パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■鷹峯





 今回は京都の鷹峯(たかがみね)にある幾つかのお寺を紹介したい。このサイトは本来絵にまつわるサイトなので、たまには芸術系の話題を出そうと考えて、ここを選んだ。鷹峯には昔、琳派(りんぱ)の祖である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が開いた芸術村があったのである。

 ただ、鷹峯と聞いてピンと来る人は、関西以外では少数派だろう。名前は聞いたことがあるという程度だろうか。鷹峯は、山の名であると同時に土地の名前でもある。鷹峯という山自体は、金閣寺(きんかくじ)の北にある左大文字山(ひだりだいもんじやま)の更に北にある。

 本日紹介するお寺は鷹峯の山の中にあるわけではない。麓よりは少し上がった場所にあるが、道の両側に街並みが続き、普通の静かな住宅地といった感じである。

 鷹峯までのアクセスには少しばかり時間がかかり、大阪の梅田から阪急電車で特急、準急と乗り継いで京都の大宮駅へ行き、そこからバスに乗って約30分の道のりである。千本通(せんぼんどおり)をまっすぐ北に上がっていく感じだが、途中から狭い旧道に入り、対向車とすれ違うのがなかなか大変な様子だった。

 ところで、どうしたことかバス内の停留所の表示が予め調べていった名前と違っていて、降り忘れるというトラブルがあった。見知らぬ名前の停留所でたくさん人が降りたので、あれっと思って走り出した車窓から眺めると、道路沿いにお寺の道案内表示があったので気が付いた。降り損なっていたら、大変なダメージを被るところだった。

 まず向かったのは、本阿弥光悦ゆかりの寺、光悦寺(こうえつじ)である。バスから降りて逆向きに戻るように道路を進む。向かう先に遠く鷹峯の山々が見える静かな場所である。ここまで来ると外国人観光客もいない。

 鷹峯というのは、単独の山の名前であるが、同じ山系に鷲峯(わしがみね)、天峯(てんがみね)と連なっており、これらを総称して鷹峯と言うこともあるようだ。あるいは鷹峯三山(たかがみねさんざん)とも呼ぶらしい。古来、ここには文字通り鷹が棲んでいて、鷹狩りに使うための鷹を捕らえに来ていたようだ。その頃はこの辺り一帯を栗栖野(くるすの)と呼んでいた。





 上に掲げた写真が、鷹峯である。非常に形の良い稜線で、目を引く。

 平安の昔、栗栖野には歴代の天皇が行幸し狩猟を楽しんでいたほか、氷室(ひむろ)も設けられていたと聞く。当時は、冬場に池に張った氷に水をかけて凍らせ、どんどん氷を厚くし、それを切り出して穴の中に保管するという作業を、鷹峯の地で行っていた。そして、夏場に氷を取り出して宮中へ運び、涼を楽しんだわけである。その名残か、今でも氷室道という名の道が近くにある。

 この日は行かなかったが、光悦寺のある辺りから更に道を進んで行くと、山の中へと入る。昔だと、その先は地元の人以外は行かない場所のような印象も受けるが、実はこの道は鷹峯に分け入った後、長坂峠(ながさかとうげ)を越えて日本海側の若狭(わかさ)まで至っていた。現在ではあまり通る人はいないかもしれないが、かつてこの古道は重要な交易路だったようだ。

 新鮮な魚に乏しい京の都に、日本海側からサバを塩でしめて運ぶ商人たちがいた。こうした海産物の交易ルートを鯖街道(さばかいどう)と呼ぶが、日本海側から鷹峯経由で京に抜ける古道も、鯖街道の一つだったのである。

 鯖街道を行き来する商人や旅人を狙ってのことか、追いはぎなども出没したようで、決して平穏な地域だったわけではないらしい。そんな場所に移り住んで来たのが、本阿弥光悦の一族とその仲間だったわけである。

 本阿弥光悦がこの鷹峯の地に移って来るのは、豊臣家が滅亡する大坂夏の陣(おおさかなつのじん)の年である。光悦は50代後半になっていたが、一族のほか、日蓮宗(にちれんしゅう)の仲間であった工芸職人や彼らを支える商人も一緒に移って来て、この地に光悦村(こうえつむら)と呼ばれる芸術家中心の集落を形成した。

 この地を光悦に提供したのは、かねてからの知り合いであった徳川家康で、数万坪の土地だったというから、かなり広い。

 何故洛中で活躍していた光悦が、わざわざこんな辺鄙な地へ移って来たのかについては様々見方があるようだ。静かな場所で創作活動に打ち込みたいという光悦の願いを家康がかなえたという説がある一方で、家康が光悦を洛中から遠ざけたかったという見方もある。

 光悦は、様々な芸術分野に手を出し、そのいずれでも一級の腕前を披露したマルチタレントだが、彼の茶の師匠は古田織部(ふるたおりべ)である。古田織部は織田・豊臣に仕えた武将であり、関ケ原の合戦では徳川方についたものの、豊臣と徳川が激突した大坂の陣では豊臣方に内通したとして切腹を命じられている。更に光悦は熱心な日蓮宗信徒で、信徒仲間がたくさんいたほか、裕福な町衆であり著名な芸術家だったため、その交友関係は公家、武家、僧侶など広範囲に及び、かなりの影響力を持っていたと言われる。

 家康からすれば、光悦とは父の代から付き合いがあり、光悦自身が反徳川にくみした痕跡がないため制裁を科す口実はなかったものの、古田織部の系列を通じて一旦反徳川方に肩入れされれば、厄介な存在だったに違いない。こうした家康の警戒感が、光悦を京の町の中心部から離そうとする策略につながったと見る向きもあるようだ。

 いずれにせよ光悦はこの鷹峯の集落で、その後二十年近くの余生を創作活動に打ち込みながら過ごすことになる。そんな縁からか、現在でもこの周辺の町名は鷹峯光悦町(たかがみねこうえつちょう)である。





 上にも書いたが、本阿弥光悦は熱心な日蓮宗の信徒であった。そのため、この鷹峯の地に越して来て早々、自らの住まいである大虚庵(たいこあん)と共に法華題目堂(ほっけだいもくどう)を建てている。

 法華題目とは、日蓮宗で勤行の際に唱える南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の文句のことで、信仰の中心である法華経に従うことを誓う言葉である。

 光悦の死後、本阿弥家の菩提寺である本法寺(ほんぽうじ)から日慈(にちじ)がこの地に来て、この法華題目堂を中心に屋敷を寺に改めたのが光悦寺である。

 本法寺は、以前訪れた船岡山(ふなおかやま)の南東方向の堀川通(ほりかわどおり)沿いにある。激しい弾圧を受けたことで有名な日蓮宗の僧侶、日親(にっしん)が、本阿弥光悦の曾祖父の帰依を受けて創建したもので、その後本阿弥本家の菩提寺となった。本阿弥家が日蓮宗になったのは、この光悦の曾祖父の代からなのであろう。ちなみに、本法寺本堂の扁額は本阿弥光悦筆であるほか、三巴の庭(みつどもえのにわ)と呼ばれる庭園も光悦作である。

 ところで、この鷹峯の地は、本阿弥光悦を中心とした日蓮宗徒の集落だったため、幾つかの日蓮宗の寺院があったと伝えられる。光悦寺は他の日蓮宗の寺も吸収しながら、現在の姿になったようだ。

 現在境内には、本阿弥光悦やその一族の墓のほか、高村光雲(たかむらこううん)作の本阿弥光悦の木像を祀る光悦堂(こうえつどう)や、かつての光悦の住居だった大虚庵の名を取った茶室を含め、計7つの茶室がある。本堂は小さく目立たず、拝観者はもっぱら茶室が点在する庭を巡ることになる。

 茶室大虚庵の脇には、光悦垣(こうえつがき)の名で知られる有名な竹垣がある。割った竹を菱形に組んだもので、誰でも目にしたことがある代表的な竹垣である。本阿弥光悦がこの編み方の竹垣を好んだらしく、その形から臥牛垣(がぎゅうがき)の別名もある。

 この光悦垣と紅葉との組合せが、写真にも登場する光悦寺の代表的な風景である。その光景は、ただただ素晴らしいの一語に尽きる。確か、東山魁夷(ひがしやまかいい)の作品の中にも、この光悦垣と紅葉の組合せのものがあったように思う。





 さて、本阿弥光悦について改めて紹介しておこう。

 光悦は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて活躍した芸術家である。この時代に芸術家という言い方があったかどうか知らないが、彼が手掛けた分野は、陶器、工芸、書といった創作活動だけではなく、茶道や香道、作庭なども含めた幅広い分野に及び、それぞれの分野で一級の作品を遺した。いわばマルチタレントだったわけである。

 元々本阿弥家は刀剣の研磨、手入れ、鑑定を行う家柄で、京にあって室町幕府とも密接な関係を持っていた。身分は武家ではなく町衆だが、京の中でもかなり裕福な家柄だったと言われている。

 武家が持つ刀は、当初は武器に過ぎなかったわけだが、時代を経るに従い様々な装飾が施されるようになる。そこに注ぎこまれた技術は、蒔絵、螺鈿などの漆工芸や金属工芸から染織まで幅広く、後の本阿弥光悦の活動分野とも重なって来る。

 ただ、光悦の作品の中で刀剣に関するものはない。また、刀剣の仕事をしたという正確な記録もない。これはどういうことだろうか。実は、光悦の父は本阿弥家の養子で、後に独立して分家となったため、本家の刀剣の仕事からは少し自由になったのである。この本家の本阿弥家は、現在でも刀剣に関わる家業を続けていると、光悦寺でもらったパンフレットにあった。

 ちなみに、光悦の父は刀剣の仕事で名を馳せており、駿河・遠江の守護大名、今川義元(いまがわよしもと)や織田信長に仕え、後に加賀藩の前田利家(まえだとしいえ)から扶持をもらうまでになっている。今川義元に仕えていた時代には、人質として今川家にいた若き日の徳川家康とも交流があった。この縁で、本阿弥光悦も徳川家康と親しかったわけである。

 光悦の作品の中で特に有名なのは書であろうか。松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、近衛信尹(このえのぶただ)と共に寛永の三筆(かんえいのさんぴつ)と称された。

 また、手びねりで制作した楽焼(らくやき)の茶碗、不二山(ふじさん)や、工芸分野の舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)などの国宝のほか、重要文化財に指定される多くの作品を各分野で残している。

 上にも書いたが、光悦は、千利休の高弟で利休七哲(りきゅうしちてつ)にも数えられる古田織部から茶を習っている。光悦寺でもらったパンフレットでは、織田信長の年の離れた弟で、利休の直弟子だった織田有楽斎(おだうらくさい)にも教えを受け、利休の孫の千宗旦(せんのそうたん)とも親交があったようだ。





 ところで、光悦寺はある程度標高のある場所に建っていて、庭からの眺めがなかなか良い。京都市内全景を眺望できるほどではないが、鷹峯三山はきれいに眺められる。上の写真は、鷹峯の隣にある鷲峯である。更にその先には、天峯を遠くに窺うことが出来る。

 天峯の全景は見えないが、鷹峯にせよ鷲峯にせよ、形が整っていて美しい。花札の絵柄に、月や雁と組み合わせて丸い山が描かれているが、あれは鷹峯三山をモデルにしたものという説がある。こうして眺めていると、それもあながち嘘ではないような気にさせられる。

 さて、光悦寺を出て次に向かったのは、源光庵(げんこうあん)である。少し道を戻るようにして歩くと、すぐに着くほど近い場所にある。

 源光庵は、本阿弥光悦一族とその仲間の職人・商人がこの鷹峯に移り住んで来る前から、ここにあった寺である。

 元は、京の大徳寺(だいとくじ)の住持だった徹翁義亨(てっとうぎこう)が建てた隠居所であり、室町時代の初めにここに移り住んだようだ。その後、長らく臨済宗(りんざいしゅう)の寺院として続いたが、やがて衰退してしまう。おそらく本阿弥光悦らが光悦村を造り、日蓮宗徒の集落となった頃には荒れ果てていたのだろう。

 やがて、加賀の大乗寺(だいじょうじ)の復興に努めた卍山道白(まんざんどうはく)という曹洞宗(そうとうしゅう)の僧がやって来て再興し、この時から宗派が臨済宗から曹洞宗に変わっている。復興に当たって源光庵の本堂を寄進したのも、卍山道白に帰依していた加賀の豪商である。

 臨済宗も曹洞宗も禅宗で、共に中国から伝わったが、二つの違いは我々一般人には分かりにくい。

 臨済宗では、師から弟子へ、知識ではなく悟りを伝えることが重視され、そのための課題として公案(こうあん)と呼ばれる問題を出してこれに答える禅問答(ぜんもんどう)がよく行われるという。一方、曹洞宗では、ひたすら坐禅する只管打坐(しかんたざ)が重視される。ただ、臨済宗でも座禅はするし、曹洞宗でも公案が出ることもあるというから、境界線は今一つハッキリしない。

 歴史的に見ると、臨済宗は武家に支持され、特に室町幕府により保護されたため、京都市内には臨済宗の禅寺が多い。他方、曹洞宗は、地方豪族や一般民衆から支持を集めたとされる。





 ところで、本阿弥光悦の死後、光悦村はどうなってしまったのだろうか。

 当初は光悦一族とその仲間の工芸職人・商人などが移り住んだ鷹峯に、その後、近隣から農民が移住して来る。元々光悦は徳川家康からこの地の支配権を与えられていたはずであるが、いつの間にやらうやむやになり、やがて土地の利用を巡って争いが起こり、解決は幕府に持ち込まれる。この時の幕府の裁断は、驚いたことに本阿弥家の領地支配権を否定するもので、光悦の子孫や仲間は、鷹峯の地を去ることになるのである。

 こうして光悦が造った芸術村は消滅し、後には日蓮宗の寺院が残るだけとなる。やはり、稀代の芸術家にして、各界に絶大な影響力を持った本阿弥光悦あったればこその光悦村だったのであろうか。徳川幕府初代の家康が保証した支配権が、かくもあっさりと反故にされるというのは、やはり本阿弥光悦を洛中から遠ざけたいという家康の目論見が光悦村を生んだということなのかなと疑ってしまう。

 上に書いた卍山道白が源光庵を再興したのは、こうして光悦村がなくなって後のことである。その頃には辺りは農村になっていたわけで、曹洞宗の寺が新たに出来ても支障はなかったのであろう。日蓮宗徒の集落だった時代なら、そのど真ん中に別の宗派の寺を再興するのは、何かとやりにくかったはずである。

 さて、禅宗でいう悟りだが、この源光庵の本堂には、悟りの窓と迷いの窓という有名な二つの窓がある。窓は隣り合っていて、悟りの窓は丸く、迷いの窓は四角い。

 本堂の中からこの二つの並んだ窓越しに見る紅葉の風景が美しく、2014年の「そうだ、京都 行こう」のCMやポスターに登場している。ところが、これを見た観光客が殺到し、カメラ撮影のマナーがあまりにひどいので、お寺側が撮影禁止にしたといういわくつきのスポットである。

 私も行った先で写真を撮るが、京都や奈良で三脚や一脚の使用を禁止している場所が多くなった。私は初心者のコンパクトデジカメ派だが、確かに撮影スポットに三脚構えてじっと居座っている一眼レフのカメラマンを見掛ける。公共の場なんだから、譲り合って使いたいものである。

 源光庵の本堂内はその後も撮影禁止なのだろうと思っていたら、どういうわけだか撮影可だった。まだ紅葉が進んでいないためだろうか。下が、その問題の悟りの窓と迷いの窓である。





 この窓の前は拝観者で一杯なのだが、まだ紅葉の本番が来ていないので、そうはいっても少な目ということだろうか。前年の大混雑時はどんな騒ぎだったのだろうかと思ってしまった。

 私がいる間も、この窓の脇にあるお寺のご本尊のエリアまで入り込んで、立派な一眼レフカメラを構えようとする人がいて、お寺の人が注意をしていた。そういうことをするから撮影禁止になったんだぞと思ったが、写真が趣味の人には、被写体を必死で追うあまり周りが見えなくなってしまう傾向があるのかもしれない。電車を撮影する撮り鉄でも、駅で騒ぎがあったというニュースを何かで見たが、同じ心理なのだろう。

 ところで、この悟りの窓と迷いの窓のある本堂の天井板は、伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)の跡を示す床板が移されて使われており、血天井として有名である。

 伏見城の戦いは関ケ原の合戦の口火を切る衝突で、徳川家康派と石田三成(いしだみつなり)派が伏見城(ふしみじょう)で交戦したものである。当時伏見城にいたのは家康の家臣、鳥居元忠(とりいもとただ)で、守備隊は総勢1800名だった。一方、押し寄せた三成の軍勢は4万人。数から言えば三成側が圧倒的に有利だったが、鳥居元忠ら守備隊がよく戦い、落城には思いのほか時間がかかっている。これが、後の三成の作戦を狂わせることなる。

 鳥居元忠は討ち死にし伏見城は落城するが、この時自刃した元忠の家来は約380名と伝わる。奮戦した鳥居元忠を称えるために家康は、血まみれとなった伏見城の畳を江戸城に運ばせ、床板は京都市内の各寺の天井板にさせた。この血まみれの床板が源光庵にも運ばれ、天井板とされたのである。

 拝観者の方々は悟りの窓と迷いの窓にもっぱら注意を向けているものだから、天井をしげしげと見ずに本堂を後にする人もいるが、やはりこれは一見の価値がある。濃淡の付いた天井板の模様が血の跡そのものなのだろうが、ハッキリと足型が残っている部分もあって生々しい。





 さて、血生臭い話はこのくらいにして、ここからは琳派の話をしよう。

 解説書などによると、琳派は本阿弥光悦と俵屋宗達(たわらやそうたつ)が創始したということになっている。では、この二人の関係はどういうものだったのだろうか。

 俵屋宗達は、自ら絵を制作して売っていた京の商人である。その店の屋号が俵屋だったため俵屋宗達と呼ばれているが、正式な苗字はよく分かっていない。野々村(ののむら)だったのではないかという説があるが、確かではない。

 正式な名字に限らず、この有名な画家の生涯は分かっていない部分が多いのである。生まれた年も分からなければ、その先祖がどういう人だったのか、どういう経緯で絵の世界に入って売り絵の商売を始めたのか、無名時代のことの多くは不明である。

 ただ、彼には絵の才能があり、俵屋の絵が売れていたのは事実のようだ。当時描いていたのは扇の絵が中心だったようだが、評判を呼んで商売はうまくいっていたらしい。この無名だが才能ある若手絵師に目をかけたのが、当時押しも押されもせぬ京の総合芸術家、本阿弥光悦だったのである。

 俵屋宗達が初めて名を成すのが、厳島神社(いつくしまじんじゃ)に伝わる平家納経(へいけのうきょう)の修復作業であるが、これは当時広島地方を治めていた大名の福島正則(ふくしままさのり)の依頼によるものである。ここに突然、一介の町絵師俵屋宗達が登場するのは、本阿弥光悦の仲介によるものと言われている。

 これを機に、俵屋宗達は皇族や貴族からも注目されるようになり、屏風絵の注文なども来る。やがて宗達は法橋上人位(ほっきょうしょうにんい)という僧位を与えられるまでになる。僧位は僧侶だけでなく仏師や絵師にも与えられたが、かなり稀なことであり、これを賜ることは一流の証であった。





 俵屋宗達と言えば、有名な風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)が思い浮かぶが、彼を押し上げた本阿弥光悦との合作もある。鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたえさんじゅうろっかせんわかかん)である。

 20m以上に及ぶ巻物に、金泥、銀泥で俵屋宗達が鶴の群像を描き、その上に本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書いている。休む姿、舞い立つ姿、飛翔する姿など、シルエット的な描き方で鶴の躍動感が見事に描かれており、俵屋宗達の装飾画家としての腕前が如何なく発揮されている。また、その上に書かれた本阿弥光悦の書は、寛永の三筆の名を欲しいままにした代表作と言われている。

 この俵屋宗達の下絵に本阿弥光悦が書を揮毫するタイプの作品はこの時代に幾つか制作されており、両者の関係は緊密だったことが覗える。宗達にとって自分を世に出してくれた光悦は、非常に重要なパートナーだったに違いない。また、宗達の妻は光悦の縁者だったとも言われており、そうだとすれば二人は縁戚関係にあったことになる。

 ただ、俵屋宗達は京の絵画工房の主催者に過ぎず、狩野派(かのうは)や円山派(まるやまは)のように流派を形成して後世に画風を伝えることもなかったせいで、次第に忘れられて行き、江戸時代後期には注目されなくなったと言われている。

 俵屋宗達の最高傑作として名高い風神雷神図屏風は、京の豪商の依頼で制作され建仁寺(けんにんじ)の系列寺院に納められたのだが、これもそのうち忘れられて行く。幕末から明治期にかけて多くの日本絵画が海外に流出するが、俵屋宗達の国宝級の傑作も、海を渡って海外に流れてしまった。風神雷神図屏風が流出しなかったのがせめてもの救いだが、これは建仁寺に所蔵されていたお蔭だろう。個人蔵なら売られていても不思議はなかったわけである。

 さて、源光庵を後にして最後に向かったのは、常照寺(じょうしょうじ)である。実は、最初にバスを降りた地点からすれば、この寺が最も近かったわけだが、この地の歴史を考えると、まずは光悦寺からと思って回り始めたので、常照寺が一番最後になってしまった。

 常照寺の創建は1616年というから、大坂夏の陣の翌年であり、本阿弥光悦とその一族、そして仲間である職人・商人一行がこの鷹峯の地に移ってすぐのことになる。

 光悦寺を紹介した際に書いたが、光悦村は、本阿弥光悦を中心とした日蓮宗信徒の集落だったため、幾つかの日蓮宗の寺院があったが、今に残るのは光悦寺とこの常照寺のみのようだ。

 常照寺は、日蓮宗総本山の久遠寺(くおんじ)21世だった日乾(にっかん)を招いて創建されたもので、その前身として光悦の養子だった本阿弥光嵯(ほんあみこうさ)の建てた法華の鎮所があったともいう。

 やがて常照寺境内に、日蓮宗の僧侶の学問所として鷹峯檀林(たかがみねだんりん)が置かれ、明治期に廃止されるまで栄えたという。最盛期には大小30余りの堂宇が並び、数百人の学僧が学んでいたと、寺でもらったパンフレットに書かれていた。





 この寺は、吉野太夫(よしのたゆう)ゆかりの寺として知られ、お寺側としては、光悦村の旧跡というより、この吉野太夫の方を推したいらしい。私が訪ねた際にも、吉野太夫に関するビデオを流しているので、まずはそれを見て下さいと案内された。

 吉野太夫は、京の花街である島原(しまばら)で、最高位の芸妓に与えられた名の一つであり、江戸の吉原における花魁(おいらん)に相当する地位にあった。その名は代々受け継がれたため歴代幾人も吉野太夫がいるわけだが、常照寺ゆかりなのは二代目の吉野太夫である。本名を松田徳子というと、常照寺でもらったパンフレットにあった。江戸時代の人にしては、何だか現代風の名前である。

 境内の案内板によれば、徳子は西国の武士の子として生まれたという。ただ、故あってわずか7歳でこの世界に入っている。最初は芸妓の世話係である禿(かむろ)だったが、14歳にして太夫に昇進している。美貌と才能に恵まれていたのだろう。

 最高位の芸妓ともなると、舞や琴、琵琶といった歌舞音曲の腕前もさることながら教養も必要で、和歌や俳句のほか、茶道、華道、書から囲碁、双六まで一通りマスターしていたという。また、寺内で見たビデオによれば、宮中に参内できる正五位の位を授けられていたようだ。実際に皇族や公家の相手も務めている。芸妓といっても、一般に想像するようなイメージとは異なる存在だったのだろう。絵に残る彼女の姿も、どこかおっとりとした風情がある。

 太夫になるほどの女性だから当たり前だが、絶世の美貌を誇ったようで、その名は全国にとどろいていた。また、ビデオの解説によれば、その美しさは海外にも聞こえていたらしい。江戸時代前期に書かれて評判を取った井原西鶴(いはらさいかく)の好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)にも、この吉野太夫が登場する。

 吉野太夫は人情に篤いだけでなく信仰にも熱心で、常照寺を創建した日蓮宗の僧、日乾に帰依していた。お寺のパンフレットでは、太夫は本阿弥光悦の縁故により日乾と知り合ったとある。いったいどんな縁だったのだろうか。

 花街の芸妓というと、我々のイメージからすると花街の外には出られないと思いがちだが、現実には許しを得て門の外に出ても良かったらしい。吉野太夫も洛中からこの常照寺に幾度もやって来ていたと聞く。

 彼女の信仰心の現れを物語るものが、常照寺に残されている。その一つが有名な赤門で、わずか23歳で彼女が寄進したという。太夫ともなると、それだけの財力があったのだろうか。吉野の赤門、あるいは吉野門として知られ、鷹峯檀林が出来てまもなくに建てられている。常照寺のシンボルとしてよく写真に登場しているので、ご覧になった方もいるかもしれない。





 もう一つ、吉野太夫の信仰の篤さを物語るものとして、太夫ゆかりの茶室、遺芳庵(いほうあん)がある。これは境内の一角に林に向かって建てられているが、壁に大きな丸窓がつけられている。

 彼女が好んだ茶室で、その丸い窓は吉野窓と呼ばれている。この丸窓は完全な円になっておらず、窓の下部分がわずかながら平面になっている。

 寺内で見たビデオの解説によれば、円とは仏教における完全を意味する形で、いわば悟りの境地を表すという。窓の下部分をわざわざ削ったのは、吉野太夫がまだそこに至らぬ自らの境地を表したのだという。

 この茶室では、今でも彼女を偲んで毎月茶席が設けられ、賑わうという。

 そんな彼女だが、26歳の時に本阿弥光悦と縁戚関係にあった京の豪商、灰屋紹益(はいやしょうえき)に身請けされ正妻になっている。苗字の灰屋は屋号でもあり、藍染めに使う灰を扱う商売をしていた。紹益は商人ながら茶道、華道、和歌、書画などにも通じた文化人であった。紹益の親はこの結婚に反対で、二人は駆落ち同然で一緒になったとビデオで解説されていた。

 仲睦まじく暮らした二人だが、吉野太夫はわずか38歳の若さで病没する。夫の紹益は悲しみのあまり太夫の骨を飲み下したという。この稀代の芸妓の墓は、遺言により常照寺内に建てられた。

 吉野太夫を偲んで毎年4月に、常照寺で吉野太夫花供養が行われる。このときには、現在の島原の太夫が、内八文字(うちはちもんじ)という独特の歩き方でお供を多数連れて常照寺に参詣する。そして吉野太夫の墓に参った後、茶を点てる。一般人も、太夫のお点前を頂くことが出来るようだ。私は現在でも島原に大夫がいるのを知らなかったので、ビデオで見てビックリした。

 後日談になるが、吉野太夫がいた島原とはどんなところだったのかと興味を覚えて訪ねたことがある。現役の吉野太夫がいる以上、それを抱える店なり置屋なりがあるはずだと思って探したのである。





 常照寺ゆかりの二代目吉野太夫がいた当時の島原は六条三筋町と呼ばれる場所にあったようで、その当時の名前は島原ではなかった。元々この花街は、二条柳馬場という地に公式に認められて始まったもので、その後六条三筋町に移転する。そして再度、西新屋敷という場所に移転を余儀なくされる。この慌ただしい移転騒動が島原の乱の騒動になぞらえられて、西新屋敷ではなく島原と呼ばれるようになったと、現地の解説板に説明されていた。

 現地に行くと分かるが、この西新屋敷の地は、平安時代に海外からの使節の接待に利用された東鴻臚館(ひがしこうろかん)の跡地である。東鴻臚館自体は平安時代のうちに廃止になっているが、同じ接客の場所が再びここに置かれたというのは偶然の一致だろうか。

 現在残っている島原は、この西新屋敷の島原である。場所は、西本願寺(にしほんがんじ)から西に行きJR山陰線の線路に突き当たる辺りである。そのすぐ北には、京都の中央卸売市場がある。今の島原は、普通の住宅地となっている。当時の花街の面影を残す建物が幾つか残っているが、それぞれの施設の前にある案内板を読まなければ、花街の名残の建物だとは気付かないかもしれない。

 当時の島原には、太夫や芸妓がいる置屋(おきや)と、そこから太夫、芸妓を呼んで座敷で料理を出して客をもてなす揚屋(あげや)の二つがあったようで、揚屋は太夫や芸妓を抱えていなかったと、説明されていた。

 現在残っている主な遺構は、入り口にあった島原大門(しまばらおおもん)、揚屋だった角屋(すみや)、置屋だった輪違屋(わちがいや)の3つである。他には、島原の鎮守の神とされていた島原住吉神社が、明治期に一旦廃止された後に有志の手で再建されている。

 上の掲げた写真が現在も営業をしている輪違屋で、ここに現役の吉野太夫がいるようだ。常照寺の吉野太夫花供養を支えているのも、この吉野太夫ということになる。

 下の写真が、常照寺境内にある吉野太夫の墓である。歌舞伎など芸能に携わる人が参詣に訪れると聞く。太夫は元々、遊女などが行う女歌舞伎の名役者に付けられた名前で、幕府によって女歌舞伎が禁じられた後、芸妓の呼称として取り入れられていく。太夫と歌舞伎は深い縁で結ばれているのである。





 さて、長々と吉野太夫の話を書いたので、そろそろ話題を琳派に戻し、その後の時代に琳派がどう発展していったのかを見ていこう。

 本阿弥光悦と俵屋宗達という先駆者二人が亡くなると、流派を形成しなかった琳派の火は一旦消えるのだが、数十年の時を隔てて、その二人の火を受け継ぐ者が現れる。尾形光琳(おがたこうりん)と尾形乾山(おがたけんざん)の兄弟である。

 尾形家は、京で呉服商を営む裕福な家系であった。尾形光琳も乾山も、本阿弥光悦や俵屋宗達と一面識もないのだが、尾形家と本阿弥光悦は細い糸で結ばれている。光悦は生前、京きっての文化人として様々な交友があったが、雁金屋(かりがねや)の屋号で商売をしていた尾形家とも親しくしていたのである。そのため、光悦が開いた鷹峯の光悦村にも尾形家の屋敷があり、光悦の一族が鷹峯を去った後も、尾形家は鷹峯に屋敷を所有し続けたと伝えられる。

 そんな流れからか、尾形家当主は絵や書に親しむ文化人でもあり、光琳や乾山の父である尾形宗謙(おがたそうけん)も絵や書のほか、茶の湯や能に通じていたという。

 家業の雁金屋は豊臣・徳川などを顧客に持つ大店だったが、光琳の時代には、2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘で、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮だった東福門院(とうふくもんいん)こと徳川和子(とくがわまさこ)の贔屓を受けていた。ところが、宗謙の時代に東福門院が亡くなると売上げが減り、家業は傾き始める。光琳の兄が家業を受け継いだときには雁金屋は事実上破たんしており、光琳は自分で食べる道を探す必要に迫られる。そこで光琳が志したのが絵の道である。光琳は30代であった。

 たまたま絵の才能があったせいか、光琳は公家や武家に顧客を持つことが出来、裕福ではなかったものの、芸術の世界で生計を立てていくことに成功する。大型の屏風絵のほか、扇や団扇の絵も描き、工芸にも手を出した。呉服商という出自が影響してか、装飾性やデザインを意識した画風で、そこが本阿弥光悦や俵屋宗達と相通じるところがあったようだ。

 光琳の代表作として知られているのは燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)や紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)だが、宗達の影響を強く受けた光琳は、宗達の代表作、風神雷神図屏風を模写して遺している。光琳なりの工夫も取り入れられ、並べてみると両者の違いが分かって面白い。なお、光琳は宗達と同じく法橋上人位の僧位を授かっており、画家としては一流の評価を受けていたようだ。

 やがて懇意にしていた京の武家が江戸へ移転するのに伴い、自身も京を離れて江戸に移住する。この間、江戸の商人たちに顧客層を広げたが、やがて京に戻り、晩年を二条城の東に建てた屋敷で過ごした。





 一方、弟の尾形乾山も家業没落により生計の道を探さざるを得ず、兄が主に絵の道で糊口を凌いだのと異なり、陶芸の世界に入る。乾山の陶芸の師は、近くで御室窯(おむろがま)を構えていた野々村仁清(ののむらにんせい)である。二人は仁和寺(にんなじ)の近くに住んでいた。野々村仁清は本阿弥光悦や俵屋宗達とは関係がなく、光悦の手びねりの楽焼とは異なり、轆轤(ろくろ)の技に長けていたという。

 乾山は、自由な発想の下で様々な新しいうつわを生み出す。また、兄の光琳が絵付けをしたものも多く、デザイン性に優れて人目を惹いたようだ。ただ、生計を立てることは出来たものの、大きな成功をつかむまでには至らず、最後は江戸で生涯を終えた。

 家業の行き詰まりから芸術の世界へ入った尾形光琳・乾山兄弟だが、この二人も実質的に一代限りとなる。光琳は息子を養子に出して絵師にしなかったし、乾山も陶芸の指導は行ったが、後継指名して後に続くような流派は作らなかった。

 その後、時代は流れて、尾形光琳・乾山兄弟が没して数十年後、光琳に私淑する一人の絵師が江戸に現れる。酒井抱一(さかいほういつ)である。

 抱一が出た酒井家は、元は三河の地場の領主だが、抱一の家系は途中で別れて、雅楽の演奏を継承する雅楽頭(うたのかみ)を名乗っていた。雅楽頭といっても朝廷に仕えていたわけではなく、徳川家の家臣を務める武家である。抱一の父は姫路藩主の庶子として側室との間に生まれ、藩主を継ぐことはなかったが、抱一の兄が後に姫路藩主となっている。今まで出て来た琳派の担い手はみな町人だったが、抱一は初めての武家出身ということになる。

 兄が家督を継いだ以上、武家としての抱一の出番はなく、次第に抱一は芸術の世界に没頭していくことになる。元々雅楽頭を名乗る酒井家では、歴代当主に文化のたしなみがあり、抱一も若い頃から絵に親しんでいた。

 また、松尾芭蕉(まつおばしょう)の高弟だった宝井其角(たからいきかく)と血縁があったことから俳諧にも興味を持ち、多くの句を詠んでいる。

 そんな抱一に転機が訪れるのは兄の死によるものであり、世代交代が進む中でいつまでも生家の厄介になっているわけにはいかなくなったのである。かくして抱一は武士の身分を捨てて出家するのだが、寺には入らず在野に暮らす。抱一を名乗るようになるのもこの頃である。

 抱一は出家後、益々芸術分野にのめり込み、様々なジャンルの文化人と交友を持つ。経済的には生家に支えられていたから、暮らしに心配がなかったのである。こうした中で抱一が発見したのが尾形光琳の画業である。





 尾形光琳の尾形家が本阿弥光悦と細い糸でつながっていたように、抱一の酒井家と尾形光琳も細い糸でつながっていた。懇意にしていた武家の江戸移転に伴い光琳自身も江戸に移住したと書いたが、その時江戸で姫路藩主の酒井家の知遇を得て扶持を与えられていたのである。その名残で、江戸には尾形光琳の影響を受けた絵師たちがいた。

 抱一は光琳の足跡をたどりながら、俵屋宗達まで遡り、その画風を体系的に整理した。これが今日言われる琳派という概念の形成につながる。抱一のこの研究がなければ、琳派というひと固まりの捉え方はなかったのかもしれない。

 そのうえで抱一は寺を借り、光琳没後100年に当たる年に光琳の回顧展を開く。更に研究を重ねて弟の尾形乾山も発掘し、その成果を書籍に残している。これが後に、尾形光琳・乾山の評価に大いに寄与するのである。

 この一連の研究の中で抱一は、尾形光琳・乾山や本阿弥光悦・俵屋宗達の作品に触れ、多大な影響を受ける。こうした活動の中で抱一が至った画風が、江戸琳派(えどりんぱ)と呼ばれるものである。

 抱一は、現在の台東区根岸に雨華庵(うけあん)と名付けた住居を設けて精力的に創作活動を行った。彼の代表作とされる夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)は、俵屋宗達や尾形光琳を強く意識して描かれたものである。尾形光琳は上に書いたように、私淑した俵屋宗達の風神雷神図屏風を模写したが、酒井抱一はなんと、この光琳の風神雷神図屏風の裏側に夏秋草図屏風を描いているのである。

 夏秋草図屏風は、雨に打たれる夏草と、風になびく秋草を左右に描いた作品だが、位置関係としては、風神雷神図屏風の雷雨を呼ぶ雷神の裏側に雨に打たれる夏草を描き、風を呼ぶ風神の裏側に風になびく秋草を描いた。何とも粋な趣向だが、作品保存の観点から現在では、二つの作品は引き剥がして別々の形で保存されている。

 また、抱一自身も、尾形光琳作の風神雷神図屏風を忠実に模写している。光琳が俵屋宗達の風神雷神図屏風を模写したのと同じことをしたのである。従って、名の知れた琳派の風神雷神図屏風は、宗達・光琳・抱一の都合三枚(屏風の数え方に従えば三双)あるわけで、いずれも琳派の大御所作ということになる。





 酒井抱一は自らが再発見し発展させた琳派が途絶えぬよう、門人も育てた。その後継者の中でも有名なのが、鈴木其一(すずききいつ)である。彼のことにも少し触れておきたい。

 鈴木其一は絵師であるが、その名はどの程度知られているのだろうか。彼の代表作の一つである朝顔図屏風(あさがおずびょうぶ)や群鶴図屏風(ぐんかくずびょうぶ)はインパクトがあって、現代作家の作品と紹介されても誰も疑わない斬新さを持っている。おそらくご覧になれば、この絵は写真で見たことがあるよという方が多数おられるに違いない。

 其一は、江戸の染物屋に生まれた。子供時代に酒井抱一に弟子入りしていたが、酒井家の家臣で同じく抱一の弟子だった鈴木蠣潭(すずきれいたん)が亡くなり同家の跡取り問題が浮上すると、其一は見込まれて鈴木家に養子に入る。ただ、絵の道は続け、やがて絵師として身を立てるのである。

 時代を先取りし過ぎたのか、其一の評価はそれほど高くなかった。お蔭で作品も散逸し、代表作の多くは海外に渡っている。それが其一を益々国内で目立たなくしているのだろう。

 ここまで代表的な琳派の作家を見て来たが、近代以前の芸術家の中で、こうした形でひとまとまりのグループを形成している例は珍しい。上に書いたように、会ったことも、ましてや教えを受けたこともない創作者たちが、お互い作品だけでつながっている不思議な芸術の系譜である。芸術といえども、まだまだ徒弟的な色合いが濃かったこの時代において、こうした芸術の一派が誕生したことは、それだけ本阿弥光悦と俵屋宗達の作品が強烈な魅力を放っていたということだろう。





 私は琳派の流れを思うとき、よく浮世絵と印象派の関係を思い浮かべる。浮世絵の作家がどんな人物であるかを全く知らないにもかかわらず、印象派の画家たちは船で運ばれて来た作品を通じて浮世絵師に私淑した。ゴッホが浮世絵の模写に熱心だったのは有名だが、浮世絵の構図や色使い、描線中心の描写から強い影響を受けた作品が、印象派の画家たちによって幾つも制作された。その多くは、我々も知っている著名作品である。

 印象派と浮世絵を同一の絵画グループに分類することはないが、琳派の場合には時代を隔てた3つのグループが同じ派に属する芸術家集団と見なされている。それは上に書いたように、酒井抱一の功績によるものだろう。印象派と浮世絵の関係を考えればやや乱暴な扱いだと思われるかもしれないが、まとめて分類しスポットライトを当てたがゆえに、本阿弥光悦と俵屋宗達に始まる系譜の創作者たちが注目を浴びた。こういうグルーピングをしていなかったら、俵屋宗達がそのうち忘れられて行ったように、彼らの何人かは歴史の中に埋もれていったのではなかろうか。

 伝統的な大和絵(やまとえ)をベースにし、豊かな装飾性やデザイン性を新たに加え、絵だけでなく書などとのコラボレーションも取り入れた目新しさに、琳派の特徴があると言われている。尾形光琳の燕子花図や紅白梅図は大和絵と装飾の融合だろうし、本阿弥光悦・俵屋宗達コンビによる下絵と書の組合せなどはコラボの典型だろう。

 彼らは先代の創作者の作品を真似ただけではない。その精神を受け継ぎつつ、進化し続けたのである。そして今なお古びず、我々を魅了する数々の作品を生んだ。そんな彼らの原点である鷹峯の地に立つと、何とも言えない感慨を覚えるのである。本阿弥光悦がいなければ俵屋宗達は見出されず、尾形光琳の作風もまた違ったものとなっていただろう。この地に眠る本阿弥光悦は、自身の存在がこんな形で後世に花開くことを、露ほども思わなかったに違いない。





 上の写真が、光悦寺境内にある本阿弥光悦の墓である。紅葉に目を奪われる拝観者は、路地の先にあるこの場所まではあまり足を延ばさない。

 私はここに暫したたずみ、琳派の原点にいるこの天才芸術家のことを思った。たった一人の先人の行いが、時代を隔てて受け継がれ、自然に一つの流れを形作った。

 果たして光悦は、賑やかな洛中を遠く離れたこの地で、何を思いながら暮らし亡くなったのだろうか。一族と仲間たちが土地を追われて光悦村がなくなった後、光悦の余生を偲ぶものはほとんど残されていないが、全てがここに始まったことを思うと、その存在の偉大さに胸を打たれる思いがするのである。







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