パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■京都の闇を歩く





 8月と言えばお盆である。東京では7月にお盆の行事を行う地域も多いようだが、関西のお盆は8月の旧盆を指すのが普通である。京都の五山の送り火も旧盆に合わせて行われる。

 この季節は昔から怪談話が盛り上がるが、今回の訪問記でも、現実の世界ではなく、ちょっと異界を覗くような場所を紹介したい。舞台は京都である。

 京都は千年の都と言われる。華やかな歴史を重ねた風雅の地であり、多くの文化を生んで来た。しかし、光多ければ闇もまた多い。現代の観光都市京都には、一般の観光ガイドブックが紹介していないような、そうした闇の部分が少しばかり残っている。私もその全てを知っているわけではないが、地元の人にはよく知られている隠された名所を訪ねてみたい。

 千年の都と書いたが、都は京都だけでなく、奈良もまた長らく都が置かれた地である。初期の天皇の時代には、単に宮殿を造営しただけというケースが多いが、天武天皇(てんむてんのう)が発案し夫人の持統天皇(じとうてんのう)が完成させた藤原京(ふじわらきょう)や、その孫の文武天皇(もんむてんのう)が発案しその母元明天皇(げんめいてんのう)が完成させた平城京(へいじょうきょう)は、条坊制(じょうぼうせい)を取り入れた都市であり、京都の平安京(へいあんきょう)と変わるところがない。しかし、平安京ほど怨霊や百鬼夜行の伝承は聞かれない。

 ところが、桓武天皇(かんむてんのう)により平城京から京都市の西南方向にある長岡京(ながおかきょう)に遷都したあたりから、怨霊の話が出て来るのである。

 平城京から長岡京に遷都した最も大きな理由は、平城京近辺に大きな川がなく、水運が利用できなかったことに加え、上下水道を含め水不足に悩まされたからである。ただ、もう一つ理由があると言われており、桓武天皇が新しい政治を行っていくうえで、奈良の寺社勢力や既存の貴族たちから離れたいという思惑があったと伝えられている。

 こうして長岡京へ政治の中心が移るのだが、桓武天皇側近として遷都を主導した藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が直後に暗殺されるという事件が起きる。陰謀を企てたとして、大和朝廷以来の有力貴族で遷都に不満を持っていたとされる大伴(おおとも)系の人々が捕らえられる。加えて、桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)が関与していたとされ、廃嫡という厳しい処分を受ける。早良親王は奈良の寺社勢力と深い関係にあったのである。

 これに対し早良親王は無実を訴え、幽閉された長岡京の乙訓寺(おとくにでら)で、抗議のため一切の飲食を拒否した。その後淡路島へ配流となるが、結局淡路島に着く前に亡くなってしまう。

 ほどなくして、桓武天皇の第一皇子、皇后、母親など近親の者が次々に亡くなる。そして、自然災害や流行病などが相次いで起き、これは早良親王の祟りに違いないと言われるようになる。それまでも、個々の人が怨霊に取り付かれて亡くなるという考えはあったが、無念のうちに亡くなった魂が怨霊となり都に広く祟りをもたらすという考え方が一般に受け入れられるようになったのは、これが最初なのではなかろうか。

 早良親王については、幾度か鎮魂の儀式が行われたが効果がなく、ついに都を平安京に移す決定がなされる。そして早良親王は崇道天皇(すどうてんのう)として追号され、奈良に天皇陵が造営されるのである。

 長岡京遷都後10年にして再度遷都となったため、平安京の造営には慎重が期されたという。それはそうだろう。早良親王の祟りを完全に封じ込めなければならない。

 まず土地の吉凶を示す地相が入念に調べられ、中国に伝わる風水の四神相応(しじんそうおう)にかなった土地かが占われた。四神相応では、北に玄武(大岩)、南に朱雀(大池)、東に青龍(大川)、西に白虎(大道)が配された地が好適地なわけだが、北の船岡山(ふなおかやま)を玄武、南の巨椋池(おぐらいけ)を朱雀、東の加茂川(かもがわ)を青龍、西の山陰道(さんいんどう)を白虎と見立てることが可能という結論になり、平安京の建設が始まった。この中で、巨椋池は干拓事業で埋められたため今はもうないのでイメージしにくいが、当時は京都市の南に巨大な淡水湖があったのである。

 更に都の鎮護のため、平安京の東西南北に、陰陽道(おんみょうどう)の方位神である大将軍(たいしょうぐん)を祀る神社を造営した。これが現在京都に残る複数の大将軍神社である。





 北には西賀茂大将軍神社(にしがもたいしょうぐんじんじゃ)、東には東三條大将軍神社(ひがしさんじょうたいしょうぐんじんじゃ)、西には大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)が残っているが、南の大将軍神社は不明である。上の写真は、西の大将軍八神社である。

 陰陽道では、方位の吉凶を司る神は8人いて八将神(はっしょうじん)と呼ばれるが、その中で大将軍は鬼神であり、大凶をもたらす最も恐ろしい神と言われている。この大将軍は3年周期で西北東南の順で居場所を変える。従って、大将軍がもたらす凶事を防ぐには、東西南北に大将軍を祀っておかないとまずいわけである。

 家相だの地相だの、現代では笑い飛ばされることが多いが、怨霊の祟りや魑魅魍魎の存在を信じていた時代にあっては、大真面目な話である。

 現在、この大将軍八神社の周囲には大将軍商店街があるが、私が訪ねた当時はこの商店街がやたらとおどろおどろしい雰囲気だった。どうやら、妖怪をテーマにして町興しをしているらしい。この商店街の中を東西に一条通が通っているのだが、この通りにまつわる古い妖怪話を元に、こんな企画をしていると商店街のサイトに説明があった。

 町興しの元になっている話は付喪神(つくもがみ)にまつわるものである。昔は、人間が長く使っていた日用品を捨てると、それが依り代となって魂がやどり、意思を持って人間に害をなすと信じられていた。これが付喪神であるが、様々な物が妖怪に変異し、夜になると一条通を練り歩いたという伝承がある。

 一条通は、今では街中の平和な通りであるが、古来より付喪神に限らず様々な怪異にまつわる言い伝えがある。それはこの通りが平安京の北限であり、その更に北側は、人の知らない異界だったからだろう。現在の地図で見ると、一条通は御所を横切るように通っていて、これが何故北限かと思われるかもしれないが、実は平安京が出来た当時の御所の位置は、今とは違うのである。

 当初造営された御所は、一条通より南に広がり、東西方向の位置も、今の船岡山のある場所を南に下りていったところにあった。都の北を守る西賀茂大将軍神社が船岡山の北にあるのも、当時の御所の位置を考えれば、何ら不思議ではない。しかし、この御所は火事で焼けてしまい、再建してはまた火災ということを繰り返した。御所再建中は天皇は仮の御所や貴族の屋敷などを借りて住んだ。長い変遷の後に落ち着いたのが現在の御所の場所ということになる。元は土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)だったが、ここに御所が定まったのは14世紀のことである。

 いずれにせよ、平安京の外は、東西南北とも異界に囲まれていた。京都の現在の賑わいから平安京の昔を想像するのは難しい。ただ、当時の人々の住まいは今よりも圧倒的に狭い領域であり、その向こうには闇が広がっていた。今よりも深い闇である。

 よく知られていることだが、平安京の昔には、生者が住む都の内と、死者を弔う葬送の地は、地続きでつながっていた。一条通から北に少々上がると、船岡山の近くに蓮台野(れんだいの)という地があった。これが平安京の葬送地の一つである。死者は、現在の千本通(せんぼんどおり)を通って葬送の地に運ばれたという。千本通の名前の由来も、道沿いに立っていた無数の卒塔婆の数を表しているという説がある。そうして考えると、一条通に何故怪異が多いのかも分かろうというものだ。

 他の葬送地として有名なのが、西の化野(あだしの)や東の鳥辺野(とりべの)である。平安の昔、貴族など身分のある人は火葬にされたり埋葬されたりしたようだが、庶民はそのまま野ざらしだったという。化野や鳥辺野では、そうした遺体が野犬に食われたりカラスにつつかれたりで悲惨な状態になっていたようだ。

 化野でそんな惨状を見て哀れに思い、お寺を建てて野ざらしの遺体を埋葬したのが、弘法大師(こうぼうだいし)の空海(くうかい)である。そこに後年、浄土宗(じょうどしゅう)の開祖法然(ほうねん)が念仏道場を建てる。これが現在の化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)である。

 一方、鳥辺野は、現在の清水寺(きよみずでら)から南側に広がっていたようだ。この鳥辺野と、人々が暮らす都の内との境目にあったお寺が、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)である。





 お寺の門の脇に「六道の辻(ろくどうのつじ)」の石碑が立つが、これは仏教で言う転生輪廻にまつわる6つの世界の境を表している。仏教では、世界は天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つから成っており、人は生前の行いに基づき、死後にいずれかの世界に生まれ変わることになっている。生まれ変わるに当たって、どの世界に行くかの分岐点がこの六道の辻であり、つまりは死者の世界への入り口というわけである。

 平安の昔、野辺送りの葬列は、この六道珍皇寺の前で法要を行った。その先は死者の地なので、遺族はこの場に残り、専門の人が鳥辺野まで遺体を運んで行ったという。今では、火葬場や墓まで遺族が赴くが、死の穢れを極端に恐れた時代には、六道の辻より先には行かなかったのだろう。従って、この場所が遺族にとって最後の別れの地だったわけである。

 六道珍皇寺創建の由来はハッキリしない。平安の昔には既に存在したお寺のようだが、誰がいつどういう経緯で建てたのかについては、様々な説があるようだ。

 生者と死者の境界線上に建てられたこのお寺は、旧盆の行事と縁が深い。京都の人たちは先祖の霊を迎えるため、旧盆が始まる直前にこの寺にお参りする風習があると聞く。これを、「六道まいり」とか「お精霊(しょうらい)さん迎え」と呼ぶらしい。ここが六道の辻である以上、あの世から戻って来る先祖の霊は、ここを通ってこの世に帰って来ると信じられていたのである。

 お参りに来た人々は、このお寺の鐘楼にかかる鐘を衝く。この鐘は「お迎え鐘」と呼ばれるもので、境内にある解説板によれば、遠くかなたまで音が響くので、あの世でも聞こえるという。死者は、子孫が衝く鐘の音に導かれて、この世まで戻って来るのだと伝えられている。その時期になると、この鐘を衝く順番待ちの列が、遠く八坂通(やさかどおり)まで続くそうだ。

 このお寺に縁のある人物として、小野篁(おののたかむら)がいる。

 小野篁は平安時代前期の公卿であり、推古天皇(すいこてんのう)の時代に遣隋使として派遣された小野妹子(おののいもこ)の末裔である。また、絶世の美女にして六歌仙(ろっかせん)の一人でもあった小野小町(おののこまち)と同じ血筋に当たる。

 小野篁は役人としては能力の高い人だったが、反骨精神旺盛でよく上司や周囲と衝突した。現代で言えばかなり変わった人の部類で、朝廷をこきおろす漢詩を作って流罪にもなっている。それでも最後まで役所勤めをしていたのは、その能力の高さゆえであろう。

 そんな小野篁の最も変わっていた側面は、生前、あの世で閻魔大王の裁判の補佐役をしていたという言い伝えである。昼間は朝廷に仕え夜は閻魔庁に仕えていたという話が、今昔物語などの説話集に残されており、平安末期には有名だったらしい。

 小野篁が夜毎に閻魔庁に通うのに使っていたのが冥界に通じる井戸で、それが六道珍皇寺の庭に残っている。あの世とこの世の境目という六道の辻にこの井戸があるのは、当時の人にとってしっくり来たことだろう。残念ながら私が行ったときには庭までは行けなかったが、格子越しに覗くことが出来た。





 この井戸を最初に使ったのは、亡き母に会いに行くためだったという。小野篁は、あの世に行くのにはこの井戸を使い、この世に戻って来るのには、嵯峨大覚寺門前六道町にかつてあった福生寺(ふくしょうじ)の井戸を使っていたという話もあるようだ。嵯峨野の先には化野があり、そこにも六道の辻がある。大覚寺門前の交差点の脇に当時を偲ぶモニュメントが整備されている。ただ、福生寺は廃寺となり今はもうない。

 六道珍皇寺境内には、閻魔・篁堂(えんま・たかむらどう)というお堂があり、中に小野篁作と伝えられる閻魔大王と篁の木像が鎮座している。小野篁が閻魔大王の補佐役だったとすれば、上司を見たままに彫ったということになる。

 私が六道珍皇寺に行ったのは、お盆の時期から外れた休日だったので、境内は実に静かなものだった。京都のお寺は観光客で溢れかえっているが、この六道珍皇寺には観光客の姿はない。観光地というより、京都の人々のお寺なのだろう。もちろん拝観料もない。

 何かと逸話の多い六道珍皇寺だが、六道の辻という得意な場所柄、周囲にもちょっと不思議な場所がある。子育飴(こそだてあめ)の店である。





 子育飴は幽霊飴などとも言われ、全国に伝承があるようだ。ここに伝わる話は安土桃山時代の出来事らしい。

 夜な夜な飴を買いに来る女性がいた。怪しいと思ってつけてみると、お寺で姿が消える。そして、墓地から赤ん坊の泣き声がするのである。ビックリして泣き声のする場所を掘り返してみると、女性の遺骸のそばに赤ん坊が生きていた。当時は土葬だったので、死後に生まれたものらしい。さては、あの女性は母親の幽霊で、赤ん坊にやるために飴を買いに来ていたのか、といった話である。

 安土桃山時代だから、さすがに遺体が野ざらし状態というわけではなかったのだろう。火葬ではなく土葬だから、母親の死後に、土の中で赤ん坊が生まれたという設定である。また、当時の飴は今のような固い飴ではなく、水飴のようなドロッとした形状だったと伝えられている。だから、赤ん坊の食事になったわけである。

 全国に伝わる話では、たいてい幽霊は一文銭で支払って飴を買うが、7日目にはお金が尽きる。棺桶に入れるのは三途の川の渡し船代の六文だけなので、それ以上お金がないわけである。まぁよく出来た話だと思う。

 子育飴のある店のロケーションがこの場所というのが、如何にもという感じがする。平安の昔には亡き人との最後の別れの場所だった六道の辻である。何かと哀しい物語が似合う地なのだろう。

 六道珍皇寺にまつわる話題が長くなったので、この辺りで話を一条通に戻そう。

 一条通沿いの大将軍商店街のところで、付喪神が夜な夜な一条通を練り歩いたという話をしたが、一条通沿いでもう一つ有名なのは、一条戻橋(いちじょうもどりばし)である。





 場所は、一条通と堀川通の交差するところにある。この橋は、堀川通に沿って流れる堀川にかかっているが、今では橋の下が整備され、小川に沿って遊歩道がある。のんびりとした感じのいい場所である。

 堀川というのは、実は人工の川である。平安京を造営するに当たって、運河として切り開かれ、都の中心である大内裏造営に必要な木材を北山から運ぶのに使われた。その後は農業用水に使われたり、京友禅で糊や余分な染料を落とす友禅流しにも利用された。しかし、近代になって京都の都市化が進み、水質汚染や洪水への対策が必要になって、改修工事の結果、昔の川は失われた。今では小川が流れる程度の水量になっている。

 上の写真を見て、こんなところで怪異が起こるのか、と思われるだろうが、平安の昔は全く違った風景だったはずだ。そもそも橋の名前の由来になっている話が古い説話集に収められているが、これが摩訶不思議な話なのである。

 平安時代の中期、公卿で文章博士(もんじょうはかせ)だった三善清行(みよしのきよゆき)が亡くなった。その葬列が一条戻橋を渡る頃に、悲報を聞いた息子の浄蔵(じょうぞう)が、修行中の熊野から駆けつける。浄蔵が父の棺にすがりつき神仏に祈ると、雷が鳴って亡くなった三善清行が生き返り、親子で抱き合ったという話が伝わっている。もっとも、三善清行の蘇生は一時的なものだったらしい。

 この出来事が橋の名前の謂れらしく、この伝承に基づいて、第二次大戦中に京都から出征した兵士はこの橋を渡っていったらしい。一方、女性が嫁ぐに当たっては、この橋は決して渡らないという風習もあるようだ。

 先ほど書いたとおり、平安時代の御所は今とは位置が異なるため、この橋のある辺りは、当時の御所の北東方向に当たる。北東といえば陰陽道では鬼門(きもん)である。鬼が入って来る方向として忌み嫌われており、そんなこともあって、一条戻橋にまつわる怪異は他にもある。有名なのは、平安時代の武士、渡辺綱(わたなべのつな)が鬼と出会った話であろう。

 渡辺綱は、武将源頼光(みなもとのらいこう)の家来であり、頼光四天王と言われた勇者である。ある夜、頼光から頼まれて所用で一条戻橋に行くことになったが、危ない場所なので、名刀「髭切(ひげきり)」を渡される。渡辺綱が用を済ませて帰ろうとすると、一条戻橋のたもとに若く美しい女がいて、用があって五条まで行きたいのだが夜も更けたので送ってくれないかと頼まれる。怪しいと思ったが、渡辺綱は馬に女性を乗せてやり、五条に向かう。ところが女性は、実を言うと自分の家は京の郊外にあり、そちらに帰りたいのだと言い出す。渡辺綱が了解した途端、女性は鬼の姿になって、我が家は愛宕山だと言い、渡辺綱の髪をつかんで宙に舞う。渡辺綱は名刀髭切を抜いて、髪をつかんだ鬼の腕を切り落とし、難を逃れる。鬼は、腕は必ず取り返すと言って愛宕山の方に消える。

 髪にぶらさがった鬼の腕を占ってもらうと大凶ということで、腕を箱に封じ込めて家にこもり7日間誰も入れるなと言い渡される。読経しながら家にこもっていた最後の7日目に、渡辺綱の伯母が遠方より訪ねて来る。最初は家に入れないようにしたが、苦言を述べられつい入れてしまう。伯母からこの経緯を尋ねられ、渡辺綱が事情を話したところ、その鬼の腕を是非見たいとせがまれる。仕方なく、箱から鬼の腕を出したところ、伯母は突然鬼の姿に変わり、我が腕をもらっていくぞと叫び、屋根を蹴破って飛び去る。

 まぁざっとこういう話だが、どこかで聞かれたことがあるのではないか。しょせんは作り話だが、渡辺綱は実在の人物だし、名刀髭切も重要文化財に指定され現在も残っている。

 あと、作り話ではなく現実の話としては、豊臣秀吉が千利休(せんのりきゅう)に切腹を命じた祭、利休の首は、この一条戻橋にさらされた。

 利休は、当時一層だった大徳寺(だいとくじ)の三門の改修費用を出し、二層仕立てとした。大徳寺はこれに感謝して、新たに造られた三門上層の楼内に利休の木像を安置した。これを聞いた秀吉は、大徳寺の三門は自分も含めて高貴な人々が通るのに、その上に自分の木像を置いて踏みつけにするというのはけしからんと激怒したといわれる。

 これが本当に切腹の理由だったかについては議論があるようだが、一条戻橋に利休の首がさらされた際には、大徳寺三門にあった利休の木像を一条戻橋に磔にし、その足元に踏みつける形で利休の首を置いたという。

 まぁ何かと因縁のある橋なのだが、一条戻橋と言えばこの人を紹介しないわけにはいかない。平安時代きっての陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明(あべのせいめい)である。

 晴明の屋敷は一条戻橋のすぐそばにあった。当時の御所の位置から見て鬼門である北東方向に屋敷を建て、忍び込もうとする鬼を封じる役割を担わされていたという。その安倍晴明屋敷跡には、現在晴明神社が建っている。





 行ってみて驚いたのだが、縁日でもお祭りでもないのに、結構な参拝客がある。境内は若い女性も多く、修学旅行生もたくさん立ち寄るらしい。真面目に参拝に来ているというより、面白そうだから覗いてみるかといった乗りの人が多いのではないか。かくいう私もそういう部類なわけだが…。

 もう一つ驚いたのは、神社の入り口に「千利休居士聚楽屋敷址」の石碑が立っていたことである。えぇ〜、安倍晴明の屋敷跡に千利休は屋敷を建てて住んでいたのかとビックリした。ここが聚楽屋敷だったのなら、千利休が切腹したのもここだということになる。それですぐ近くの一条戻橋に首がさらされたということか。

 さて、安倍晴明の屋敷跡に建てられた神社というと、何やらおどろおどろしい響きがあるが、境内は至って明るい。開放的で清潔感ある境内に、安倍晴明をアイドル視している人たちが来ているという観がある。

 晴明は、魔除けのために晴明紋(せいめいもん)、あるいは晴明桔梗(せいめいききょう)と呼ばれる五芒星(ごぼうせい)の印を多用しており、これが境内の至るところにある。五芒星は、陰陽道の基本概念である陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)を表したマークであり、魔除けの呪符として効果があるとされた。

 例えば、晴明神社境内には晴明井という井戸が今もあるが、ここにも五芒星が使われている。この水は安倍晴明の力で湧き出させた霊力を持った水とされている。実は、千利休はこの井戸の水を使ってお茶を点てていたらしい。当然、豊臣秀吉も飲んだはずだ。





 安倍晴明が活躍したのは平安の昔だが、西洋の魔術においても同じ記号が用いられている。五芒星は紀元前から使われていたとも言うが、たまたま晴明が考え出したものと西洋のものが一緒だったのか、外国でこうした記号が魔術に使われていたのを晴明が知っていたのか、何とも興味のある点である。

 さて、その安倍晴明だが、今更紹介する必要もないほど有名な人物だろう。

 生まれは諸説あるが、大阪の阿倍野が有力説である。母親は狐だったという話が伝わっている。当時陰陽師として有名だった賀茂忠行(かものただゆき)と、その息子で同じく陰陽師だった賀茂保憲(かものやすのり)に幼い頃から仕え、陰陽道を学んだ。幼い頃より、賀茂忠行が驚くほど優れた資質を有していたと伝えられる。

 ちなみに、一条戻橋のところで書いた渡辺綱が鬼に会った話についても、鬼の腕の検分をして占い、対処方法を渡辺綱に教えたのは安倍晴明である。

 また、都で相次いで神隠しが発生したとき、その原因を占ったのも安倍晴明である。晴明によれば、酒呑童子(しゅてんどうじ)を中心とした大江山(おおえやま)に巣くう鬼たちの仕業ということで、先ほど出て来た源頼光らが退治のために派遣された。大江山の鬼退治は有名な話なので、聞かれたことがあるだろう。

 晴明神社境内には、安倍晴明の霊力にまつわる様々な伝承が紹介されているが、花山天皇(かざんてんのう)の信任が厚かったため、花山天皇にまつわる話が複数ある。

 花山天皇が頭痛に苦しんでいたため晴明が占ったところ、天皇の前世は行者であり、その頭蓋骨が修行の場だった大峰山(おおみねさん)の岩と岩の間にはさまっているのが原因と述べ、探し出して岩を取り除いたところ頭痛が治ったというエピソードがある。

 また、寵愛した女御が亡くなって出家を決意した花山天皇は、夜に御所を抜け出し寺に向かう。安倍晴明はその夜、星の異変に気付いて出家を知り、花山天皇が晴明の屋敷の前を通ろうとしている時に式神(しきがみ)を放って様子を見に行かせたと言われている。

 その式神だが、陰陽師が使役する人間以外の精霊的存在で、安倍晴明は十二神将(じゅうにしんしょう)を式神として使役したという。ただ、家族が怖がるので、日頃は一条戻橋の下に式神を隠し、必要になると呼び出したと伝えられる。

 式神にまつわるエピソードでは、智徳法師(ちとくほうし)との力比べの話が有名らしい。

 智徳法師は、その霊力で海賊を懲らしめ、奪われた荷を元の持ち主に返してやったという有名な陰陽師である。ある日、安倍晴明のところに二人の童を従えてやって来て、教えを請う振りをする。しかし晴明は、たちまちその童が式神だと見抜き、自らの霊力で隠してしまう。驚いた智徳法師が抗議すると、晴明は、あなたが人を試したりしようとするからだと言い、智徳法師は恐れ入って詫びたという。

 こうしてエピソードを書き出せばきりがないが、それほど安倍晴明の霊力がつとに知られていたということだろう。

 さて、その晴明に陰陽道を教えた師匠である賀茂忠行・保憲親子のゆかりの地と言えば、ここである。





 上の写真は下鴨神社(しもがもじんじゃ)であるが、その北にある上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と合わせて、賀茂忠行・保憲親子の出身氏族、鴨(かも)一族の拠点である。

 鴨氏については、奈良散歩記で葛城に行った際に紹介した。

 古事記によれば、天皇家初代の神武天皇(じんむてんのう)は、九州から支配地域を徐々に西に広げて侵攻して来るが、近畿圏では苦戦する。現在の東大阪辺りに上陸しようとして地元豪族の抵抗に遭い、大打撃を受ける。その後熊野に回り込んで上陸するが、ここでも地元豪族の激しい抵抗に遭い劣勢に立つ。苦戦しながら熊野を平定して足場を築いた神武天皇を、熊野の山を越えて大和の地に案内したのが3本足の八咫烏(やたがらず)である。

 八咫烏は賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身ということになっており、この末裔が古代豪族の鴨一族である。つまり、神武天皇が来る前から近畿圏で一定の勢力を有していた土着豪族ということになる。

 初期の天皇家は大和平定のために鴨一族の手を借りざるを得ず、初代神武天皇から3代の安寧天皇(あんねいてんのう)までの3代の皇后は鴨一族から出ている。当時の鴨一族の拠点は奈良の葛城にあり、氏神である高鴨神社(たかかもじんじゃ)もその地にある。

 ところが、第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の時代に天皇家と対立し、追われた一族は葛城の地を去ったと伝えられる。鴨一族は全国に散り賀茂氏や加茂氏となったが、一族にとってその後の拠点の一つとなったのが、古くは「やましろ(山代・山背)」と呼ばれた、現在の京都である。

 そうした歴史的経緯から、上賀茂神社や下鴨神社は、葛城の高鴨神社の系列である。そのため、両社の祠官家は代々鴨一族が担ったようだ。鎌倉時代に方丈記(ほうじょうき)を書いた鴨長明(かものちょうめい)や江戸時代の国学者、賀茂真淵(かものまぶち)も鴨一族で、京都の上賀茂神社・下鴨神社から出ている。

 また、強力な霊力を駆使したという修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)も鴨一族に属する人物なので、加持祈祷、呪術は鴨一族の得意分野なのかもしれない。陰陽道の大家、賀茂忠行・保憲親子が鴨一族から出たのも、さして違和感のあることではなかろう。

 鴨一族の歴史からも分かるように、上賀茂神社・下鴨神社とも相当古い神社で、平安京が出来る前からこの地にあった。京都においては、最も古い部類の寺社であろう。

 下鴨神社は周囲を糺の森(ただすのもり)と呼ばれる原生林で覆われており、この森も含めた下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。





 ところで、この上賀茂神社・下鴨神社自体が祟ったことがある。正確に言えば、両社に祀られている賀茂神の祟りである。

 時代は平安京よりもずっと前の欽明天皇(きんめいてんのう)の時代だから、ようやく日本に仏教が伝来した頃のことである。当時風水害で凶作となり、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、これは賀茂神の祟りだということになった。神の怒りを静めるため、馬に鈴をつけ、人は猪頭(いのがしら)をかぶって競争をしたところ、風雨が止んだ。この祭礼が、現在の葵祭(あおいまつり)の起源である。

 さて、賀茂忠行・保憲親子のうち父の賀茂忠行は、陰陽道に大きな影響を与えた人物として有名である。元々陰陽道は、あらゆるものは陰と陽に分解されるという二元論な考えと、全ての物は木・火・土・金・水の五つの元素から成り立っているという五行の考えを組み合わせた陰陽五行説を核としている。陰陽道の周辺には、星を見て占う天文道(てんもんどう)や、太陽や月を観測して暦を作る暦道(れきどう)があったが、賀茂忠行はこれらを統合して一つの体系を作った。

 また、彼自身が、何かで覆われたものの中身を当てるのが得意だったという逸話から分かるように、霊力や呪術といった側面が陰陽道に強く出て来る。元々の陰陽道や天文道、暦道は学問の一種であり、誰でも学べば取得できたはずだが、安倍晴明の数々のエピソードや、異界の者が見えたという賀茂保憲の存在を考えると、超常的な能力を備えた者だけが陰陽道を継承できるかのような扱いになっていく。賀茂忠行・保憲親子や安倍晴明はまさに妖術使い的存在であり、素質がなければ奥儀を極めるのは難しかろう。

 こうした超常的能力を発揮する陰陽師の登場は、長岡京以来の怨霊思想が背後にあって、それを封じる役割を陰陽師が負わされていく過程で生じたものではなかろうか。陰陽師がこうした力を持つようになると、時の権力者は陰陽師を呪術者として使い、政敵を呪い殺すように依頼するといったことも起きた。

 安倍晴明のライバルとして蘆屋道満(あしやどうまん)という在野の陰陽師が話に出ることがある。安倍晴明は、時の権力者である藤原道長(ふじわらのみちなが)から厚い信頼を得ていたが、道長の政敵であった藤原顕光(ふじわらのあきみつ)は、蘆屋道満に命じて道長を呪い殺そうとする。ある時道長が、自ら創建した法成寺(ほうじょうじ)に参拝に行くと、門のところで連れていた犬がしきりに吠える。道長が安倍晴明を呼んで占わせると、門の下に蘆屋道満が仕掛けた呪物が埋められていたという。

 本来は学問だったはずの陰陽道は、こんなふうに変質してしまったのである。その背景には、人々が広く呪いや祟りを信じていたという平安期の社会情勢があったのだろう。そうした人々の恐れを如実に表した神社がある。御霊神社(ごりょうじんじゃ)である。





 上の写真は下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)であるが、もう一つ、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)がある。これらの神社は、政争に巻き込まれ無実の罪を着せられ非業の死を遂げた人々の怨霊を鎮めるために建てられた。

 長岡京で早良親王の祟りに遭い、やむなく都を平安京に移した桓武天皇だが、平安京に移ってからも疫病が流行したりしたため、またもや怨霊の仕業と恐れおののき、平安京の神泉苑(しんせんえん)で御霊会(ごりょうえ)という鎮魂の儀式を行った。ここでいう御霊とは、一般の霊魂を指しているのではなく、怨霊のことである。天変地異や疫病の流行、不慮の死などは、全て怨霊の祟りという考え方が広く信じられていた証左だろう。

 最初は御霊会だけを行っていたのだが、やがて社を建てて怨霊を祀るようになる。これが現在の上と下の御霊神社である。ちなみに、この御霊会が元で生まれたもう一つの有名な行事がある。毎年7月に京都で行われる祇園祭(ぎおんまつり)である。

 当時、律令制(りつりょうせい)に基づき日本国内に66の国があったが、ある年の御霊会で、国の数だけ矛を立てて怨霊の祟りを祓うという儀式が執り行われた。これが祇園祭の原型である。祇園祭が7月中旬なのは、梅雨時の不衛生で病気が流行しやすい季節だったからだろう。当時の考えでは、流行病は全て怨霊の仕業ということになる。

 さて、御霊神社に祀られている人たちだが、当初神泉苑で行われた御霊会で対象になったのは以下の6人で、六所御霊と呼ばれている。

◎早良親王
◎伊予親王(いよしんのう)
◎藤原吉子(ふじわらのよしこ)
◎橘逸勢(たちばなのはやなり)
◎文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
◎藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)

 早良親王は、冒頭に話をした長岡京の祟りの張本人である。

 伊予親王は桓武天皇の息子で、藤原吉子はその母である。当時の貴族藤原宗成(ふじわらのむねなり)が伊予親王に謀反をそそのかしたという噂があって宗成を捕らえて尋問したところ、謀反の張本人は伊予親王だと宗成が証言したため、伊予親王と藤原吉子は捕らえられて幽閉される。二人は無実を訴えたが聞き入れられず、悲観して毒を飲んで自殺をしている。

 橘逸勢は、平安初期の貴族だが、これまた謀反の疑いをかけられ、捕らえられて激しい拷問を受けた。それでも無実を主張したが、伊豆へ流されることになった。しかし高齢で病気がちだったため長旅に耐えられず、途中の浜松で亡くなっている。

 文室宮田麻呂も平安初期の貴族で、同様に謀反の疑いありと密告されて、息子たちと共に流罪となり、流罪先で没した。こうして見ると、平安朝においては、無実の人間に濡れ衣を着せて追い落とすということが結構行われていて、しかも成功しているようだ。

 最後の藤原広嗣は奈良時代の人で、大宰府への赴任を命じられるが、これを反藤原勢力による左遷と受け取り、当時政権に重用されていた吉備真備(きびのまきび)や玄ム(げんぼう)を非難する上奏文を朝廷に送る。朝廷側はこれを謀反と受け取り、藤原広嗣を大宰府から召還するが、広嗣は従わずに兵を率いて反乱を起こす。しかし、朝廷の軍によって鎮められ、広嗣は処刑された。世に言う藤原広嗣の乱である。

 その後、この六所御霊が御霊神社に祀られる際に以下の2名が加えられ、合わせて八所御霊と呼ばれるようになった。

◎吉備聖霊
◎火雷神

 吉備聖霊が誰なのかは不明である。一般には、上に出て来る吉備真備と言われるが、彼は学者出身ながら大臣まで登りつめた立身出世の人で、憤死なんかしていないため、ここに祀らなければならない理由が見当たらない。

 もう一人の火雷神も誰なのか不明である。雷と来れば京都の祟りでは菅原道真(すがわらのみちざね)ということになるが、彼が祟るのは御霊神社が出来た後のことである。それに、彼のためには別に立派な神社が建てられている。北野天満宮(きたのてんまんぐう)である。





 菅原道真は、以前奈良散歩記で訪ねた奈良市菅原町の生まれで、家は代々学者の家系だったようだ。幼い頃より文才があり、若くして仕官した。しかしその出自からして、朝廷で重用される可能性は低かった。ところが突然チャンスが訪れる。

 当時は藤原家が権勢を振るう時代であったが、宇多天皇(うだてんのう)と関白候補であった藤原家の実力者、藤原基経(ふじわらのもとつね)との間で揉め事が起きる。基経を関白に任じる詔勅の文言を巡っていさかいが生じたのである。この問題解決に一役買ったのが、時の讃岐守であった道真である。

 宇多天皇は道真に感謝し、目をかけられるようになる。藤原基経が数年の後に亡くなると、藤原家の権力の空白を利用して道真は異例の出世を重ねる。宇多天皇からしてみれば、強大すぎる藤原氏の政治力に対抗する気持ちもあったのだろう。やがて道真は、天皇に対して藤原家と同等の扱いを受けるようになる。

 これを快く思わなかったのは藤原氏で、宇多天皇が上皇に退いて醍醐天皇(だいごてんのう)が皇位につくと、藤原家の当主である時平(ときひら)は、道真排斥に動く。道真の娘が斉世親王(ときよしんのう)に嫁いでいたため「道真は醍醐天皇を退位させ斉世親王を次期天皇にしようと陰謀を企てている」と、醍醐天皇に密告するのである。

 醍醐天皇はこの讒言を真に受け、道真を右大臣から九州の大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷する。道真だけでなく子供たちも都を追われるという厳しい処分だった。嫌疑をかけられた斉世親王も出家させられた。

 当時の大宰府(だざいふ)は、大陸との外交・貿易・防衛を司る重要な地方庁であり、大宰権帥は地方長官代行である。一見、権力者のように見えるが、藤原氏は道真を大宰府の仕事から遠ざけ、大宰府政庁ではなく南館という廃屋に幽閉した。左遷というより罪人扱いである。

 道真は、冤罪が晴れて京へ帰ることを願っていたが、幽閉状態のまま大宰府南館で病死する。大宰府に流されてから僅か2年後のことである。

 亡くなった道真は、大宰府近くの寺社に埋葬されることになった。道真の置かれた罪人的立場からすれば、盛大な葬儀など執り行われようがない。道真と共に京から来たわずかの供人が、遺骸を牛車で運ぶこととなった。ところが、途中で牛が止まったまま動かなくなる。これは道真がここに葬ってくれと言っているのではないかという話になり、急遽その地に埋葬し、小さな墓を建てる。この墓の上に建てられているのが、現在の太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)である。いずれの天満宮でも牛が特別扱いされているのは、このようにして道真のあるべき埋葬地を知らせたからと言われている。

 さてこれで藤原家はめでたし、めでたしとなったかというと、そういうわけにはいかない。道真を陥れた藤原時平は道真の死後すぐに、わずか39歳で若死にした。道真左遷を命じた醍醐天皇も病気になり、醍醐天皇と藤原時平の妹の間に生まれた皇太子も若死にする。左遷に加担した貴族たちも道真の死後まもなく亡くなっている。

 道真を陥れた関係者がことごとく不幸に見舞われただけではない。京の都では旱魃、水害、疫病と、あらゆる災厄が次々と襲い、止むところがなかった。

 そして、天変地異について話し合うために内裏の清涼殿に集まった関係者めがけて雷が落ち、公卿にたくさんの死傷者が出る。醍醐天皇はこの落雷の直後に病に臥し、ほどなく亡くなった。

 道真の祟り方は尋常ではない。一連の経緯を見れば、その恨みが深かったことは推測できるが、こうした祟りは数十年続いた。とにかくみんな震え上がったのである。かくして、道真の怒りを鎮めるために北野天満宮が造営され、左遷は取り消され道真を記録上昇進させもした。現在の北野天満宮の立派さを見れば、当時の人々がどれほど菅原道真の祟りを恐れたかが分かろうというものだ。

 先ほど出て来た稀代の陰陽師安倍晴明は、菅原道真の祟りを鎮めるために北野天満宮の前進が造られた頃から朝廷で活躍し始めている。陰陽道が学問というより霊力や呪術中心の超常的色彩を帯びるのは、こうした時代背景があってのことだろう。強力な祟りには、より強力な対抗措置が必要だったのである。

 そう言えば、北野天満宮境内には面白いものがある。





 渡辺綱の燈籠(わたなべのつなのとうろう)というのだが、これは一条戻橋のところで書いた渡辺綱と鬼との対決の話に由来する。一条戻橋で若い女性に化けた鬼に愛宕山につれていかれそうになったという話だが、渡辺綱の髪をつかんで宙に舞った鬼の腕を切り落とした時、渡辺綱が落下したのがこの北野天満宮なのである。渡辺綱は、鬼から逃れられたのは北野天満宮のご神徳のお蔭と、この燈籠を寄進したという。こうして見ると、屈指の祟り神として恐れられた菅原道真だが、祀られた後は神徳深い神として慕われていたのだろう。

 菅原道真は幼少より学問に秀でていたということで、その後の北野天満宮は学問や文芸の神様として信仰を集める。豊臣秀吉の時代に北野天満宮で有名な北野大茶会(きたのだいさのえ)が開かれ、千利休ら一流の茶人のほか千人近くの参加者が集まったとされるが、これも北野天満宮が学問・文芸の神様として慕われ、祟り神としての記憶が薄れていたからではなかろうか。その後、歌舞伎の祖とされるかぶき踊りを出雲阿国(いずものおくに)が初めて披露したのも、この北野天満宮である。

 こうして見て来ると、一見華やかな都絵巻の裏側には、ドロドロとした権力闘争や陰謀が渦巻いていたことが分かる。勝ち上がって栄華を極める勝者の陰で、敗者は無念の涙を呑み怨念となって深い闇を作っていった。京都に観光に行くと、華やかな部分だけに目が向きがちだが、歴史の闇に埋もれていった人々の魂がこの地のそこここに漂っていることも、心の片隅に留めておくべきではなかろうか。







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