パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■千代の古道(前編)





 今回ご紹介するのは、京都にある千代の古道(ちよのふるみち)である。

 京都市内には幾つか、○○の道と名付けられた有名な道がある。筆頭は哲学の道であろうか。琵琶湖疎水沿いの静かな径で南禅寺(なんぜんじ)辺りから銀閣寺(ぎんかくじ)辺りまで続き、桜の名所としても名高い。他にも、東山の高台寺(こうだいじ)前を通るねねの道があり、この界隈の雰囲気にピッタリ合った人気のスポットとなっている。あとは金閣寺(きんかくじ)、龍安寺(りょうあんじ)、仁和寺(にんなじ)と、京都屈指の名所を通るきぬかけの路が挙げられる。いずれも、京都の観光ガイドブックには必ず登場する有名な道である。

 しかし、千代の古道となるとどうだろう。私はあまたある京都のガイドブックをつぶさに検証したわけではないが、この道について紹介した本は見たことがない。私の周りにいた関西人で京都によく行っている人でも、この名を知っている人はいなかった。では、この道のことをどうして知ったのか。実は、京都検定の公式テキストブックをパラパラめくっていて目に留まったのである。

 哲学の道やねねの道と違って、この道の歴史は古い。平安貴族たちが使っていた道で、小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者にして和歌の名手である藤原定家(ふじわらのていか)の歌にも登場するほどだ。ただ、惜しいかな、それが正確にどこを通っていたのかがハッキリしないのである。

 分かっていることは、大覚寺(だいかくじ)や広沢池(ひろさわのいけ)へ向かう道で、皇族や貴族たちが京の市街から嵯峨野(さがの)に遊びに行くのに使っていたという程度である。具体的なルートは複数の説があるらしく、特定はされていない。

 さて、その痕跡をたどってみたいと思っていたのだが、ルートについて諸説ある中で(財)京都市埋蔵文化財研究所が出しているマップが充実していたので、このルートに沿って一度歩いてみることにした。どうせなら、周辺の寺社にも立ち寄ることにして、行程を二つに分けることにした。今回は、前編というわけである。

 マップでは、阪急嵐山線(はんきゅうあらしやません)の松尾大社駅(まつおたいしゃえき)がスタート地点になっているが、その一つ手前の上桂駅(かみかつらえき)で降りて、周辺を散策しながらスタート地点へ向かうことにする。

 大阪の梅田から阪急電車の特急に乗って桂駅(かつらえき)で嵐山線に乗り換える。京都行き特急は10分間隔で出るが、梅田駅はすごい人で、電車が入って来ると、たちまち満席になる盛況である。梅田駅を出て何駅か止まるうちにたちまち車内はラッシュ並みの混雑となる。秋の連休中ということもあるが、やはり京都は観光のメッカだと実感する。

 桂駅で降りられるか心配になるほどのすし詰め状態だったが、嵐山線に乗り換える人がたくさん降りたので、何とか下車出来た。しかし、今度はその嵐山線の電車が満員状態である。私は次の上桂駅で降りたが、みんさんは嵐山まで行くのだろう。最近は渡月橋(とげつきょう)がすごい人気だと聞く。

 駅の前の道を山に向かって歩く。やがて上り坂になる辺りから竹林が見え、ほどなく道の脇に石の道標があった。そこを右に曲がると、すぐ先に最初の目的地、地蔵院(じぞういん)が見える。美しい竹林が迎えてくれた。





 地蔵院は、室町幕府の管領(かんれい)を務めた細川頼之(ほそかわよりゆき)が創建したとされる。管領は将軍を支える幕府最高の役職だが、代々足利一門の3家が交代で務めていた。細川家はその一つである。

 細川頼之は管領として、金閣寺を建てたので有名な将軍、足利義満(あしかがよしみつ)を補佐した人物である。また、幼少時に臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)の影響を受けて禅宗を信仰しており、後に夢窓疎石の弟子である碧潭周皎(へきたんしゅうこう)に帰依して出家している。ただ、出家したからといって幕府にかかわらなくなったわけではなく、僧侶の立場ではあったが、幕政に参画していた。

 地蔵院の開山は、実質的には碧潭周皎によるものだが、碧潭周皎は開山を夢窓疎石によるものとし、自らは二世となった。細川頼之と碧潭周皎の墓は、地蔵院の本堂傍らにある。幕府の要職にあったにもかかわらず、小さな自然石を置いただけのごく簡素な墓で驚く。

 写真で分かるように、この寺は竹林の中にあって、竹の寺として知られている。竹林と言えばたいていの人は嵯峨野を思い浮かべよう。しかし、嵯峨野の竹林の道は大混雑で情緒に欠ける。その点、この竹の寺はそれ程多くの人が訪れないため、静かな竹林の散策を充分楽しめる。

 本堂の脇にある中門をくぐると庫裡があり、そこから上がって方丈の広い畳の間で枯山水庭園を眺めながら休憩できる。庭には、羅漢に見立てた16個の自然石が配されており、羅漢が修行する姿を表しているらしい。羅漢とは仏陀(ぶっだ)の弟子のことである。

 同じ禅宗でも、龍安寺(りょうあんじ)の石庭の15個の自然石は何を表しているか諸説あって分からないのだが、地蔵院では修行する羅漢の姿と分かっているからスッキリする。ちなみに龍安寺を創建した細川勝元(ほそかわかつもと)も室町幕府管領で、細川頼之の子孫である。

 いつまでもここで休んでいたいような静かな空間だが、本日のプログラムは始まったばかりで、先を急がねばならない。お寺の人が傍らの夫婦連れに、細川家とこの寺の関係などを説明しているのを聞きながら暫し一服した後、席を立ってお寺を離れた。

 ところでこの地蔵院は、細川家だけではなく、一休さんで知られる名僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)ゆかりの寺でもある。





 一休宗純は後小松天皇(ごこまつてんのう)の隠し子とされ、生まれは地蔵院近くの民家だったようだ。本当に天皇の隠し子なのかと疑ってしまうが、その墓は現在も宮内庁管理になっているから、あながちデタラメな話ではなかろう。

 地蔵院でもらったパンフレットによれば、6歳になるまでこの地蔵院で育ったとある。その後、今は失われてしまった京都の安国寺(あんこくじ)という寺に移り、本格的な修行を積むことになる。我々が知るトンチのきくかわいらしい一休さんは、その頃のことをモデルにしているという。

 但し、実際の一休宗純は相当に変わった型破りの禅僧だったと伝えられている。酒も飲めば肉も食らうし、女性に手を出すだけでなく男色の気もあった。また、浄土真宗中興の祖である蓮如(れんにょ)の持念仏を断りもなく枕にして昼寝をしたり、奇怪な恰好で外を歩いたりと、エピソードには事欠かない。

 一方、京都有数の禅宗寺院である大徳寺(だいとくじ)の住持となり、応仁の乱で廃墟と化した伽藍の再建に力を発揮し、大徳寺中興の祖と称されている。また、村田珠光(むらたじゅこう)の禅の師となり、珠光が禅宗的な色彩の濃い質素な茶の湯の形を追求し、茶と禅を同一視する茶禅一味(ちゃぜんいちみ)を目指すきっかけを与えたことでも有名である。これが今日の茶の湯につながっているわけで、茶道とも縁の深い人である。

 大徳寺が応仁の乱で兵火をこうむったように、この地蔵院もその時に焼失している。南北朝時代には天皇の信仰篤く大いに栄えた地蔵院は、今では小さなお寺になってしまったが、竹林に囲まれた静かな境内は、小さくとも味わいがある。あんまり観光客に押し寄せてもらいたくないお寺である。

 さて、地蔵院を出て、門前を通る山沿いの静かな道を歩く。道は細い路地になり、石段の道となって西芳寺(さいほうじ)のある谷川沿いのエリアに出る。

 西芳寺は苔寺(こけでら)の名前で知られる有名なお寺だが、一般の拝観を中止している。従って、中には入れないのだが、谷川の近くまで歩いて行く。山から流れる清流が涼しげで、雰囲気のあるエリアだ。





 西芳寺は、奈良の大仏の造営を取り仕切った高僧、行基(ぎょうき)が創建したと伝えられるが、それ以前には聖徳太子(しょうとくたいし)の山荘があったともいう。

 行基は近畿地方を中心にたくさんの寺を創建しているが、奈良時代の仏教は国家維持のためのものであり、一般の民衆に広く布教してまわることは、当時の僧侶には許されていなかった。それを破って民衆の中に入り、各地でお寺を建てて布教したのが行基であり、それゆえ朝廷からは弾圧を受けた。しかし、行基の布教が社会にいい影響を与えていたことに加え、人々から圧倒的な支持を受けていたため、朝廷も途中から折れて行基の活動を認めるようになる。行基はやがて奈良の大仏造営の取り仕切りを任されるまでになり、仏教界最高位の大僧正の称号を我が国で初めて得るに至るのである。

 ただ、行基創建と伝わる西芳寺の前身は幾度かの変遷の後に荒廃する。復興されたのは室町時代で、近くにある松尾大社(まつおたいしゃ)の働きかけもあって、夢窓疎石が禅寺を開く。当時の西芳寺は天皇家や将軍家にも人気で、金閣寺や銀閣寺を建てる際のモデルともされた。

 しかし、その堂宇も幾度かの戦火や洪水によりたびたび失われ、盛衰を繰り返しながら今日に至っている。

 かつては一般に公開されていたのだが、1977年をもって拝観を停止した。現在、西芳寺の苔の庭を見ようと思ったら、往復ハガキで事前申し込みしたうえ、読経やら写経やら仏教行事をしないと見学できない仕組みになっている。信心のない私は、永遠にその庭を見ることはないだろう。

 西芳寺の手前には大きなバス・ターミナルがあり、その周辺に土産物屋や飲食店が並ぶ。これは、西芳寺が一般公開されていた当時の名残なのだろうか。中には団体客と思われる人もいて、結構賑わっている。皆さん、どこを目指してここに来たのだろうか。ちょっと不思議だった。

 この辺りは主要観光地から外れているので、あまり観光客もいないだろうと私は高をくくっていたが、そういうわけでもなさそうだ。道を歩きながら幾人かのグループになって観光客が歩いているのを見掛けた。

 さて、次は華厳寺(けごんじ)にでも立ち寄ろうと考えて案内板に沿って歩いていった先で驚くべきものを目にする。華厳寺手前の橋のところから、すごい人の列が続いているのである。その先の空き地で列がとぐろを巻いていて、驚くべき長蛇の列である。警備員が出て行列の整理をしている。これが全て、華厳寺に入ろうとする人の列と知ってビックリする。2時間待ちらしい。





 華厳寺は、江戸時代の僧、鳳潭(ほうたん)が建てたものである。鳳潭は、元々は比叡山の僧だが、様々な宗派の研究を行った学僧で、結局彼が極めたのが、奈良時代に主流だった大乗仏教の一つ、華厳宗(けごんしゅう)である。この華厳寺は名前の通り、鳳潭が華厳宗を広めるために建てたお寺ということになる。

 ところが、鳳潭の没後、江戸時代末期になって臨済宗の寺に改められてしまう。鳳潭にとっては不本意だったろうが、やはりいにしえの華厳宗では受けなかったということだろうか。

 さて、先ほどの地蔵院が竹の寺というニックネームを持っているのと同様、この華厳寺にもニックネームがある。というより、そっちの名前の方が有名で、ガイドブックではそちらの名前が出ているケースが多い。その別名とは、上の写真にあるように鈴虫寺(すずむしでら)である。

 鈴虫の飼育に熱心なお寺で、四季を通じて鈴虫の鳴き声が聞こえるユニークさが売りである。鈴虫は、お寺の縁起とは何の関係もないと聞く。拝観者に来てもらおうとお寺側が始めたようだ。他にも、住職が分かりやすく面白い説教を連日行うとか、様々な売りを新たに作って努力した結果が、2時間待ちの行列というわけである。観光客誘致の熱心さにおいては、賞賛に値するお寺と言える。寺社観光の激戦地である京都において、地味なお寺が拝観者を増やそうとすれば、相応の努力をしないといけないという好例である。本当の意味でのお寺の再興なんじゃなかろうか。

 そういう意味で興味はあったが、2時間も待っているわけにはいかないので拝観は諦め、次の目的地目指して先を急いだ。

 華厳寺の山門前から山沿いに延びる細道を行く。曲がりくねった住宅地の道で、思わず迷う。路地が複雑過ぎて地図が役に立たないのである。山の方向を確かめないと、自分がどっち方向に向かって歩いているのかすら分からなくなる。仕方ないので地図は諦め、スマホのGPSとGoogleマップを頼りに、次の目的地、月読神社(つきよみじじゃ)に向かう。





 月読神社の前には公園があって、神社自体は山の麓にひっそりと建っている。ここに来たのは、昔、長崎県の壱岐島(いきのしま)で、月読神社の本社を訪れたことがあるからだ。

 壱岐の月読神社は道路脇にあり、神さびたという表現がピッタリの古色蒼然とした鳥居が立っている。そこから山の斜面に向かって、これまた古めかしい石段が一直線に延びているのである。神秘ささえ漂う印象的な外観であった。そこを上がると本殿だが、これが無人の小さな祠なのである。古い神社とはこういうものかと感じ入った記憶がある。

 この本社に対して、京都の月読神社の方が有名なものだから、いったいどんな神社なのか興味があって寄ってみたというわけである。で、京都の月読神社を見た感想としては、本殿は壱岐のものよりも立派だが、放つオーラは壱岐の方が上かなという印象を受けた。

 月読神社は月読命(つくよみのみこと)を祀る神社であり、他に祭神はいない。日本神話では、月読命は文字通り、月を神格化した男神である。

 日本神話の国産み・神産みの中で、男神の伊弉諾(いざなぎ)とその妻伊弉冉(いざなみ)が日本の国土や自然、数々の神を産んでいくが、火の神を産んだ妻の伊弉冉はやけどを負って亡くなる。夫の伊弉諾は禁を犯して黄泉の国へ伊弉冉に逢いに行くが、見つかってこの世に逃げ帰り、黄泉の国の穢れを祓う禊を行うことになる。

 このとき、伊弉諾が左目を洗うと太陽を司る天照大神(あまてらすおおみかみ)が産まれ、右目を洗うと月を司る月読命が産まれた。つまり、天照大神と月読命は姉と弟という関係になる。

 では、この月読神社に祀られている月読命は月の化身かというと、どうもそうとも言えない。神社の前に立てられている説明板を読むと、ここに祀られている月読命は、壱岐の豪族、壱岐氏が祀っていた海上の神だとされている。そうなると、月の神ではないということになるのか。この辺りの関係はよく分からないが、壱岐からこの地に月読神社が来たのは、この辺り一帯を支配していた古代豪族の秦(はた)一族が関係しているとも書かれている。

 太陽神の天照大神に比べて、月読命にまつわる話は何となく謎が多いように思う。月の神なので、多少謎があった方がイメージに合う気はするが…。

 さてこの月読神社、本日ここまでで最も人の少ないスポットである。どう見ても地味で観光客向けではないから、こんなものだろう。但し、私以外誰もいないかというとそんなことはなく、滞在中にポツポツと訪ねて来る人がいた。観光客とも見えないのだが、何か人気の秘密があるのだろうか。これもまた謎であった。

 この後の道は簡単で、月読神社の前の道をそのまま行けば、次の目的地、松尾大社(まつおたいしゃ)に着く。実は、この月読神社、壱岐の月読神社の末社ではなく、松尾大社の摂社なのである。ここがまた、何とも不思議な感じがする点だ。





 松尾大社は、秦(はた)一族の氏神の一つとされている。月読神社の創建に秦氏が絡んでいるとされるのも、こうした関係によるものだろうか。

 秦氏は、太秦(うずまさ)という地名に名が残るように、京都の西部を拠点にしていた古代豪族で、秦公寺(はたのきみでら)の別名を持つ広隆寺(こうりゅうじ)も秦氏が創建したと伝えられている。

 秦氏は、神話時代に朝鮮半島から渡って来た渡来人で、遠い祖先は秦(しん)の始皇帝(しこうてい)とも称するが、事実かどうかは定かではない。養蚕・機織りの技術に秀でていたと言い、他に農耕、醸造、土木など大陸の優れた文化・技術を持ち込んで、古代の日本で大いに活躍したとされている。

 松尾大社の背後には松尾山があるが、元はこの山頂にあった磐座が地元の人々の信仰の対象とされ、神事が執り行われていたようだ。その後、飛鳥時代になって文武天皇(もんむてんのう)の命により、松尾山の麓に、秦一族の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社を建てる。そして、松尾山の山頂から磐座に宿る神を勧請するのである。これが現在の松尾大社である。

 平安時代には、上賀茂・下鴨の賀茂神社(かもじんじゃ)と共に、都を護る王城鎮護の神とされ「賀茂の厳神、松尾の猛霊(かものげんしん・まつおのもうりょう)」と並び称されていたようだ。両賀茂神社は、奈良の葛城から移って来た古代豪族、鴨(かも)一族の氏神であるが、秦氏もまた葛城を拠点としていた時期があったと聞く。両者は京に移って来てからも交流があったようで、平安京が出来る以前からの京の一大勢力だったわけである。

 松尾大社は、お酒の神様としても有名である。これは、秦氏が大陸の優れた酒造技術を日本に持ち込んで酒造りを行っていたためで、現在でも酒造業者の信仰が篤い神社として知られている。境内には、奉納された酒樽が並ぶが、その数は圧巻である。この前で記念撮影している観光客までいる。

 境内の奥には山から滝が流れており、そのそばに亀ノ井(かめのい)という井戸がある。ここに湧く霊水を醸造の際に混ぜると、酒が腐らないという伝承がある旨、境内の説明板に記されている。今でも自由に水を汲むことが出来るが、生水なので飲むなら浄化が必要らしい。





 酒が腐るというのは現代の我々の感覚ではなかなか理解できないことだが、以前に酒造業者の方に話を伺ったところ、昔の酒造りでは多くが腐って使い物にならなかったらしい。今のような厳密な製法管理が出来ず、酒蔵に雑菌も多かったろうから、避けようがなかったのだと思う。その分、うまく出来た酒は貴重だったはずで、亀ノ井の霊水は酒造業者にありがたがられたのだと思う。もっとも、本当に腐らなかったのかどうかは分からないが…。

 さて、いよいよここからが、本来の目的である千代の古道の始まりとなる。マップに従えば、松尾大社駅からスタートとなるのだが、平安時代に駅はないので、秦氏の氏神から始まるとした方が、それらしかろう。しかし、都の中心部から貴族が来るのに使った道なのに、どうして郊外の松尾大社がスタート地点なのだろうか。素人の私が考えても仕方ないので、とにかく千代の古道を進むことにする。

 松尾大社の参道を抜けると、その前は松尾大社駅であり、そのすぐ向こうに桂川(かつらがわ)が流れている。桂川を越えて松尾大社参道の続きのように延びるのは、四条通(しじょうどおり)である。四条通の行きつく先は祇園(ぎおん)の八坂神社(やさかじんじゃ)であり、道の両端に有名神社が構えているというのも面白い。京都ならではである。

 松尾橋(まつおばし)の上から見ると、桂川の河原はバーベキューをする家族連れでいっぱいである。橋の上を歩くと、風の具合でいい匂いが漂って来る。

 桂川沿いを、このまま2kmほど上流に向けて歩けば渡月橋がかかっている。おそらく、乗って来た阪急嵐山線の電車に同乗していた人々は終点まで行って、今頃嵐山や渡月橋を散策しているのだろう。

 桂川という川は、場所によって呼び名が異なり、古い言い伝えなどでは別の名前が使われることがある。よく見るのが大堰川(おおいがわ)という呼び名で、渡月橋の欄干にも大堰川と記されている。おそらく昔は大堰川と言っていたはずである。

 他に有名なものとしては、京都から亀岡にかけての桂川のことを指す保津川(ほづがわ)である。船頭の操る船で急流下りを楽しむ保津川下りは有名である。また、観光用にトロッコ列車も川沿いを走っている。

 さて、橋を渡ると普通の京都の街並みで、観光客など見当たらない。ここから先は、あまり観光客には出会わない道行きとなりそうである。

 四条通を暫く歩くと、梅宮大社(うめのみやたいしゃ)を示す交差点がある。ここを曲がると、千代の古道の最初の立寄りポイント、梅宮大社に着く。交差点を曲がったところがもう参道である。





 先ほどの松尾大社は秦氏の氏神を祀る神社だったが、梅宮大社は、橘(たちばな)を名乗る一族の氏神を祀っている。

 日本史の教科書などに出て来る橘一族の中では、橘諸兄(たちばなのもろえ)が最初に登場する人物だろうか。奈良時代に活躍した公卿で、吉備真備(きびのまきび)や玄ム(げんぼう)を取り立てて、聖武天皇(しょうむてんのう)の右腕として活躍した。

 橘諸兄という人は彗星のように突如中央政界に現れるが、実は当時権力の中枢にいた藤原氏らの重鎮が天然痘で全て亡くなってしまい、橘諸兄しかいなくなったという幸運に恵まれての登板だったのである。

 その後、巻き返しを図った藤原一族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、橘諸兄追い落としに失敗して反乱を起こすという騒ぎが起こっている。世にいう藤原広嗣の乱である。この乱が平定された後、聖武天皇は橘諸兄の本拠地であった現在の京都府木津川市に新しい都を造って遷都する。恭仁京(くにきょう)と呼ばれたこの新都にあったのが、梅宮大社の前身となる橘氏の氏神を祀る神社である。

 橘氏は、先ほど出て来た秦氏や鴨氏のように神話時代に遡る古代豪族などではなく、橘諸兄の母親からスタートする新興貴族である。

 橘諸兄の母親は、名を県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と言うが、出自のよく分からない宮廷内の女官である。三千代は後に、敏達天皇(びだつてんのう)の末裔とされる美努王(みぬおう)に嫁ぐ。そして二人の間に生まれたのが橘諸兄である。従って、橘諸兄は皇族の血を引いており、橘氏は皇族系の氏族ということになっている。

 橘という姓は、三千代が女帝だった元明天皇(げんめいてんのう)から賜ったものだが、元明天皇が皇女時代に女官として仕えていたのが三千代だったのではないかと見られている。かくして橘という新しい氏族が誕生したわけだが、三千代は美努王と離縁して、藤原氏の事実上の始祖である藤原不比等(ふじわらのふひと)に嫁いでしまう。そして不比等との間にもうけた娘が、聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう)なのである。つまり聖武天皇を補佐していた橘諸兄と、天皇の妻である光明皇后は母を同じくする兄妹というわけである。何とも密な人間関係と言わざるを得ない。

 さて、梅宮大社の話である。ここに祀られている祭神は、酒解神(さかとけのかみ)をはじめとして4神あるのだが、実はどういう神様なのか、確たることは分かっていない。一応、後世の解釈として、日本神話に出て来る神様をそれぞれ充てて、これはこの神のこと、みたいな解釈が出来ているのだが、本当にそうなのかはハッキリしない。創建の県犬養三千代の出自も明確ではなく、神様の正体も不明という不思議さが、私には逆に魅力に映る。古代のことは、どこか謎なところがあった方が面白いのである。

 ちなみに梅宮大社側では、主祭神の酒解神のことを、日本神話に出て来る大山祇神(おおやまつみのかみ)のことだと説明している。大山祇神は、日本神話最初の神産みのところで産まれた日本の山を神格化した存在である。ただ、同時に酒解神は漢字から分かる通り、酒造の神だとも説明されており、こちらの方が有名なのかもしれない。

 梅宮大社の山門の上には酒樽が並んでいて、見た瞬間に酒にまつわる神社だと分かる。





 ところで、現在の木津川市にあった橘氏の氏神を祀る神社が、どうしてこの地に来たのだろうか。ここに至るまでには幾度かの変遷があり、まずは、創建した三千代の娘である光明皇后によって奈良に移転するのである。その後、木津川の上流に一旦移るが、平安時代初期になって現在の地に遷座して来る。この場所への移転を行ったのが、嵯峨天皇(さがてんのう)の皇后、檀林皇后(だんりんこうごう)である。檀林皇后は橘一族の出であり、元の名を橘嘉智子(たちばなのかちこ)と言う。

 この檀林皇后ゆかりの遺物が、今でも残っていると境内の解説板にあった。本殿脇にある石で、またげ石と言うらしい。

 言い伝えでは、子に恵まれなかった檀林皇后がこの石をまたいだところ、後に仁明天皇(にんみょうてんのう)となる男子を授かったといい、現在でも子宝や安産祈願の石として信奉されているようだ。ちなみに檀林皇后が嵯峨天皇との間にもうけた子はすごい数で、言い伝え通りとすれば、途方もないご利益があることになる。

 ところで、檀林皇后のことは、檀林皇后九相図(だんりんこうごうくそうず)という絵を昔テレビで見たことがあり、強く印象に残っている。檀林皇后は絶世の美女として知られ、仏教に深く帰依していたということでも有名である。普通、皇后なら亡くなると手厚く葬られるわけだが、檀林皇后は人々に世の無常を説くため、わざわざ自分の遺体を路上に放置せよと遺言する。そして、遺体が醜く崩れていき骨になる様を人々に見せたうえ、絵師に遺体の変化を描きとらせた。これが現在に伝わる檀林皇后九相図である。実物は常時公開していないため見たことがないが、テレビで見るだけでもなかなかリアルでグロい絵である。

 さて、梅宮大社を出ると、北側から境内地の外縁を回りこむようにして進む。その角に千代の古道の石柱が立っている。新しいもので、ロータリークラブの人たちが立てたらしい。お陰で道に迷わず助かる。





 千代の古道の道標に沿って、静かな住宅地の中を北上して行く。

 千代の古道のマップでは、この北に向かう道が古民家のある道とされているが、あまり多くは残っていない。新しく建て直されている家が多いし、古い土地を区分けして建売り住宅にしたエリアもある。時代の流れの中で、古い家並みは失われていったのだろう。

 かなり北に行くと、まだ所々に田畑が残っているのが道路から見える。その周辺には、農家と思われる古い家屋もある。蔵なども残っていて、そうしたところは古い家並みと言えるかもしれない。

 やがて道は川に突き当り、橋を渡る。この川を有栖川(ありすがわ)と言い、千代の古道の終点である大覚寺の奥から流れ出て、南に進み桂川に注いでいる。この先、千代の古道は有栖川に概ね沿って進むが、古代の貴族たちが川沿いに北上していったと考えて、このコースが千代の古道と推定されているのだろうか。

 この橋のある辺りは建物がなく開けていて、見通しが利く。ここから眺めていると、昔のこの周囲の様子を想像できる。農家の点在する田園地帯だったのだろう。川の手前には、千代の古道の石柱が立っている。

 有栖川の川べりには道路のない箇所があるため、並行して通る道路を北上し、突き当りの道を左折してから有栖川に合流するルートがマップで指示されている。

 有栖川沿いの道に入る手前に神社がある。千代の古道上の立寄りスポットの二つ目となる斎宮神社(さいぐうじんじゃ)である。





 斎宮神社は、野宮(ののみや)があったとされる場所に建てられている。野宮は、天皇の代理として伊勢神宮(いせじんぐう)に仕える皇族女性が、伊勢に向かう前に禊をする場所である。この1ヶ所だけでなく、京都には幾つか野宮の跡とされる場所があって、現在はいずれも神社になっている。ここの野宮は、有栖川禊(ありすがわみそぎ)の跡とされる。

 伊勢神宮には、皇室の祖であり太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られているが、天照大神は元々、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、天皇が起居する皇居内に祀られていた。

 ところが、二つの強力な神を皇居内に祀るのは恐れ多いとして、崇神天皇(すじんてんのう)の時代になって外で祀ることになった。このとき天照大神が移った先が、大和の笠縫邑(かさぬいむら)であり、現在の奈良県にある檜原神社(ひばらじんじゃ)境内とされている。そして、次の垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代になって、天照大神を再度伊勢へ移すことになり、現在の伊勢神宮が出来るのである。

 当初、天照大神を笠縫邑に移して祀るにあたって、崇神天皇は自分の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を帯同させた。天照大神が皇室の祖である以上、子孫として祭祀を行う皇族が共にいることが必要だと判断してのことである。豊鍬入姫命は笠縫邑で天皇の代理として祭祀を続け、垂仁天皇の時代に交替するまでその地に留まったという。

 このため、伊勢神宮に天照大神が移って以降も、天皇に代わって伊勢神宮で天照大神に仕える皇族が必要ということになり、天皇が交代するごとに皇族から女性が一人選ばれ、伊勢神宮に派遣されるようになる。こうした皇族女性は、斎宮(いつきのみや/さいぐう)と呼ばれた。

 斎宮は伊勢神宮に向かうに当たり、宮中で1年余り、宮中外で3年間、それぞれ禊を行ったが、宮中外で禊を行う場所が野宮であり、これは、斎宮が出るたびに色々な場所が選ばれたようだ。幾つも野宮があるのはそのためである。

 皇族女性を斎宮として伊勢神宮に送るしきたりは南北朝の時代になると廃れ、野宮のあった場所は、伊勢神宮と同じく天照大神が祀られて神社となったわけである。

 斎宮神社には、誰もいなかった。実に静かな神社である。同じ野宮跡で、嵯峨野へ行った際に訪れた野宮神社(ののみやじんじゃ)とはえらい違いだと思った。この日訪れた中で誰もいなかったスポットは、ここだけである。主要な観光スポットからは外れているし、観光客向けではないから、いくら謂れがあると言っても、こんなものかもしれない。

 さて、本日の千代の古道散策はここで終わりである。この先から大覚寺までは、日を改めて散策しようと思う。このすぐそばに京福電車の嵐山線が通っているので、チンチン電車に乗って帰るつもりだが、その前に一つ、千代の古道には関係ないものの、有名な神社が近くにあるので寄って行くことにする。

 斎宮神社の前の道を暫く西に進むと変わった鳥居が目に入る。ここが目的地の車折神社(くるまざきじんじゃ)である。





 車折とは、何とも変わった名前の神社である。

 ここに祀られているのは日本神話に登場するような神様ではなく、清原頼業(きよはらのよりなり)という平安時代末期に実在した貴族である。実務能力と学識に優れた人だったようだが、朝廷を牛耳る権力者というわけではない。ただ、時の権力者である藤原頼長(ふじわらのよりなが)や九条兼実(くじょうかねざね)に仕え、その能力を高く買われ賞賛されたという。

 清原一族は、日本書紀の編纂を指揮した舎人親王(とねりしんのう)を先祖として、皇族から臣籍降下して貴族となった家系である。臣籍降下した初代は清原夏野(きよはらのなつの)だが、この人は、吉田兼好(よしだけんこう)が隠棲したので有名な双ヶ丘(ならびがおか)に山荘を持っていた。そのため、右大臣当時は双岡大臣(ならびがおかだいじん)の名でも知られていた有名人である。清原一族には他に、枕草子(まくらのそうし)で有名な清少納言(せいしょうなごん)がいる。

 さて清原頼業だが、亡くなると、清原一族の所領だったこの地に葬られ、そこに廟が建てられたという。それが後に宝寿院(ほうじゅいん)という寺になり、清原一族の舟橋(ふなはし)家の菩提寺となった。宝寿院は後に、近くの天龍寺(てんりゅうじ)の末寺にもなったようだ。

 さて、お寺がどうして神社になったかだが、鎌倉時代に後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が桂川に遊興に出掛けたおり、宝寿院の前で乗っていた牛車の牛をつなぐ棒が折れるという事件が起きた。天皇がここはどこかと供の者に訊いたところ、清原頼業の廟所の前という答えだったので、そこにあった石に正一位と車折大明神の神号を贈ったという。それによりお寺が神社になったわけで、まぁ、何とも酔狂な話である。

 ところで、この車折神社はかなり有名な神社で、訪れる人も多い。天皇の牛車をストップさせた神威にあやかるためではなく、この境内に芸能神社(げいのうじんじゃ)があるからである。





 芸能神社は、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)を祀る神社である。

 天宇受賣命って誰だ、ということになるが、これは日本神話に出て来る有名な天岩戸(あまのいわと)のくだりに出て来る神様である。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、天界である高天原(たかまがはら)で様々な乱暴を働く。最初は大目に見ていた天照大神だったが、ついに天の織女の一人が亡くなるに至って、天照大神は怒って天岩戸にこもってしまう。そして、天界が闇に包まれる。

 困った神々は天岩戸の前に集まり、天照大神の関心を引いて岩戸を開けさせようと画策する。その時活躍したのが天宇受賣命で、この神は女神なのだが、集まった神々の前でエロティックな踊りを披露する。現代で言えば、確実に公然猥褻罪(こうぜんわいせつざい)に問われるレベルの踊りである。

 これを見た神々は喜んで大声で笑い、それを聞きつけた天照大神は、自分が岩戸に隠れて天界は暗闇に包まれているのに、何がおかしくて笑っているのかといぶかり、岩戸をそっと開けた。

 天照大神が岩戸の隙間から訳を訊くと、天照大神よりも新しく貴い神が現れたので、皆で喜んでいるのだという。その神の姿を見ようと天照大神が更に身を乗り出したところで、天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)が天照大神を岩戸から引きずり出した。こうして天界に光が戻ったというのが天岩戸の伝説である。

 この時踊りを踊って座を盛り上げた天宇受賣命は芸能の女神とされ、同時に神社に仕える巫女の起源ともされている。このため、古くから芸能に携わる人から篤い信仰を受けるようになった。

 天宇受賣命を祀る神社はたくさんあるが、ここ車折神社内の芸能神社が有名なのは、芸能人の参拝が半端じゃないくらいに多いからである。では、何故これほどまでに芸能人の参拝が多いかというと、その地理と歴史的な要因が大いに寄与してのことだと言われている。

 実は、ここから東に2kmほど行くと、松竹や東映のほか大小の撮影所がひしめき合っていた太秦(うずまさ)があるのである。ここで仕事をしていた俳優や映画会社の人が御贔屓にしていたのが、この芸能神社というわけである。芸能界の人たちはげんを担ぐと聞くから、近くに芸能の神が祀られていれば、大いに賑わったことだろう。その参拝の歴史が今日まで続いているというわけである。

 そんな長い歴史のお蔭により、芸能神社の周囲を巡っている玉垣には、誰もが知っている有名人の名前がギッシリで、テレビや雑誌でもよく取り上げられる。このため、車折神社がイコール芸能神社だと思われているようで、神社側では、本殿はあくまでも車折神社だと宣伝しているほどである。まぁそうは言っても、芸能神社なしでは、これだけの参拝者を集められないだろう。

 私が訪れた日も芸能神社はすごい人で、みんな玉垣に記された有名人の名前探しに余念がない。その玉垣の数が途方もないのである。建物の壁一面に、全て玉垣というエリアもある。でも、大物は神社のすぐそばという感じであった。芸能人の栄枯盛衰に合わせて並べ替えなどやっているのだろうか。皆さん、お気に入りの名前を見つけると、指差しながら写真を撮っている。

 さて、神社の境内をそのまま北向きに抜けて行くと、反対側の出口が京福電鉄の駅になっている。なかなか良く出来ていると感心する。駅が出来るほどの有名神社なのであろう。

 芸能神社からの帰りと思われるたくさんの女子高生たちと、やって来たチンチン電車に乗った。そして、平安貴族が通った千代の古道との落差に思いを馳せながら、京都を後にした。







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