パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■大津を訪ねる |
琵琶湖疏水(びわこそすい)に関連して、前回伏見を紹介した。ただ、琵琶湖疏水となると、そもそもの始まりの琵琶湖を紹介しないわけにはいかない。京都市内を流れる疏水の水は、全て琵琶湖に端を発しているからだ。今回は、琵琶湖疏水の取水場のある滋賀県の大津(おおつ)を散策しがてら、歴史の足跡を眺めようという趣向である。 さて、日本人なら誰でも知っている琵琶湖だが、関西の人にとって琵琶湖観光といってもあまり盛り上がらないようだ。私も大学時代の4年間を京都で過ごしたが、琵琶湖に遊びに行こうなんて話は一度もなかった。関西に勤務していた頃にも、琵琶湖周辺にドライブに行くという話は聞いたことがあるが、名所旧跡を訪ねるという人はいなかった。おそらく、関西以外からやって来る一般観光客にとっても同じではないか。 大阪から大津まではJRの新快速で40分の距離である。そういう意味では気軽に行ける場所なのだが、その手前に京都があるのが大きいのではないか。わざわざ大津まで行かずとも、京都で降りて充分観光できる。ちなみに、京都は世界遺産だらけだが、滋賀県には世界遺産がない。正確に言えば、世界遺産の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)は滋賀県大津市坂本本町にあるのだが、まとめて「古都京都の文化財」として登録されているので、京都の一部であるかのようになっている。これには滋賀県の人が憤っていた。 まぁ最初に随分マイナスのイメージを書いたが、古都としては京都よりも大津の方が古い。古都と言うと奈良と京都が最初に思い浮かぶが、大津にも都が置かれていた時代がある。そもそも大津の歴史は相当に古いものなのである。 既に縄文時代から大津周辺には人が住んでいたようだが、その中から地方豪族として発展していく一族が複数出て来た。また、中国や朝鮮半島から渡って来た渡来人の一族も琵琶湖周辺に定住し、新しい文化や技術をもたらした。そう考えると、古代日本において大津周辺は先進的な地域だったのではなかろうか。 そんな中で都が大津に移って来るのは、第12代の景行天皇(けいこうてんのう)の頃のことと古事記には記されている。現在の大津市穴太(あのう)にあったとされ、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)という名前だったようだ。 ちなみに、穴太は優秀な石工集団が住んでいた地域であり、加工を施さない自然石を積み上げ、隙間に小石を詰めて石垣を作る技術を持っていた。これを穴太衆積みの石垣(あのうしゅうづみのいしがき)というが、穴太衆は近くの比叡山の寺社建造のために多くの石垣を造った。この技術を見込んで、豊臣秀吉が城の石垣造りに穴太衆を活用したと言われている。 上は、比叡山の麓の坂本(さかもと)にある穴太衆積みの石垣である。坂本は、比叡山延暦寺の門前町として古くから栄えた地で、延暦寺の高僧が余生を過ごした里坊(さとぼう)がたくさん残る歴史ある町である。坂本の古い街並みを歩くと、至るところにこの石垣があり、寺社だけでなく、一般の人々の生活インフラの一部だったことが覗える。 以前、大阪城を紹介した時に、秀吉が築いた頃の石垣が一部出土していて見学できると書いたが、大阪のドーンセンター脇に展示されている自然石を組んだ石垣は、この穴太衆積みのものではなかろうか。 ところで、この大津の最初の都であるが、元々景行天皇は神話時代の人で、実在したか確かではない。また、穴太にある高穴穂神社(たかあなほじんじゃ)に志賀高穴穂宮跡とされる場所があるが、発掘などを通じて確認されたことはない。従って、神話に出て来る幻の都ということになろう。 しかし、発掘も行われ実在が確実視されている都が大津にもう一つある。それが近江大津宮(おうみおおつのみや)である。 場所は、京阪石山坂本線の近江神宮前駅(おうみじんぐうまええき)の脇で、小さな駅を降りれば線路沿いの道にもう近江大津宮跡の発掘場所が見える。発掘場所はここだけでなく、住宅地の中に幾つか分散して存在するが、ぐるりと一回りすれば全て見て回れる規模である。ただ、この辺りの住宅に全てどいてもらわないと、遺跡の全貌を知るのは難しかろう。現地にある解説板によれば、正式名称は近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)と言うようだ。 駅名から分かるように、このすぐ近くには近江神宮(おうみじんぐう)がある。この神社は、近江大津宮がここにあったという伝承を踏まえて皇紀2600年に当たる昭和15年に創建された新しい神社で、実際の発掘で本当に遺跡が出て来て、関係者もほっと胸を撫で下ろしているに違いない。何故なら、近江大津宮の所在地をめぐって長年論争があったからだ。記録上では近江に都を移したとしか書いていないのだから、掘ってみるまで分からなかったのである。近江大津宮の場所が確定したのは1970年代のことらしい。 さて、この近江大津宮はどういう経緯でここに移って来たのか。飛鳥からここへ遷都を行ったのは天智天皇(てんちてんのう)である。天智天皇はご存知のように、朝廷で権勢を振るっていた蘇我氏(そがし)親子を、盟友、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に滅ぼし、大化の改新を行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)その人である。 大化の改新によって新しい政治の始まりになるはずだったが、その15年後に朝鮮半島において、日本の友好国だった百済(くだら)が唐(とう)と新羅(しらぎ)に滅ぼされるという事件が起きる。これに対して我が国は、即座に朝鮮半島に援軍を送り、百済の残存勢力と共に、唐・新羅連合軍と交戦する。いわゆる白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)である。この戦いに備えて中大兄皇子が九州に滞在している間に、母の斉明天皇(さいめいてんのう)が亡くなってしまう。 ここで勝っていれば、次期天皇である中大兄皇子の華麗なスタートということになるが、実際には大敗を喫し、多くの軍を失うという手痛い結末を迎える。それだけではなく、大国の唐が海を渡って日本を追撃して来る可能性も出て来て、日本国内は一気に緊迫する。近江大津宮への遷都は、こうした情勢の中での中大兄皇子の決断であり、中大兄皇子は近江大津宮で即位して天智天皇となるのである。何故、わざわざ遷都までしなくてはならなかったのか、その理由は実のところハッキリとはしていない。 こうして出来た近江大津宮だが、その命は短く、わずか5年で再び遷都となる。この遷都は、先ほどの外憂ではなく内患によるものである。天智天皇の後継を巡って、多数の豪族を巻き込む内戦が勃発したのである。 天智天皇は当初、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を後継の天皇に据えるつもりだったようだが、やがて自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を次期天皇にしようと心変わりする。大海人皇子は一旦これを受け入れて、自ら出家し吉野へ移る。しかし、天智天皇が崩御すると、出家した大海人皇子が大友皇子に反旗を翻し挙兵する。いわゆる壬申の乱(じんしんのらん)である。 この大規模な内戦により大海人皇子が勝利し、皇位を手に入れ天武天皇(てんむてんのう)として即位することになる。天武天皇は、飛鳥に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造営し、近江大津宮から遷都するのである。結局近江大津宮は、天智天皇一代限りの都ということになる。 その後、奈良の平城京の時代になって、二度ほど大津周辺に宮殿が置かれたことがあるが、離宮だったり、一時的なものであったりで、本格的な都とは言えないだろう。 5年であっても天皇が常駐して政治を行う首都機能を大津が担ったことは大きいが、この近江大津宮を造営した天智天皇と縁のある寺が三井寺(みいでら)である。 壬申の乱で敗北し自害した大友皇子には、与多王(よたのおおきみ)という皇子がいた。与多王は、父の菩提を弔うために自らの領地を寄進して寺を造営することを願い出る。天武天皇として即位した大海人皇子はこれを許し、天智天皇が大事にしていた弥勒菩薩像を本尊とした寺が大津の地に造営される。これが三井寺である。この本尊の弥勒菩薩像が安置されているのが上の写真の金堂だが、秘仏とされ、公開されたことがない。この金堂、実に威風堂々として立派である。またかなり大きい。 三井寺造営の願い出に対して、天武天皇はこの寺に名を贈っている。みんなの知っている三井寺という名前ではなく、園城寺(おんじょうじ)という名前である。与多王が領地を寄進して寺を建てるということで、寄進した「田園城邑」(土地と屋敷)の漢字にちなんで付けられた名である。通常は三井寺と呼んでいるが、あくまでも正式名称は園城寺である。 では三井寺というのはどこから来た名前かということになる。これは上の写真の金堂の向かって左脇にある閼伽井屋(あかいや)内の井戸にちなんだニックネームである。 閼伽井(あかい)は、仏前に供える水を汲むための井戸のことで、その上を覆う建物を閼伽井屋と呼んでいる。閼伽井屋の格子越しに中を覗くことが出来るが、井戸というより湧き水であり、ボコボコと音がして水が湧いている。お寺側では霊泉と呼んでいるようだ。 この井戸というか湧き水が三井と言われているのは、近江大津宮を造った天智天皇、壬申の乱を勝ち抜いて皇位についた天武天皇、そして天武天皇の皇后で夫の死後に即位する持統天皇(じとうてんのう)の3代の天皇の産湯として使われたという伝承があるからである。 どうして3代にもわたって、と思われるかもしれないが、先ほど述べたように天智天皇と天武天皇は実の兄弟である。そして持統天皇は天智天皇の娘という関係にある。つまり、天武天皇はめいを皇后にしたのである。同時代のごく近しい者同士なので、まぁそんなこともあったかなという感じがする。しかしそうなると、三井寺を建てたのは天智天皇の孫なんだから、お寺が出来る前の出来事かということになるが、まさにそうなのである。先に井戸があってその後お寺が出来たという順序になろう。ただ、この三井寺には、前身となる古代豪族の氏寺があったという説もある。 この湧き水には竜が棲んでいるという言い伝えがあるようである。霊泉の大きさからすれば随分小さな竜ということなるが、年に10日、夜中に現れると言われ、その時には閼伽井屋の近くに行ってはいけないとされている。その言い伝えによるものか、閼伽井屋の扉の上には左甚五郎(ひだりじんごろう)作の竜の彫刻がある。伝説の竜だけではなく、この左甚五郎の竜も夜な夜な琵琶湖に出ては暴れるために、目のところに五寸釘を打ち込まれたというシロモノである。 そう書くと、飛鳥時代に造営されたお寺なのに、どうして江戸時代の彫刻師である左甚五郎が登場するんだと疑問が湧くかもしれない。実は、創建当時の建物は、三井寺にはほとんど残っていないのである。その背景には比叡山との対立がある。 三井寺を大きく発展させた僧に円珍(えんちん)がいる。高野山(こうやさん)に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)の甥だが、比叡山に学び、天台宗の僧として延暦寺第5代座主に上り詰めた。一方、比叡山延暦寺を開いた最澄(さいちょう)の忠実な直弟子に円仁(えんにん)という高僧がいて、こちらは第3代の天台座主を務めている。やがて円珍没後、比叡山は円仁の流れをくむ者と円珍の流れをくむ者で大きく対立し、円仁派は比叡山延暦寺に、円珍派は三井寺に本拠を構えてたびたび武力衝突に発展した。この対立のお蔭で、三井寺は数十回にわたり焼討ちに遭っている。 一方、三井寺にとって幸いだったのは、源氏を中心とした武家の信仰を集め、その庇護を受けたことである。ことの起こりは、平安時代に起きた前九年の役(ぜんくねんのえき)まで遡る。陸奥の豪族安倍一族が反乱を起こしたときに、息子で八幡太郎(はちまんたろう)の異名を持つ源義家(みなもとのよしいえ)と共に鎮圧に出向いた源頼義(みなもとのよりよし)が戦勝祈願したのが、この三井寺なのである。その縁で源頼朝(みなもとのよりとも)やその妻北条政子(ほうじょうまさこ)も三井寺を保護した。何十回と焼討ちに遭っても再興できたのは、武家の信仰のお蔭である。 三井寺には見所が多いが、もう一つだけ紹介しておくとすれば、鐘楼だろうか。 三井寺の鐘は「三井の晩鐘(みいのばんしょう)」として、その音色の美しさで知られ、日本三名鐘(にほんさんめいしょう)の一つになっている。残る二つは、宇治の平等院(びょうどういん)と京都高雄にある神護寺(じんごじ)の鐘である。また、三井寺の鐘は近江八景(おうみはっけい)の一つに数えられている。 どんな音色なのか知りたければ、300円払ったら撞かせてくれる。お金払って鐘を撞かせるというのは、私が回ったお寺の中では初めてである。普通、鐘を撞かせてくれないか、自由に撞かせてくれるかのいずれかである。何だか商業主義に堕したようで失望し、私は撞かなかった。さして参拝者は多くない日だったせいか、誰も撞いていなかったので、結局その300円の音色は聞けなかった。 ところで、三井寺には3つの鐘がある。写真の三井の晩鐘以外に、弁慶の引き摺り鐘(べんけいのひきずりがね)と朝鮮鐘(ちょうせんしょう)である。 三井寺の朝鮮鐘は11世紀に朝鮮半島で造られた鐘である。朝鮮半島製の鐘は日本に50弱しか残っておらず、そのうちの一つがここにある。 一方、弁慶の引き摺り鐘には伝説といわくがあり、元は俵藤太(たわらのとうた)の異名で知られる平安時代の武将藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、琵琶湖に住む龍神の姫に三上山(みかみやま)の大ムカデを退治するよう頼まれ、そのお礼に授かった鐘を三井寺に寄進したものだと言われている。 現在この鐘は金堂脇の丘の上にある霊鐘堂に置いてあるが、傷だらけの状態である。これは、比叡山と三井寺の武力衝突時に、比叡山の僧だった武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が三井寺に帰りたいという音を立てて鳴ったので、怒って谷底へ投げ捨て、傷はその時についたものと伝えられている。弁慶が引き摺り上げたかどうかは知らないが、比叡山との攻防の中で傷ついたのは確かなようである。 大津で由緒あるお寺ということでは、三井寺と並んで有名な石山寺(いしやまでら)を忘れてはなるまい。名前に違わず境内には幾つもの巨石があり、その景観だけでも充分見応えがある。 石山寺はまさに巨大な岩の上に建っている。寺名の由来はそこにある。この巨石が珍しいものらしく石山寺硅灰石(いしやまでらけいかいせき)と呼ばれている。何と天然記念物であり、天然記念物の上に建っているお寺というのは、めったにないのではないか。 珪灰石は、石灰岩に花崗岩などのマグマが接触し、その熱の力で変質して出来るものらしいが、通常はこうした状況では大理石になってしまう。ところがここでは、大規模な珪灰石群になっていて、そこが天然記念物に指定された理由のようだ。 創建の経緯は東大寺の大仏に関係している。東大寺の初代別当となった良弁(ろうべん)が、時の聖武天皇(しょうむてんのう)の命で大仏建立に必要な黄金集めを頼まれる。良弁は吉野の奥の金峰山(きんぷせん)に籠って祈ったところ、夢の中に吉野の蔵王権現(ざおうごんげん)が現れ、琵琶湖畔の石山に行くよう告げられる。来てみると、岩の上に一人の老人がいて釣りをしている。そして、夢のお告げの場所はここであると良弁に言う。この老人は、近江の地主神である比良明神(ひらみょうじん)で、老人の教えに従って、岩の上に如意輪観音(にょいりんかんのん)を祀る堂宇を建てたのが、石山寺の起源とされる。 ちなみに比良明神は、琵琶湖西岸にある比良山地(ひらさんち)の神とされるが、これを祀る神社が、琵琶湖岸にある白鬚神社(しらひげじんじゃ)である。現在の祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)だが、古くは比良山の神を祀っていたと言われている。 ここには少しだけ立ち寄ったことがあるが、琵琶湖に白鬚神社の鳥居が浮かんでいる。たいていの人は写真やカレンダーなどで見たことがある光景だと思う。この鳥居の間から朝日が上る琵琶湖の神秘的な風景が有名で、古来より多くの人を惹き付けて来た神社である。 一方、比良山も、比叡山から続く千メートル級の有名な山地で、登山愛好家には人気の山だと聞く。また、近江八景の一つ、比良の暮雪(ひらのぼせつ)としても知られている。 さて、話を石山寺に戻そう。石山寺の伽藍が整備されたのは奈良時代のことである。元が東大寺の大仏建立のために建てた堂宇だから、国家的事業として伽藍が造営されたようだ。平安時代になると、時の権力者藤原兼家(ふじわらのかねいえ)やその子藤原道長(ふじわらのみちなが)からも篤く信仰された。また、宮中の女性の間でも石山寺に詣でることが人気となり、藤原兼家の妻である藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が書いた蜻蛉日記(かげろうにっき)や、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の更級日記(さらしなにっき)、清少納言(せいしょうなごん)の枕草子(まくらのそうし)、和泉式部(いずみしきぶ)の和泉式部日記(いずみしきぶにっき)にも石山寺が登場する。 しかし、この寺との結びつきで一番有名な平安時代の女流作家と言えば、紫式部(むらさきしきぶ)であろう。 写真は、本堂にある紫式部源氏の間である。紫式部はここにこもって源氏物語(げんじものがたり)の構想を練ったとされている。 紫式部は、藤原氏一族の藤原為時(ふじわらのためとき)の娘で、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)に嫁いで子供をもうけるが、夫が病没してしまう。その後、宮中に召し出されて一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕えた。 源氏物語がどういう経緯で書かれたのかは必ずしも定説があるわけではないが、石山寺の解説によれば、中宮彰子と交流のあった選子内親王(せんしないしんのう)から、まだ読んだことのない珍しい物語はないかと、中宮彰子に問い合わせがあったことに始まる。 この時代、上賀茂・下鴨両神社に巫女として奉仕した未婚の皇女を斎院(さいいん)と言うが、選子内親王は、歴史上類を見ないくらい長期にわたって斎院を務めた、いわば大御所的存在である。機知に富んだ聡明な女性であった選子内親王は、貴族や宮中の女性とも幅広い交流があり、文学的素養も兼ね備え一目置かれる存在だったようだ。 そんな女性から物語の所望のあった中宮彰子としては、変な物は返せない。そこで、新しい物語を紫式部に書かせることにした。当時の中宮彰子に仕えていた女性の顔ぶれはなかなかすごく、紫式部のほかに、和泉式部日記を書いた和泉式部、栄花物語(えいがものがたり)の作者とされる赤染衛門(あかぞめえもん)、女流歌人の伊勢大輔(いせのたいふ)といったメンバーがいたが、その中で紫式部に白羽の矢が立った理由が何かは分からない。 依頼を受けた紫式部は予めアイデアを持っていたわけではなく、さてどうしたものかと思案し、石山寺に参詣して7日間こもったと、石山寺縁起絵巻では伝えられている。そして、琵琶湖に浮かぶ十五夜の月を眺めていた時に構想が浮かび、忘れないうちに書かなきゃと、「『今宵は十五夜なりけり』と思し出でて、殿上の御遊び恋しく」と綴り始めた。これが源氏物語第12帖の須磨の中で使われることになる。石山寺縁起絵巻の通りだとすれば、源氏物語は物語の途中から書かれ始めたことになる。 こうした源氏物語誕生秘話の真偽はともかくとして、紫式部が源氏物語の着想を得て書き始めた時に使ったと言われる硯は現在も残っている。また、源氏物語と石山寺の関係は古くから知られていて、土佐光起(とさみつおき)作の「源氏物語絵巻 末摘花」など、それぞれの時代の源氏物語ゆかりの品もたくさん保管されている。これは、先ほどの三井寺と違って、石山寺が武力衝突の場になって炎上した歴史がないことによるものだろう。 ただ、創建当時の伽藍が多く残っているかというと、そういうわけでもない。境内には日本最古の多宝塔があるが、これは鎌倉時代に源頼朝の寄進により建てられたものである。源頼朝が石山寺に寄進をしたのは、平治の乱(へいじのらん)の際、石山寺が兄の源義平(みなもとのよしひら)をかくまってくれたからだと伝えられている。 先ほどの本堂も、内陣こそは平安時代の建物だが、外陣は豊臣秀吉が亡くなった後に淀殿が寄進して建っている。また、石山寺に入るときに堂々とした風格で出迎えてくれる東大門も、鎌倉時代に源頼朝の寄進によって建立されたものである。 そうした中で比較的古い部類に属する建物が、近江八景の一つ「石山の秋月」の舞台である月見亭だろうか。古いといっても、格段に古いわけではなく、後白河天皇(ごしらかわてんのう)が平安時代末期に石山寺へ行幸した際に建てられたものと言われている。ただ、その後繰り返し修復が行われているため、創建当時の建物は実質的に失われているということだろう。 石山寺は境内自体が山になっており、月見亭はその最上部に当たる部分にあって眺めがよい。今でも眺望がきくが、確かにここから山の上に昇る月を見るのは風情があろう。現在でも9月に秋月祭があり、その時は月見のために夜間の入山が出来るようになっている。 残念ながら、月見亭は天皇のお月見の場所なので、一般人は入ることは出来ない。また、昼の訪問だから、月も昇っていないわけで、月見亭から中秋の名月を眺める風情を想像しながら楽しむほかない。 この月見亭のすぐ隣に一軒の平屋の建物があるが、これは芭蕉庵(ばしょうあん)である。中には茶室もあるようだ。通常は非公開で中を覗けないが、先ほど紹介した秋月祭のおりには、茶席が設けられるらしい。 松尾芭蕉(まつおばしょう)はご存知のように江戸時代の俳人だが、大津とはゆかりが深い。現在の三重県伊賀市の出身だが、伊賀の北の山を越えた麓は、現在の滋賀県甲賀市(こうかし)である。時代劇の世界では、伊賀の忍者と甲賀の忍者は敵対していたことになっているが、甲賀市の人に聞くと、実際には同業者同士で山を越えた交流もあり、敵同士というわけではなかったようだ。芭蕉にとっても大津は馴染みの町だったのだろう。 芭蕉は石山寺に何度か訪れているが、実際にこの芭蕉庵に住んでいたのはわずかだったと考えられる。仮住まいという感じだったらしい。それがいつ頃のことかは分からない。ただ、この近くには、奥の細道の旅の後、暫く滞在して静養した幻住庵(げんじゅうあん)がある。 幻住庵を提供したのは膳所藩(ぜぜはん)の要職にあり芭蕉の弟子でもあった菅沼曲水(すがぬまきょくすい)で、庵自体も曲水の伯父である幻住所有の庵だった。芭蕉はここに4ヶ月ほど滞在し、幻住庵記(げんじゅうあんき)を残している。幻住庵自体は失われてしまったが、平成になって再建されている。 一度、再建された幻住庵を、地元の人の案内で訪れたことがある。案内板は出ているものの、なかなか分かりにくい場所のうえ、公共交通機関で行くとなると少々歩かなくてはならない。私は車で連れて行ってもらったが、駐車場から階段を上っていった山の上にある。 案内の人に聞くと、昔ふるさと創生で配られた1億円で再建したものだという。なかなかしゃれたことをしたものだなぁと感心した。茅葺のかわいい門のある庵で、縁側から石山寺の方向が見渡せて景色もいい。 私が面白いと思ったのは、幻住庵滞在当時に芭蕉が使っていた湧き水で、これは今も幻住庵へ上る階段の途中に残っていて、水が流れている。芭蕉はこの清水に「とくとくの清水」と名付けている。下の写真がその清水である。 とくとくの清水というと思い出されるのは、吉野の奥にある西行(さいぎょう)の庵跡近くにある清水である。奈良散歩記で吉野山に行った際に、この清水を訪れた。この清水について西行は、 とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすほどもなき住居(すみか)かな という句を残している。芭蕉はわざわざ吉野に分け入り、この西行庵を訪ねている。この時に詠んだ句が、 露とくとく こころみに浮世 すすがばや である。幻住庵のとくとくの清水は、この時のことを思い返して名付けたものであろう。吉野の山奥に隠棲した西行に、幻住庵に住む自分をなぞらえていたのかもしれない。確かに幻住庵も山の中ゆえ、西行と同じ境遇と考えてもおかしくはない。 ただ、案内の人の話では、西行が吉野の山奥に隠棲していたのと違って、幻住庵は麓に農民が住んでおり、当時芭蕉を訪ねて来たりしていたらしい。芭蕉とこうした人々の交流もあったという。連歌の会が催されたこともあるというから、孤独のうちに庵に籠っていたわけではない。 この幻住庵に移る前、芭蕉は膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)境内にある無名庵(むみょうあん)に滞在していた。無名庵に滞在したのはこれが初めてではなく、それ以前にも訪れており、お気に入りの場所だったようだ。 上の写真が、現在の無名庵である。義仲寺の境内に建っている。無名庵のある義仲寺の義仲とは、木曾義仲(きそよしなか)の名で知られる源義仲(みなもとのよしなか)のことで、愛妾であった巴御前(ともえごぜん)が義仲の菩提を弔うために建てた草庵が起源とされている。 平安末期、後白河天皇の皇子、以仁王(もちひとおう)が、都で勢力を拡大する平氏を追討するよう、全国の源氏に令旨を発する。いわゆる以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)である。これに呼応して挙兵した一人が、木曽に隠れ住んでいた木曾義仲である。 京を目指して進軍する木曾義仲の軍勢を討伐するため、平氏は10万といわれる大軍を北陸に向かわせる。両者は富山の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で対峙するが、義仲の夜襲により、平氏が完敗する。この時義仲は、たくさんの牛の角にたいまつをくくりつけ、それを夜中に平家の陣に向けて突進させて、平氏の軍勢を大混乱に陥れたとされている。 勢いづいた義仲の軍勢はそのまま京に駆け上り、多くの兵を失った平氏は京から撤退する。義仲は京に入り、実質的な支配権を得たが、田舎育ちで上流階級の作法に通じていない義仲は、皇族・貴族とたびたび対立する。また、京に居座る義仲の軍勢の振る舞いに各方面から苦情が出て、後白河法皇を中心とした朝廷側の心は、鎌倉にいる源頼朝に移っていく。 後白河法皇は、義仲を平氏追討のために西国に向かわせる一方で、源頼朝に東国の支配権を与え、鎌倉からは頼朝の弟の源義経(みなもとのよしつね)の軍が上洛のために西に向かった。これを聞いた木曾義仲は怒って京に戻り、後白河法皇に猛抗議をする。両者間で決着がつかず、ついに義仲が武力行使に出て、後白河法皇が院御所としていた法住寺(ほうじゅうじ)を攻撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を幽閉してしまう。 力づくで全権を掌握した木曾義仲は、源頼朝追討の命を朝廷に出させるが、人望を失い従う兵は少なく、源義経と源範頼(みなもとののりより)の軍勢に討ち取られ、義仲はこの義仲寺から程近い粟津(あわづ)の浜辺で戦死した。 その後、木曾義仲の墓の近くに、美しい尼僧が庵を結び、ねんごろに供養をするようになる。近くの者が誰かと尋ねたが「われは名も無き女性(にょしょう)」とのみ答える。このため、この庵はいつしか無名庵と呼ばれるようになる。 この女性が、最後まで木曾義仲に付き従っていた愛妾巴御前だと伝えられる。巴御前は妻ではなく妾の身分だが、美人だっただけでなく優れた武者でもあり、最後の数騎になっても生き延びて、木曾義仲とともに戦った。義仲が死を覚悟して、巴御前に落ち延びるよう命じると、最後のご奉公と言って、30騎近くでやって来た敵の武将恩田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)に組み付いて馬から引きずり落とし、その首をねじ切ったと伝えられる。弓を良くしたが、同時に怪力の持ち主だったようだ。その後、鎧兜を脱ぎ捨て、東へ下った。 木曾義仲の墓は、義仲寺の無名庵の脇に建っている。 この木曾義仲の墓の脇に、巴塚(ともえづか)という小さな供養塔がある。自然石に巴塚と彫られた簡素なものだが、ここが巴御前の墓というわけではなさそうだ。 巴塚の脇に立つ案内板によれば、落ち延びた巴御前はその後捕らえられ、処刑されるはずだったが、鎌倉方の武将和田義盛(わだよしもり)の願い出があり、その妻となる。やがて和田義盛が、鎌倉幕府の第2代執権(しっけん)だった北条義時(ほうじょう よしとき)と対立して反乱を起こした挙句に亡くなると、巴御前は出家して全国を回り、この木曾義仲最期の地にやって来たという。しかし、ここに亡くなるまでいたわけではなく、やがていずこともなく去り、最後の日々は木曾義仲と自分の故郷である木曽で過ごしたという話になっている。 これは源平盛衰記(げんぺいせいすいき)で語られている話を下敷きにしているのだろうが、平家物語(へいけものがたり)では巴御前が東国に落ちた後の話は語られていないため、どこまでが真実なのかは分からない。 松尾芭蕉が、どうして木曾義仲のことを気に入っていたのかは分からないが、たびたびこの無名庵に逗留している。幻住庵を4ヶ月で引き払った芭蕉は再び無名庵に移り、2年続けて新年をここで迎えている。 無名庵では句会も行われたようだ。また、門人も訪ねて来た。伊勢山田から門人の島崎又玄(しまざきゆうげん)がやって来た際、無名庵で又玄が詠んだ有名な句がある。 木曽殿と脊中合せの寒さかな 義仲寺の無名庵脇に、この句の句碑が立っている。 芭蕉が最後に無名庵に滞在したのが元禄7年(1694年)6月から7月にかけてのこと。そしてその年の10月、体調を崩して大坂で没する。木曽塚に葬ってほしいとの芭蕉の遺言に沿って、向井去来(むかいきょらい)や宝井其角(たからいきかく)などの親しい門人が亡骸を義仲寺に運んだ。そして翌日、門人数十人が見守る中で、芭蕉は木曾義仲の墓の隣に葬られた。其角は「木曽塚の右に葬る」と記している。 実際、木曾義仲の墓とこの芭蕉の墓はわずかしか離れていない。また、近江の門人で、芭蕉が最も信頼を置いていたと言われる菅沼曲水の墓も、芭蕉の墓の近くにある。曲水は、膳所藩で悪事を働いていた家老の曽我権太夫(そがごんだゆう)を槍で刺殺した後、切腹して果てた。 墓石に彫られた「芭蕉翁」の字は、芭蕉の親しい門人であった内藤丈草(ないとうじょうそう)のものと言われている。芭蕉没後、丈草は無名庵に移り住み、師である芭蕉の菩提を弔った。 芭蕉の忌日を時雨忌(しぐれき)というが、義仲寺で毎年11月に法要が行われる。時雨忌と聞くと、上に記した又玄の句が思い出される。墓は背中合わせではなく隣り合わせだが、何ともしっくり来る内容の句である。偶然と言えば偶然だが、何か因縁めいたものを感じてしまう。 義仲寺は、京阪膳所駅から住宅街の中を歩いて数分のところにあるが、ちょっと分かりにくい。それほど注目されていないのだろうか。境内は狭いが見所は多く、拝観料を払う際にお寺の人が丁寧に説明をしてくれた。境内の史料観という建物には、芭蕉直筆の短冊が幾つも展示されていた。また、境内には19もの句碑が立つ。その中に、近江に足しげく通い琵琶湖畔の景色と人々を愛した芭蕉真筆の句もある。 行春(ゆくはる)をあふミ(おうみ)の人とおしみける 私が訪れたときには、義仲寺には誰もおらず、静かな境内をゆっくりと見て回った。歴史物の中で木曾義仲は、粗野で乱暴な人物として描かれることが多い。おそらく、木曾義仲と対決する源義経が主人公になるからだろう。判官贔屓(ほうがんびいき)は源頼朝との間だけでなく、木曾義仲との間でも成立する。その分、義仲は必要以上にマイナスイメージで見られているのかもしれない。 ところで、ここまでで2つ訪れた近江八景だが、これについて少し書いておきたい。 上の写真は、石山寺の近くにある近江八景の一つ、瀬田の唐橋(せたのからはし)である。琵琶湖は巨大な湖だが、ここから注ぎ出る川は一つしかない。それが瀬田川(せたがわ)で、そこに架かっているのが瀬田の唐橋というわけである。 この橋は現在コンクリート製の立派な橋になっており、交通量も多いが、元々は日本三古橋の一つである。他の二つは、現在の京都府大山崎辺りで淀川に架かっていた山崎橋(やまさきばし)と、宇治川に架かる宇治橋(うじばし)である。山崎橋は失われて現在ないため、日本三古橋で現存するのは瀬田の唐橋と宇治橋だけである。 ところで、この瀬田川はここから流れて暫くすると名前が変わって宇治川となる。要するに同じ川なのである。更に言えば、京都府と大阪府の府境辺りで、宇治川は桂川(かつらがわ)、木津川(きづがわ)と合流し、淀川(よどがわ)となり大阪湾に流れ込む。つまり、日本三古橋はいずれも同じ水系の川に架かっていたわけである。 現在の瀬田の唐橋は、近江八景の一つと思って行くと、ややガッカリする。あまりに風情がないのである。ただ、橋から川沿いに降りられて、瀬田川沿いをぐるりと散歩出来るようになっている。季節が良ければ、この川沿いの散策は楽しそうだ。 さて、近江八景であるが、これが今の形で成立したのは江戸時代と言われている。手元にある観光協会のパンフレットによれば、琵琶湖の西から東に向かって以下の8つが選ばれている。 比良の暮雪(ひらのぼせつ):比良山地(ひらさんち) 堅田の落雁(かたたのらくがん):満月寺浮御堂(まんげつじうきみどう) 唐崎の夜雨(からさきのやう):唐崎神社(からさきじんじゃ) 三井の晩鐘(みいのばんしょう):三井寺の鐘楼 粟津の晴嵐(あわづのせいらん):粟津(あわづ)の海岸線 瀬田の夕照(せたのせきしょう):瀬田の唐橋 石山の秋月(いしやまのしゅうげつ):石山寺の月見亭 矢橋の帰帆(やばせのきはん):矢橋帰帆島公園(やばせきはんとうこうえん) このうち、矢橋の帰帆は草津市(くさつし)だが、それ以外は大津市にある。ちなみに、矢橋帰帆島公園のある草津市は群馬の草津とよく間違えられるが、滋賀県の草津に温泉はない。近江八景の殆どが大津市にあるとはいえ、相当広範囲にわたって存在しているので、車がないと全て見て回るのは無理である。遠くから眺めたのを入れていいなら私は全て見ているが、もちろん一度に訪れたわけではなく、何度か大津方面に行くうちに制覇したものである。 今回冒頭に掲げた写真は、どこかで見たなぁと思われる方もおられようが、堅田の落雁で有名な満月寺浮御堂である。ここは浮御堂だけが有名なのだが、満月寺というお寺の一部である。浮御堂は、平安時代に恵心僧都(えしんそうず)の名で知られた天台宗の高僧、源信(げんしん)が建てたもので、江戸時代には松尾芭蕉も訪れている。満月寺の境内には芭蕉の句碑が立っている。 鎖(じょう)あけて月さし入よ浮きみ堂 今では江戸時代と随分風景が変わっているものもあるが、当時を偲ぶには、江戸時代の浮世絵師歌川広重(うたがわひろしげ)が描いた近江八景図がある。 そもそも「○○八景」は全国に多々あるが、元をたどれば中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)を手本にしていると言われている。瀟湘八景については、以前、このパソコン絵画徒然草でも取り上げたことがあるが、中国で生まれた有名な水墨画の画題であり、室町時代から日本に伝わっている。 瀟湘というのは、中国にある川の名前に由来しており、湘江(しょうこう)と瀟水(しょうすい/湘江の支流)の2つの名前を組み合わせたものである。この2つの川は、洞庭湖(どうていこ)という広大な湖につながっている。洞庭湖は、中国南部の湖南省北東部にあり、琵琶湖の約4倍の大きさを持つ、中国第2の淡水湖である。洞庭湖にこれら2つの川が注ぎ込む周辺は、古来より風光明媚な土地として知られており、そこから8つの風景を画題として選び出したのが、瀟湘八景である。 これを選んだのは、北宋時代の地方官吏である宋迪(そうてき)である。宋迪は役人ながら絵を得意とし、初めて瀟湘八景図を描いた。その八景とは、「山市晴嵐(さんしせいらん)」、「煙寺晩鐘(えんじばんしょう)」、「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」、「遠浦帰帆(おんぽきはん)」、「瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」、「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」、「平沙落雁(へいさらくがん)」、「江天暮雪(こうてんぼせつ)」である。 こうして並べてみると気付かれるだろうが、瀟湘八景の題名の後半2字と近江八景の後半2字は同じである。まさに瀟湘八景の琵琶湖版を大津周辺に求めたというのがハッキリする。歌川広重も、これが水墨画の古典的題材というのはよく知っていたであろうから、作画意欲はいやがおうにも高まったに違いない。現に広重は生涯20種類以上の近江八景図を制作したと伝えられている。 さて、話を瀬田の唐橋に戻そう。この橋が架かる瀬田川は、瀬田しじみの産地として古くから知られているほか、ボートやカヌー、ラフティングなどのスポーツにも利用されている。ボートでは、瀬田の唐橋から少し上流に行った辺りに京都大学ボート部の合宿所がある。 京都大学ボート部の前身は旧制高校時代の第三高等学校ボート部であるが、この部歌として有名なのが琵琶湖周航の歌(びわこしゅうこうのうた)である。「われは湖(うみ)の子 さすらいの」で始まる歌は誰もが聞いたことのあるものだし、今では三高や京大とは関係なく一般的な歌として親しまれている。 この歌は6番まであるのだが、琵琶湖周辺の地名や名所が織り込まれていて、ご当地ソングとしても優れている。実は、この1番から6番までの馴染みの場所に、歌碑が立っているのである。 上の写真の歌碑は一番にちなんだもので、県道18号線の観音寺交差点近くの琵琶湖沿いに立っている。どうしてここが1番の歌詞の地かというと、すぐ近くに旧制第三高等学校ボート部の艇庫があったからのようだ。「志賀の都よいざさらば」という1番の歌詞は、ここから出艇したということなのだろう。今でも、この歌碑のある場所の奥に、古い木造の建物が残っている。 2番は「雄松(おまつ)が里」という地名が出て来るので、JR湖西線の近江舞子駅(おうみまいこえき)近くの湖岸に歌碑がある。3番は「今日は今津か長浜か」という歌詞になっていて、今津(いまづ)か長浜(ながはま)かが候補になるが、実際には近江今津駅(おうみいまづえき)近くの湖畔にある。4番は竹生島(ちくぶじま)が出て来るので、琵琶湖に浮かぶ竹生島に歌碑が建てられている。5番は「古城にひとり佇めば」の歌詞に基づき、この古城は彦根城(ひこねじょう)だろうということになって、彦根の港に置かれている。6番は歌詞が「西国十番長命寺」で始まるので、これだけは湖畔ではなく近江八幡にある長命寺(ちょうめいじ)境内にある。ただ、実際には長命寺は西国三十三所の第31番札所である。どうして歌の中で10番札所になったのかは不明である。 ところで、1番の歌詞の歌碑がある脇に、冒頭話題に出した琵琶湖疏水の取水口がある。最初に話をしながら紹介が最後になってしまった。取水口といっても、琵琶湖から延びる川の形を取っており、この川に架かる橋には「第一疏水」のプレートが埋め込まれている。 琵琶湖疏水は、県道18号線を越えると住宅地の中を長等山(ながらやま)の方に向かって南西に延びる。京阪石山坂本線の三井寺の駅のすぐ脇を通り、三井寺の境内に沿って進むと、長等山の麓でトンネルの中に消える。この後、トンネルを出たり入ったりして山科(やましな)を抜け、やがて蹴上(けあげ)に至るのである。 この三井寺の脇を抜けてトンネルに入るまでの琵琶湖疏水の両岸は桜並木になっており、春には満開の桜と疏水を組み合わせた風景が、大津の季節の風物詩として新聞・テレビなどに取り上げられる。 私は、疏水沿いはいい散歩道だろうと期待していたが、最後の桜並木のところは別にして、そこに至るまでは味気ない自動車道なので少々落胆した。 ところで、この疏水から少し行ったところに、大津絵(おおつえ)を扱う店がある。大津絵は素朴な民俗画でなかなか味のあるものが多い。 かつて東海道や中仙道が現在の大津から山科に抜ける際には、逢坂関(おうさかのせき)を通る必要があった。現在の大津市の西に逢坂山(おうさかやま)があり、その近辺に関があったものとされている。 逢坂関と言えば、琵琶の名手にして歌人としても名高い蝉丸法師(せみまるほうし)の「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」という有名な百人一首の歌が思い出されよう。蝉丸法師は、逢坂関の近くに庵を結んで、街道を行き来する人を思いこの歌を詠んだが、こうした旅人に売るために描かれたのが大津絵である。 大津絵は当初仏画として売られたが、そのうち様々な絵が登場して一般的な土産物として好評を得たようだ。ただ、こうした商売が成り立ったのは逢坂関が交通の要所だった時代のことで、近代になって鉄道が発達すると、長距離を歩いて移動する人が少なくなり、大津絵もすたれていった。 大津絵は素朴でユーモラスなものが多く、今でも一部では人気があるようだ。よく見るのは「鬼の念仏」という絵柄で、鬼が僧侶の姿になって鉦と槌を持っている。鬼の表情に味があって、何とも憎めない絵である。 大津の文化を紹介しついでに、関西の人がよく話題にする鮒寿司(ふなずし)についても触れておきたい。 鮒寿司は、琵琶湖のニゴロブナを塩漬けにした後ご飯を詰めて発酵させる熟れ寿司(なれずし)の一種で、強烈な匂いを伴う。昔は豊富にニゴロブナがいたため、各家庭で鮒寿司を作り、正月など晴れやかな席で食べたという。 私が関西の人たちと会って食べ物の話をすると、誰彼となく「鮒寿司は食べましたか」と訊いて来る。皆さん笑顔で尋ねて来て、どうやらこれを食べることが、関西在住者の通過儀礼でもあるかのような気分になる。各人が出身地の食べ物を買って来て、みんなでつまみながら一杯やるという会があった際、滋賀県出身の人が鮒寿司を持って来たので、私も食べてみた。思っていたほどの臭みもなく、なかなかおいしかった。そう話すと、たいていの人は「それはソフトなヤツだったんですよ」なんて言って自分が食べた鮒寿司の自慢など始める。 実際の鮒寿司がどの程度臭いものなのかは知らないが、ある人曰く、若い頃滋賀県の人から鮒寿司をもらったことがあったが、鮒寿司の知識がなかったため、腐っていると思い捨てたとのことだった。昭和の時代はまだ家庭で鮒寿司作りが行われていたから、そうした自家製のひとつだったのかもしれない。 ところがこの鮒寿司、琵琶湖の環境が変わってニゴロブナが獲れなくなったために値段が急騰し、現在では高級料理になっている。普通サイズ1匹で5〜6000円というのが相場だと聞いた。臭いということで有名なくさやの干物とは、値段のケタが違う。関西以外の人が、試しにちょっと注文してみようかという気には、なかなかならないのではないか。 大津絵にせよ鮒寿司にせよ、大津の大衆文化が次第にすたれていくのは何とも寂しいことである。長い歴史と様々な出来事を積み重ねて来た地だけに、古くからのものはなるべく残って欲しい気がする。 |
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