パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■千代の古道(後編)





 今回は、千代の古道の後編である。

 前回は斎宮神社(さいぐうじんじゃ)のところで引き上げたので、今回はその脇にある有栖川(ありすがわ)沿いの道から再開することにする。最寄りの駅は京福電鉄の有栖川駅(ありすがわえき)なので、阪急電車の西院駅で京福電車に乗り換えることにする。

 この西院駅だが、阪急・京福共に同じ駅名なのに、読み方が違う。阪急では「さいいんえき」、京福では「さいえき」である。ちなみに、以前訪れた嵯峨野(さがの)の化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)にある無縁仏の供養場所は、西院の河原と書いて「さいのかわら」と読む。この西院駅周辺にも風葬の地があったようで、それが賽の河原(さいのかわら)を連想させて、こういう呼び名になったという説もあるようだ。

 さて、大阪の梅田駅発河原町行き特急は、前回に比べると空いているものの、電車のドアが開くとあっという間に満席になる。そして、何駅か停まるうちに、車内はラッシュ並みの混雑となった。相変わらず京都は人気絶大の観光地のようだ。最近では京都のホテルが満員で取れないため、大阪に泊まって京都観光をする人もいるらしい。

 今回も桂駅(かつらえき)乗換えだが、前回と違って河原町行きの準急に乗り換える。嵐山方向に行く人がたくさん降りるのが分かったから、どんなに車内が混んでも、降りられるか心配する必要はない。

 桂駅で準急に乗り換え西院駅で降りたが、前回の経験からして、千代の古道経路上に気楽に食事が出来るところがあるか不安なため、西院駅近くで早めの昼ご飯を食べておくことにする。昼ご飯と言ってもまだ10時台なので、普通の飲食店は閉まっている。仕方がないので、牛丼屋に入って朝から牛丼である。

 店内で気付いたのは、朝から高齢者が多いことだ。みんな男性である。常連らしき人も多く、店員に親しげに声を掛けている。朝定食はまだ出せるかとか訊いて、勝手知ったる感じでチョイスを頼んでいる。

 これは要するに、近辺に住む一人暮らしの高齢男性の日常ということだろうか。朝から開いていて安価で食事出来る店ということで、本来は若者を相手に出来た店を利用しているわけだ。何となく現代社会の一面を垣間見た思いがした。

 阪急の西院駅から商店街を暫く行くと、線路が道路を横切っている。その脇が、京福電車の駅である。ほどなくやって来たチンチン電車に乗り込み、有栖川駅に向かう。駅に着いて電車を降りると、線路と平行に走る道路を西に向かい、有栖川に突き当たる。そこに架かる斎宮橋(さいのみやばし)を渡って、川沿いの道に入る。これが千代の古道である。

 有栖川の水はきれいで、大きな鯉が何匹も泳いでいる。こんなところで飼われているわけないから、天然の鯉なのだろう。京都の市街地で、こんなにたくさん鯉が群れているとは驚いた。やがて、JRの線路を渡る。

 暫く行くと、有栖川はゆるやかに西に曲がる。それに合わせで千代の古道も左に折れる。ここから川は西に向かった後、大覚寺(だいかくじ)の南でまた曲がって北向きに流れを変える。しかし、マップに示された千代の古道は、この後すぐに北に向きを変え、有栖川を渡った後は川から離れてしまう。その川との交差地点に、立て札と共に石碑が置かれている。安堵の塔(あんどのとう)と呼ばれる遺構である。





 安堵の塔は、家屋の脇の、歩道から一段低くなったところにひっそりと置かれている。立て札はあるものの、気付かずに通り過ぎてしまいそうである。

 傍らの立て札には「安堵の塔(ルルゲさん)」と表記してあり、一瞬外国人絡みの場所かと思ってしまうが、ルルゲというのは龍華(りゅうげ)がなまったものらしい。ここは、日蓮宗(にちれんしゅう)の僧侶、日像(にちぞう)に関係する遺構である。

 日蓮宗は、鎌倉時代に日蓮(にちれん)によって興された仏教の一宗派だが、法華経(ほけきょう)を絶対視し、他の宗派を激しく非難したものだから、迫害もまたひどかった。そうした中で、京都での布教に務めたのが日像だったのである。

 前回、最後に訪れた車折神社(くるまざきじんじゃ)の前で布教をしている最中に、日像は他の宗派の信者の攻撃を受ける。危険を察した日像は、近くにあった甲塚古墳(かぶとづかこふん)に逃げ込んで、難を逃れるのである。身を隠すことが出来た甲塚古墳に感謝して、石蓋に南無妙法蓮華経と刻んだ。それがこの石碑である。

 ということは、古墳の石棺の蓋をここに持って来ているということであり、果たしてそれでいいのかという気もする。当の甲塚古墳は、どうやらこの背後にあるようだが、現在は私有地と聞く。残念ながら見学は出来ないが、甲塚の名前は、古墳の形がかぶとに似ているから付けられたようだ。

 ルルゲの元の言葉である龍華について、立て札では「災難を避ける功徳があるとルルゲ(龍華)さんと呼ばれて親しまれています」とあるが、これでは何のことか分からない。

 仏教の世界で龍華というのは、普通、龍華樹(りゅうげじゅ)のことを指しているが、これは実在する木ではない。弥勒菩薩(みろくぼさつ)が未来においてその下で悟りを開くとされている架空の木である。これと日像とがどう関係するのか。

 実は、日蓮宗の総本山は山梨県にある久遠寺(くおんじ)なのだが、その塔頭寺院の一つは日像自身が開いたものである。その名が龍華樹院清水房(りゅうげじゅいんしみずぼう)であり、この名を冠してのことだと思うが、日像のことを龍華樹院日像とも呼ぶようだ。龍華樹院の名は、京都での布教の成功を祈願して日像が7日間祈った後に湧き出した清水にちなんでいる。その清水には龍華水という名前が付いている。まぁ日像にとって龍華は、縁起の良い名前なのである。ルルゲというのは、日像のこの故事から発しているのではないかというのが、私の勝手な推理である。

 さて、安堵の塔の前にある広沢橋を渡って北に進路を取ると、すぐに丸太町通との交差点にぶつかり、それを越えると、閑静な住宅地の中の道になる。やがて道は緩やかに左に曲がり、その先に木立が見えて来る。そこが次の目的地、遍照寺(へんじょうじ)である。





 ここは、是非来てみたかったお寺である。私は、夢枕獏(ゆめまくらばく)の陰陽師(おんみょうじ)のシリーズを愛読しているのだが、話の中に何度かこのお寺が出て来る。安倍晴明(あべのせいめい)が活躍した平安の昔には、かなり有名なお寺だったことが覗える。

 遍照寺は、平安時代中期に円融天皇(えんゆうてんのう)の命により、真言宗の僧、寛朝(かんちょう)が創建した寺である。

 寛朝は、宇多天皇(うだてんのう)の孫に当たり、東寺(とうじ)や西寺(さいじ)、仁和寺(にんなじ)の別当なども務め、大僧正の称号も与えられた真言宗の第一人者だった。この人もまた、夢枕獏の陰陽師シリーズにちょくちょく登場する。真言密教の奥義を極めた人で、寛朝自身も霊力を駆使することが出来たという伝承が残っている。安倍晴明とは相通ずるところがあったと見え、親交があったようだ。

 当時の遍照寺は、広沢池(ひろさわのいけ)の畔を中心に広大な寺域を有する大寺で、そのために寛朝は広沢の僧正とも呼ばれていた。多くの堂宇を誇った遍照寺だが、室町時代になって応仁の乱の戦火で焼失してしまう。現在残っているのは小さなお寺だが、これは場所を変えて江戸時代に再興されたものらしい。

 安倍晴明にまつわる遍照寺関係の伝承の中で、以前、安倍晴明神社(あべのせいめいじんじゃ)を訪れた際、境内に絵入りで紹介されていたものがあるので、紹介しておこう。

 晴明が遍照寺に寛朝を訪ねた際、居合わせた貴族が有名な陰陽師の力を試そうと、式神(しきがみ)を使って人を殺せるかと尋ねる。式神は、陰陽師が自由に操ることの出来る鬼神、あるいは霊的な存在のことである。

 晴明は「生き返らすことが出来ないので、たやすく殺すわけにはいかない」と答える。貴族は食い下がり、庭にいたカエルを見て、ではあれを殺せるかと重ねて訊く。晴明は葉をちぎって投げると、葉はカエルの上にかぶさり、カエルはつぶれて死んでしまったという。

 今昔物語(こんじゃくものがたり)や宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)にも出て来る有名な話である。

 また、遍照寺には紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語(げんじものがたり)にまつわる話も残っている。これは、境内の案内板に書かれていたエピソードである。

 村上天皇(むらかみてんのう)の皇子だった具平親王(ともひらしんのう)が、大顔(おおがお)という雑役の女性を連れて、お忍びで遍照寺に月見に出掛けるのだが、月見の最中に、大顔は突然亡くなってしまう。大騒ぎとなり、紫式部の父らが事後処理に奔走することになったというものである。

 この身分違いの恋とスキャンダラスな結末が紫式部をいたく刺激したらしく、源氏物語の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、市井の女性、夕顔(ゆうがお)と恋に落ちる話に取り入れられたという。確かに、女性の名前と身分設定は似ているわけだ。おまけに夕顔が忍び合いの最中に突然死するというところも同じである。

 さて、それでは本来の遍照寺の面影をたどろうと、次の目的地、広沢池に向かった。遍照寺の山門から道沿いに北に進めば、突き当りが広沢池である。千代の古道が途中から有栖川を離れてこういうルートを通っているのは、この広沢池に遍照寺があったからであり、源氏物語の元のエピソードにあるように、広沢池が観月の名所だったからだろう。

 広沢池に向かうために道を歩いていると、遍照寺の敷地が切れた辺りで不思議なものを見た。





 最初は変わったお稲荷さんだと思ったが、千代の古道のマップで見ると、これは古墳だった。古墳の上にお稲荷さんがあるのである。名前はズバリ、稲荷古墳(いなりこふん)と言う。

 マップの説明を改めて見ると、この周辺にはたくさんの古墳がある。皇族が埋葬されたと推察されるものもあるが、多くは豪族の墓だという。古代からこの一帯を支配した秦(はた)一族の墓だろうと見られている。

 嵯峨野のエリアは昔から風光明媚で人気があった。平安時代には皇族や貴族が山荘を造り、狩りや花見、月見などを楽しんだ遊興の地だが、同時に、化野(あだしの)に代表されるように葬送の地でもあった。この一帯に広がる古墳群は、そんな嵯峨野の一面を我々に思い出させてくれる。

 今では嵯峨野として親しまれている京都の西エリアは、昔、秦氏が開発して支配していった場所である。秦氏は、前回松尾大社(まつおたいしゃ)を訪れた際に説明したように、神話時代に朝鮮半島から渡って来た渡来人で、養蚕・機織りの技術のほか、農耕、醸造、土木など大陸の優れた文化・技術を持ち込んだ。

 このうち土木技術については、当時、葛野川(かどのがわ)と呼ばれていた桂川(かつらがわ)の整備などに大いに力を発揮したようで、葛野大堰(かどののおおい)という堰(せき)を築いて流域の開発を進めた。桂川のことを昔は大堰川(おおいがわ)と言い、この名はいにしえの記録や渡月橋の欄干などで見掛けるが、これは秦氏の葛野大堰に由来すると言われている。

 葛野大堰の葛野(かどの)は、嵯峨野の昔の名前であり、葛野郡(かどのぐん)として長らく地名に残っていた。葛野郡の名前が行政区画として消えたのは、第二次大戦後のことである。今でも、嵯峨野の中に葛野の名前が残るエリアもあるようだが、地元の人でなければ、この名は知らないだろう。

 一方秦氏の方は、太秦(うずまさ)という地名や、秦公寺(はたのきみでら)の別名を持つ広隆寺(こうりゅうじ)にその名が残っている。

 さて、稲荷古墳を過ぎて道がゆるやかに北に向くと、もう山が目前にそびえている。そして、道の先には、広沢池が広がっている。まさに絶景である。





 池のほとりに立っている案内板を読むと、広大なこの広沢池は、自然に出来たものではないようだ。先ほどの遍照寺が創建された際に、境内の池として合わせて造られたと解説されている。遍照寺池(へんしょうじのいけ)の別名があるとも聞くが、それはこういう経緯によるものだろう。他にも、昔造られた溜池だったという説もあるらしいが、いずれにせよ、人の手によって造られた人工池ということになる。

 対岸に見えるひときわ高い山を遍照寺山と言うようだ。嵯峨野にあって富士山に形が似ていることから、嵯峨富士の別名もあるらしい。そう言われてみれば、形の良い山だ。

 かつて遍照寺は、あの山の麓辺りに伽藍を構えていたことになる。解説板によれば、広沢池のほとりには遍照寺の釣殿や月見堂があったという。先ほど出て来た具平親王と大顔の月見のエピソードは、こうしたロケーションで起きたのである。現在の遍照寺は、狭い境内で少々驚いたが、ここに来てみると、在りし日の壮麗な遍照寺が想像でき、陰陽師の話もこんなところで繰り広げられていたのかと想像が膨らむ。

 広沢池は古くから観月の名所として知られていたようで、多くの歌人が歌を残している。和歌ではないが、一番知られているのは、芭蕉の次の句ではなかろうか。

  名月や池をめぐりて夜もすがら

 この句が本当に広沢池で読まれたのかどうか、確実な証拠があるわけではない。ただ、ここで詠んだのではないかという説が有力なようである。それほどまでに、広沢池は月の名所だということであろう。

 さて、現代における広沢池の遊興と言えば何かというと、ザリガニ釣りである。池の周囲を巡る道路にはたくさんの車が駐車してあり、最初何か催し物でもやっているのかと近づいたら、幾組もの家族が総出でザリガニ釣りに興じていた。

 ちなみに、案内板に書いてあったが、年末になると池の水抜きをやって鯉を収穫するらしい。池ざらえというようだが、水を抜いた広沢池というのも見てみたい気がする。

 千代の古道は、広沢池から西に向かうのだが、池の前を通る道を反対側の東方向に少し歩く。池が切れる辺りから、林に囲まれた自動車道が続いている。





 こちらの方向に来てみたのは、この道もまた、千代の古道だという説があるからである。

 前回の冒頭で千代の古道を紹介した際、平安の昔、皇族や貴族が京の市街から嵯峨野へ遊びに行くのに使っていた古道だと書き、但し、そのルートについては諸説ある旨述べた。今回のコースは(財)京都市埋蔵文化財研究所が出しているマップに従って、松尾大社から北上しているのだが、東から延びていたという説もあり、そのルートがこちらの道ということになる。

 こちらのコースの始まりは、吉田兼好(よしだけんこう)が隠棲して徒然草(つれづれぐさ)を書いたとされる双ヶ丘(ならびがおか)の西辺りからスタートして北上し、現在のきぬかけの路に合流してから西に折れ、広沢池に到達していたとされる。実は、こちらのルートにも、千代の古道の石碑が立っているのだが、現在は丸太町通(まるたまちどおり)と山越通(やまごえどおり)の交差点からスタートして、山越通沿いに石碑があるようだ。

 私が最初に見た京都検定の公式テキストブックは、こちらの方のルートを紹介している。確かに、京の市街からやって来るという設定だと、こちらの方がより市街に近くて千代の古道の謂れに合うが、いずれの説も決定的な証拠はない。中には、幾つかの和歌に詠まれた言葉だけの存在に過ぎないという見方もあるらしく、真相は霧の中ということになる。まぁその方が、夢があっていいのかもしれない。古代の話というのは、あれやこれやと想像するのが楽しいのである。

 さて、広沢池を横に見ながら最初の地点に戻り、池のそばの神社に立寄る。池のたもとにあって、小さな神社なのだが、遍照寺や寛朝にゆかりのある古い神社で、悲しい話が伝わっている。





 神社の名を兒神社(ちごじんじゃ)という。境内の案内板にその由来が紹介されている。

 寛朝には、身の回りの世話をする小僧が一人付いていた。案内板では侍児(じじ)とだけ記されているが、年齢も名前も分からない。小僧は、寛朝が広沢池のほとりで座禅を組む時は、いつも傍らの岩に座って控えていた。

 だが、その寛朝もやがて亡くなる。臨終の際、遍照寺山の老松から龍となって静かに天に上っていく寛朝の姿が見えたという。

 後に残された小僧は大いに嘆き悲しみ、寛朝の跡を追って広沢池に身を投げて亡くなってしまうのである。近隣の人々は小僧のことを哀れに思ってこの社を建て、その霊を慰めたという。

 兒神社境内には、寛朝が座禅をしていたおりに小僧が座っていたという岩が移され、今でも残っている。かわいらしい小さな岩である。そこにちょこんと座っていた小僧の姿を想像すると、何とも哀れである。

 小僧のことを思いながら兒神社を後にし、神社の脇にある千代の古道の石碑から脇道に入る。一面に広がる嵯峨野の田園風景の中を、千代の古道はゆるくカーブを描くように延びている。冒頭に掲げた写真が、この辺りの風景である。

 何とものどかで、ここまで歩いて来た行程の中では、ずば抜けて素晴らしい。奈良の山の辺の道に匹敵する素晴らしさである。全てとは言わないが、半分以上がこんな感じだったら、千代の古道は人気が出ると思う。

 あぜ道に曼珠沙華が咲く中をのんびりと歩く。向こうからもグループで歩いて来る人が何組かいる。広沢池まではほとんど人のいないコースだったが、大覚寺や広沢池辺りは代表的観光コースなので、二つを結ぶ道として紹介されているのだろうか。

 道の途中に千代の古道の石碑があって、そこから西に延びる道を取る。やがて道は集落の中に入るが、そこがもう大覚寺の大沢池(おおさわのいけ)の畔である。

 その先に大覚寺の入り口があり、その前はバス停やタクシー乗り場になっている。さすがに有名寺院とあって、たいそうな賑わいである。ここまでの道中に立ち寄ったスポットとは、雲泥の差だと痛感する。





 嵯峨野に名所はあまたあるが、大覚寺はいわば嵯峨野のランドマークである。それは、ここが観光の一番人気という意味ではなく、歴史的に大覚寺が嵯峨野にとって重要な場所だったからである。

 大覚寺は、元は平安初期に建てられた嵯峨天皇(さがてんのう)の離宮である。当時は嵯峨院(さがいん)と呼ばれていたようだ。

 嵯峨天皇の治世は、前半こそ、兄で先代の平城天皇(へいぜいてんのう)が復権をもくろんで薬子の変(くすこのへん)を起こすなど動揺はあったが、後半は平和な時代が続き、宮廷文化が花開いた時期である。嵯峨野の離宮の造営もそうした一環だったのだろうが、当時の朝廷の財政はひっ迫しており、離宮造営はこれに拍車をかけたと言われている。

 嵯峨天皇は子沢山で有名だが、財政難から宮中でその生活を支えきれず、多くが皇籍を離れて独立することになる。いわゆる臣籍降下(しんせきこうか)だが、この際天皇からは新しい姓を贈られることになっている。嵯峨天皇の時に贈られた姓の一つが源(みなもと)で、源の姓を贈られた皇子・皇女の家系を嵯峨源氏(さがげんじ)と呼んでいる。源の姓は、その家系の源流が皇室にあることを表している。

 嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源氏姓になった一人に、源融(みなもとのとおる)がいる。紫式部の源氏物語の主人公、光源氏のモデルになった人物で、六条に河原院(かわらのいん)を造営したが、これが源氏物語に出て来る六条院(ろくじょういん)のモデルと言われている。また、宇治に営んだ山荘は、後に藤原家のものとなり、これが現在の平等院(びょうどういん)である。父親同様、晩年は嵯峨野に栖霞観(せいかかん)を造り隠棲した。これが、大覚寺の南の方にある現在の清凉寺(せいりょうじ)である。

 しかし、源融のように優雅に暮らせるのは最初のうちだけで、何代にもわたると生活の糧を稼ぐのが大変になる。こうして困窮した嵯峨源氏の中から武士が生まれるのである。一条戻橋(いちじょうもどりばし)で鬼と出会って戦った平安中期の武将、渡辺綱(わたなべのつな)や、北九州の水軍松浦党(まつらとう)は、源融の子孫である。

 嵯峨天皇の話が長くなってしまったが、大覚寺の話に戻そう。嵯峨天皇の離宮がお寺になったのは、嵯峨天皇の娘、正子内親王(まさこないしんのう)によってである。それ以前にも、嵯峨天皇と親交が篤かった弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)によって離宮内にお堂が立っており、そこで修行も行われていたようだから、寺院としての基礎はあったのである。

 寺院といっても元は離宮なので、建物は通常の寺院とは少し趣が異なる。中心となる宸殿(しんでん)は、江戸時代に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に徳川家から嫁いだ東福門院(とうふくもんいん)の宸殿として使用していたものを移築しており、蔀戸(しとみど)がついた御所風の造りである。また、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)に、南朝と北朝の講和である明徳の和約(めいとくのわやく)が行われた正寝殿(しょうしんでん)、大正天皇即位時の饗宴殿を移築した御影堂(みえどう)など、見どころは多い。





 ただ、拝観は建物内だけで庭などに降りられないのが玉にキズ。そうはいっても、めったに見られない天皇家ゆかりの建物に入れるという点は、お得感がある。また、特に写真撮影の制限がなく、建物内も撮影可のようだった。中には祀られている仏像をかぶりつきで撮影している外人さんもいたが、本当にそこまでして良かったのだろうか。

 大覚寺が南北朝時代に講和の舞台になったと上の方に書いたが、南北朝に至るまでの皇室の分裂時にも、大覚寺はその舞台になっている。

 元々皇室分裂の発端は、鎌倉時代の後嵯峨天皇(ごさがてんのう)にある。後嵯峨天皇は息子に皇位を譲り後深草天皇(ごふかくさてんのう)が誕生する。その後院生を敷いていた後嵯峨上皇は後深草天皇に対し、弟に皇位を譲るよう促す。こうして誕生したのが、亀山天皇(かめやまてんのう)である。そして、亀山天皇の息子を皇太子にしたところで、後嵯峨上皇は明確な後継指名を敢えてしないまま亡くなる。かくして、亀山天皇の跡目争いが勃発するのである。

 この頃は鎌倉幕府による朝廷への介入が進んでいたため、判断は幕府に持ち込まれ、一旦は亀山天皇の息子が即位することとなった。ところが、兄なのに息子が天皇になれないことを恨みに思った後深草上皇が巻き返し工作を図る。この辺りから皇位継承を巡る争いが泥沼化し、やがて幕府は、両方の系統から交互に天皇を出すことにして紛争の終息を図る。いわゆる両統迭立(りょうとうてつりつ)である。

 この時、弟の亀山天皇と、その息子で後に天皇となった後宇多天皇(ごうだてんのう)は、大覚寺の隆盛に力を貸し、退位後は大覚寺に入って院政を敷いたため、この系統は大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれる。また、院政当時、大覚寺は嵯峨御所(さがごしょ)とも呼ばれ、裁断を仰ぐため、貴族たちは足しげく大覚寺に通ったと言われている。この時にも千代の古道を通っていたのだろうか。

 一方、兄の後深草天皇の系統は、居住した邸宅の名を取って持明院統(じみょういんとう)と称した。

 その後、大覚寺統からは、日本史の教科書に必ず登場する有名な後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が出る。鎌倉幕府倒幕をもくろみ、一時は隠岐島へ島流しにあうが、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)の助力を得て幕府を滅ぼし、建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれる天皇中心の政治体制の復活を行った人物である。

 建武の新政の中で後醍醐天皇は、両統迭立を反故にし、その先ずっと大覚寺統から天皇を出すよう画策する。しかし、性急で復古的な政治の在り方には武家から不満の声が上がったし、約束を反故にされた持明院統の皇族・貴族のみならず公家・寺社勢力からも反発の声が上がる。政策の失敗も重なり、ついに足利尊氏が反旗を翻し、建武の新政から離反するのである。

 その後の後醍醐天皇の運命は多くの方がご存知のように、足利尊氏が戦いに勝利し、持明院統から光明天皇(こうみょうてんのう)が立てられる。負けた後醍醐天皇は奈良の吉野山に逃れ、南朝を開いて復権を試みるが、京の都に戻ることなく吉野で生涯を終えた。こうして大覚寺統は実質的に敗北するのである。

 やがて室町幕府の足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋で南北朝が再び合体するまで、南朝は吉野で60年続き、後醍醐天皇を含めて4人が天皇になっている。両統迭立の復活が明徳の和約の一つの条件であったが、再び大覚寺統から天皇が出ることはなかった。南朝の実質的な終焉を意味する明徳の和約が、南朝の遠い始まりである大覚寺で行われたというのは、何とも皮肉な話である。

 このように大覚寺は、始まりからその後に至るまで、皇室とゆかりの深い寺であり、明治時代初頭までは皇族が住持を務める門跡寺院であった。寺名も正式には、旧嵯峨御所大覚寺門跡というようだ。





 大覚寺を出た後、傍らの大沢池を散策する。

 大沢池は、広沢池同様、人工の池である。周囲は約1kmあるらしい。元々、嵯峨天皇が離宮を造営した際に、風光明媚で有名な唐の洞庭湖(どうていこ)を模して作った庭園内の池である。大きな池や林を配しながら造られた林泉式の庭園としては日本最古と言われている。

 これもまた広沢池同様だが、大沢池は観月の名所でもある。嵯峨天皇は池に舟を浮かべて月見を楽しんだという。現在でも9月の終わりに観月の夕べという催しが行われ、大沢池の船上から月が楽しめるほか、池に張り出した舞台でお団子やお花を供えた満月法会が行われる。

 私は観月の夕べに参加するつもりもないまま、たまたまその日の昼に大覚寺にやって来たことがある。境内は、夜に備えてたくさんの観光客が訪れており、大賑わいであった。大沢池に張り出した舞台も月見らしい雰囲気にセッティングされていて、なかなか良かった。昼間に写したものだが、こんな感じである。





 さて、大沢池には中の島があり、ここに咲く野菊を嵯峨天皇が花瓶にいけて、生け花の範を示したという。この島を菊ヶ島(きくがしま)といい、嵯峨天皇の生け花は後に発展して、今日の華道、嵯峨御流(さがごりゅう)となった。大沢池には、菊ヶ島のほか天神島(てんじんじま)と池に浮かぶ庭湖石(ていこせき)があるが、この二島一石の配置が、嵯峨御流で花をいけるときの基本形になっているようだ。あまりそんなふうに生け花を見たことがなかったが、背景を知って鑑賞すれば面白いのかもしれない。

 現在も大覚寺が嵯峨御流の家元であり、毎年春には大覚寺で華道祭(かどうさい)が行われると聞く。

 大沢池は散策にはなかなか良い場所で、池畔を奥まで進むと、梅林の先にかつての庭園跡がある。現在では気持ちの良い野原だが、この山側に有名な名古曽滝(なこそのたき)があったという。名古曽滝というと、必ず引用されるのが、平安中期の歌人藤原公任(ふじわらのきんとう)の次の歌である。

  滝の音はたえて久しくなりぬれど
     名こそ流れてなほ聞こえけれ

 小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に登場するこの歌は、誰しも一度くらいは聞いたことがあると思うが、滝自体は失われて今はない。歌にある通り、平安中期にはもう水が枯れていたらしく、名前だけが残っていて有名だったのである。現在は発掘された石組みだけが残っている。

 ガイドブックには名古曽滝のことがよく紹介されているが、大沢池の一番奥にあるせいか、ここまで足を延ばす観光客はわずかである。お蔭で静かなエリアになっており、のんびりと休憩できる。





 上の写真が名古曽滝の跡で、木の下の岩の辺りに滝があったということだろうか。こうして見ると、地形から言って、さほど大きな滝ではなかったように見える。この滝から流れ出た水が鑓り水となり、画面の左側に流れ大沢池に注いでいたようだ。鑓り水の跡も、窪地と幾つかの組石の形で残っている。

 さて、ゴールである大覚寺を見学し、これで千代の古道散策も終了だが、せっかく近くまで来たので、この奥にある直指庵(じきしあん)に寄って帰ることにする。

 直指庵は、大覚寺の裏山の中腹にあり、紅葉の名所として有名である。女性に人気の寺というイメージがあるが、それはここにある想い出草というノートによるものであろうか。「そっとその意地を私の心(ノート)にすててください。苦しむあなたをみているのがつらいのです」というメッセージで有名な想い出草は、訪問者がその悩みなどを綴り続けて、既に5000冊になるという。驚くべき冊数であり、それだけたくさんの人が悩みを抱えて直指庵の山門をくぐったということであろう。

 大覚寺の脇の道を山側にたどると、直指庵への道標が要所々々に出ており迷うことはない。山に向かって細い道を上がっていくと、竹林の脇に山門がある。大覚寺の賑わいと違って、実に静かである。

 直指庵は正式のお寺だが、寺号がない。沢庵和尚(たくあんおしょう)として有名な臨済宗(りんざいしゅう)の沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、日本における黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖、隠元隆g(いんげんりゅうき)に師事した独照性円(どくしょうしょうえん)という僧が、江戸時代にこの地に没蹤庵(もっしょうあん)という庵を開いたのが始まりと伝えられる。臨済宗も黄檗宗も禅宗であり、その源流はごく近いものであったようだ。

 没蹤庵は次第に拡大して大寺院となるのだが、独照性円は、言葉や知識に寄らず自分の本心を直視し仏に近付くという禅の考え方、直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)を忠実に守り、寺号を付けなかった。代わりに、その考えを示すべく、直指庵という名前を付けたのである。

 こうして栄えた直指庵だったが、独照性円の跡を継いだ月潭道澄(げったんどうちょう)が亡くなると衰退し、独照性円の墓堂が残るだけの荒れ地となった。

 その後、幕末になって直指庵を再興するのは、近衛家(このえけ)の老女だった津崎矩子(つざきのりこ)である。矩子は、近衛家老女となってから村岡局(むらおかのつぼね)を名乗ったため、よく津崎村岡局として紹介される。





 上の写真の石段を上がったところに葦葺きの本堂があるが、村岡局が住んだ当時のものは明治時代に火事で失われ、現在の本堂はその後再建されたものである。当初は禅寺だった直指庵は、村岡局によって浄土宗のお寺となり、今は堂内に阿弥陀如来が祀られている。

 本堂に上がって休憩していると、先客は帰ってしまい、堂内にひとりとなった。山の中とあって涼しい風が吹き、静寂の中、暫し佇んだ。先ほどの大覚寺の盛況とはえらい違いである。座卓の上には想い出草が3冊置かれていた。パラパラめくると、深刻な話も含めて来訪者の様々な思いが綴られている。団体観光客が大挙して訪れる有名寺社とは趣を異にする場所である。

 本堂を出て奥へ行くと、直指庵を再興した村岡局の墓がある。ここの説明板に掲げられている村岡局の人物像は、この鄙びた直指庵のイメージとはかなり異なっており、なかなかすごい人物だったことが分かる。

 説明板の題が、いきなりデカデカと「勤王の女傑」である。説明を読むと、なるほど女傑だと思うようなエピソードが綴られている。

 近衛家は、平安時代の藤原家に始まる家柄の一つで、朝廷の枢要を支配する五摂家(ごせっけ)の一つである。村岡局が仕えた当時の近衛家の当主は近衛忠煕(このえただひろ)で、天皇のお側近くにお仕えする朝廷の重臣だった。

 外国との交渉に弱腰と見られていた幕府に対し、諸藩の勤王派は尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱え、外国を力で排除するよう幕府に求める。勤王派は朝廷を頼りにし天皇の威光を借りようするが、その際の中継点の一つが近衛忠煕であり、実務的な連絡役を引き受けていたのが村岡局である。村岡局自身がどこまで尊王攘夷を信奉していたかは知らないが、薩摩藩士西郷隆盛(さいごうたかもり)や清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)の住職、月照(げっしょう)ら勤王派の主要メンバーとも親交があったという。

 近衛忠煕の正室は、薩摩藩9代藩主の島津斉宣(しまづなりのぶ)の娘、郁姫(いくひめ)であり、当時、近衛家と薩摩藩は特別な関係にあった。後に、13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)へ嫁ぐことになった薩摩藩11代藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)の養女、篤姫(あつひめ)は、薩摩藩から直接輿入れというわけにはいかなかったため、一旦近衛家の養女になった後に家定に嫁いだが、その時には母親となるべき郁姫が亡くなっていたため、村岡局が篤姫の養母役となった。

 村岡局の墓にある説明板では、篤姫輿入れの際のエピソードを紹介している。篤姫の養母として江戸城に入った村岡局は、時の将軍より願いのものを与えると言われ、将軍のお側に近衛家の者を置いて欲しいと述べて、将軍と列席した諸大名を驚かせたと言う。結局、村岡局は三つ葉葵の紋の入った打掛を下賜されたようだ。

 ところがその後、尊王攘夷派を中心とした反幕府勢力弾圧を目的とする安政の大獄(あんせいのたいごく)が始まり、勤王派と通じていたという理由で村岡局も捕らえられ厳しい詮議を受ける。村岡局はこの時、将軍から下賜された三つ葉葵の紋の入った打掛を着て幕府の評定所に登場した。評定所の役人も、これには困ったという。

 結局、村岡局は30日間の謹慎を申し渡され、郷里の嵯峨野に戻り、荒れ果てた直指庵に入る。村岡局の生家津崎家は代々、大覚寺住持となる皇族に仕える家柄なのである。村岡局74歳の時のことである。

 その後村岡局は、里の人々とも交流しながら風月を友とし直指庵で亡くなる。墓には、彼女自身の筆で津崎氏村岡矩子之墓と刻まれている。享年88。明治天皇は彼女に、死後贈位の最高位である従四位を贈っている。





 山の斜面に広がる敷地を散策し、日の傾き始めた直指庵を後にした。

 ここからは、JR嵯峨嵐山駅まで歩くことにする。最短コースを行こうと街中の路地に入り込み、迷いそうになる。スマホのGPSとGoogleマップの組合せに助けられながら、何とか駅までたどり着いた。

 毎度のことだが、JR嵯峨嵐山駅のプラットフォームは外人を中心とする観光客であふれそうになっており、ラッシュ並みの混雑となった電車で京都駅に向かった。

 この日の歩数は1万7000歩ほどで、距離にすれば約13kmとなる。ただ千代の古道を踏破するだけならこんなにはかからないわけで、毎度あちこち立ち寄るものだから歩行距離が延びる。

 京都に足しげく通って有名な寺社をくまなく見て回っている人は関西にいっぱいいるが、その人々でもめったに知らない道を歩いてみるというのは面白いものである。その後、千代の古道を歩いた話を何人もの人にしたが、誰一人としてこの道を知っている人はいなかった。







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