パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■東山界隈





 前回、華やかな京都の街の中にひっそり残る、千年の都の闇の部分について紹介した。その中で、今や市街地化して輪郭も分からぬようになった京都の三大埋葬地についても触れた。今回は、代表的な埋葬地である鳥辺野(とりべの)からスタートし、今やすっかり京都の代表的観光地となった五条から三条にかけての東山(ひがしやま)エリアを歩いてみたいと思う。

 なお、写真は色々な季節のものが混じっているので、あらかじめお断りしておく。

 平安の昔の埋葬地が現代の観光地と背中合わせになっているということを、京を訪れる観光客の方はどの程度ご存じなのだろうか。この東山のエリアこそ、京の光と闇が隣り合わせになってる場所だと私は思う。

 鳥辺野は、鳥辺山(とりべやま)の麓に広がる丘陵地帯を指しているが、現在で言えば、東山観光の一つの中心である清水寺(きよみずでら)から南で、現在の新幹線の線路辺りまでがそれに当たるとされている。

 鳥辺山という山を地図上で探してもないが、現在の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)のことらしい。この山は、豊臣秀吉が遺言で自らの埋葬地に指定した山で、現在頂上に豊国廟(ほうこくびょう)があるが、麓には、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の名で知られる蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)や、和歌山の根来(ねごろ)の里に由来する智積院(ちしゃくいん)、大坂の陣(おおさかのじん)のきっかけとなった鐘のある方広寺(ほうこうじ)など、多くのお寺が密集する。ここにこれだけ固まってお寺が集まっていると、何となく埋葬の地にふさわしい場所のように思えて来る。

 下の写真が、豊国廟越しに見た阿弥陀ヶ峰、つまり鳥辺山である。標高は約200mということのようで、それ程高い山ではない。豊国廟自体が高台にあるから、ここから見ると丘のように見えるが、遠くから見ると立派な山である。

 この豊国廟には、智積院と妙法院(みょうほういん)の間を通る通称、女坂(おんなざか)を上ってアクセスできる。女坂の名は、鳥辺山や豊国廟とは関係がなく、京都女子中学校、京都女子高等学校、京都女子大学などの校舎がこの通り沿いに並んでいるためである。豊臣秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)自体は、この廟よりも麓の国立博物館の隣にある。





 豊国廟は行楽シーズンでもほとんど人のいない場所で、秀吉の栄華を思えば寂しい限りである。この廟は、徳川の世になって豊国神社共々一旦破却されている。家康の豊臣つぶしは徹底しており、この豊国廟への参道に新日吉神社(いまひえじんじゃ)を建立してアクセスできないようにした。お蔭で今でも、豊国廟参道の途中に、道をふさぐように新日吉神社が立ちはだかっている。

 復活したのは明治時代になってのことで、豊臣を徹底的に潰したかった徳川幕府によって破却され、その徳川を徹底的に消したかった明治政府により復活したということになる。正確には、明治天皇が復興を指示したようだ。

 この門の奥から阿弥陀ヶ峰山頂の廟まで歩いて行ける。石段を20分程度登れば、明治時代に再建された秀吉の墓にたどり着くと、社務所の人から言われた。眺望はきかないようだ。

 ただ、この周辺を歩いても、鳥辺野らしさは全く感じない。かろうじて、豊国廟へ続く女坂の入り口に、鳥辺野を説明する案内板が立つくらいのものである。東大路通(ひがしおおじどおり)に沿った寺社の集積エリアを除けば、あとは普通の街並みであり、かつての埋葬地を彷彿とさせる遺構はない。長い歴史の中で、昔の面影はきれいに払拭されてしまっている。この土地の経歴を知らなければ、全く気付かないまま通り過ぎてしまうのではないか。鳥辺野というのは今や、遠い過去のほんの一コマに過ぎないのである。

 さて、七条界隈はこれくらいにして、一般の観光客がスタート地点としている五条から北に向けて歩いていくことにする。

 五条通が鴨川に架かるところにあるのが有名な五条大橋(ごじょうおおはし)で、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)と牛若丸(うしわかまる)が出会い、対決した場所として知られている。現在も橋のたもとに弁慶と牛若丸の像が建っている。この五条大橋を渡って五条通を東に進むと東山五条の交差点があり、ここからにわかに観光客の姿が増える。

 観光客は東山五条の交差点から五条坂(ごじょうざか)沿いに清水寺方向に上がって行く。私はそのコースをたどらず、まず東山五条の交差点にある大谷本廟(おおたにほんびょう)を訪ねることにした。





 大谷本廟は、西本願寺(にしほんがんじ)を本山とする浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)における親鸞(しんらん)の墓所である。浄土真宗には東本願寺(ひがしほんがんじ)を本山とする大谷派(おおたには)もあり、あちらにも親鸞の墓所があるため、この大谷本廟は西大谷(にしおおたに)とも呼ばれている。

 親鸞は浄土真宗の宗祖とされるが、親鸞自ら浄土真宗を名乗って宗派を立ち上げたわけではない。親鸞は、師と仰いだ法然(ほうねん)とともに布教にいそしみ生涯を閉じた。法然は浄土宗(じょうどしゅう)の開祖で、阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱えれば誰でも極楽浄土へ往生できるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを説いた人物である。浄土真宗は親鸞の死後に、その弟子たちが教団を作って親鸞の教えを受け継いだ宗派なのである。

 さて、大谷本廟にある解説板によれば、親鸞が亡くなると、鳥辺野の南端で火葬された後、北端にあった大谷(おおたに)に葬られたという。その10年後に、親鸞の娘、覚信尼(かくしんに)によって同じ鳥辺野の吉水(よしみず)の北辺に墓所が移される。これは大谷影堂(おおたにえいどう)あるいは大谷廟堂(おおたにびょうどう)と呼ばれ、本願寺の始まりとなった。

 やがてこれがお寺となり最初の本願寺が誕生するのだが、その後、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の衆徒によって破壊されてしまう。これにより、本願寺そのものは山科に移転することになり、大谷の地は、親鸞の墓所と道場が置かれるだけになったようだ。

 江戸時代になり、この最初の本願寺の跡地に、浄土宗総本山の知恩院(ちおんいん)が伽藍を拡張して建物を建てることになり、親鸞が火葬された場所近くに代替地が与えられる。この代替地に建てられたのが、現在の大谷本廟ということになる。

 ちなみに、知恩院三門脇にある元大谷崇泰院(もとおおたにすうたいいん)の門前に「親鸞聖人旧御廟所」の石碑が立っている。この石碑には「本願寺発祥之地」「蓮如上人御誕生之地」とも併せ記されている。残念ながら、崇泰院は一般拝観を受け付けていない。

 一方、浄土真宗大谷派の方の親鸞の祖廟はどうなっているかというと、東本願寺の飛び地境内として、円山公園近くに大谷祖廟(おおたにそびょう)という施設がある。東大谷(ひがしおおたに)とも呼ばれているが、元は東本願寺境内に設けた親鸞の墓を、この地に移したものらしい。

 ところで、まず最初に東山五条の交差点にある大谷本廟に足を運んだのは、ここが鳥辺野の北端だからだ。この大谷本廟の敷地に沿って道が延びており、東山に向かっている。この道に、京都市が立てた鳥辺野を紹介する駒札が立っている。まさにずばりの場所であり、この道はすぐ先で、大きな墓地に続いている。





 京都市の解説板によれば、鳥辺野はここから南に広がり、泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭の一つである今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)の北側まで広がっていたとされている。今熊野観音寺の少し北に、一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮だった藤原定子(ふじわらのていし)が葬られている鳥戸野陵(とりべののみささぎ)があるが、これが鳥辺野の南限だったようだ。藤原定子は、中宮定子の名で知られ、枕草子(まくらのそうし)を書いた清少納言(せいしょうなごん)が仕えた人物としても有名である。鳥戸野陵には一度行ったことがあるが、中宮のものとは思えない立派な陵である。

 鳥辺野は、身分により埋葬場所が異なっていたようで、北側には庶民の墓が多く、南に皇族・貴族の墳墓が多いとされている。鳥戸野陵もそうした皇族の墳墓の一つだろう。平安時代に栄華を極めた藤原一族の火葬の地でもあるようだ。

 ちなみに、紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語(げんじものがたり)の中では、主人公、光源氏(ひかるげんじ)の母、桐壷(きりつぼ)が埋葬されたのが鳥辺野である。他にも、夕顔(ゆうがお)、葵上(あおいのうえ)、紫上(むらさきのうえ)が鳥辺野で荼毘にふされていると、鳥辺野について書かれた解説板に説明があった。

 観光客や観光バスが多い五条坂と違って、この墓地に続く道はひっそりとしている。道沿いにはお寺や花屋があり、お墓参りの人以外は歩いていない。こんなところにこれだけの規模の墓地があるとは少々意外だが、これに気付く観光客はいないのではないか。外側からは伺い知れない場所である。

 この墓地内の道を東山の方向に上って行くと、外れに門があり、そこを越えると清水寺である。おそらく、この道経由で清水寺にお参りする観光客はいないと思う。

 清水寺は京都観光屈指の人気スポットだが、こうして大谷本廟脇から上がって来ると、鳥辺野に接して建てられていることが分かる。いったい、どうしてここに清水寺が建てられたのだろうか。鳥辺野とは何らか関係があるのだろうか。

 結論から先に言えば、清水寺と鳥辺野には直接の関係はない。実は、清水寺は鳥辺野が埋葬地となる前からここに建っているのである。その歴史は、平安京よりも古いと言われている。





 お寺の縁起によれば、清水寺の始まりは奈良時代の終わり頃という。奈良にあった子島寺(こじまでら)の僧、賢心(けんしん)が夢のお告げで清泉を求めてこの地にやって来る。賢心は、現在清水寺がある音羽山(おとわさん)で滝を見つけ、そのほとりで草庵を結んでいた行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会う。行叡居士は、長い間ここで修業をしていたのだと言う。

 行叡居士は賢心に霊木を渡し、これで千手観音(せんじゅかんのん)を彫って祀り、この地を霊山として守るよう伝えると、いずこともなく消え去る。賢心は、行叡居士が観音の化身だったと悟り、音羽山を観音信仰の霊地として守ることにする。これが清水寺の始まりというわけで、鳥辺野とは何ら関係がない。ちなみに清水寺の名は、この音羽の滝の源泉に由来しているようだ。

 賢心が音羽山に居を構えてから暫くすると、一人の武将が鹿を追ってこの地に分け入って来る。後に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として蝦夷(えぞ)征伐のため派遣される坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)である。

 賢心は坂上田村麻呂に、この地は観音の霊地なので殺生を慎むよう説き、この地の謂れや観音信仰の教えを話して聞かせた。感銘を受けた坂上田村麻呂は、夫婦そろって観音を信仰するようになり、自らの邸宅を賢心に仏殿として寄贈する。こうして伽藍が少しずつ整い始めるのである。

 平安時代を通じて清水寺は大いなる信仰を集める。嵯峨天皇(さがてんのう)から勅許を得て鎮護国家の道場となり、「北観音寺(きたかんのんじ)」の宸筆(しんぴつ)も賜っている。また、源氏物語や枕草子、今昔物語(こんじゃくものがたり)にも清水寺は登場する。当時の状況から言えば、すぐそばに鳥辺野の葬送の地があったはずだが、多くの人がここに参詣に訪れている。

 清水寺の人気の背景には、観音信仰の隆盛があったようだ。観音信仰では西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)が有名だが、その中でも、奈良散歩記で訪れた長谷寺(はせでら)や興福寺南円堂(こうふくじなんえんどう)、大津を訪ねた際に立ち寄った石山寺(いしやまでら)、園城寺(おんじょうじ)の観音堂、先ほど鳥辺野の話で出て来た泉涌寺塔頭の今熊野観音寺のほか、醍醐寺(だいごじ)の始まりである上醍醐寺准胝堂(かみだいごじじゅんていどう)などが中心的な霊場であるが、清水寺はそうしたお寺と並ぶ人気を誇っていたのである。

 観音信仰における観音様は、この世における願い事をかなえてくれる存在である。現世におけるご利益を施してくれる現世御利益の仏様であり、世の中がある程度平和だとこうした信仰がはやる。しかし、世の中が乱れ武家同士の戦いが繰り広げられるような末世ともなると、現実社会での幸せを追うよりも、来世で極楽浄土に行きたいという願いが強くなり、極楽浄土の支配者である阿弥陀仏(あみだぶつ)を信仰する阿弥陀信仰がはやったりする。そういう意味では、観音信仰は平和な世の産物ではなかろうかと私は思ったりするのである。





 そんな人気のあるお寺だった清水寺も、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)とはたびたび対立して攻撃を受け、炎上もしている。これは、清水寺を創建した賢心が元々奈良の興福寺(こうふくじ)の僧であり、そのため清水寺が長らく興福寺の支配下に置かれていたことと関係する。興福寺と延暦寺は南都北嶺(なんとほくれい)の言葉で有名なように、巨大な政治力と軍事力を誇る仏教界の両雄だったため、たびたび争いを起こした。この衝突の際に、京都にあって興福寺の勢力下にあった清水寺に対して、延暦寺が攻撃を加えたのである。

 延暦寺からの攻撃だけでなく、兵火にも見舞われ、室町時代の応仁の乱でも焼失している。それでもその都度再興が図られたのは、人気のあるお寺だったからだろう。清水の舞台(きよみずのぶたい)として知られる現在の本堂は、江戸時代に3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)が再建したものである。なお、昭和の時代になって、清水寺は、興福寺の法相宗からは独立し、新たに北法相宗を開き、今に至っている。

 ところで、清水寺まで上がって来ると、東山の山の中という感じがする。この東山だが、これは単一の山を指しているのではない。広く言えば、盆地に広がる京都市の東側にある山の並びを総称してこう言っている。従って、北に行けば比叡山(ひえいざん)まで行ってしまうし、南に下がれば伏見区辺りまで行ってしまう。俗に東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)なんていう言葉があるくらいだから、すごい山の数になるわけである。

 さて、ここからどう下りるかだが、清水寺へ上って来る坂は2つある。一つは、茶わん坂、もう一つは清水坂(きよみずざか)である。

 茶わん坂の正式名称は、清水新道(きよみずしんどう)と言うらしい。最初に上って来た大谷本廟脇の道と背中合わせのように通っている坂道である。愛称の茶わん坂の名は、もちろん清水焼(きよみずやき)に由来している。

 茶わん坂の途中にその由来を書いた案内板があるが、それによれば、奈良時代に行基(ぎょうき)によって清閑寺村茶碗坂(せいかんじむらちゃわんざか)で陶器が作られたのが清水焼の始まりと解説されている。





 行基は、奈良の大仏の造営を取り仕切った高僧であるが、当初は朝廷からにらまれていた。奈良時代の仏教は国家護持のためのものであり一般の民衆に布教してまわることは許されていなかったにもかかわらず、禁を破って民衆の中に入り、各地でお寺を建てて布教したためである。行基が清閑寺村で陶器を作る指導をしたのは、その布教の過程でのことだろう。

 清閑寺村茶碗坂というのが正確にどこを指しているのか分からないが、現在でも清閑寺(せいかんじ)というお寺はある。清水寺よりもう少し山の中だが、一度職場の同僚と車で行ったことがある。平安時代初期の創建と伝えられる天台宗の古刹で、清水寺と並ぶ寺勢を誇った時期もあったようだが、室町時代に応仁の乱(おうにんのらん)で焼け落ちて暫し途絶えた。その後復興されたが、真言宗の寺となり最盛期の面影はない。

 こうして見ると、清水焼はずいぶん古いもののように思うが、本格的にその名が確立するのは江戸時代のことらしい。茶わん坂の案内板では、16〜17世紀頃に茶碗屋久兵衛(ちゃわんやきゅうべえ)が五条坂一帯で金、赤、青の彩色をした陶器を作って清水焼と命名したと解説されている。おそらくこの頃から清水焼が広まるようになったのだろう。

 冒頭、五条大橋から五条通を東に歩いて来た旨書いたが、この道の途中に、若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)という神社がある。この門前に「清水焼発祥之地 五條坂」という石碑が立っている。これは、この神社に陶祖神とされる椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が祀られているかららしい。毎年8月になると、この若宮八幡宮の若宮祭とともに五条坂一帯で陶器祭が開催され、多くの人で賑わうようだ。

 私は陶磁器にはさして通じていないので、清水焼の特徴といってもあまり詳しいことは分からない。現在茶わん坂の陶器屋に並ぶ商品を見ても、これこそ清水焼というのがどういうものかは判然としないのだが、色合いがカラフルなものが多いかなという印象がある。茶碗屋久兵衛が絵付を施した陶器で名を挙げたという由来からして、彩色を売りにしているのかもしれない。

 京都には清水焼以外にも、東海道へ続く粟田口(あわたぐち)で作られた粟田焼(あわたやき)や、江戸時代の有名な陶芸家、野々村仁清(ののむらにんせい)が中心となった御室焼(おむろやき)があるが、いずれも今はあまりその名を聞かない。

 幾つも焼き物があるわりには、京都は土には恵まれなかったと聞く。そのため、焼き物で有名な滋賀県の信楽(しがらき)などから土を取り寄せていたようだ。そうした土を使った登り窯が五条坂界隈にあったらしいが、公害問題が深刻になり、山科に出来た清水焼団地(きよみずやきだんち)などへ工房が移転した。従って茶わん坂には、清水焼を売る店が軒を構えるだけになっているようだ。

 この茶わん坂だが、東大路通より始まる五条坂の途中から清水寺に向けて一直線に延びていて、最短の近道である。その割には、それ程観光客は多くない。むしろメインの参道は清水坂(きよみずざか)とあって、そっちはすごい人である。





 上の写真は清水寺のすぐそばで、開けている場所だからこんなものだが、ここから坂を下りていくと道が狭いので、人波で身動きが取れなくなる。このエリアは歩行者専用の石畳の道だが、皆さん、参道の土産物屋などを覗いたりして立ち止まるものだから、ノロノロ歩行である。

 清水坂は、東大路通の五条坂交差点から上って来る五条坂と、もう少し北側から上って来る松原通(まつばらどおり)とが交差する清水道(きよみずみち)交差点から清水寺方向に延びる参道である。前回訪れた、あの世とこの世の境目の六道の辻(ろくどうのつじ)や、小野篁(おののたかむら)が毎夜冥界に通った井戸がある六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、この松原通を下りていった先にある。

 この辺りの松原通は下りの一方通行なので、清水寺へ車でアクセスするには五条坂を上って来ることになる。駐車場も五条坂の途中にある。お蔭で五条坂が交通渋滞してなかなか厄介である。バスがすれ違うのがやっとの道幅なのに、ひっきりなしに大型観光バスが通り、タクシーも多い。お蔭で徒歩で五条坂を行くのは、全く快適でない道行きとなる。

 さて、清水寺から人をかき分け清水坂を降りて行くと、五条坂とぶつかるところで北側に下りる坂がある。これが有名な産寧坂(さんねいざか)である。





 産寧坂には三年坂(さんねんざか)の別名もあり、私が大学時代に京都にいた頃はみんな三年坂と呼んでいた気がする。坂にある石碑にも三年坂の名が刻まれている。ただ、名前の由来からすると産寧坂の方がしっくり来る感じがする。

 先ほど訪れた清水寺には、朱塗りの三重塔がある。上の方の写真に写っているのがそれで、誰でも一度は見たことがあると思う。ここには安産や子供の健やかな成長にご利益がある子安観音(こやすかんのん)が祀られていて、子安塔(こやすのとう)と名付けられている。この子安塔に安産祈願のために訪れる人が多かったことから、寧(やすら)かなお産を願うということで産寧坂と付いたと、坂の途中にある解説板には説明されている。

 別名の三年坂の名は、坂が出来た年号にちなむという説も紹介されているが、確かではない。そもそも400年以上前に出来たとも言われる坂なので、由来はハッキリしないのである。

 この産寧坂を下りてからは、観光ガイドブックによく紹介されている風情ある石畳の道が続く。道の両側には土産物屋や飲食店、陶器屋などが軒を連ねているが、文化財保護法の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているので、景観によく配慮されたお店ばかりで、歩いていても気持ちがいい。この町並み保存の指定は、京都では産寧坂エリアが最初である。このお陰で、現在でも産寧坂のすぐ下には江戸時代の建物が数軒残っている。

 この道をそのまま北上すれば、円山公園(まるやまこうえん)へ行くことができ、京都観光のメッカとして観光客でいつも賑わっている。ハイシーズンになると歩くのに難儀するほど観光客が集まる。まるで、休日の表参道竹下通り並みである。この先、円山公園までが、ずっと町並み保存の指定エリアとなっている。





 この道は、ゆるやかに曲がって八坂通(やさかどおり)となり、そのまま東大路通に降りて行くのだが、その途中にあるのが、これまた必ず観光ガイドブックに登場する八坂の塔(やさかのとう)である。

 下の写真は、八坂通がゆるやかに東大路通に向かって下りていっている箇所から八坂の塔を撮ったものだが、東大路通からこの塔を眺めて清水寺と間違えている観光客も見掛ける。





 八坂の塔の名は知っていても、この塔がどういう塔なのか知っている人はそれほど多くないと思う。この塔は坂の途中にある法観寺(ほうかんじ)の五重塔である。

 伝承の通りだとすれば、法観寺は清水寺よりも古いお寺ということになる。

 元々の縁起は、飛鳥時代に聖徳太子が夢のお告げを受けて五重塔を建て仏舎利を納めたというもので、その通りなら八坂の塔は確実に国宝だが、残念ながら現在の塔は室町時代に再建されたものである。それでも重要文化財であるし、この五重塔抜きにはこの周辺の観光写真が成り立たないほど有名な塔である。

 京都どころか奈良にも都が出来ていない時代に、どうしてここまで聖徳太子がやって来るんだと思われるかもしれないが、これまでこの関西徒然訪問記で紹介した中にも、聖徳太子由来のお寺はあった。華道の池坊(いけのぼう)の発祥の地である六角堂(ろっかくどう)は、大阪の四天王寺(してんのうじ)の建設用木材を探しに来た聖徳太子が建てたお堂が始まりだし、苔寺(こけでら)の名で知られる西芳寺(さいほうじ)も聖徳太子の別荘が起源である。

 八坂の塔創建にまつわる伝承はもう一つある。

 京都に平安京が出来る前は、この地は山代(やましろ)と呼ばれていたが、5世紀には既に多くの人々が京都盆地に移住して暮らしていた。こうした人々の中には、大陸から渡って来た渡来系の氏族も多く、この地域には八坂氏(やさかうじ)を名乗る渡来系移民がいた。法観寺は彼らの氏寺であったというものである。こちらの方が有力説かもしれない。

 聖徳太子にせよ八坂氏にせよ、かなり古い存在であり、少なくとも平安京が出来た当初にはこの法観寺は存在していたようだ。その後幾度か火災に遭って焼失しているが、そのたびに再建されている。

 かつての法観寺の寺勢がどの程度のものだったか定かではないが、現在の境内は、塔のほかにあまり大きな建物はない。拝観は不定期ではあるが可能なようで、八坂の塔の中に入ることが出来るようだ。私は残念ながら入ったことはないが、重要文化財の五重塔に入れるというのは、なかなか貴重な機会ではなかろうか。

 さて、産寧坂から続く道がゆるく西に曲がって八坂の塔に進む辺りに、そのまま北に延びる道へつながる坂がある。これが二年坂(にねんざか)である。





 二年坂は二寧坂(にねいざか)とも言うようだが、これは三年坂を産寧坂と呼ぶこととの関係で付いた名前だろう。私が大学生の時代には、二年坂と言っていたように思う。

 では、何故二年坂と言うのかについて定説はない。昔からよく聞くのは、ここで転ぶと2年以内に死ぬという伝説だが、これは3年坂についても言っていた気がする。坂で転んで亡くなる場合は頭を打ってその場で亡くなるわけで、何年も経ってから亡くなったりはしない。面白おかしく仕立てられた俗説だろう。

 そうなると、三年坂の手前にあるから二年坂と言うという説が最も信憑性がある気がするが、それを言うなら一年坂もあるのかという議論になる。実はあるのである。私も歩いていて初めて気付いたが、二年坂のすぐ先に、東大路通方向に行く道の入り口に「京乃坂みち一念坂」という石碑が立っている。

 一年坂なんて聞いたことがないと思っていたら、これはどうも新しく付けられた名前らしい。坂と言えば坂なのかなというぐらいにゆるい下り坂で、明確に坂だと分かる二年坂、三年坂とは赴きが異なる。ただ、町並み保存地区の中なので、道の雰囲気はいい。

 ところで、この二年坂は、大正時代に画家の竹久夢二(たけひさゆめじ)が住んでいたので有名である。竹久夢二は東京の人というイメージがあるのだが、この地に2年ほど住んでいたらしい。妻のたまきと別れて、彦乃(ひこの)と同棲したのがこの辺りだったという。その彦乃は結核を患い、東京の病院に入院した後、ほどなく他界する。夢二にとってこの地は、わずかの間の幸福な生活の舞台だったわけである。

 さて、二年坂から北へ向かって道を進むと、高台寺(こうだいじ)に突き当たる。ここで東大路通から東に向かって延びる道と交差するのだが、この交差点に大きな鳥居が立っている。これは、この先の東山山麓にある京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の鳥居である。

 この鳥居から京都霊山護国神社へ向かう参道のことを、維新の道(いしんのみち)と呼ぶらしい。道の途中には、石碑が立っている。





 200mほどの道ながらきつい坂道で、一気に上ろうとするとややしんどい。それにしても、この道がこう呼ばれていることを全く知らなかった。石碑の脇の説明板では、明治百年に当たる昭和43年に有志の手で付近一帯が整備され、昭和45年10月14日から、ここを維新の道と呼ぶことになったと記されている。10月14日は、徳川将軍家から天皇への大政奉還(たいせいほうかん)の記念日である。京都検定の公式テキストブックにも京都の散歩道の一つとして紹介されているから、よく知られた道なのだろう。

 何故維新の道と呼ぶかは明らかで、京都霊山護国神社に、坂本龍馬(さかもとりょうま)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)など300以上の勤王の志士の墓があるからである。第二次世界大戦以前には、大政奉還の記念日である10月14日に大祭が挙行されていたと、説明板に解説があった。

 元々ここには神社はなかった。明治維新後、明治天皇により幕末に活躍した勤王の志士たちの霊を祀る社をこの地に建てるべきとの意見表明があり、明治維新に尽力した旧諸藩や公家がこれに感銘を受け、社が建てられた。創建当初は官祭招魂社(かんさいしょうこんしゃ)という名だったようだ。その運営には国費が投じられたというから、一種の国家事業である。

 明治維新に至る過程で亡くなった人々を慰霊するため、後に明治政府により全国に招魂社が設立されたが、著名な勤王の志士を祀ったこの京都の招魂社が最も崇敬を集めたという。

 その後、昭和の時代に入って日中戦争が勃発すると、地元出身兵士を祀ることになり、やがて名前も京都霊山護国神社と変わる。現在では、勤王の志士のほか、日清・日露戦争、太平洋戦争などの戦死者も合わせて祀られており、その数、7万3000以上と案内板に解説されていた。





 ちなみにこの神社では、坂本龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日に龍馬祭が行われるので有名である。以前ニュース番組か何かでこの龍馬祭の様子を見たことがある。

 坂本龍馬と中岡慎太郎の墓は、京都霊山護国神社本殿脇の山の中腹にある。周囲には幕末に活躍した勤王の志士たちの墓が無数に並ぶが、坂本龍馬と中岡慎太郎は二人一緒に墓碑が立てられ、周囲を石柱で囲われたうえに、鳥居まで立っている特別扱いである。墓の前は広い空間になっており、ここから京都の街が一望できる。

 龍馬祭では、共に暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎の出身地高知県より軍鶏(しゃも)の肉の寄進を受け、墓前で軍鶏鍋が作られる。坂本龍馬と中岡慎太郎は、河原町にあった近江屋(おうみや)に逗留していた際に暗殺されたのだが、この時、二人は軍鶏鍋(しゃもなべ)を食べようと軍鶏肉を買いに行かせていた際中で、それを食べることなく亡くなっている。龍馬祭では、軍鶏鍋の一番汁を墓前にお供えした後、参拝者にふるまうことになっている。

 下の写真が坂本龍馬・中岡慎太郎の墓で、その横には二人の小さな銅像が立っている。よくガイドブックなどに登場する銅像だが、その小ささが意外だった。





 京都霊山護国神社は、ハイシーズンでもそれ程観光客は多くないが、参拝する人は女性が多いような気がする。坂本龍馬は男性ファンが多いが、女性にも人気があるのだろう。中には熱心に手を合わせる女性もいる。

 ちなみに、一番高い場所に墓があるのが、桂小五郎(かつらこごろう)こと木戸孝允と、その妻、幾松(いくまつ)である。幾松はもちろん勤王の志士ではないが、桂小五郎をよく助けたという功と、桂自身が維新の大立者として活躍したという夫の七光りで、ここに祀られているのだろう。他に夫婦で祀られている例はないのではないか。大河ドラマの主人公にもなった、久坂玄瑞の妻、文(ふみ)の墓ももちろんない。

 維新の道は、高台寺の横にある鳥居から東へと上って行くが、突き当りの左手に、上に述べた京都霊山護国神社があり、道はそのまま右に曲がって更に続く。この道はその先再び西に曲がって、産寧坂を下りて来た石畳の道に合流する。要するに、石畳の道を山側に迂回する道なのだが、観光客の喧騒から離れて実に静かな道である。その分、坂道が急で少々しんどいため、地元の人以外は通っていない。

 この山沿いの道の途中、京都霊山護国神社から少し先に行った辺りに、更に山に上っていく細い階段の道が延びており、その突き当りに正法寺(しょうほうじ)がある。

 現在の正法寺は小さな寺だが、元は霊山寺(りょうぜんじ)と言って、比叡山延暦寺を開いた最澄(さいちょう)が創建したとも伝えられる古刹であった。従って、元は天台宗の寺院だったが、幾度かの変遷があって現在は時宗(じしゅう)のお寺となっている。私は一度訪れたことがあるが、門は閉ざされていて拝観できなかった。

 正法寺へと続く石の階段の途中に、小さな神社がある。名を霊明神社(れいめいじんじゃ)というが、先ほどの京都霊山護国神社との関係では重要な神社である。





 傍らにあった説明板によれば、元々この地は正法寺の塔頭の所有地で、それを神道の有志が買い受けて霊明神社とし、神道式の葬祭を行ったのが始まりらしい。その後、幕末に長州藩の国学者のために長州藩士参列のもとに神道式で葬儀を行ったのが縁で、長州藩を含めた勤王志士の埋葬と祭祀を行うようになった。

 京都霊山護国神社が現在の場所に創建されたのも、その横に霊明神社があったからのようで、神社内にあった勤皇の志士の墓は、土地ごと京都霊山護国神社に引き継がれたと説明板にあった。坂本龍馬・中岡慎太郎の墓も、当初はこの霊明神社にあったわけである。

 ところで、先ほど坂本龍馬・中岡慎太郎の墓の前からの眺望が素晴らしいと書いたが、更に高いところに上がって京都を一望したいなら、東山山頂公園(ひがしやまさんちょうこうえん)というのがある。ちょうど、この更に上の方から京都市街地を見下ろす位置にある。

 私は、職場の同僚に車で連れて行ってもらったことがあるが、歩いて登るコースもあるようだ。東山山頂と言っても、上の方に書いたように東山は単独の山ではないので、本当の意味での東山山頂ではない。標高200m程度に公園があるから、歩いてもそれ程しんどくはないだろう。車なら東山ドライブウェイからアクセス出来る。夜に車で上がって来ると夜景が楽しめるようで、デートスポットとしても人気らしい。

 さて、先に進もう。次は維新の道を元に戻って高台寺である。





 お寺でもらったパンフレットによれば、高台寺の正式名称は、高台寿聖禅寺(こうだいじゅしょうぜんじ)である。豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)が秀吉の冥福を祈るために建立した寺院であり、寺の名は、北政所の出家後の名である高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)の院号にちなんで付けられている。この院号は、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から賜ったものである。

 豊臣秀吉が亡くなったのは1598年で、その8年後の1606年に高台寺が開山した。北政所が秀吉の菩提を弔うための寺院建立を思い立った当初は、別の場所を候補地と考えていたようだが、最終的にはこの地に寺院を建てることになった。この時に手を貸したのが徳川家康で、政治的思惑もあって北政所を丁重に扱い、多大な財政的援助をした。そのため壮麗を極めた寺院に仕上がったようだ。

 ご存知のように、秀吉の死後、豊臣政権は息子の秀頼(ひでより)の手に移ったが、まだ子供だった秀頼を補佐し実権を握ったのは、母親の淀殿(よどどの)と側近の石田三成(いしだみつなり)らである。家康は五大老(ごたいろう)の一人として豊臣政権を支える立場にあったのだが、もちろん、本音は政権奪取にあった。ドラマでよく描かれるように、正室の北政所と側室の淀殿とはあまり良い関係ではなかったため、家康としては実権を握る淀殿や石田三成に対抗するためにも、北政所を味方につけておくのが得策と判断したわけである。

 一旦1606年に開山した高台寺だが、1624年になって建仁寺(けんにんじ)の住持だった三江紹益(さんこうじょうえき)を招聘し中興開山した。これにより、当初は曹洞宗(そうとうしゅう)であった高台寺は、臨済宗(りんざいしゅう)に改宗している。この改宗の理由は分からないが、北政所の兄が建仁寺にゆかりがあったようで、それが一つの背景とも言われている。そして、同じ年に北政所は、高台寺の門前にあった屋敷で亡くなっている。この屋敷跡は現在、高台寺塔頭の一つ、圓徳院(えんとくいん)となっている。

 北政所は、秀吉と共に大坂城に住んでいたのだが、秀吉の死の翌年、京都に移っている。最初は、現在京都御苑(きょうとぎょえん)内の仙洞御所(せんとうごしょ)がある辺りに建てられていた豊臣家の邸宅に暮らしたが、高台寺が創建されるとその門前に屋敷を造り、そこに移った。

 ちなみに、北政所が出家したのは、秀頼と、家康の孫である千姫(せんひめ)が結婚した1603年のことである。この時には既に関ケ原の戦いは終わっており、石田三成はこの世にはいない。また、同じ年に家康は征夷大将軍の地位を得ており、豊臣の劣勢は明らかになっていた。豊臣家が滅亡する大坂夏の陣は、その10年ほど後の1615年のことである。

 北政所の墓所は高台寺にあり、遺骨は境内の霊屋(おたまや)に納められている。霊屋は参詣順路にあるが、北政所の墓所にしては小さなものである。

 壮麗を極めた高台寺も、その後幾度かの火災に遭い、現在残っているのは霊屋のほか、元は持仏堂であった開山堂(かいさんどう)と茶室である傘亭(かさてい)、時雨亭(しぐれてい)などわずかである。





 上の写真は茶室の時雨亭だが、二階建てになっている珍しいものである。傘亭の方は、室内から見上げた天井の骨組みが、傘を開いたように見えることからこの名がある。傘亭は、床の中央が切り取られた構造になっており、ここに舟を入れることが出来たようだ。お寺の人の説明では、池のほとりに建てられていたのではないかということで、舟で茶室に入るとは粋な趣向である。

 時雨亭と傘亭は、秀吉の築いた伏見城(ふしみじょう)から移築したもののようで、高台寺では池のほとりではなく、山を登った見晴らしの良い場所に建てられている。また、両方の茶室は隣り合っていて、間は廊下でつながっている。上の写真には写っていないが、廊下の手前に傘亭がある。利休好みの造りらしいが、簡素な設えで普段使いにされていたのではないかと、お寺の人が説明していた。

 ところで、大坂夏の陣で大坂城が落城した時、北政所は、徳川家から付けられた護衛と共に高台寺に足止めをされていた。大坂城の炎上は遠く京都からも見えたというが、北政所がその最後の姿を見たのは、この時雨亭の二階からだったと、お寺の方が説明してくれた。夫の秀吉と共に築いた豊臣という家が滅びていく様を、北政所はどういう気持ちでここから眺めたのだろうか。

 さて、高台寺の山門を出て石段を下りていくと、二年坂から延びる石畳の道へ出る。この高台寺の前の石畳の道には名前が付いている。高台寺道(こうだいじみち)と言うのだが、もう一つの名前である「ねねの道」の方が有名かもしれない。ガイドブックなどには、もっぱらこっちの名前で紹介されている。





 ねねは北政所の名であるが、「おね」だったとも「ねい」だったとも言われており、正確なところは分かっていない。なお、北政所は固有名詞ではなく、本来は一定の位以上の貴族の正室を指す一般名詞である。天下人となった秀吉が関白に就任したために正室だったねねがこう呼ばれるようになったのだが、今日では北政所と言えば秀吉の正室のねねを指す固有名詞のように扱われている。それだけ有名で大きな影響を持った女性だったということだろう。

 ねねは、秀吉との間に子を設けることはなく、跡継ぎは側室の淀殿が生むことになるわけだが、それでも政権内でかなり影響力を持っていたと言われている。ドラマなどでも、ねねに頭が上がらない秀吉の姿が描かれることが多いが、恐妻だったということではなく、聡明で政治力があり、世の情勢がよく見えていたということだろう。秀吉亡き後、家康が北政所を手厚く遇して味方につけたのは、正しい選択だったわけである。

 ところで、このねねの道の途中から、西方向に延びている細い道がある。幾度も折れ曲がりながら、東大路通と平行に走る下河原通(しもがわらどおり)へ下りていくのだが、石畳の路地の両側には古い家並みが続き、独特の雰囲気がある。名前を石塀小路(いしべこうじ)と言う。





 石塀小路は古い道ではない。明治時代以降に個人が開拓した住宅地の中を通る道である。どの家も、基礎部分に石垣を用いていて、木造の塀と共に統一感がある。飲食店や旅館が軒を並べるが、ちょっと入りにくい高級な雰囲気である。ただ、実際に一見さんお断りというお店はほとんどないようで、価格もそれ程高くない店もあるため、一般人でも利用可能である。

 面白いのは、地面の石畳の一部が、かつて東大路通を走っていた市電の敷石だということである。私が大学に入学して京都に来た頃には、まだ市内を市電が走っていて、東大路通を走る市電を利用したことがある。在学中に市電は廃止されたが、八坂神社の前を走るラストランの市電を撮ろうと、たくさんの人がカメラを抱えて群がっていたのを覚えている。あの市電の敷石だと思うと、何とも感慨深い思いに駆られる。

 再びねねの道に戻ると、石塀小路の入り口から少し北に上がったところに、先ほど述べた圓徳院がある。お寺側の説明では、ねねが亡くなったのはここだったとのことである。

 もう少し行くと、ねねの道は東西に延びる道に突き当って終わる。その突き当りにあるのは浄土宗の寺院、大雲院(だいうんいん)である。大雲院と言われてもピンと来ない人でも、下の写真を見れば、あぁあれかと思うかもしれない。東山界隈を散策していると目につく特異な建物が境内にある。この建物は、祇園閣(ぎおんかく)と言うのだが、別名は銅閣(どうかく)である。





 大雲院と祇園閣の関係は少々複雑である。同じ敷地内にあるのに、元々は別物だからである。

 大雲院は、本能寺の変で亡くなった織田信長と嫡男の信忠(のぶただ)の菩提を弔うために創建された寺で、元は、信忠が籠城して明智軍と戦った二条御所の跡に建てられた。しかし、豊臣秀吉の京都市街の再編で四条河原町に移転した後、昭和の時代になってこの地に移って来た。

 では、大雲院が移転して来た時に、ここには何があったのかというと、大倉財閥の創始者、大倉喜八郎(おおくらきはちろう)の別荘である。そして、その別荘の一部として今日まで残されているのが、祇園閣というわけである。

 大倉喜八郎は新潟の出身で、生家は地元で商売をしていたが、喜八郎は江戸に出て丁稚奉公を始め、やがて鉄砲店を立ち上げる。時代が良かったのである。頃は幕末、戦乱の時代に突入し、幕府側からも新政府側からも多くの引きがあった。やがて新政府御用達となり、明治時代には、西南戦争、日清戦争、日露戦争と大いに商売は栄えた。

 明治に入り、鉄砲をはじめとする軍事品の商いで大儲けした喜八郎は、次々に商売を起こし、明治政府とも連携しながら活動分野を拡大していく。要するに政商だったわけである。新国家建設を意識して建設・土木事業も手掛けるようになり、新橋駅や鹿鳴館など明治を象徴する建物も手掛けた。他にも、電力、鉄道のほか帝国ホテルの設立など活動分野は多方面にわたり、あまたの会社を設立して大倉財閥を形成する。帝国ホテル、ホテルオークラ、サッポロビール、大成建設など、現在我々が知る有名企業の何社かは、この大倉財閥の流れをくむものである。

 その大倉喜八郎が京都の祇園に別荘を建てる。そして、別荘内に、金閣寺や銀閣寺を意識して建てた建物が祇園閣なのである。屋根を銅葺きにして、銅閣としゃれた。形も、祇園にふさわしく、祇園祭の山鉾を模した。室町時代の足利将軍家の向こうを張って、大倉財閥総帥の自慢げな顔が思い浮かぶようである。

 この別荘跡地に移転して来た大雲院だが、祇園閣は壊さずに境内に残した。お蔭で、直接お寺とは関係のない建物だけが目立つようになったのである。ちなみに大雲院は一般の拝観を断っているので、祇園閣に直接接することは出来ない。ただ、相当大きなものなので、境内に入らずとも色々なところから眺められるだろう。

 さて、大雲院の前を東西に延びる道を西側に下り東大路通に合流する途中に、立派な朱塗りの門があるが、これが八坂神社(やさかじんじゃ)の正式な門で、南楼門という。八坂神社と言えば、四条通の突き当りにある門が代表的だが、あれは西楼門といって脇から入るための門である。八坂神社については、祇園祭について書いた際に詳しく述べたので、ここでは説明や紹介は省く。

 一方、大雲院の前の道を東向きに山の方に上がっていくと、円山公園に出る。祇園枝垂桜(ぎおんしだれざくら)で有名な桜の名所だが、四季を通じて観光客で賑わうこの界隈の代表的なスポットである。せっかくなので、桜の時期の祇園枝垂桜の写真を下に掲載しておく。どうもイマイチ元気がなさそうな感じがするが…。





 さて、寺社がひしめくこのエリアに、こんな広い公園を何故造ることが出来たのか不思議に思うが、実はここはかつて、八坂神社の境内の一部だったのである。神仏習合の時代に、ここには八坂神社内のお寺であった安養寺(あんようじ)が建てられていた。それが明治時代になり、神社とお寺の分離を命じる神仏分離令(しんぶつぶんりれい)が出され、次いで廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れて多くのお寺が廃寺となる中、安養寺も廃止され明治政府によって土地を接収されることになった。

 市内に大きな公園のなかった京都では、ここを都市型の公園にする計画が持ち上がり、出来たのが円山公園というわけである。ここの日本庭園は、近代における京都の、というより日本の代表的庭師、小川治兵衛(おがわじへい)の手になるものである。

 小川治兵衛が作庭した庭園は、京都にあまたある。京都御所、修学院離宮、桂離宮、二条城などのほか、清水寺、南禅寺、妙心寺、青蓮院など有名寺院の庭が彼の手で整備されている。他にも、山縣有朋や西園寺公望などの要人のほか、三井家、岩崎家、細川家などの庭も手掛けている。そうした彼の作品の一つが、ここ円山公園の日本庭園である。

 円山公園を訪れる人の目は祇園枝垂桜と庭園に行きがちだが、ここには祇園祭の山鉾用の倉庫があったり、西行(さいぎょう)ゆかりと伝わる西行堂や、芭蕉がこの地で詠んだ句を元に建てられた芭蕉堂などもある。

 さて、このまま円山公園内を北上して行けば、浄土宗総本山の知恩院(ちおんいん)や、天台宗の三門跡寺院の一つ、青蓮院(しょうれんいん)があるのだが、引き続き東山沿いに南禅寺(なんぜんじ)、永観堂(えいかんどう)とつながっていってきりがない。東山界隈の紹介としては、この辺りで区切りとしよう。

 今回ご紹介したコースは、いにしえの葬送の地、鳥辺野から始まり、現代の京都の代表的公園、円山公園まで、時代の流れに沿った京都の様々な顔を見ることが出来るお得なコースである。おそらく一日あれば充分見て回ることが出来るので、京都初心者にはお勧めだと思う。







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