パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■醍醐山に登る





 今回は、京都の醍醐山(だいごさん)に登った時の話である。登ったのは、ちょうど体育の日だった。運動を兼ねてのレクレーションというわけである。

 醍醐山は、醍醐寺(だいごじ)の背後にそびえる標高454mの山だが、これもまた醍醐寺の境内である。と言うより、元の醍醐寺があった発祥の地ということになる。

 今から約1200年前の平安時代に、二体の観音菩薩像が祀られた堂宇がこの山に建てられた。それが醍醐寺の始まりと伝えられる。やがて醍醐山は、真言密教の修行者が厳しい修行を行う霊場となるが、その後、醍醐天皇(だいごてんのう)が自らの祈願寺と定めてから、本格的に伽藍が整備されるようになる。一般に知られている麓の醍醐寺の伽藍も、醍醐天皇により整備されたものである。

 現在は、醍醐山とその山頂にある醍醐寺の伽藍を上醍醐(かみだいご)と呼び、醍醐山の麓にあって一般に醍醐寺として知られている伽藍を下醍醐(しもだいご)と呼んでいる。本日はまず、醍醐寺発祥の地にして真言密教の修行霊場だった上醍醐を訪ねた話を書き、その後、麓の下醍醐について紹介しようと思う。

 その醍醐寺だが、京都の市街地からは離れた場所にある。山科(やましな)から南に下りて行ったエリアで、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の山の裏側辺りといった感じである。

 私が大学生の頃はかなり交通の便の悪い場所だったが、その後市営地下鉄の東西線が開通すると、醍醐寺の近くに駅が出来て、鉄道によるアクセスが可能になった。それまでは、公共交通機関というとバスに乗って行くしかなかったのである。

 現在、醍醐寺への最寄り駅は地下鉄の醍醐駅となるが、大阪からここへ行くには、京阪電車の宇治線に乗って六地蔵駅で降り、徒歩で地下鉄の六地蔵駅まで歩いて乗り換える方法と、JRで京都駅を通り過ぎて山科駅まで行き、そこで地下鉄に乗り換える方法と、二つある。距離的には六地蔵駅経由の方が近いが、乗換えの手間を考えると山科駅経由に軍配が上がる。この日は乗換えの便を優先し、山科駅経由で行くことにして大阪を出発した。

 JR大阪駅からJR山科駅まで新快速で35分、その後市営地下鉄の山科駅から醍醐駅までが7分、そして醍醐駅から醍醐寺まで徒歩で10分程度ということで、昔に比べると随分便利になった。醍醐寺に着くと、俗に仁王門(におうもん)と呼ばれる朱塗りの西大門(さいだいもん)が迎えてくれる。





 現地に行ってみて分かったのだが、醍醐寺全体で料金が必要なエリアは4つあり、下醍醐の伽藍、三宝院(さんぼういん)、霊宝館(れいほうかん)、そして上醍醐の入山料である。下醍醐の3つのエリアの拝観料はセット割引があったりするので、窓口で「全部回りたいのだが、どうチケットを買えばいいのか」と訊いたら、「全部回るのは時間的に無理なのではないか」と言われて驚く。その時点で午前11時15分だったのだが、どうしてそういう話になるのか。

 窓口の人が言うには、上醍醐は行って戻るのに3時間はかかるだろうから、下醍醐をゆっくり見ていると時間が足りなくなるとのことだった。本当かといぶかったが、とにかく早め々々に動くことにする。

 実際の見学の順序は、下醍醐の伽藍を一通り見た後、上醍醐に登り、下りて来てから三宝院と霊宝館を見たのだが、分かりやすいように、話を上醍醐と下醍醐に分けて書くことにする。

 さて、まずは本日の主目的である上醍醐訪問からである。

 醍醐山に登る登山口は、下醍醐の一番奥にある成身院(じょうしんいん)から延びている。この建物は別名を女人堂(にょにんどう)と言うが、それは元々醍醐山が女人禁制の場所であり、女性はここから上醍醐の仏を拝んだからだと伝えられている。

 女人堂は下醍醐の伽藍の一つなのだが、拝観料が必要なエリアには入っていない。従って、下醍醐の拝観料を一切払わずに上醍醐だけ訪れるということも出来る。逆に、拝観料を払って一旦下醍醐の伽藍を見始めると、上醍醐に行くのに有料エリアを出なければならず、再入場は出来ない。この辺りの選択をどうするかは、人それぞれだろうし、時間にもよるだろう。

 女人堂で入山料を払った際に窓口の人が言うには、上りに1時間、拝観20分、下りるのに40分かかるとのことだった。合計2時間になるわけで、さっきの窓口の人が言った3時間と違うじゃないかと思ったが、実際に登った感じで言うと、2時間で収まれば上出来ではなかろうか。登るのに何度も休憩を取ったり、上でのんびり見学したりしていると、2時間は超えるような気がする。

 400m級の山に登るのに入山料600円が高いか安いか議論はあろうが、上醍醐の伽藍の拝観料と思えば、さして高いわけではない。

 さて、いよいよ醍醐山登山の始まりである。登り口には無料の杖の貸し出しがある。登ってみて実感したが、山登りに慣れない人なら、あった方がいいかもというくらいキツい道であることは確かだ。私は使わなかったが、登るのに杖を持っている人はそれなりにいた。





 登山道は醍醐寺が整備しているので問題はない。私が登り始めた時にも、道の整備をしている醍醐寺の人がいた。

 登り始めてまもなく、下山して来た人に挨拶したら、これが外人さんだった。こんなところにも来ているのかと驚く。下醍醐なら分かるが、上醍醐にまで登るとは、京都って、外国人からよくよく研究されているんだなと感心した。

 最初は石段と土の登り道が一本調子で続く。ここを速いペースで一気に登るとかなり苦しい。また、最初で頑張ると、後のキツい登りでへばることになる。ゆっくり休みながら登るのが吉である。女人堂の人が言うように、焦らず1時間くらいかけて登るのが、疲れないコツだと思った。

 暫く登った後はゆるい山道となる。その平坦な道の終点に上醍醐不動の滝があり、ここには屋根付きの休憩所もある。後で気付いたのだが、この休憩エリアは、ここから延々と続く石段と土の傾斜路でへばらないよう、充分休息を取ってもらうためのものだろう。この先は、一本調子で登るわけにはいかないキツい道である。

 醍醐山に登る人なんてさしていないだろうと思っていたが、来てみるとそんなことはなく、しょっちゅう人に行き会う。また、自分の前後にも、見える範囲に頂上を目指す人が何組もいる。結構人気のあるコースなんだと実感した。ただ、高齢者の方もいて、登るペースはまちまちである。

 私は時々立ち止まって写真を撮ったり、塩キャンディーをなめたりしながら進んだ。さすがに10月ともなると、吹く風が涼しく汗をかいた身体に心地良い。

 女人堂の窓口の人から、「山頂に湧いている醍醐水(だいごすい)がおいしいので是非飲んで下さい」と言われたので、山頂まで、持参したお茶を飲むのを我慢しようと考えていたのだが、キツい登りの連続に、たまらず水分補給する。季節にもよろうが、お茶なしで登るのはちょっと難しかろう。途中でへばって、下りて来る人にあとどれくらいあるのかと尋ねる人も見掛けたが、その気持ち分かる気がした。

 もう一点言えば、山頂にはトイレがあるが、山道の途中にはない。あまりガブガブお茶を飲み過ぎるのも考え物だ。

 不動の滝からの長い登り道を上り切ると、道は平坦になる。その後、下り道となり、林の中を下りていく。こんな中に本当に伽藍があるのかと不安になる。そうこうしているうちに、社務所に続く小さな山門が見え、上醍醐の伽藍が姿を表した。冒頭に掲げた写真が、まさに上醍醐の入り口辺りの光景である。

 何はともあれ、女人堂の窓口の人から勧められた醍醐水を飲むため、階段を上がって水の湧く社殿を訪れる。





 社殿の前に蛇口があり、飲用にコップが幾つか置かれている。その一つを取って水を受け、一気に飲む。くせのない味で、うまい。登って来た疲れが溶けていくようだ。まさに醍醐味というヤツである。

 この醍醐水こそが、まさに醍醐寺の発祥と深い関係にあるのである。

 醍醐寺の始まりは醍醐山に観音菩薩を祀ったことにあると冒頭に書いたが、これを行ったのは、真言宗(しんごんしゅう)の僧、聖宝(しょうぼう)である。

 聖宝は皇族の血を引いており、当時の宇多天皇(うだてんのう)の信認も篤かったと言われている。東寺(とうじ)の最高責任者も務めた真言密教の最高権威だが、修験道(しゅげんどう)の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)こと役小角(えんのおづぬ)を師と仰ぎ、奈良の吉野山(よしのやま)で山岳修行も行った修験道の権威でもある。

 上醍醐に掲げられている醍醐山の略史を読むと、仏法の霊地を求めて聖宝が祈願したところ、この山に五色の瑞雲がかかったために登って来たという。その際、山中で白髪の老人に会う。老人はその場で水を飲んで「醍醐味なるかな」とつぶやく。この白髪の老人は山の神の化身だったらしい。老人は身分を明かしたうえで、聖宝に山を与えると告げて消える。老人のいた跡にはこんこんと水が湧いていて、老人のつぶやきにちなんで醍醐水と呼ばれるようになり、山の名前も醍醐山となったようだ。

 醍醐というのは仏典に出て来る飲み物で、現在で言うところの乳飲料の一種らしい。醍醐自体が再現できないことから正確な味は分からないが、ほのかな甘みを持っていたと言われている。

 また聖宝は、山の中にブッポウソウの鳴く柏の巨樹を見つけ、その木で、准胝観音(じゅんていかんのん)と如意輪観音(にょいりんかんのん)の2体の観音菩薩像を彫った。これを安置する堂宇を造り、醍醐水にちなんで醍醐寺と名付けた。これがそもそもの醍醐寺というわけである。

 ちなみに、なんでここでブッポウソウが登場するのかと首をかしげる方もおられようが、この鳥のブッポウソウという鳴き声が「仏・法・僧」の三宝を象徴するとされているからで、ブッポウソウは別名を三宝鳥(さんぼうちょう)と言う。ただ、この話には落ちがあって、実際に自然の中でブッポウソウと鳴いているのは別の鳥で、ブッポウソウがそういうふうに鳴くというのは、昔の人の勘違いなのである。





 上の写真は、上醍醐にある如意輪堂(にょいりんどう)である。

 上に書いたように、醍醐寺を創建した聖宝は最初、准胝観音と如意輪観音の仏像を柏の木で彫ったのだが、如意輪堂はこのうち如意輪観音を祀った堂宇である。

 もう一つの准胝観音を祀る准胝堂(じゅんていどう)も上醍醐にあったのだが、2008年に落雷に遭って焼失している。現在は、醍醐水の湧く社殿の上に、焼け跡のみが残っている。

 この如意輪堂と准胝堂の二つが、まさに上醍醐の最初の堂宇ということになるが、残っている如意輪堂も創建当時のままではなく、再三の火災で焼失した歴史を持っている。案内板によれば、現在の如意輪堂は、豊臣秀吉の息子の秀頼(ひでより)によって再建されたものである。

 ちなみに、醍醐寺は西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)の観音霊場の第十一番札所なのだが、以前は御朱印をもらうのに、この准胝堂まで来なければならなかったのだという。本日ここまで登って来た苦労を考えると、これは33ヶ寺中、屈指の難所だったのではないかと思ってしまう。上醍醐までは自動車道が来ていないので、ご高齢の方などはどうしていたのだろう。

 火事で准胝堂が焼けた後は、下醍醐境内にある観音堂(かんのんどう)で御朱印がもらえるようになったらしい。この観音堂は以前、大講堂(だいこうどう)だったところだが、上醍醐の准胝堂が再建されたら、再び御朱印は上醍醐でということになるのだろうか。

 私が女人堂で入山料を払う際に、窓口の人から「御朱印をもらいに行かれるんじゃないでしょうね」と念を押されたのは、こうした事情があってのことだったようだ。

 醍醐寺が本格的な寺院としての構えを整えるのは、醍醐天皇の助力によるものと上の方に書いたが、醍醐天皇はまず上醍醐に薬師堂(やくしどう)、五大堂(ごだいどう)を建立するなどして伽藍を整える。現在醍醐寺として知られる下醍醐の整備はその後のことであり、上醍醐の伽藍完成後40年ほどして下醍醐が完成することになる。





 上の写真は五大堂だが、醍醐天皇の御願堂として創建されたもので、本尊は五大明王(ごだいみょうおう)である。明王というのは密教由来の仏であり、忿怒の形相で髪は逆立ち、背後には燃え盛る炎といった形で表されるのが一般的である。明王には沢山の種類があるが、比較的有名な不動明王(ふどうみょうおう)を中心とした5人の明王が五大明王である。真言密教や修験道ではお馴染みの仏様で、そうした意味では、修行のための霊山だった醍醐寺の由来をよく伝える建物かもしれない。ただ、残念ながら幾度かの火災に遭って再建を繰り返しており、現在の五大堂は昭和の建築である。

 薬師堂は、醍醐天皇の勅願により聖宝が建てたもので、本尊は薬師三尊像である。建物、本尊とも国宝で、創建当初のままというわけではないようだが、由緒ある建物ということになる。

 上醍醐にあるそれ以外の建物としては、聖宝を祀る開山堂(かいさんどう)、醍醐寺の鎮守社である清瀧宮(せいりゅうぐう)などがある。私が行った当日は、開山堂の前で幾組かの家族連れが弁当を広げ、賑やかな昼食の最中だった。ここは上醍醐の中で、唯一と言っていいほど眺望が利く場所で、弁当を広げるには絶好のロケーションだと思う。ただ、一応境内なのに、ここで食べても良かったのだろうか。

 もう一つ、これは上醍醐の伽藍ではないのだが、開山堂から階段を下りて行くと、白河天皇(しらかわてんのう)の皇后と皇女、それに鳥羽天皇(とばてんのう)の皇女が眠る陵がある。

 上醍醐の伽藍は、まとまって建てられているわけではなく、山の起伏に合わせてあちこちに点在しているため、建物を見て回ろうとすると、こまめに上り下りを繰り返さないといけない。ここまで山道を登って来た身としては、これが少々疲れる。

 さて、これでだいたい上醍醐は見たことになる。山を下って下醍醐へ向かうことにする。伽藍を一通り回って山を下りると、これでだいたい2時間だったが、歩きなれない人はもっと時間がかかると思う。まぁ、上醍醐を含めて醍醐寺全体を見るとなると、一日仕事ということだろうか。

 続いて下醍醐をご紹介しよう。

 下醍醐には10を超える伽藍があるが、中心となるのは創建当時の姿を伝える五重塔と、醍醐天皇の御願により建てられた釈迦堂を秀吉が再建した金堂(こんどう)であろう。金堂は醍醐寺の中心であり、安置されている薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)が醍醐寺の本尊ということになる。五重塔、金堂とも国宝である。





 上の写真が金堂だが、醍醐山とセットで訪問した時には周囲が工事中で味気ない姿だったため、桜の季節に再訪したおりの写真を使用した。秀吉の再建と書いたが、門前の案内板によれば、和歌山の湯浅にあった満願寺(まんがんじ)の本堂を移築して来たらしい。

 上に述べたように、下醍醐は醍醐天皇によって整備され始めたものだが、当の醍醐天皇はその完成を見ることなく46歳という若さで亡くなっている。何が原因かというと、有名な菅原道真(すがわらみちざね)の祟り、あるいはその余波によるものである。

 醍醐天皇の先代は父の宇多天皇(うだてんのう)であり、宇多天皇は即位直後に、関白就任を巡って藤原氏と対立した経験から、菅原道真を抜擢して重用し、藤原氏の牽制を図って来た。醍醐天皇も即位後はそれを引き継いで道真を重用したが、巻き返しを図る藤原氏の策略に乗り、道真を大宰府に左遷してしまう。有名な昌泰の変(しょうたいのへん)である。道真は左遷後まもなく大宰府で亡くなっている。

 その後の祟りの話は有名である。菅原道真が亡くなって数年のうちに、陰謀の主導者だった藤原家当主、藤原時平(ふじわらのときひら)がわずか39歳で亡くなったほか、道真左遷を命じた醍醐天皇も病気になり、醍醐天皇と藤原時平の妹の間に生まれた皇太子も若死にする。左遷に加担した貴族たちも道真の死後まもなく亡くなっている。

 道真を陥れた関係者がことごとく不幸に見舞われただけではない。京の都では旱魃、水害、疫病と、あらゆる災厄が次々と襲い、止むところがなかった。

 慌てた醍醐天皇は、菅原道真左遷の詔を取り消して右大臣に復職した形にし、道真の霊を慰めたのだが、まるで効き目がなく、ついには内裏の清涼殿に集まった関係者めがけて雷が落ち、公卿にたくさんの死傷者が出るという事件が起きる。醍醐天皇はこの落雷の直後に病に臥し、ほどなく亡くなったのである。

 醍醐寺との関係で言えば、上醍醐の伽藍が完成したのが菅原道真死去の数年後であり、下醍醐の建設途上で醍醐天皇は亡くなる。下醍醐の伽藍建設の最後を飾る国宝の五重塔は、醍醐天皇の冥福を祈るために、息子で皇位を継いだ朱雀天皇(すざくてんのう)により起工され、更にその跡を継いだ朱雀天皇の弟、村上天皇(むらかみてんのう)により完成されたものである。





 この五重塔は、幾度かの修理は行われているものの、平安時代の姿をそのまま伝えている珍しい塔である。門前の案内板によれば、京都府域で最古の五重塔のようだ。

 亡くなった醍醐天皇は醍醐寺からほど近い山科に葬られ、その陵墓は長らく醍醐寺が管理した。醍醐天皇自身は人格的に優れた人物だったとされ、民衆のことを思いやりながら政治を行ったという。それだけに菅原道真左遷とその後の祟りは痛恨の極みだったことだろう。

 醍醐天皇に続き、息子の朱雀天皇、その跡を継いだ弟の村上天皇と三代にわたる天皇の庇護を受け、また修験道の中心寺院の一つとして醍醐寺は発展するのだが、室町時代になり応仁の乱で下醍醐の伽藍の大半が焼け落ちてしまう。荒れ果てた下醍醐の再興のために活躍したのが、醍醐寺第80代座主の義演(ぎえん)である。

 義演は公家の出であるが、鎌倉幕府最後の将軍である足利義昭(あしかがよしあき)の養子になっている。出家して後は大僧正に任じられ、東寺の最高責任者にもなった高僧で、皇族や武家からも崇敬を受けていたようだ。時の権力者だった豊臣秀吉・秀頼親子とも親しく、この縁で豊臣家の援助を受けて醍醐寺の復興を図ったという。

 その義演の時代に、豊臣秀吉が復興相成った醍醐寺で行ったのが、有名な醍醐の花見である。

 今では桜の名所として名高い醍醐寺だが、この秀吉の花見の前は、醍醐寺は桜の名所でもなんでもなかった。では桜はどうしたかというと、秀吉自身が醍醐寺を下見したうえで、700本の桜を集めて境内に植樹したのである。その発想がすごいと思うが、桜を植えただけではなく、花見に合うように庭園を整備し関連施設も造営した。派手好きの秀吉らしい豪勢な演出である。





 上の写真は、上醍醐に登る山道の途中にある醍醐の花見の場所とされるところである。槍山(やりやま)という名前で、山の中腹にある。周りが木々に囲まれて何も見えないのだが、当時はここから麓に植えられた桜が一望できたということだろうか。

 傍らの案内板には、麓からこの場所までの山道に、趣向を凝らした茶屋が8棟も建てられたとあるから、それを聞いただけでも豪華さが偲ばれる。私はてっきり、麓の平地だけが花見の会場だと思っていたので、山道の途中にこの案内板を見つけた時にはビックリした。

 この醍醐の花見に招待されたのは全て女性で、豊臣家のほか諸大名の女性陣がなんと1300人参加した。彼女たちのために着物が新調され、茶会や歌会が催された。たった一日の花見のために莫大なお金が費やされたわけである。

 この時、秀吉は高齢で、死期が近いことを多くの者が予見していたという。いわば、秀吉最後の華やかな舞台であり、花見の5か月後に秀吉は亡くなっている。

 この天下人秀吉の絶頂期を物語る豪華な花見と、そのために植えられた700本の桜のお蔭で、醍醐寺と言えば桜というイメージが定着し、今でも京都屈指の花見の名所として全国に名がとどろいているわけである。

 京都に桜の名所はたくさんある。中心部だけ挙げても、円山公園(まるやまこうえん)、琵琶湖疏水(びわこそすい)のインクライン、岡崎公園(おかざきこうえん)、哲学の道(てつがくのみち)と桜がたくさん植わっている場所が多数あるうえ、仁和寺(にんなじ)の御室桜(おむろざくら)や、以前紹介した平野神社(ひらのじんじゃ)の50種類、400本の桜など、主要な寺社は全て自慢の桜があるような地である。しかし、京都の人に、お花見はどこがお勧めですかと訊くと、ほぼ筆頭に挙がって来るのは醍醐の桜である。

 もちろん、秀吉が移植した桜は既に残っていない。それでも、その子孫に当たる桜を含めて境内に植えられている桜は千本とも言われている。そのうえ古木が多数ある。





 上の写真は、桜の季節に再訪したおりに撮った霊宝館内のソメイヨシノの古木である。霊宝館は、先ほど紹介した上醍醐の薬師堂の本尊、薬師三尊像を中心とした多数の仏像、工芸品、絵画、書などを展示してある建物で、昭和の時代に入って建設された新しい施設である。本来はあまり観光客の耳目を引かないのだが、桜の時期は別である。この霊宝館の敷地内に、多数の桜が植わっているためである。

 おそらく一番人気は建物のすぐ脇にある醍醐深雪桜(だいごみゆきざくら)なのだが、私が行った時には盛りを過ぎていたため、その隣にあるソメイヨシノの写真を掲載した。樹齢百年以上で京都最大というソメイヨシノであり、実に堂々たるものだが、醍醐深雪桜はもっとすごい枝ぶりの圧巻の枝垂れ桜である。

 醍醐寺には多くの種類の桜が植えられているが、醍醐の桜を印象付けるのは枝垂れ桜の巨木ではないかと私は思う。全体の本数から言えばごく少数派らしいのだが、印象に残る枝垂れ桜の巨木が幾つかある。他の花見客を見ていても「これはすごい」と指さして感嘆の声を上げておられるのは、たいていこうした枝垂れ桜の巨木である。

 さて、醍醐深雪桜よりは少し規模が小さいが、醍醐寺の枝垂れ桜として有名な太閤しだれ桜をご紹介しておきたい。こちらも花の盛りを過ぎているのが残念だが、それでも充分豪華絢爛である。





 太閤しだれ桜は霊宝館ではなく三宝院の門を入ったすぐ左手にある。その大きさを見て、何本かの桜が植わっているのかと根元を覗くと、一本の木であることが分かる。但し、根に近い部分から木が二つに分かれており、そこから四方に見事な枝が延びている。よくぞここまで成長したと思うほどの巨大な枝垂れ桜である。

 この桜をご紹介したのは、これが日本画家奥村土牛(おくむらとぎゅう)の代表作「醍醐」のモデルになった桜だからである。土牛がこの桜と出会ったのは、絵の師であった小林古径(こばやしこけい)の法要の帰りだと言われている。数年を経て土牛は「醍醐」を仕上げる。その時、齢83になっていた。完成までに百回以上絵具が塗り重ねられたという。

 醍醐寺の桜の中でどれが好きかは人それぞれだろうが、単にソメイヨシノが並ぶ花見の名所と違って、この場所のあの桜と思い浮かべられるところが、醍醐の桜が人々の印象に強く残る理由ではないか。

 ただ、桜の時期の醍醐寺訪問は大変である。とにかくすごい人で、どこに行っても人があふれている。桜をバックに記念撮影というのがなかなか難しい状況で、歩くのも大変な渋滞箇所もある。花の命は短くて、こちらが自由になる休みも少ない。お蔭でピーク時の週末は大変な騒ぎになるわけである。

 さて、桜の話題はそのくらいにして、下醍醐の紹介に戻ろう。

 下醍醐には数々の建物が建っているのだが、元の醍醐寺が真言密教の修行霊場だったことに関連する建物もある。不動堂(ふどうどう)・護摩道場(ごまどうじょう)という修験道に関連する建物であり、祀られているのは上醍醐の五大堂同様、五大明王である。





 修験道というのは、一般人にはなかなか分かりにくい宗教である。一般に言われているのは、古くから存在する自然崇拝を基礎として、神道や仏教が影響して出来上がった日本オリジナルの山岳宗教といった説明である。日本人は古来より、森や木、山、川、海など自然の構成物そのものを神格化し崇拝してきた。そうした中で神が宿る霊山が生まれ、そこで修行することにより俗世の迷いを払拭し悟りを開こうという試みが行われた。それを体系だって一つの形にしたのが、修験道開祖と言われる役小角である。

 そうして考えると修験道の本質は自然神を祀る神道ということになるが、日本に仏教が入って来て以降は、神道と仏教が融合されて、いわゆる神仏習合(しんぶつしゅうごう)が進んだ。その過程で、修験道には仏教的要素がドンドン取り入れられていく。

 一方、日本に入って来た仏教にも、修験道と馴染む部分があった。例えば、空海の開いた真言宗(しんごんしゅう)や最澄の開いた天台宗(てんだいしゅう)は密教を中核としている。密教の世界では、言葉によって伝えられない仏の真理を、世俗を離れて修行を重ねる中で師から会得することになっており、山にこもり修行を行う修験道と通じる部分があった。

 修験道を開いた役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した人物だが、修験道が盛んになるのは平安時代になってからである。その頃には修験道の中に、吉野を拠点にする真言宗系の当山派(とうざんは)と、熊野を拠点にする天台宗系の本山派(ほんざんは)が出来ていた。このうち、真言宗系の当山派の先駆者が、最初に山中に醍醐寺を造った聖宝なのである。従って、醍醐寺は長らく修験道の中心拠点の一つだったわけである。

 その修験道の当山派を統括する本山であった重要な場所が、下醍醐の中にある。三宝院である。ここは、醍醐寺の総門から、冒頭に写真で紹介した仁王門に行くまでの、長い桜並木の片側にある。





 まずは三宝院の唐門(からもん)をご紹介する。豪華絢爛たる造りの門で、総門から仁王門まで続く参道の中にあって、ひときわ目立つ存在である。いつ行っても、何人もの人が記念撮影している。

 ここは、朝廷の使者が来た時だけ開けられる門で、門自体が国宝である。この唐門の向こう側に、国宝の表書院(おもてしょいん)や庭園がある。一般の参観者は、この横にある門から入って、建物内と庭を拝観することが出来る。先ほどご紹介した太閤しだれ桜もこの三宝院内にある。

 三宝院は元々、平安時代後期に醍醐寺14代座主だった勝覚(しょうかく)が、真言密教の重要な儀式を行う灌頂院(かんじょういん)として建てたもので、その後、鳥羽法皇(とばほうおう)の御願寺ともなっている。

 三宝院からは多くの高僧が出たが、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)の養子だった満済(まんさい)が三宝院院主となり、その後醍醐寺座主を務めた頃から、三宝院が醍醐寺の中心的存在となっていく。満済は義満以後の将軍の信認も得て幕政に参画し、准后(じゅごう)という特別の地位も与えられていた。その頃より、三宝院の院主が醍醐寺の座主も兼ねるようになる。こうした流れの中で、三宝院は修験道を統括する立場にもなるのである。

 三宝院は応仁の乱で一旦焼失した後、義演の働きかけにより豊臣家の助力で再興する。醍醐の花見の際には、三宝院の庭園は秀吉自身も関与しながら整備されたという。この庭園は秀吉がこだわっただけあって、かなり立派である。私は今まで、京都の寺院の庭はたいてい見たが、その中でも屈指の美しさだと思う。

 この庭園には、樹齢500年の五葉松のほか幾つも見どころがあるのだが、ここでは一つだけ紹介しておこう。それは、藤戸石(ふじといし)という庭石である。

 たいていの人は見過ごしてしまうのだが、これは室町時代から天下人が所有する石として伝えられて来たものである。ここの庭園を整備するに当たり、秀吉が自らの公邸である聚楽第(じゅらくだい)からわざわざ運ばせたと言われており、醍醐の花見にかけた秀吉の熱意が伺われるエピソードである。





 庭園が広いために全景を写真に収めるのが難しいのだが、上の写真で、画面左のこんもりとした木立の下に立っている四角い石が、天下人の石、藤戸石である。

 ただこの庭園、見て分かる通り、一本も桜がない。醍醐の花見のために秀吉が精魂込めて造ったわりに桜がないというのは、そもそもここには桜を植えないという作庭哲学だったのか。あるいは、作った当初には桜があったが、今では残っていないということだろうか。ちょっと、興味を惹かれる点である。

 この庭園を見学できる建物は表書院といって国宝なのだが、室内の畳を上げると能舞台になるという工夫が施されており、これも秀吉の意向なのだろうか。この豪勢な庭に能舞台というのは、修験道当山派を統括する三宝院のイメージからは遠いが、醍醐の花見に合わせて秀吉指揮の下で整備されたという経緯からすれば、さもありなんという感じがする。

 ちなみに、三宝院自体の本堂は一般公開されていない。私は別の特別拝観の機会に見学したが、堂内の雰囲気が威厳があって印象に残った。本尊は弥勒菩薩である。

 他の見どころとしては、これもまた一般公開されていないが、表書院の隣に純浄観(じゅんじょうかん)という建物がある。これは醍醐の花見の際に醍醐山の槍山に建てられていたのを移築したもので、この建物から秀吉が花見をしたと言われている。





 上の写真が、別の機会に特別拝観で見学した純浄観だが、槍山の建物があった場所を見た目からすれば、こんな大きなものが建っていたとは正直驚きである。

 特別拝観時に聞いた説明では、この屋根の葺き替えに6000万円かかるらしい。値段も驚くが、既にこの葺き替えを出来る技術を持つ人が一人しかいないとのことで、文化財の維持にも色々苦労がありそうだ。

 その貴重な屋根から材料の薄が一部飛び出ていたりするのだが、これはカラスが巣作りするのに引っ張り出すからと、お寺の方より説明があった。カラスにしてみれば、巣の材料がまとまってどっさりあるので、重宝しているのだろう。まったくもって困ったことである。

 ところで、純浄観は国宝だが、その襖絵は平成の時代に入って日本画家の浜田泰介(はまだたいすけ)氏が描いたものである。浜田画伯の襖絵は、三宝院を入ったところにもあるのだが、その手前が御朱印の受付になっていて、襖絵の前が雑然としているうえ近寄れないという問題がある。せっかくの作品なのだから、もっと拝観者が見えるように工夫をすればいいのにと、行くたびに思った。今では多少改善がなされているのだろうか。

 さて、三宝院のご紹介はこのくらいにして、醍醐寺内の他の施設にも触れておこう。ご紹介しておくべき建物としては、上醍醐のところで触れた観音堂がある。





 ここは昔の大講堂だったと書いたが、この大講堂のほか、周囲にある弁天堂(べんてんどう)、鐘楼、庭園などをまとめて大伝法院(だいでんぽういん)と呼んでいる。驚くべきは、これらは全て、一人の実業家の寄付によって建てられたものなのである。

 寄付をしたのは、明治から昭和にかけて活躍した大阪の実業家、山口玄洞(やまぐちげんどう)である。玄洞は苦労の末に事業で巨額の財を成した後、寺社や学校、公共事業などに、ケタ外れの超弩級の寄付を行った。醍醐寺の大伝法院だけでも、すごい額の寄付をしたことが分かるが、これは玄洞が寺社向けに行った寄付のほんの一部に過ぎない。昔の金持ちと今の金持ちとの差は、こんなところにあるのかなと思わせるエピソードである。

 上に書いたように、ここが観音堂となったのは上醍醐の准胝堂が焼失したからである。従って、この観音堂に祀られている観音様は、准胝堂に祀られていた准胝観音ということになる。そして現在では、上醍醐まで登らずとも、この観音堂で御朱印がもらえるわけである。

 准胝観音なんて聞いたことがないという人も多かろうが、これもまた観音様の一つである。

 観音様は、正式には観音菩薩(かんのんぼさつ)であるが、他にも観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)などの呼び名があり紛らわしい。また名前だけでなく、その姿も33もあって分かりにくい。

 観音様は菩薩だが、菩薩というのは一人前になるために修行している仏様である。修行が終わって一人前になると、如来(にょらい)となる。菩薩は修行中なのだが一般の人々を救ってくれる存在であり、半人前の仏様ということで人間臭くて親しみやすいということだろうか。観音菩薩以外に、弥勒菩薩(みろくぼさつ)や地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などがあるが、みんな人気者である。

 その観音様だが、これは本来、現世におけるご利益を施してくれる菩薩として信仰された。平たく言えば、この世における願い事をかなえてくれる存在である。人々の願い事は千差万別なので、そのことごとくをかなえるために、観音様はそれに応じた姿に変身する。その種類が、上に挙げた33なのだが、このために観音信仰では33という数字が大きな意味を持つ。

 この醍醐寺は西国三十三所観音霊場の第十一番札所だと上の方に書いたが、西国三十三所という数字自体が、観音様の変身の種類から来ている。また、京都の東山区にある蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)は三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)のニックネームで知られるが、この三十三間も、たまたまそうなったわけではなく、ご本尊の千手観音(せんじゅかんのん)にちなんでのことである。

 さて、醍醐寺の准胝観音なのだが、これは女性の姿をした観音様とされ、真言密教の信仰の対象の一つである。真言宗の開祖である弘法大師空海が重視したと言われており、高野山でも篤く祀られている。真言密教の最高権威だった聖宝が、醍醐山中において最初に柏の木で彫った観音の片方が准胝観音だったというのは、こういういわれに基づくものである。

 醍醐寺の話を終える前に、最後にもう一つ、見どころを紹介しておこう。





 上の写真は弁天堂(べんてんどう)だが、この建物に見覚えのある人は多いのではないか。醍醐寺においては、国宝の五重塔と並ぶ有名な建物である。何が有名かというと、紅葉の季節の景観が見事なのである。

 木々の紅葉と朱塗りの弁天堂がよくマッチし、それが池面に映える。醍醐寺の紅葉というと、必ず登場する有名なスポットと言える。

 上に書いたが、この弁天堂も山口玄洞の寄付によって昭和初期に建てられたものである。この写真の右側に小さな滝があって、その上に庭園が広がっているが、これも同じく山口玄洞の寄付により整備された。

 弁天堂の名前から分かるように、ここには弁才天(べんざいてん)が祀られている。弁才天は古代インドの河の神が由来なので、多くの場合、水の近くに配置され、弁天堂は景勝の地となることが多い。弁才天自身は、音楽や学芸に御利益のある仏様である。

 仏様と書いたが、弁才天は正式には、天部(てんぶ)と呼ばれる仏教の守護神の一人である。天部は一般に、十二神将(じゅうにしんしょう)のように仏像の周りに守護役として飾られており、異形の姿をしたものや、甲冑を身にまとった戦闘的なものなど、恐ろしい姿であることが多い。一方、弁才天はやさしい女性の姿をしていて人気が高く、脇役ではなく、単独の信仰対象となっている。七福神(しちふくじん)の一員でもあるので、その姿はよく知られていると思う。

 さて、これにて醍醐寺の紹介は終わりである。世間一般に知られている醍醐寺の出発点がその背後の山の中にあるという話はあまり知られていないと思うし、現在薬師如来を本尊としている醍醐寺が元々密教や修験道の修行場だったことも有名ではない。

 お寺というものは、長い歴史の中で様々に変化していくことが多い。それを紐解いていくのも、寺社拝観の楽しみの一つであろう。歴史を学べば学ぶほど、現在を見る目は豊かになるものである。

 上醍醐は地味でつまらないという声も聞く。ただ、いきなり華やかな下醍醐の伽藍が建ったのではない。あくまでも、醍醐寺の原点は、山の中にひっそりとたたずむ上醍醐にあるのである。だからこそ、落雷で焼失するまで御朱印は、わざわざ上醍醐の准胝堂で授けられていたわけだ。上醍醐あっての下醍醐。下醍醐を拝観する際には、そのことを踏まえて見た方が、深い理解が出来ると思う。

 この日の歩数は約2万歩で、距離にして15kmだったが、醍醐山の登りのつらさを思えば、その1.5倍はカロリーを使ったような気がした。ただそれも、昔の修験道や密教の修行に比べれば、何ということはないのだろうが…。







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