パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■いにしえの大阪を歩く |
![]() 大阪市内の熊野古道(くまのこどう)巡りは、出発点の八軒家船着場(はちけんやふなつきば)から天王寺までの5km程度を歩いて一応終了とした。その先もずっと熊野古道は続くわけだが、単に続きを歩くだけだと、自動車が行き交う市内の一般道を通るだけなので味気ない。そこで、その先の熊野古道沿いにある旧跡を訪ねようと思い足を延ばしたのが、今回の散策である。そういう意味では熊野古道の続きと言えなくもない。 大阪の町の歴史は、以前大阪城についてあれこれと記した際に書いた。しかし、大阪城周辺に石山本願寺の寺内町が発達する以前から、ずっと南の四天王寺(してんのうじ)や住吉大社(すみよしたいしゃ)は多くの信仰を集めて賑わっていたはずである。また、この二つの寺社を結ぶ道は同時に熊野につながる熊野古道であり、熊野詣の人々が行きかっていたはずである。今日訪ねようとするのは、そうした信仰のための賑わいの地であり、古い歴史を持つ交通の要所でもある。 大阪に住んでいた頃に思ったのだが、大阪の人は一般に、あまり歴史を大事にしない。大阪は東京に比べれば遙かに長い歴史を持つ地であり、市内の至るところに史跡がある。しかし、それを観光に使おうという気持ちがあまりないように見受けられる。私の目から見れば、これをもう少し整備して宣伝すれば人が集まるんじゃないかと思うような史跡が、簡単な看板一つあるだけで見捨てられ市街地の一角に埋もれている。まことにもったいない話である。大阪の人はあまり過去を振り返らず、前ばかりを見て生活しているのかなとも思う。何といっても商人の町として歴史を重ねた地だからなぁ。 さて、今日は全行程を歩くとかなりの距離になるし、交通量の激しい一般道を歩くのも味気ないので、ウォーキングの趣旨には反するが文明の利器を使うことにした。これがなんと珍しいことに路面電車である。 ![]() 大阪市内に路面電車が現役で走っているのは何とも意外である。大阪の人ならみんな知っているが、東京でこのことを知っている方はどれくらいいるだろうか。今日の散策の趣旨の一つは、この路面電車に乗ることでもあり、今日一日あちこちを回るのに活用したいと思っている。 電車の名前は阪堺電車(はんかいでんしゃ)というが、路線もこれから乗ろうとしている天王寺から住吉公園(すみよしこうえん)へ向かう上町線(うえまちせん)と、通天閣近くの恵美須町(えびすちょう)から堺市の浜寺公園(はまでらこうえん)に通じる阪堺線の二系統がある。名前の由来は、文字通り大阪と堺を結んでいるからということであるが、もっぱら通勤・通学、買い物など庶民の足として親しまれているようだ。料金も、全区間どこまで乗っても210円という明朗会計で分かりやすい。 上町線の大阪側の始点は、何と日本一の高層ビルあべのハルカスのふもとである。駅も地上からは行けずに、地下街からアクセスする形になる。しかし、駅自体はレトロで昭和の匂いがする。今日は何度か乗り降りするので、一日乗車券を窓口で買う。これがスクラッチ式という奇妙な券で、利用日を硬貨で削り取って使うのである。この散策に出掛けたのは2015年春のことだったが、一日乗車券では2017年末まで利用日を選べた。ってことは、その時まで値上げしないってことだ。物価高騰著しい昨今、立派な姿勢だと感心した。 電車の本数は10分に1本とけっこう頻繁に来るので、時間のロスがなくていい。1時間に1、2本の奈良のバスと違って、さすがに大阪市内だけのことはある。既に停留所に停まっていた路面電車に乗り込む。空いているだろうと思ったらほぼ満席である。これは少々意外だった。人気のある乗り物らしい。 あべのハルカスの横から出発した路面電車は、あべの筋を南に進む。あべの筋は大きな幹線道路であるが、これがかつての熊野古道である。上皇などの皇族、貴族をはじめとして多くの参詣者がアリの行進のように熊野目指して歩いた道を、今では路面電車が走る。昔の人が見たらさぞかしビックリするに違いない。 私はずっと道路に敷かれたレールの上を進むのかと思っていたが、途中から一般道をそれて、電車用の線路が延びる裏道に入った。こうなると、普通の電車と変わりない。線路は幹線道路と並行して走っているが、住宅地の裏側を進む形でなかなか趣がある。 まず最初に降りたのは松虫(まつむし)の停留所である。ここから200mほど南に松虫の交差点があるが、これを右手に曲がり松虫通りを100mほど歩くと、この辺り一帯の名前の由来になっている松虫塚(まつむしづか)がある。 降りた駅は専用の線路に設けられているので、きちんとプラットホームも屋根も付いている。ただ、改札や切符売り場がないので、大きめのバス停といった印象である。周囲は路地裏のような静かな空間で、そのまま線路沿いの細い路地を歩く。何とも味わいのある下町風の裏道で、最後に松虫通りに出るところは、人の家の敷地の一部ではないかと思うほど狭い。松虫通りを右に曲がって少し行ったところにこんもりとした木立が歩道に突き出るようにしてあり、それが松虫塚である。 ![]() これはこういう由来の塚で、と説明したいところだが、実はどういう由来なのかハッキリしないのである。脇にある解説板によれば、この塚にまつわる伝説は色々あるらしく、どれが本当なのか分からないというのが、その理由である。 一番有名なのは、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が寵愛していた側近女性(女房)の松虫(まつむし)・鈴虫(すずむし)の姉妹の話だろうか。これについては大阪城の話の回で、石山本願寺(いしやまほんがんじ)に関連するエピソードとして少々触れた。浄土真宗(じょうどしんしゅう)の元になった浄土宗(じょうどしゅう)にまつわるある事件の主人公が松虫・鈴虫姉妹なのである。時は鎌倉時代のことである。 浄土宗は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を中心とする天台宗(てんだいしゅう)の僧侶法然(ほうねん)が開いた新興の宗派で、既存の仏教とは教えも行いも大きく異なり、既存仏教界から大いなる反発を受けていた。その最大の原因は、修行しなくともお経だけあげていれば極楽浄土に行けるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えにあったのではないかと思われる。この教えは、それまで仏教とは無縁だった武士や庶民なども巻き込みながら人々を魅了し、信者はまたたく間に増えた。このことも既存仏教界の危機感をあおった。当時仏教界の頂点にいた比叡山延暦寺と奈良の興福寺(こうふくじ)、いわゆる南都北嶺(なんとほくれい)は、朝廷に対してその教えを止めさせろと抗議の奏状を送ったほどである。 最初は悠然と構えていた朝廷だが、後鳥羽上皇が寵愛していた女房の松虫・鈴虫姉妹が専修念仏の教えに傾倒して出家するという事件が起きる。このとき後鳥羽上皇は熊野参詣に出掛けていて留守だった。清水寺で法然の説教を聞きその教えに傾注していた松虫・鈴虫姉妹は、御所を抜け出して法然一派が開いていた念仏を唱える集会に出掛ける。そして感化された二人は、その場で出家を決意し剃髪してしまうのである。これを知った後鳥羽上皇は激怒し、自分の許可もないのに松虫・鈴虫を出家させた法然一派の僧を死罪にすると共に、法然らを僧籍剥奪のうえ流罪に処する。この事件を一般に承元の法難(じょうげんのほうなん)と言っている。 その後、松虫・鈴虫姉妹はどうなったのか。正確はことは分からない。瀬戸内まで逃れ、仏門に生涯を捧げたとも言われるが、一つの伝説として残っているのが、姉の松虫がここに草庵を作って隠棲したというものである。 松虫塚にまつわるもう一つ有名な言い伝えとしては、謡曲「松虫」の題材になっている男の話がある。 昔、仲の良い二人の若者が松虫塚辺りの野を連れ立って歩いていた。そのうち片方が、松虫の音に魅せられて草むらに分け入る。もう一人が、いつまで経っても戻って来ない友を心配して探しに行くと、友は草の上で冷たい骸となって息を引き取っていた。泣く泣く男が友をそこに埋めたのが、松虫塚だというものである。 謡曲「松虫」では、その有様を、友の死骸を埋めた男の亡霊が語るという仕立てになっている。話から分かるように、この辺りは虫の音が美しく響く野原であったわけで、他に伝えられる伝説も、虫の音に関係するものばかりである。 例えば、琴の名手である才色兼備の女性がこの地に住んでいたが、あるとき自分の秘技を尽くした琴の演奏が、野で奏でられる虫の音の美しさに及ばないことを悟り、以後琴を捨てたという伝説がある。また、虫の音をこよなく愛する松虫次郎衛門という人物が住んでいた屋敷跡だという言い伝えもある。 虫の音にまつわるいずれの話も、現在車がひっきりなしに通る松虫通りからは想像もつかない世界である。 そんな幾つもの謂れを持つ松虫塚であるが、案内板を見ているうちに、これが町内会の管理だということを知った。私はてっきり、大阪市や阿倍野区が史跡保存の観点で管理しているとばかり思っていたので、何とも意外だった。 さて、松虫塚を離れた後は松虫の交差点まで戻り、交差点脇から南方向に斜めに延びる細道に入る。これが熊野古道である。道の入り口に、案内板を兼ねた熊野街道の石碑が立つ。前にも書いたが、大阪市内では熊野古道は熊野街道と呼ばれている。 車もほとんど通らない静かな道で、かつては熊野詣の人で賑わった道も、今では地元の人の生活道である。道の両側は住宅が建ち並んでおり、およそ観光客が来そうな感じではない。 熊野古道沿いを200mほど歩いたところで、傍らにある安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)に立ち寄る。住宅街に埋もれるようにして建っているので、私は思わず行き過ぎそうになった。 ![]() 「あれ、安倍晴明神社って京都にあるんじゃないの」と思われた方は、安倍晴明のファンであろう。正解は、大阪と京都の両方にあるのである。どう違うかと言うと、大阪の安倍晴明神社は安倍晴明が生まれた場所にある神社で、京都のは安倍晴明の屋敷跡にある神社ということになる。 安倍晴明は平安時代の陰陽師(おんみょうじ)として有名で、天皇・貴族の信任も厚かった。ただ、その実像については謎の多い人物で、生誕地についても幾つか説があるようだが、有力視されているのは摂津国(せっつのくに)の阿倍野に生まれたという説である。 また、父母の名前もよく分からない。父は、朝廷の食事係である大膳職(だいぜんしき)をしていた安倍益材(あべのますき)だと言われるが、これも諸説あるようだ。半ば神格化した晴明生誕の謂れの方が面白いので以下に紹介しておく。 安倍保名(あべのやすな)と言う男が和泉国(いずみのくに)に参詣に行ったおり、信太(しのだ)の森で猟師に追われて逃げてきた白狐をかくまって助けてやる。やがて白狐は葛乃葉(くずのは)という女性となって保名のもとを訪れ、二人は夫婦となり子供をもうける。子の名は安倍童子(あべのどうじ)と言ったが、5歳の時に母親の正体を見てしまう。葛乃葉はもうここにはいられないと悟り、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を障子に書き残して去ってしまう、というものである。 この話は安倍晴明神社の境内に、神社の縁起として掲載してあるが、有名な伝承らしく人形浄瑠璃や歌舞伎の演目としても取り上げられている。ちなみに、安倍保名が参詣に行ったという和泉国の信田明神(しのだみょうじん)は現在の聖神社(ひじりじんじゃ)であり、白狐を助けた信太の森には、今でも安倍晴明ゆかりの信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)がある。 安倍晴明神社境内には、安倍晴明生誕の地の碑と産湯に使われた井戸の跡のほか、この伝承にちなんだ白狐の化身葛乃葉を祀った石柱などがある。下の写真の左にあるのが、その井戸である。 ![]() 安倍晴明は、陰陽師として天皇の信任が厚かった賀茂忠行(かものただゆき)と、その息子で同じく陰陽師だった賀茂保憲(かものやすのり)に幼い頃から仕え、呪術や占術を中心とした陰陽道(おんみょうどう)を学んだ。幼い頃より、賀茂忠行が驚くほどの優れた資質を有していたと伝えられる。 今昔物語に出て来るエピソードで、夜に牛車で京の街を移動していた賀茂忠行が、車中でうとうとしていたところ、牛車の脇を歩いていた子供時代の安倍晴明が、道の向こうから百鬼夜行が近づいて来るのを発見し忠行に知らせたという話が有名である。 師であった賀茂忠行・保憲親子が亡くなった頃から朝廷内でめきめきと力をつけ、花山天皇(かざんてんのう)、一条天皇(いちじょうてんのう)のほか、朝廷の絶対権力者だった藤原氏の長、藤原道長(ふじわらのみちなが)からも厚い信任を得た。かくして、彼一代の活躍で、安倍氏は師匠の賀茂家と並ぶ陰陽師の名家となるのである。 安倍晴明には陰陽師としての優秀さを物語る伝説があまたあるが、多くは後世の作り話であろう。しかし、彼一人の努力で師匠と並ぶ信用を得たのは事実で、それだけ人を惹きつける才があったのは間違いあるまい。彼は祈祷で病を治し、雨乞いで雨を降らせ、人にかけられた呪いを解いた。また式神(しきがみ)を自在に使役し、占いは神の如くよく当たったと伝えられる。 この時代の説話に、武将渡辺綱(わたなべのつな)が京都の一条戻橋で鬼の腕を切った話や、その師である源頼光(みなもとのらいこう)が丹波の大江山で酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐する話があるが、いずれにも安倍晴明が登場する。渡辺綱が切った鬼の腕をどう扱えばよいか相談を受けたのが安倍晴明であり、京の都で次々と起こる神隠しの犯人を占い、酒呑童子の仕業だと看破したのも安倍晴明である。 安倍晴明の子孫は代々陰陽師として活躍するが、やがて室町時代に土御門家(つちみかどけ)を名乗るようになる。土御門家は明治まで続き、子爵に任ぜられた。 安倍晴明ゆかりの神社とあって、社務所で占い相談をしてくれるようだ。なかなか粋な企画である。 安倍晴明神社は、代々安倍晴明の子孫が神職を務めたが、明治期には衰退し、近くにある阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)の末社となった。境内にも「阿倍王子神社も合わせて訪ねてくれ」という趣旨の案内板が掲げてある。それではその阿倍王子神社に行くことにしよう。 ![]() 私はもう少し大きな神社と思っていたので、再び通り過ぎそうになった。ただ、後で分かったのだが、こちらは正面入り口ではなかったらしく、あべの筋沿いの入り口の方が立派で分かりやすい。この周辺は、かつて安倍野村があったところとされている。 境内にあった解説板によれば、創建の経緯は二説ある。一つは、仁徳天皇(にんとくてんのう)の創建という説で、もう一つは古代豪族の阿倍氏(あべうじ)が建てたという説である。 ここの住所は「大阪市阿倍野区阿倍野元町」だが、この阿倍野という地名の興りは、この付近を支配していた豪族の阿倍氏に由来すると言う。阿倍氏はこの近くに阿部寺(あべでら)という氏寺を建立するが、朝廷内での阿倍氏一族の勢力が弱くなるにつれて寺勢が衰え、やがて阿部寺は四天王寺に吸収されてしまう。そして残ったのが阿倍氏の氏神を祀る社で、これが現在の阿倍王子神社の元になったというのが阿倍氏建立説だが、こっちの方が信憑性がある気がする。 阿部氏は元々皇室に由来を持つ血筋で、飛鳥時代から奈良時代にかけて栄えた。遣唐使として有名な阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)もこの時代の人である。本来奈良にいた阿部氏がこの土地とつながりを持ったのは、大化の改新により都が飛鳥から大阪の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)、つまり難波宮(なにわのみや)に移ったためであると伝えられている。当時の阿部氏本流の阿倍内麻呂(あべのうちまろ)は、大化の改新の際に左大臣に任命されている。蘇我氏(そがし)なき後豪族を代表する重鎮と位置付けられていたのだろう。ただ、阿部氏の本流はその後もずっとここに居住していたわけではなく、都がまた飛鳥に移ると一緒に戻ってしまったと言われている。 そんな阿部氏も平安時代になって勢力が衰え始め、漢字も安部氏に改めている。この鳴かず飛ばずの時代に久々に現れた一族の出世頭が、上に掲げた安倍晴明というわけである。安倍晴明の父母がはっきりしていないのは、当時の安倍氏があまり注目されない存在に落ちぶれていたからではなかろうか。 平安時代に入ってからの阿倍王子神社がどんな状態だったかは不明だが、ここで一つの重要な出来事が起きる。八軒家船着場から始まる熊野古道の王子を、この阿倍王子神社に置くことになり、阿倍野王子(あべのおうじ)と名付けられたのである。 王子については熊野古道を訪ねたおりにも書いた。熊野三山に祀られる熊野権現系の様々な神を熊野古道の道中に祀ったもので、自然信仰的なもの、修験道の手になるもの、道の整備も兼ねて建立されたものなど、出来た経緯は様々である。また形態も、石像や石塔の場合もあれば、小さいながら社を持つものまで色々ある。その数は九十九王子(くじゅうくおうじ)の名で知られるほど多いが、実際には百を超えていたらしい。 この阿倍野王子の場合は、参詣者が立ち寄る四天王寺と住吉大社の中間地点という地の利から、道中整備の意味も兼ねて造られたものと思われる。王子の性格が熊野三山に祀られる熊野権現の系列であることから、現在の阿倍王子神社は、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の、いわゆる熊野三山の末社という位置付けになっている。従って、主祭神も伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、速素盞鳴命(はやすさのおのみこと)のいわゆる熊野権現である。ここにもう一人、応神天皇(おうじんてんのう)も主祭神に加わっているが、これは明治期になって別の神社が阿倍王子神社に合祀されたためである。従って、現在では仁徳天皇が建てたという痕跡も、阿倍氏の氏神が祀られていたという痕跡もない。 以前、大阪市内の熊野古道を、八軒家船着場から天王寺まで歩いたが、道中の王子はいずれも、所在場所は推定されているものの、王子そのものは失われていた。ほとんどの王子は、明治末期の神社合祀政策の中で整理され、他の神社に合祀されて消滅したのである。そうした中で阿倍野王子が残ったのは、ここが王子の一つであると同時に、安倍野村の氏神だったからである。単に王子だけだったなら、この阿倍野王子も消滅していただろう。そんなわけで、大阪市内で熊野古道の王子として現存するのは、この阿倍王子神社だけなのである。 さて、この先の北畠(きたばたけ)からまた阪堺電車に乗り込む予定だが、この駅名にもなっている北畠の地名は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将の北畠顕家(きたばたけあきいえ)にちなんで名付けられている。近くに北畠公園があり、顕家の墓も残っているようなので、せっかく近くまで来たのだから立ち寄ってみることにする。 あべの筋沿いにある公園に着いてみて驚いた。比較的広い公園で、遊具も設置されているのだが、その一角が鉄製の立派な柵で囲われて、周囲には木々が植えられている。ここが顕家の墓所らしい。 ![]() 北畠家は、村上天皇(むらかみてんのう)を祖とする村上源氏(むらかみげんじ)の流れを汲む公家の名門であり、北畠顕家の父は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に仕え篤い信任を得ていた北畠親房(きたばたけちかふさ)である。父の親房は、後醍醐天皇の側近中の側近として皇子の世良親王(よよししんのう)の養育を仰せつかっていたが、親王が早世したため一旦出家して、政治の表舞台から身を引いた。 北畠親房が再登板するのは、鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政(けんむのしんせい)が始まってからである。しかし、ほどなくして、陸奥守を命じられた長男の顕家に随行し、奥州に旅立つことになる。 一方、後醍醐天皇の復古調の政治や性急な改革は、武家や公家の不満を呼び、ついには鎌倉幕府滅亡の立役者のひとり足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗を翻し、建武の新政から離反するという事件が起きる。後醍醐天皇は尊氏と並ぶ武将であった新田義貞(にったよしさだ)に尊氏追討を命じる。この時、参戦したのが、奥州に下っていた北畠顕家なのである。 新田義貞は、鎌倉に居座る尊氏を一旦箱根近くまで追い詰めるが、尊氏の軍が反撃に転じ、逆に京まで押し戻される。そこに奥州から駆けつけた北畠顕家の軍勢が合流し、楠木正成(くすのきまさしげ)の軍勢もこれに加わって反撃に出た結果、足利軍は敗れ、九州に敗走する。その後顕家は一旦奥州に帰還している。 ところが、九州に落ち延びた足利尊氏は、再度体制を整え西国の武士たちの協力も取り付けながら、京を目指して上って来る。これを迎え撃つべく新田義貞と楠木正成の軍が西に進み、足利尊氏軍と現在の神戸で激突する。有名な湊川の戦い(みなとがわのたたかい)である。この戦いは尊氏方の勝利に終わり、楠木正成はここで討ち死にする。 新田義貞は近江まで敗走して逃げ延び、京都を占領した足利尊氏と向かい合う。しかし、独断で尊氏と講和を結ぼうとした後醍醐天皇の身勝手な行動から内部分裂が生まれ、義貞に従う軍勢は北陸に転進することとなった。義貞は北陸でも足利軍の追撃を受け、次第に兵力が減っていく。 そんな状況下で、上洛の目処を立てた北畠顕家の軍が奥州から動き出す。数万の軍勢を従えた顕家は、関東に散らばる足利方の拠点を次々に潰して行き、現在の三重県から奈良県に進み、大阪の南部に侵攻する。一方足利方は京都から大規模な顕家討伐軍を差し向け、現在の天王寺から堺にかけての辺りで一進一退の激戦を展開する。戦いは3ヶ月にも及ぶが、やがて顕家の軍は消耗して劣勢となり、最後は顕家と伴の者ら20騎を足利方が取り囲み、あえなく顕家は討ち死にする。北畠公園の解説板によれば、享年21となっている。 北陸で抵抗を続けていた新田義貞が戦死するのはその2ヶ月ほど後のことであり、北畠顕家と新田義貞はついに合流して力を合わせることなく亡くなった。両者の間に反目があったという説もあるみたいだが、お互い自らの活路を開くのに精一杯だったのではないかという見方もあるようだ。 北畠家は武家ではなく公家である。村上源氏の流れを汲むが、父の北畠親房は今で言う政治家として天皇に仕え、軍勢を率いて武士として戦ったことはない。武士として育てられたわけでもない息子の北畠顕家が軍を率いて戦い、数々の勝利をものにしたのは驚くべきことで、それゆえ物語では、文武両道に秀でた貴公子として描かれることが多い。凛々しい美男子というイメージに加え、わずか21歳で亡くなった悲劇のヒーローという設定も功を奏し、ファンも多いと聞く。しかし本当はどんな人だったのだろうか。 さて、北畠公園を後にして、また熊野古道に戻り、再び阪堺電車に乗るべく北畠の駅に向かう。駅と言っても、道路の真ん中にコンクリートの台があるだけの簡素なものである。 ![]() 北畠の駅のある場所は、交通量の少ない道路で、何となくのどかな風情がある。目の前にいた電車にはあと僅かのところで間に合わず、暫し道路の真ん中で次の電車を待つ。道幅が広いにもかかわらず自動車もほとんど来ず、実に静かなものである。 暫く待ってやって来た電車は、見たことのないタイプの車両で、一つの長い車両が3分割されてつながっており、三両編成みたいに見える。中に乗り込んで見てみると、連結部分が曲がるようになっていて、急なカーブでも支障のない構造になっている。う〜ん、レトロな路面電車のイメージだったが、進化しているんだ。 ここまでのところで、何両も路面電車を見たが、一両仕立ての普通の電車でもデザインがまちまちで、同じ車両を見ることがなかった。どうしてこんなに車両のタイプがたくさんあるのか知らないが、鉄道ファンにとっては楽しみなことかもしれない。 北畠を出て南に下り、途中高級住宅地として有名な帝塚山(てづかやま)を通る。大阪の人というのは不思議なもので、成功すると中心部から離れていく傾向にある。帝塚山も中心部から離れているが、高級住宅地として人気のあるエリアである。更に言えば、大阪市内を離れて阪急沿線に住むのが理想だという声もよく聞いた。芦屋(あしや)とか岡本(おかもと)とか人気が高いらしいが、いずれも大阪中心部からは時間がかかる。東京の場合は、成功者は都心に回帰していく傾向にあるが、どうしてなんだろうと不思議に思った。 阪堺電車は地面を走っているものとばかり思ったが、途中高架になっているところがあり、南海電車がその下をくぐっている。道路の上を走っていたかと思うと専用の線路になり、また道路に戻るといった変化があり、電車好きなら一度乗ってみる価値はあるのではないか。 そうこうしているうちに、住吉鳥居前(すみよしとりいまえ)の駅に着いた。住吉大社が次なる目的地である。電車は鳥居の前で停車し、横断歩道を渡って参道に入る。何でもない日でも結構な賑わいである。外人観光客もたくさん来ている。安倍晴明神社や阿倍王子神社と違って、さすがに人気の高い神社だと感心する。 住吉大社は大阪屈指の有名神社で、大阪の人はみんな「すみよしさん」と呼んでいる。毎年初詣の時には参拝者で大いに賑わうと聞く。住吉神社は全国にあまたあるが、博多、下関と並んで、大阪の住吉大社は日本三大住吉(にほんさんだいすみよし)とされている。 住吉神社が祀っているのは住吉三神(すみよしさんじん)と呼ばれる底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)だが、これらはいずれも海の神様である。そして住吉大社にはもうひとり、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、我々が知っている名前で言うと、三韓征伐(さんかんせいばつ)で有名な神功皇后(じんぐうこうごう)も祀られている。 神功皇后は、全国全ての住吉神社に祀られているわけではないが、日本三大住吉ではいずれも祀られている神様である。まぁ、神様といっても皇后なんだが、神話時代の人なので実在が疑われている。そういう意味では神様の一種なんだろう。 日本神話の最初に国産み・神産みの話があり、熊野にも祀られている伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が出て来る。二人は男神と女神で、日本の国土や自然を構成する様々な神を生んでいく。だが、伊邪那美命は火の神を産んだ際にやけどを負い亡くなってしまう。妻を失った夫の伊邪那岐命は、死んだ伊邪那美命を慕って黄泉の国まで逢いに行くが、既に伊邪那美命は腐敗し醜い姿に変貌している。驚いた伊邪那岐命は黄泉の国を脱出し、黄泉の穢れを落とすために浜辺で禊を行うのだが、その際にも多数の神が生まれる。住吉三神は伊邪那岐命が海に入って禊を行っている最中に生まれたとされ、海に馴染みの深い神様とされた。 そんな経緯からも分かるように、主要な住吉神社は浜辺や海に近いところに建立された。海難事故の多かった時代に守り神として信仰されたわけである。従って、この大阪の住吉大社も、境内にある案内板で古代の地図を見ると、砂浜の手前にあったことが分かる。 当時この辺りは住吉津(すみのえのつ)と呼ばれていたようだ。住吉は古くは「すみのえ」と発音されていたらしく、現在の住吉区の西隣にある住之江区(かつては住吉区の一部)にその名前が引き継がれている。しかし現在では、周りを見渡しても海はなく、海岸線は遠い西のかなたである。まぁつまり、それだけ埋め立てが進んだということになろう。 実は、古代の住吉津からは、飛鳥まで続く磯歯津路(しはつみち)と呼ばれる官道が延びていたらしい。日本書紀によれば、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に整備されたもので、大陸から船で渡って来た人が、当時の政治の中心だった飛鳥まで来るために利用した道だとされている。残念ながら、どのルートだったのかはハッキリしないが、この住吉大社近くから延びていたことは間違いないようだ。 さて、住吉大社に入ると、冒頭の写真にあるシンボルの太鼓橋が出迎えてくれるが、正式名称は反橋(そりはし)というらしい。川端康成の小説の題名にもなっている。歩いてみるとかなりの急勾配で、上がる時はまだしも、下りる時は少々おっかない。初詣のときはどうしているんだろうかと心配になる。 太鼓橋を渡ると本殿となるが、これが少し変わった構造になっている。本宮が四つあり、うち三つは東西方向に縦に並び、最後の一つはその南側に建てられている。それぞれの建物は住吉造(すみよしづくり)という古い様式で建てられており、国宝に指定されている。 ![]() 上の写真の中心に写っているのが第三本宮であり、左奥に向かって第二本宮、第一本宮と並ぶ。写真右手に第三本宮と並んで写っているのが第四本宮である。 第一本宮は、住吉三神のうち底筒男命、第二本宮は同じく中筒男命、第三本宮は表筒男命が祀られていて、第四本宮に息長足姫命、つまり神功皇后が祀られているという構成である。お蔭で4回賽銭をまかなければならないわけで、なかなかよく出来た造りである。 なお、伊勢神宮など古くからある神社で行われているのと同様に、ここ住吉大社においても20年に一度本殿を新しく建て替える式年遷宮が行われて来た。最近では平成23年に式年遷宮があったが、本殿は国宝なので、修理を行うだけに留められたようだ。まぁそうだろうなぁ。 ここに神功皇后が祀られているのは、住吉大社創建の伝承にからんでいる。三韓征伐で知られる神功皇后は、神の宣託を受けて朝鮮半島に出兵し、新羅を降伏させ高句麗と百済も配下に置いた女傑である。この海外遠征の際、海路の安全を住吉三神に祈願している。 彼女が率いる軍船が船出したのは現在の北九州からだが、伊邪那岐命が海岸で禊をして住吉三神が生まれたのは博多の浜辺とされていて、現在そこには住吉神社が建てられている。この博多の住吉神社は、住吉神社の発祥の社と伝えられている。神功皇后は、まさにこの発祥の地の住吉三神に海路の安全を祈願したわけである。 その後、彼女が凱旋帰国して無事に畿内に入った際、神託に基づいて地元豪族に住吉三神を祀らせたのが、この大阪の住吉大社の始まりとされている。神功皇后と住吉三神はそういう絆で結ばれているわけだが、神功皇后自身が祀られたのは、後になってからのことである。 住吉大社は川端康成の小説の舞台になっただけでなく、紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語(げんじものがたり)にもたびたび登場する。明石入道(あかしのにゅうどう)、その娘で光源氏(ひかるげんじ)の愛人である明石の君(あかしのきみ)は、住吉信仰に支えられており、幾度も住吉大社が物語に登場する。光源氏自身も物語の中で2度住吉大社に参拝しており、格別の取扱いである。当時からここが広く信仰を集めていたことに加え、作者の紫式部もそれなりに住吉詣でに入れあげていたのではなかろうか。 また物語ということでは、御伽草子(おとぎぞうし)に登場する有名な一寸法師(いっすんぼうし)も、始まりは住吉大社である。子宝に恵まれなかった老夫婦が住吉大社に参り、子供が生まれるように祈願する。生まれた子供は身長が一寸しかなく、何年たっても大きくなることはなかったので一寸法師と呼ばれるようになる。一寸法師がお椀を船に箸を櫂にして旅立つのは、この住吉津からである。 海の神様がどうして子宝の神様となるのか分からないが、子宝と言えば住吉大社境内に、出産にちなんだ誕生石(たんじょうせき)というのがある。 ![]() 飾ってある提灯の家紋は薩摩藩の島津家のものだが、ここが島津家の始祖である島津忠久(しまづただひさ)の生まれた場所とされている。 鎌倉幕府の有力御家人である比企能員(ひきよしかず)の妹、丹後内侍(たんごのないし)は源頼朝(みなもとのよりとも)の寵愛を受けて懐妊したが、妻の北条政子(ほうじょうまさこ)の知るところとなり、殺害されそうになって家臣の手引きで遁走する。住吉大社近辺に来たところで日も暮れ雷雨となり途方にくれていたところ、狐火がともり、それに導かれて住吉大社の入り口まで来て産気づく。家臣が住吉大社に祈願する中、丹後内侍は傍らの大石を抱いて男児を出産する。これが後の島津忠久であり、成長したところで源頼朝から薩摩と大隅の二ヶ国を賜る。こうして薩摩藩が生まれた、という話になっているが、まぁ作り話だろうなぁ(笑)。 古い神社だけあって境内には他にも、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって奉納された日本三舞台のひとつ石舞台(いしぶたい)や、神功皇后以来の御田植神事が行われる御田(おんだ)、大阪最古の書籍収納庫と言われる土蔵造りの御文庫(おぶんこ)など、幾つもの見所がある。かなり時間をかけて境内を散策し、色々見てまわった。 その後、また阪堺電車の住吉鳥居前の駅に行き、今度は来た時とは別の阪堺線の路面電車に乗る。阪堺線は、恵美須町と堺市とを結んでいるが、今回は西成区を北に上がっていく電車に乗る。 車窓から見ていると、たまに駅舎を持った停留所もあるが、木造のレトロなものが多い。暫し乗って降りたのは、天神ノ森(てんじんのもり)という駅である。住宅地の裏に路面電車専用の線路が通っており、どう見ても地元の人しか降りないような地味な停留所だ。一緒に降りた何人かの人はこの近くに住んでいるようで、足早にあちこちの路地に消えていった。私はと言えば、どちらに行ったものかと暫し考え、地図を見ながら狭い路地を曲がる。すぐのところに天神ノ森天満宮(てんじんのもりてんまんぐう)の入り口があった。 駅名にもなっている天神ノ森だが、昔は広大な森が広がる鄙びた土地だったという。今では周囲を住宅地に囲まれて寂しい限りだが、当時の面影を偲ぶものとしては境内にある樹齢数百年の楠くらいだろうか。 ![]() この辺りにかつてあった森は、別名を紹鴎の森(じょうおうのもり)という。茶人として有名な堺の豪商武野紹鴎(たけのじょうおう)が、ここに晩年隠棲していたからである。紹鴎は、この森に湧く水の良さにほれ込んで茶室を建てて暮らしていたようだ。 武野紹鴎は商家に生まれたが学問好きで、和歌を学んだ後、31歳で出家している。元々薬として日本にもたらされたお茶は、禅宗とともに精神修養の道具として広まり、日本でも広く栽培され始めると、嗜好品として一般人にも飲まれるようになった。娯楽的要素が多かった初期の茶会に対して、亭主が客を招きいれて精神的な交流を行う現在の茶会形式を確立したのは、室町時代の茶人村田珠光(むらたじゅこう)だと言われている。こうした茶会の在り方を受け継いだのが武野紹鴎であり、千利休(せんのりきゅう)が完成させたというわび茶につながっていく。 武野紹鴎は村田珠光から直接茶を習ったのではなく、その孫弟子に当たる。禅宗の流れを汲んだお茶の在り方として茶禅一味(ちゃぜんいちみ)を追求し、亭主と客とが向き合うための3畳前後の狭い茶室を考案したと言われる。出家して後は、堺にある臨済宗大徳寺派の南宗寺(なんしゅうじ)に参禅したが、お茶に関してはもっぱら京都で研鑽を積んだ。ちなみに南宗寺は千利休も修行をした寺である。 さて、この天神ノ森天満宮の楠の下には、安産の神様として信仰されている子安石が祀られている。評判を聞きつけた豊臣秀吉が、淀君懐妊の際に安産祈願のため参詣したとも伝えられる。秀吉が来た頃には、周囲は鬱蒼とした森だったのである。 この神社境内にはもう一つ興味深いものがある。天下茶屋あだ討ち供養塔(てんがちゃやあだうちくようとう)である。この供養塔は元々境内にあったのではなく、あだ討ちの現場になった、ここから50mほどの出口橋のたもとに立っていたと伝えられている。 あだ討ちそのものは有名な話らしく、後に歌舞伎の演目となり人気を博したと聞く。時代は、秀吉の死後に石田三成を中心とした豊臣方と徳川家康とがにらみ合っていた頃である。舞台となったのは宇喜多秀家(うきたひでいえ)が治めていた備前岡山で、藩の内紛から話は始まる。当主の秀家は石田三成方についたが、家臣の長船紀伊守(おさふねきいのかみ)は家康側につく。こうした対立の中で、家老の林玄蕃(はやしげんば)が長船方の当麻三郎右衛門(とうまさぶろうえもん)に闇討ちに遭って殺され、当麻三郎右衛門は遁走して行方をくらます。 林玄蕃の息子である林重次郎(はやしじゅうじろう)・源三郎(げんざぶろう)兄弟は、父のかたきを討つべく当麻三郎右衛門の行方を捜す。兄の重次郎は一旦当麻を追い詰めるが、病気の身であったため返り討ちに遭い殺されてしまう。 その後、弟の源三郎は、当麻が名前を変えて豊臣秀頼と淀の住吉大社詣での一行に紛れ込んでいるのを発見し、木村重成(きむらしげなり)、片桐且元(かたぎりかつもと)の協力を得て、この近くで父と兄のかたきを討つ。当麻三郎右衛門闇討ちから9年目のことだったという。 さて、この天下茶屋あだ討ち供養塔の前を抜けて一般道に出る。片側一車線の道路だが交通量は多くなく、静かな道である。実はこの道が、かつて大名行列で賑わった紀州街道(きしゅうかいどう)なのである。大阪と堺を結んでおり、住吉大社参詣にも使われたことから、住吉街道の名もあったと聞く。今では他に幹線道路がいくつもあるから、静かなものである。 豊臣秀吉もこの道を使って住吉大社に参詣したり堺を訪問したりした。その秀吉が道中で必ず立ち寄ったとされる茶屋が、有名な天下茶屋(てんがちゃや)であり、道路を挟んで天神ノ森天満宮の向かい側にあったと伝えられている。 ![]() この紀州街道沿いの森を切り開いて最初に茶屋を開いたのは、南北朝時代に活躍した武将楠木正成の遠い子孫である芽木(めぎ)氏であり、当主は代々芽木小兵衛を名乗った。三代目芽木小兵衛の時代に、住吉大社参拝のおりに豊臣秀吉が立ち寄る。茶店が使っている湧き水で、同行した千利休に茶を立てさせたところ、あまりのおいしさに感服する。秀吉はこの水に「恵水」の銘をつけ、芽木氏は年に玄米三十俵の朱印を与えられた。 その後も秀吉は、住吉大社参詣や堺訪問のおりにこの茶店に立ち寄り茶会を開いたので、関白殿下が立ち寄る茶屋ということで「殿下の茶屋」と呼ばれるようになり、それが変化して現在の地名である「天下茶屋」となった。 ここで千利休が茶を立てたのは、師匠である武野紹鴎が隠棲した場所だったことと無縁ではあるまい。その水のおいしさにほれ込んで紹鴎が茶室を開いていたことを知っていたがゆえに、間違いない場所としてここの水を使ったのだろう。あるいは、利休が秀吉に水のうまさを宣伝したのかもしれない。 いずれにせよ茶店は大いに繁盛した。石碑の傍らにある説明版を見ると、その規模は5000平方メートルというから、時代劇に出て来る茶店とは比べ物にならない。紀州街道沿いに三つの門を持ち、庭に池があり、能舞台まで設えられている。建物内には宿泊用に御殿があり、江戸時代には紀州侯はじめ諸大名も宿泊したという。およそ茶店というイメージではない。 天下茶屋は明治期以降も存在していたが、第二次大戦中に空襲で焼け落ちてしまった。残っていれば貴重な文化遺産だったろうが、まことに残念なことである。 さて、天下茶屋跡を後にして、旧紀州街道を北上する。暫く歩くと西側に公園が現れる。天下茶屋公園という比較的広い公園だが、この園内に、阿倍野という地名の興りになった古代豪族阿倍氏の氏寺、阿部寺の塔心礎が残っているのである。 ![]() 阿部寺がここにあったのかというとそういうことではなく、阿倍野区にある松長大明神(まつながだいみょうじん)の境内にあったものを、ここに移したのである。この公園は元々、近江発祥の薬屋である是斎屋(ぜさいや)が江戸時代に店を開いた場所で、紀州街道沿いという地の利も味方してよく繁盛したという。ただ、どうしてここに阿部寺の塔心礎が移されたのかは不明である。 松長大明神は、今の天王寺駅の南の方にあったようで、現在ではわずかに阿部寺跡推定地の石碑が立つだけと聞く。当時の阿部氏は、当主阿部内麻呂が左大臣として重用されており、かなりの権勢を誇っていたものと思われる。その氏寺として建てられた阿部寺も、阿部寺千軒坊という呼び名が残っており、大伽藍を持っていたようである。 この阿部寺塔心礎も、元々阿部寺があった場所近くに移していればもう少し注目されたと思うが、遠く西成区まで持って来たら、わざわざ見に来る人は少ないだろう。ちょっと残念なロケーションである。 概ね見るべきものは見たので、再び路面電車に乗って帰ることにする。最寄の駅は聖天坂(しょうてんさか)であるが、この駅は専用の線路に沿って屋根付きの待合所がある。椅子に座ってのんびりと電車を待つ。周囲は静かな住宅地であり、地元の人しか利用しない駅だろう。 やがてやって来た電車に乗り込み、終点の恵美須町まで行く。地元の人の生活の足とばかり思っていたが、何と外人観光客が複数名乗っている。私の前の夫婦連れと思えるフランス人は、立派な一眼レフカメラをぶら下げていて、住吉大社の帰りなのかなと思った。他にも中国からの観光客と思われるグループがいた。車内放送も日本語だし、掲示も専ら日本語だが、皆さん問題なく使いこなしておられる様子。運賃が一律210円というのがポイントだろうか。好きに乗って、降りるときに料金箱に210円入れるだけだから、簡単といえば簡単だ。 やがて電車は終点の恵美須町に着く。通天閣のあるエリアの北西部分に駅がある。このまま地下鉄で帰っても良かったのだが、せっかく近くまで来たのだからと、今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)に立ち寄ることにする。以前にも来たことがあるが、駅から歩いて5分ほどの場所にある。 ![]() 今宮戎神社は縁起によれば、聖徳太子が四天王寺を建立した際に、西方の鎮護として建てたとされている。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、事代主(ことしろぬし)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)、稚日女尊(わかひるめのみこと)の5神だが、二人目の事代主が七福神のえびす様とみなされており、もっぱら商売繁盛の神様として信仰を集めている。住吉大社のことを大阪人は「すみよしさん」と呼ぶと書いたが、今宮戎神社の愛称は「えべっさん」である。 えびす様は普通、釣竿を持ち釣り上げた鯛を抱えた姿で描かれることから分かるように、海神であり漁業の神様である。古代の大阪は大半が海になっており、四天王寺のある上町台地が南から北に向かって海に突き出る半島のようになっていた。位置関係から言えば、この地も海岸近くであり、当初は海の神として信仰を集めたのだろう。 しかし、商業が発達すると、海産物と農産物の交換を行う市が生まれ、この近辺でも四天王寺の西側に「浜の市」という市が立つようになる。この頃から今宮戎神社は、漁業だけでなく商業の神として信仰されるようになったというのが、神社側の解説である。 今宮戎神社と言えば、毎年1月9〜11日に行われる十日戎(とおかえびす)の祭事が有名である。「商売繁盛で笹持ってこい」のお囃子が響く中、たくさんの商売人が訪れ、福笹(ふくざさ)や縁起物の飾りを買い求める光景は、大阪の季節の風物詩としてよくニュースに登場する。この三日間で百万人を超える人が参詣に訪れるというが、境内はビックリするほど狭い。上の写真に写っているのが、ほぼ全てである。ここに毎日数十万人が来たらどうなるんだろうという規模である。私は今宮戎神社の狭さを知って、恐ろしくて十日戎には近寄らなかった。 十日戎の福笹は、白装束に金色の烏帽子をつけた福娘(ふくむすめ)が渡してくれるが、この福娘になるのは大変な倍率の競争らしく、大阪では十日戎の福娘をやっていたというだけで箔が付くと聞く。 それにしても、普段は実に静かな神社である。住吉大社と違って参拝客はほとんどいない。商売人の皆さんは、日頃は商売に忙しくて参拝している場合じゃないのだろう。十日戎は、大阪が商都として栄えた江戸時代から活気溢れる祭事になったという。十日戎が賑わう限り、大阪の商売人魂は健在ということなのだろう。 さて、今日は熊野古道に紀州街道と、大阪から南に延びる昔の重要な官道を歩き、住吉大社と今宮戎神社という、大阪人なら誰でも知っている有名神社を訪ねた。今日ちょっと話題に挙げた堺は、この近辺の歴史を知るうえで重要な街だが、まだ紹介していなかったなぁ。次回にでも紹介しよう。 恵美須町の駅まで戻り、もう一度通天閣を見上げてから地下鉄の階段を下りて家路についた。 |
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