パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■琵琶湖疏水散策 |
琵琶湖疏水(びわこそすい)を巡る散策のために京都まで出掛けたのは、4月末の日曜日のことだった。 奈良散歩記にも何度か書いたが、私は大阪に住んでいた頃、それ程熱心に京都を訪れたわけではない。おそらく東京住まいの人間が関西に転勤になって、最も行ってみたい街は京都に違いない。しかし、大学時代の4年間を京都で過ごした私には、それ程の熱意は湧かなかったし、多くの観光客と車でごった返す街中を散歩するのは非効率だと思い、歩きやすい奈良に向かうことが多かった。 そんな中で琵琶湖疏水を訪れたのは、大学時代に親しんだ場所だけに多少の懐かしさがあったし、静かに歩ける場所も知っていたからである。 琵琶湖疏水のことを、東京の人はどの程度知っているだろうか。名前を聞いて滋賀県にあるものと考える人は多いだろう。もちろん取水口は琵琶湖にあるわけだが、普通琵琶湖疏水と言えば、京都市内を流れる幾つかの水路のことを指している。私が大学に入学した時、たまたま下宿の近くにこの琵琶湖疏水が流れていたものだからその存在を知ったのだが、京都の人は単に疏水と呼んでいた。 琵琶湖疏水は近代になって出来た人工の水路で、その建設の経緯は明治維新に遡る。幕末に幕府と長州との間で起きた軍事衝突、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)により、京都の市街地の多くが焼け市民が疲弊していたところに、維新によって天皇が東京に移り日本の首都でなくなるというショックも加わり、当時の京都は意気消沈していた。何とか京都を活性化しようと、生活用水だけではなく、工業用水や船による水運の確立も兼ねて、琵琶湖から水を引こうと行われたのが、琵琶湖疏水の建設である。近くにある琵琶湖から水を引いて来るというのは、昔から京都の人々の夢だったようだ。 琵琶湖からトンネル経由で京都市内に水を取り入れ、幾つかの水路を市内に巡らした。また、水力発電も行われ、その電気で市電を通すことになった。琵琶湖との間は船を使って人も物資も輸送できるようになり、鉄道のない時代に大いに活用された。いわば、公共事業による産業振興策だったわけである。 さて、その琵琶湖からの水はまずどこへ入って来るかだが、山科経由で地下を通って来た水が地上に顔を出すのは蹴上(けあげ)である。そこでスタート地点は、地下鉄東西線の蹴上駅ということになる。大阪から行くと、京阪電車で三条まで行き、地下鉄東西線に乗り換えるのが普通のコースだろう。地下鉄の駅を降りると、駅の上に坂道が延び鉄道のレールが敷かれている。これは蹴上インクラインと呼ばれるもので、琵琶湖疏水を使った水運に利用された施設である。 琵琶湖疏水のトンネルは比較的高い場所にあるため、京都市内に水を流そうとするとかなりの高低差が生まれる。水は急斜面をそのまま流せばいいが、それでは船が行き来できないので、安全の観点から船をどうにかして運ぶ必要があった。そこで大きな台車の上に船を載せ、その台車をレールの上を走らせて、船を陸路で輸送したのである。 しかし、鉄道の発達によりまず人の利用が減り、やがて貨物も運ばれなくなる。傍らの説明板によれば、昭和26年9月に砂を運ぶ船が利用したのが最後になったようだ。こうしてインクラインは60年の命を閉じることになる。インクライン設備は、蹴上だけでなく伏見にも設けられたと聞くが、現在残っているのはこの蹴上のものだけらしい。 さて、このインクラインの左脇に勢いよく流れているのが、この上にある暗渠から地上に出た琵琶湖疏水である。インクラインを登り切った場所に、山科経由で流れて来た疏水がトンネルから出て来る場所があり、疏水はそこで本流と分流に分かれる。インクラインの脇をゴウゴウと音を立てながらすごい勢いで流れているのは、本流の方の琵琶湖疏水である。 インクライン沿いには桜が植えられており、花見の時期には大勢の見物客であふれる。今回訪れた時にはもう葉桜になっていたが、それでもインクラインを散策する人は多く、中には結婚式の前撮りをしているカップルもいた。線路の上を歩けることから子供にも人気のようで、幾組もの家族連れが散策していた。ただ、ここは人が歩くために作られた施設ではないため、線路用に大きめの砂利が敷かれていて歩きにくい。それでも人が集まるのは人気のスポットだからだろう。 琵琶湖疏水の本流はインクラインの傾斜に沿って流れ、南禅寺船溜(なんぜんじふなだまり)という貯水池に一旦集まる。 ちょうど写真の右側から勢いよく流れて来た水が、池に注ぎ込む様子が見える。上がっている噴水は、傾斜面を流れて来た水の勢いだけで吹き上がっているものである。疏水はこのあと西に向かい、鴨川のところで折れて南に進み、伏見へと続く。しかし、今日歩こうとしているのは、この疏水の本流ではない。先ほどの蹴上インクラインで分かれて東山の中腹を北に流れる疏水の分流の方である。 蹴上インクラインの上で分かれた分流は、山に沿って流れ南禅寺(なんぜんじ)の奥にある水路閣(すいろかく)に向かう。この分流の脇には散策路が並走しており、ひっそりとした森の中を疏水の流れを見ながら歩ける格好の散歩道となっている。日頃はあまり歩く人もいないが、桜の季節には、いずれも花見の名所である哲学の道(てつがくのみち)と蹴上インクラインとを結ぶ近道として、行き交うのに大変なほどの観光客でごった返す。 南禅寺は、分流脇の散策路を歩いて行けばまもなく着く程度の距離にある。分流はそのまま水路閣に通じているが、散策路は水路閣の手前で終わりとなり、南禅寺発祥の地である南禅院(なんぜんいん)脇から階段を下りて南禅寺境内に出る。 さて、南禅寺と言えば湯豆腐というわけで、参道には幾つもの湯豆腐屋が店を開いている。湯豆腐といってもバカに出来ない値段で、ちょっと気楽に食べていくかということにはならない。もちろん、湯豆腐だけが出て来るのではなく、他の料理もついて来るため、値段が高いのは当然のことではあるが…。 なぜここに湯豆腐屋が集まっているのか。元々は南禅寺の精進料理が起源との話を聞いたことがあるが、定かではない。豆腐も昔は庶民の食べ物ではなく、限られた人しか食せない貴重な食材だったと聞く。それゆえ一般人に豆腐を食べさせる料理屋が人気を博したのかもしれない。 南禅寺は臨済宗(りんざいしゅう)に属する禅寺だが、元は後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が建てた離宮だったと伝えられる。後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇で、次期天皇の指名を幕府に委ねたまま亡くなったため、後継を巡って皇族、貴族、武家が争い、やがて南北朝時代を招くきっかけを作った人物である。 その後、息子の亀山天皇(かめやまてんのう)が出家して法皇となった後にここを寺に改めたのが、南禅寺の始まりとされている。禅寺として有名な天龍寺(てんりゅうじ)、相国寺(しょうこくじ)、建仁寺(けんにんじ)、東福寺(とうふくじ)、万寿寺(まんじゅじ)のいわゆる京都五山(きょうとござん)とは別格の扱いで、最も格式の高い禅寺と言われている。 南禅寺と言えば三門(さんもん)が有名である。歌舞伎で大盗賊石川五右衛門(いしかわごえもん)が「絶景かな、絶景かな」と名科白を述べるのがこの南禅寺三門の楼上からで、同じ絶景を楽しもうと思えば、拝観料を払えば楼上に上がれる。但し、南禅寺は単に境内に入るだけなら拝観料は取らない。お蔭で水路閣も自由に見られる。その水路閣があるのは法堂の左脇の方で、ここは南禅寺の中でも屈指の人気スポットである。 南禅寺のような古刹の一角に、こんなレンガ造りの水道橋があるのは何とも奇異である。事実、ここに水道橋建設が計画された時には多くの反対があったようだが、時は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ寺院が疲弊していた明治期である。しかも、政府肝いりの京都活性化策の前には、反対の声など掻き消されたということだろう。 ただ皮肉なことに、今ではこの水道橋が南禅寺観光の一つに目玉になっており、南禅寺の公式サイトでも水路閣が他の伽藍と並んで紹介されている。その紹介ページに曰く。 「赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている」 時代は変わったものである。 この水路閣は海外の人からも好評のようで、私が行った時にも何組もの海外旅行者が写真を撮っていた。この一種不思議な空間は、テレビドラマや雑誌の撮影のほか、一般の人にも撮影スポットとして人気と聞く。この時も、橋の下で様々なポーズや恰好で撮影に興じている人たちがいた。 私がこの水路閣のことを初めて知ったのは、随分と昔のことになる。中学だったか高校だったかは忘れたし、どの科目の先生が教えてくれたのかも覚えてないが、授業中の脱線話で、南禅寺を訪れたら是非奥まで行ってこの水道橋を見なさいとアドバイスされた。大学になって京都で暮らすようになり、散歩方々南禅寺まで来て初めてこの水路閣を見たとき、確かに驚いた覚えがある。古いお寺の中にこんなものがあろうとは、思ってもみなかった。今ではインターネットがあるから、家に居ながらにして珍しいものを色々見られるが、テレビと新聞・雑誌だけが情報源の時代には、聞くのと見るのとでかなりの差があったのだ。 さて、水路閣の上を通った疏水は、その先でトンネルに入って東山の麓を進み、若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)の脇に現れる。そこまで行ってみることにする。 南禅寺境内を北向きに出て鹿ケ谷通(ししがたにどおり)を歩く。南禅寺のすぐ北に永観堂(えいかんどう)があるためか、こんな裏通りでも観光客で一杯である。おまけにタクシーも頻繁に通る。この人出とタクシーの量というのは、奈良を散歩している時にはめったになかったことで、さすが京都は違うと感心すると共に、ウォーキングには向かない場所だと改めて思う。 永観堂の手前で、道を横切るように東山から流れ下りて来る水路がある。これも、疏水からの分岐であろう。水源目指してゆるい坂道を上って見たが、水源自体は立入り禁止で近付けなかった。鹿ケ谷通を横切って流れる水路はゆるいカーブを描いて西に向かうが、この脇にも砂利敷きの散策路があり、実にいい感じである。思わずそちらに行ってみたい気がしたが、本日の散策コースから完全に外れてしまうため諦めた。 永観堂は浄土宗のお寺であるが、正式名称は禅林寺(ぜんりんじ)という。元は弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)の高弟が平安時代に開いた真言宗の寺だったが、その後に住持となった永観(ようかん)の時代に浄土宗の寺になった。永観は名僧で寺勢を盛り上げ、寺院の発展によく尽くしたため、その名を取って永観堂と呼ばれるようになったらしい。 この日はお寺見学に来たわけではないので永観堂の前は素通りし、その先を曲がって東山の方にゆるい坂を上る。坂の上の方に目指す若王子神社がある。トンネルから出た疏水はこの神社の前を流れている。 上の写真の橋を渡った右側に若王子神社がある。静かで落ち着いた感じの神社で、狭いながらも東山を借景にした美しい境内である。 どこにでもあるような神社だが、平安末期に武家勢力と渡り合った後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が、熊野権現を勧請して創建したもので、由緒ある神社である。正式には熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)と言うらしい。 ちなみに、疏水が流れて来ている山側を上っていくと、何年か前にNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公だった新島襄(にいじまじょう)と妻の八重(やえ)の墓がある。当時は人気スポットだったかもしれないが、今では訪れる人も少ないようだ。歩いて20分かかるらしいので、気軽に立ち寄るわけにはいかない。私もパスして疏水沿いの道を先に進むことにした。 疏水は若王子神社の脇を東から西に流れ、その少し先で方向を北向きに変える。ここから銀閣寺(ぎんかくじ)までは人気の散策路で、この部分が「哲学の道」と呼ばれている。 名前の由来は、京都帝国大学教授で哲学者の西田幾多郎(にしだきたろう)が、思索にふけるために歩いた道というところから来ているようだが、西田に限らず、多くの学者や文人に愛された散策道だったようだ。 私が大学時代に聞いた話では、西田幾多郎が歩いていたのは、今みんなが歩いている疏水の西側の道ではなく東側の道だったという噂があったが、真偽は定かではないし、実際に西側を歩こうにも、途中で幾度か途切れてしまい歩けない。ちなみに、哲学の道の由来は京都大学の学生ならたいてい知っているが、その西田の著作を読んで彼の哲学を理解している人は、文学部哲学科を除けばほとんどいないのではないか。旧制三高の学生はたいてい読んでいたというが、時代は変わったのである(とか何とか言いつつ、私も人のことは言えないのだが)。 哲学の道は言わずと知れた桜の名所である。桜の時期に来ると大変な人出で、思索にふけっている場合ではない。学生時代に桜の時期ここを自転車で通ろうとしたらすごい人で前に進めず、断念した記憶がある。今では更に有名になっているため、お花見の時期になると前に進むのにも支障を来すほどの人出なのだが、幸いこの日は桜が散った後なので、歩くのには支障のない程度の賑わいだった。 それでも結構な数の観光客が行き来して、静かな散策道というわけにはいかない。海外からの観光客もたくさん歩いているが、昔はここまで国際色豊かではなかったから、京都の国際化が進んでいる証拠だろう。時折、自転車に乗っている外人観光客を見掛けるが、よく事情をご存知だなと感心する。哲学の道は全長2kmはあるので、人気スポットとはいえ、時間が限られた観光客には全行程歩くのはちょっとつらい。それを考慮してのレンタサイクルだと思うが、海外から来た人が、代表的寺院ならともかく、単なる散策道についてそこまで知っているというのに驚く。 葉桜の時期だったが、散った花びらがまだ地面にたくさん残っていた。私が大阪にいた当時、哲学の道の桜も少し勢いがなくなったという話を何度か聞いた。確かにこの翌年、満開の時期に哲学の道を歩いたのだが、部分的に花の付き方が少ないと思われる木があった。おそらく、ここを歩く人が桜の根を踏んでいるためではないかと思う。とりわけ混雑した時など、行き交う人がすれ違うのに桜のたもとに寄って来る人をやり過ごすことになる。年中、多くの人が訪れるので、木の根元がすっかり踏み固められているのではなかろうか。 この日は、桜の花はないものの新緑が美しかった。紅葉の季節もいいのだが、こうして見ると、一年中観光客が訪れるような状態になっており、ここを歩いて静かに思索にふける時代は終わったのだろう。 法然院(ほうねんいん)まで来ると、残りはわずかである。法然院は、浄土宗を開いた法然上人(ほうねんしょうにん)ゆかりの寺院で、詫びた風情の茅葺の山門が美しい寺だ。紅葉で有名だが、新緑も美しいだろうから立ち寄っても良かったのだが、この先の道のりを考えると道草食っている場合ではないと考え、この日は断念した。 法然院の辺りから道沿いに店が増える。昔はほとんど店がなかったので、これも哲学の道が有名になった証拠だろう。喫茶店もあれば雑貨屋もあり、ちょっと変わった店構えのものもある。観光地として有名になるというのはこういうことだろう。奈良を歩いていると、かなり有名なはずの場所ですら、ほとんど飲食店が見当たらない場合が多かったが、さすが京都と言わねばなるまい。ベースとなる観光客の数が違うのだと思う。 やがて銀閣寺に到着して、哲学の道は終わりとなる。この辺りが一番賑わっている。銀閣寺周辺は、私にとっては懐かしい場所である。大学時代、長くこの近くに下宿をしていた。下宿の前の通りから哲学の道が見えるほどの近さで、食事をするのもここから大学にかけた辺りだった。 哲学の道は終わっても、琵琶湖疏水は続いており、水路は銀閣寺のところで西に折れて、銀閣寺道沿いを流れる。懐かしさも手伝って周囲を見ながらゆっくり進む。かつての下宿方向に折れていく小道の脇で立ち止まり、しげしげと辺りを見ると、変わってしまった店はあるものの、全体の雰囲気として大きな変化はない。時々行っていた定食屋が残っており、ちょっと入ってみたかったが、こんな時間に食事をするわけにはいかずに断念した。 そう言えば、下宿から銀閣寺までは歩いてすぐだったが、大学時代、一度も訪れることはなかった。京都の寺社は拝観料が高く、それで一食分の食事が出来た。銀閣寺に限らず、ほとんど寺社には足を運ばなかった。せいぜい友人同士で日帰りの小旅行を楽しむとか、家族が来て一緒に京都観光をする時以外は、ひとりで拝観料を払って見学に行くなんてことはしなかった。京都に住んでいながらもったいないという声もあろうが、貧しい大学生の身にとっては、拝観料を払う方がよほどもったいなかったのである。 今出川通(いまでがわどおり)と白川通(しらかわどおり)の交差点を過ぎると、観光客は一気にいなくなる。今出川通も思い出深い道で、ここが大学までの通学路だった。背後に吉田山が見えて、新緑が美しい。大学時代とは店の様子が変わってしまったが、所々に見覚えのある場所がある。このまま百万遍(ひゃくまんべん)の交差点辺りまで散策したい気分だったが、本日のコースから完全に外れてしまうために諦める。今日は諦めることが多い。 疏水は今出川通の北側を流れるが、やがて今出川通から離れて北白川(きたしらかわ)の住宅地の中に入る。この先の疏水沿いの道は、歩く人もほとんどいない静かな道で、思索にふけるにはこちらの方がいいだろう。 この辺りを知っているのは、大学に入って最初に下宿したところが、北白川の住宅地の中で、疏水からすぐのところだったからである。古くからの住宅街で、立派な構えの家が多かった。時代劇の銭形平次でお馴染みの大川橋蔵(おおかわはしぞう)さんの家は近所だったし、立派な蔵を持った京大教授の貝塚茂樹(かいづかしげき)さんの家もあった。 私が下宿していたところも、古い京都のお屋敷みたいな家で、老夫婦二人だけで住んでいた。家は広く、使っていない部屋もたくさんあった。今はほとんどなくなったと思うが、完全な間借りの部屋で、洗面もトイレも大家さんと一緒である。お風呂も一緒に使ってもらってよいと言われたが、さすがにそこまではと思い、銭湯に通っていた。大家さんはきれいな京都弁を使う生粋の京都人で、あまり話をすることがなかったが、今にして思えば、京都のことを色々訊いたら面白い話を教えてもらえたのかもしれない。 京都の人と大阪の人は必ずしも肌が合わないらしく、大阪の人に言わせれば、京都の人と商売をするのは何となく嫌だと言う。バイタリティー溢れる大阪の人にも苦手とするものがあるのだなぁと、何となく面白く感じる。 ただ、京都の人について伝説のように語り伝えられるエピソードは、実際は眉唾である。曰く「この前の戦争というときは応仁の乱のことだ」とか「ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうどすかと言われたら、早く帰ってくれの意味」とか。京都は第二次大戦中に空襲には遭っていないが、冒頭に記したように幕末に蛤御門の変で市街地の大半が焼けている。いくらなんでも応仁の乱まで遡ることはないはずだ。 そうしたことを言い出せば、大阪のおばちゃん伝説も話半分に聞いておいた方がいいだろう。見ず知らずの間柄でも電車で隣になると「飴ちゃんあげよか」と鞄から飴玉を出してくるなんて話を聞くが、私は一度としてそんな光景を見たことがない。「そもそもバッグの中にいつでも飴の袋なんか忍ばせていませんよねぇ」と大阪の女性に訊いたら、「いや、たいてい持ってますけど」と言われたのには少々驚いたが・・・。 話を琵琶湖疏水に戻そう。ゆるくカーブしながら疏水沿いの狭い歩道を少し進むと、やがて志賀越道(しがごえみち)と交差したところから、道路と併走する広い道となる。ここからは進む方角が変わり、北に進路を取る。 志賀越道も私にとっては懐かしい道で、最初に下宿していた家から大学までの通学路だった。この道は、碁盤の目状に整備されている京都の街にあって、何故か碁盤の目を無視して斜めに市街地を抜けていく道である。その分、幹線道路を行くより多少ショートカットになったし、交通量も少なめだったと記憶している。 志賀越道の歴史は古く、滋賀の近江と京都とを結ぶ峠越えの交通路として栄えたようだ。今でも琵琶湖側に抜ける山道は残っていると聞くが、普通は蹴上から山科を経て大津に抜ける国道を使うから、現在どの程度の交通量があるのかは知らない。昔は比叡山の僧侶が祇園に遊びに来るのにこの道を使っていたという話を大学時代に聞いたことがあるが、本当なのだろうか。 さて、疏水沿いの道は幅も広くなり、自動車道の脇を通るが、交通量は少なく静かな散歩道である。ほとんど歩く人もいない歩道を、新緑を眺めながらのんびり歩く。さっきの哲学の道の賑わいは微塵もない。 暫く行くと、道の先の方から歓声が聞こえて来る。何だろうと思っていたら、疏水脇の京大のグラウンドでサッカーの試合をやっていた。応援の人たちが必死で声を張り上げている。暫し立ち止まって、水路の向こうのグラウンドの様子を眺めた。 このグラウンドのことを、昔は農学部グラウンドと呼んでいた。理学部・農学部がある北部構内の一番北東にあるグラウンドだったからだが、それが正式名称なのかは知らない。教養部にあったグラウンドと並んで体育会系の部活動の中心だったが、私は体育の授業で何度か来たことがある。大学に体育の授業があるというのも少し違和感があったが、ソフトボールやったりサッカーやったりと、娯楽要素が強かったので息抜きにはいい存在だった。中には、大文字山に登るとか、御所まで走るという変わった授業もあったが、御所まで走ると言ったって、何度も信号に阻まれて休憩の連続である。 それにしても、グラウンドは見違えるように美しくなっていた。昔は剥き出しの土のグラウンドだったが、今ではセンターに芝生が張られ、トラックもきれいに整備されている。かつてはプレハブだった体育会系の部室は立派な建物に建て替わり、一番驚いたのは観客用のスタンドが設けられていることだ。以前は石段が何段かあっただけだが、今では本格的なスタンドがあり、サッカーの応援はそこでやっている。 私が大学に通っていた頃は、まだのんびりした時代だったから、体育の授業の着替えは戸外でやっていた。この農学部グラウンドも更衣室がなく、みんな授業にやって来て、グラウンドの石段のところで着替える。このロケーションからすれば、一般道から丸見えなのだが、そんなことは誰も気にしなかった。今どき、外で着替えろと言うと文句が出るに違いない。今建っている立派な施設を見ると、きっと更衣室もあるのだろう。古くて貧乏な国立大学というイメージから随分と変わったものだ。 さて、疏水沿いの道の様相は、静かな散策道から、次第に住宅街にある川沿いの道といった雰囲気に変わっていく。ただ、引き続き水路沿いの歩道は付いていて、ほとんど歩く人もいない。そういう意味では静かで落ち着いた散歩道である。 京大のグラウンドから1km弱歩くと、疏水は北大路(きたおうじ)にぶつかる。北大路は大きな幹線道路なので交通量が多く、車が途切れたところでさっと横断するというわけにはいかない。しかし、疏水沿いの道を歩く人などほとんどいないので、近くに横断歩道がない。遠くに見える交差点まで行くしかないのかと、諦め気分で周りを見渡すと、少し先に叡山電鉄(えいざんでんてつ)の踏切がある。遮断機が下りている間なら車はみんな停まっているので踏切沿いに車の前を横切れるはずだ。遮断機の脇で暫く待っていたら、踏切の警報が鳴り遮断機が下りた。目論見通り、のんびりした電車とともに無事に北大路を渡った。 学生時代にこの電車に乗って、友人たちと鞍馬山(くらまやま)まで行ったことがある。鞍馬山を登り、反対側の貴船(きふね)まで降りた。その辺りで食事をしようと考えていたのだが、学生が手頃に入れる食堂の類は全くなかった。仕方なく女性陣が持って来た軽食をみんなでつまんで空腹をしのいだことを覚えている。インターネットなどない時代、ちょっとした遠出にも色々なトラブルはあった。しかし、今となってはそれも楽しい思い出である。 さて、北大路を渡ったところで疏水沿いの歩道は途絶えた。水路の両脇は車道であるが、車はあまり通らないので歩くのに支障はない。ただ、散策道の印象はもうなく、市街地を流れる水路脇の一般道というだけである。その500mほど先が、この日の取りあえずの目標である高野川(たかのがわ)との交差地点となる。 高野川の手前で疏水は地下に潜る。私はそのまま川端通(かわばたどおり)を渡り、高野川の川べりに出た。普通なら、ここで疏水は高野川に注いでいると思うだろうが、実は暗渠となって高野川の下を潜り、対岸に続いているのである。京都市内に琵琶湖の水を引くというプロジェクトの趣旨から言って、高野川でストップするわけにはいかなかったのだろう。 高野川は、遠く大原(おおはら)から流れて来る川だが、ここから2kmほど下流で、北西から流れて来た賀茂川(かもがわ)と合流する。その先の名称は、呼び名は同じでも漢字が違う鴨川(かもがわ)となる。 一方琵琶湖疏水は、高野川の下をトンネルで進み、対岸で一旦地上に出て、そのまま西に流れていく。やがて、賀茂川とぶつかるが、ここも地下に潜ってトンネルで交差した後、対岸で再び地上に出て、堀川通りの手前辺りまで延びている。つまり、あと3〜4kmはあるということになる。さすがに対岸に渡って最後まで付き合うわけにはいかず、本日の疏水沿いの散策は終わりである。 ここから高野川の上流を見ると、「法」の字を山肌に刻んだ山が見える。毎年8月16日に行われる五山送り火(ござんのおくりび)の一つ、松ヶ崎(まつがさき)の妙法(みょうほう)である。西側、つまり写真左側に妙の字が刻まれた山があり、東側、つまり右側に法の字を刻んだ山があるという構成で、二つ合わせて妙法となる。妙法は、大文字の次に点火される。 私は大学時代、お盆の時期はいつも帰省していたので、五山送り火を直接見たことがない。現地まで行くとなると、今ではすごい人らしいが、幸い関西にいると点火の様子をテレビで生中継してくれる。送り火そのものはニュースでやるから全国どこでも見られるが、さすがに実況中継となると、関西でないと見られないだろう。 さて、ここからの計画だが、このまま高野川沿いを南下し、出町柳(でまちやなぎ)まで出て京阪電車で大阪に帰るつもりである。川べりがずっと遊歩道になっているので、車にも信号にも邪魔されずマイペースでのんびり散歩出来る。鴨川の川べりは大学時代に何度も歩いたことがあるが、上流の高野川を歩くのはおそらく初めてだろうと思う。 この日はずっと晴天で気温も高く、歩いているとじんわりと汗の出る一日だったが、そろそろ日も傾き、川風が吹き始めて心地良い。川べりの散歩というのは、水が間近にあって涼しげで、気分の良いものである。堤防の上は桜並木で、花見の時期は賑わうのだろう。 川は浅くていくつも浅瀬があり、大小様々な野鳥が休んだりエサを探したりしている。川の中を狙うのは鳥だけではなく、子供たちが網を持って川の中をウロウロしている。獲物は、魚やザリガニ、カエルといったところだろうか。 家族連れが川原でシートを広げ、大学生と思しき若者たちも思い思いに座っておしゃべりに興じている。こんなのどかな川べりの風景があるのも、京都の魅力のひとつである。観光客が押し寄せる世界遺産の寺社もいいが、街の真ん中で気楽に川遊びというのも、魅力的な休日の過ごし方だろう。 1kmも歩いたところで、対岸の住宅地の向こうに、下鴨神社(しもがもじんじゃ)の鬱蒼とした森が見え始める。この森は南北に1km弱続く原生林である。糺の森(ただすのもり)と呼ばれ、下鴨神社共々世界遺産に登録されている。これでも昔に比べ、随分森が小さくなったと言われている。この日は寄らなかったが、この森も絶好の散策コースである。 川風に吹かれながら、幾つか橋の下をくぐっているうちに、賀茂川との合流地点に着く。今日歩いた哲学の道の終点、銀閣寺から西に延びる今出川通と川が交差する辺りである。気持ちのいい散歩というのは、あっという間に時が過ぎるものだ。 この辺りは、大学時代に何度も来たことがあるが、あの頃から人が集まり賑やかな場所だった。写真の左側が北西から来た賀茂川、右側が、今川べりを歩いて来た高野川、そしてここで合流して、この先南に向かって流れるのが鴨川である。一般に観光客のみなさんが川原をそぞろ歩きしているのは、これからもっと南の鴨川べりということになる。 この日歩いたのは1万5千歩。アップダウンもなく平坦な路で歩きやすかった。観光客の多かった前半部分は静かな道行きというわけにはいかなかったが、哲学の道が終わってからの疏水沿いの道は、ウォーキングには最適ではなかろうか。加えて言えば、川沿いの道も…。 それにしても、京都の人気ぶりと国際化の進展を実感した一日だった。 |
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