パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■伏見探訪





 琵琶湖疏水(びわこそすい)の散策記を前回記したつながりで、今回は伏見(ふしみ)を紹介したい。どうつながっているかというと、山科(やましな)を通って蹴上(けあげ)まで運ばれて来た琵琶湖疏水の一部は、鴨川(かもがわ)沿いを南下して伏見まで通じているのである。ただ、前回紹介した南禅寺(なんぜんじ)周辺のように、インクラインなどの遺構が残っているわけではない。そういう意味では、伏見の琵琶湖疏水だけ追いかけても味気ないので、ここでは、伏見観光を兼ねて周辺の見所などをたどっていくことにする。

 仕事も含めて伏見には何度か行ったことがあるが、伏見は結構広い。京都の市街地がすっぽり入ってしまう程である。元々伏見は、外国人観光客に圧倒的な人気を誇る伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の門前町であった。ところが、昭和に入って京都市伏見区となった時から周辺の町村がドンドン編入され、今では広大な行政区画を有し、京都市11区中最大の人口を抱えるまでになっている。そんなわけで、その津々浦々を紹介するのは無理なため、今回は宇治川(うじがわ)周辺に絞って、中書島(ちゅうしょじま)と丹波橋(たんばばし)の間のごく限られたエリアを探訪することにした。

 まず最初に、冒頭紹介したのだから、琵琶湖疏水の話から始めたい。地下トンネル経由で蹴上まで運ばれて来た琵琶湖疏水の一部は、岡崎(おかざき)から東に進路を取り、鴨川にぶつかる辺りで南に向きを変える。そしてそのまま鴨川と平行して京都の市街地を流れ、伏見稲荷大社の南にある墨染(すみぞめ)という地区で水力発電所の動力源となる。

 昔は墨染にも、蹴上と同じように船を運ぶインクラインがあったようだが、今では失われてしまい、当時の名残を留めるのは水力発電所だけらしい。そして、ここから琵琶湖疏水は濠川(ほりがわ)となり、一部が東高瀬川(ひがしたかせがわ)に注いでいる。





 上の写真は濠川だが、伏見の街中を流れるのどかな川である。ちなみに、東高瀬川は名前の通り、京都の中心部で鴨川と平行して流れている高瀬川(たかせがわ)と関係がある。高瀬川は京都市内の十条の辺りで鴨川と合流するのだが、その南側に延びているのが東高瀬川である。

 多くの方が知っているように、高瀬川は自然の川ではない。京都中心部と伏見との水運のために、江戸時代に人工的に開削された運河である。従って、鴨川に合流しておしまいというわけにはいかず、鴨川を横断する形で川が流れているのである。北側が高瀬川、南側が東高瀬川というわけである。従って、この東高瀬川を遡上すれば、高瀬川を経て京都中心部まで船で行けることになる。

 高瀬川を開削したのは徳川幕府ではなく、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)とその子素庵(そあん)である。角倉家は代々の商家だったわけではなく、そもそもは室町幕府に医者として仕えていた家柄だった。医者として得たお金で商売を始めて成功し、角倉了以の時代には、京都屈指の豪商となっていたのである。角倉了以は高瀬川を開削しただけではなく、現在の桂川(かつらがわ)を大阪まで通じる木材運搬の水路として河川工事をし、通行料を取って莫大な財を成した。

 さて、高瀬川であるが、当時の開削技術で出来たものなので底は浅い。そのため喫水の深い普通の運搬船は運行できず、底が平らで水面下にあまり沈まない特殊な船が使われた。これが高瀬舟(たかせぶね)である。実際の運航は、狭い水路に高瀬舟を浮かべて、水路脇から綱で船を引いて動かしたという。

 濠川が宇治川に注ぐ手前には、角倉了以を称える石碑が立っている。ここは今では濠川だが、江戸時代には東高瀬川の水路だった場所である。かなり大きなもので、表面には「角倉了以水利紀功碑」の文字が彫られている。高瀬川の開削で儲けたのは角倉了以だが、この海運ルートが出来たお蔭で物流が盛んになり、伏見も大いに発展したのである。





 ところで、角倉了以が高瀬川を開削した際、京都中心部から川を掘って、その行き着く先が、どうして伏見だったのだろう。実は遠い昔のこの辺りは、たくさんの川が流れ込む水路の要衝であり、それらの川は全て巨大な淡水湖である巨椋池(おぐらいけ)につながっていたのである。巨椋池は昭和初期の干拓事業の中で姿を消して今は存在しないが、ここに巨大な湖があって陸路の交通が妨げられていたことが分からないと、昔の伏見の位置づけは分からない。

 巨椋池が広がっていたのは、今の京阪中書島駅の南である。おそらく遠い昔は、中書島駅も巨椋池の中だったのではなかろうか。その巨椋池に、木津川、宇治川、桂川、鴨川など主要な川が全て流れ込んでいた。水路で来る以上は巨椋池に通じており、その巨椋池のほとりが現在の伏見南部だったというわけである。

 東西の山に挟まれた地形に巨大な湖とたくさんの川があったため、陸路での行き来は幾度も川を越える必要があるなど厄介だった。従って、このエリアでは水上交通が発達し、陸路で来た人もここでは船で渡るという形になった。そしてこの地点は、京都・大坂・奈良・近江の中継地であり、まさに交通の要所だったのである。

 平安時代初期に桓武天皇(かんむてんのう)が、水不足に悩まされた奈良の平城京(へいじょうきょう)から京都南西部の長岡京(ながおかきょう)に都を移す決断をするのだが、今の地図を見ていると、何故こんな場所に都を移そうとしたのかピンと来ない。しかし、巨椋池が書き込まれた古地図を見ると、ここが主要河川の集合する巨椋池の近隣地で、水運に適した場所だということが理解できる。

 さて、この巨椋池周辺は平安時代当時、どんなところだったのだろうか。

 平安貴族にとって、巨椋池沿いを東に進んだところにあった宇治が、花見や狩猟、紅葉狩りなどの野遊びをする別荘地として人気のあった場所のようだ。やがて世相が乱れ出すと、宇治の別荘地に貴族たちが自分たちのお堂を建て、阿弥陀仏を祀って極楽浄土を願うようになる。当時最大の権勢を誇った藤原氏が宇治に持っていた別荘を、阿弥陀仏を祀る寺院に改めたのが、現在に残る平等院だが、これを建立した藤原頼通(ふじわらのよりみち)の子である橘俊綱(たちばなのとしつな)が伏見に別荘を建てた頃から、この地は貴族の関心を集めるようになる。

 橘俊綱は庭園の設計に優れた能力があったようで、この伏見山荘(ふしみさんそう)は貴族の間で話題になる。巨椋池にたくさんの川が集まる水郷の地に、他の貴族も別荘を建てるようになったのである。

 その後、白河上皇(しらかわじょうこう)が、近臣だった藤原季綱(ふじわらのすえつな)から鳥羽にあった別荘を譲り受けると、これを大規模に改修して鳥羽離宮(とばりきゅう)を造営する。この離宮はその後の天皇にも受け継がれ、やがて院政期の政治の中心となる。こうして京との往来が激しくなる中で、陸路や水路が整備されていったと言われている。

 さて、この巨椋池を中心とした水郷地帯に目を付け、その姿を変えるきっかけを作ったのは、天下統一をなした豊臣秀吉である。

 京都・大坂・奈良・近江の結節点であり、多くの川が集まる交通の要所という地の利に目を付けた秀吉は、隠居後の住まいとしてここに伏見城(ふしみじょう)を造ろうとする。現在では、伏見桃山城(ふしみももやまじょう)と言った方が分かりやすいだろうか。

 秀吉は、築城に必要な資材運搬のために伏見港(ふしみこう)を造るとともに、巨椋池と宇治川を分離させるための大規模な工事を行った。





 上の写真は、伏見港公園近くの濠川下流域で、この先で濠川は宇治川に合流する。秀吉が整備する以前は、川はこのまま巨椋池に注いでいたのである。単なる川の合流地点なのに「港」と付いていることからも、かつての交通の要所としての重要性が分かろうというものだ。

 現在では、濠川が宇治川に合流する地点に三栖閘門(みすこうもん)という大きな水門が設けられている。伏見は水郷地帯であり、多くの川が集まる水の流れの結節点だったため、昔から洪水が多かったと言われている。大正時代にも大きな洪水があり、河川改修の過程で造られたのが三栖閘門である。

 一方秀吉だが、この時の河川改修も相当なもので、巨椋池に幾つも堤防を造り、これらの堤防は太閤堤(たいこうづつみ)と呼ばれた。また、低湿地帯には盛り土をして、城の周囲に城下町を形成する工事も始めた。先ほど見た濠川は、この時に掘られた伏見城の外堀が姿を変えたものである。こうした大規模な土木工事により、周辺の地形が大きく変わったばかりか、秀吉はそれまでの交通路も意図的に変更する方策に出る。城下町を栄えさせるために、交通路が伏見城に集中するよう道路や港を整備し、迂回路は逆に廃止したのである。、これらの交通網整備により、それまでの人や物の流れは大きく変わった。

 こうして造った城下町に、秀吉は多くの大名を集めた。それに伴い商工業に従事する者も居を構えるようになり、伏見は大いに賑わう。こうした伏見の繁栄を踏まえて、角倉了以は高瀬川を京から伏見まで開削するのである。これにより、京と大坂は水運により一本で結ばれることになる。

 江戸時代になると、交通の要所として伏見は益々栄え、二十石船や三十石船が伏見・大坂間を行き来するようになる。大名も参勤交代の際に伏見を使うようになり、本陣も置かれた。また、行き交う人が泊まるために船宿も栄え、宿場町としても繁盛するようになる。

 当時の旅人は、旅客船である三十石船を利用した。長さ17mで、船頭が4人乗り、乗客は上限28人だったと解説板にあった。そして、伏見と大坂の間を半日で結ぶ。大坂の港は、以前大阪市内の熊野古道(くまのこどう)について記した際に紹介した八軒家船着場(はちけんやふなつきば)ということになる。昔は渡辺の津(わたなべのつ)と呼ばれたが、こちらも船宿が栄え、それが8軒あったため、いつの間にか八軒家船着場の名前の方が有名になった。





 今では伏見から大坂までの船便などないが、当時の三十石船での旅を偲んで、観光用の十石船が濠川を行き交う。三十石船に比べると規模は小さいわけだが、モーター付きなので結構なスピードで川を進む。昔の船着場辺りから、濠川が宇治川に合流するところまで往復してくれるようだ。

 こうして見ると、伏見もまた熊野詣の出発点ということになる。豊臣秀吉が伏見港を整備する以前から、熊野詣の人たちは伏見から船に乗って大坂まで行ったようだ。そして八軒家船着場で上陸して熊野古道を歩くことになる。

 熊野詣の古跡としては、伏見に城南宮(じょうなんぐう)という神社がある。この日周っているエリアから更に北の方になるのでこの日は訪れてはいないのだが、別の日に訪問したことがある。今も賑わう立派な神社で、梅がきれいである。方除け(かたよけ)の神様として、古くから皇族・貴族から篤い信仰を得ていたと言われている。

 平安末期から鎌倉初期にかけて、歴代の上皇が足しげく熊野詣に通ったのは有名な話である。熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の熊野三山(くまのさんざん)への片道数百キロの旅に出掛けた回数は、多い順に、後白河上皇が33回、後鳥羽上皇が29回、鳥羽上皇が23回、白河上皇が12回と言われている。そして、その出発に当たって、多くの皇族・貴族は、城南宮に数日籠って精進潔斎を行い、道中の安全を祈ったのである。

 一方、庶民はそんなことをしている余裕も金もないので、伏見界隈から船に乗り込み、大坂で降りて熊野古道を歩き始めた。皇族・貴族にせよ庶民にせよ、ここ伏見が熊野詣出立の地だったのである。

 さて、先ほど三十石船について書いた際、船宿の話をした。当時、旅人は一旦船宿に入り、そこから船に乗船していた。大坂で八軒家船着場の名に船宿の繁盛振りが残るのと同じように、ここ伏見でも船宿が栄えたが、その中で最も有名なのが、寺田屋(てらだや)であろう。





 この有名な船宿は、幕末の鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)で一旦焼失したとされており、今ある建物は後になって当初の敷地の西隣に復元されたものというのがほぼ定説である。ただ、寺田屋に行って説明を聞くと、焼けていないという説もあるし、現在の建物は再建したものだが昔の部材をそのまま使っているという説もあるという。

 寺田屋で有名なのは、坂本龍馬(さかもとりょうま)の襲撃事件であろう。時代は、明治維新直前の幕末のことである。

 宿敵であった薩摩と長州の仲を取り持ち、何とか薩長同盟につながる盟約を結ばせることに成功した坂本龍馬は、薩摩藩の人間と偽って長府藩士の三吉慎蔵(みよししんぞう)らと寺田屋に宿泊していた。深夜になって、坂本龍馬の捕縛を計画していた伏見奉行所の捕り方30人が寺田屋を囲む。ここで、風呂に入っていて外の異変に気付いたお龍(おりょう)は、袷(あわせ)を羽織って半裸の状態で2階に駆け上がり、龍馬らに危機を知らせる。有名なエピソードである。

 伏見奉行所に踏み込まれた龍馬は拳銃で、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の名手であった三吉慎蔵は槍で、それぞれ応戦するが、捕り方に斬り込まれた龍馬は手に大怪我をする。二人は命からがら寺田屋を抜け出し、先ほど見た濠川沿いの材木置き場へ逃げ込むのである。その後、三吉慎蔵が伏見の薩摩藩邸へ駆け込み助けを求める。二人は薩摩藩により保護され、九死に一生を得たのである。

 現在の寺田屋の内部を見学すると、坂本龍馬が三吉慎蔵といた部屋や、階下にあるお龍が入っていた風呂、お龍が異変を知らせに駆け上がった階段などもあるので、なかなか興味深い。柱の刀キズや銃弾がかすった跡なども残っているので、復元されたものだとすると相当凝っている。おまけに、薩摩藩主の島津家から拝領した大黒柱まで建物の中心にドーンと立っていて、見ているうちに、本当は焼けていないのではないかという気分になるから面白い。

 さて、寺田屋が舞台となった事件と言えば、みんなが思い出すのがこの坂本龍馬の話だろうが、実はその数年前に、同じ寺田屋が舞台となった事件が起きている。路線対立から薩摩藩士同士が壮絶な斬り合いをして、多数の死傷者が出たのである。

 当時、薩摩藩主ではなかったものの、事実上の最高権力者だった島津久光(しまづひさみつ)は、尊皇攘夷運動の渦巻く中で、朝廷と幕府と有力藩を結んで強力な公武合体の体制を作ろうと奔走する。このために多数の藩士を率いて京に上る行動に出る。一方、薩摩藩内の尊皇攘夷派は倒幕に傾いており、久光の行動に失望が湧く。何とか久光を倒幕の方向に持っていきたい藩内の尊皇攘夷派の過激分子は、関白と京都所司代を襲って無理やり倒幕の火ぶたを切り、久光を巻き込んでしまうという謀略を企てる。

 噂を聞いて驚いた久光は、藩内過激派に自ら考えを説明するべく出頭を命じるが、従わない場合には斬り捨てても構わないとの方針を示し、剣術に優れた者を選んで、過激派一行が謀議を重ねるために集まっている寺田屋に派遣する。

 久光が派遣した藩士と過激派藩士との間で話し合いが行われるが、決着がつかず、やむなく斬り合いとなる。過激派藩士は6名が討ち死に、2名が重傷を追う。この重傷を負った2名と、過激派に同調しようとした1名が切腹となり、合計9名の尊皇攘夷派藩士が命を落とす。

 これら9名の藩士の菩提を弔うため、伏見の薩摩藩邸近くにあった大黒寺(だいこくじ)に西郷隆盛(さいごうたかもり)が墓を建てた。これが、伏見寺田屋殉難九烈士の墓である。





 大黒寺は、薩摩藩とゆかりの深い寺であり、薩摩寺(さつまでら)の異名を持つ。そもそも、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて当主だった島津義弘(しまづよしひろ)の守り本尊である大黒天が祀られていたことが縁となり、これに合わせて寺の側で、寺名と本尊を変えたという経緯がある。その後は薩摩藩の祈祷所となった。

 大黒寺には、西郷隆盛や大久保利通(おおくぼとしみち)など、後に明治維新の立役者となる薩摩藩士が頻繁に出入りし、話し合いなどをしていたと言う。会談の場となった部屋が今でも残っている。

 さて、伏見にはこうした幕末の騒動にまつわる遺構が幾つも残っているが、最大の出来事と言えば、やはり鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)ではなかろうか。まさにここで弾や砲弾が飛び交い、街中は戦場と化した。今の伏見は所々に古い家並みが残る静かな街であり、とてもそんな激戦があったとは想像できないが、伏見、鳥羽、竹田と広範囲にわたって戦闘が行われた。

 当時の世相は、幕府側が第二次長州征伐に失敗して威信が大きく損なわれるなか、薩摩・長州と一部の公家が中心となって、徳川幕府を倒して天皇中心の政治を行おうとする機運が盛り上がっていた。これに対して時の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、天皇に政権を返上する大政奉還(たいせいほうかん)を宣言し、討幕派の機先を制する。朝廷に政権運営は無理なため、結局武家による支配が続き、最大勢力の徳川家は政権の中心に残れるとの読みだったと伝えられる。対抗策として討幕派の公家と有力藩が打ち出したのが王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)であり、新しい合議体制の下で、徳川慶喜に役職辞任と幕府領地の返納を求める。

 こうした流れの中で、徳川慶喜は京から大坂城に一旦戻り、新政権側と暫しにらみ合いを続けることになる。幾度かの駆け引きの末に、旧幕府内に薩摩藩討伐の機運が盛り上がり、旧幕府方は京を目指して進軍を始める。そして、京の警護を担う薩摩藩と軍事衝突したのが鳥羽だったが、たちまちのうちに伏見も戦場となった。

 伏見において薩摩が陣を敷いていたのは現在の近鉄桃山御陵前駅すぐ近くの御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)であり、指揮官は、後に日清・日露戦争で陸軍を指揮し「陸の大山」と呼ばれた大山巌(おおやまいわお)であった。大山は、鳥羽方面で響いた砲音を聞くと、すぐ近くの旧幕府軍の拠点である伏見奉行所に砲撃を開始する。これに対して、土方歳三(ひじかたとしぞう)率いる新選組(しんせんぐみ)と会津藩などの幕府方勢力が応戦した。

 この時の戦闘の名残を、今の伏見の街中で見ることが出来る。





 上の写真は、江戸時代から続く老舗料亭魚三楼(うおさぶろう)の玄関であるが、柱に弾痕が残っているのが分かる。この料亭は、近鉄桃山御陵前駅から南にすぐの場所にあるが、奇跡的に焼けずに残った。しかし、この戦いにより、伏見の街の南半分は焼け野原となる。寺田屋が焼け落ちたのもこの時であり、寺田屋の近くには「伏見口の戦い激戦地跡」の石碑が立っている。

 さて、伏見の歴史とそれにまつわる旧跡を見て来たわけであるが、伏見と言うと、もう一つ忘れてはいけない物がある。そう、酒である。

 昔から、日本酒の三大産地というのがある。兵庫県の灘、京都府の伏見、そして広島県の西条である。灘と伏見は比較的近い場所にあるが、それぞれ特徴があるとされている。灘の水は宮水(みやみず)と呼ばれているが、ミネラル分を多く含む硬水であり、これで作ると酸の多い辛口タイプの酒になる。一方、伏見の水は灘の宮水に比べてミネラル分が少なく、これで作った酒は甘口に仕上がる。これをもって「灘の男酒、伏見の女酒」という言い方をすることもあるようだ。

 そんなわけで、酒の味を決める要素となる水だが、元々伏見の地名は「伏水」という書き方をしていたように、昔から水の豊かな土地柄であった。最初の方で記したように、ここには幾つもの大きな川が集まり、巨大な淡水湖まであった場所なので、至る所に水が湧いている。

 各酒蔵はそれぞれに酒造用の水を汲む井戸を持っていると聞くが、そうした酒造用のものだけでなく、今でも伏見の複数の場所で湧き出る水を汲むことが出来る。そうした中のひとつが、先ほど鳥羽・伏見の戦いの話で出て来た御香宮神社である。この神社は、名前から分かるように香りの良い水が湧いている場所とされ、その水の名を御香水という。





 御香宮神社の創建年代は不明だが、神社の縁起によれば、最初は御諸神社(みもろじんじゃ)という名だったらしい。平安時代前期に、この神社の境内から香りの良い水が湧き出たため、時の清和天皇(せいわてんのう)が御香水の名を与えたという。これが、現在の神社名の起こりである。

 また、紀州徳川家の祖である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)は、この水を産湯に使ったという伝承がある。

 この神社が鳥羽・伏見の戦いの際に新政府軍の陣になっていたと書いたが、その時の戦闘では本殿は焼けていない。旧幕府軍が立てこもった伏見奉行所は、近隣の街並みもろとも焼け落ちたのとは対照的で、やはり火力において新政府軍が優勢だったということなのかもしれない。境内には「明治維新 伏見の戦跡」の石碑が建っている。

 ところで、伏見の名水は他にもあり、俗に「伏見七ツ井」と言われている。「石井(いわい)」、「常盤井(ときわい)」、「春日井(かすがい)」、「白菊井(しらぎくい)」、「苔清水(こけしみず)」、「竹中清水(たけなかしみず)」、「田中清水(たなかしみず)」がそれであるが、最初の石井が御香水のことである。

 このように、良質な水が豊富に湧き出るため古くから造り酒屋が発展したようだが、大きく飛躍するのは、豊臣秀吉がここに伏見城を築城し、城下町を整備した辺りからである。その後は宿場町として栄えて多くの需要があったほか、海上交通の要路だったため、大坂にも船で酒を送ることが出来た。こうした地の利を生かして、江戸時代には一時80軒以上の造り酒屋が軒を並べたという。

 ただ、造り酒屋にも栄枯盛衰はあるようで、酒どころ伏見といえども、江戸時代から続く老舗は少ないらしい。鳥羽・伏見の戦いで街の半分が焼け野原になったのが痛手だったのだろうか。現在の伏見の酒蔵は20弱というが、黄桜(きざくら)、月桂冠(げっけいかん)、松竹梅(しょうちくばい)など全国的に名前の知られた大手メーカーが多い。





 上の写真は、東高瀬川の堤防から見た松本酒造(まつもとしゅぞう)の酒蔵である。よく観光ガイドブックに取り上げられている酒蔵で、この堤防に菜の花が咲いている景色が有名である。

 京都の観光と言えば幾つもの定番コースがあり、有名寺社を中心に多くの観光客が集まる。伏見と言えば、せいぜい伏見稲荷大社までしか一般のコースに入っておらず、今回紹介したような場所は、そのつもりでわざわざやって来ないとなかなか見られないものだろう。そのせいか、京都の中心部ではどこでも見掛ける外人観光客の姿は少ない。

 ただ、昔の京と大坂を結ぶ交通の要路には、数々の歴史があり大きな事件もあった。その足跡をたどりながら川沿いの道をそぞろ歩くのも週末の散歩としてはおつなものである。京都中心部の寺社仏閣をある程度見た人は、伏見まで足を延ばしてみては如何だろうか。







目次ページに戻る 本館に戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.