いている寺は多いが、妙心寺の雲龍図は最大規模を誇ると言われている。

 様々な動物を手本に躍動感あふれる龍の姿を迫力ある筆致で描いており、見る角度によって龍の表情や動きが変わる。一番面白いのは、その目を描くのに参考にしたのが、やさしい動物である牛だということだろうか。





 一方、明智風呂の方は何かというと、妙心寺の浴室である。この日は、水道工事中のために明智風呂に近寄れなかったため、上の写真は後日訪れた際に撮影したものである。

 明智風呂の明智とは、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀(あけちみつひで)のことである。本能寺の変の後に光秀は、妙心寺塔頭の一つにいた叔父の密宗和尚(みつそうおしょう)に会いに来たという言い伝えがある。

 その後のことはよく知られている通りで、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と天王山で戦って敗れ、敗退途中に落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて明智光秀は亡くなる。その後、光秀追悼のために密宗和尚が建てたのが、この浴室だと伝えられる。

 後日訪問したおり、明智風呂の中に入ってお寺の説明を聞いたが、今のお風呂と違って蒸し風呂である。しかも、妙心寺の僧侶はそこにこもってお経を唱えたというから、風呂に入る時も修行ということだろうか。とは言っても、室内はあまり風呂らしくない。何の説明もなくここに入ったら、何のための場所か分からないだろう。

 妙心寺内で他に興味を惹かれるものとしては、日本最古の梵鐘がある。音色が美しいため、黄鐘調の鐘(おうじきちょうのかね)と呼ばれているが、この鐘は、福岡の大宰府近くにある観世音寺(かんぜおんじ)にある鐘と、同じ鋳型から造られた兄弟鐘である。私は観世音寺の鐘も間近でしげしげと見たことがある。

 観世音寺は、大化の改新(たいかのかいしん)で有名な天智天皇(てんちてんのう)が建てた古い寺で、1200年以上の歴史を持つ。鐘の鋳造は、銘文によれば西暦698年なので、観世音寺との関係ではさして違和感はない。しかし、妙心寺は1342年の開山である。どうして650年前の鐘がここにあるのか。しかも、片方は九州にあるのである。

 言い伝えでは、この黄鐘調の鐘は、廃寺になった寺の鐘を妙心寺が買い受けたものらしい。この鐘は、吉田兼好の徒然草でも音色の美しい鐘として紹介されているが、その頃には浄金剛院という別の寺の鐘として登場している。しかし、九州にあった鐘がどういう経緯で京都まで伝わったのか。また、他の寺の鐘を買って鐘楼に釣ったりするものなのだろうか。どうも不思議な謂れの梵鐘である。

 この黄鐘調の鐘も後日妙心寺を訪れた際に見せてもらったのだが、今では損傷がひどくて鐘楼から外され法堂に安置されている。従って、もう撞かれることはないのだが、その場で現役時代に撞かれた時の音をCDで聞かせてくれる。NHKが大晦日に放送する「ゆく年くる年」で、昔、除夜の鐘として鳴り響いていたのは、この鐘のようだ。現在、妙心寺の鐘楼に吊るされているのは、精巧なレプリカの鐘らしいが、こちらもいい音がするとお寺の案内の方が自慢しておられた。

 こうして書いていくと、色々見どころはあるが、この日はどこも拝観せずに一直線に妙心寺を抜けた。

 先ほど妙心寺は大徳寺と関係が深いと書いたが、元々の妙心寺の位置付けは、大徳寺の末寺的な扱いだった。妙心寺の僧となるためにはまず大徳寺の僧となることが必要という決まりになっていたが、応仁の乱の後に妙心寺が再興する中で、大徳寺との上下関係を排して独立した。現在では臨済宗妙心寺派の大本山である。

 ただ、両寺には浅からぬ縁がその後も続き、江戸時代初期に起きた有名な紫衣事件(しえじけん)では、大徳寺と妙心寺は連携して幕府に抗議文を送っている。

 朝廷は従来より、高僧らに紫衣を贈ったり、上人の号を授けたりしていたが、幕府は勝手に朝廷がそうしたことを行うのを禁じ、幕府に諮るよう定めた。これに対して時の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は反発し、幕府の指示には従わずに紫衣の着用を許した。怒った幕府側はこれを無効としたが、朝廷のみならず寺院側からも反発が起き、大徳寺や妙心寺の僧侶たちが抗議文を出した。これが紫衣事件である。

 幕府は抗議文に名を連ねた大徳寺や妙心寺の僧侶を流罪にするが、2代将軍だった徳川秀忠(とくがわひでただ)の死と共に恩赦となり、紫衣を無効とした幕府の判断は取り下げられ、この騒動は終息する。

 今では平和に見える京都の寺院にも、それなりの苦難と闘争の歴史があるのである。

 さて、妙心寺を出て仁和寺に向かうことにする。北総門を出たところにある道を西北方向に進むと、京福電車北野線の踏切があり、その脇に妙心寺駅がある。この次の駅が仁和寺の山門前にある御室仁和寺駅なのだが、わざわざ電車に乗る距離でもないため、そのまま歩いて仁和寺へ向かう。妙心寺北総門から仁和寺山門までは数百メートルで、歩いて10分かからないのである。





 仁和寺に立ち寄ったのは、双ヶ丘に登った時にたまたま正面に見えたからではない。この寺が、吉田兼好の徒然草に幾度か登場するゆかりの寺だからである。一番有名な話は、古典の教科書にも取り上げられている第52段の「仁和寺にある法師」だろう。

 これは、仁和寺の法師が石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)へ参拝に行く話である。石清水八幡宮は、現在の京都府八幡市(やわたし)にある男山(おとこやま)の山上にある。ただ、大きな神社なので山麓にまで社殿が広がっており、そこに大きな落とし穴があったのである。

 仁和寺の法師は、死ぬ前に是非とも石清水八幡宮に参拝したいという願いを持っており、ある時一人で歩いて石清水八幡宮まで出掛ける。そして、山麓に広がる関連の社殿にだけお参りをして、そのまま仁和寺まで帰って来てしまうのである。

 その後、その話を人に語り、聞いていた以上に立派な社殿だったが、不思議なことに参拝に来た人はみんな山に登る。山上に何があるのか興味はあったが、ここまで来たのは石清水八幡宮に参るためで、余計なことはするべきではないと思い、山には登らずに帰って来たと話したというのである。話を聞いた人はビックリしたことであろう。まぁ何事も事情をよく知っている人に訊いておくべきであるという教訓話になっている。

 他に私が昔読んだ話で、こんなこと本当にあったんだろうかという話が徒然草に収められている。

 仁和寺の法師たちがお祝いの酒宴を開いた際、ある法師がふざけて鼎(かなえ)という脚付の釜を頭からかぶって踊ったらたいそう受けた。しかし、いざ鼎を取ろうとすると鼻や耳が引っ掛かって抜けない。割ろうとしても割れないばかりか、音が響いて本人は苦しがる。仕方ないので医者のところに連れていくが、匙を投げられる。ついには家族が駆けつけて、法師の枕元で泣く始末。最後は、鼻や耳がちぎれようとも鼎さえ取れれば生きていけるという話になり、みんなで力任せに鼎を引っ張ったら、本当に鼻と耳がちぎれてしまったという落ちである。

 他に出て来る仁和寺の話も情けない話で、いったいこの寺、どんな寺なんだといぶかるようなエピソードの連続に、いささかあきれる人も多いのではないか。しかし、実際には立派なお寺である。いや、そこにいる法師が立派かどうかは別にして…。

 仁和寺は、平安時代に光孝天皇(こうこうてんのう)が親王時代の住居近くに勅願寺を建てようとしたことに始まる。しかし、完成を見ずに崩御してしまい、息子の宇多天皇(うだてんのう)が建設を引き継いで完成させる。完成は仁和4年(888年)とされ、年号を取って仁和寺と命名された。

 宇多天皇はやがて出家して仁和寺に入り、境内に住まいとなる僧房を建てる。これは御室(おむろ)または御室御所(おむろごしょ)と呼ばれ、この辺りの地名となるのである。ただ残念ながら、宇多天皇が父光孝天皇の遺志を継いで建てた仁和寺と自らの住まいであった御室は、応仁の乱により焼失してしまう。再興されたのは江戸時代で、御所建替えの際には、古い御所の建物が移築されている。

 上の写真は金堂だが、これは古い御所の紫宸殿(ししんでん)をそのまま移築したもので、国宝に指定されている。また、宇多法皇が住んでいた御室の跡地にも清涼殿(せいりょうでん)や常御殿(おつねごてん)が移築されたようだが、残念ながらその後の火災により一部が焼失している。現在は御所風に建物が再建されていて、御殿(ごてん)と呼ばれるこのエリアだけ、入るのに拝観料が必要である。





 この日は御殿のエリアに入らなかったので、上の写真は後日訪れた際の御殿内の写真である。室内も含めて写真撮影自由という気前の良さだった。

 他のエリアは自由に参観出来るのだが、桜の季節だけは中門より中へ入るのに拝観料が必要になる。それは仁和寺が御室桜(おむろざくら)で名高い桜の名所だからである。

 御室桜は昔から洛中屈指の桜と称されるが、それは背が低く花が人の目線で楽しめるからだと言われている。これは、桜の品種が特別なわけではなく、仁和寺の地盤が固いために桜が深く根を張れず、成長しても背が伸びないことが原因らしい。

 桜の本数は約200本と傍らの説明板にあるが、八重桜で遅咲きである。これが、中門を抜けた左手に桜園のように集めて植えられており、満開になるとそれは見事である。見学する人は、桜が密集して植わっているエリア内の遊歩道を歩いて鑑賞するのだが、桜がギッシリ咲く中を大勢の人が写真を撮りながらノロノロ歩くので、一通り見るのに結構時間がかかる。

 仁和寺の桜は遅くまで楽しめるので有名である。他の桜の名所から1週間ほどしたところで見頃を迎えるという感じだろうか。従って、うまく休日のサイクルが合えば、どこかの桜の名所で満開の桜を楽しんだ翌週末に、仁和寺の御室桜を楽しめることになり、2度満開の下で花見が出来る。京都では桜の季節の最後を飾るのが仁和寺の御室桜であるが、仁和寺が終わっても、まだ吉野山の山桜は咲いている。関西の花見は優雅でいい。

 下に、別の機会に行った満開時の御室桜の写真を掲げておく。見て分かる通りに、背が低くて根元から大きく幹が分かれて、横に広がるような感じで枝が延びる。これが御室桜の特徴のようだ。





 さて、仁和寺を完成させた宇多天皇だが、当時権勢を誇っていた藤原氏と対立したことでも有名である。藤原氏の長は関白(かんぱく)の藤原基経(ふじわらのもとつね)で、この人は陽成天皇(ようぜいてんのう)を退位に追い込み、宇多天皇の父光孝天皇を皇位に就けた朝廷一の実力者であった。宇多天皇は父の代に続き関白を務めるよう要請するが、その要請文がなっていないと基経がいちゃもんをつけ、自宅にこもってストライキに入ったのである。これを阿衡事件(あこうじけん)と呼んでいる。

 宇多天皇が困り果てていたところを救ったのが、讃岐守だった菅原道真(すがわらのみちざね)である。道真が書いた意見書により、藤原基経は矛を収める。これを恩義に感じた宇多天皇が道真を重用し、彼の出世が始まる。藤原氏の権力の強さに辟易した宇多天皇が、藤原氏牽制の意味も込めて道真を出世させたものだから、藤原氏と道真との対立は必至だったわけである。

 道真が大宰府に左遷されるのは、宇多天皇が皇位を退いて出家した後のことで、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代である。昌泰の変(しょうたいのへん)と呼ばれるこの左遷事件は、藤原氏が仕組んだ陰謀によるものだと言われている。

 東寺(とうじ)で受戒を授けられて法皇となっていた宇多は、菅原道真左遷の報を聞き、慌てて内裏に駆けつけ、息子の醍醐天皇を説得しようとする。しかし、内裏の門前で陰謀の首謀者の一人である藤原菅根(ふじわらのすがね)に天皇への面会を阻止されてしまう。かくして道真の大宰府左遷は確定するが、道真の死後、陰謀に加わった藤原氏の関係者や醍醐天皇は数年のうちに亡くなる。有名な菅原道真の祟りである。

 宇多法皇は、藤原氏一強体制が如何に問題かを阿衡事件で分かっていたから、道真左遷が何をもたらすのか醍醐天皇に分からせたかったのだろう。それにしても、もう少し日頃から宮中の動きに目を向けて醍醐天皇と意思疎通を図っていればこんな事態にはならなかったはずだが、如何せん、退位後の宇多法皇は仏教に目が向き過ぎていたのかもしれない。

 さて、せっかくなので、この時のものではないが、御室桜越しの仁和寺五重塔の写真を下に掲げておこう。こういう写真が撮れるのはひとえに御室桜の背が低いからである。そして、花見に来た人はみんな桜の上に浮かぶ五重塔の写真を撮ろうとして、ベストポジションを探しウロウロする。これが見学路の渋滞につながるのだが、足踏み中も満開の桜に囲まれているので、前に進まなくともさして苦にならないのが幸いである。





 仁和寺は勅願寺であり、開山は仁和寺を完成させた宇多天皇本人である。出家後は、仁和寺の住職である門跡(もんぜき)となり、天皇在位者として初めて熊野詣(くまのもうで)を行っている。歴代天皇が皇位を退いて後、上皇・法皇として熊野詣に行くようになったのは、宇多天皇以降のことである。また、東寺や比叡山延暦寺で、密教の正統な継承者となるための灌頂(かんじょう)を受けている。皇族が出家して仏門に入ることは珍しくはないが、ここまで本格的に仏教に傾注する例は当時では稀である。

 宇多天皇以降も代々皇族が住職を務めるようになり、仁和寺は最初の門跡寺院となった。これは明治期の第30世伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)まで続いた。

 紫式部(むらさきしきぶ)の書いた源氏物語(げんじものがたり)の中で、光源氏(ひかるげんじ)の異母兄である朱雀帝(すざくてい)が若くして冷泉帝(れいぜいてい)に皇位を譲り、母が亡くなった後に出家をする。この出家のために建てられたのが「西山なる御寺」と書かれているが、これは仁和寺をモデルにしたものと伝えられる。宇多天皇が御室を建てて仁和寺に入った話と似ており、それだけ門跡寺院というのが注目されていたのだろう。

 この日は晴れて暑かったが、仁和寺境内は山の麓のせいか涼しい風が吹いて心地良かった。金堂東の五重塔の辺りをゆっくり散策しながら涼を取り、暫し休憩した。

 さて、ここで本日は終わりにして帰ってもよかったのだが、まだ時間があったので、ここから歩いて10分程度のところにある龍安寺に寄ってから帰ることにする。

 仁和寺の前の道を東に1km弱進めば龍安寺である。この道はきぬかけの路(みち)と呼ばれており、金閣寺、龍安寺、仁和寺の3つの世界遺産を結ぶ、全長2.5kmほどのゴールデンルートとして、必ずどの観光ガイドブックにも登場する。

 このきぬかけの路は、昔からあった名前ではなく平成に入ってから名付けられたようだが、名前の由来は、これまた宇多天皇が関係する。

 龍安寺は山の裾野にあるが、北東方向が衣笠山(きぬがさやま)である。宇多天皇は法皇時代に、夏に雪景色が見たいと言い出して、この衣笠山に絹をかけて雪に見立てて楽しんだという伝承がある。このため、衣笠山を別名絹掛山(きぬかけやま)というそうで、そこから道の名前が取られたと聞く。

 ただ、こんなことが本当にあったのだろうかと疑問が湧く。衣笠山は200m程の低山だが、雪山に見立てるくらいに絹を敷くためには、相当量の絹布が必要である。実際にそんなことが行われたのだろうか。

 ところで、そんな風雅な名前の付いた道路だが、散策するにはあまり適していない。龍安寺周辺は山の裾野を通るから雰囲気は悪くないし、歩道もきちんと整備されている。しかし、とにかく交通量が多いのである。横を車がひっきりなしに通る。お蔭で歩いていても落ち着かない道である。

 そんな道をほどなく歩いて龍安寺に至る。さすがに京都屈指の観光スポット、人が多い。





 龍安寺と言えば石庭ということになっており、他にはほとんど知られていない。

 普通は、門から入って、鏡容池(きょうようち)という広大な池の周りを通って庫裏(くり)への階段がある場所へ行く。両側に龍安寺垣(りょうあんじがき)がある紅葉の名所として名高い石段をのぼって庫裡へ行き、そこで靴を脱いで方丈(ほうじょう)へ上がり、縁側から石庭を見る。その後、方丈の周りを回って、水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに)の寄進と伝えられる蹲踞(つくばい)のレプリカを見て、また庫裏から外に出る。あとは、鏡容池の残り半分を回って拝観終了というのが、一般的なコースだろう。まさに石庭を見るためだけの拝観である。

 ところでこの石庭、創建当初からあったわけではない。元々ここは、藤原家の流れを汲む公卿の徳大寺実能(とくだいじさねよし)の山荘であった。徳大寺実能は左大臣まで昇りつめた後に出家し、この山荘で亡くなった。若い頃徳大寺家に仕えていた西行(さいぎょう)とも親しかったと言われている。その山荘を譲り受けたのが、室町時代の守護大名細川勝元(ほそかわかつもと)である。

 細川勝元は山荘を禅寺にすることにし、妙心寺や大徳寺の住持を務めた高僧である義天玄承を招く。こうして開山したのが龍安寺だが、細川勝元自身も関わった応仁の乱で、伽藍は焼失してしまう。その後、勝元の子である細川政元(ほそかわまさもと)と、義天玄承の弟子である特芳禅傑(どくほうぜんけつ)により再興される。そんな経緯から龍安寺は妙心寺と関係が深く、現在も臨済宗妙心寺派に属している。

 さて、石庭である。これは龍安寺再興後に造られたと伝えられるが、誰が作庭したのかは不明である。また、15の石を組み合わせた意図も、諸説あるが本当のところは分かっていない。よく言われるが、石庭にある15の石を全て見られる場所がないという話もある。大小の石が組み合わさっているため、角度によって小さな石が大きな石の陰に隠れ、全てを一度に見られない。これも意識してのことという説があるが、本当のところは分からない。世界的に有名な石庭だが、その実態は謎だらけなのである。

 石庭が見える方丈の縁側はいつも人が多い。みんな思い思いに座って石庭を眺めている。外人観光客が多いのも昔からで、とりわけ欧米系の人に人気が高いように思う。禅というものを感じられる場所として有名なのだろう。

 禅の世界では、悟りは文字や言葉では伝えられないという考えが根底にある。これを不立文字(ふりゅうもんじ)と言っている。悟りは経験の中で得られるものであり、知識としては伝えられない。それゆえ、師から知識として授かるのではなく、自ら座禅を行い各人が悟りを求めるしかない。石庭というのは、解釈や理屈ではなく、その悟りに至るきっかけを、見た目の直感で伝えようとしているのかもしれない。禅の世界では、師と弟子は以心伝心だそうである。

 私は悟りとは無縁な俗物なので、石庭の見える方丈の縁側に座って暫し涼んだ。先ほどの仁和寺境内と同じく、いい風が吹く。このまま横になって昼寝をすれば気持ち良さそうだが、さすがに怒られそうだ。

 結構長居をした後、立ち上がって方丈の周りを一周する。石庭とは反対側に徳川光圀の蹲踞がある。本物は、非公開の茶室蔵六庵(ぞろくあん)の路地にあり、ここに置いてあるのは精巧なレプリカである。「吾唯足知(われただたるをしる)」の4文字をあしらった銭形の蹲踞は、おそらくたいていの人が写真で見たことがあるはずだ。足ることを知る者は、貧しくとも富める者だという教えを表したものである。

 その先の角を回ったところに侘助椿(わびすけつばき)の古木がある。桃山時代に朝鮮半島から持ち帰られたもので、龍安寺の侘助は日本最古とも伝えられる。

 ところで、龍安寺を拝観した人なら、どこでも仏像に出会わなかったことを思い出すに違いない。パンフレットの境内図では、仏殿はあるが公開はしていない。また、どういう仏像が祀られているのか、一切説明がない。京都検定のテキストブックを読むと、本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)ということになっているが、実物を見たことのある人はほとんどいないのではないか。

 禅宗においては仏像を拝むことは重要ではなく、座禅を組んだり公案を解いたりして悟りの境地に達することこそが修行の中心なので、仏像はさほど重視されていないのだと思う。

 鏡容池をゆっくり散策した後、龍安寺前からバスに乗って京都駅に向かった。この日歩いた距離は1万6000歩強で12km程度となる。少な目かなと思ったが、双ヶ丘にも登ったし、まずまずの運動量だったのではないか。石庭に只管打坐しても悟りは全く開けなかったが…。







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