パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■祇園祭と四条界隈 |
大阪に住んでいた頃、7月になると京阪電車の駅などでコンチキチンの祇園囃子(ぎおんばやし)が流れていた。これを聞くと、あぁ祇園祭(ぎおんまつり)かぁと少し懐かしい気分になったものだ。祇園囃子は和太鼓、横笛、鉦(かね)の組合せで奏でられるが、これはそれぞれの鉾町(ほこちょう)の町衆が演奏している。各鉾町には会所があり、夜になると練習が始まる。そのお囃子が聞こえて来るだけで、京都の街は華やぐのである。 7月は祭りのシーズンである。大阪では天神祭(てんじんまつり)、京都では祇園祭ということになる。私は大阪にいた頃、天神祭を見る機会が2回あったが、いずれも見逃している。1回目は、夜予定があって別の場所にいた。2回目は、会議があって東京にいた。どうも縁がなかったようだ。 祇園祭も山鉾巡行が平日なので見に行くことが出来なかったのだが、長い期間のお祭なので、それなりに触れる機会があった。今回は、京都の夏を彩る祇園祭にまつわる話などを綴ってみたい。 祇園祭というと、一般の人はまず山鉾巡航が思い浮かぶのだろうが、あれは後で付け加えられたもので、千年以上の歴史を持つこの祭の元々の起こりは、平安時代に行われた疫病を封じるための祈祷行事であった。京都の夏は高温多湿で、平安の昔は衛生状態も悪い。梅雨の頃には様々な病気がはやって多くの人が亡くなった。当時の考えでは、こうした疫病は、政争に巻き込まれ無実の罪を着せられ非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟っているのだと解釈されていた。 最初の祈祷は、863年に平安京の大内裏(だいだいり)の南にあった神泉苑(しんせんえん)で行われた。この祈祷行事は御霊会(ごりょうえ)と呼ばれたが、ここで言う御霊とは怨霊のことである。 しかし、それでも疫病はなくならない。そこで、病を司る神、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る儀式が、やはり神泉苑で行われた。牛頭天王はインドの神だが、釈迦(しゃか)たちが仏教を広めるために拠点にしていた僧坊のひとつである祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされている。また、病を司るという点から、仏教における薬師如来(やくしにょらい)とも同一視されたほか、日本神話では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視された。当時既に牛頭天王を祀る神社が祇園社(ぎおんしゃ)として成立していたようだ。 当たり前のことだが、この季節の流行病が加持祈祷で収まるわけもなく、結局869年になって、神祇権大佑(じんぎごんのたいじょう)の要職にあり祇園社の司でもあった卜部日良麿(うらべのひらまろ)の宣託により、より強力な祈祷を行うことになった。当時、律令制(りつりょうせい)に基づき日本国内に66の国があったが、この年の御霊会では、牛頭天王を祀るだけでなく、国の数だけ矛を立て、怨霊をその矛に封じ込めるという儀式が執り行われた。これが祇園祭の始まりとされている。 上の写真が今の神泉苑である。場所としては、二条城(にじょうじょう)の南にある。随分と小さなものだと思われるかもしれないが、長い歴史の中でドンドンと縮小されてしまったのである。とりわけ、二条城が出来たときに大きく削り取られたと言われている。 また、先ほど神泉苑は御所の南にあったと書いたが、神泉苑と現在の御所の位置は東西方向にかなりずれている。これは御所の位置が変わったからである。 神泉苑で御霊会が行われた当時、御所は神泉苑の北に接して建てられていた。しかし、火災のために御所はたびたび焼失し、天皇は仮住まいを繰り返した。天皇が縁戚関係にある貴族の屋敷を仮の御所として使うことを里内裏(さとだいり)と呼ぶが、現在の京都の御所はこうした里内裏のうちの一つ、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が恒久的な御所として定着したものである。 最初に神泉苑が造られた時には、天皇の庭、すなわち禁苑とされていて、その大きさは南北4町、東西2町というから、400m強x200m強ということになろうか。平安京を造営した際、御所の南の沼沢地を開いて造られたが、この地には常にきれいな水が湧き出ていたことから神泉苑と名付けられたようだ。 造営当時は大きな池と中の島が配され、釣殿(つりどの)、滝殿(たきどの)などの建物も建てられたという。そこで天皇や貴族が舟遊びや花見などをして楽しんだのである。 湧き水が枯れることのない神泉苑には竜が棲んでいると信じられていた。平安初期に日照り続きの年があり、神泉苑の竜に雨乞いの祈祷をすることになった。当時の平安京には東寺(とうじ)と西寺(さいじ)の2つの官寺があった。最初、西寺の守敏僧都(しゅびんそうず)に天皇の勅命が下り、守敏は祈ったが雨は降らなかった。次いで東寺にお鉢が回った。東寺の代表は弘法大師(こうぼうだいし)として知られる空海(くうかい)である。守敏は空海に負けては悔しいとばかり、法力で雨を司る竜を封じ込めてしまう。それを知った空海は、インドから竜神を勧請する。その竜神が神泉苑に舞い降りるとたちまち飴が降った。この竜神が善女龍王(ぜんにょりゅうおう)であり、その後神泉苑の主となった。 神泉苑が天皇や貴族の遊興の場から祈祷の場になったのは、この時の雨乞いの儀式がきっかけだと言われている。その後も神泉苑で何度か雨乞いの儀式が行われているが、有名なのは平安末期の後白河法皇(ごしらかわほうおう)時代の雨乞いだろうか。 日照り続きの折に、後白河法皇が神泉苑で雨乞いの儀式を行うこととなった。最初に僧侶が百人、祈雨の法を試みたが効果がない。続いて白拍子(しらびょうし)に舞を舞わせて祈らせることになった。おそらくここで白拍子が登場するのは、白拍子の遠い起源が巫女の神事の舞だったからだろう。さて、99人までは効果がなく、最後に一人の白拍子が登場する。これが有名な静御前(しずかごぜん)である。静が舞うと雨が降り出し、後白河法皇は大いに喜び、静を第一の舞の名手と称えた。これにより、静御前の舞は天下に轟いたわけで、その後も雨乞いの儀式に駆り出されている。源義経(みなもとのよしつね)と静が出会うのも、そうした雨乞いの儀式の一つだったとされている。 現在の神泉苑は、往事を偲ぶにはあまりにも寂しい。園内の一部は日本料理屋になっているようだ。かつても遊興の場だったからそれも悪くはないが、この庭園の歴史を考えると、もう少し世間から注目されても良いような気がする。私が訪れたのは祇園祭期間中だったが、ここにはほとんど観光客はおらず、地元の人だろうと思われるお婆さんが熱心に祠に手を合わせていた。 現在の祇園祭の主催者は八坂神社(やさかじんじゃ)であるが、八坂神社は明治以降になって付けられた祇園社の新しい名前である。現在、八坂神社の周囲を祇園と呼ぶのは、祇園社が建っていた場所だからである。 祇園祭の始まりと言われる御霊会は、そのうち祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれるようになり、これを縮めて単に祇園会(ぎおんえ)とも言ったが、当初は毎年行われたわけではないようだ。矛を立てての御霊会が行われてから百年近く経った970年、円融天皇(えんゆうてんのう)の時代になってやっと毎年行われるようになる。この頃から祇園社が舞台となって御霊会が行われるようになったらしい。 祇園会の主人公である牛頭天王を祀っていたのが祇園社だが、これがいつ頃どういう経緯で創建されたのかは、定かではない。神社側の説明でも複数の説が紹介されており、朝鮮半島にあった高句麗(こうくり)からの使者が造営したという言い伝えや、奈良の興福寺(こうふくじ)の僧侶が薬師如来などを祀る堂宇を建てたところ、薬師如来と同一視される牛頭天王が降臨したという説もあるようだ。 いずれにせよ、この小さな神社が一躍注目されたのは上に書いた御霊会で牛頭天王が祀られるようになったからだが、どうして牛頭天王に白羽の矢が立ったかというと、当時の占いの結果らしい。元々牛頭天王というのは病をはやらせる方の疫病神(やくびょうがみ)である。この牛頭天王の祟りで平安京に疫病が蔓延しているというのが、占いの示した結論である。その祟りを鎮めるためには、篤く祀るしかないということになる。従って牛頭天王というのは元々畏怖の対象だったわけである。 そんな疫病神を祀る祇園社だが、昔は病というと加持祈祷で直すという時代だったから、みんな恐れおののいて崇敬し、争って寄進をした。歴代天皇然り、藤原氏を筆頭とした有力貴族然りである。更には、源氏も平氏もみんな敬った。いくら武芸に秀でていても病には勝てない。豊臣秀吉も徳川家康も祇園社を篤く信仰し、押しも押されもせぬ重要な存在となるのである。 ところで、神泉苑で御霊会をやっていた時代と比べて、今の祇園祭はどう違うのだろうか。八坂神社の行う現在の祇園祭は、他の神社の例大祭(れいたいさい)同様、祭神がお神輿に乗り、御旅所(おたびしょ)に行って暫し滞在し、その後にまた神社に帰って来るというものである。実は、神泉苑で御霊会をやっていた時代にも、祇園社からお神輿が出て、祈祷の間、神泉苑に留まった。禁苑で一般人の立入りが禁止されていた神泉苑だが、この祇園社のお神輿は京の町の人々が担いで神泉苑に入っていたのである。そういう意味では同じようなものだが、現在の八坂神社のお神輿が向かう御旅所は、神泉苑ではなく四条寺町である。 上の写真が祇園祭に登場するお神輿である。三基あり、それぞれ素戔嗚尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)が乗ることになる。櫛稲田姫命は素戔嗚尊の妻であり、八柱御子神は二人の間の子供8人なので、要するに素戔嗚尊一家が三基のお神輿に分乗して御旅所を目指すということになる。 この素戔嗚尊は、最初の方に書いたように、牛頭天王の日本神話における姿ということになっているので、結局昔も今も牛頭天王を祀るお祭であることに変わりはない。江戸時代までは神と仏とが混在する形で一緒に信仰する神仏習合(しんぶつしゅうごう)が行われていたため、「牛頭天王(インドの神)=素戔嗚尊(日本の神)=薬師如来(仏教の仏)」という図式が素直に信じられていた。祇園社も、牛頭天王という神を祀りながら興福寺や比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の支配下にあった時代もあったし、境内に僧侶がいたりして、神社ともお寺とも判然とせぬ面があったのは事実である。 ところが明治時代になると、神道が優位となって仏教の地位が下がり、両者を峻別するよう神仏分離(しんぶつぶんり)の指示が明治政府から出される。これを受けて、神仏混在の祇園社でも祭神が整理され、素戔嗚尊を中心に据えるとともに、名前も八坂神社に変え、完全な神社として再スタートしたのである。上の写真に掲げた八坂神社の本殿が、お寺の本堂と非常に似ているのは、そんな歴史もあってのことだろう。 さて、祇園祭の流れであるが、最初に神輿洗(みこしあらい)という儀式から始まる。素戔嗚尊が乗る中御座(なかみくら)というお神輿を四条大橋まで持って行き、鴨川の水をかけて清めるのである。ちなみに、妻の櫛稲田姫命が乗る神輿は東御座(ひがしみくら)、子の八柱御子神が乗る神輿は西御座(にしみくら)と言うが、この二基は神輿洗に参加しない。 その後、7月17日午後になって三基のお神輿が四条寺町の御旅所に向かう。これを神幸祭(しんこうさい)と呼ぶ。天皇が外出することを行幸(ぎょうこう)と言うが、この場合には神が自分の神社から外出する、つまり行幸するので、それを縮めて神幸というわけである。そして、24日まで御旅所に滞在して、その日の夕方に再び八坂神社に戻って来る。これを還幸祭(かんこうさい)という。 ちなみに、お神輿が御旅所にある間、祇園の芸妓さん・舞妓さんが無言で毎晩御旅所にお参りすると願いがかなうという言い伝えがある。これを無言参り(むごんまいり)というが、八坂神社が公式に認めている行事ではないようだ。ちなみにこの無言参り、お参りの途中で誰かと口をきくと願いはかなわない。芸妓さんも舞妓さんも知り合いは多そうだから、なかなか難しいお参りの仕方である。 さて、八坂神社に戻ったお神輿は、28日にもう一度鴨川の水で清められ、神輿洗となる。翌29日に、八坂神社の神前にて祇園祭の終了が神に報告される。これを神事済奉告祭(しんじすみほうこくさい)と呼ぶ。そして最後、31日に大茅輪(おおちのわ)が八坂神社境内に設けられて、一般の参拝者はこれをくぐって疫病神を払う。夏越祓(なごしのはらい)という行事である。 以上が祇園祭だと言うと、一般の方は不思議に思うだろう。あの有名な山鉾巡行も、宵山(よいやま)、宵々山(よいよいやま)もないではないかと。実は、これは途中から京の町衆が始めたことであり、疫病封じ込めの祈祷の中核ではないのである。 ではいったい、どういう経緯で山鉾が出て来たのだろうか。 祇園祭の原点である御霊会の時から、祇園社のお神輿を担いで一般の町衆が参加していたと書いたが、やがて、中核となる疫病退散の祈祷以外に様々な付随の催しが、一般人参加の下で行われるようになる。 そうした催しの中に、腰鼓(ようこ)や編木(びんざさら)といった簡素な楽器を演奏しながら踊る田楽躍(でんがくおどり)があった。これは大いに人々を楽しませたようだ。田楽を専門に行う職業的芸能者を田楽法師(でんがくほうし)と言っていたが、祇園御霊会だけではなく、大きな寺社の祭礼や法会にはたびたび田楽法師が参加していた。田楽法師の格好は、絵や写真などで見ると、誰でも馴染みがあるはずだ。 ところで、日本の神社の原型は、特定の山にある大きな岩を神の宿る場所と考えて崇めた磐座(いわくら)信仰に始まっているが、町中の祭礼でもこうした霊山に見立てた飾り物を用意するようになり、これを標山(しめやま)と呼んだ。 999年の祇園御霊会の際に、无骨(むこつ)という田楽法師がこの標山に似せた飾りを作り参加したことが山鉾の始まりと言われている。山鉾に限らず、お祭の際に担いだり曳いたりする飾りもののことを、山車(だし)とか、曳山(ひきやま)、舁山(かきやま)とか呼ぶが、この山という語源はおそらく標山から来ているのだろう。 こうした派手な飾りは一般の人々の目を楽しませ、その後思い思いの飾り物を作って京の町衆が参加するようになる。最初の飾りは手で持てる程度のものだったらしいが、時代を経るにつれて大規模になり、南北朝時代には車を付けて大勢で曳くようなものまで出て来た。現在のような山鉾巡行の原型が出来たのは、室町時代と言われている。 ただ、こうして続けられて来た祇園祭も、室町時代に応仁の乱(おうにんのらん)が起きると、10年にわたり戦場となった京の街は灰燼に帰し、公家や町衆の多くは京の外に避難して行ったため中断してしまう。応仁の乱が終わったのが1477年と言われるが、時を経て山鉾巡行が再開されたのは1500年のことである。 京が復興し町衆の力が強まると、祇園社が行う本来の祇園祭と相並ぶ形で山鉾巡行が行われるようになり、祇園社の事情により祇園祭が行われない年でも、山鉾巡行だけは町衆の力で行われたという記録がある。現在の祇園祭でも、八坂神社の行う行事と鉾町の行う行事が混在しており、祭全体の流れが分かりにくくなっているかもしれない。 そうは言っても、本来の祭の主体は祇園社=八坂神社の行う神事であり、これに沿うように町衆が山鉾巡行を行って来た歴史がある。本来の山鉾巡行は、祇園社のお神輿の動きに合わせて行われ、いわばお神輿の露払いの役割を担って来た。今でも、八坂神社のお神輿が出る神幸祭の17日と、帰って来る還幸祭の24日に山鉾巡行が行われ、午前中に山鉾が巡行して露払いした後にお神輿が午後、あるいは夕方に動くという日程になっている。 応仁の乱の後、1500年に祇園御霊会が復興した際には、神幸祭には先祭(さきのまつり)として26基の山鉾が、還幸祭には後祭(あとのまつり)として10基の山鉾が参加したようだが、この2回の山鉾巡行が1966年(昭和41年)より神幸祭の時だけに一本化された。京都の中心部を2回も大規模に交通規制するのが大変だったようだ。それが再び元の2回に戻ったのが2014年(平成26年)である。一度に30基以上の山鉾を巡行させると相当長時間になり、後の方の山鉾に注目が集まらないという問題点があったと聞く。あちらを立てればこちらが立たずというわけである。 ちなみに、手遅れなことを「あとの祭り」というが、これは後祭の山鉾の数が少なく先祭に比べて見劣りすることから、先祭を見逃した状態を言っているという説がある。ただ、復活後の後祭には、幕末に長州藩が京都で起こした禁門の変(きんもんのへん)により焼失したままになっていた大船鉾(おおふねほこ)を復活させて後祭のしんがりを務めさせたため、大いに注目を集めた。「あとの祭り」などとはもう言わせないという決意を感じる復活だった。 ところで余談だが、この二つの山鉾巡行を、京都検定の公式テキストブックでは先祭(さきのまつり)・後祭(あとのまつり)として解説しているのだが、新聞などでは前祭(さきまつり)・後祭(あとまつり)として紹介している。どっちが正しいのだろうか。 私が大阪にいた当時、復活した大船鉾を入れて巡行に参加する山鉾は33基だった。先祭に23基、後祭に10基という構成だったが、全ての山鉾が同じような形状をしているわけではない。我々が山鉾巡行といってイメージするのは、先祭で常に一番鉾を務める長刀鉾(なぎなたぼこ)で、上の写真も長刀鉾だが、こうした鉾(ほこ)と言われるもののほか、曳山(ひきやま)、舁山(かきやま)、傘鉾(かさほこ)、船鉾(ふねほこ)などがあり、これらの鉾と山を合わせて山鉾と呼んでいる。 こうした山鉾を管理する鉾町も33あるわけだが、これらの鉾町は概ね烏丸通(からすまどおり)よりも西側に分布している。現在の感覚だと、京都の繁華街というと四条河原町ということになるが、そもそも平安京の時代には、碁盤の目の東の境界線は現在の寺町通だった。山鉾巡行の形が整った室町時代には、河原町通はまさに鴨川の河原だったわけである。 あまり長々と祇園祭の話ばかりしているのもどうかと思うので、鋒町に関連して、平安京の頃からあったこの辺りの名所でも紹介しようと思う。おそらく、その歴史は祇園祭よりも古い。 写真は錦市場(にしきいちば)の入り口を高倉通(たかくらどおり)方向から見たものである。場所としては、四条通の一本北を東西に通る錦小路(にしきこうじ)にあり、西は高倉通から東は寺町通までの間を言う。この錦小路は、最初は具足小路(ぐそくこうじ)という呼び名だったらしい。錦小路という名前は時の天皇に命名らしいが、正確なところは分かっていないと聞く。 錦市場は、言わずと知れた京都の台所だが、平安京が出来た当時から、ここに市が立っていたと言われている。当初から主に魚を扱う市場だったようだ。 どうしてここに、と思うのだが、この地は古来より湧き水の多いところで、魚など生鮮品の貯蔵に適していたらしい。今でも井戸を掘れば水が出るようで、冷蔵庫のない昔は、降り井戸と呼ばれる地下のスペースを持つ井戸が、生鮮品の貯蔵庫に使われていたと聞く。こうした好条件の下で市場は栄え、魚のほか、京野菜や鳥の肉なども扱われたという記録が残っている。 魚と言っても、京都は海から遠い。今のように刺身に出来るような新鮮な魚がドンドン入ってくるわけではない。多くは塩漬けにしたものである。有名なのは塩でしめた鯖で、若狭湾で獲れたものを塩漬けにして京都に運んだ。この流通ルートが有名な鯖街道(さばかいどう)で、今でも鴨川に架かる出町橋のたもとに「鯖街道口」の石碑が立っている。 夏場だと尚更新鮮な魚を入手することは難しいのだが、唯一例外があった。それが鱧(はも)である。鱧は獰猛な魚だが生命力が強い。淡路島や明石の辺りで獲れた鱧を海水に漬けて京都まで運んでも死ななかったという。また、鱧は梅雨を過ぎた頃においしさが増すため、夏に食べるのには適していた。唯一の問題点は小骨が多いことだが、京都の料理人が編み出した技が骨切りで、1〜2mm間隔で包丁を入れて小骨をぶつ切りにしてしまう。これが出来るようになるまで随分長い修行が必要なようで、東京ではなかなか鱧が食べられないわけである。 ちょうどこの時期は祇園祭ということで、祇園祭に鱧料理というのが定番の組合せになっている。それを支えて来たのが錦市場というわけである。ただ、私が大阪にいた当時、京都にいなくともこの時期には大阪のスーパーの魚売り場には鱧がびっしりと並んでいた。京都発の鱧が、次第に関西の夏の風物詩になったのであろう。 昔から錦市場で商売をしている老舗の方に話を伺ったことがある。錦市場は良質の水と切っても切り離せない関係にあり、それはこの市場だけではない。京の町の商売や文化を支えて来たのも良い水ではなかったかとのことだった。友禅染め然り、茶の湯然りという話から始まり、当初の平安京に比べて右京が衰退し左京に市街地が移って行ったのも、右京に良い水が少なかったから、そして、そもそも奈良の平城京からこの地に都を移したのも、水を求めてのことですから、と結ばれていた。水が如何に重要かを最も端的に表しているのが錦市場ということらしい。 錦市場に関連した話題をもう一つ書いておこう。江戸中期の絵師、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)のことである。若冲は、特異なモチーフと超絶的な細密描写でファンも多い画家だが、実はこの錦市場の青物商の跡取り息子である。 上の写真でも、市場の入り口に若冲の絵が掲げられているのに気付かれたと思うが、向かって右側の柱には「伊藤若冲生家跡」の表示があり、傍らに解説板が掲げられている。 若冲は生家の商売には関心がなかったようで、父の死後も商売にはあまりかかわらず、ついには弟に店を譲り、自らは熱心に絵を描き続けた。ただ、その後全く商売のことを顧みなかったのかというとそうでもなく、野菜の市を開く許可が奉行所から取り消された際には、近郊農家に声を掛けて奉行所とやり取りし、市の再開を果たしたりしている。実家の商売を投げ打って絵の世界に没頭したと言うと変わり者のイメージがあるが、実務能力もあるし、商売の行く末にも関心を持っていたのであろう。 錦市場の歴史を長々と書いたが、実は私がいた頃の錦市場はかつての京の台所のイメージから徐々に変わり始めており、外人さん相手の商売をする店が結構増えた。大阪の黒門市場(くろもんいちば)も同じような傾向にあったから、京都だけのことではないが、地元の人は少し残念がっていた。私も何度か錦市場を歩いたが、確かに外国人の姿が目立つ。彼ら彼女らは、立ち食いの出来る店で食べ物を買って、その場で食べながら歓談していた。立ち食いの店なんてなかったんですがね、なんて京都の人は言っていたが、長い歴史を持つ市場だから、色々な変遷はあるのだろう。現在ではどうなっているのやら知らないが…。 さて、せっかくだから、錦市場近辺の寺社でも少々紹介しておこう。全部を紹介するのは無理なので、ちょっと特徴のあるものだけに留めることをご容赦願いたい。まずは近くの六角堂(ろっかくどう)からである。 京の童歌に、東西の通りの名前を並べて歌詞にしたものがある。観光客向けに流している店もあるから、あるいは聞かれたことがあるかもしれない。「まるたけえびすにおしおいけ(丸竹夷二押御池)」で始まるのだが、その次のフレーズが「あねさんろっかくたこにしき(姉三六角蛸錦)」である。最後の錦が錦小路のことで、その二つ前の六角が、この六角堂のある六角通(ろっかくどおり)である。通りの名前は、この六角堂に由来する。 六角堂という名前は、この建物が六角形だから付いたニックネームのようなものであり、正式の寺名は頂法寺(ちょうほうじ)である。おそらく、たいていの人は本当のお寺の名前は知らないと思う。それほど六角堂の名前は人口に膾炙している。 以前、奈良散歩記の中で、聖徳太子(しょうとくたいし)と大阪の天王寺にある四天王寺(してんのうじ)との関係について書いたことがあった。 飛鳥時代に、仏教を信奉しようとした有力豪族の蘇我氏(そがし)と、昔ながらの神道を重んじて異国の宗教を嫌った物部氏(もののべし)との対立が激化し、ついに武力衝突に発展する。この時蘇我氏側について参戦したのが厩戸皇子(うまやどのおうじ)、つまり後の聖徳太子であり、蘇我軍が劣勢になった時に四天王(してんのう)に戦勝祈願して、軍勢を立て直したと伝えられる。やがて物部氏は滅ぼされ、聖徳太子は四天王に感謝して今の大阪に四天王寺を建てたのである。六角堂は、この四天王寺建設に絡んで創建されたと伝えられる。 寺伝によれば、四天王寺建設のための資材を求めてこの地を訪れた聖徳太子が、木の枝に自分の持仏を掛けて傍らの池で沐浴していた。水から出た聖徳太子が持仏を手に取ろうとしたが、木の枝から離れない。その夜の聖徳太子の夢に中にその持仏が現れて、自分はこの地に留まって、人々を救済したいと告げた。聖徳太子は早速この地にお堂を建てて、その持仏を安置したとされる。このお堂が六角堂というわけである。 この聖徳太子が沐浴した池は、今ではすっかり近代的なたたずまいとなって六角堂内に残っているが、その昔、池の傍らに僧坊が建てられたと伝えられる。この僧坊に起居する僧が朝夕仏前に花を供えたが、その中から立花(たてばな)の名手と言われる専慶(せんけい)という僧侶が現れる。池の端にある僧坊は池坊(いけのぼう)と呼ばれていたので、この僧は池坊専慶(いけのぼうせんけい)として名を知られるようになり、後に僧坊の名前は華道流派の名前となる。 現在、六角堂の周りは池坊の建物が多く、すっかり華道の中心地というたたずまいである。その歴史を知らない人から見れば、ここに池坊の本部がある理由が分からないかもしれないが、まさに発祥の地なのである。 ところで、錦市場を高倉通から歩いて東に進むと、南北に走る新京極通(しんきょうごくどおり)にぶつかる。この終点にあるのが錦天満宮(にしきてんまんぐう)である。 地の利の良さからか、ここは結構賑わっている。錦市場の守護神のようなロケーションにあるからか、市場を訪れる外人観光客の姿も見掛ける。たくさんの提灯がぶらさがる光景が、海外の人にはエキゾチックに感じられるのかもしれない。 天満宮のある場所の多くは菅原道真(すがわらのみちざね)ゆかりの場所なのだが、この錦天満宮の場合には、この場所がというより、この錦天満宮自体が菅原道真ゆかりなのである。 錦天満宮は、そもそもこの場所にあったわけではないようだ。この間の経緯は結構ややこしいのだが、菅原道真の父で、公家であった菅原是善(すがわらのこれよし)の屋敷、菅原院(すがわらいん)が現在の上京区にあったが、道真が大宰府に左遷され現地で亡くなると、都で道真左遷に関わった関係者が相次いで亡くなり道真の祟りと恐れられる。道真の祟りを鎮めるため、菅原院跡地にも天満宮と歓喜寺(かんきじ)という寺院が建立された。時代が下って、この天満宮と歓喜寺は、現在の下京区に移って来た歓喜光寺(かんきこうじ)というお寺に吸収されることになり移転する。その後も、応仁の乱、豊臣秀吉の都市計画などで移転を繰り返し、最終的にこの地にやって来るのだが、お寺は再び移転し、境内の天満宮だけが残される。これが、現在の錦天満宮というわけである。 そういうわけで、元をたどれば菅原院跡地の天満宮だったということになるが、実は元々の菅原院跡地にも後に天満宮が建てられ、現在も菅原院天満宮神社(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)として残っている。菅原道真の祟りは何十年も続き、京では相当恐れられた存在だったから、幾ら天満宮を造っても足りなかったのかもしれない。 錦市場が発達したのは、地下に豊富な水脈があり、生鮮食品の保存に適していたからという話を書いたが、現在でもこの錦天満宮境内には、錦の水と呼ばれる御神水が湧き出している。 さて、この錦天満宮がある新京極通だが、新と冠が付く以上は旧があるはずだ。その旧京極通とは、一本西側を通る現在の寺町通(てらまちどおり)のことである。 京極というのは、平安京の極、つまり端の境界線を指している。寺町通は昔、平安京の東の境界線であった東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)が通っていた場所だとされている。この通りが寺町通になったのは、豊臣秀吉が関係している。秀吉は、京都の都市改造を行ったが、その際、東京極大路沿いに寺を集めることにして、多くの寺院に引越しを命じた。これにより寺町が形成されて、寺町通と呼ばれるようになった。 お寺に縁日は付き物で、参詣する人を目当てに境内に屋台や見世物小屋が出来て賑わい始める。これに目を付けたのが明治期の京都府知事、槇村正直(まきむらまさなお)で、寺町通の一本東に通りを通して繁華街を作る。これが新京極通である。新しい通りなものだから距離は短く、三条と四条の間しかない。 そんな新しい通りにも古いものは残っている。錦天満宮から新京極通を少し北に上がったところにある誠心院(せいしんいん)はその一つだろう。 意識していないと、そのまま通り過ぎてしまいそうなほど目立たない小さなお寺だが、ここは、平安時代の女流歌人として有名な和泉式部(いずみしきぶ)ゆかりの寺であり、境内に和泉式部のお墓がある。 和泉式部は、一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう)、つまり皇后だった藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えた女房の一人で、同僚には源氏物語(げんじものがたり)で有名な紫式部(むらさきしきぶ)や栄花物語(えいがものがたり)の作者とされる赤染衛門(あかぞめえもん)、女流歌人の伊勢大輔(いせのたいふ)といった錚々たるメンバーがいた。和泉式部は恋多き女性だったようで、紫式部はその文才を褒めてはいるが、恋愛遍歴には否定的だったようだ。 和泉式部は誠心院の初代住職を務めたが、どうして恋多き女性が仏門に入ったかというと、その子である小式部内侍(こしきぶのないし)の死が関係しているようだ。 和泉式部は最初、和泉守だった橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚し、一子をもうける。これが後の小式部内侍である。小式部内侍は母親同様、恋多き女性だったようだが、同時に和歌の才にも優れ、母と共に中宮彰子に仕えた。小式部内侍と聞いてもピンと来ないかもしれないが、小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に収められた次の歌を聞いたことのある人は多いのではないか。 大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立 そんな小式部内侍は、出産に際して20代の若さで亡くなる。まだ存命だった和泉式部は深く悲しみ、この世のはかなさを悟って、京都の深草にあった誓願寺(せいがんじ)に籠り念仏三昧の生活を送るようになる。 和泉式部と小式部内侍が仕えていた中宮彰子は、当時権力の頂点にいた藤原道長(ふじわらのみちなが)の長女であったが、道長は浄土信仰に傾注し、法成寺(ほうじょうじ)という大寺院を鴨川西岸に建てていた。和泉式部の話を聞いた道長が、彼女のためにこの法成寺の中に一庵を造り、和泉式部に与えたのが誠心院の始まりと、門前の案内板に説明がある。また、本尊の阿弥陀仏は、中宮彰子が和泉式部に与えたものらしい。和泉式部が初代住職というのはそういう経緯であり、誠心院は、通称和泉式部寺の名前で知られている。 この場所に移って来たのは上に述べた豊臣秀吉の寺町形成事業の一環であり、和泉式部が最初に籠った誓願寺も、深草からこのすぐ近くに移築された。誠心院は、ビルの谷間の静かな空間にあり、私が訪れた折には誰もいなかった。 新京極通を誠心院から数十メートル北に上がれば、今言った誓願寺がある。 大化の改新で有名な天智天皇(てんちてんのう)の勅命で建てられたという長い歴史を持ち、6500坪という広大な敷地を有したと門前の案内板にあるが、今ではこじんまりとした寺院である。誓願寺は、古くから舞踏家を中心とする芸能関係の人々の信仰を集めた寺だが、そこにも和泉式部が関係している。 世阿弥(ぜあみ)作と伝わる謡曲「誓願寺」では、一遍上人(いっぺんしょうにん)が誓願寺でお札を配っていると、一人の女が極楽往生について問い掛けてくる。一遍上人は、南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも往生できると答えると、女は、それではお寺の扁額を誓願寺から南無阿弥陀仏の六文字に架け替えなさい、これは阿弥陀仏のお告げですと言って、和泉式部の墓に消える。この墓とは、一つ前の写真に掲げた石塔である。 女の言葉通り一遍上人が扁額を書き換えると、阿弥陀如来や多くの菩薩が現れ、再び女が歌舞の菩薩となって登場し華麗な舞を舞う。女の正体は、和泉式部の霊なのだが、ここで歌舞の菩薩として現れるところが芸能関係者の信仰を集めるきっかけとなる。誓願寺境内には扇塚(おうぎづか)があり、芸の上達を願って多くの人々がここに扇を奉納したと伝えられる。 ちなみにこの誓願寺、和泉式部が籠って念仏を唱え続けただけでなく、枕草子(まくらのそうし)で有名な清少納言(せいしょうなごん)が晩年にこの寺で出家したとも伝えられる。清少納言は、一条天皇のもう一人の中宮だった藤原定子(ふじわらのていし)に仕えていた。清少納言と紫式部のライバル関係は有名だが、清少納言と和泉式部とは一定の交流があったとも言われている。 さて、誓願寺から新京極通を北に上ると、まもなく三条通にぶつかって新京極通は終わる。この三条通で隣の寺町通は少し東にずれているのだが、これは一帯が誓願寺の敷地だった頃の名残だという。三条通から北は、寺町通と新京極通との間に寺町通の続きが延びているので、こちらに乗り換えて寺町通を歩く。 先ほど書いたように、豊臣秀吉がこの通り沿いに寺を集めたわけだが、今ではアーケード付きの商店街になっている。古くからの店もあって、書画道具や文具の老舗である鳩居堂(きゅうきょどう)本店も寺町通にある。元は薬を扱っていたらしいが、香も扱うようになり、やがて書画の道具へと手を広げる。創業数百年は京都では珍しくないが、鳩居堂がこの場所で店を開いたのは1663年のことである。堂々とした風格のある店舗で、さすがに本店という感じがする。 この鳩居堂の斜め前に、立派な門構えの寺院がある。日本人なら誰でも知っている本能寺(ほんのうじ)である。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に襲撃された本能寺の変ということになるが、これはこの場所で起こったことではない。本能寺の変があった当時の本能寺は、現在の堀川通近くの、蛸薬師通(たこやくしどおり)と六角通にはさまれた一角にあった。本能寺の変で伽藍は焼け落ち、再建する際に豊臣秀吉により現在の場所に移るよう命じられて今日に至っている。 本能寺は、法華経(ほけきょう)の教えを柱とする日蓮宗(にちれんしゅう)の寺であり、室町時代に足利氏の庇護も受けて大いに栄えたと伝えられる。織田信長が何度か本能寺に逗留しているのは、当時の本能寺貫主であった日承上人と交流があったためというのが、寺側の説明である。 ちなみに、本能寺の変の後、豊臣秀吉の命によりこの地に移って来てからも、本能寺は2回焼失している。一度は、江戸時代に京都の街の大半が焼け落ちたと伝えられる天明の大火(てんめいのたいか)のよるもの、もうひとつは、幕末に長州藩が京都御所に攻め入った禁門の変(きんもんのへん)による大火である。これらを含め、創建当時から数えると、本能寺は都合6回再建されている。 そんなわけで、何度も火事に遭った本能寺は、もう火事はこりごりと、現在能の字を変えている。能という字は造りがヒを二つ重ねた形になっているが、ヒは火に通じるということで、ここを去という字に換えた漢字を造字して使っている。 さて、本能寺の変については改めてここで語る必要はあるまい。ただ、本能寺の変そのものには幾つもの謎がある。一つは、何故織田信長が重用していた明智光秀が謀反を起こしたのかという点である。この点については現在でも定説はないと聞く。 もう一つは、本能寺内で自害したと伝えられる織田信長の遺体が見つからなかったという点である。明智光秀の軍勢は、焦って焼け跡を何度も探したが、発見できなかった。そのため、傷を負いながらも落ち延びたのではないかという疑念が拭えず、また豊臣秀吉ら反明智派からも意図的に信長生存説が流れたため、織田信長死亡を確信できなかった武将も多くいたという。これが、明智光秀の側に必ずしも支持が集まらなかった原因の一つだと伝えられている。 ところで、本能寺境内には信長公廟というお墓がある。 これはいったいどういう謂れの墓なんだということになるが、傍らの解説板によれば、本能寺の変の後も生き延びた織田信長の三男信孝(のぶたか)が、本能寺を父信長の墓所と定めて建てた石塔らしい。信長の遺体は見つからなかったから、ここには何が納められているのだろうと思って解説板を読んだら、どうやら信長の太刀が納められているようだ。あぁなるほどと納得した。 この墓を造成した織田信孝のその後は少し悲しいものがあり、明智光秀を討つべく中国地方から急遽戻って来た羽柴(豊臣)秀吉によって総大将に据えられるものの、信長の後継を決める清洲会議(きよすかいぎ)では、本能寺の変で亡くなった長男信忠(のぶただ)の子三法師(さんぼうし)に後継をさらわれてしまう。一応、三法師の後見役となるのだが、その後秀吉に突如城を囲まれ、三法師を渡したうえに人質まで取られる始末。挙句の果てに、頼みの綱である反秀吉派の柴田勝家(しばたかついえ)が秀吉に滅ぼされると万事休すとなり、秀吉に降伏した挙句切腹を命じられて26歳でこの世を去った。 さて、本能寺の少し先で、寺町通は御池通(おいけどおり)と交差する。祇園祭の山鉾巡行は、四条烏丸を出発して四条通を東に進み、四条河原町で北に方向転換して河原町通を北に上がる。その先の河原町御池で西に方向転換して、この御池通を西に進む。祇園祭に関連して周辺の寺社を紹介するのなら、山鉾巡行コースの御池通にたどりついたところでお仕舞いにしてもよいのだが、折角だから、寺町通沿いにあるお寺をもう一つだけ紹介しておこう。 御池通から北の寺町通はアーケードもない普通の道路になるのだが、道沿いには歴史を感じさせる街並みがそこここに見受けられる。二条通と交差したところから道幅が少し広くなるが、この角に以前、梶井基次郎(かじいもとじろう)の代表作「檸檬(れもん)」で、主人公がレモンを買ったという果物屋があった。 その二条通との交差地点から100mほど北に上がった道路脇には、「此附近藤原定家京極邸址」と記された石碑が立っている。街の中に埋もれるようにこうした石碑がさりげなく立っているところが、如何にも京都らしい。そして、もう少し行くと、お茶の一保堂(いっぽうどう)の本店がある。先ほどの鳩居堂と同じく長い歴史を持つ店で、創業は1717年である。 そのまま北に進むと寺町通は丸田町通(まるたまちどおり)と交差する。この南には現在の京都御所があり、寺町通はその東端を通る道となる。この御所の脇の寺町通沿いに、目指す寺はある。和泉式部や清少納言の話をしたので、同時代のもう一人有名な女性についても紹介しようという趣旨である。そのお寺は、廬山寺(ろざんじ)である。 廬山寺は元々、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる第18代天台座主良源(りょうげん)が、京都の船岡山(ふなおかやま)の南に建てた寺である。この場所に移って来たのは、今までのお寺と同じく、豊臣秀吉の寺町形成の一環としてである。 上の写真は、桔梗で有名な廬山寺の庭だが、別名を源氏庭という。そう言えば、ここが誰のゆかりの場所かが分かろう。源氏物語の作者、紫式部が住んでいた家の跡である。 ここには昔、堤中納言(つつみちゅうなごん)の名前で知られる藤原兼輔(ふじわら のかねすけ)の邸宅があった。堤中納言の名前は、この邸宅が賀茂川堤にあったから付いたものである。兼輔は和歌の才能に優れ、歌壇の中心人物として古今和歌集(こきんわかしゅう)などの勅撰和歌集にも多くの作品を残している。この兼輔の曾孫が紫式部なのである。 紫式部は、この兼輔が建てた邸宅で人生の大半を過ごしたとされており、結婚相手の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)との生活も、この屋敷で送ったと言われている。夫である宣孝が病没した後に中宮彰子に仕えたことは上にも書いたが、源氏物語や紫式部日記の大半は、この邸宅で書かれたものと推測されているようだ。 私が廬山寺を訪れた時は桔梗が見頃の季節だったので、そこそこ参拝客がいた。外人観光客も見掛けたので、ちょっと驚いた。いわゆる京都の観光の中心からは少し外れた一角なのに、よく知っているなぁと感心したのだ。観光の中心から外れている分、静かに境内を拝観でき、人ごみが嫌いな人には良い訪問場所だと思う。 典型的観光スポットではない場所を歩いても、見所が色々あるのが京都のいいところである。この先も、そんな京都の何気ない見所が紹介できればと考えている。 |
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