パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■嵯峨野探訪





 今回の訪問先は嵯峨野(さがの)であるが、一口に嵯峨野と言っても、その範囲は広い。正確な境界線はハッキリしないのだが、京都の市街地の西端のエリアで、北と西はそれぞれの方向にある山まで、南は渡月橋(とげつきょう)で有名な桂川(かつらがわ)まで、西は太秦(うずまさ)辺りまでと、ざっくり言えばこの程度になろうか。この地域は、神話時代に朝鮮半島から渡って来た渡来系豪族である秦(はた)一族が開いた地である。

 嵯峨野の名の由来は知らないが、何ともいい響きで、地名を聞いただけで惹きつけられるものがある。古くから皇族・貴族が狩猟や行楽を楽しんだ地で、嵯峨天皇(さがてんのう)が後に大覚寺(だいかくじ)となる離宮の嵯峨院(さがいん)を開いたほか、多くの貴族が別荘を建てたと言われている。比較的女性に人気のスポットだが、私が大阪にいた当時は外人観光客も多かった。

 そうした風光明媚で華やかなイメージの一方で、嵯峨野の奥には京の三大埋葬地の一つである化野(あだしの)がある。そして、化野の奥にそびえるのが、平安時代に一条戻橋(いちじょうもどりばし)で渡辺綱(わたなべのつな)が出会った鬼が棲んでいたという愛宕山(あたごやま)である。渡月橋や天龍寺(てんりゅうじ)の賑わいから始まって、北に行けば行くほど寂しくなっていくということになろうか。

 光と影が織りなす嵯峨野のたたずまいを訪ねて、初秋のJR嵯峨嵐山駅に降り立った。本来嵯峨野は紅葉の名所で、もっと遅い時期に訪問するべきなのだが、大混雑が予想されて日程がこなせないと困ると思い、まだ木々の葉が青々とした時期に訪れることにした。ところがどっこい、季節外れのはずが大賑わいで、駅を降りたとたんに面喰らう羽目になる。

 嵯峨野の全てを一度には周れないので、この日は小倉山(おぐらやま)の麓を南から北に歩くことにした。桂川までを嵯峨野とすれば、一番南端に有名な天龍寺があるが、ここはパスして、JR山陰線の線路の北側からスタートすることにする。駅の混み具合から見て、渡月橋と天龍寺は激混みだろう。みんなそっちに行ってくれることを願いながら駅を出て西に向かい、嵯峨野のシンボル、竹林の道に入る。





 観光客の皆さんは、道を南に下って渡月橋に向かうものと期待していたが、竹林の道は観光客で一杯で驚く。この先はそのまま、俳優の大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)が建てた大河内山荘(おおこうちさんそう)に通じているが、まさかそんなところに人気が集まっているとも思えない。みんなどこを目指しているのだろうと首をかしげる。

 上の写真はかなり先の空いたところで撮ったものだが、竹林の入り口付近はとても写真が撮れる状態ではなかった。暫く歩いて分かったが、まさにこの竹林の中でみんな写真を撮ろうとしているのである。日本人観光客だけでなく、外人観光客もたくさんいる。感心して見ていたら、欧米系の女性に頼まれてカメラのシャッターを押すことになった。どういう写真を撮りたいのか訊いたら、竹林に囲まれた感じで写して欲しいとのことだった。竹林の良さって西洋人には分からないと思っていたが、案外そうでもないことを知る。その割には海外で竹を見かけないが…。

 竹林に囲まれた道は涼しくて格好の散策道だが、それも人出による。渋滞する中を歩いてもあまり気持ちのいいものではない。あてが外れたと思いながら、やがて人が少なくなることを期待して先に進んだ。

 さて、この竹林の道の中に第一の訪問地である野宮神社(ののみやじんじゃ)がある。すごく小さな神社で、およそ観光客が注目しそうになかったため、事前の予想では全く人がいないと思っていたが、すごい人出でビックリした。まるで街中の神社の夏祭りみたいな賑わいである。





 野宮神社は、野宮(ののみや)があった場所とされる。野宮が何かを話し始めると少々長くなるが、これはかの有名な伊勢神宮(いせじんぐう)にまつわる話である。

 伊勢神宮の内宮(ないくう)に祀られているのは、皇室の遠い祖先であり太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)であるが、この神は元々、倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と共に、天皇が起居する皇居内に祀られていた。

 ところが、二つの強力な神を皇居内に祀るのは恐れ多いとして、崇神天皇(すじんてんのう)の時代になって外で祀ることになった。このとき天照大神が移った先が、大和の笠縫邑(かさぬいむら)である。この笠縫邑があった場所は、現在の奈良県にある檜原神社(ひばらじんじゃ)境内とされている。そして、次の垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代になって、天照大神を再度伊勢へ移すことになり、現在の伊勢神宮が出来るのである。

 当初、天照大神を笠縫邑に移して祀るにあたって、崇神天皇は自分の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を帯同させた。それまで皇居内で祀っていた時には天皇がそばにいたわけだが、突然神様さようならというわけにはいかないので、天皇の代理として祭祀を行う皇族が、天照大神と共にいることが必要だと判断してのことである。

 豊鍬入姫命は笠縫邑で祭祀を続け、垂仁天皇の時代に交替するまでその地に留まったという。伊勢神宮に天照大神が移って以降も、天皇に代わって伊勢神宮で天照大神に仕える皇族が必要ということになり、天皇が交代するごとに皇族から女性が一人選ばれ、伊勢神宮に派遣されるようになる。これが斎宮(いつきのみや/さいぐう)である。

 野宮神社内にある解説板によれば、斎宮は伊勢神宮に向かうに当たり、宮中で1年余り、宮中外で3年間、それぞれ禊を行ったが、宮中外で禊を行う際の場所を野宮と呼び、京都には幾つか野宮跡とされる場所がある。この野宮神社もその一つというわけである。

 その後、皇族女性を斎宮として伊勢神宮に送るしきたりは南北朝の時代になると廃れ、この場所には伊勢神宮と同じく天照大神が祀られて神社となったが、やがて衰退していく。

 後世になり、戦国時代の後奈良天皇(ごならてんのう)や江戸時代の中御門天皇(なかみかどてんのう)が尽力して再興され、現在でも皇族の崇敬を集めているようだ。現在、野宮の跡は美しい苔の庭になっている。





 ところでこの神社は、紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語(げんじものがたり)の舞台にもなっている。登場するのは第10帖の賢木(さかき)であり、光源氏(ひかるげんじ)に思いを寄せる六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が、やがて光源氏と別れる場面で、当時の野宮が登場する。

 六条御息所は前の東宮(とうぐう/皇太子)の妃だったが、若くして東宮が亡くなり、東宮との間に出来た娘と暮らしている。光源氏と恋仲になるが、六条御息所の方が年上で、しかも元東宮妃というプライドもあり、次第に両者の関係がうまくいかなくなる。そうこうしているうちに、娘が斎宮に選ばれ、伊勢に行くことになるのである。光源氏に未練を抱きながらも、これ以上の恋の進展は無理だと諦めて、六条御息所は娘と共に伊勢に行くことを決める。最後の挨拶ということで、光源氏が野宮に六条御息所を訪ねて別れを惜しむのである。

 源氏物語の時代はまだ野宮神社ではなく、斎宮が禊のために世間から離れて籠る建物が建っていた。六条御息所は斎宮となった娘に付いて、この建物で暮らしていたという設定になっている。

 源氏物語によれば、野宮は外囲いに小柴垣を使い、仮普請の板屋が建ち並んでいたとある。そして入り口には黒木(くろき)の鳥居が立っていた。黒木の鳥居とは、原木をそのまま使った原始的な鳥居である。野宮神社では当時の様子を再現するべく、クヌギの木で出来た黒木鳥居が現在も立っており、小柴垣も境内にある

 平安の昔は、野宮の周囲は草が生い茂る野辺だったようで、光源氏が野宮を訪ねた秋には、虫の音が聞こえる中、時折風が吹き渡る寂しい場所だったようだ。

 京郊外の静かで寂しい場所だった野宮は、今では観光客が押し寄せる人気神社となり、当時の面影を偲べるのは、周囲のうっそうとした竹林くらいだろう。しかし、ここに来ている観光客のいったい何割が、上に述べたようなこの神社の謂れを知っているのだろうか。境内に説明板があったが、読んでいる人はほとんどいなかった。まぁ私が心配することではないからいいのだが…。

 野宮神社を出て、脇の道を更に西へと進む。竹林の道はその先も続き観光客で賑わっていたが、大河内山荘の入り口辺りでようやく人の数が少なくなる。このままずっと大混雑だったらどうしようと思っていたが、多少は安心した。

 大河内山荘の入り口で右に折れて、山の裾野を北に向かう。理容師さんや美容師さんに信仰されている御髪神社(みかみじんじゃ)脇の小倉池(おぐらいけ)の手前で竹林は途絶え、ぐっと人の数は減る。ほとんど歩く人もいない静かな池沿いの道を進んだ。やはり嵯峨野には静寂が似合うと実感する。

 ここから先のエリアには大きなお寺はないが、名の知れた小さなお寺が点在している。今日はそれをたどっていこうという趣向である。この先はひっそりとしていることを期待して、まずは常寂光寺(じょうじゃっこうじ)を訪ねた。





 常寂光寺は日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、建てられたのは安土桃山時代と、そう古くはない。そもそもは、山科にある本圀寺(ほんこくじ)の16世貫首を務めた日禎(にっしん)が隠棲のために建てたものである。

 日禎は幼い頃から本圀寺で修業を積み、わずか18歳で貫首となっている。豊臣秀吉建立の方広寺(ほうこうじ)大仏殿において多数の僧侶を招いた千僧供養(せんそうくよう)が催された際、教義を盾に出席を拒んだことで知られる。法華経(ほけきょう)こそが釈迦の正しい教えと信じる日蓮宗では、法華経の信者以外の供養を施さず、布施も受けないという不受不施義(ふじゅふせぎ)の考えが元々あり、後世に次第に崩れていくのだが、日禎はそれを貫いたのである。まぁ原理主義者だと言えばその通りで、この時に同調して千僧供養に出席しなかった日蓮宗僧侶たちは、後に邪宗門(じゃしゅうもん)と呼ばれて弾圧されることになる。

 日禎はその後、日蓮宗開祖の日蓮の足跡をたどる旅に出て、京に帰って来ると同時に 隠棲する。この小倉山の麓の土地は、京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)が日禎に寄進したものである。日禎は、京の町衆から信仰を集めていたらしい。恩返しにと、角倉了以が現在の桂川改修工事を請け負った際に、日禎は瀬戸内水軍に頼んで熟練の舟夫の一団を招いて工事を手伝わせた。これが現在の保津川下りに結び付いていると、お寺がくれたパンフレットには書いてある。なかなか面白いエピソードである。

 さて、当初は日禎上人隠棲の場所としてスタートしたが、後世の支援で次第に伽藍が建て増される。

 本堂は江戸時代初期に桃山城の客殿を移築して建てられたものと聞くが、あいにく訪れた日には改修中で、拝観することは出来なかった。お寺のパンフレットでは、関ケ原の合戦での裏切りで有名な小早川秀秋(こばやかわひであき)の尽力で移築されたものらしい。小早川秀秋は日禎に帰依していたということだ。

 上の写真は仁王門だが、この趣のある門は本圀寺の客殿の南門を移築して来たものという。

 有名なのは多宝塔だろうか。正式には、並尊閣(へいそんかく)と言うようだ。国の重要文化財だが、紅葉の季節に色づいた木々と共によく写真に撮られているので、目にした人も多いのではなかろうか。日禎を慕う京都の町衆の寄進により造営されたもののようで、日禎の人気のほどが伺われる。

 こうした建物が山の斜面に並び、変化に富んだ境内を形造っている。





 小倉山の中腹にあるので眺望が利くうえ、秋には紅葉の名所としても有名で、春の新緑もまた美しい。それ以外の季節は訪れる人もそう多くなく、境内は静かで落ち着いている。この日も、あの竹林の賑わいが嘘だったように閑散としていて、ひととき静寂の中に身を置くことが出来た。仏の住む浄土のことを仏教では常寂光土(じょうじゃくこうど)というが、境内のたたずまいが浄土のようだとして常寂光寺の名前が付いたと伝えられる。静謐の中境内を巡りながら、なるほどと思った。

 入り口でお寺の方から、是非苔の庭を見るように勧められたが、これはすごく美しかった。長雨の合間の訪問だったので、苔の色付きが良く、輝くような緑の絨毯が、山の斜面に沿って広がっている。ほとんど人のいない苔の庭をゆっくりと散策した。季節外れに来ると、こういう贅沢な見学が出来る。

 苔衣(こけごろも)きて住みそめし小倉山 松にぞ老いの身を知られける

 日禎の歌である。晩年をこの地で暮らした日禎は57歳で逝去している。

 ところで、そんな静寂の境内の一角に、時雨亭跡(しぐれていあと)という場所がある。ここは、多宝塔の脇の方にあるが、なかなか分かりにくい。滞在中に何人かの拝観者と出会ったが、ほとんどの人はこのエリアには立ち寄らずに帰って行った。お寺が手渡すパンフレットには境内の地図がないので、入り口で場所を確認しておかないと所在地が分からなくなってしまうのだろう。

 私はしっかり入り口で位置を確かめて、お寺の人にも分かりやすい場所か訊いた。何故ならここは、本日のテーマの一つである藤原定家(ふじわらのていか)ゆかりの場所だからである。





 藤原定家と言えば小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者として有名だが、鎌倉時代の初め頃に活躍した公家で、中納言(ちゅうなごん)まで昇りつめた人である。

 定家は政治の舞台よりも、歌人としての活躍の方が有名である。父の藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)も名高い歌詠みであり、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の勅撰和歌集である千載和歌集(せんざいわかしゅう)の編集に携わった。父俊成は、歌壇においては既に大御所的存在だったが、定家はそれを超えて、我が国における歌道の頂点のような扱いを受け、新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)と新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)の2つの勅撰和歌集の編纂に携わる。他にも多くの和歌集や歌学書を残し、後世永らく和歌の分野で崇敬される存在となった。

 その定家のところに、親交の厚かった宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)から依頼が舞い込む。宇都宮頼綱は公家ではなく武将であり、鎌倉幕府の御家人だったが、歌詠みとしても名高い存在だった。現在の宇都宮の地で宇都宮歌壇(うつのみかだん)と呼ばれる歌人の集まりを主催し、後世ここから多くの優れた歌人が生まれることになる。また、宇都宮家の先祖は藤原氏であり、定家とは同族の縁もあった。

 頼綱は鎌倉で謀反の嫌疑を掛けられたが、無実の証を立てる意味も込めて出家し、実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と名乗った。晩年には京に移り、嵯峨野の地に小倉山荘(おぐらさんそう)を建てて隠棲する。この際、そこの襖の装飾のため、色紙の作成を定家に依頼して来たのである。

 定家は、飛鳥時代まで遡って優れた歌人を百人選定し、一人一首秀歌を選んで色紙にその歌を書いた。これが後に小倉百人一首と呼ばれるようになる。わざわざ小倉と付けられるのは、後年定家の百人一首を真似て、多くの百人一首が生み出されたからである。そういう意味でも、なかなか面白い企画だったと言えよう。

 我々が知るようなカルタの形になるのは印刷技術が発達した江戸期のことらしいが、後年、定家が歌道の神様のように崇敬されるようになると、定家自身が書いたオリジナルの色紙に好事家の関心が集まる。これは小倉色紙(おぐらしきし)などと呼ばれて宝物のように扱われたが、多くの人の手に渡るうちに散逸し、現在残っているのはわずかと聞く。そして、そのわずかな小倉色紙も、本当に定家が書いたオリジナルかどうかが分からないという状態になっているのである。

 さて時雨亭であるが、これは定家が小倉百人一首を選ぶ際に滞在していた山荘とされている。では、常寂光寺の時雨亭跡がその場所かというと、これが必ずしもそうとは言い切れない。嵯峨野に候補地が3つあるのである。本日は、他の2ヶ所の候補地にも立ち寄ってみようかと思っている。

 そういうわけで、次なる時雨亭跡を求めて常寂光寺を後にしたのだが、そこに行く前に、途中にある落柿舎(らくししゃ)に立ち寄ることにする。

 常寂光寺の門前を東に進んで最初の四つ角を左に曲がり北に行くと、広々とした野原が現れる。その向こうの森にひっそりと門を構える鄙びた東屋が落柿舎である。





 落柿舎を訪ねたのは、ここを題材に描いた東山魁夷(ひがしやまかいい)の作品を思い出したためでもある。ちょうど上の写真そのままに、土間の入り口脇の土壁に蓑と傘がかかっている様子を描いた何気ない絵だが、嵯峨野の持つ静かで落ち着いた風情を感じさせる秀作である。

 落柿舎は、江戸時代前期の俳人松尾芭蕉(まつおばしょう)の高弟であった向井去来(むかいきょらい)の草庵と伝えられるが、オリジナルがそのまま残っているわけではなく、江戸時代後期に再建されたものである。しかし、それでもこの景観は素晴らしいと言わざるを得ない。落柿舎そのもののたたずまいもさることながら、周囲の田園風景ともよくマッチしており、嵯峨野を代表する美しい風景だと思う。

 東山魁夷作品に描かれている蓑と傘は落柿舎のシンボルだが、これは去来が在宅の折の印だったと伝えられている。ここに掛かってなければ外出中ということで、訪ねて来た人へのやさしい思いやりが偲ばれる。

 向井去来は肥前の生まれで父は医者だった。若い頃は武芸もたしなんだが、やがて俳諧の道に目覚め、縁あって芭蕉に出会って弟子となる。この落柿舎に住み、蕉門十哲(しょうもんじってつ)に数えられる優秀な俳諧師であったという。芭蕉も去来の才能を高く買い、俳諧奉行(はいかいぶぎょう)の名を贈っている。

 落柿舎には芭蕉も3度訪れており、滞在中のことを嵯峨日記(さがにっき)として残している。また、他の門人たちの訪問もあったようだ。芭蕉は京に滞在している間に芭蕉一門の撰句集である猿蓑(さるみの)を編纂しているが、この時手伝ったのは去来と野沢凡兆(のざわぼんちょう)であった。この句集は、芭蕉門下の撰句集の中で最も優れたものと言われており、後世高い評価を受け、俳諧の手本とされた。

 落柿舎の名前の由来が面白い。当時、去来の庵の庭に40本ほどの柿の木が植わっていた。ある時商人がやって来て、なった柿の実を全て買う約束をして金を置いていく。ところがその夜、柿の実が全て落ちてしまうのである。翌日やって来た商人は、この商売長いがこんなことは初めてだと驚く。この事件をきっかけに、去来は自分の庵を落柿舎と呼ぶようになる。私が行った時も、庭の柿の木に実がついていて、すでに色付いて実が落ちているものもあった。小さなかわいらしい実で、鄙びた落柿舎のたたずまいによく似合っていた。

 去来は、芭蕉の教えを忠実に守り、名声を求めず、弟子も取らなかった。去来自身の句集も作らず、弟子がいないのでその足跡をまとめたものもない。唯一残るのは、芭蕉の教えや門人たちと交わした俳諧論などをまとめた去来抄(きょらいしょう)という俳諧論の書だけである。ただ、これも本当に去来が書いたものかについて疑う説があるという。

 かくして去来について残るものはほとんどなく、この落柿舎と近くの去来の墓地だけが、去来を偲ぶ遺構となっている。その素朴で温かいたたずまいが去来の人柄を表しているようでもある。

 柿主(かきぬし)や 梢はちかき あらし山 (去来)

 落柿舎を出て道を北にたどると、右側に延びる径がある。この脇に向井去来の墓がある。道行く観光客はあまり立ち寄らず、静かな場所である。元の道に戻り少し歩くと、二尊院(にそんいん)の門前に出る。立派な門構えで、しかも前の道路もここだけ広くなっている。小倉山の麓のお寺の中では一番立派なたたずまいだと思う。





 二尊院と言えば、とにかく紅葉である。嵯峨野はどこも紅葉で名高いが、その中でも二尊院は、チャンピオン級の豪華な紅葉で有名なのである。総門からまっすぐに延びる長い参道の両脇にぎっしりともみじが植えられており、これが真っ赤に色付く。別名を紅葉の馬場(もみじのばば)といい、誰しも写真などで見たことがあるはずだ。

 この日はまだ紅葉にはほど遠い時期で、緑の中を歩いたが、それでも十分雰囲気のある参道である。人がいない分、静かでいいが、紅葉の季節になるとかなりの人出で埋まる。上の写真は、紅葉の馬場のほぼ突き当りで撮影したもので、これとは反対側が、延々ともみじの続く直線の道である。

 歴史は古く、平安初期に嵯峨天皇の命で、慈覚大師(じかくだいし)として知られる円仁(えんにん)が開いた二尊教院華台寺(にそんきょういんけだいじ)が始まりと伝えられる。円仁は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を開いた最澄(さいちょう)の高弟で、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)や、山寺(やまでら)の名で知られる山形の立石寺(りっしゃくじ)を開いたことでも有名である。

 その後二尊教院華台寺は次第に荒廃していくが、鎌倉時代に入り、浄土宗(じょうどしゅう)の高僧、湛空(たんくう)によって再興が図られる。湛空は浄土宗開祖である法然(ほうねん)の信頼篤い高弟で、左大臣まで昇りつめた後に出家した公卿、徳大寺実能(とくだいじさねよし)の孫である。この徳大寺実能が晩年に暮らした山荘を禅寺にしたのが、現在石庭で有名な龍安寺(りょうあんじ)ということになる。

 そんな縁があってか、法然の死後に比叡山延暦寺の衆徒が浄土宗を弾圧した際、法然の遺骸を一時この寺に移すという騒ぎがあった。

 法然は元々、比叡山延暦寺を中心とする天台宗の僧であった。しかし途中から、修行しなくともお経だけあげていれば極楽浄土に行けるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを広め始め、これがそれまで仏教とは無縁だった武士や庶民なども巻き込みながら人々を魅了し、信者はまたたく間に増えたものだから、既存仏教界は猛反発する。

 いさかいの始まりは比叡山延暦寺側にあり、天台宗の僧が浄土宗を批判する書を書いて送りつけた。それに対して浄土宗側が反論を書いて、これを言い負かしたものだから騒ぎが大きくなった。信徒同士の小競り合いから始まり、ついには天台座主が朝廷に、浄土宗僧侶の流罪と、法然の廟所の破壊、そして法然の遺骸の破棄を訴える。これを嘉禄の法難(かろくのほうなん)と呼んでいる。

 これを聞いた浄土宗側は危機感を強め、法然の遺骸を廟所から掘り出し、二尊院に運んだ。この時、比叡山側から襲われないように遺骸の運送に信徒が警護についたが、その数が千人に及んだという。如何に浄土宗が幅広く信徒を集めていたかを物語る話である。ちなみに、この時護衛に付いた一人が、小倉百人一首のところで出て来た宇都宮頼綱である。

 そんな二尊院も、応仁の乱では戦火に巻き込まれ焼失してしまう。再度復興が図られるのは、30年ほど経って後のことであり、広明恵教(こうみょうえきょう)という僧が、内大臣を務めた三条西実隆(さんじょうにしさねたか)とその息子公条(きんえだ)の支援を受けて再建を行う。

 ところで、最初に通った紅葉の馬場の脇にこんな石碑が立っている。





 西行(さいぎょう)は有名な歌人であり、出家して全国を巡った漂白の僧侶である。色々な場所で庵を結んで滞在しているが、この地にも暫し住んでいたということだろう。先ほど向井去来の墓のあった径の先に、西行が使っていた井戸の跡も残っている。

 西行については奈良散歩記でも触れたし、他にも幾つかの場所に行った際に旧跡に立ち寄り書いたことがあったと記憶しているが、改めて少しだけ触れておきたい。

 西行の祖先は大百足退治の伝説で有名な俵藤太(たわらのとうた)こと、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)であり、西行自身も武士であった。名前の通り藤原家の血筋である。出家前の名は佐藤義清(さとうのりきよ)で、佐藤家は代々天皇の警護役を仰せつかっていた。義清は、父が若くして亡くなったため、跡を継ぎ皇居の警護に当たった。官位を授かり、最精鋭とうたわれる北面の武士(ほくめんのぶし)として鳥羽上皇(とばじょうこう)の警護に当たったほか、和歌の名手としても早くから知られていた。当時の武士の身分は公家に劣るが、それでもかなりエリートに属する武士だったと言える。

 しかし、武士として順風満帆と思える生活を捨て、わずか23歳で出家する。出家そのものは珍しくない時代だが、家柄から言えばどこかの寺院に属することも出来たろうに、妻子と別れ漂白の旅に出る。その後は各地に庵を結び、世捨て人のような放浪生活を送った。そうした彼の行状は、その地位・身分からしてかなり特異なものだったが、世の人々はその求道の精神を、むしろ好ましいものとして受け止めていたようだ。

 西行は俗世を捨て何かを求めて出家した。しかし、高僧として名を成すのではなく、求められぬまま漂白の旅を繰り返し、その心情を素直に和歌に吐露している。私はその率直な人間臭さが好きだし、彼の和歌が広く人々に愛されているのも、その人間性ゆえであろう。

 西行がどの時期に二尊院に暮らしていたのかは分からないが、当時のことを詠んだ歌が残っている。

  我がものと秋の梢を思うかな 小倉の里に家居せしより
  牝鹿なく小倉の山のすそ近み ただ独りすむわが心かな

 さて、この二尊院だが、寺名の二尊は、本尊が二つあることを表している。発遣の釈迦(ほっけんのしゃか)・来迎の阿弥陀(らいごうのあみだ)と言われるものがそれで、発遣は人を送り出すこと、来迎は人を迎え入れることを言う。釈迦如来が死者をこの世からあの世へと送り出し、阿弥陀如来が極楽浄土で死者を迎え入れることを表している。この二体の仏像は、並んで本堂に祀られている。

 私が訪れた当時は、京都御所の紫宸殿(ししんでん)を模して造られたという本堂は改装中で、聞けば翌年9月までかかるという。お蔭で有名な二体並んだご本尊はお目にかかれなかったが、代わりにお寺から本尊の立派な写真をもらった。二体並んだ阿弥陀如来と釈迦如来が、左右対称にポーズを取っている写真を見ると、なんだかペアで歌う歌手の振り付けを見るようで面白かった。

 さて、この二尊院にも時雨亭跡がある。二尊院に来た理由の一つは、これを見るためであるが、ここの時雨亭跡は、境内から離れた山の中であり、暫し山道を歩かなければならない。道の入り口には、この先マムシとスズメバチがいるとの注意書があり、これでたいていの人は行くのを諦めるだろう。





 スズメバチはどうでもいいが、マムシには注意しながら山道を進んだ。アップダウンはないが暫し距離はあるので、行くのを躊躇する人も多いと思う。結局往復ともマムシには遭遇しなかった。スズメバチは、この山道に入る前に境内で何度か見かけたが、子供時代のカブトムシ、クワガタムシ採りで幾度もスズメバチには出会っているので、過度に怖がることはない。

 小倉山の中腹ということでは常寂光寺の時雨亭跡と立地条件は似ているかもしれない。山の中の少し開けた場所にあり、木々の合間から眺望が利いて、京都の街を見晴らせる。こうしてこの場に立ってみると、時雨亭の場所は常寂光寺でも二尊院でもおかしくはない。ただ、常寂光寺の時雨亭跡に比べてこちらの方が敷地が広々しているので、山荘とはいえ貴族の住まいである以上、広い方がそれらしいという感じは受ける。

 ところで、時雨亭の跡を巡っていると、出家した宇都宮頼綱が隠棲した小倉山荘はどこにあったのかという疑問も湧くが、小倉山荘跡という旧跡はこの辺りにない。そもそも、小倉山荘は定家の山荘のことであり、後年時雨亭と呼ばれたという説もあり、小倉山荘は謎の存在なのである。

 藤原定家と宇都宮頼綱は同じ藤原氏の流れであり、歌人としてもお互いを認め合う仲だが、頼綱の娘が定家の息子為家(ためいえ)に嫁ぐなど、それ以上に親密な付き合いがあった。頼綱の死後、相続によって頼綱の小倉山荘が藤原家のものになってもおかしくはなかったのである。そんな後年の所有関係の変化がこの問題を複雑にしているのかもしれない。

 二尊院の時雨亭跡に行く道の手前は墓地になっており、多くの公家の墓が並んでいて壮観である。お寺のパンフレットにも解説があるが、旧摂関家の二条家、鷹司家、三条家、四条家、香道を伝える家柄である三条西家などの墓地がある。少し見て回ったが、古いお墓だけでなく新しく整備されたものもあり、それぞれの家の子孫の方が今でも大切に管理されているのだろう。

 また、先ほど常寂光寺のところで、日禎に小倉山の麓の土地を寄進した京都の豪商角倉了以の話をしたが、角倉家の墓もここに建てられており、本堂の近くには了以の像まである。京都きっての豪商のことだから、経済的に支援して二尊院を支えたのではあるまいか。

 古いお墓ばかりでなく、俳優の阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)・田村高廣(たむらたかひろ)親子の墓もここにある。他にも境内の案内板を見ると多くの有名人の墓があるようで、興味があればお墓巡りもまた楽しいのかもしれない。

 さて、二尊院を出た後、その少し先の三差路を右に回って東に進み、厭離庵(えんりあん)を見に行く。ここが時雨亭の第三の候補地なのである。





 厭離庵(えんりあん)は、現在臨済宗天龍寺派の尼寺だが、元は藤原定家の山荘跡だと伝えられる。ただ、立ち寄る人はめったにいないと思う。住宅に挟まれた狭い路地をずっと奥まで進むと、竹林に囲まれた先に簡素な門がある。

 ここは非公開なので外から見るだけだが、境内には時雨亭という茶室や定家の塚、定家が小倉百人一首の色紙をしたためた際に筆を洗う水を汲んだという井戸が残っていると聞く。

 定家の山荘跡が寺になったのは江戸時代になってからのことで、公家の冷泉家(れいぜいけ)が荒廃した土地を整備して寺を建てた。

 何故冷泉家が、ということになるが、藤原定家の直系の家柄だからである。鎌倉時代中期の公卿である冷泉為相(れいぜいためすけ)が冷泉家の祖だが、為相の祖父が定家という関係になる。定家直系の公卿は他にもあったが、いずれも断絶して現在残っていない。

 冷泉家は歌道と蹴鞠を伝える家柄で、代々保管して来た文化遺産は現在、冷泉家時雨亭文庫(れいぜいけしぐれていぶんこ)という財団法人に引き継がれている。あぁここにも時雨亭という感じである。

 さて、厭離庵についてであるが、冷泉家が寺を建てるに当たって、当時の霊元天皇(れいげんてんのう)が庵の名前を付け、本尊として如意輪観音(にょいりんかんのん)が祀られた。庵名の厭離は嫌がって離れるという意味で、これだけ聞くと変な名前だが、仏教用語の厭離穢土(おんりえど)から取られたようだ。厭離穢土は、けがれた現世を厭い離れるということで、どこに行くかというと極楽浄土に行くということになる。浄土に行く方は欣求浄土(ごんぐじょうど)という言葉が使われる。

 この厭離庵も徐々に衰退していくが、明治期になって、呉服屋から出発して百貨店として大いに栄えた白木屋(しろきや)の社長大村彦太郎(おおむらひこたろう)が支援して再興が図られる。また、幕末の幕臣で明治政府でも政治家として活躍した山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の娘、素心尼(そしんに)が住職として入り、尼寺として再スタートする。

 そして現在はどうかというと、嵯峨野屈指の紅葉の名所ということになる。最初に非公開と書いたが、紅葉の季節だけは予約制で中に入れると聞く。ここの紅葉も寂れた風情があってなかなか美しいとの評判である。ただ、予約してとなると、ちょっと二の足を踏んでしまう。嵯峨野で紅葉となると、他に見どころはたくさんあるからなぁ。

 定家の山荘跡に直系の冷泉家がお寺を建てたとなると、ここが本当に時雨亭跡ではないかと考えてしまうが、さてそう言えるのだろうか。実は、厭離庵に続く路地の入り口手前に、京都市が立てた案内板がある。





 この案内板には、この付近に中院山荘(ちゅういんさんそう)があったと書かれている。

 中院山荘とは、嵯峨野の中院に宇都宮頼綱が建てた別荘のことである。この付近の地名は中院だが、中院に頼綱が建てた山荘だから地名を取って中院山荘となったのか、中院山荘という建物がこの地にあったから中院という地名が残ったのかについては、案内板には書かれていない。

 頼綱が建てたのは小倉山荘であり、中院山荘は小倉山荘の別名かという気になるが、仮に厭離庵が藤原定家の時雨亭跡だとして、この案内板の位置に頼綱の山荘があったとすれば、両者の山荘はものすごく接近していることになる。今では住宅が密集して隣り合わせになるのは普通だが、平安から鎌倉にかけての時代に、貴族や名のある武将が山荘を建てた場合、隣り合わせで山荘を建てるものだろうか。そうなると、厭離庵にあった定家の山荘というのは、実は宇都宮頼綱の山荘だったのではないかという疑問が湧く。

 前の方に書いたように、宇都宮頼綱の娘は藤原定家の息子為家に嫁いでおり、頼綱の山荘を娘が引き継いでいれば、それが後年、藤原家のものになったとしても不思議はない。つまり、藤原定家の山荘跡ではなく、藤原定家の子孫の山荘跡だったということも十分考えられる。

 藤原為家は大納言まで昇りつめたが、別名を中院禅師と言い、この中院の地で逝去したと伝えられている。厭離庵の横にある小さな公園の隅には彼の石碑まで立っている。宇都宮頼綱が建てた中院山荘を娘婿の藤原為家が使い、それが藤原家の山荘として後世に伝えられた。それを冷泉家が厭離庵という形で再興した。そう考えると、小倉百人一首の襖があった中院山荘が小倉山荘であり、それは宇都宮頼綱のものであると同時に、後世、藤原家のものとなったということになる。

 最近の研究でも、常寂光寺、二尊院のある辺りに藤原定家の山荘があり、厭離庵辺りに宇都宮頼綱の山荘があったと推測されると、常寂光寺でもらったパンフレットにあった。その方が話がしっくり来るような気もするが、どうだろうか。

 時雨亭跡の候補を3ヶ所見た後で、付近の飲食店で昼食を取った。少し遅めの食事だったせいか、店に客は私だけ。お店の人と話をすると、最近はこの付近もお客さんが減っているらしい。確かに小倉池から北は観光客がグッと少なくなった観がある。みんな嵐山方向に流れているとの話だった。最近では渡月橋の上で日本語を聞くことは少ないなんて言うから、実際そうなのかもしれない。紅葉の季節も以前ほどは混まないと店の人は仰っていたが、それでも十分人気の紅葉スポットだろう。前はどれ程混んでいたのだろうか。

 店を出て次に向かったのは、祇王寺(ぎおうじ)である。山に向かって延びる道の先から雰囲気のある石段を上がると小さな門が現れ、そこが祇王寺である。





 祇王寺は小さなお寺で、拝観するのに時間はかからない。山に囲まれた静かな地に、美しい苔の庭と草庵、そして古い墓地があるばかりである。ひっそりとした境内にどこかもの悲しさが漂うと感じるのは、ここに伝わる祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)姉妹、そして仏御前(ほとけごぜん)の悲しい物語が胸をよぎるからだろうか。

 元々この地にあったのは、浄土宗開祖の法然の高弟だった念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)が開いた往生院(おうじょういん)というお寺だった。そこに祇王・祇女姉妹と母の刀自(とじ)の三人が庵を結び、髪をおろして尼として隠棲する。やがて、往生院は廃れていき、祇王らの庵だった小寺が後世に残る。これが祇王寺というわけである。

 祇王にまつわる話は、平家物語(へいけものがたり)の第一巻の「祇王」に出て来るが、なかなか悲しい話であると同時に、どこか平家の運命を予感させる内容でもある。

 祇王は平家の家人の娘であり、近江の国で生まれた。その後、祇王・祇女姉妹と母刀自は白拍子となって評判を取り、祇王は平家の棟梁である平清盛(たいらのきよもり)の寵愛を受けるようになる。そのお蔭で、3人は豊かな暮らしを送る。

 暫くして、加賀の国から仏(ほとけ)という名の白拍子が京に上って来て評判を取る。仏の父は、花山法皇(かざんほうおう)が加賀に建てた五重塔を管理するため京から派遣された塔守であり、仏自身、幼少時より信心深い娘だったため、こういう名前で呼ばれたという。

 あるとき平清盛のもとに仏が直接やって来て、舞を見て欲しいと頼む。無礼だと断ろうとした清盛を祇王が取りなし、仏は舞を披露する。素晴らしい出来に清盛は仏に心を移し、仏をそばに置こうとする。チャンスを作ってくれた祇王の立場を思って仏は遠慮するが、祇王が邪魔ならと清盛は祇王を追い出してしまうのである。

 祇王は泣く泣く館を出るが、そのうち清盛からの経済的援助も止まり、一家は困窮する。その後、清盛の使者がやって来て、仏が寂しがっているので一度こちらに来て歌と踊りを披露してくれとの清盛の言葉を伝える。母の刀自に説得されて清盛のところへ赴くが、下座の席をあてがわれ屈辱で悔し涙を落とす。

 清盛の館を後にした祇王はいっそ自害しようとするが、刀自に諭され思いとどまる。三人は嵯峨野の奥に粗末な庵を結んで尼となり、念仏を唱える日々を送る。





 季節は巡り、ある時庵を訪ねて来た者があった。誰かと思うと、髪をおろした仏だった。仏は、祇王に救ってもらいながら自分のせいで祇王が不幸になり心苦しい日々を送っていたこと、祇王が清盛の館に残した歌を見て、自分もいつかは館を去る身だと悟ったことなどを話し、さめざめと泣いて許しを乞うた。そして、出来るなら一緒に念仏を唱えながら暮らしたいと頼んだ。

 その後4人は嵯峨野の庵で念仏を唱えながらひっそりと暮らす。仏御前はやがて故郷に帰るが、祇王ら3人はこの地で生涯を閉じた。祇王が清盛の館に残した歌は、次のようなものである。

  萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草
      いづれか秋に逢はで果つべき

 白拍子である自らの身を野辺の草にたとえ、いずれ寵愛が陰れば果ててしまう運命だと詠っている。仏御前もそれを読み、同じ運命にあることを悟ったわけである。平家物語に流れる諸行無常(しょぎょうむじょう)、盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり)と相通ずる話であり、4人の女性の悲しい運命と、平家の行く末を予感させるエピソードだと思う。

 祇王ら3人の墓はこの地にあったが、明治時代になり祇王寺は廃寺となってしまう。祇王らの墓と寺の中にあった4人の女性の木像は、そのままにすれば朽ち果てる可能性があったため、大覚寺が一旦引き取ることになる。その後、第3代の京都府知事を務めた北垣国道(きたがきくにみち)が祇王の話を聞いて山荘を寄付し、画家であり学者でもあった富岡鉄斎(とみおかてっさい)などの助けもあって、祇王寺が再興されるのである。

 その後、この寺を有名にしたのは、平成に入ってまもなく亡くなった智照尼(ちしょうに)の存在だろうか。昭和の時代に衰退していた祇王寺を再興した住職だが、元は花柳界出身の方である。その波乱万丈の人生には驚くが、祇王寺に入ったあと彼女を慕う人は多かったらしく、女性に人気のお寺となった理由の一つは彼女の人柄と魅力によるものと言われている。





 上の写真は、大覚寺に引き取られて守られた祇王らの墓である。4人の女性の木像は、草庵の中に安置されており、座敷に上がって拝観できる。平清盛の木像を挟んで、左右に二人ずつ並んでいる。草庵自体はごく小さなものだが、縁側に座って苔の庭を見ることが出来る。私も暫し縁側に腰かけて涼んだが、紅葉の季節だとこうはいくまい。紅葉と静謐とどちらを取るか。なかなか難しい選択である。

  まつられて 百敷き春や 祇王祇女 (智照尼)

 さて、祇王寺を出た後、石段を下りずに、そのまま脇にある滝口寺(たきぐちでら)に向かう。地図の上では接近しているが、こんなに近いとは思わなかった。祇王寺と勘違いする人が多いらしく、祇王寺山門前から滝口寺に向かう石段にたくさんの注意書きが貼ってある。ここは祇王寺ではないとか、拝観しない人は勝手に写真を撮らないでくれとか、英語・日本語両方で書いてある。石段の登り口の案内は全面的に祇王寺が前に出ているので、ここも祇王寺の一部だと思って訪ねる人がいるのだろう。あるいは、滝口寺に入ってから間違いに気付いた人もいたかもしれない。確かに、入り口を間違えそうなくらい接近しているのは事実だ。

 そんな注意書きの渦の中で一番私が笑ったのは、ここには滝はありませんというものだ。滝なんてないじゃないかと文句を言った人がいたのだろうか。名前に滝が付いていたら滝があるに違いないというのは、如何にも短絡的発想で笑えるが、注意書きをわざわざ掲げなければならないほど多いのだろうか。そういう人は、富士見坂から富士山が見えないと文句を言うに違いない。

 滝口寺の山門をくぐると石段があって、それを上ったところにお堂がある。お堂の上には勝手に上がってよく、畳に座布団が何枚か並べてある。屋内の写真撮影禁止とも書いてないし、タバコは灰皿を使ってくれという注意書きと共に灰皿が幾つか置いてあるしで、何ともざっくばらんでいいのだが、お堂の中で喫煙可というのは初めてである。

 残念ながらお堂は傷んでいる様子で、屋根も修理が必要なようだが、仮の普請だけが施してあると看板に書いてあった。お堂と言うより農家の縁側といった風情で、くつろいだ感じがして居心地がいい。日本家屋は風通しが良くて風が通るので、休憩にはもってこいである。

 私以外に拝観者はおらず、祇王寺との人気の差を感じる。観光ガイドブックでもあまり取り上げられていないのだろうか。畳の間に上がって座布団に座り、部屋の角に祀られている滝口入道(たきぐちにゅうどう)と横笛(よこぶえ)の木像を見る。祇王寺に悲しい物語が伝えられているのと同様、ここにも、この二人にまつわる悲恋物語が伝わる。





 滝口寺のある場所は元々、祇王寺のところで紹介した念仏房良鎮が開いた往生院の跡地で、往生院の子院である三宝寺(さんぽうじ)というお寺があった場所と伝えられる。祇王寺と滝口寺が異常接近しているのは、同じ寺の境内だからである。

 さて、滝口入道と横笛の物語だが、今はなきこの三宝寺にまつわるもので、平家物語に登場する。時代は、平家の台頭著しい平安朝末期のことである。

 平清盛の娘で建礼門院(けんれいもんいん)の名で知られる徳子(とくこ)に仕える女官の中に、横笛という美しい女がいた。身分の低い雑役だったが、歌舞音曲に秀でていたらしい。

 もう一人の滝口入道は、清盛の嫡男で内大臣を務めていた平重盛(たいらのしげもり)の家臣斎藤時頼(さいとうときより)のことである。時頼は、内裏の庭の警護にあたっていた滝口武者(たきぐちのむしゃ)の一人で、大柄で武骨な武士だったと伝えられる。

 さっきの滝口寺に滝がないという注意書きの話は、この寺の名が滝口入道に由来するものだと知っていれば当たり前だということになるが、滝口入道の名前の元になった滝口武者もまた、我々がイメージする滝とは関係ない。当時内裏の庭を警護する武士が詰めていた場所が、清涼殿の東庭の北東にあった水路の落ち口近くの渡り廊下だったのだが、この水路の落ち口を滝口と呼んでいたのである。それで滝口武者というわけである。

 さて、滝口入道と横笛の話だが、ある日、宴席で余興にと、横笛が舞を披露し、陪席していた斎藤時頼は一目惚れしてしまう。その後二人は恋仲になるのだが、時頼の父は身分の卑しい女と付き合うことに反対し、軋轢に耐えられなくなった時頼は、ついに武士の身分を捨てて出家する。この時に入った寺が嵯峨野の往生院で、名前も変えて滝口入道と名乗るようになる。

 驚いた横笛は、時頼のいる寺を探し、往生院の三宝寺にいることを探り当てる。そして、時頼に会いたさに嵯峨野まで出掛け、往生院で取次ぎを頼む。その姿をふと見てしまった時頼はたいそう心が動くが、迷いが生じては修行の妨げと、面会を拒むのである。

 諦め切れぬ横笛は、小指を切ってその血で傍らの岩の上に歌を残す。

  山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に 我を導け

 滝口寺の境内には、「三寳寺歌石」と刻まれた石碑と共に、その岩が残されている。下の写真の石碑の右奥にある岩がそれのようだ。





 もう一度訪ねて来られては断り切れるかどうか自信の持てない時頼は、嵯峨野を離れて女人禁制の高野山に移る。

 その後の横笛の行方は明確ではないが、幾つかの伝承が残っている。

 その一つは、以前奈良散歩記の際にも記した奈良市内の法華寺(ほっけじ)に残る話で、滝口寺のパンフレットでも紹介されている。法華寺は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の邸宅を、娘の光明皇后(こうみょうこうごう)が寺にした大和三門跡尼寺の一つで、光明皇后が千人の人たちの身体を洗ってやった浴室が「浴室(からふろ)」として今も残っているので有名である。

 横笛は、時頼が高野山に移った話を聞いて落胆し、自らも髪をおろして出家する。そして縁者のいた法華寺に身を寄せるのだが、ほどなくこの寺で短い生涯を終えたと伝わっている。法華寺の中に、今も横笛堂という建物があり、横笛が尼となって住んだお堂と伝えられている。下の写真が、別の日に訪れた法華寺の横笛堂である。





 もう一つの話は、それでも諦め切れなかった横笛が時頼を訪ねて高野山まで行き、近くの天野(あまの)の里に庵を結んだという話である。この話は一度、何かの本で読んだことがある。高野山に入れなくとも近くの里に住んでいれば、何かのおりに会うこともあるかもしれないという一縷の望みで住み始めたものの、まもなく病を得て亡くなったというものである。今でも天野の里には横笛を弔う塚が残っていると聞く。

 この天野の里とはどういうところなのかと興味が湧くが、一度職場の同僚に連れて行ってもらったことがある。場所は、和歌山市から紀の川沿いに東へ遡り、真田幸村(さなだゆきむら)ゆかりの地である九度山(くどやま)の少し手前の山の中という辺鄙な場所である。車で山道を登って行くと、突然山の上に平地が開ける。そこまで登る急な坂道との対比に驚くような土地の広がりである。田畑が広がり、集落や学校もある。最近では観光でも売り出そうとしているようだが、車のない人にはなかなかアクセスは難しい。

 この天野の里には、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)という古い神社がある。弘法大師空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開くに当たって、この神社が協力して土地を提供したと伝わっており、高野山とはゆかりの深い古社である。昔から、高野山の僧侶も丹生都比売神社に参詣に来ていたと言われ、横笛に限らず、高野山には入れない縁者の女性が住んでいた里だとも伝えられている。

 横笛の最期については、桂川に身を投げて亡くなったという話も伝わっており、正確な消息は分からないが、いずれにせよ若くして亡くなったということになる。

 では時頼はどうなったのか。横笛の訃報を聞いた時頼は益々修行に励み、最後は高野山にある大圓院(だいえんいん)の住職を務めるまでになるのである。

 平家物語に出て来るこの悲恋物語は、明治時代に高山樗牛(たかやまちょぎゅう)がこれを題材に「滝口入道」という小説を書いて有名になった。横笛については正確な史実は分からないが、時頼が出家して大圓院の第8代の住職になったのは事実であり、阿浄律師(あじょうりっし)として知られている。

 その滝口入道は、高野山に移った後、自らが仕えた平家一門の滅亡を見ることになる。武士だった頃に仕えていた平重盛は病没し、嫡男の平維盛(たいらのこれもり)は、平家が都落ちした後、一門を離れて熊野まで来て、小船で那智の浜から極楽浄土へ旅立つ補陀落渡海(ふだらくとかい)をして命を絶つ。形を変えた入水自殺である。この際滝口入道は維盛の乗った小舟を見送っている。彼は、平家の絶頂期に武士であり、その栄華を傍らで見て来た。源氏に追われて敗走し滅亡していく平家一門を見て、かつての滝口武者は何を思ったのだろうか。

 滝口寺のお堂の前に広がる庭の中には、いつの時代に建てられたとも知れない平家一門の供養塔が立っている。





 ところで、滝口入道と横笛の悲恋物語には後日譚があり、それが滝口入道ゆかりの高野山の大圓院に伝わっている。

 ある春の日、大圓院の縁側に時頼が座っていたところ、近くの梅の木に一羽のウグイスが止まり、時頼を見て美しい声で鳴く。やがてウグイスは飛び立つが、すぐに傍らの井戸に落ちて死んでしまう。その瞬間、時頼はそれが横笛なのだと気付く。時頼が横笛を見初めた夜、宴席で横笛が舞った曲が「春鶯転(しゅんおうてん)」だったのである。

 時頼は、井戸からウグイスをすくい上げて阿弥陀如来像を彫り、胎内にその亡骸を収めたという。極楽浄土は阿弥陀如来の住む地なので、横笛の往生を願ってのことだったのだろう。この阿弥陀如来像は、現在も大圓院に本尊として伝わっており、ウグイスが落ちたという庭の井戸も残っていると聞く。

 祇王寺のところで書いたように、往生院は明治期になると廃寺となる。三宝寺も廃れて忘れられていたが、昭和の時代になって再興された。現在のお堂はその時に建てられたものらしい。滝口寺の名もこの時に付いたと聞く。祇王の話にせよ、横笛の話にせよ、平家物語が伝える悲恋物語には、人の心を動かす何かがあるのだろう。

 さて、滝口寺の境内には、もう一つ、歴史の中に埋もれた主人公の遺構がある。新田義貞(にったよしさだ)の首塚である。これは、山門をくぐって石段を上がらずにそのまま進んだ先にある。





 新田義貞のことは多くの方がご存じであろう。足利尊氏(あしかがたかうじ)と並び、鎌倉幕府の有力な御家人(ごけにん)であったが、次第に幕府に対する反感を募らせ、ついには後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を擁立して鎌倉幕府を倒した武将である。

 しかし、後醍醐天皇が行った建武の新政(けんむのしんせい)と呼ばれる新しい政治が、天皇中心の復古的な内容であったことや、性急な改革が混乱を呼んだことなどから、武家、貴族に不満が募り、鎌倉幕府討幕の立役者の一人である足利尊氏が後醍醐天皇から離反する。

 反旗を翻した尊氏に対し後醍醐天皇が追討の命を出したのが、新田義貞や、もう一人の討幕の立役者、楠木正成(くすのきまさしげ)らである。当初は尊氏が押される展開だったが、九州で態勢を立て直した尊氏が巻き返しに出て、有名な湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で新田義貞と楠木正成の軍を破り、そのまま京都を制圧する。

 楠木正成は湊川の戦いで自害して果てるが、新田義貞は逃げ延び、後醍醐天皇と比叡山に籠る。しかし、ここで後醍醐天皇による重大な裏切りが発生する。義貞には伝えずに足利尊氏と後醍醐天皇は和睦を結ぶのである。残された義貞は後醍醐天皇を激しく責めた後に、比叡山から敦賀経由で北陸に落ち延びる。

 再度の決起を画策した義貞だったが、結局越前で戦死する。矢を射かけられて致命傷を負い、自ら自害して果てたと伝えられる。最後まで後醍醐天皇に仕えた義貞だったが、朝敵として首を京で晒されるという結末を迎える。その首を見た妻の勾当内侍(こうとうのないし)は髪をおろし出家したという。

 新田義貞の首塚と言われるものは他の場所にもあるらしいが、滝口寺の首塚の謂れは、妻の勾当内侍が晒されていた首を密かに盗み出し、ここに葬って菩提を弔ったというものである。本当にここに義貞の首が葬られたかどうかは定かではないが、鎌倉から室町時代にかけての戦乱のさまを描いた軍記物の代表作太平記(たいへいき)では、勾当内侍は出家後、嵯峨野の往生院で義貞の菩提を弔いながら余生を送ったことになっているので、ここが首塚という伝承が生まれたのではなかろうか。

 勾当内侍は公家の血を引く娘だが、鎌倉幕府討幕に貢献した新田義貞に、褒美として後醍醐天皇が送った女性だと伝えられる。後醍醐天皇の命で義貞と結婚し、最後まで天皇を支えようとした夫の義貞は天皇の裏切りに遭って、朝敵として無残な最期を迎える。勾当内侍の人生は、独断的で家来を道具のようにしか考えていなかった後醍醐天皇に翻弄されることになる。尼として往生院で果てたとも、琵琶湖で入水したとも伝えられるが、いずれにせよ悲しい話である。そんな彼女の供養塔が、新田義貞の首塚の近くにひっそりと立っている。

 そうして考えると滝口寺は、もう一人の悲しい女性の物語の舞台ということになろう。

 滝口寺を出て石段を下り、元の道に戻ると、更に北に向けて進む。嵯峨野のお寺を巡る道は、両側に土産物屋や飲食店が並び、いずれも味わいのあるたたずまいで、歩いていて風情がある。観光客はそれほど多くはないが、結構行き会うので、季節外れであってもそれなりに訪ねて来る人はいるのだろう。レンタサイクルも人気らしく、2−3人連れで自転車をこぐ人たちを何度も見掛けた。

 道の両側に山が迫って来て、まもなく愛宕山(あたごやま)の麓という手前に、化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)に上がる石段がある。





 冒頭にも記したように、化野は京の三大埋葬地の一つであるが、正確にはどこからどこまでだったのかはハッキリしない。ただ、化野念仏寺がそのエリアの中心に建っていることは間違いないだろう。それは、この寺の創建のエピソードが物語っている。

 この寺の始まりは、弘法大師空海が建てた五智山如来寺(ごちざんにょらいじ)と言われている。空海は、当時周囲に野ざらしとなっていた遺骨を集めて供養をした。今から1200年ほど前のことである。

 その後鎌倉時代になって、浄土宗開祖の法然がこの地を訪れ念仏道場を開く。念仏寺となったのは、この時からである。現在の伽藍は主に江戸時代のものらしいが、これは、戦国時代きっての軍師として名高い黒田如水(くろだじょすい)の血を引く寂道上人(じゃくどうしょうにん)により建てられたもののようだ。なお、正式名称は、華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)であり、化野念仏寺は通称ということになる。

 寺の境内中央に、無数の石仏・石塔が並ぶ西院の河原(さいのかわら)がある。そこに立つと何とも言えない感慨が湧く。ここにある石仏・石塔の数は8000とも言われるが、周囲に散らばったり埋まったりしていたものを明治期に集めたと伝えられる。いずれも無縁仏だと言い、毎年8月の下旬にこの無縁仏にロウソクを灯して供養する千灯供養(せんとうくよう)が行われる。

 他の埋葬地である東山の麓の鳥辺野(とりべの)や船岡山近くの蓮台野(れんだいの)は、すっかり再開発されて、かつての埋葬地の面影はない。当時からあった寺は残っているが、寺も墓も今風にきれいに整備されている。それに比べて化野念仏寺に伝わる石仏・石塔は昔のままであり、いつの時代とも分からぬ朽ちたものが目立つ。一つ一つを眺めると、輪郭が定かでないものもある。そうした古い遺物を眺め、それがかつて辺り一面に無造作に散らばっていた様子を想像すると、埋葬地というものがどんなものか、何となくイメージが湧くのである。

 この地では誰しも写真を撮るのがはばかられるという話を聞いたことがあるが、現地に来てみると分かるような気がする。西院の河原と水子地蔵周辺はハッキリと撮影禁止と書いてあるが、他は特に制限がない。しかし、他の嵯峨野のお寺と違って、記念撮影する人の姿は見掛けなかった。

 人をそんな厳かな気持ちにさせるのは、埋葬地というものの圧倒的なリアリティーがここには残っているからだろう。霊とか祟りとかいった話が時折この寺に関して持ち出されるが、必ずしもそういうことではない気がする。それを言い出せば、鳥辺野だって蓮台野だって同じはずだ。そういう話ではなく、鳥辺野や蓮台野は、昔の姿をきれいに覆い隠して見えなくしてしまっているのである。しかし、化野ではそれがこうして残っている。そこで人々は、気付くのである。何にか? 霊とか祟りではなく、平安や鎌倉の昔のありのままの姿についてである。我々が歩き、暮らしている土地で、昔の人々がどう生き死んでいったかを、この地で垣間見るのである。歴史の教科書や小説ではなく、現にここにある現実として見てしまうのである。そして気圧される。それが化野念仏寺のすごさなのだろう。





 化野念仏寺には六面六体地蔵というものがあるが、水子地蔵の背後からここに上っていく竹の小径という竹林の道は有名である。写真で見たことのある人も多いのではないか。野宮神社近くの竹林の道と違って、ほとんど人がおらず静かな道だった。

 以前にも紹介したことがあるが、お地蔵さんというかわいらしい石仏は、仏教の世界では閻魔大王(えんまだいおう)と同じものだとされている。

 あの世の閻魔庁で死んだ人間を裁判するのが閻魔大王だが、補佐役の司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の書記官が死者の生前の罪状を読み上げ、閻魔大王の判決を記録する。この際、嘘をついたらこの閻魔大王に舌を引き抜かれるというのは有名な話だが、これがお地蔵さんの所業とはにわかには信じられない。

 さて、6人のお地蔵さんだが、仏教では、人は6つの世界を転生輪廻することになっている。6つの世界は、六道(ろくどう)と呼ばれ、天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)である。人は生前の行いに基づき、死後いずれかの世界へ行くわけで、ここで閻魔大王が行き先の裁きをするのだが、お地蔵さんというのは、こうして六道を巡る人々を救う役割を担っている。それぞれ6つの世界に一人ずつのお地蔵さんということで、お地蔵さんと6という数字は切っても切り離せない関係にある。

 化野念仏寺の六面六体地蔵は、六角形の石柱にそれぞれの世界のお地蔵さんが彫られているが、他の場所では6人のお地蔵さんが並んでいるものもある。俗に六地蔵などと呼ばれているものがそれである。

 六面六体地蔵のある場所は、西院の河原と違って現代風の墓石が並んでいる高台である。こうして見ると境内は墓また墓であり、今も昔も化野は弔いの地なのである。

 さて、化野念仏寺を後にして、来た道を戻る。そのまま駅まで同じ道をたどっても良かったのだが、二尊院の手前で左に曲がって東へ向かい、先ほど見た厭離庵の前を更に進むと、やがて道の先に大きなお寺の本堂が現れる。清凉寺(せいりょうじ)である。ここを本日最後の訪問地とする。





 清凉寺は別名を嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)と言い、釈迦如来(しゃかにょらい)を本尊とする寺である。そして、その釈迦如来像がちょっと変わっているのである。

 見た目は、実在した釈迦をそのまま表していると言い、普通に着物をまとっただけの写実的な立像である。そして、この仏像は生きた釈迦を表しているということで、何と内部に内臓があるのである。内臓は絹製の作り物だが、非常に珍しいもののようだ。もちろん国宝である。

 この仏像が出来た経緯は、平安時代に「然(ちょうねん)という東大寺の僧侶が宋に渡航した際、仏陀が37歳の時の姿を表しているという古代インドの彫像を見て、それと同じものを中国滞在中に造らせたという話である。生身の人間の像なので内臓もあるというわけで、さすがに浄土におわす仏様の像だと内臓までは作るまい。

 「然がこの釈迦如来立像を日本に持ち帰り、弟子の盛算(じょうさん)が、嵯峨野の棲霞寺(せいかじ)の境内に祀ったのが、現在の清凉寺の始まりである。清凉寺の名前もこの時付けられたらしい。

 ところで、その前にこの地にあった棲霞寺というのはどういう寺かということだが、これは平安時代の貴族で左大臣まで昇りつめた源融(みなもとのとおる)の別荘である栖霞観(せいかかん)を、彼の死後に息子が寺に改めたものである。

 源融は源姓だが、父は嵯峨天皇(さがてんのう)で、臣籍降下して源を名乗った。嵯峨天皇は子沢山で、他にも臣籍降下して源を名乗った息子がたくさんいる。嵯峨天皇直系の源氏は嵯峨源氏(さがげんじ)と呼ばれており、例えば源融の子孫には、京都の一条戻橋で鬼と出会った話で有名な渡辺綱(わたなべのつな)がいる。

 さて、その源融だが、紫式部が書いた源氏物語の主人公光源氏のモデルだと言われている。源融の邸宅は京の六条にあった河原院(かわらのいん)だが、これは源氏物語の中では、光源氏が住む六条院(ろくじょういん)となっている。また、光源氏死後の後日譚的な位置付けである源氏物語の宇治十帖(うじじゅうじょう)の中で、光源氏の孫である匂宮(におうのみや)が、光源氏の長男である夕霧(ゆうぎり)の宇治の山荘に行く話が出て来るが、これは源融が宇治に持っていた別荘をモデルにしていると言われている。

 ちなみに、源融の宇治の別荘は、幾度かの変遷を経て、太政大臣の藤原道長(ふじわらのみちなが)の手に渡る。紫式部は、この道長と同世代の人である。道長はこの別荘を宇治殿(うじどの)と称して愛用していたが、道長の死後、長男の藤原頼通(ふじわらのよりみち)が別荘を受け継ぎ、20年以上経った後に寺院に改める。これが現在の平等院(びょうどういん)である。

 そうなると、栖霞観も源氏物語に出て来るのでは、と期待するところだが、物語の中で光源氏が大覚寺の南に建てた嵯峨野の御堂(さがののみどう)というのが栖霞観のことだと、清凉寺内に立つ案内板に解説がある。御堂というのは、阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀ったお寺やお堂である。

 社会不安などを背景に平安期の貴族社会に末法思想(まっぽうしそう)が広まると、阿弥陀如来に祈ることが流行する。極楽浄土は西のかなたにある阿弥陀如来のいる聖地という位置付けであるため、自身の邸宅や近隣に自分用の阿弥陀堂を造り、極楽浄土を願って阿弥陀如来を崇拝したわけである。実は、源融も栖霞観に阿弥陀如来を祀ることを計画していたが、果たせないままに他界してしまう。その遺志を継いで阿弥陀如来を祀りお寺に替えたのが棲霞寺であり、紫式部はその経緯を踏まえて、光源氏が嵯峨野の御堂を建てた形にしたのではないかと見られている。

 現在も阿弥陀堂が本堂の脇にあるほか、源融の墓所も残っている。下の写真がその墓所である。





 阿弥陀如来を祀っていたその棲霞寺が、宋より持ち帰られた釈迦如来を祀る清凉寺に変わり、それでおしまいかというとそうではなく、室町時代になって浄土教の一派である融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)を奉じる道御(どうぎょ)がこの寺にやって来る。道御は円覚上人(えんがくしょうにん)とも呼ばれ、新選組ゆかりの寺として知られる壬生寺(みぶでら)を再興させたことでも有名である。

 道御の活躍により清凉寺は大念仏(だいねんぶつ)とも呼ばれる融通念仏の道場として栄えた。融通念仏は、念仏を唱えれば死後に極楽浄土に行けるという考えの宗派で、その考えを当時の庶民に分かりやすく説明するため、狂言を作ってみんなの前で上演した。しかも、狂言にはセリフを入れず、見ただけで分かるように演出した。そのために多くの信者を得ることに成功したのである。

 この狂言は大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)と呼ばれており、壬生寺や清凉寺を含め、幾つかのお寺に今も伝わっている。清凉寺境内には、大念仏狂言を演じるための狂言堂と呼ばれる建物が残っている。

 自分の山荘が庶民の念仏道場になるなど、源融には想像もつかなかっただろうが、極楽浄土を願う気持ちは貴族も庶民も同じである。その点では、同じ思いを持つ者が集う場所であり続けたわけで、源融としても文句はあるまい。

 他にも清凉寺内には、源融の父である嵯峨天皇と檀林皇后(だんりんこうごう)の供養塔や、豊臣秀頼(とよとみひでより)の首塚がある。山門も驚くほど立派だし、多宝塔も建っている。典型的な観光寺院ではないが、何かと見どころの多いお寺だと思う。

 さて、清凉寺の山門を出て一路JR嵯峨嵐山駅を目指す。帰りの電車は観光客で一杯となり、ラッシュアワーの電車並みの混み具合だった。皆さん、渡月橋に行っておられたのだろうか。この日歩いたのは1万6000歩。狭いエリアなのであまり歩数は稼げなかったが、内容的には充実した散策だったと思う。







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