パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■宇治十帖 |
![]() 今回は京都の宇治を紹介しようと思う。宇治と言えば思い浮かぶのは平等院(びょうどういん)、次いで宇治茶だろうか。関西以外の方だと、他に何があるのか分からないのではないか。本日のテーマは、意外なことに、源氏物語(げんじものがたり)である。 日本人なら、読んだことはなくとも源氏物語の名前くらいは知っているだろう。平安中期の文学作品で、全体が54帖から成っており、各帖には作者により名前が付けられている。これまでの研究では、全体は大きく3部構成と言われており、最後の第3部に当たる部分は、有名な主人公、光源氏(ひかるげんじ)が亡くなった後の、子供や孫たちの恋愛物語である。そして、最後の10帖が「宇治十帖(うじじゅうじょう)」であり、宇治を舞台に話が繰り広げられる。この宇治十帖の足跡をたどろうというのが、この日の散策の趣旨である。 宇治まではJR、京阪電車、どちらでも行けるが、回る都合上、今回は京阪を使う。そもそも、大阪から行くならどう考えても京阪の方が便利である。JR環状線で京橋まで行き、そこから京阪の特急に乗って京都に向かう。途中の中書島(ちゅうしょじま)で宇治線に乗り換え、終点の宇治駅まで各駅停車の旅である。 時間的には京橋を出て50分くらいで着くが、相変わらず京都行きの特急は混んでおり、立ち席となる。一方宇治線の方はローカル色の強いのんびりした電車で、ゆったり座って15分程度の旅である。 午前11時頃に宇治に着くようなスケジュールで電車に乗ったが、空はどんより曇り、途中でパラパラ雨が降って来た。天気予報では午後から晴れるといっていたから、そのうち止むだろうと鷹揚に構える。駅に着いたら、まずは早めの昼ご飯である。ゆっくり食事をしているうちに空も明るくなる。 宇治と言えば宇治川、そしてそこに架かっている宇治橋(うじばし)がシンボルであろう。この日の宇治川は、前日雨が降ったせいか、結構な勢いで水が流れている。宇治川はどこから流れて来ているかというと、琵琶湖からである。あまり知られていないことだが、琵琶湖から流れ出ている川は、たった一つしかない。瀬田川(せたがわ)である。これが途中から名前を変えて宇治川となる。では、どこへ流れて行くのか。京都府と大阪府の府境辺りで桂川(かつらがわ)、木津川(きづがわ)と合流し、淀川(よどがわ)となり大阪湾に流れ込むのである。 この宇治川に架かっている宇治橋は、冒頭の写真の橋だが、日本三古橋の一つとなっている。他の二つは、現在の京都府大山崎辺りで淀川に架かっていた山崎橋(やまさきばし)と、琵琶湖のほとりにあって瀬田川に架かる瀬田の唐橋(せたのからはし)である。山崎橋は失われて現在ないが、瀬田の唐橋はコンクリート製に架け替わってはいるものの、今でも瀬田川にある。 最初の宇治橋はいつ頃に架けられたかというと、実はハッキリしない。平安初期の史書である続日本紀(しょくにほんぎ)には既に出て来るので、その頃には架かっていたことになる。 宇治橋には、上流側に向かって橋の真ん中辺りに突き出た部分がある。上の写真は下流側から撮ったものなので見えないが、向こう側の端の真ん中にあって、よくここで皆さん記念撮影をしている。これを「三の間」と言うらしい。 この三の間はかつて、宇治橋の守り神である橋姫(はしひめ)を祀っていた場所である。豊臣秀吉は、ここから茶の湯に使う水を汲ませたらしく、今でも毎年10月に行われる「宇治茶まつり」のときに「名水汲み上げの儀」が行われるようだ。そして、その年の新茶で作られた抹茶とこの名水でお茶を点て、献茶が行われる。実際、人が飲むのかどうかは知らないが、まぁ沸かして使うから大丈夫でしょ(笑)。 さて、宇治橋を渡った西のたもとには、源氏物語宇治十帖の古蹟の一つがある。 ![]() この石はいったい何だということになるが、昔の人が作ったモニュメントだと思えばよい。源氏物語最後の10帖である宇治十帖は、宇治を舞台に書かれていて、古来より多くの人に愛読されて来た。そのうち、「各帖の舞台はここではないか」あるいは「ここであって欲しい」はたまた「ここが一番イメージにピッタリだ」といった場所に、いつのまにか古蹟が置かれたのである。つまり、この宇治に、宇治十帖の各帖の舞台として古蹟が10箇所あるというわけである。本日の散策の目的は、この10箇所を全て制覇しようという、いわばオリエンテーリングである。 で、早速一つゲットしたわけだが、これが宇治十帖の最終帖「夢浮橋(ゆめのうきはし)」の古蹟である。始まったばかりなのに、いきなり物語の最終回ってどういうわけだ、というご意見もあろうが、ルートの都合上、話の最初から順を追って回っていくというわけにはいかないのでご容赦願いたい。 宇治十帖は、2人の男と3人の女が宇治を舞台に繰り広げる恋愛を描いている。男の一人は薫(かおる)で、光源氏の息子ということになっているが、実は光源氏の妻が浮気してもうけた子供である。もう一人は匂宮(におうのみや)で、こちらは正真正銘の光源氏の孫である。一方女性陣だが、3人とも光源氏の弟に当たる宇治八の宮(うじはちのみや)の娘である。正妻との間に生まれた宇治の大君(うじのおおいきみ)、宇治の中君(うじのなかのきみ)、そして宇治八の宮に仕えていた女房との間に生まれた浮舟(うきふね)である。 宇治八の宮と親しくなった薫は、二人の娘が同居しているのを知り、匂宮を誘って足しげく宇治を訪ねる。薫は姉の宇治の大君を気に入る傍らで、妹の宇治の中君を匂宮とくっつけようとする。そのうち父の宇治八の宮が亡くなり、宇治の大君は、自分は独身のまま宇治で父の菩提を弔うことにし、妹の宇治の中君を嫁がせて幸せにしたいと願う。姉の宇治の大君は、妹の宇治の中君と薫を近付けようとするが、逆に薫に言い寄られてうまくいかない。やがて妹の宇治の中君は匂宮と結ばれることになるが、一方姉の宇治の大君は病に臥せって亡くなってしまう。 姉の宇治の大君が亡くなって大ショックの薫は、妹の宇治の中君に姉の面影を求めて言い寄ってみたりするが所詮は他人の妻。言い寄られて困った宇治の中君は、一度訪ねて来た縁者が姉によく似ていたと話す。それこそが、宇治八の宮のもう一人の娘、浮舟であった。やがて、宇治の大君・中君姉妹の世話をしていた女房を宇治に訪ねた薫は、偶然に浮舟に会い、一目ぼれする。一度は結ばれた薫と浮舟だが、匂宮と結ばれた宇治の中君の屋敷に、実家の事情から一時浮舟が身を寄せることになったために歯車が狂い始める。匂宮も浮舟を見て気に入ってしまうのである。 両方から言い寄られ、薫と匂宮のさや当てが演じられる事態に至って、浮舟はどうしていいか分からなくなり失踪する。やがて薫と匂宮の元に浮舟が宇治川に身を投げたとの訃報が届く。二人は衝撃を受けてふさぎ込み、失意の日々を送る。 舞台は変わって、現在の滋賀県大津。横川の僧都(よかわのそうづ)と呼ばれる僧侶の母親と僧都の妹が、たまたま立ち寄った宇治で正体不明の若い女と出会い、連れて帰って来る。彼女は入水自殺しようとして死に切れず精神的ダメージを受けてこんな状態になった浮舟なのだが、何一つ身の上を語ろうとはしない。僧都の妹は出家を望む浮舟を思いとどまらせようとするが、様々な経緯の末に僧都の手により出家することになる。 人づてにこの話を聞いた薫は浮舟に違いないと確信するが、僧都は出家した浮舟の立場を考えて会わせようとはしない。薫は、せめてもということで浮舟の弟である小君(こぎみ)を呼び寄せて手紙を託し、浮舟に会わせることにする。几帳越しに渡された手紙を読んだ浮舟はハラハラと涙をこぼすが、小君と顔を合わせようとはしない。そして、心当たりはないと答えるのだった。 話は概ねここで終わる。薫と浮舟は再び結ばれることなく悲恋物語は幕を閉じるのである。源氏物語最終帖の夢の浮橋は、薫が比叡山に横川の僧都を訪ねて面会の取り成しを求めるところから、大津での最後の場面までを書いたものである。 ではどうして舞台が滋賀県なのにここに古蹟があるのかという話になるが、それは私にも分からない。つながりと言えば、宇治川を遡れば琵琶湖のある滋賀県に着くでしょ、といったぐらいしか思い浮かばない。まぁ、あくまでも昔の愛読者のイメージに沿って各帖ゆかりの地が選ばれたのだから仕方ない。この帖の題名である夢の浮橋と宇治橋とが橋つながりということで、納得しよう。 ちなみに、写真の背後に控えているのは浮舟ではなく、作者の紫式部(むらさきしきぶ)である。これは当たり前だが古蹟ではない。 さて、いきなり最終帖から入ってしまったが、次は宇治十帖最初の帖である橋姫(はしひめ)ゆかりの古蹟に行こう。 宇治橋のたもとから既に観光客でかなりの賑わいだが、この人たちはみんな平等院表参道へ向かう。私はその横から延びる道路に沿って南を目指す。こちらはあまり人が歩いていない。ほどなくして道沿いに橋姫神社(はしひめじんじゃ)があった。実に小さな神社であり、祠といった方がいいかもしれない。先ほどのような石碑ではないが、ここが橋姫の古蹟ということになる。 ![]() 予想通り、境内には誰もいない。そもそも何人か入って来たらそれだけで一杯になりそうな狭い境内だから、人がいない方がこちらには都合がよいが…。たまたま平等院からの帰りと思しき数人の観光客が神社前で足を止め、私がいるのを見て、「何なのこれは」みたいな話をしていたが、結局何なのか分からなかったようで行ってしまった。おそらく、ここに立ち寄る人はほとんどいないのではないか。 先ほど宇治川のところで、橋姫は宇治橋の守り神と書いたが、橋姫神社にあった案内板では、正式な名前は瀬織津比刀iせおりつひめ)と言うらしい。災厄を防ぐ祓神(はらえのかみ)であり、川の穢れを海に流す水神(すいじん)でもある。橋の安全を願って橋姫を祀ることは、他の橋でも見られたようだ。橋姫は美しい女神とされている。 宇治の橋姫は、最初宇治橋の中ほどにある三の間に祀られていたが、やがて宇治橋の西のたもとに移される。先ほどの夢の浮橋の古蹟があったのが宇治橋の西のたもとなので、あの周辺ということだろうか。ところが、洪水でこれが流されてしまって、現在の場所に改めて祀られたらしい。従って、源氏物語の時代には、ここには橋姫神社はなかったことになる。 ただ、宇治の橋姫自体は当時から、古今和歌集(こきんわかしゅう)にも登場するほど名を知られている存在であった。橋姫という帖の題名は、宇治八の宮の娘二人の境遇を思いやって薫が詠んだ「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」という歌にちなんでいる。ここでは娘二人を橋姫に見立てているのである。 ところで、宇治の橋姫と言えば、源氏物語が書かれた頃には既に知られていたはずのもう一つの話がある。紫式部の時代から百数十年前の嵯峨天皇(さがてんのう)の時代の話である。 ある公卿の娘がたいそう嫉妬深く、恋敵の女を殺すために、京都の貴船神社(きふねじんじゃ)に籠って、自分を鬼に変えてくれと祈る。貴船の神様は、それでは宇治川に一定期間つかれと告げる。女は鉄輪(かなわ)を頭に載せてたいまつをくくり、全身を赤く塗りたくって、さながら鬼の恰好で宇治川につかり続けた。そうすると、貴船の神が告げたように、本当に鬼になってしまった。 鬼になった女は、恋敵だけでなくその家族や縁者、そして自分が恋した男やその親族まで次々に殺してしまい、挙句の果てに誰でもかまわず殺すようになってしまった。まさに鬼になったのである。この鬼の名が宇治の橋姫である。この伝説の影響で、橋姫神社は縁切りの神としても有名になったようで、悪縁を切ってくれるというご利益があるらしい。しかし、そんな鬼女にすがって大丈夫かという気がする。 ところで、この話には後日談がある。公卿の娘が鬼になって百年以上後になってのことである。平安京にあった一条戻橋(いちじょうもどりばし)で、武将の渡辺綱(わたなべのつな)がこの宇治の橋姫と出会うのである。 渡辺綱はある夜、所用で一条戻橋近くへ行くことになる。用を済ませて帰ろうとすると、一条戻橋のたもとに若く美しい女がいて、五条まで送って欲しいと言う。怪しいとは思ったが女を馬に乗せ五条に向かったところ、途中で京の郊外にある家に帰りたいと言い出す。渡辺綱が了解した途端、女は鬼の姿になって、我が家は愛宕山だと言い、渡辺綱の髪をつかんで宙に舞う。渡辺綱は刀を抜いて、髪をつかんだ鬼の腕を切り落とし難を逃れる。鬼は、腕は必ず取り返すと言って愛宕山の方に消えた。 切った鬼の腕を、有名な陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい)に占ってもらうと、大凶という結果が出る。渡辺綱は晴明から、腕を箱に封じ込めて一定の期間家にこもり誰も入れるなと言い渡される。読経しながら家にこもっていたら、最後の日に渡辺綱の伯母が遠方より訪ねて来る。一旦は断るが、苦言を述べられつい入れてしまう。伯母から事情を尋ねられ説明したところ、その鬼の腕を是非見たいとせがまれる。仕方なく、箱から鬼の腕を出したところ、伯母は突然鬼の姿に変わり、我が腕をもらっていくぞと叫び、屋根を蹴破って飛び去る。この鬼が橋姫というわけである。 さて、宇治十帖では橋姫の帖で、宇治八の宮の現在の境遇と、薫との交流、娘の宇治の大君・中君姉妹との出会いなどが描かれている。宇治八の宮は光源氏の弟だが、過去のいきさつから両者は気まずい関係になり、世間の表舞台からは消えた不遇の存在である。加えて、京の邸宅が火災に遭い、宇治でひっそりと暮らしている。娘を残して妻に先立たれた状態で、世を捨てて出家したいと考えている。この姉妹に興味を持った薫が、プレイボーイで鳴らす匂宮を引き込むところから、話がスタートするのである。 さて、次に行く前に、橋姫神社の前の通りを突き当りまで進み、角にある縣神社(あがたじんじゃ)に立ち寄ることにする。観光客など誰もいない、静かなこじんまりとした神社である。 ![]() 残念ながら、ここは宇治十帖の古蹟とは関係がない。創建年代は不明であるが、かなり古い神社だと思う。従って、源氏物語の時代には既にあった神社なのだろう。 境内の神社の縁起を読むと、祭神は、天孫降臨(てんそんこうりん)で有名な邇邇芸命(ににぎのみこと)の妻、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。古くからこの地域の地主神であったという。古代における日本の地方行政制度には縣(あがた)という地方行政の単位があって、そこを支配する豪族が懸主(あがたぬし)という役職に就いてその地を治めた。縣を名乗る神社は全国にあるので、宇治の縣神社の名も、この地域にあった縣にちなんだものと思われる。 その後平安朝の時代になって、藤原家がここに平等院を建てることになった際、この縣神社が平等院の鎮守という位置付けになった。 この神社では毎年6月に、懸祭り(あがたまつり)というお祭りがあるのだが、これが暗闇の奇祭として有名らしい。真夜中に全ての灯りを消し、真っ暗な中で梵天(ぼんてん)という変わった神輿が担がれる。この神輿が進む先では、全ての灯りが落とされ、終始暗闇の中で祭りが進む。どういう起源なのかは知らないが、何とも不思議なお祭りである。 この縣神社にも観光客はいない。ちょうど交差点の角で、境内を通ると近道なため、平等院帰りの観光客が通過することはあるが、誰も立ち止まらない。鳥居の脇では犬が寝そぺっている。神社の名前を書いた札を首から下げているので、この神社の飼い犬らしい。私が近くを通ると、気だるげに頭だけ持ち上げてこちらを一瞥し、またごろりと寝てしまった。何とも平和な光景である。 神社のある角を左に曲がり、暫く進むと平等院の南門である。正式には、宇治橋のたもとから延びる表参道から入るのだが、観光バスの駐車場がこちら側にあるため、結構な数の人が南門から出入りしている。 平等院は宇治十帖には登場しないのだが、宇治に来たら取りあえず平等院だし、2012年9月から2014年9月末まで平成の大改修で建物が塗り変わっているので、一目見ようと立ち寄った。平等院には子供時代から何度も来ているが、渋い色合いの木造建築時代の平等院しか知らない。あれは色が剥げ落ちた状態であり、本来の姿としては、以下の写真のようになる。 ![]() こんな立派な建物がどうして源氏物語に登場しないかというと、源氏物語の書かれた後に建てられているからだ。ただ、平等院と源氏物語は無縁かと言われると、実はかすかな糸でつながっている。平等院の前身が、光源氏のモデルと言われる源融(みなもとのとおる)の別荘だからである。宇治十帖の中でも、光源氏の孫である匂宮が、光源氏の長男である夕霧(ゆうぎり)の宇治の山荘に行く話が出て来るが、これは源融の別荘をモデルにしていると言われている。 源融は、源氏物語の時代から百年以上前の貴族であり、そもそもは嵯峨天皇(さがてんのう)の皇子として生まれた。後に皇族から離脱し臣籍降下(しんせきこうか)するが、その時に父である嵯峨天皇からもらったのが、源の姓である。源という姓は、その一族の源が皇室にあることを表している。 源融は、京都六条に河原院(かわらのいん)を建てて住み、左大臣を務めた。この河原院が、源氏物語の光源氏の住まい六条院(ろくじょういん)のモデルとされている。 ところで、源融が別荘を建てた当時の宇治は、どういう位置付けの土地だったのだろう。平安の昔、京に住む貴族は宇治に別荘を持つ者が多かったという。別荘は別業(なりどころ)と呼ばれて、花見や紅葉見物、狩りなどの野遊びに使われていた。京から見れば、宇治はそれほど遠くない地であり、自然に囲まれた風光明媚な休息地と捉えられていたようだ。 一方、平安の世が進み、社会不安などを背景に貴族社会に末法思想(まっぽうしそう)が深く浸透すると、政治の場である都から離れて宇治の別荘にこもり、極楽浄土を願って阿弥陀如来(あみだにょらい)に祈ることが好まれるようになったという。優雅な暮らしを楽しんでいた平安貴族たちも、世相の暗さを反映して、来世の幸福を希求するようになるわけである。 源融の別荘は幾度かの変遷を経て、藤原家当主にして太政大臣の藤原道長(ふじわらのみちなが)の手に渡る。道長はこの別荘を宇治殿(うじどの)と称して愛用していたようだ。紫式部は、この道長と同世代の人なので、源融ゆかりの宇治殿のことは当然知っていたのだろう。道長の死後、長男の藤原頼通(ふじわらのよりみち)が別荘を受け継ぐが、20年以上経った後に寺院に改めようとする。現在の有名な鳳凰堂が建立されるのは、この頼通の時代である。 時代は平安後期に入っており、藤原氏中心の摂関政治が翳りを見せ、武士が台頭する時代であった。治安が乱れ、寺社も堕落して末法思想が広まると、厭世観が台頭した。そんな時代にあって、貴族社会においても死後の幸せを希求する傾向が強くなり、藤原頼通はこの宇治の地に、極楽浄土を再現しようとしたのである。 極楽浄土は、はるか西のかなたにある阿弥陀如来のいる聖地という位置付けであるため、貴族はきそって寄進をして阿弥陀如来を祀る寺院を建て、場合によっては自身の邸宅や近隣に自分用の阿弥陀堂を造り、阿弥陀如来を崇拝した。そういう意味で平等院鳳凰堂は、藤原家の阿弥陀堂であるが、皇族や貴族の手によって建てられた当時の寺院のうち、戦火に遭わずに現存するのは、この鳳凰堂だけなのである。 鳳凰堂は極楽浄土を再現した建物なので、本来の装飾はかなり華やかで色彩豊かなものである。それが長年のうちに剥げ落ち、我々の多くは渋い木造建築としての鳳凰堂しか知らない。以前に鳳凰堂内を見学した時には、その装飾の痕跡を案内の人が解説してくれたのだが、今回の平成の大改修で内装がどう復元されているのか、ちょっと興味があった。しかし、この日の内部見学の待ち時間は1時間半で、やむなくパスする。改修後の一般公開スタートから既に半年以上が過ぎていたので、そろそろ空いているだろうと甘く考えていたが、さすがに人気が高い寺だと、改めて感心した。 平等院の見学コースをぐるりと一周して、再び南門から出る。歩く都合上、こういうコースになる。この日は結局、平等院の表参道には一切足を踏み入れなかった。 再び宇治十帖の古蹟を巡る散策に戻る。平等院南門に面した道を宇治川方向に進み、宇治川に突き当たると川沿いを歩く。この川沿いの道は、あじろぎの道という名前が付いている。平等院の表参道の脇から延びていて、宇治川沿いを散策できる。石畳が敷かれた静かな道で、宇治川を見ながらそぞろ歩くにはピッタリである。そのあじろぎの道をたどって行った宇治川沿いに、宿木(やどりぎ)の古蹟がある。 ![]() 宿木は、宇治十帖5番目の帖である。薫と匂宮の宇治行きの詳しい経緯を知らない京では、二人にそれぞれ縁談話が持ち上がり、双方とも高貴な筋から妻を迎えることになる。当時既に宇治の大君は亡くなり、妹の宇治の中君は匂宮と結ばれている。一夫多妻制的な時代のことだから、ここで更に匂宮が妻を迎えても、不自然ではなかったのだろう。 薫は縁談が決まっても亡き宇治の大君のことが忘れられないばかりか、最初宇治の大君から勧められた通り、妹の宇治の中君と結ばれていたら良かったのに、と逡巡する。そのうち匂宮の留守中に宇治の中君に言い寄ってみたりと迷走の限りを尽くすのだが、言い寄られて困った宇治の中君が、ふと異母姉妹の浮舟のことを口にするのである。 宇治の大君にそっくりな娘と聞いて心穏やかならぬ薫は、正式の妻を娶り新婚早々なのに宇治を訪ね、たまたま浮舟に出会う。確かに宇治の大君そっくりな姿を見てすっかり気に入り、二人は結ばれる。まぁこんなことも当時はあったのかもしれない。今だったら新婚早々浮気をして、とんでもないヤツだと罵倒されるのは必定だが…。 宿木という帖名は、薫が宇治で詠んだ「宿りきと思ひ出でずば木のもとの旅寝もいかに寂しからまし」という歌に由来する。亡くなった宇治の大君のことが忘れられない薫は宇治に赴き、宇治八の宮の旧宅に阿弥陀堂を建てることにする。屋敷を去り際、晩秋の庭で木を伝う蔦が紅葉しているのを見て、この歌が詠まれるのである。宿木は、この蔦のことでもあり、この家に何度か訪れた自分のことでもある。 ただ、ここがどうして宿木の古蹟の場所なのかはよく分からない。この古蹟、昔はもっと奥にあったとも伝えられている。いつの間にか忘れ去られた謂れがあったのかもしれない。 この宿木の古蹟のある場所から宇治川を眺めると、のどかで美しい情景である。平安時代はもっと自然豊かで素晴らしい場所だったに違いない。この先は、川の対岸を散策することになるので、川沿いを戻って宇治川の中洲にかかる喜撰橋という朱塗りの橋を渡る。橋のたもとには土産物屋や飲食店が並び、賑やかなエリアである。観光客も多く、三々五々散策をしている。こんなに人がいるとは思わなかったので少々驚いた。 橋を渡った先の中州は塔の島と呼ばれている。それはここに十三重石塔が建っているからだ。 ![]() この石塔は、鎌倉時代に建てられたもので国内最大の大きさだと聞く。重要文化財にも指定されているこの立派な十三重石塔は、いったい誰を供養するためのものかというと、意外なことに魚である。 宇治川に架けられた橋がたびたび流されるのは、ここで漁をして魚をたくさん殺生したせいだと考えられ、橋の架け替えに当たって、網を使った漁が禁止されることになった。そして、漁具を埋めてその上にこの石塔を建てて、宇治川の魚の供養を行ったのである。 まぁそこまでしたわけだが、今度はその十三重石塔が流され行方不明になる。それを明治期になってから探し出して引き揚げ、現在の形に戻したのである。結局洪水と漁とは関係なかったわけで、漁師さんはとんだとばっちりを受けたことになる。この漁業禁止と十三重石塔建立を指揮したのは、奈良の西大寺(さいだいじ)再興に尽くした叡尊(えいそん)という高僧だが、弘法も筆の誤りというヤツだろうか。 ちなみに、十三重石塔の台座に取り付けられた説明版によれば、この塔の島は古くは浮島と言われていたらしい。洪水に見舞われても決して水面下に沈まないからである。そしてまたの名が浮舟ノ島である。島の名が先なのか宇治十帖が先なのかは知らないが…。 現在でもここでは漁をしていないかというそんなことはなく、周辺の川岸に船がたくさん停泊している。この辺りは、夏の風物詩である宇治川の鵜飼(うかい)の中心地なのである。そうして見ると、先ほどの橋のたもとの飲食店や土産物屋の賑わいは納得出来る。中洲には鵜飼に使う鵜を飼っている小屋もあり、間近に鵜を見ることが出来る。6月中旬から9月下旬までが鵜飼のシーズンのようで、夜になると船で川に出て、篝火を焚きながら鵜飼が行われる。今ではなかなか見ることの出来ない幻想的な光景である。 鵜飼を行う人を鵜匠(うじょう)と言うが、宇治川には女性の鵜匠がいるようだ。それと、宇治川で生まれた鵜の雛を人工飼育した「うみうのウッティー」という人気者の鵜がいるらしい。警戒心の強い鵜が、人に飼われた状態で産卵して雛が産まれるのは珍しいらしく、これが日本で初めての人工飼育と聞く。テレビなどで鵜飼の様子を見ていると、ずいぶん人に馴れているように見えるので、意外なことである。鵜のゲージを覗くのだが、たくさんいて、どれがウッティーなのか分からなかった。 宇治川の鵜飼の歴史は古く、紫式部の時代には既に有名だったようだ。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の記した蜻蛉日記(かげろうにっき)や今昔物語にも登場している。しかし、平安以後の貴族の衰退や、上に記した魚の殺生を戒める風潮の中で徐々に行われなくなり、今の鵜飼が復活したのは大正時代になってからのことと聞く。 さて、塔の島の上流にもう一つ橘島という中洲があり、中島橋という小さな橋で結ばれている。この二つを合わせて中の島と呼ぶようだ。この橘島は、宇治十帖ゆかりの島なのだが、それはこの後述べることにしよう。中の島は周囲を宇治川に囲まれたのどかで気持ちのいい場所で、十三重石塔と鵜が飼われている小屋くらいしかないのだが、結構たくさんの観光客が散策している。 中島橋を渡って橘島に行くと、そこから対岸に朝霧橋という長い朱塗りの橋が架かっている。最初に宇治橋を渡った際、三の間から上流を見たら朱塗りの橋が見えたが、それが朝霧橋だったようだ。この朝霧橋から宇治川の上流を見ると、なかなか風情があっていい感じである。 さて、朝霧橋を対岸に渡ったたもとには、宇治十帖のモニュメントがある。 ![]() これは宇治十帖の古蹟ではない。年代的にも新しそうだ。ただ、ロケーションがいいせいか、観光客が盛んにやって来る。宇治十帖の古蹟の方は、これまで私が見て来た範囲では、誰もいなかったんだが…。 この二人は誰ですかということなのだが、匂宮と浮舟である。一度宇治の中君の屋敷に身を寄せたがために匂宮と鉢合わせになり言い寄られた浮舟を、薫は宇治の別荘にかくまうことにする。浮舟のことが忘れられずに行方を探す匂宮は、薫の別荘にかくまわれていることを探り当てて、宇治まで浮舟を訪ねて来る。浮舟は二人の男から愛されてどちらにも魅了されるのである。匂宮が宇治へ浮舟を訪ねて来たとき、二人は小舟で宇治川に漕ぎ出し、先ほどの中の島に渡る。それをイメージしたのがこのモニュメントである。 モニュメントの傍らには、光源氏という品種の椿まで植わっているという凝った設えである。もっとも宇治十帖は、光源氏死後の話だが…。 このモニュメントの前にある石段を上ると、次なる目的地、宇治神社(うじじんじゃ)がある。 ![]() 宇治神社は創建年代不明の古い神社である。菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)を祭神としているが、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、第15代天皇である応神天皇(おうじんてんのう)の皇子である。応神天皇のお祖父さんは日本武尊(やまとたける)ということで、ギリギリ実在したかどうかの瀬戸際くらいにいる天皇ということになる。ちなみに、武運の神様として日本全国に祀られている八幡神(やはたのかみ)、いわゆる八幡様は、この応神天皇を神格化したものである。 応神天皇は、百済から王仁(わに)という高名な学者を呼び寄せた。王仁は皇子の菟道稚郎子の教育係となり、儒教を教えた。菟道稚郎子は人格・識見とも優れた立派な人物であったらしく、父の応神天皇から皇位を譲られることになる。しかし、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)のことをおもんばかって、兄に皇位についてもらいたいと考える。これに対して兄の大鷦鷯尊は、父の指示だから菟道稚郎子が皇位を継ぐようにと、菟道稚郎子の申し出を辞退する。 応神天皇逝去後に兄弟の譲り合いは3年に及び、菟道稚郎子は空位の期間が長くなることを避けるため、自ら命を絶ったという。こうして皇位を譲られた兄の大鷦鷯尊が即位し、堺に日本最大の陵墓を持つ仁徳天皇(にんとくてんのう)となる。仁徳天皇も徳の高い天皇とされ、民の家の竈から炊飯の煙が上がっていないのを見て3年間租税を免除したというエピソードは有名である。 この菟道稚郎子がどうしてここに祀られているかというと、ここに住んでいたからと言われている。近くに、父の応神天皇の離宮があったということなので、馴染みの土地だったのだろう。 住まいを定めるに当たり、この辺りをさまよっていた菟道稚郎子の前に兎が現れ、菟道稚郎子を振り返り振り返りしながら道案内をしたと伝えられている。これが皇子の名前である「菟道(うじ)」になっている。と同時に、この辺りの地名を宇治というのも、この皇子の住まいがあったからという説がある。 神社内の説明板によれば、この兎は神の使いとされ、みかえり兎と命名されているようだ。このみかえり兎の像が置いてある場所が境内にあり、神社側の説明だと、そこはパワースポットらしい。 さて、神社を出て、すぐ近くの宇治上神社(うじがみじんじゃ)に行く。宇治神社の脇から出て少し歩けば、もう宇治上神社の鳥居が見えるのだが、その手前に宇治十帖の古蹟がある。ここにあるのは早蕨(さわらび)の古蹟である。 ![]() 早蕨は、宇治十帖4番目の帖である。先ほど立ち寄った宿木の古蹟が5番目の帖だったから、その一つ前の話ということになる。 父である宇治八の宮や姉の宇治の大君を亡くした宇治の中君を慮って、宇治八の宮が親しくしていた阿闍梨(あじゃり)が、例年通り蕨や土筆を届けてくれる。その届け物に「君にとてあまたの春を摘みしかば常を忘れぬ初蕨なり」という歌が添えられている。宇治八の宮のために毎年摘んで届けた蕨を、今年もいつも通りお届けします、といった意味なのだが、これを読んだ宇治の中君の返歌が「この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨」である。亡き父の形見として摘まれた早蕨をいったい誰に見せればいいのでしょうと、姉まで失った悲しみを詠っている。この帖の題名である早蕨は、この宇治の中君の歌から取られている。 この帖には、心迷う登場人物が二人いる。薫と宇治の中君である。薫は、愛していた宇治の大君が亡くなったショックから立ち直れず、他方で、宇治の大君は最初、妹の宇治の中君を自分と一緒にさせようと考えていたのだから、匂宮なんかに引き合わせなければ良かったのではと思い悩んでいる。なかなか優柔不断な人なのである。 もう一人の宇治の中君は、父や姉の思い出の残る宇治を出て、京の匂宮の屋敷に移ることに、後ろ髪を引かれる思いでいる。 やがて京に移り住んだ宇治の中君のところへ挨拶方々薫が顔を出し、姉の宇治の大君の思い出話などをする。それがやがて発展して、先ほど宿木の古蹟のところで説明したように、薫の宇治の中君への接近につながり、宇治の中君が関心をそらせようと浮舟の話を持ち出す流れになるわけである。 さて、早蕨の古蹟からは、次の目標地点である宇治上神社(うじがみじんじゃ)が見えている。こちらの宇治上神社は、さっきの宇治神社と違って世界遺産である。何が違うかと言うと、宇治上神社の拝殿と本殿は国宝ということだろうか。そして本殿は、現存する神社の中で最古の建造物というところで、宇治神社とは差がついているではないかと思う。 ![]() 上の写真がその日本最古の本殿である。ちょっと不思議な建物だが、前に賽銭箱が3つあることから分かるように、この中に内殿が3つ並んでいる。祀られているのは、先ほどの宇治神社同様、菟道稚郎子命で、他にその父応神天皇、そして異母兄の仁徳天皇である。それじゃあ、宇治神社と変わらないじゃないかと思われるかもしれないが、実際、宇治神社と宇治上神社は古来より、2つで1つの神社として扱われていたらしい。 江戸時代までは、二社合わせて宇治離宮明神(うじりきゅうみょうじん)と呼ばれていたと聞く。宇治離宮とは、宇治神社のところで述べた応神天皇の離宮のことを指している。そんな二社一体の神社が泣き別れて、片方が世界遺産になったわけである。何だか菟道稚郎子と大鷦鷯尊(仁徳天皇)の兄弟を思い出してしまった。 ところで、この主祭神の菟道稚郎子だが、この人が源氏物語宇治十帖の宇治八の宮のモデルではないかという説があるようだ。紫式部がそうだと言っているわけではないから推測に過ぎないわけだが、そういう意味では、宇治神社、宇治上神社とも宇治十帖とゆかりがないわけではない。 それにしても小さな神社で、鳥居をくぐれば拝殿が目の前にあり、その背後に回ると本殿がある。ほぼそれだけである。これが世界遺産とはねぇと思ったが、大きさではないのだろう。 先ほどの宇治神社もこの宇治上神社も、混雑するほどではないが観光客がひっきりなしにやって来る。なかなかの人気のようで、意外な感じがした。私はてっきり平等院から外れると、訪れる人などほとんどいないだろうと思っていたのだ。 もう一つ、境内に珍しいものがある。お茶で有名な宇治だが、以前は宇治七名水と呼ばれる湧き水があったと聞く。そのうち現存するものは、桐原水(きりはらみず)と呼ばれる一つしかないのだが、それがここにあるのである。 拝殿右脇に木造の小屋があり、降りていって今でもこんこんと湧く桐原水を汲むことが出来る。 ![]() 誰でも自由に柄杓で汲めるのだが、一応生水なので、そのままの飲むのは危険である。そのせいか、私がいる間に汲んで持ち帰ろうとした人はいなかった。お茶を沸かす場合は煮沸するので問題はないのだろう。 さて、宇治上神社を出て、次なる古蹟を目指す。宇治上神社の脇から延びる道を歩くのだが、これがなかなかいい道である。「さわらびの道」という名前が付いているが、名前の由来は先ほどの早蕨の古蹟だろうか。緑の多い道で、時折店があったり休憩所があったりする。観光客向けに整備されているのだろう。 さわらびの道の東側は山裾であり、背後の山を大吉山または仏徳山という。百メートル少々の低山だが、山頂から宇治の街を一望できるらしく、気楽に観光客が登っている。私はこの日は遠慮したが、その登山口のたもとに、次なる宇治十帖の古蹟がある。総角(あげまき)の古蹟である。 ![]() 総角は宇治十帖3番目の帖で、先ほどの早蕨の一つ前の帖である。何だか、逆向きに回っているような錯覚に陥る。この帖の題名は、薫が宇治の大君を思って作った「総角に長き契りを結びこめおなじ所によりもあはなむ」という歌に由来するらしい。 歌の意味を知ろうとすれば、総角というのがいったい何なのか分からないとどうしようもない。これは髪や紐などの結び方の一種で、今日でも神社の簾の紐の結び目などに見ることが出来る。総角結びで紐を結ぶと、上と左右に三つの輪が作られ、紐の両端は下に垂れ下がる。実際のものを見たら、あぁこれかと思うはずだ。 薫の歌の趣旨は、この総角結びに引っ掛けて、宇治の大君と永遠の契りを結んで同じ場所でむつまじく会いたいというものである。歌の中の「より」は紐をより合わせるという意味なのだろう。 父の宇治八の宮の死後、姉の宇治の大君は宇治に残り、一生独身で父の菩提を弔い続ける覚悟を決める。その代わり、妹の宇治の中君には幸せな人生を送ってもらうべく、薫に嫁がせようとする。一方の薫は宇治の大君にぞっこんなわけで、二人はすれ違いを続ける。このままでは展望が開けぬと、薫は匂宮と宇治の中君を結び付け、妹の縁談をまとめたいという宇治の大君の希望をかなえることで、宇治の大君を自分の方に引き寄せようと考える。 匂宮と宇治の中君は、薫の思惑通り結ばれるが、たび重なる宇治行きを見咎められた匂宮が、宇治の中君をなかなか訪ねられなくなる。姉妹は、自分たちが軽んじられていると思い落胆し、宇治の大君は体調を崩す。更に京では、周囲の圧力で匂宮に別の縁談話が持ち上がり、それを知った宇治の大君はショックで重篤な状態になる。慌てて駆けつけた薫が看病するが及ばず、宇治の大君は亡くなってしまうのである。 この大吉山の登り口に、何故総角の古蹟があるのかはよく分からない。ただ、イメージからすると、宇治八の宮の邸宅というのは、こんな山の麓にあったのかなという感じはする。これはさわらびの道の持つ雰囲気がいいからなのであろう。 さて、さわらびの道を総角の古蹟からもう少し進むと、道沿いに「源氏物語ミュージアム」という施設がある。宇治市が運営する源氏物語にちなむ様々な展示を行う施設で、平成10年の開館というから比較的新しい。館内で、篠田正浩(しのだまさひろ)監督の下で制作された、人形を使った宇治十帖の映画を見られるらしいが、時間の都合もあり、この日はパスした。 緑濃かったさわらびの道も途中から住宅街の道になってしまいちょっと残念だが、道路が色づけされているので、迷わずに進むことが出来る。そんな住宅地の中に、次なる古蹟の蜻蛉(かげろう)がある。 ![]() 蜻蛉の古蹟はかなり立派なもので、宇治市の指定文化財になっている。傍らの説明板によれば、高さが約2メートルで、写真では分かりにくいが、各面に彫り物がある。 正面には、印を結んで結跏趺坐(けっかふざ)する阿弥陀如来、右面には蓮台をささげて座る観音菩薩(かんのんぼさつ)、左面には合掌して座る勢至菩薩(せいしぼさつ)と十二単の女性が彫られている。阿弥陀如来を中心にして左に観音菩薩、右に勢至菩薩を配するのは、いわゆる阿弥陀三尊(あみださんぞん)の配置である。この巨石は平安時代に制作されたもののようで、一般に「かげろう石」と呼ばれているようだ。 この辺りは昔、蜻蛉野という地名だったらしく、それでこの巨石が蜻蛉の古蹟ということになったのだろう。 宇治十帖の中にあって蜻蛉は8番目の帖である。蜻蛉は、はかないものの喩えとされるが、この帖の話は、はかなく消えた浮舟と落胆する薫と匂宮の話である。 薫と匂宮の恋のさや当ての対象となった浮舟は、思い悩んだ末に行方不明になってしまう。事情を知る者は、浮舟が宇治川に身を投げたと判断し、薫や匂宮にもその知らせが届く。二人はおおいに落胆して嘆き悲しみ、気を紛らわすために他の女性に関心を向けたりするのだが、どうにも浮舟のことが忘れられない。 この帖の題名である蜻蛉は、夕暮れにはかなく飛び交う蜻蛉を眺めながら、薫が詠んだ「ありと見て手には取られず見れば又 ゆくへも知らず消えし蜻蛉」という歌にちなむ。そこにいると思っても手に取ることは出来ず、見えたと思ってもまたすぐ消えてしまう蜻蛉になぞらえて、宇治八の宮の三姉妹との出会いと別れを思い返しているのである。 さて、ここから先の行程がちょっとだけ長い。次なる目的地三室戸寺(みむろとじ)は、山の上にあり、そこまで少々距離があるのである。駅でもらったイラストマップでは、道がデフォルメされているのでさして距離がないように見えるが、実際の地図ではもっと距離がある。といっても、歩き慣れた身にはたいしたことはないが…。さわらびの道を外れて市街地を歩く。静かな住宅地の道で車もあまり通らない。 ところが、三室戸寺が目の前というところに来て様相が一変する。次々に車が行き交い、交通整理の人が道に出て駐車場への誘導を行っている。これは一体なんだろうと思って見ると、人々は道路脇の坂道に向かっている。何とそれが三室戸寺の参道だった。どうしてこんなに人が殺到しているのかとビックリしたが、山に向かってゆるやかに登っていく参道の上から傍らを見て分かった。道路下に三室戸寺の広い庭園があるのだが、一面アジサイの花で覆い尽くされているのである。 ![]() アジサイは1万株あるらしい。しかも、様々な種類のアジサイが植わっていて、その中を散策道が続いている。ちょうどこの時期は見頃ということで、夜はライトアップまでしているようだ。道理で参拝客が多いはずだ。別名を「あじさい寺」とも言うらしく、この時期にどっと参拝客が増える。運が良かったというべきか、間の悪い時に来てしまったというべきか、大混雑の境内を人に揉まれながら歩くことになった。 ほかにもツツジが2万株と、ハスが鉢で250鉢ある。ハスはこの時期に咲いており、これが本堂前に置いてあるものだから、写真を撮る人で大変な賑わいである。この調子だと、ツツジの季節もすごい人出なのではないか。私は、駅から遠いし山の上なので、ほとんど人はいないだろうと勝手に思っていたが、とんでもない間違いであった。後日、関西の人に聞いたら、花の寺として有名らしい。あじさい寺だけではなく、ツツジ寺とか蓮の寺などという異名もあると聞く。ついでに言えば、秋の紅葉も見事なようだ。四季折々に参拝客を引き寄せるべく、お寺も努力しているのだろう。 さて、三室戸寺の縁起を読むと、創建のきっかけは、都がまだ平城京にあった頃のこととある。当時の光仁天皇(こうにんてんのう)が毎夜、宮中で金色の光が差し込むのを見る。家臣に命じて光の元を探らせたところ、宇治川の支流を登って行ったところに深い淵があり、そこに千手観世音菩薩が出現したのを見て、水の中を探ると千手観世音菩薩像が出て来た。これを聞いた光仁天皇は大いに喜び、この地に住まいを建てたという。こうした住まいを御室(おむろ)と言う。光仁天皇は御室にこの千手観世音菩薩象を安置し、御室戸寺と名付ける。これが現在の三室戸寺の起源だというのがお寺側の解説である。 その後も、花山天皇(かざんてんのう)と白河天皇(しらかわてんのう)がこの地に御室を置いたので、光仁、花山、白河の三天皇の御室があったということで、名前を三室戸寺と変えたようだ。 ところでこのお寺も、先ほど宇治神社・宇治上神社で出て来た菟道稚郎子と関係がある。三室戸寺の裏山に古墳があるのだが、どうもこれが菟道稚郎子のお墓のようだ。これにちなんでか、境内には兎の石像がある。宇治の名前の由来になったという説もある菟道稚郎子のことだから、道案内をした兎共々地元では人気があるのだろう。 三室戸寺は風格のある立派な構えで、三重塔まである。山の上とあって敷地は限られているものの、先ほどの宇治神社や宇治上神社と比べるとかなり広い。しかも大変な混雑で、本堂は参拝のために長い行列が出来ている。 ![]() ここの鐘は勝手に撞いて良いらしく、観光客が行列を作って次々に鳴らす。連打しないで欲しいという注意書きまであるので、そんなことをした人もいたのだろうか。 私がこの寺に来たのは、アジサイを見るためでも鐘を鳴らすためでもない。境内に宇治十帖の古蹟があると聞いたからだ。ここにあるのは、浮舟(うきふね)の古蹟である。 三室戸寺と宇治十帖とのつながりは何かということになるが、宇治八の宮と親交があり、宇治八の宮と薫との仲立ちをした阿闍梨というのが、この三室戸寺の僧侶をモデルにしたものという説があるそうだ。阿闍梨とは徳の高い僧で、周囲から模範とされたような師匠格の僧侶である。源氏物語の原文では「この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり」とあるが、当時山寺と言えば三室戸寺くらいしかなかったというのが、その根拠らしい。 ただ、本来の浮舟の古蹟はここではなく、浮舟古跡社という街道沿いの社だったという。やがてそれが取り壊され、ご本尊の浮舟観音は三室戸寺の引き取られた。その際、浮舟の古蹟もこちらに移ることになり、今では石碑になっている。それがあるのが、参拝者が次々と鐘を撞く鐘楼の脇なのである。 ![]() ただ、皆さんはもっぱら鐘を撞く方に熱心で、浮舟の古蹟に関心がありそうな人はいなかった。これは、ここに至るまでどの古蹟についても言えることかもしれない。これだけ観光客がいるのに、宇治十帖の古蹟を熱心に見ているのは私ぐらいなのである。やはり、宇治十帖というもの自体がマイナーなのだろうか。 さて、その浮舟だが、これは宇治十帖の第7帖に当たり、先ほどの蜻蛉の一つ前の帖となる。 浮舟に対して匂宮が関心を持ち出したので、焦った薫は浮舟を宇治にかくまう。一方、匂宮は浮舟のことが忘れられず、探し始める。ところが、薫にとってうまく行きかけた作戦が、ちょっとしたところから破綻する。たまたま宇治から届いた手紙を匂宮が見てしまう。そしてその手紙から、浮舟が宇治にいるのではないかと察した匂宮は色々聞き回り、薫が留守の間に宇治にいる浮舟を訪ねる。 かくして薫と匂宮両方から愛されることになった浮舟は思い悩む。やがて、匂宮の浮舟への接近に気付いた薫は、警護の者を宇治に向かわせ、匂宮の来訪を阻止しようとする。匂宮との関係を薫に気付かれた浮舟も焦る。どうしてよいものか分からなくなった浮舟は、死ぬ覚悟を決めるのである。 帖名の浮舟は、まさにヒロイン浮舟の名を取っていると思いがちだが、実は浮舟が詠んだ歌から取られている。宇治にかくまわれた浮舟を匂宮が探し当て、浮舟を連れて小舟で宇治川を渡って橘島から対岸の縁者の別荘に向かう。この小舟に乗った際、心細さから浮舟が「橘の小島は色もかはらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」という歌を詠む。二人の男性から求愛を受ける我が身の行く末を不安視した歌である。まさにその不安が的中するわけだが…。 実は、ヒロイン浮舟の名前は、この帖の名前から取られているのである。源氏物語原文には、このヒロインの名前が浮舟だというのはどこにも出て来ない。不思議に思われるかもしれないが、固有名詞としての本当の名前は、原作では定められていないのである。彼女が詠んだ歌から帖名が付き、後の世の人がこの帖名から彼女を浮舟と呼ぶようになった。そういう関係にある。 さて、人に揉まれながら三室戸寺の本堂周辺をぐるりと見て回り、最後にアジサイの咲く庭園を散策する。庭園は写真を撮る人で一杯なものだから、スイスイとは歩けない。中には団体で道一杯に広がって記念撮影しているグループまでいる。アジサイと一口に言うが、結構種類があることに気付く。今まで見たことのないものとして、にごった感じの濃い赤紫色のアジサイを見たが、これがなかなかきれいだった。空いている道を選んで歩き、お寺の外に出ると、庭園の外には屋台が並び、宇治茶や抹茶ダンゴを売っている。たこ焼きや焼きそばでないところが救いだ。 人ごみを離れて、再び元来た道を引き返すようにして進む。さわらびの道の方には戻らず、JR奈良線の線路の手前まで進み、旧宇治街道を左に折れる。ここは交通量の多い片側二車線の自動車道で、一気に散歩の気分が失せる。さわらびの道とは環境が大違いだ。ただ、残りの宇治十帖の古蹟がこの道沿いにあるので仕方ない。残る古蹟は3つだが、道路のどちら側にあるかを間違えると、横断歩道が少ないために、とんだ無駄足を踏むことになる。 残り3つのまず最初は、手習(てならい)である。これは宇治十帖の9番目の帖で、浮舟が行方不明になり宇治川に身を投げたとされた蜻蛉の帖の次に当たる。 ![]() この古蹟は結構新しいもののようで、筆先の形をしている。建てられたのは昭和の時代になってのことらしいが、それ以前は手習の古蹟はどうなっていたのだろうか。 手習の帖で、舞台は大津に飛ぶ。手習とその次の最終帖夢浮橋では、重要人物として横川の僧都という高僧が登場するが、この人は当時名の聞こえた源信(げんしん)という天台宗の僧侶をモデルにしているのではないかと言われている。源信は、極楽往生するには一心に念仏をあげることだという教えを説いた往生要集(おうじょうようしゅう)を著わし、後の浄土宗(じょうどしゅう)・浄土真宗(じょうどしんしゅう)の教えの基礎を作ったので有名な高僧である。彼は横川(よかわ)の恵心院(えしんいん)に隠遁していたため、恵心僧都(えしんそうず)とも呼ばれていた。 さて、手習の帖は、横川の僧都の母と僧都の妹が、奈良の長谷寺詣での帰りに体調を崩して宇治に立ち寄るところから始まる。この時、大木の根本で意識を失った女性を発見する。入水したものの死に切れなかった浮舟なのだが、僧都の妹は亡くなった娘に似ているとして、長谷観音の授かり物とばかり、大津に連れて帰り介抱することにする。 快復した浮舟は、自分の身の上を何一つ語ろうとせず、ひたすら出家を望む。僧都の妹は、亡くなった娘の夫がまだ存命だったので、彼と浮舟を結ばせようとするが、浮舟はかたくなに拒否する。そして、ある時訪ねて来た横川の僧都に懇願し、ついに出家してしまうのである。 浮舟の正体は分からないまでも、横川の僧都が薫や匂宮の近親者に娘の話をしたものだから、やがてそれが薫にも伝わる。驚いた薫は浮舟に違いないと確信し、浮舟の弟と共に大津に向かうのである。 この帖の題名の手習いは、僧都の妹の邸宅で浮舟が手習いに歌を書くことにちなんだものと言われている。それで、古蹟も筆の形をしているのである。書いた歌が「身を投げし涙の川の早き瀬にしがらみかけてたれかとどめし」というもので、どういう運命のいたずらで死ぬことが出来なかったのかという心境を語っている。 ところで、この帖では大津が舞台の中心なのに、どうしてここに古蹟があるのかという疑問が湧くのだが、大木の下に倒れていた浮舟を見つけたのがこの辺りではないかということで、ここに古蹟があるようだ。古蹟自体は昭和の作だが、昔はこの辺りを手習の帖にちなんで手習の杜と言い、手習観音を祀るお堂まであったと聞く。観音菩薩像自体は今日も残っているようだが、平安時代の作と伝わる。意外と古くから、この地が手習ゆかりの地と思われていたようだ。 先を急いで次の古蹟に行くことにしよう。旧宇治街道を駅に向かって数百メール進むと、歩道の傍らに小さな神社がある。これが次の古蹟、椎本(しいがもと)である。 ![]() 神社の名は彼方神社(おちかたじんじゃ)というが、神社というより祠といった方がいいかもしれない。境内と言えるほどの敷地もなく、祠の脇に巨石がある程度である。 この神社に関する情報はほとんどなく、創建年代も由緒も分からない。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)とも言うし、宗像大社(むなかたたいしゃ)の神、あるいは諏訪大社(すわたいしゃ)の神とも言う。祭神すら分からない神社ってどういうことなんだと思ってしまう。 そんな忘れ去られたような小さな神社であるにもかかわらず、これが平安時代に編纂された延喜式(えんぎしき)には、きちんと載っているのである。延喜式の式内社である以上、朝廷から捧げ物が届いていたはずで、当時はそれなりの社格と規模の神社だったのだろう。 彼方という社名については、川が流れ落ちる行方を指しているという説がある。宇治川が近くにあるのでなるほどと思うが、上に書いた宗像大社、諏訪大社とも、祀られているのは水にちなんだ神なので、水害防止といった趣旨の神社なのかなと思う。 そうなると、この神社が何故椎本の帖の古蹟なのかという疑問が湧いて来る。これがよく分からない。古蹟というのは昔の人が定めたものなので、理由までは正確に伝わっていないのである。延喜式式内社の彼方神社が、祭神すら分からない存在になっているのと同様、今には伝わっていない隠れた理由があったのかもしれない。 さて、その椎本であるが、宇治十帖2番目の帖である。宇治八の宮と親交を深めた薫が、匂宮を誘って、宇治で宇治八の宮の娘たちに会おうとするところから話は始まる。娘たちはなかなか表には出て来ず、薫も匂宮も姉妹と親しくなれないままでいる。 そんな中、父の宇治八の宮が突然亡くなるのである。姉妹だけで残されて途方に暮れているところへ薫が手を差し伸べると共に、妹の宇治の中君と匂宮を結び付ける算段を、薫は宇治の大君に頼むのだった。これは、宇治の大君に惹かれた薫の作戦でもあったが、宇治の大君にその気はなく、薫にはつれない態度を取るのである。 椎本という帖の題名は、宇治八の宮が亡くなった後に薫が詠んだ「たちよらむ蔭と頼みし椎が本 むなしき床になりにけるかな」という歌にちなんでいる。尊敬と憧れの念を抱いて宇治八の宮と親交を深めていた薫にとっても、その死は大きな痛手だったのである。 彼方神社を後にして、いよいよ最後の古蹟に行こう。締めくくりは、京阪宇治駅のすぐそばにある東屋(あずまや)の古蹟である。ここも、椎本の古蹟同様、ただの石碑ではない。東屋観音(あずまやかんのん)という石造りの観音菩薩坐像なのである。 ![]() この観音様がどういう謂れなのかは分からない。傍らの解説板によれば、花崗岩に彫られていて、鎌倉時代後期の作と書いてある。長年風雨にさらされて来たと見え、かなり風化が進んでいる。素朴で柔和な表情が何ともいい感じだが、さてこれが何故東屋の帖の古蹟なのか。先ほどの椎本同様、謎が謎を呼ぶ設定である。 東屋の方は、宇治十帖の第6帖となる。この一つ前の宿木で、匂宮と結ばれた宇治の中君に言い寄った薫が、宇治の中君から異母姉妹である浮舟のことを聞き、偶然宇治で浮舟に会って心惹かれる。その浮舟の身の上が語られるのが、この東屋の帖である。 浮舟は、宇治八の宮とその女房だった中将の君(ちゅうじょうのきみ)との間に生まれた娘で、中将の君は現在、常陸の守(ひたちのかみ)の妻となっている。常陸の守の財産目当てで浮舟との結婚を望んだ男もいたが、浮舟が常陸の守の実の子ではないと知り破談となる。 この男は改めて常陸の守の実の娘との婚姻を望んだため、居場所がなくなった浮舟は、義理の姉である宇治の中君が住む京の屋敷に居候を申し込む。一旦は母子共々宇治の中君の屋敷にお世話になるが、やがて母の中将の君は夫の元に戻り、浮舟は京の屋敷に一人残ることになる。そこで問題が発生する。 宇治の中君を訪ねた匂宮が偶然浮舟を見かけ、すっかり気に入ってしまうのである。匂宮は急用が出来て屋敷を出ることになるが、事情を知った母の中将の君は、取りあえず浮舟を別の屋敷に避難させる。別用で宇治を訪ねた薫は、事の顛末を聞いて浮舟を宇治にかくまうことにする。ここから、浮舟をめぐって薫と匂宮が恋のさや当てを演じることになるのである。 帖名の東屋は、宇治の中君の屋敷を出て別の屋敷に隠れることになった浮舟を、事情を知った薫が、夜半に雨が降りしきる中訪ねて来た時に詠んだ歌に由来する。突然の訪問に警戒する浮舟は、なかなか薫を屋敷内に入れようとしない。そこで薫は「さしとむる葎やしげき東屋のあまり程ふる雨そそぎかな」と詠む。戸口を閉ざすほど葎(むぐら)が茂っているため、待たされるうちに雨に濡れてしまったといった意味である。 さて、かくしてこれで、宇治十帖の古蹟を全て回り終えたことになる。しかし、平等院や宇治神社、宇治上神社、三室戸寺などの賑わいに比べ、古蹟に足を止める観光客があまりにも少ない。古蹟自体は、傍らにキチンと説明板も付いて分かりやすいのだが、そもそも宣伝が足りないのか、道路上に道案内がないのが悪いのか、はたまた宇治十帖自体がマイナーなのか、ほとんどの人は気付かないで、通り過ぎていく。せっかくの観光資源なのにもったいない気がした。 東屋の古蹟の横は、スタート地点の京阪宇治駅である。この日の歩数は1万2000歩強で、ほとんど疲れを感じることがなかった。登り道は三室戸寺の参道くらいのもので、ほぼ道が平坦だったのが幸いしたのだろう。平成の大改修を終えた平等院も見られたし、なかなか良いウォーキングコースだと思った。 |
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