パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■夢窓疎石





 今回は、鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)の足跡を訪ねながら、関連する京都のお寺を紹介することにしたい。

 京都と言えば平安京以来の千年の都、そして有名な寺社がひしめく世界屈指の観光地である。京都観光の中心と言えば、そうした寺社を巡ることになるが、実は初めて都が置かれた平安京の時代には、条坊制の市街地の中にほとんどお寺がなかったのである。意外に思われるかもしれないが、それは朝廷が意図的に寺院を作らせなかったためである。

 奈良の平城京の時代に、東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)などの寺社勢力の政治介入を受けて来た朝廷は、平安京に遷都した際、こうした事態が繰り返されるのを避けるため、都の中に寺を造ることを禁じたのである。いやそもそも、平安京に移って来たのも、平城京における水不足という深刻な問題があってのことだが、奈良の寺社勢力からまぬがれたかったというのも、大きな理由の一つと言われている。

 従って、平安京の昔にあった市街地のお寺は、自然発生的に生まれたお堂のような小寺であり、大きなお寺と言えば、官寺として造営された東寺(とうじ)と西寺(さいじ)くらいだった。しかも、この両寺も町の中心ではなく、市街地の南端にあった羅城門(らじょうもん)近くに置かれた。

 当時皇族や貴族が造営した寺は郊外に建てられ、その多くは離宮や別荘から発展した私的な存在である。極楽浄土を願って自分用の阿弥陀仏(あみだぶつ)を祀り祈願するといった形式が多く、その性格上、政治介入するような宗教勢力は育たなかった。

 では、京の市中に自由にお寺が建てられるようになったのは、いつ頃からなのだろうか。それは、貴族による政治が衰退し、武家の支配する世になった鎌倉時代のことである。

 鎌倉時代には多くの新興宗派が生まれた。浄土宗(じょうどしゅう)、一向宗(いっこうしゅう)、時宗(じしゅう)、法華宗(ほっけしゅう)、そして禅宗(ぜんしゅう)などである。これらの新興仏教は、古くからある天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)などと激しく対立しながら、貴族や武家、そして町人などに広まった。その広がりと共に、京の中心部にも信仰の拠点が出来始め、次第にお寺が増えていったのである。

 このうち禅宗は、武家社会にも広く受け入れられ、京にも多くの禅寺が建てられた。夢窓疎石はそうした時代に登場し、多くの武家、公家から崇敬された高僧である。そして、幾つもの禅寺の創建に関わり、作庭技術に優れていたため、名園も残した。そんな夢窓疎石の足跡をたどる形で、ゆかりの場所を紹介しようというわけである。

 まず最初にご紹介するのは、東山区にある建仁寺(けんにんじ)である。祇園(ぎおん)の花見小路通(はなみこうじどおり)を南に下って行くと突き当りにあるお寺なので、「あぁ、あそこか」と思われる方も多いだろう。





 建仁寺は、鎌倉幕府2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)が創建した禅寺で、開山は代表的な禅宗である臨済宗(りんざいしゅう)の開祖、栄西(ようさい)が務めた。

 実際のところは、源頼家が主導したというより、栄西が働きかけて造られたものである。栄西は元々、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)出身の天台宗の僧である。国内の寺で学んだ後、海を渡って南宋(なんそう)に留学するが、そこで禅宗を学び、帰国する頃には禅宗の僧となっていた。

 国内で禅宗を広めようとするが、天台宗や真言宗の力が強くて難儀する。とりわけ京都においては比叡山延暦寺が絶大な宗教的影響力を持っており、栄西一人の力では思うに任せなかった。そこで頼ったのが鎌倉幕府というわけである。

 時の将軍のバックアップを得てようやく京都に建仁寺が建つが、当初は禅宗だけのお寺というわけにはいかず、天台宗や真言宗も信奉するお寺としてスタートした。純粋な禅宗の寺院となるのは、それから50年以上経ってからのことである。

 さて、この寺と夢窓疎石の関係は何かというと、夢窓疎石はここで禅を学んだのである。つまり禅僧としての本格的なスタートがこの寺だったということになる。

 夢窓疎石は伊勢に生まれ、幼くして出家している。当初は天台宗や真言宗を学んだが、途中で禅宗に転向し、建仁寺で住持の無隠円範(むいんえんぱん)から禅を学んだ。その後は、東日本を中心に転々と居を変えて修行を続けた。

 一方、建仁寺の方であるが、室町時代に応仁の乱(おうにんのらん)の戦火で焼失し、室町幕府の衰退もあって一旦は荒廃してしまう。その復興を行い中興の祖となるのが、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した安国寺恵瓊(あんこくじえけい)である。安芸の安国寺から方丈や仏殿を移築し、建仁寺の伽藍が再建され始める。

 安国寺恵瓊は臨済宗の禅僧であるが、むしろ武将としての方が有名だろう。中国地方屈指の戦国大名だった毛利家(もうりけ)の対外交渉役として活躍し、自らも兵を率いて戦った経歴を持っている。関ケ原の合戦で毛利家と共に西軍の中枢を担い、敗れて京の六条河原で斬首となった。その首塚は建仁寺境内にある。大河ドラマなどでもたびたび登場する人物なので、ご記憶の方も多かろう。

 建仁寺は徳川幕府の下でも再建が進み伽藍が整うが、明治期の廃仏毀釈により、寺勢は衰え境内も縮小している。最初の方に、花見小路通の南の突き当りにあると書いたが、四条通以南の花見小路通は、元は建仁寺の寺領だったのである。

 なお、当サイトは絵のサイトなので、建仁寺の所蔵品について少し触れておくと、琳派(りんぱ)の祖と言われる俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表作、風神雷神図(ふうじんらいじんず)は、この寺に伝わるものである。後の時代の琳派の代表的画家、尾形光琳(おがたこうりん)や酒井抱一(さかいほういつ)が、宗達のこの作品を模写して残している。

 他にも、全部で50面にも及ぶと言われる海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵が伝わっている。この襖絵は、戦国時代の荒廃から安国寺恵瓊が建仁寺を再建するに当たって海北友松に依頼したものであり、二人には親交があったと言われている。

 さて、次に紹介するのは、左京区にある南禅寺(なんぜんじ)である。歌舞伎の楼門五三桐(さんもんごさんのきり)で大盗賊の石川五右衛門(いしかわごえもん)が上って、煙管を吹かしながら「絶景かな、絶景かな」の名ゼリフを吐くのは、この南禅寺の三門である。武将の藤堂高虎(とうどうたかとら)が寄進したもので、玉鳳楼(ぎょくほうろう)の別名を持つ。





 元々この地には、鎌倉時代に後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が営んだ離宮があった。この離宮は、後嵯峨天皇の母である大宮院(おおみやいん)の御所として造営されたもので、近くにあった禅林寺(ぜんりんじ)の名にちなみ禅林寺殿(ぜんりんじどの)と呼ばれた。禅林寺と言われてもピンと来ないかもしれないが、紅葉の名所として知られる永観堂(えいかんどう)のことである。

 その後、息子の亀山天皇(かめやまてんのう)が深く禅宗に帰依するようになり、この離宮で出家して法皇となる。そして、禅林寺殿を寺に改めたのが、南禅寺の始まりとされている。創建当初は禅林禅寺(ぜんりんぜんじ)という名前だった。

 禅林禅寺の開山は、大明国師(だいみょうこくし)の名で知られる東福寺(とうふくじ)の住持、無関普門(むかんふもん)が務めているが、これには面白いエピソードがある。離宮だった禅林寺殿には、夜になると妖怪が出没したというのである。そこで無関普門が赴き、座禅、勤行など普段通りの禅宗の生活をしたところ、それ以後怪異は収まった。これにより、亀山法皇は無関普門に開山を頼むことになった。

 伽藍の完成には相当の年月が費やされ、その途中で開山の無関普門は亡くなっている。伽藍の完成後に、寺名は太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)に改められた。中国における禅の一派である南宗(なんしゅう)の禅を伝える寺という意味を込めての命名だったと言われる。ちなみに、今でも南禅寺の正式名称はこれである。

 南禅寺と夢窓疎石の関りが出来るのは、諸国を転々としていた夢窓疎石を、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が京に呼び寄せたことによる。そして後醍醐天皇は、夢窓疎石を南禅寺の住持に据えた。当時の後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すべく攻防を繰り広げていた頃で、夢窓疎石も京にじっとしていたわけでなく、諸国に足を運んでいる。やがて鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)が始まった頃、再度呼び寄せられた夢窓疎石が南禅寺の住持を再び務めることになる。

 夢窓疎石が南禅寺に残したものとしては、南禅院(なんぜんいん)の庭が有名である。前身となる禅林寺殿は上の御所と下の御所に分かれていたが、上の御所の一部に持仏堂が建てられていた。これが南禅院である。現在南禅寺の別院として南禅院が置かれているが、これは当初の南禅院を受け継ぐもので、南禅寺発祥の地とも言われている。南禅院の庭は、亀山法皇が造営し、夢窓疎石が受け継いで完成させたと言われている。





 池の中央には蓬莱島(ほうらいじま)がしつらえられ、池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)となっている。造営当初は、吉野山の桜や難波の葦、竜田の楓などが移植されていたようだ。この庭の傍らには、亀山天皇の分骨所が設けられている。

 さて、中国の南宋の皇帝が定めた寺格制度を取り入れた五山制度(ござんせいど)が鎌倉時代に国内にも出来たが、後醍醐天皇は南禅寺をその第一位とした。後に、室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が、自ら建立した相国寺(しょうこくじ)を五山の第一位にしようとして、南禅寺を別格に押し上げたため、以後は別格の扱いとなった。南禅寺は室町時代になってからも武家の篤い崇敬を集め隆盛を極めた。

 そんな南禅寺も、応仁の乱の戦火で灰燼と化してから暫くは、再建ままならない状態にあった。これを本格的に復興させたのは、江戸期に南禅寺住持に就任した以心崇伝(いしんすうでん)である。

 金地院崇伝(こんちいんすうでん)の名で知られる以心崇伝は、武家の出身であるが幼少期に南禅寺に入り、若くして複数の寺の住持を務めた後、鎌倉五山の第一位である建長寺(けんちょうじ)住持に就く。南禅寺住持となるのはその直後であり、37歳での就任だった。

 ほどなく以心崇伝は徳川家康に招かれて幕政に参画するようになる。元々優秀だったようで、相談役ではなく有能な実務家として数々の実績を上げた。徳川幕府初期に出された武家諸法度(ぶけしょはっと)などの重要法令も、彼が中心となって起草したものである。

 さて、南禅寺住持として再び京にやって来た夢窓疎石に対して、後醍醐天皇はある寺の開山を務めるよう依頼する。渡月橋(とげつきょう)のすぐ近くの桂川(かつらがわ)沿いにある臨川寺(りんせんじ)である。この寺は現在拝観を停止しているので、残念ながら境内に立ち入ることは出来ない。

 臨川寺のある地には長い歴史がある。

 元々は、南禅寺にも関りのある後嵯峨天皇とその子である亀山天皇が営んだ離宮である亀山殿(かめやまどの)の別殿がここにあった。川端殿(かわばたどの)と呼ばれたこの別殿はその後、亀山天皇の皇女である昭慶門院(しょうけいもんいん)の住居となる。そして、この昭慶門院によってここで養育されたのが、後醍醐天皇の皇子であった世良親王(よよししんのう)である。この時、世良親王は夢窓疎石からも教えを受けている。





 後醍醐天皇はご存知のように、足利尊氏(あしかがたかうじ)らと組んで鎌倉幕府を倒し、建武の新政を敷いた後に足利尊氏の離反に遭って南朝の初代天皇になった人だが、皇后のほかに多くの女性と関係を持っており、皇子の数も多かった。世良親王は、西園寺家(さいおんじけ)の女性との間に生まれた皇子だが、聡明で後醍醐天皇から期待を掛けられていたと伝えられる。

 やがて昭慶門院が亡くなると、世良親王はこの住居だけでなく多くの所領を昭慶門院から譲られる。しかし、その世良親王も、若くして病のために逝去してしまうのである。

 病を得た世良親王は、自らの住居を禅寺にすることを計画するが、生前にその願いはかなわず世良親王は亡くなる。その遺志を継いで、世良親王の菩提を弔うために父の後醍醐天皇が建立したのが、この臨川寺である。開山は夢窓疎石が務めた。

 その夢窓疎石もこの寺で没している。夢窓疎石と縁の深かった足利尊氏は臨川寺を、京都の寺格の中で五山に次いで位の高い十刹(じっせつ)に加えた。後世になって、室町幕府3代将軍足利義満の時代に五山に加えられたこともあり、その後も格の高い寺として扱われていた。しかし、応仁の乱で焼失して以降はかつての寺勢は失われ、再建された時期もあったものの衰退していったと伝えられる。

 さて、臨川寺の開山からほどなくして、現在の西京区にある松尾大社(まつのおたいしゃ)の宮司が夢窓疎石に対し、近くにある荒れた寺の住持への就任を依頼する。

 聖徳太子の別荘から出発し、奈良時代に聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願で東大寺の大仏建立を指揮した高僧の行基(ぎょうき)が寺へと改めた由緒ある古刹であるが、戦乱で荒れ果てた状態になっていた。

 夢窓疎石は、浄土宗の寺だったものを禅寺に改めて、西芳寺(さいほうじ)と名付ける。今では苔寺(こけでら)の通称で知られる世界遺産だが、残念ながら応募したうえで宗教行事に参加しないと拝観できない。





 西芳寺には、北朝の光厳天皇(こうごんてんのう)が足利尊氏を伴って訪れたほか、室町幕府3代将軍足利義満や8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が気に入って何度も参禅したと伝えられる。

 西芳寺は苔寺の別名を持つ通り、苔に覆われた庭園が素晴らしいと言われる。この庭園を造ったのは夢窓疎石である。しかし、夢窓疎石は庭を苔で覆うつもりはなく、彼の時代には今のような苔の庭ではなかった。苔に覆われたのは江戸時代以降といい、これは苔の生育に向いた環境が整ったお蔭で、自然発生的に苔がついたものらしい。育てようとしてもなかなか育たないものらしいが、それがこれだけ大規模に自生するとは、自然の妙味ということだろうか。

 ここまでのところで、夢窓疎石は、足利尊氏と対立していた南朝の中心、後醍醐天皇と親しい間柄だったことが分かるが、もう一方の足利尊氏自身とも良好な関係にあった。また、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕に取り組んでいた頃も、鎌倉幕府の執権(しっけん)を務める北条家と親しくしている。公家、武家双方から崇敬されていたのである。

 後醍醐天皇と親交のあった夢窓疎石が、同時に鎌倉幕府からも室町幕府からも慕われていた背景には、そもそも禅宗自体が武家から広く支持を集めていたという事情がある。

 最初の方に書いたように、奈良時代の仏教勢力は政治的な力を持っていて、自分たちに有利になるよう朝廷に政治的圧力を掛けた。また、僧兵という軍事力も持ち、朝廷に雇われていた武家とも対立する場面があった。平清盛(たいらのきよもり)の命を受け平氏の軍勢が東大寺や興福寺などの仏教勢力を焼討ちにした南都焼討(なんとやきうち)などは、その好例だろう。それに加えて、旧仏教勢力には職業としての僧侶のヒエラルキーがあり、それを支える膨大な学問と修行は、武家にはなかなか受け入れがたいものだった。

 鎌倉時代以降に勃興した新興仏教勢力の中では、浄土宗や法華宗のように一部の武家を惹き付けたものもあったが、禅宗は、高い精神性を持ち、経典などの知識に頼らず、簡素な形式の修行の中で自分自身を磨いていく点が、武家の生き方にうまく合っていたと言われている。

 上に書いた建仁寺の創建に当たって、臨済宗開祖の栄西を鎌倉幕府が助けたのも、旧仏教勢力への対抗のためだけではなく、自分たちもまた禅宗を信仰していたからだろう。禅宗の中でも臨済宗は武家の信仰が篤く、夢窓疎石も臨済宗の僧である。また、室町幕府が定めていた五山制度に選ばれた寺も、もっぱら臨済宗の寺院である。

 さて、そんな関係を念頭に置きながら、夢窓疎石と足利尊氏にまつわるお寺を幾つか紹介しよう。

 まず最初は、京都市北区にあり、石庭で有名な龍安寺(りょうあんじ)からもほど近い等持院(とうじいん)である。





 等持院は、現在の中京区三条高倉にあった等持寺(とうじじ)の別院であり、足利尊氏が創建し、開山は夢窓国師と伝わる。元は仁和寺(にんなじ)の一院であったという。

 ただ、本寺である等持寺については、その由来や位置付けがよく分からない。足利尊氏の創建という説がある一方で、尊氏の1歳違いの同母弟だった足利直義(あしかがただよし)が建てたものという説もある。いずれにせよ、本寺の等持寺の方は、応仁の乱で焼失し廃寺となっている。

 足利直義は、激情傾向にあった兄の尊氏と違い、沈着冷静で実務家タイプだったと言われる。室町幕府立上げに当たっては、二人の兄弟仲は良く、弟を信頼していた尊氏は軍事に集中し、政務面は弟の直義に任せていたようだ。このため、足利直義は副将軍とも言われていた。だが、軍事と政務を分けた二元的な統治体制にきしみが出て、やがて二人は対立し、弟の直義は兄の尊氏に捕らえられて幽閉され、ほどなく病で亡くなる。

 さて、現在も残っている別院の等持院だが、これがやがて室町幕府にとって重要な寺となる。足利尊氏が亡くなると、現在の北区にある真如寺(しんにょじ)で葬儀が行われたが、初七日から始まる一連の法要は等持院で行われ、墓所も等持院に建立されたのである。ちなみに真如寺も夢窓疎石が実質的に開いたお寺で、住持も務めている。

 尊氏の墓所は現在も等持院境内に残っているが、庭園の目立たない場所にひっそりとある。等持院内に尊氏の墓があると意識していないと、うっかり通り過ぎてしまいそうな簡素なたたずまいである。





 足利尊氏の墓所がここに営まれた縁で、等持院は、後の室町幕府歴代将軍の廟所となる。いわば足利家の菩提寺という位置付けである。境内の霊光殿(れいこうでん)には、歴代の室町幕府将軍の木像が安置されている。ぐるりと見て回ると、3代将軍義満の像が、立派な髭を蓄えて威風堂々としている印象であった。途中から権威を失ったと伝えられる室町幕府だが、徳川幕府と同じく15代も将軍が続いているというのは意外である。織田信長に擁立されて将軍に就任した足利義昭(あしかがよしあき)が15代目だったことを改めて知った。

 本寺の等持寺が応仁の乱で焼失すると、残った等持院の方が本寺という扱いになるが、その等持院自体もたびたび火災に遭い、幾度か再建されている。また、足利家菩提寺という性格上、室町幕府衰退後の寺勢はかなり衰えたようだ。

 戦国時代の荒廃の後、等持院を再興したのは、秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼(とよとみひでより)であるが、江戸期になると再び火災に遭い灰燼に帰している。現在の境内の建物のほとんどは、この火災の後、江戸期に建てられたものと言われている。

 こうして見ると、等持院は結構重要なお寺なのだが、あまり訪れる人はいないようだ。等持院の北には立命館大学があり、その更に北側には金閣寺(きんかくじ)や龍安寺、仁和寺などを結ぶきぬかけの路が通っているのだが、この道沿いには等持院の案内が見当たらない。等持院の南側に嵐電北野線(らんでんきたのせん)の等持院駅があるので、これが一つの目印だろうが、とにかく場所が分かりにくいお寺である。お蔭で静かに拝観できるメリットはあるが…。

 さて、等持院の庭は夢窓疎石が造ったものだと伝えられるが、異説もあるようだ。ただ、大小2つの島を擁する心字池をしつらえた構成は室町時代の代表的作庭手法らしく、夢窓疎石作庭の可能性は一応あるとは言える。





 上の写真の左上に見える建物は清漣亭(せいれんてい)という茶室であるが、これは尊氏の百年忌の際に新築されたもので、当時の将軍だった義政好みと言われている。

 ところで、足利尊氏の同母弟である足利直義について上の方で少し書いたが、直義のみならず、やがて尊氏自身の死にも関わって来る二人の対立について、少し書いておく。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれた一連の騒動には、夢窓疎石もからむことになる。

 この騒動に関係する人物として、弟の直義のほか、足利尊氏と共に鎌倉幕府滅亡に尽力した高師直(こうのもろなお)がいる。代々足利家執事を務める家柄で、師直は足利尊氏の側近中の側近だった。

 兄弟仲が良くお互いを信頼していた尊氏・直義兄弟だったが、軍事と政務を分離した二元的な統治の中で、直義と高師直が対立し始めるのである。軍事上、武家集団を束ねる高師直の目から見ると、政治的バランスを取るために時として公家や寺社に寄りがちな弟の直義の態度には許せないことが多かった。足利尊氏自身は、側近と弟の対立にどっちつかずの態度だったため、ついに両者は激突し、一旦弟の直義が引退して出家することになる。

 この騒動で夢窓疎石は、足利直義と高師直の和睦を仲介して、実質的に直義に引導を渡す役目を果たした。しかし、騒ぎはこれで終わらなかった。

 ここにもう一人の人物が登場する。足利尊氏と側室との間に生まれ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)である。中国地方にいた直冬は、直義の失脚を知り兵を集め出す。不穏な空気を感じ取った足利尊氏は、直冬討伐のため京を離れて西に向かう。

 その空白を利用して、出家していた弟の直義が大和地方に逃れ、敵だった南朝方と組んで京で反撃に出る。そして、京へ戻ろうとした兄の尊氏らを合戦で打ち破るのである。弟の直義の勝利という形で兄弟間で和睦し、高師直らは出家することになるが、その直後に高師直は一族もろとも殺害される。直義派の武将、上杉能憲(うえすぎよしのり)が、父を高師直らに暗殺された仕返しのために行ったものと言われている。

 かくして復権した直義だが、その執政はうまくいかず、カリスマ的魅力を持つ尊氏の側に配下の武将がなびき始め、やがて直義は再度の引退に追い込まれる。

 これをチャンスと見た兄の尊氏は、南朝方と和睦した後に弟の直義追討に取り掛かり、東国で直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。その直後に直義は病気で亡くなるが、毒殺だとも言われている。

 直義追討のために足利尊氏が東国に遠征している間に、今度は南朝が和睦を破って京を占拠する事態となる。これを何とか制圧した尊氏に対し、更に、九州探題(きゅうしゅうたんだい)となっていた足利直冬が、旧直義派を従えて攻めかかる。苦労の末に尊氏は撃破に成功するが、この時に受けた傷が元で、やがて尊氏は亡くなる。室町幕府初代将軍だった足利尊氏は、戦乱のうちに生涯を閉じたのである。

 この間、世は大いに乱れ、各地で合戦が行われた。夢窓疎石は足利直義が亡くなる前年、自らが開山した臨川寺で逝去した。享年76。歴代天皇から7度にわたって国師号を贈られた名僧の晩年は、戦乱の日々だったわけである。

 夢窓疎石と足利尊氏の関係を物語るお寺としては、もう一つ忘れてはいけない有名なお寺がある。嵐山(あらしやま)を代表する有名な古刹、天龍寺(てんりゅうじ)である。足利尊氏の創建で、開山と初代住職は夢窓疎石が務めている。





 天龍寺のある場所は幾度かの変遷があった地である。最初は平安時代初期に檀林寺(だんりんじ)というお寺が建てられた。建てたのは、檀林皇后(だんりんこうごう)の名で知られる嵯峨天皇(さがてんのう)の皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)である。

 橘嘉智子は名前の通り橘一族の出身で、同族には、奈良時代に聖武天皇の右腕として活躍した公卿である橘諸兄(たちばなのもろえ)がいる。橘氏は古代から続く豪族ではなく、この橘諸兄の母親から始まる新しい家系である。この母親の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)はおそらく渡来系の人で、橘諸兄はこの母親と皇族の間に生まれている。

 檀林皇后は絶世の美女だったと伝えられるが、同時に仏教に対する深い信仰があったことでも知られている。亡くなる際に、自分の遺体を路上に放置せよと遺言し、遺体が醜く朽ち果てていく様を人々に見せ、絵師にも描きとらせた。この絵は今でも残っており、死体の変化のさまを段階的にとらえたところから檀林皇后九相図(だんりんこうごうくそうず)と呼ばれている。人々に世の無常を説くための行いだったという。

 さて、それほど熱心な仏教信奉者だった檀林皇后が建てた檀林寺だが、檀林というのは僧侶を要請するための学問所の意味である。ここでいう檀とは「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し」のことわざで知られる栴檀のことである。

 この檀林寺が意義あるのは、おそらく京で初めて禅について講じられた場所であることだ。檀林皇后は唐から禅僧の義空(ぎくう)を迎えて檀林寺で禅について講義をさせた。しかし、まだまだ禅への関心は薄く、義空は唐へ帰ってしまう。禅が本格的に日本で関心を呼ぶのは、時代が下って鎌倉時代になってからである。そうした意味では、早過ぎた講義だったのかもしれない。

 さて、その檀林寺もやがて平安時代のうちに途絶えてしまう。檀林皇后の名は檀林寺を建てたがゆえに付けられたもので、それほど名の知られた寺であったにもかかわらず、意外と命は短かったわけである。現在嵯峨野に檀林寺を名乗る寺があるが、これは檀林皇后の建てた檀林寺を偲んで昭和の時代に建てられたものであり、直接の関係はない。

 鎌倉時代になり、後嵯峨天皇が退位して上皇になった際、荒廃していた檀林寺の地に仙洞御所(せんとうごしょ)を造営する。仙洞御所というのは、退位した天皇の住まいのことである。この仙洞御所は、子である亀山天皇にも引き継がれた。これが臨川寺のところで少し出て来た亀山殿である。ここにいう亀山とは、近くにある小倉山(おぐらやま)の別名である。

 この後嵯峨天皇、亀山天皇辺りの皇位継承の揉め事が、やがて天皇家分裂の発端になる。

 後嵯峨天皇は息子に皇位を譲り後深草天皇(ごふかくさてんのう)が誕生する。その後院政を敷いていた後嵯峨上皇は後深草天皇に対し、弟に皇位を譲るよう促す。こうして誕生したのが、亀山天皇である。そして、亀山天皇の息子を皇太子にしたところで、後嵯峨上皇は明確な後継指名を敢えてしないまま亡くなる。

 この頃は鎌倉幕府による朝廷への介入が進んでいたため、次期天皇を誰にするかの判断は幕府に持ち込まれ、一旦は亀山天皇の息子が即位したが、自分の方が兄なのにその息子が天皇になれないことを恨みに思った後深草上皇が巻き返しを図る。この辺りから兄弟の争いが泥沼化し、やがて幕府は、両方の系統から交互に天皇を出すことにする。いわゆる両統迭立(りょうとうてつりつ)だが、この時、兄の後深草天皇の系統を持明院統(じみょういんとう)と言い、弟の亀山天皇の系統を大覚寺統(だいかくじとう)と言った。こうした中で、持明院統の花園天皇(はなぞのてんのう)の後継として大覚寺統から出て来たのが、先ほど臨川寺のところで少し触れた後醍醐天皇という関係になる。

 天龍寺は、室町幕府を開いた足利尊氏が亀山殿を寺に改めたもので、その創建の経緯には後醍醐天皇と夢窓疎石が関係している。





 後醍醐天皇はわずか31歳で天皇に即位した。彼は早くから鎌倉幕府を倒すことを目論んでいたと言われており、即位後6年目には最初の倒幕計画が発覚している。この時は、持明院統の有力公家である日野資朝(ひのすけとも)らが捕らえられただけで終わったが、再度の倒幕計画露見の折には、身に危険が及ぶと判断して後醍醐天皇自ら挙兵した。しかし、軍事力で劣る後醍醐天皇は捕らえられ隠岐島に配流となる。

 その後、再度の挑戦で隠岐島から脱出した後醍醐天皇が鳥取で地元の武将らと挙兵した際、幕府側から追討の命を受けてやって来たのが、足利尊氏なのである。しかし、ここで足利尊氏は後醍醐天皇に同調し、幕府に反旗を翻す。その直後、東国で新田義貞(にったよしさだ)が挙兵し、ついに鎌倉幕府は滅びることになる。後醍醐天皇のみならず、北条氏に不満を持つ勢力がたくさんいたということだろう。

 後醍醐天皇は、幕府を廃止して自らが政治を行うと共に、両統迭立を反故にして持明院統を排除し、自分の子孫が皇位を継承していく形にする。こうした天皇中心の政治体制の復活が建武の新政であるが、性急で復古的な政治の在り方には武家から不満の声が上がり、約束を反故にされた持明院統の皇族・貴族のみならず、公家や寺社勢力からも反発の声が出た。そこに政策の失敗が重なり、ついに足利尊氏が反旗を翻し、建武の新政から離反する。

 後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、ここから後醍醐天皇方と足利尊氏方の争いが展開されることになる。やがて、現在の神戸で行われた有名な湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で、後醍醐天皇方の新田義貞と楠木正成(くすのきまさしげ)が足利尊氏軍に破れ、後醍醐天皇方の敗北が確定した。

 足利尊氏は持明院統から天皇を立て、後醍醐天皇は幽閉される。しかし、幽閉先からの脱出に成功した後醍醐天皇は吉野山に逃れ、自ら朝廷を開く。これが南朝であり、それから60年近く、京都の北朝と吉野の南朝とが独自に天皇を立てる南北朝の時代となる。やがて室町幕府3代将軍の足利義満の斡旋で南北朝が再び合体するまで、南朝では、後醍醐天皇以降、後村上天皇(ごむらかみてんのう)、長慶天皇(ちょうけいてんのう)、後亀山天皇(ごかめやまてんのう)の計4人が南朝の天皇を務めた。

 さて、その後醍醐天皇であるが、京の都に帰ることを願いながら南朝を開いて3年後に吉野山で崩御した。臨終に当たり「玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という言葉を残している。北闕は京にある御所を指している。陵墓は吉野山の如意輪寺(にょいりんじ)に造営された。塔尾陵(とうのおのみささぎ)と呼ばれる陵墓には、奈良散歩記で吉野山を訪れた際に立ち寄っている。

 歴代天皇の陵墓は「天子は南面す」という古代中国の思想に基づいて南を向いているが、後醍醐天皇の陵墓だけは北向きに造られている。吉野からは、北の方向に京があるからである。このため、北面の陵とも呼ばれている。

 京に帰ることなく無念のうちに逝去した後醍醐天皇の菩提を弔うために新たに寺を造るよう足利尊氏に進言したのは夢窓疎石である。尊氏にとって後醍醐天皇は宿敵だったが、一時は共に鎌倉幕府打倒を掲げて戦った仲でもある。尊氏は、夢窓疎石の進言に従い亀山殿を寺に改めることにした。天龍寺でもらったパンフレットによれば、亀山殿は後醍醐天皇が幼少期を過ごした場所でもある。





 しかし、戦乱による財政ひっ迫のおり、造営の費用は寄進だけでは賄えず、途絶えていた元(げん)との貿易を再開して造営費用を捻出することになった。こうして就航したのが有名な天龍寺船(てんりゅうじぶね)である。

 寺名は当初、暦応資聖禅寺(れきおうしせいぜんじ)と定められたが、先ほど出て来た尊氏の弟、直義が、寺の南を流れる桂川に龍が舞う夢を見たことから天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)に改められる。これが現在の正式の寺名であり、天龍寺は略称ということになる。

 やがて天龍寺は、五山の第一位に列せられる。寺域も広く多くの子院を抱えて栄えたが、応仁の乱を含め、たびたび火災に見舞われた。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)の名で知られる幕末の戦乱、禁門の変(きんもんのへん)でも大きな打撃を受け、現存ある伽藍の大部分は明治期以降に再建されたものである。

 上の写真に掲げた天龍寺の庭は、夢窓疎石の作と言われている。

 曹源池(そうげんち)という大きな池の周りに広がる池泉回遊式庭園で、左手に嵐山、正面に亀山(小倉山)、そして右手の遠方に愛宕山(あたごやま)を借景としている。

 傍らの案内板によれば、曹源池を挟んだ対岸に巨石を配しているが、これを龍門の滝(りゅうもんのたき)と言うらしい。中国の故事にある登龍門(とうりゅうもん)に由来するようだが、これは、足利直義が桂川に龍が舞う夢を見たことを踏まえての意匠なのだろうか。

 ところで、この池の名前が曹源池となったのは、夢窓疎石が池の底をさらえたところ、泥の中から曹源一滴(そうげんいってき)と刻まれた石碑が出て来たことにちなんだものという。この曹源一滴は禅に由来する言葉であり、曹源の曹は、達磨(だるま)に始まる禅を大成した慧能(えのう)という僧のことである。幾つもの流派に分かれる禅宗も、元をたどれば慧能という一滴の水から始まるという意味で、その本質を忘れないよう戒めた言葉だと言われている。

 それにしてもこの石碑、いったい誰が刻んだものなのだろうか。

 夢窓疎石と足利尊氏の関係を物語る話として、もう一つ紹介しておきたい。夢窓疎石は、後醍醐天皇を含め一連の戦乱で命を落とした者たちの菩提を弔うため、各国にお寺と塔を建てるよう進言した。

 お寺は安国寺(あんこくじ)、塔は利生塔(りしょうとう)と名付けられ、ほぼ全国に設けられた。最初に建仁寺のところで出て来た安国寺恵瓊も、この時に安芸国(あきのくに)に建てられた安国寺にちなんで名付けられたものである。安国寺恵瓊は安芸の安国寺の住持だったのである。

 ただ、安国寺や利生塔も、室町幕府の衰退と共に荒れていく。京都の安国寺は現在の四条大宮に建てられたが、応仁の乱で焼失し廃寺となっている。この京都の安国寺で幼少の頃に修行をしたのが、一休さんの名で知られる禅僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)である。アニメなどに出て来る小坊主としての一休さんは、一休宗純が安国寺にいた頃のことをモデルにしている。

 さて、上に書いたように、夢窓疎石は室町時代初期に亡くなったが、公家、武家からはその後も長らく慕われた。彼の死後に建立されたお寺で、夢窓疎石が名目上の開山になっているものが幾つかある。こうした開山を勧請開山(かんじょうかいさん)というが、代表的なものを幾つか挙げておこう。





 まずご紹介するのは、上の方で紹介した西芳寺(苔寺)の近くにある地蔵院(じぞういん)である。

 地蔵院は、室町幕府の管領(かんれい)を務めた細川頼之(ほそかわよりゆき)が創建したとされる。管領は将軍を支える幕府最高の役職で、細川頼之は室町幕府3代将軍足利義満を補佐した。管領という役職が実質的に機能し始めたのは、幼少の足利義満を補佐したこの細川頼之の頃からだと言う。

 その後は、斯波(しば)、細川(ほそかわ)、畠山(はたけやま)の足利一門の3家が、管領の職を交代で務めることとなる。これを三管領(さんかんれい)と言うが、やがて京に壊滅的打撃を与えることになる応仁の乱は、将軍の後継ぎ問題にまつわる、管領の細川家と有力守護大名の山名(やまな)家の対立に加え、残る管領の斯波家、畠山家における継嗣問題が複雑に絡み合って起きることになるのである。

 さて、細川頼之についてだが、この人は有力な武将でありながら、幼少の頃、夢窓疎石の影響を受けて禅宗に傾注しており、後に夢窓疎石の弟子である碧潭周皎(へきたんしゅうこう)に帰依して出家している。ただ、出家したからといって幕府に関わらなくなったわけではなく、僧侶の立場ではあったが、幕政に参画している。

 地蔵院の開山は、実質的には碧潭周皎によるものだが、碧潭周皎は開山を夢窓疎石によるものとし、自らは二世となった。

 先ほど京都の安国寺にちなんで、一休宗純の話をしたが、一休は6歳になるまでこの地蔵院で育った。一休は後小松天皇(ごこまつてんのう)の隠し子とされ、生まれは地蔵院近くの民家だったようだ。

 境内は鬱蒼とした竹林の中にあり、非常に美しい寺である。嵯峨野の竹林の道もいいが、静けさという点では地蔵院の方が勝っているように思う。

 次に紹介するのは、現在の京都御所の北側、同志社大学の北にある相国寺(しょうこくじ)である。あまり観光客も立ち寄らない地味なお寺なのだが、室町幕府にとっては重要な位置付けの寺である。





 相国寺を創建したのは、室町幕府3代将軍足利義満である。地蔵院を創建した細川頼之が、管領として義満を補佐している。

 上に書いた観応の擾乱の話で、初期の室町幕府は戦の絶えない不安定な状況だったことが分かるが、足利義満の時代になってようやく基盤がしっかりし、政治的にも文化的にも一つの最盛期を迎えることになる。

 父の足利義詮(あしかがよしあきら)が亡くなって将軍職を継いだ時、義満はまだ11歳だった。その後、細川頼之らの補佐を受けながら権力地盤を固めていき、やがて居宅を、三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの)から室町通(むろまちどおり)に面した場所に移した。室町殿(むろまちどの)とも呼ばれたこの邸宅は、花の御所(はなのごしょ)の通称でも知られ、通りの名前から付いたのが室町幕府というわけである。

 御所をしのぐ広さの邸宅に鴨川から水を引いて庭園を造り、そこに各地の大名から献上された花の咲く木々を植え、皇族・貴族を招いて歌会や蹴鞠を楽しんだ。花の御所の名はこうした華やかな邸宅の有様から名付けられたものだという。

 この花の御所だが、その後の将軍の代にも使われたものの、応仁の乱により焼失する。小規模ながら再建が試みられたりしたようだが、室町幕府の衰退と共に跡形もなく消滅した。現在では今出川通(いまでがわどおり)沿いにひっそりと石碑が残るのみである。

 さて、花の御所を造営した義満は更に、その隣に禅宗の大寺を建立する計画を立てる。そしてこの寺の開山を頼んだのが、夢窓疎石の弟子だった禅僧の春屋妙葩(しゅんのくみょう)である。義満は将軍職を継いだ年に、天龍寺住持だった春屋妙葩を禅の師と定めて頼りにしていた。

 ただ、春屋妙葩は開山の役を辞退し、既に亡くなっていた自分の師の夢窓疎石を開山とするよう頼む。義満はこれを受け入れて勧請開山を夢窓疎石とし、住持として春屋妙葩を迎えることにする。





 寺名については、当時左大臣の地位にあった義満の官位を踏まえ、中国では左大臣を相国と言うことから、相国寺という名を春屋妙葩が提案した。当時の中国にも、大相国寺という名の寺があり、それも参考にされたようだ。

 後小松天皇(ごこまつてんのう)の勅許を得て春屋妙葩が指揮を執る中、伽藍の建設が始まった。義満が力を入れた壮大な建設計画で、予定地内の公家屋敷は、身分の如何にかかわらず強制的に立退きを迫られたという。費やした歳月は約10年。その完成を見る前に春屋妙葩はこの世を去っている。

 かくしてようやく伽藍の完成を見たものの、そのわずか後に火災に見舞われ、全てが灰燼に帰してしまう。義満はすぐさま再建に取り掛かり、再建時には100mを越える七重の大塔を新たに加えた。しかし、この塔も数年のうちに落雷により失われている。

 義満の相国寺への思い入れは強く、相国寺を無理やり京都五山の第一位に押し込む。この時、それまで第一位にいた南禅寺は押し出されて京都五山の別格扱いになった。しかし、義満が亡くなると、一位と二位が入れ替えられ、一位は天龍寺で、相国寺は二位となっている。南禅寺はその後も別格扱いとなった。

 このサイトは絵にまつわるサイトなので一言触れておくと、水墨画で有名な室町時代の僧、雪舟(せっしゅう)はこの相国寺で修業をした。本格的に絵を習ったのも、相国寺にいた周文(しゅうぶん)からで、この人は僧であると同時に、室町幕府に仕える職業絵師でもあった。

 さて、そんな相国寺も、応仁の乱を含めて幾度か火災に遭い、創建当時のものはほとんど失われてしまった。現在残る伽藍の復興が行われたのは、豊臣秀吉や徳川家康とも交流のあった西笑承兌(さいしょうじょうたい)が住持だった時代と言われている。上の方の写真にある法堂(はっとう)は、この時に豊臣秀頼の手により再建されたもので、西笑承兌は相国寺中興の祖とされている。

 法堂の天井には、有名な蟠龍図(ばんりゅうず)が描かれている。これは、狩野派(かのうは)の絵師、狩野光信(かのうみつのぶ)作と伝えられるが、「鳴き龍」の別名を持っている。中央に安置された釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の脇で手を叩くと、天井の龍の鳴き声がその人にだけ聞こえるというものである。お寺の方の指導で私もやってみたが、不思議なことにそこでだけ残響が出る。それが龍の鳴き声というわけだが、この特殊なスポットをよく見つけたものだと感心する。

 ところで、この相国寺境内には面白いものがあるので、ついでに紹介しておこう。宗旦稲荷(そうたんいなり)と言われるお稲荷さんで、鐘楼の脇にある。





 ここでいう宗旦(そうたん)とは、千宗旦(せんのそうたん)のことである。

 千宗旦は、わび茶を完成させた茶聖、千利休(せんのりきゅう)の孫である。利休が豊臣秀吉により切腹を命じられた後、その息子の千道安(せんのどうあん)、後妻の連れ子で養子の千少庵(せんのしょうあん)の二人も蟄居となって千家は取り潰し状態となる。数年の後、許されて自由の身となった二人はそれぞれ、利休ゆかりの堺と京に住む。

 堺に移った息子の道安は若くしてこの世を去り、堺の千家は途絶える。一方の千少庵は京に住んでいたが、その息子が千宗旦なのである。

 宗旦は出家して大徳寺にいたが、父に呼び戻され、京の千家の家督を継ぐことになる。 その後、宗旦は利休流のわび茶の普及に努め、弟子も増やした。宗旦には4人の息子がいたが、折り合いの悪い長男を除いて、残りの3人がそれぞれ新たな家を興すことになる。これが今日に伝わる表千家(おもてせんけ)、裏千家(うらせんけ)、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)の三千家である。従って、宗旦は三千家の祖ということになる。

 ここで宗旦狐(そうたんぎつね)の登場である。

 千宗旦は相国寺の茶会でたびたび茶を点てた。相国寺には当時、年老いた狐が棲んでいたが、宗旦のお点前に憧れて、宗旦に化けて茶会に出るようになる。これが宗旦狐なのだが、その腕前は見事で本物の千宗旦とも引けを取らない出来栄えだった。

 しかし、やがて正体がばれて、宗旦狐はもう二度とやらないとみんなに侘びて姿を消す。一同はお点前が見事だったのでそれ以上深追いせずに、宗旦狐を許してやったという。

 その後、宗旦狐は僧に化けて時々相国寺で修行を積み、寺の助けをした。寺の者は気付いていたが、手助けをする宗旦狐を許してそのままにしていた。

 ある時、商売がうまくいかなくなった門前の豆腐屋を宗旦狐が助けた際、豆腐屋がお礼にとネズミを天ぷらにして出してくれた。それを食べた宗旦狐は霊力が失われ、人間に化けられなくなる。やがて、普通の狐に戻った宗旦狐は命を落とすことになるが、ここまで様々に手助けをしてくれた宗旦狐を偲んで、相国寺が稲荷を建てる。これが宗旦稲荷なのである。

 この宗旦稲荷は相国寺のパンフレットにも載っているし、境内にも案内板がある。何とものどかでほほえましい話である。

 室町幕府3代将軍足利義満が建立し夢窓疎石が勧請開山となったお寺としてもう一つ紹介しておこう。但しこれは、義満の遺言で寺となったもので、生前は、引退した義満の山荘だった。





 正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)だが、一般にはその舎利殿(しゃりでん)の名前を取った金閣寺の通称の方が有名だろう。舎利殿は釈迦の遺骨・遺灰またはその代用品を収める建物である。

 この地には元々、平安末期から鎌倉時代にかけての公卿だった西園寺公経(さいおんじきんつね)が建てた氏寺、西園寺(さいおんじ)があった。西園寺公経は藤原家の血筋であり、小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者で和歌の名手だった藤原定家(ふじわらのていか)の義理の弟に当たる人物である。

 西園寺家は鎌倉幕府と深い関係にあり、藤原摂関家に匹敵する権勢を誇った。そのため氏寺の西園寺も壮麗な様相を誇ったと伝えられるが、鎌倉幕府滅亡と共に西園寺家も衰退し、西園寺もかつての勢いを失った。

 この荒れ果てた西園寺を手に入れて山荘に改装したのが足利義満である。義満は、37歳になると出家し、わずか9歳だった息子の義持(よしもち)に将軍職を譲る。自身も父の死により幼少で将軍職を受け継いだことから、政権も安定化した状態だったので、それで良しと決意したのであろう。そして、自らは引退し、新しい生活を目指す。そのための拠点として手に入れたのが西園寺というわけである。

 義満の将軍職引退後まもなく、西園寺を山荘に替える工事が始まる。こうして出来た義満の山荘は、北山殿(きたやまどの)、あるいは北山第(きたやまだい)と呼ばれた。また、義満は亡くなるまでこの山荘を本拠としたので、義満自身も北山殿と呼ばれるようになった。

 この山荘を造営するに当たり義満が手本としたのは、自身が気に入って何度も参禅した西芳寺(苔寺)である。上に書いた通り、西芳寺は夢窓疎石が浄土宗の古刹を禅寺に改め住持として入った寺であり、その作庭も夢窓疎石が担った。

 西芳寺は一般の拝観を行っておらず、私自身、境内を見たことがないので、義満がどういう形で西芳寺の様式を取り入れたのかは分からない。ただ、夢窓疎石と違って義満は時の権力者であったため、山荘造営に当たり、諸大名が名石などを競って寄贈したと言われ、金閣に限らず園内は豪華なたたずまいである。

 現在金閣がほとりに建つ鏡湖池(きょうこち)には、大小様々な島や巨石が配されて、室町時代を代表する池泉回遊式庭園となっている。その規模と美しさだけでも、当時の義満の力を知るには充分である。

 当時の名残の一つとして、方丈と書院にはさまれた場所に陸舟の松(りくしゅうのまつ)がある。





 義満お手植えと伝えられるが、大原の宝泉院(ほうせんいん)にある五葉の松(ごようのまつ)、西京区にある善峯寺(よしみねでら)の遊龍の松(ゆうりゅうのまつ)と並んで、京都三松に数えられている。道の反対側にある金閣に見とれて通り過ぎる人も多いが、なかなか見事で一見の価値はあると思う。

 さて、義満は将軍職を手放したものの政治上の実権は握り続け、様々な政務が北山殿で行われた。当時貿易を行っていた明(みん)との交流も北山殿を舞台に行われたほか、将軍時代に花の御所で行っていた行事も、北山殿で行うようになる。こうして北山殿を中心にして、京に昔からあった公家の文化と、新しく京の実質的支配者となった武家の文化が融合し、そこに禅宗と明からの異国文化が混ざって、一つの新しい文化の隆盛が生まれる。これを北山文化(きたやまぶんか)と呼んでいる。

 金閣自体も、一層は寝殿造(しんでんづくり)で、二層が武家造(ぶけづくり)、そして最上階の三層が中国風の禅宗仏殿造(ぜんしゅうぶつでんづくり)と、東山文化の特徴をそのまま表すような構造になっている。

 そんな義満も病に倒れ、北山殿で死去する。享年51。その後、義満の遺言により、北山殿は禅寺に改められた。寺名は、義満の法号である鹿苑院殿から鹿苑寺と名付けられ、開山については夢窓疎石が勧請開山となった。

 鹿苑寺の位置付けは、先ほど紹介した相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。禅寺に、ゆかりの高僧を偲んで小院が建てられることがあるが、これを一般に塔頭と呼んでいる。塔頭は通常、本寺の境内や隣接地に設けられるが、時として離れた場所に営まれることがあり、これを山外塔頭と呼んでいる。鹿苑寺はこれに当たるわけで、現在でも鹿苑寺住持は相国寺の僧が務めている。

 鹿苑寺のその後であるが、他の京都の寺と同様、応仁の乱で多くの建物を失うものの、江戸時代になると再建が進み、伽藍が整えられる。ただ、戦後になって、中心施設である金閣が放火で焼失している。これは、同寺の見習い僧の犯行によるものであり、この事件を題材に三島由紀夫(みしまゆきお)が小説「金閣寺」を書いている。

 金閣については、明治期の大修理の際に詳細な図面が作られていたため再建が計画され、創建当初の姿に建て直された。焼失前には金箔は剥がれ落ちて残っていなかったが、再建に当たって金箔が貼られ、今のような姿となっている。焼失前は国宝であったが、現在の金閣はこうした経緯で新しく建てられたものであるため、国宝でも重要文化財でもない。

 3代将軍足利義満によるものではないが、もう一つ、夢窓疎石が勧請開山になっている有名寺院を紹介しておこう。金閣寺と並び称される銀閣寺(ぎんかくじ)であるが、正式名称は慈照寺(じしょうじ)と言う。こちらは、室町幕府8代将軍の足利義政の手になるものである。





 慈照寺の成り立ちは、鹿苑寺の成り立ちと非常によく似ている。

 元々、東山の麓のこの地にあったのは浄土寺(じょうどじ)という天台宗の寺である。平安時代の天台宗の高僧、円珍(えんちん)が住持をしたという古刹だった。円珍は比叡山延暦寺の座主を務め、三井寺(みいでら)の名で知られる滋賀県の園城寺(おんじょうじ)を再興したことで知られている。

 室町時代には、6代将軍だった足利義教(あしかがよしのり)の子、義躬(よしみ)がこの浄土寺で出家し、義尋(ぎじん)と号して浄土寺門主となっている。しかし、嗣子に恵まれない兄の8代将軍義政が義尋を呼び戻し、養子にした。これにより義尋は僧籍を離れ、足利義視(あしかがよしみ)と名乗り、将軍後継となる。

 8代将軍義政は、3代将軍だった義満同様、わずか8歳で将軍に就任している。管領だった畠山持国(はたけやまもちくに)に補佐されながら幕政を進めるが、様々な利害対立が絡む中で実権を思うように掌握できず、義政自身は次第に政治に興味を失っていったと言われている。

 ところが弟を養子にした後、思わぬことが起きる。義政に男子、義尚(よしひさ)が生まれるのである。義政の妻の日野富子(ひのとみこ)は実子の義尚に家督を継がせようとし、有力守護大名の山名宗全(やまなそうぜん)と手を組む。一方の義視は、管領だった細川勝元(ほそかわかつもと)にすがることになる。

 この将軍後継問題を巡る山名・細川の対立に加えて、三管領の残り二つ、斯波家、畠山家における継嗣問題が複雑に絡んで起こるのが、京に壊滅的打撃を与えることになる応仁の乱である。上に書いたように、この乱のために多くの京の寺社が焼け落ちることになる。浄土寺もまた灰燼に帰すのである。

 現在銀閣寺の山門の左隣に浄土院(じょうどいん)というお寺があるが、これは、浄土寺の跡に残っていた草堂を元に、新たに浄土宗の寺として復興させたものである。現在この浄土院は、五山送り火(ござんのおくりび)のうち如意ヶ嶽(にょいがたけ)の大文字を管理する寺となっていて、大文字寺(だいもんじでら)の別名がある。また、浄土寺の名前は付近の町名にも残っている。

 応仁の乱は分かりにくい紛争であり、本来事態を収めるべき立場の将軍義政は、政治に興味を失って当初中立的立場に立ったばかりか、戦乱が続いているのに山名宗全と細川勝元が亡くなったところで、将軍職を実子の義尚に譲り、自らは隠居してしまう。この時、義尚はわずか9歳だった。

 将軍引退後の義政は、隠居する場所として浄土寺跡に山荘の建設を始める。この山荘は東山殿(ひがしやまどの)と呼ばれた。義政もまた、3代将軍だった義満同様、夢窓疎石が実質的に開いた西芳寺を気に入って幾度も訪れ、参禅している。このため、東山殿を建てるに当たり、西芳寺と鹿苑寺の両方を手本にしたと伝わる。





 義政の政治的手腕には色々問題があったが、文化面では優れた業績を残している。若い頃から京都五山の僧たちと交流する中で文化面での造詣を深くしていったのである。この時代は戦乱が断続的に続いていたが、一方で茶道や華道、枯山水を中心とする作庭などの文化が花開いた。時代を反映してか、侘び(わび)や寂び(さび)が重視され、華やかだった北山文化とは趣が異なる。この時代の文化を、義政の東山殿にちなんで東山文化(ひがしやまぶんか)と呼んでいる。

 さて、東山殿時代の義政だが、若年の将軍義尚を補佐するため山荘で政務を行うものの、やがて義政・義尚父子の仲は悪くなり、義政は出家して完全に政務から離れることになる。ところが、義尚は合戦の陣中でわずか25歳で病死してしまう。義政は一旦政権復帰を決意するものの、自らも体調を崩して断念。仕方なく、対立したままとなっていた弟の義視と和解し、その子、義稙(よしたね)を次期将軍に立てることになる。

 義政自身は、息子の義尚が亡くなった翌年にこの世を去る。享年55。まだ東山殿は建設途上であったという。

 義政の遺命により、東山殿を寺に改め菩提を弔うこととなった。寺名は鹿苑寺同様、義政の院号である慈照院殿にちなみ慈照寺となった。慈照寺もまた相国寺の山外塔頭である。そして開山もまた、夢窓疎石の勧請開山とされた。

 慈照寺はその後、戦国時代の兵火でわずかを残して焼失する。その後も荒廃が進み、再興されるのは江戸時代に入ってからである。

 銀閣は、慈照寺の観音殿(かんのんでん)であるが、これを建てるに当たり8代将軍義政は3代将軍だった義満が建てた鹿苑寺の金閣をたびたび見に行ったという。金閣創建当初の部材の調査により、金閣には金箔が貼られていたことが明らかになっているが、銀閣には銀箔が貼られた跡がない。足利義満は義政の祖父に当たる人だから、義政が訪れた当初の金閣には、金箔がさして剥がれ落ちずに付いていたと思われるが、どうして銀閣の方には銀箔が貼られなかったのだろうか。東山文化が重視した侘びや寂びの文化と、銀箔とが相いれなかったのだろうか。いずれにせよ、義政はこの銀閣の完成を見ることなく亡くなっている。

 ところで、先ほど戦国時代の戦火で慈照寺のほとんどの建物が燃え落ちたと書いたが、この銀閣と東求堂(とうぐどう)だけは残り、今日まで伝えられている。上の二枚の写真が、それぞれ銀閣と東求堂である。このため、金閣は国宝でも重要文化財でもないが、銀閣は国宝に指定されている。

 さて、幾つかのお寺を紹介しながら夢窓疎石の足跡を見て来たわけだが、建仁寺に始まり、南禅寺、西芳寺(苔寺)、天龍寺、金閣寺、銀閣寺など、誰でも知っている京都の有名寺院が夢窓疎石ゆかりの寺だということが分かってもらえたのではないか。

 夢窓疎石ゆかりでないにせよ、臨済宗の禅寺は京都市内に多い。大徳寺(だいとくじ)、高台寺(こうだいじ)、東福寺、妙心寺(みょうしんじ)、龍安寺などの著名寺院は、全て臨済宗の禅寺である。

 こうして見ると、千年の都の基礎となった平安京は天皇家と貴族が造り、藤原摂関家に代表される貴族こそが京文化の中心であるかのように思いがちだが、市内に多くの寺が造られたのは武家の世になってからであり、それを後押ししたのは、京に幕府を構えた室町幕府だったことが分かる。

 そう言えば、京都という名前が生まれたのも鎌倉時代以降のことであり、京洛も同じである。我々が今日見ている京都という街の成長にとって、貴族と同様、あるいはそれ以上に、武家の存在は重要だったのである。







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