パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■船岡山周辺





 前回、京都の三大埋葬地の一つである鳥辺野(とりべの)からスタートし東山(ひがしやま)周辺を紹介したが、今回はその続きで、もう一つの埋葬地、蓮台野(れんだいの)界隈を案内しようと思う。

 蓮台野は鳥辺野以上に聞き慣れない地名だと思うが、現在で言えば、京都市の北区にある船岡山(ふなおかやま)の西辺りということになろうか。船岡山は、京に都を置くに当たって重視された山である。都を置く最適地の判断が朝廷内でなされた際、風水の観点から北に玄武(大岩)があることが重要とされ、船岡山がそれに当たると判定されたのである。そして、平安京造営時の御所は、この船岡山の南に置かれている。

 しかし現在では、この辺りを歩く観光客はほとんどいない。この日回った中で一般に名前が知られているのは大徳寺(だいとくじ)くらいだろう。そんなわけで、関西在住でない方々にはほとんど馴染みのない場所ばかり登場するが、ご容赦願いたい。まぁ一般的な京都の観光案内であればガイドブックがごまんとあるから、こういう観光名所を外れた場所の紹介も面白いのではないかと思う。

 京都に着いてまず向かったのは、北野白梅町(きたのはくばいちょう)である。今出川通(いまでがわどおり)と西大路通(にしおおじどおり)の交差点だが、ここは京福電鉄(けいふくでんてつ)の北野白梅町駅があるので有名である。ただ、ここから京福電車に乗って龍安寺(りょうあんじ)や妙心寺(みょうしんじ)、仁和寺(にんなじ)に向かう観光客って、どれくらいいるのだろうか。チンチン電車の通るのんびりとした路線だが、起点となる駅が市の中心部から離れているのが痛い。

 北野白梅町までは市バスで行き、そこから西大路通を北に向かって歩く。まず訪ねたのは平野神社(ひらのじんじゃ)である。





 正式には東側から入るものらしいが、そちらからだと道が少々ややこしいので、裏口に当たる西側から境内に入る。こちらは西大路通に面していて分かりやすい。桜並木の中を道が続いており、東側からよりこちらの方が雰囲気がいいと感じた。

 平野神社は桜の名所である。神紋もズバリ桜の花びらで、その心意気が伺えようというものだ。

 400本の桜の木が境内にあるが、特筆すべきはその種類の多さだろう。実に50種類ある。これは、古来より公家が桜を奉納して来た歴史によるものらしい。平安の昔より貴族がここで花見を楽しんだようで、夜桜でも名高い。

 桜の季節に平野神社を再訪したが、境内には多数の屋台が出て、飲み食いできる縁台もたくさん設けられていた。貴族の時代同様、夜桜も楽しめて、かなり賑やかである。京都の方に聞くと、平野神社のお花見はワイワイガヤガヤとみんなで楽しむものらしく、庶民の憩いの場といった感じであった。桜の種類も多いので、長く楽しめるようだ。

 この時は夏だったので桜を見ても仕方ないが、ちょっと気になってわざわざ探した桜に、有名な円山公園(まるやまこうえん)の祇園枝垂桜(ぎおんしだれざくら)の原木がある。境内の庭園の隅にあるので分かりにくいが、人気者らしくちゃんと表示がされている。桜の季節に来た時も、立派に現役で咲いていた。

 ところで、花見の時期でもないのに平野神社に立ち寄ったのは、この神社の歴史に興味があってのことである。実はこの神社、非常に古い神社で、創建の由来がよく分からないのである。

 確認できる限りで最初に記録に現れるのは奈良の平城京の時代で、天皇の后妃が住んでいた後宮(こうきゅう)に祀られていたという。平野神社の主祭神は今木皇大神(いまきのすめおおかみ)というのだが、この神様は、平安京への遷都を決断した桓武天皇(かんむてんのう)の母親の祖先を神格化したものではないかと見られている。後宮に祀られていたのは、そんな経緯によるものかもしれない。

 桓武天皇の母は高野新笠(たかののにいがさ)というのだが、渡来人の家系に生まれ、身分は低かったという。先ほどの今木皇大神の今木は、渡来人を意味している。ただ、身分の低さゆえ皇后にはなっておらず、光仁天皇(こうにんてんのう)の夫人という位置付けであった。

 平城京から長岡京、平安京と都が遷るつど、平野神社も移転している。平安時代に入って、皇族が新たに姓を与えられて皇籍を離脱する、いわゆる臣籍降下(しんせきこうか)が多くなると、こうした人々の氏神として平野神社が崇敬されるようになる。そのため、武家の二大勢力である源氏と平氏のほか、高階氏(たかしなうじ)、大江氏(おおえうじ)、中原氏(なかはらうじ)、清原氏(きよはらうじ)、秋篠氏(あきしのうじ)などの天皇外籍の一族の氏神とされた。

 平安京に移った当初は、現在の京都御所と同じ広さを誇ったというが、今では随分小さくなって200m四方といったところだろうか。しかし、その歴史といい位置付けといい、只者じゃないと思わせる神社である。

 さて、平野神社を再び西側から出て西大路通に戻ると、更に北に向けて歩き出す。西大路通は平野神社の辺りからゆるやかに右にカーブしているのだが、その先の交差点付近から駐車場を探していると思しき車が増え、歩道も多くの人で賑わっている。あと200mほど北上すれば、金閣寺に入るための参道があるので、そこに向けての賑わいだろうなんて勝手に推測しながら、次の目的地であるわら天神(わらてんじん)を目指す。





 わら天神に着いてみて、あっと驚く。鳥居の少し先から何やらすごい行列が境内奥に延びているのである。あまりの長さに、これは境内が大混雑しているために中に入れなくなっているのではないかと思い、入るのやめて引き返そうかとも考えたが、興味も手伝って、行列の先に何があるのか見に行くことにした。

 人を掻き分けて先に進むと、行列の先頭は本殿手前の社務所につながっている。そこで納得した。あぁお守りを購入しに来た人の行列なんだと。

 わら天神とは不思議な名前だが、これは正式名称ではなくニックネームのようなものである。正式名称は敷地神社(しきちじんじゃ)という。ただ、地図やガイドブックを見ても正式名称ではなく、別名のわら天神の方で表記してある。それほど、この通称の方が有名なのである。

 ではこの通称はどういう謂れなのかというと、まさに社務所で渡される護符に由来がある。このわら天神は安産の神様として名高いのだが、もらえる護符の中に稲の藁(わら)が入っているのである。それでわら天神と名前が付いたというわけだ。

 私は家に帰ってから気付いたのだが、この日はまさにドンピシャの戌の日だった。おまけに大安。さっき、わら天神手前から車が駐車場を探してウロウロし、歩道にたくさんの人がいた理由がこれで分かった。最も混み合う良きお日柄に、安産と関係ない私がたまたまやって来てしまったというわけである。道理であんなに行列が出来ていたはずだわと納得した。

 天神と名前が付いているからてっきり菅原道真(すがわらのみちざね)が祀られていると錯覚しそうになるのだが、ここには菅原道真は祀られていない。主祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめ)である。

 木花開耶姫命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、天界である高天原(たかまがはら)から地上界に降り立った邇邇芸命(ににぎのみこと)の妻になった人である。

 邇邇芸命は天界の神様、木花開耶姫命は地上界の神様ということになるが、木花開耶姫命が身ごもると、夫の邇邇芸命は、果たして本当に自分の子かと疑う。木花開耶姫命が産屋(うぶや)に入ると、邇邇芸命はナントその産屋に火を放つ。天界の神の子であれば、どんな条件下でも生まれて来るはずだというのが邇邇芸命の言い分である。かくして、炎の中から3人の子が生まれる。そのうちの2人が海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)で、山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)ということになる。

 燃え盛る炎の中でも無事に子供を出産したという木花開耶姫命の逸話が、安産の神様として崇められる理由なのだが、わら天神というのは最初から木花開耶姫命を祀っていたわけではないようだ。

 そもそもわら天神の正確な起源は不明である。境内にある解説板によれば、古代には、京都の北山の神が祀られていたという。その後平安時代に入り、この地に氷室が築かれることになり、加賀国の人たちがその管理のために移住して来る。このとき、移住者たちが地元の神様だった菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の分霊を勧請するのである。

 菅生石部神社の祭神は、上に出て来た山幸彦とその妻、そして息子である。山幸彦のお母さんが木花開耶姫命ということで、加賀から移住して来た人々は、菅生石部神社の神の母親である木花開耶姫命を祀る社を、古来よりこの地で祀られていた北山の神の隣に建てる。

 その後室町時代になり、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が近くに金閣寺を建てようとした際、邪魔だとばかりにこの二つの神社を合体させてしまうのである。ちなみに、菅生石部神社の通称が敷地天神だったことから、このときに敷地神社の名前が生まれたようだ。

 では、なにゆえ稲藁が出て来るのかというと、この神社では稲藁で編んだ籠にお供え物を入れて神様に捧げていたが、抜け落ちた稲藁を妊婦がお守りに持ち帰るようになったことから、神社側が籠の稲藁を妊婦に授けるようになったらしい。ちなみに今でもお守りに稲藁が入っていると上の方で書いたが、その藁に節があれば男の子が生まれ、節がなければ女の子が生まれるという言い伝えがある。但し、この言い伝えは、神社の説明版には書いていないので、誰かが作った話ではなかろうか。

 さて、わら天神境内にはもう一つ有名な摂社がある。六勝神社(ろくしょうじんじゃ)というのだが、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の作品にも出て来る勝負事の神様である。上の写真の左に見えているのが六勝神社である。

 そもそもは、伊勢、岩清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱の有名な神を祀る神社で、元の名は六所神社、あるいは六請明神社などと言っていた。博打うちや勝負師に崇敬されることになった経緯は知らないが、明治時代になってから実態に合わせて、今の六勝神社と名前を変えたようだ。ちなみに今では、各種受験から宝くじ、競輪競馬まで、守備範囲は広いらしい。

 わら天神を出た後は、西大路通を更に北に進む。暫く行くと金閣寺へ向かう参道があるが、外人観光客も含め、さすがに人が多い。しかし、ここを越すと突然人通りは途絶えて、歩く人はほとんどいなくなる。やがて西大路通は右に直角に曲がり、そこから北大路通(きたおおじどおり)となる。

 北大路通を400mほど東に進むと千本通(せんぼんどおり)との交差点になるが、この角に後冷泉天皇火葬塚(ごれいぜいてんのうかそうづか)がある。宮内庁管理で中には入れないが、さして大きなものではない。





 最初に蓮台野を紹介した際に書いたが、平安の昔、千本通は埋葬の地、蓮台野へ死者を送るための道だったと伝えられる。千本通の名前の由来も、道沿いに立っていた無数の卒塔婆の数を表しているという説がある。

 実は付近には、他にも皇族火葬の場所がある。この交差点から千本通を100mほど南に下りて道を入ったところに近衛天皇火葬塚(このえてんのうかそうづか)、北大路通を数百メートル東に行った船岡山近くに白河天皇(しらかわてんのう)の皇女の火葬塚がある。

 これらの場所は火葬をした場所であって墓所ではない。3人の皇族とも、墓所は他に設けられている。蓮台野はまさに葬送の場所だったのである。

 さて、千本通の交差点から北大路通を東に数百メートル進むと、北に延びる今宮門前通(いまみやもんぜんどおり)がある。ちなみに、この通を南側に下った住宅街の中に、先ほどの白河天皇の皇女の火葬塚がある。白河天皇はこの皇女をことのほか可愛がっていて、皇女が若くして亡くなった際にはすぐさま出家している。

 次の目的地はこの皇女の火葬塚ではなく、今宮門前通を北に上がって行った突き当りにある今宮神社(いまみやじんじゃ)である。





 私がこの神社に関心があるのは、今宮神社がいわば第二の八坂神社(やさかじんじゃ)であり、今宮祭(いまみやまつり)が第二の祇園祭(ぎおんまつり)だからである。

 そもそもこの地には、平安京が出来る以前から疫神(えきしん)を祀る社があったという。疫神とは人々に病をもたらす悪神で、我々が知っている言葉で言えば疫病神(やくびょうがみ)である。

 平安京が出来ると、衛生状態の悪い時代のことゆえ、伝染病や食中毒の集団感染が頻繁に起こる。平安の昔は、こうした疫病は恨みを残して亡くなった怨霊がはやらせているものと信じられており、疫病を封じるためには疫病封じの祈祷を行うしかないと考えられた。このための祈祷の儀式が御霊会(ごりょうえ)というもので、御霊とは怨霊のことである。当時の御所の南に隣接していた禁苑(きんえん)である神泉苑(しんせんえん)で行われた御霊会が祇園祭の原型であるという話は、以前祇園祭について書いたときに説明した。

 神泉苑での御霊会には、祇園社(ぎおんしゃ)から牛頭天王(ごずてんのう)を祀るお神輿がやって来て参加する慣わしになっていた。牛頭天王は、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされるインドの神様だが、その性格は疫病神である。疫病神の力を借りて怨霊の祟りである疫病を封じ込めるというのが御霊会の趣旨である。

 この御霊会こそが祇園祭の中核であり、祇園社とは今の八坂神社のことである。そして、牛頭天王は、日本神話上は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、仏教上は薬師如来(やくしにょらい)と考えられていた。この考えに則り、現在の八坂神社の主祭神は素戔嗚尊となっている。

 実は、神泉苑で御霊会が行われていたのと同様に、この地でも疫病退散のための御霊会が行われていた。この地の御霊会では、疫神を祀る社から神輿を出して船岡山に安置し、そこで疫病退散の祈祷を行った。神泉苑で行われた御霊会と同じ図式である。こちらの御霊会は紫野御霊会(むらさきのごりょうえ)と呼ばれていた。紫野は、この辺りの地名である。

 ちなみに、祇園祭と言えば山鉾巡行(やまぼこじゅんこう)が有名だが、これは、疫病退散の祈祷の際に、一般人が参加して様々な付随の催しを行うようになったために生まれたものである。こうした催しは、疫病神である牛頭天王=素戔嗚尊に楽しんでもらって、自分たちの願いを聞いてもらえるようにしたかったという、庶民なりの工夫から生まれた風習である。やがて、田楽法師(でんがくほうし)が霊山に見立てた飾り物を作って参加して注目を集めたのが発展し、大規模な山鉾になったと言われている。

 これと同じような庶民参加の催しが紫野御霊会でも行われたようで、一般民衆が綾傘(あやがさ)という飾りのついた傘を奉じて、囃子に合わせて歌い踊った。綾傘は、祇園祭でも綾傘鉾(あやがさぼこ)として残っているので、同じような行事だったのだろう。この祇園祭で言う山鉾巡航に相当する部分は、今でも夜須礼(やすらい)というお祭として今宮神社に残っている。

 さて、今宮という名が付く以上新しい神社ということになるが、これは、一条天皇(いちじょうてんのう)が夢のお告げで、一旦船岡山の上に安置した疫病神のお神輿を元の地に戻したことに由来する。この時、新たに3つの神殿を建て、今宮社と名付けた。これが現在の今宮神社の原型である。

 新たに設けられた3つの神殿に祀られたのは、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)だが、大己貴命は素戔嗚尊の息子、事代主命は素戔嗚尊の孫、奇稲田姫命はヤマタノオロチに食べられそうになっていたのを素戔嗚尊に助けられた姫ということになり、いわば素戔嗚尊ファミリーが新たに祀られたことになる。この三神が現在の今宮神社の祭神である。

 元々神輿に乗っていた疫病神は素戔嗚尊、つまり古代の姿としては祇園祭と同じく牛頭天王ということになっており、これもまた疫神社(えきじんじゃ)として本殿の西に祀られている。

 境内には他にも幾つか社があるが、その中で興味深いのはこれである。





 これは大将軍社(たいしょうぐんしゃ)で、牛頭天王(素戔嗚尊)と八大王子(素戔嗚尊の五男三女)を祀っている。元々ここに置かれていたのではなく、大徳寺門前に祀られていた社を、ここに移したと説明されている。

 ちなみに以前、京都の闇を訪ね歩いた際に、大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)に立ち寄った。あのときに大将軍について説明したが、陰陽道で方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一人である。8人の中で大将軍は鬼神であり、大凶をもたらす最も恐ろしい神と言われている。この大将軍は3年周期で西北東南の順で居場所を変える。従って、大将軍がもたらす凶事を防ぐには、東西南北それぞれに大将軍を祀っておかないとまずいわけで、大将軍八神社以外にも大将軍社があるのは不思議ではない。

 ただ、今宮神社の説明では、大徳寺門前にあったこの大将軍社は、京の東西南北に置かれたもののうちの一つだという。しかし、北に置かれた大将軍神社は西賀茂大将軍神社(にしがもたいしょうぐんじんじゃ)というのが一般的な見方で、これは上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の西に現在もある。さてそうなると、この大将軍社はどういう位置付けのものだったのだろうか。今でも謎のままである。

 今宮神社はその後、戦乱の中で荒廃し、応仁の乱で焼失するのだが、豊臣秀吉の助力などで復興が始まる。中でも再興に向けて相当の支援をしたのが、近くの西陣の八百屋の娘に生まれ、長じて3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の側室となり、やがて5代将軍となる綱吉(つなよし)を生んだ桂昌院(けいしょういん)である。桂昌院は京都の寺社の復興に力を入れたが、西陣への郷愁からとりわけ今宮神社再興に支援を惜しまなかったと伝えられる。

 桂昌院の幼名はお玉で、八百屋の娘から将軍の側室、そして将軍の生母になったというサクセス・ストーリーを俗に「玉の輿(たまのこし)」と言って囃すが、桂昌院によって目を掛けられたせいか、今宮神社も「玉の輿神社」の別名を持つと聞く。

 さて、来た時は参道から立派な朱塗りの楼門をくぐって境内に入ったが、帰りは脇の東門から出る。たいていの参拝客はこういう出方をするようだ。理由は、東門を出たところに、名物あぶり餅を売る老舗があるからである。道の両脇に2つの店が並ぶが、門を出ようとしたところで、もう声がかかる。この日は猛暑日で、熱い餅を食べようという気力が湧かなかったものだからお断りしたが、平安時代から続く日本最古の和菓子屋なので、食べずとも見るだけでも価値はあろう。

 伝統あるあぶり餅の店を通り過ぎて、信号のある交差点に出る。この交差点の道を南に下りると、ほどなくして大徳寺の境内に入る。木立が茂って涼しいし、何よりほとんど車が通らないのがいいので、そのまま境内を抜けさしてもらいがてら、少々散策する。

 地図を見れば分かるが、大徳寺は相当広い寺である。大徳寺の中心となる山門、仏殿、法堂などの中心施設はその一角に過ぎず、敷地内には20以上の塔頭(たっちゅう)が並び、これが面積の相当部分を占める。

 有名なお寺だが、わざわざ観光のために大徳寺に足を延ばす旅行者はあまりいないのではないか。塔頭の大半は非公開なため、境内は有名寺院にしてはひっそりとしている。そこが散策には好都合である。静かな参道をゆっくりと巡る。

 大徳寺と聞いて一般の人は何を思い出すのだろうか。おそらく、このお寺の名を有名にしているのは、豊臣秀吉に仕えた茶聖、千利休(せんのりきゅう)が切腹を命じられた発端と伝えられる山門があるからだろう。下の写真がその山門である金毛閣(きんもうかく)である。





 大徳寺は千利休に限らず、その師匠である武野紹鴎(たけのじょうおう)や、わび茶の創始者とも言われる村田珠光(むらたじゅこう)らとも縁のあるお寺で、茶道と密接に結び付いている。茶道は歴史的に禅宗と縁が深いが、数ある禅宗の寺の中で何故大徳寺がこうも茶の湯と深く関わることになったのかというと、大徳寺中興の祖とも言われる名僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に関係がある。あのトンチ一休さんのことである。

 元々大徳寺は、播磨の禅僧である宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が開いた小堂が始まりと言われている。この小堂の名前が大徳だったようだ。それを播磨の守護を務めた赤松家が庇護する。また、花園天皇(はなぞのてんのう)も宗峰妙超に帰依し、その後を継いだ後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も大徳寺を大切に扱った。

 当時京都には京都五山(きょうとござん)と呼ばれる禅寺の寺格順位があったが、後醍醐天皇は大徳寺を別格扱いして、京都五山よりも高い寺格を与えた。ところが、後醍醐天皇の掲げた建武の新政(けんむのしんせい)が不興を買い、足利尊氏(あしかがたかうじ)に追い落とされて南北朝時代が始まると、後醍醐天皇の庇護を受けていた大徳寺は急速に衰退する。更に応仁の乱(おうにんのらん)が始まると伽藍を失って荒廃し、かつての栄華は見る影もないほどに落ちぶれるのである。

 こうした中で大徳寺住持に任ぜられたのが一休宗純である。一休は、参禅していた堺の豪商、尾和宗臨(おわそうりん)や連歌師、宗長(そうちょう)の援助を得ながら大徳寺を再興していく。

 我々が一般に知る一休さんは、トンチのきくかわいらしい小坊主だが、実際の一休宗純は相当に変わった型破りの禅僧だったと伝えられている。本の素性は後小松天皇(ごこまつてんのう)の隠し子とされ、その墓は現在も宮内庁管理になっているから、血筋は高貴なのだろう。ただ、その行動はと言えば、酒も飲めば肉も食らうし、女性に手を出すだけでなく男色の気もあったらしい。また、浄土真宗中興の祖である蓮如(れんにょ)の持念仏を断りもなく枕にして昼寝をしたり、奇怪な恰好で外を歩いたりと、エピソードには事欠かない。

 そんな一休宗純のところに参禅したのが村田珠光であり、珠光はこの経験の中から禅宗的な色彩の濃い質素な茶の湯を追求し、茶と禅を同一視する茶禅一味(ちゃぜんいちみ)を標榜することになる。これが現在の茶道につながっていく。武野紹鴎は、珠光の孫弟子であり、紹鴎の弟子が千利休ということになる。こうした経緯から珠光の流れを汲む茶人たちが大徳寺に参禅したわけで、大徳寺と茶の湯との深い関わりが生まれるのである。

 茶人だけでなく、豊臣秀吉も大徳寺に肩入れし、織田信長の葬儀はこの大徳寺で営まれた。また、塔頭として総見院(そうけんいん)を建立し、信長の菩提寺としている。下の写真がその総見院だが、ここも通常は公開されていない。





 この時の信長の葬儀は盛大なものだったようで1週間にわたって法要が営まれたと伝えられる。そして1周忌に合わせてこの塔頭が建てられた。当時は相当豪勢な造りだったらしいが、明治期の廃仏毀釈の嵐の中で多くの伽藍が失われた。

 総見院の開祖は大徳寺住持だった古渓宗陳(こけいそうちん)だが、この人は堺にある南宗寺(なんしゅうじ)から住持としてやって来た。南宗寺も茶の湯と縁の深い禅寺で、ここに参禅していた千利休と古渓宗陳とは親しい間柄だった。そして、利休が切腹を迫られることになる事件に古渓宗陳も絡んでくる。

 さて、千利休だが、茶の湯と縁の深いこの大徳寺に深く肩入れし、山門の改修について寄進を申し出る。問題の山門は、一休宗純の要請で連歌師の宗長が援助して一層目が完成していたが、利休はその上層部を造るために援助をする。喜んだ大徳寺は、お礼にと利休の木像を完成した上層部に置く。この時、山門に付いた名前が金毛閣である。

 しかし、それを聞いた秀吉が咎め、自分も含めて高貴な人々がくぐる山門の上に自分の木像を置いてみんなを踏みつけにするとは何事かと怒る。これが利休に切腹を申し付けた原因と言われているが、これだけが理由かどうかは分からない。ただ、切腹した利休の首を、京都の一条戻橋(いちじょうもどりばし)にさらした際には、その首の上に問題の利休の木像を磔にして置いたと伝えられており、秀吉がこの件を腹に据えかねたことは間違いなさそうである。

 利休が切腹を命じられるほどの大事件に発展した山門はもちろん大徳寺のものであり、利休が切腹で大徳寺が無傷ということは考えられない。秀吉は、利休と合わせて大徳寺も取り潰すことを考え、複数の武将を使者に仕立て、大徳寺に詰問に行かせる。この時、大徳寺側から対応に出て来たのが、古渓宗陳なのである。

 古渓宗陳は武将たちの前に現れるや否や、いきなり短剣を取り出して自ら刺そうとした。慌てた使者たちがこれを止めて、秀吉に事の次第を伝え、大徳寺破却を思いとどまらせたと言われている。古渓宗陳一世一代の大勝負である。一休宗純もそうだが、大徳寺には型破りな僧侶が多い。

 もう一人有名な僧侶を挙げるとすれば、沢庵宗彭(たくあんそうほう)だろうか。沢庵和尚の名で知られ、沢庵漬けの考案者とも言われている。江戸時代の人で、若くして大徳寺住持になったが、地位や名声を求めない沢庵は、就任後3日で住持を辞めてしまったと伝えられる。

 沢庵が大徳寺住持を辞して後に、有名な紫衣事件(しえじけん)が起きている。朝廷は従来より、高僧らに紫衣を贈ったり、上人の号を授けたりしていたが、幕府は勝手に朝廷がそうしたことを行うのを禁じ、幕府に諮るよう定めた。これに対して時の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は反発し、幕府の指示には従わずに紫衣の着用を許した。

 怒った幕府側はこれを無効としたが、朝廷のみならず寺院側からも反発が起き、大徳寺や妙心寺(みょうしんじ)の僧侶たちが抗議文を出した。この時、大徳寺内の取りまとめを行ったのが、郷里で隠棲していた沢庵である。幕府は抗議文に名を連ねた僧侶を流罪にし、沢庵も現在の東北地方の日本海側に当たる出羽国(でわのくに)に流された。

 結局この事件は、2代将軍だった徳川秀忠(とくがわひでただ)の死と共に恩赦となり、3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)が沢庵に帰依して篤くもてなしたことから、紫衣を無効とした幕府の判断は取り下げられた。

 沢庵は、家光だけでなく多くの大名、貴族からも尊敬された。また、武術の達人にして徳川将軍家の兵法指南役だった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)やその子柳生十兵衞(やぎゅうじゅうべえ)とも深い親交があった。郷里に隠棲するつもりだった沢庵は江戸に留められ、結局江戸で生涯を閉じる。

 さて、大徳寺の話が長くなってしまったので、そろそろ次に行こう。このあと目指すは大徳寺の南にある船岡山である。

 この辺りを歩いていても、注意していないと船岡山には気付かない。案内板によると高さが112mしかないため、ビルの陰に隠れて見えないのである。その程度の高さなため登るのは容易で、山の周囲から幾つかの登り道が延びている。私は北大路通側から登ったが、ゆるい坂道を歩いていくと、ほどなくして山頂に着く。南に向かって眺望が開けるが、この日は暑い日だったせいか、遠くが霞んで見づらかった。





 山頂には大きな岩が地面から露出しており、何かいわく因縁がありそうに見えるが、特段これについて解説版などはない。解説版と言えば、この船岡山について、清少納言(せいしょうなごん)が枕草子(まくらのそうし)の中で「岡は船岡」と褒めたたえているという説明があった。山じゃなくて岡というあたり、平安当時の感覚でも山にしては低過ぎるといったイメージだったのだろう。

 山頂から見て目立つのは、船岡山の西北西にある左大文字山(ひだりだいもんじやま)だろうか。西大路通を歩いていてもビルの谷間に見え隠れするが、船岡山山頂からは遮るものなくクッキリと見える。

 左大文字山は言うまでもなく、五山送り火(ござんのおくりび)の一つである。大文字としては、左京区にある如意ヶ嶽(にょいがたけ)の大文字が有名であるが、これも船岡山から見える。他にも、西賀茂の舟形や松ヶ崎の妙法が見えると聞くが、この日は如意ヶ嶽の大文字すらかろうじて判別できる程度の視界の悪さだったため、確認は出来なかった。いずれにせよ、五山送り火がきれいに見える絶好のポイントとあって、五山送り火の当日は滅茶苦茶混むと聞く。

 この五山送り火であるが、いつ頃始まった行事なのかはハッキリしない。旧盆で家族の元に帰って来た先祖の霊を再びあの世に送るための行事であり、毎年8月16日に行われるが、そもそもの起源が何だったのかもよく分からないらしい。一説には、たいまつを空に投げて先祖の霊を見送った慣習が今の形になったとも言うが、定説はないようだ。

 五山送り火の際には多くの人で賑わうこの平和な山が、かつて戦場だったなんて話は信じられるだろうか。これも船岡山に立っている解説板に紹介されているが、室町時代に発生した応仁の乱の際の戦場の一つが、この船岡山なのである。

 応仁の乱が起きたのは、室町幕府8代将軍だった足利義政(あしかがよしまさ)の時代のことである。この頃には足利将軍家の権威は低下しており、将軍を支える補佐役である管領(かんれい)を持ち回っていた斯波(しば)・細川(ほそかわ)・畠山(はたけやま)の三家に匹敵するような強力な守護大名も育っていた。

 時の将軍足利義政は政治に興味を示さず、子供もいなかったことから、若くして将軍職を弟の義視(よしみ)に譲り隠居しようとする。そんなところに正室の日野富子(ひのとみこ)との間に男の子が生まれるのである。日野富子からすれば、将軍職を継ぐのは我が子のはず。ここでにわかに跡継ぎを巡る争いが生じる。加えて、将軍補佐役である三管領家でも跡目争いが勃発し、斯波氏と畠山氏の家で紛争が起きるのである。

 こうした争いの解決のため、争う双方が管領家の細川勝元(ほそかわかつもと)と、有力守護大名の山名宗全(やまなそうぜん)の下に駆け込んで助成を求めたものだから、細川対山名を中軸に、双方に付いた者同士の間で戦いが始まる。これが応仁の乱のおおよその構図である。

 戦いは現在の京都市内を主戦場に11年間も続いて、京都の町は戦火のために荒廃した。この時、山名宗全と、足利義政・日野富子の実子足利義尚(あしかがよしひさ)を中心とする西軍が城を築き陣を敷いたのが、この船岡山なのである。西陣織(にしじんおり)で有名な西陣は船岡山の南西にあるが、地名の起こりはこの西軍の陣があった場所ということになる。

 そんな船岡山だが、更に時代を遡れば、ここは葬送の地、蓮台野の一つのシンボルである。鎌倉時代末期に書かれたと言われる吉田兼好(よしだけんこう)の徒然草(つれづれぐさ)にも船岡山が出て来る。137段は有名な「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」で始まる段であるが、ここで「烏部野」と並んで葬送の地として「船岡」が登場する。そう言われてみれば、船岡山の中を巡る道の脇には地蔵や石塔が多いが、これは葬送の地の名残であろうか、はたまた応仁の乱で亡くなった者たちの供養塔だろうか。

 それでは船岡山を降りて、いよいよ蓮台野の名残を見に行こうと思う。

 麓まで降りると、千本通に沿って南へと下る。この千本通は上にも書いたが、蓮台野へ死者を送るための道だった。ただ、正確に蓮台野がここだったという遺構があるわけではない。船岡山の西側麓一帯がそうだったと推測されているだけである。古地図を見ても、そのように記されている。その名残のように幾つか現存するお寺を訪ねてみようと、まず向かったのは上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)である。





 千本通沿いにあるこのお寺は、今では街中の普通のお寺であり、特に観光客向けに公開しているわけではない。境内も南北に長いが、驚くほどの広さではない。しかし、門前の解説板によれば、かつては周辺に広大な敷地を持ち、多くの伽藍が建ち並ぶ大寺だったようだ。

 解説板によれば、創建は聖徳太子とあり、当初は香隆寺(こうりゅうじ)と称していたらしい。その後、平安時代になって宇多法皇(うだほうおう)の勅願により、東寺の寛空(かんくう)僧正が再建したとあるから、実質的にはその時が創建だったのだろう。寺名もこの時に現在の上品蓮台寺に改められている。当時はまさに蓮台野のど真ん中に建っていたわけである。

 ところがこの大寺は、先ほどの応仁の乱の際にことごとく焼け落ちて灰燼に帰す。再興したのは豊臣秀吉で、現在の和歌山県にある根来寺(ねごろでら)から性盛上人(しょうせいしょうにん)が呼ばれる。この時に本寺だけでなく一帯に12の支院が建立されたため、俗に十二坊と称されたと解説板に説明がある。ただ、支院のほとんどは現在失われ、3つの支院を残すだけらしい。それでも境内を歩いていると、立て札などに「十二坊」とあるから、今でもこの名が使われることがあるのだろう。また、一帯の地名が「紫野十二坊町」となっており、ここにも往時の名残が見て取れる。

 今見ると、ごく普通のお寺でしかない上品蓮台寺にも、平安の昔、ここがどういう場所だったのかを何となく感じさせるスポットがある。これが墓地の中にあって、案内板も何もないので分かりにくいのだが、俗に蜘蛛塚(くもづか)と呼ばれているものである。





 この塚にまつわる話は、以前、奈良散歩記で書いたことがある。葛城古道(かつらぎこどう)を歩いた際に立ち寄った葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)の境内に土蜘蛛(つちぐも)を葬った塚がある。この塚自体は、神武東征(じんむとうせい)のおりに、熊野から大和地方に乗り込んで来た神武天皇の一派が、反抗する先住民一族を滅ぼして葬った墓の跡である。神武天皇側は、自分たちの正当性を主張するため、古事記や日本書記などの正史で、こうした生住民を胴体が短く手足の短い異形の者たちとして、土蜘蛛と呼んだ。こうした土蜘蛛塚は、奈良の南部に幾つも残っている。

 時代が下り、この滅ぼされた先住民の怨霊がまさに巨大蜘蛛として妖怪の如く扱われるようになる。有名なのが謡曲の「土蜘蛛」で、この舞台が上品蓮台寺の蜘蛛塚なのである。内容は、平安時代中期の有名な武将、源頼光(みなもとのらいこう)を主人公にした物語である。

 あるとき源頼光が病に臥せっていると、夜更けに見知らぬ法師が病床に現れ、具合を尋ねる。怪しんだ頼光が何者だと尋ねると、法師は大きな蜘蛛に姿を変えて頼光に白い糸を投げ掛ける。頼光が枕元に置いた名刀「膝丸(ひざまる)」を抜いて切りつけると、蜘蛛の姿は消える。何事かと駆けつけた家来に、頼光は今の出来事を伝え、血の跡を追うよう命じる。血の跡をたどって歩いて行くと、やがて土の塚があり、そこを崩すと大きな蜘蛛が現れる。ここで蜘蛛は、自分は大昔から葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だと正体を明かす。家来たちは蜘蛛を取り囲んで退治する。

 まぁざっとこういう話だが、血の跡を追いかけてみると蓮台野にたどり着いたという舞台設定が如何にもという感じがする。謡曲の元になった話は平家物語(へいけものがたり)に収録されているのだが、平家物語が成立したと思われる鎌倉時代には、まだ蓮台野は葬送の地として有名だったから、血の跡がここにつながっているということで、聴衆は十分怖がったに違いない。

 今では街中の墓地の一角にあるので何とも思わないが、戦前までは家もまばらだったというこの地に蜘蛛塚があれば、あまり気持ちのいい話ではなかったのではないか。

 さて、もう少し歩を進め、次のお寺に行ってみよう。更に千本通を南下するとアーケードのついた商店街が現れ、その一角にひっそりと引接寺(いんじょうじ)が建っている。行ってみると、思ったよりも小さなお寺だった。





 寺名の引接は、死者に引導を渡してあの世に送ることを意味している。その名の通り、蓮台野とは縁の深いお寺である。この場所は、蓮台野の南端に当たるとも言われており、文字通りあの世への入り口だったわけである。

 引接寺にはもう一つ名前があり、千本閻魔堂(せんぼんえんまどう)と言う。そのため、周囲の町名は閻魔前町(えんままえちょう)となっている。その俗名の方がむしろ有名なのだが、これは引接寺の本尊が閻魔大王(えんまだいおう)だからである。

 そんな縁でか、開基は小野篁(おののたかむら)だとお寺側が創建の縁起を解説している。

 小野篁については、以前、京都の闇を訪ねた際に、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)のところで触れた。平安時代前期の公卿であり、役人としては能力の高い人だったが、反骨精神旺盛でよく上司や周囲と衝突したと伝えられる。現代で言えばかなり変わった部類の組織人で、朝廷をこきおろす漢詩を作って流罪にもなっている。

 そんな小野篁の最も変わっていた側面は、生前、あの世で閻魔大王の裁判の補佐役をしていたという言い伝えである。昼間は朝廷に仕え夜は閻魔庁に仕えていたという話が、今昔物語などの説話集に残されており、平安末期には有名だったらしい。

 小野篁が閻魔庁で閻魔大王の補佐役だったという話から、閻魔大王を祀る引接寺では、小野篁がこの寺を建て、本尊の閻魔大王も篁自身が彫ったという説明になっている。ただ、肝心の閻魔大王像は応仁の乱で焼けてしまったため、真偽のほどは定かではない。現在の閻魔大王像は応仁の乱が収まった後に仏師の定勢(じょうせい)が造ったものである。

 その閻魔大王だが、小さなお寺なので目の前にデンと構えている姿を間近に拝観できる。これがなかなか大きくて迫力があり、小さな子供なら怖がるだろうなぁという印象である。閻魔大王の左右には、司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の書記官の像も並んでいる。彼らは死者の生前の罪状を読み上げ、閻魔大王の判決を記録する役割を担っている。ここに子供を連れて来て、嘘をついたらこの閻魔様に舌を引き抜かれるよと言えば、昔の子供の多くは言うことを聞いたのだろう。

 そんな恐ろしい閻魔大王だが、元はインドの神様で死者の国を司る王とされていた。それが中国に伝わり、あの世の入り口で死者を裁いて、極楽行きか地獄行きかを裁断するというキャラクターがすっかり定着する。閻魔大王の像が中国風の服を着ているのはこのためであろう。ところが、これが日本に伝わると、何故か閻魔大王と地蔵菩薩とが同一視されるようになるのである。あのかわいらしい石仏のお地蔵さんと地獄の番人のような恐ろしい閻魔大王が同一人物とは到底思えないが、日本の仏教ではそういうことになっている。どうしてそうなったのだろうか。

 仏教の教えでは、人は6つの世界を転生輪廻するとされている。6つの世界は、六道(ろくどう)と呼ばれ、天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)から成っている。人は生前の行いに基づき、死後いずれかの世界へ行くわけで、ここで閻魔大王が行き先の裁きをするのだが、地蔵菩薩というのは、こうして六道を巡る人々を救う役割を担っている。これが転じて、天道や人間道に行けなかった魂も、地蔵菩薩が救ってくれるという信仰が生まれる。「地獄に仏」というわけである。

 しかし考えてみれば、生前の罪に従って自らの裁断で死者を地獄に落とした閻魔大王が、地獄で地蔵菩薩に変身してその魂を極楽に導いてやるというのは、どう見たって矛盾しているように思うがどうなのだろうか。何だか非常に都合の良い解釈に思えてならない。まぁ、そんな解釈を生み出さなければならない程、昔の人は地獄行きを恐れていたということか。

 さて、引接寺には有名なものが幾つかあるが、蓮台野に縁が深いものとして迎え鐘がある。





 蓮台野の端にあったとされる引接寺は、おそらく死者が家族と別れる場所で、この先の葬送の地には、埋葬の専門職の人が亡骸を運んで行ったのだと思う。ちょうど、鳥辺野(とりべの)における六道珍皇寺と同じ役割である。そして、六道珍皇寺に迎え鐘があったのと同じように、ここ引接寺にも迎え鐘がある。

 迎え鐘は元々、死者の野辺送りの際に撞かれたものらしい。それが、小野篁により、あの世にいるご先祖様の魂をお盆に家へ迎えるお精霊迎えの法が伝えられ、この鐘を撞いてあの世から死者を呼び戻すようになった。死者は、あの世へ送られる際に聞いたのと同じ鐘の音を頼ってこの世に戻って来るという。今でもお盆前になるとこの鐘が撞かれ、お盆が終わると再び魂をあの世に送るために鐘が撞かれる。

 先祖の魂を迎えるお精霊迎えでは、この迎え鐘と共に、塔婆流しというのも行われる。これは先祖の名を書いた木のお札(塔婆)を、お地蔵様が祀られた池に流すもので、本堂の右脇にそのための場所がある。お地蔵さま経由であの世に塔婆が流れてご先祖様が呼び出され、迎え鐘の音に導かれてこの世の家族の元に戻って来るという寸法だろう。あの世で呼び戻しが掛からなかったら悲しい事態である。

 こうして見ると、引接寺というのは蓮台野にとって非常に重要な役割を果たしていた寺だということが分かる。宗派を問わない京都の一般の庶民のためのお寺であり、長らく先祖の霊と現世の家族とをつないで来た。ただ、蓮台野自体が跡形もなく消えて普通の街並みになった現在、お盆の時期を別にすれば、引接寺はほとんど人の訪れない静かなお寺となっている。六道珍皇寺に行った時もお盆の時期から外れていたから閑散としていたが、この引接寺も同様である。お蔭で静かにゆっくりと拝観できたが、こうした歴史的に意義あるお寺が廃れないように願うばかりである。

 ところで、この日訪れたわけではないのだが、引接寺ゆかりの小野篁の墓がこの近くにあるので紹介しておこう。近くと言っても、先ほど訪れた大徳寺から北大路通を300mほど東に行って、堀川通(ほりかわどおり)との交差点を南に少し下りた場所にある。





 上の写真がそれだが、右のお墓が小野篁のものである。もう一つ左側にもお墓があるが、これが何と紫式部(むらさきしきぶ)の墓と言われている。どうしてこの二つが並んでいるのか。

 紫式部は晩年を、現在大徳寺塔頭となっている雲林院(うんりんいん)で過ごしたとされており、その境内はかつてこの墓辺りまで広がっていたようだ。雲林院は元々、平安初期の淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮だったところで、規模は縮小しているものの、この墓の西の方に現在も残っている。ちなみに、紫式部が生まれたのも大徳寺の近くという説がある。従って、ここに紫式部の墓があるのは不自然ではない。問題は、何故小野篁の墓と並んでいるのかということである。

 これには伝承があり、紫式部は生前、源氏物語内で多くの恋愛ストーリーを書いて人心を惑わした罪で、死して後に地獄に落とされたと言われている。その時に紫式部を救ったのは、死後に閻魔大王の片腕として閻魔庁で働いていた小野篁で、そんな縁で墓が隣り合わせになったという話である。ちなみに、紫式部よりもずっと前に小野篁は亡くなっている。

 まぁよく出来た話で面白いが、そんなことが生きている人間に分かるわけもなく、当然のことながら作り話だろう。でも、小野篁が絡んで来ると、昔の人はさもありなんと考えたのだろうか。

 さて、ここから先は必ずしも蓮台野とは関係がないのだが、せっかくここまで来たから、あと二つ寺社に立ち寄ろうと思う。次なる目的地は大報恩寺(だいほうおんじ)である。





 このお寺は千本通から街中に入ったところにあるので少々分かりにくい。千本通沿いに入り口を示す案内板があるのだが、近道をしようと手前で脇道に入ったものだから、少々迷い、かえって時間を喰ってしまった。急がば回れのことわざ通りの展開である。

 大報恩寺は鎌倉時代に、奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の孫に当たる義空(ぎくう)という上人が建てたと、創建の由来を記した案内板に説明がある。奥州藤原氏は、現在の東北地方に一大王国を築き上げた奥州の覇者で、源義経(みなもとのよしつね)を庇護したことでも有名だが、兄の源頼朝(みなもとよりとも)によって一族もろとも滅ぼされており、義空上人の時代には跡形もなかった。秀衡の孫ということだが、果たしてこの上人がどういう血筋なのかはハッキリしない。

 大報恩寺は釈迦如来(しゃかにょらい)を本尊としており、そのために千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)の別名を持ち、そちらの名の方が有名かもしれない。

 このお寺が素晴らしいのは、応仁の乱により京都の寺院の多くが失われた中にあって、たまたま本堂だけが焼け残り、創建当時のままの姿を伝えているところである。京都市内にあって最古の建造物と言われ、国宝に指定されている。それにしても千年の都のはずが、最古の建物が鎌倉時代作というところが何とも情けない。

 この本堂は最初からあったわけではなく、義空が創建した当時は小さな堂宇があっただけと言われている。ところが、現在の尼崎で材木を商っていた商人が夢のお告げで寄進を申し立て、立派な本堂が建てられることになった。この本堂建設に際して、一つの事件があったことが境内の説明板で解説されている。

 当時本堂建築を請け負っていた名高い大工の棟梁が、誤って材木を短く切ってしまう。その柱は替えのきかない材木であったため途方に暮れていたところ、その妻である阿亀(おかめ)という女性が、木の組み物を柱の上に付けて足りない分を補えばいいのではないかと提案する。棟梁はそのアイデアを活かして何とか問題を解決する。

 ところが、大工の棟梁ともあろう者が女の助言で大任を果たしたと知れては一大事とばかり、建物の完成を待たずして妻は自害してしまう。棟梁は妻を憐れんで、本堂の棟上げ式の日に、亡き妻の面を付けた御幣を立て、妻の冥福と本堂の無事な完成を祈った。その後、話を伝え聞いた人々が妻の阿亀を憐れんで、本堂の脇に石塔を建てる。この石塔はおかめ塚と呼ばれており、現在も残っている。

 京都市内では、家屋建築の棟上げ式におかめの面を付けた御幣を飾る風習があるようだが、これはこの故事によるものらしい。また、おかめ塚は広く大工の信仰を集め、石塔の脇におかめの銅像まで建てられている。どちらかというと、現在の存在感は、石塔よりもおかめの銅像の方にある。

 さて、大報恩寺のあとに、最後にもう一つだけ立ち寄ろうと思う。今度は神社である。

 千本通を今出川通まで下り、今出川通を東方向に暫く歩くと智恵光院通(ちえこういんどおり)との交差点に着く。智恵光院通を北に上がっていくと、弘法大師空海が嵯峨天皇(さがてんのう)の病気平癒を祈願し、お礼に天皇の別荘の時雨亭(しぐれてい)を賜ったことを縁起とする雨宝院(うほういん)があるが、今日立ち寄るのはここではない。

 智恵光院通をほんの少し北に上がった道路脇の小さな鳥居が、本日の最後の立ち寄り場所である首途八幡宮(かどではちまんぐう)の目印である。誰もが通り過ぎてしまうような、ごく小さな神社だ。





 この八幡宮は、先ほどの千本釈迦堂こと大報恩寺と少しだけつながりがある。奥州藤原氏にまつわるつながりである。

 この場所は、平安の末期に奥州から産出する金を商う商人だった金売吉次(かねうりきちじ)が住んでいた屋敷の跡と伝えられる。金売吉次は平家物語や義経記など幾つかの物語に登場する伝説的な商人で、橘次という字で紹介されることもある。

 金売吉次は源義経と知遇を得て、奥州藤原氏のところへ義経を案内する役割を担う。義経は、金売吉次の紹介で奥州の覇者藤原秀衡と面会して助力を乞うことになる。この関係が後に、源頼朝によって奥州藤原氏が攻め入れられるきっかけの一つになるのだが、当時の義経は、僧侶になることを拒否して鞍馬寺を出奔したばかりの名もない16歳の若者であった。

 境内の解説板によれば、首途八幡宮そのものは、八幡宮の総本社である九州の宇佐神宮(うさじんぐう)から勧請して建てられたもので、平安京の昔には当時の内裏の北東方向、つまり鬼門の方角にあって、王城鎮守の役割を果たしていたものらしい。当時内裏のあった場所を内野(うちの)と言っていたことから、内野八幡宮(うちのはちまんぐう)という名前で呼ばれていたようだ。

 名前が首途八幡宮に変わったのは、源義経によるものである。義経は、藤原秀衡を訪ねて平泉へと旅立つに際し、旅の手配をした金売吉次の屋敷近くにあったこの八幡宮に道中の安全を祈願した。この故事を元に、旅の門出に義経がお参りした八幡宮ということで今の名前に変わったと伝えられる。首途は門出と同じ意味である。

 元々八幡宮は応神天皇(おうじんてんのう)を神格化して祀った武運の神様で、それゆえ内裏の鬼門方向を守ることを期待されていたわけだが、義経が旅の安全を祈願したということで、この首途八幡宮はそれ以後、旅行の神様になっている。そんなことで神社のご利益が変わるなんて、これも判官贔屓(ほうがんびいき)の一環だろうか。

 藤原秀衡の孫が創建した大報恩寺と、藤原秀衡とつながりのあった金売吉次の屋敷がごく近くにあるのは、単なる偶然だろうか。両者の時代が違うので、直接の関係があったわけでもなかろうが、何やら不思議な因縁を感じてしまう。

 かくして平野神社から始まった船岡山周辺の散策は首途八幡宮をもって終わりということになるが、観光客も立ち寄らないこんな寺社のそれぞれにも、京都の長い歴史の様々な断片が見て取れて興味深い。清水寺や金閣寺もいいけれど、京の街の中に埋もれる何気ない寺社にも目を向ければ、より深い京都の歴史に接することが出来るのである。







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