パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■熊野古道−始まりの道





 前回まで、熊野古道を歩いた話を3回に分けて書いた。熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の熊野三山に参詣するため、今の大阪から全長数百キロにわたって延びる熊野古道のクライマックス部分だけを紹介したわけである。

 最後の部分だけ歩いて熊野詣をしたと言うと、参詣のために命を掛けて長距離を歩いた昔の人々からは、笑止千万と謗られるだろう。ただ、全長数百キロなど、現代人には決して歩ける距離ではないし、何より、熊野古道の多くが一般道に吸収されたり、近代以降の都市開発で消え失せたりしているため、歩きようがない。

 しかし、せっかく最後の部分を歩いたのだから、最初の部分についても歩いてみてはどうだろうかと考え、スタート地点である大阪市内の熊野古道がどうなっているのかを調べてみたら、何と、一応残ってはいる。残っているといっても一般道になっているわけだが、どれがかつての熊野古道であったのかを推定して、大阪府が解説付きの地図まで出してくれている。これならお手軽に歩けるだろうと、出発点の八軒家船着場(はちけんやふなつきば)から天王寺までの5km程度を歩いてみることにした。





 出発点となるのは、京阪電車の天満橋駅のすぐ脇にある八軒家船着場である。前を流れるのは大川(おおかわ)という川だが、これが以前の淀川(よどがわ)である。淀川を使った海上交通が盛んだった頃には、渡辺の津(わたなべのつ)という船着場だった場所であり、そこにあった船宿の数からやがて八軒家という通称が生まれたらしい。

 三十石船を使った荷物運搬の中心地だったようだが、金比羅詣でや熊野参詣の出発点としても栄え、京都から多くの人々が船に乗ってここにやって来た。京都の伏見と結ばれていたのだが、全長45kmを上り一日、下り半日で結んでいたというから、便利な乗り物だったに違いない。

 東京の神田明神のお祭りや京都の祇園祭と並ぶ日本三大祭の一つ、大阪の天神祭(てんじんまつり)の船渡御(ふなとぎょ)は、この八軒家船着場の前を通る。天神祭は平安時代から続く歴史あるお祭りだが、熊野詣でにやって来た人たちも、ここからお祭りの様子を眺めたりしたのだろうか。

 ただ、熊野詣が盛んだった頃の八軒家船着場は、正確にはこの場所ではない。埋立てが進んで場所が変わったのである。実際に八軒家船着場があったとされる場所は、ここから一本通りを入った土佐堀通辺りだったと言われている。今では、土佐堀通沿いの店の前に八軒家船着場跡の石柱が立っている。

 ところで、今でもここは現役の船着場であり、淀川観光のための遊覧船が定期的にやって来る。お蔭で「川の駅」が置かれ、レストランなどの商業施設も整っている。ただ、淀川を巡る観光客のいったいどれほどが、この船着場が熊野古道の出発点だと気付いていることだろう。

 船着場から左手を眺めると、中之島の先端が見える。川はここで南北に分かれ、北が堂島川(どうじまがわ)、南が土佐堀川(とさぼりがわ)となる。やがて中之島の西端で再び二つの川が合流するが、そのほんの先はもう大阪湾である。川の両端には高層ビルが建ち並び、如何にも水の都大阪にふさわしい光景である。

 さて、いよいよ熊野古道への最初の一歩であるが、その前に、窪津王子(くぼつおうじ)に立ち寄ることにする。

 以前、熊野古道を歩いた時に、九十九王子(くじゅうくおうじ)のことを書いた。小さいなりに建物がある場合もあれば、単なる石像や石塔の場合もあるのだが、熊野古道沿いに古代の道標のようなものがある。それぞれが「○○王子」の名前で呼ばれ、行程の目安とされていたようだ。皇族ご一行などは、そこで休憩も兼ねて、和歌の会を催したりした。とは言っても、等間隔に王子があるわけではないし、全行程に設置されているわけでもない。

 元々は、熊野三山に祀られる熊野権現の子である様々な神を、道中に祀ったもののようだ。多分に自然信仰的なものであり、修験道の手になるものとも言われている。九十九王子とは言うものの、実際の王子の数は百以上ある。その最初の王子が、八軒家船着場の近くにあり、名前を窪津王子という。





 残念ながら、窪津王子そのものは残っていない。窪津王子は坐摩神社(いかすりじんじゃ、ざまじんじゃ)の境内にあったとされるが、その坐摩神社自体も、大阪城築城の際に、商業の中心として栄えた船場(せんば)に移転している。現在あるのは坐摩神社の行宮(あんぐう)であり、そこにかつて窪津王子があった旨の解説板がある。

 解説板によれば、窪津王子は元々、渡辺王子という名前だったようで、熊野参詣のために八軒家船着場に上陸した人たちが最初に参詣した第一王子だったとある。渡辺王子の名は、船着場の元々の名前である渡辺の津にちなんだものだろう。

 坐摩神社自体は神代に遡る古い神社で、神功皇后が三韓征伐で凱旋帰国した際に建てたとされている。そう言えば、奈良にある神功皇后稜に行ったことを思い出した。神功皇后は神話上の人物なので実在は不確かだが、古墳がある以上、モデルとなる誰かはいたのだろう。ちなみに、現在船場にあるこの神社の鳥居は、山の辺の道を歩いた際に訪れた日本最古の神社、大神神社(おおみわじんじゃ)同様、3つの鳥居を横に組み合わせた三輪鳥居だそうである。

 さて、いよいよ熊野古道の本格スタートである。大阪市内では熊野古道は熊野街道(くまのかいどう)と呼ばれている。全長数百キロとなれば、たしかに街道だろう。道の所々に道案内の石碑が立つが、全て熊野街道と記されている。とはいっても、道は至って普通の都会の一般道である。車が通り、信号でたびたび停まる。お蔭で奈良を歩くのと比べて圧倒的に時間がかかる。





 熊野古道のスタートは、八軒家船着場からいきなり上り坂で始まる。歩道には、熊野街道の概略を記した石碑が建てられている。冒頭に掲げた写真が、その石碑である。

 この道の現在の名称は御祓筋(おはらいすじ)という。大きな幹線道路である谷町筋(たにまちすじ)と平行して南北に走っている通りで、休日だと交通量が少ないので、比較的静かで排気ガスに悩まされることもない。

 八軒家船着場から熊野三山までのルートは以前、熊野古道散策の時にも書いた。八軒家船着場に上陸した後は、紀伊路(きいじ)を通って現在の和歌山県田辺市に行き、そこから中辺路を歩いて、まず熊野本宮大社に詣でた。その後、熊野川を船で下って熊野速玉大社にお参りをし、海岸沿いを通って熊野那智大社へ詣でる。この順番で熊野三山を参詣したようだ。帰り道は熊野那智大社から来た道を引き返すように熊野本宮大社まで戻り、そこから再び紀伊路をたどって八軒家船着場まで帰ることになる。

 本日歩く道は、紀伊路の最初の数キロである。紀伊路は八軒家船着場から南にほぼ真っ直ぐ大阪府内を下りて行って和歌山県に入り、田辺市まで通じていた。現在の熊野古道が大阪市内でどうなっているのか全貌は分かりかねるが、今日歩く部分はひたすら街中の一般道で、情緒も何もない。徹頭徹尾、都会の散歩である。

 御祓筋を南下し、阪神高速が上を通る中央大通(ちゅうおうおおどおり)を越える。そこから暫く行くと、道路右手に南大江公園(みなみおおえこうえん)が現れる。ここが、2番目の王子である坂口王子(さかぐちおうじ)があったとされる場所である。





 残念ながら、ここでもまた王子は現存しない。大阪市内の熊野古道沿いの王子は、所在場所は推定されているものの、王子そのものはほとんどの場合失われている。これは、明治末期の神社合祀政策の中で整理され、他の神社に合祀されたためである。

 さて、ここまで御祓筋を一直線に南下して来たが、熊野古道はこの先にある長堀通(ながほりどおり)の手前で東に曲がり、谷町筋を横切って東側に移動する。どうしてそうなっているのか分からないが、長堀通は昔、川だったらしいから、橋が架かっていたところにつながっていたということだろうか。現在の御祓筋自体も、長堀通手前で急に細くなって、自動車が通れない坂道になっている。その傍らには赤い鳥居のある小さな祠があり、何とも不思議な眺めである。

 東西に通る静かな一般道を東に進み、谷町筋の一本東側の通りに出る。これが再び熊野古道で、長堀通との交差点に熊野街道の石碑が立っている。八軒家船着場からの距離が記されているが、ここまで1.8kmとある。地下鉄の駅で言うと2駅分なのだが、距離にすれば案外と近いものだと気付く。ただ、石碑に記された距離が、直線距離なのか、実際に道なりに測った距離なのかは、定かではない。

 長堀通を渡って暫く南に行くと、道は行き止まりとなり、右手にアーケード付きの空堀通商店街(からほりどおりしょうてんがい)がある。ここを左に曲がり、すぐをまた右に曲がると大阪府発行の地図にあるのだが、果たしてこれがそうなのかと迷うような細い坂道である。違ったら引き返せばいいと思って、坂道を下って行く。やがて学校が見え、その前に熊野街道の石碑があった。どうやら正解だったらしい。

 この細い道沿いには旧家と思われる情緒のある家が所々建っており、昔の姿を多少は偲ぶことが出来る。本日の行程の中では、おそらく最も情緒のある道行きである。といっても、この程度かと思うような風景だが・・・。

 やがて大きな通りに出る。千日前通(せんにちまえどおり)である。ここにも熊野街道の石碑があり、八軒家船着場から2.9kmとなっている。これで半分は来たことになるのだろうか。





 千日前通の手前を少し西に行ったところに、三番目の王子である郡戸王子(こうとおうじ)があったとされている。これもまた現存しない。今の高津宮神社(こうづぐうじんじゃ)がある場所がそうではないかと推測されているが、これは先ほどの御祓筋をそのまま南に下った辺りであり、熊野古道と王子がそんなに離れているというのもおかしな気がする。熊野古道か郡戸王子か、どちらかが、現在の推定場所とは違っているということだろうか。

 千日前通を渡ると道はもう少し広くなり、暫く行くと道路左手に上汐公園(うえしおこうえん)という公園が現れる。ここを東に行き、上町筋(うえまちすじ)という南北に走る大通りを渡った先に、四番目の王子である上野王子(うえのおうじ)があったと伝えられている。これも今までの王子同様現存しないのだが、おそらくこの辺りだったろうとされるところに「上宮跡」の石碑が建っているらしい。

 ただこれも、熊野古道からは離れたところにある。先ほどの郡戸王子もそうだったが、熊野三山近くの熊野古道と違って、大阪市内の王子は道から離れたところにあったのだろうか。

 さて、もうこの辺りに来ると、本日の目的地である天王寺駅のシンボルであるあべのハルカスが眼前に見える。真っ直ぐに進むと警察署が角にある大通りに出て、熊野街道はここから西に曲がり、谷町筋に合流する。谷町筋との交差点に熊野街道の石碑があり、八軒家船着場から4.1kmとある。聖徳太子(しょうとくたいし)が開いた四天王寺(してんのうじ)は、目と鼻の先である。

 ここに至るまで、谷町筋と並行する裏道っぽい一般道を通って来たわけだが、ようやく街道らしい大通りになった。このまま谷町筋を南下していけばいいのだが、ちょっと寄り道をして愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)に向かう。谷町筋から西側に少し入ったところにあるお寺だが、大阪の人は「愛染さん」と呼んでいるらしい。





 寺の縁起によれば、ここは元は四天王寺にあった施薬院(せやくいん)だという。施薬院は、薬草を栽培して薬を作り、病人や怪我人に分け与えた古代の福祉施設である。そこで聖徳太子が勝鬘経(しょうまんぎょう)という仏教の経典について講義をしたことが、お寺の名前の由来らしい。創建も聖徳太子とされているので、飛鳥時代のお寺ということになる。

 祀られているのは愛染明王(あいぜんみょうおう)という仏様で、縁結びの神様だと聞く。ただ、お寺のサイトで見ると憤怒の形相で、どう見ても愛の神様には見えない。境内に「愛染めの霊水」というのがあり、女性に人気のようだ。

 また、ここには重要文化財に指定されている立派な多宝塔がある。上の写真がそれである。聖徳太子によって創建されたが、織田信長の石山本願寺攻めの際に焼失している。その後豊臣秀吉が再建し今日に至っているようだ。大阪市最古の木造建造物と聞く。

 私が子供の頃に題名だけ聞いたことのある「愛染かつら」という映画だったかテレビドラマだったかは、このお寺にある同名の霊木にちなんでいるとお寺の解説にあった。原作者がこの近くに住んでいたようだ。その愛染かつらだが、どういったものかと言うと、桂の巨木にノウゼンカズラが巻きついた状態のものである。訪問時は冬だったため、花は咲いていなかった。

 愛染堂勝鬘院を出ると、今度はその先にある愛染坂(あいぜんざか)を降りる。愛染坂の名前は勝鬘院に由来するわけだが、江戸時代にその坂の脇に浮瀬亭(うかむせてい)という大阪を代表する料亭があったと、傍らの案内板で紹介されている。料亭から大阪湾を通して遠く淡路島まで眺望できたという。料亭の名前の由来は、浮瀬という、貝殻を使った珍しい杯を所蔵していたことによるとある。俳人松尾芭蕉は大阪で亡くなっているが、死の半年前にこの料亭を訪れている。明治時代までは存在したようだが、今や敷地は学校になっている。

 愛染坂を下りると南に進み、やがて現れた坂を再び上る。坂の名前は清水坂(きよみずざか)で、まさに清水寺(きよみずでら)に続く坂である。お寺の正式名称は「有栖山清光院清水寺(ありすさんせいこういんきよみずでら)」だが、単に清水寺と呼ばれている。清水寺と言えば京都だが「大阪にも清水寺があるんですよ」と大阪の人に教えてもらったのがここである。

 坂を上って脇道にそれると清水寺の墓地が現れ、その先には京都の清水寺と同じく、清水の舞台がある。





 京都の清水の舞台ほどではないせよ、ここからは眺望がきく。天王寺近くなのであべのハルカスも見えれば通天閣も見える。なかなかの景色であり、墓参り以外に多くの人が訪れる。先ほどの江戸時代の料亭浮瀬亭からの眺めが良かったであろうことは、この清水の舞台に立てば想像がつく。

 ここに舞台があって眺望がきくのは、高台だからである。大阪市内は全部平地だと思われているが、実際には南北に細長い台地がある。これを上町台地(うえまちだいち)と呼んでいる。

 上町台地は大阪城辺りから始まり、南に延びている。今ではビル街に囲まれているのでその高低差は分かりにくいが、百以上とも言われるお寺が集まっている四天王寺周辺に来るとその高さが実感できるというわけである。そして、大阪市内の熊野古道は、この上町台地の背の部分を通っている。本日の熊野古道のスタート地点が、八軒家船着場からいきなり坂道になっていたのは、この上町台地に上るためだったのである。

 清水寺には、もう一つ名物がある。それを見るために再び坂道を下り、台地の下に当たる場所に行く。清水寺の門をくぐり境内を抜け、崖下の最奥部まで行くと、滝が落ちている。これは大阪市内唯一の天然の滝らしい。ちょうど上町台地に降った雨が地下水になり、崖の途中から台地の下に落ちているのである。京都の清水寺にある音羽の滝の向こうを張って玉出の滝(たまでのたき)と名付けられている。

 清水寺を離れて南に行くと、突き当たりに急な階段が見える。ここを上ると安居神社(やすいじんじゃ)という神社がある。創建の経緯はハッキリしないが、大宰府に流される際に菅原道真(すがわらみちざね)が休憩したと伝えられ、それが神社の名前の由来になっていると聞く。

 小さな神社なのだが、この神社を有名にしているのは、ここで大坂夏の陣の際に真田幸村(さなだゆきむら)こと真田信繁(さなだのぶしげ)が戦死したためである。境内にある松の下で負傷した兵と共にいるところを襲われたようだ。その傍らに真田幸村戦死跡之碑と真田幸村の像がある。





 写真の中央に注連縄を張った松があるが、ここが真田幸村終焉の地ということになる。大阪城からはかなり離れているが、籠城戦に徹した大坂冬の陣と違い、夏の陣の際には豊臣方は城から打って出たわけで、この辺りで徳川方と最大にして最後の戦いを行ったのである。

 数の上では徳川方優位だし、豊臣の部隊は浪人中心の編成である。それでも真田幸村隊は徳川方の正面から突っ込み、敵を切り崩しながら家康の本陣に突入する。慌てた家康は逃げ回り、本陣は大混乱に陥る。家康はこのとき切腹を覚悟したと言う。まさにあと一歩だったわけである。そして戦い疲れた真田幸村は後退して暫し休憩を取った。そこを襲われたのである。

 このときの天王寺周辺の攻防は、日本の合戦史上でも例を見ないほどの激戦だったようだが、今の平和な街並みを見ているとにわかには信じられない。大坂の陣では冬・夏合わせて現在の大阪中心部は至るところ戦場だったことになる。今日ここまで歩いて来た熊野古道周辺でも、両軍の兵が激しく戦っていたのだろう。

 さて、安居神社の階段を下りて、天神坂(てんじんざか)という坂を東方向に上がって行く。この辺りは坂が沢山あり、上がったり下りたりで忙しい。足腰が鍛えられる散歩である。ほどなくして、かつて熊野古道が通っていた谷町筋に出る。そこを南に少し進むと、聖徳太子建立の四天王寺が道路脇に見えて来る。

 四天王寺創建の経緯については、以前奈良散歩記で斑鳩の里を訪ねた際にも書いた。

 話は飛鳥時代のことである。疫病が流行して天皇や豪族が次々病に倒れた。病気快癒を願うために仏教を信奉しようとした蘇我氏(そがし)と、昔ながらの神道を重んじて異国の宗教を嫌った物部氏(もののべし)の対立が激化し、ついに用明天皇(ようめいてんのう)が崩御すると、双方が兵を挙げて軍事衝突する。この時蘇我氏側について参戦したのが厩戸皇子(うまやどのおうじ)、つまり後の聖徳太子であり、蘇我軍が劣勢になった時に四天王に戦勝祈願して、勝ったら必ず四天王を祀る寺を建立すると誓う。やがて蘇我軍は軍勢を立て直し、物部氏は敗れる。戦いが終わった後、聖徳太子は約束通りここに四天王寺を建てたのである。

 創建当初四天王寺には、敬田院(きょうでんいん)、施薬院、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の4つがあったとされている。施薬院と療病院は医療施設の原型、悲田院は社会的弱者向けの福祉施設の原型である。また、伽藍配置は、南から北に向かって門、五重塔、金堂、講堂が一直線に配置されており、門と講堂が両脇から回廊で結ばれている。これが日本の寺院建築の原型であったらしく、教科書などでは四天王寺様式などとして紹介されている。





 四天王寺は、聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)の一つとされており、近くの天王寺駅の名前の由来にもなっている由緒正しい寺院だが、残念ながら度重なる戦火や火災で幾度も焼失しており、創建当初の建物は残っていない。ただ、皇族ご一行が熊野を目指して熊野古道を歩いた頃には、この寺院は間違いなく存在していたのである。そういう意味では、熊野古道の九十九王子に勝るとも劣らない道標であったことだろう。

 四天王寺の境内に、熊野古道に関係するものがある。南大門を入ってすぐのところにある熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)というのがそれである。

 案内板によれば、熊野詣で熊野古道を行く人は、四天王寺に立ち寄って道中の安全を祈り、熊野三山の方を向いて礼拝したという。その標となる石がこの熊野権現礼拝石である。ここに至るまで、道沿いの王子は全て現存せず、熊野古道のよすがを偲ぶ具体的手掛かりは見当たらなかったわけだが、さすがに聖徳太子建立の由緒ある古刹、こうしてしっかりと熊野古道関係の遺構が残っている。





 さて、四天王寺を後にして、再び谷町筋に戻る。本日のゴールである天王寺駅のシンボル、あべのハルカスはもう目の前に見えていて、あと数百メートルといったところだろうか。この日最後となる熊野街道の石碑が歩道脇にあった。八軒家船着場から4.7kmとあるから、天王寺駅まで行くと5km少々ということになるか。

 駅に近づくと、歩道はアーケードのついた商店街となり、道行く人もぐっと増える。その先がJR天王寺駅とあべのハルカスで、更に多くの人が行き交っているのだが、この辺りを歩く人のいったいどれくらいが、自分の歩いている道が熊野古道だと気付いていることだろう。

 今日の熊野古道散策はここでおしまいだが、道はまだまだ続く。阿倍野から住吉に抜け、やがて堺へと通じているのである。この先の熊野古道については、また別の機会に書くことがあろうかと思う。

 それにしても、かつてここを歩いた熊野参詣の人々は、道の脇に日本一の高層ビルが建つことなど、思いもよらなかったろう。「蟻の熊野詣」ならぬ買い物客と乗降客でごった返すJR天王寺駅に入り、電車に乗った。北風の冷たい一日だったので、電車の暖房がひときわありがたい。結局寄り道したお蔭で歩行距離は10km。ウォーキングにしてはあまり長い方ではないが、寒かった分だけ体力を消耗した気がする。熊野三山に参るために数百キロを踏破した昔の人々に思いを馳せつつ、天王寺駅を後にした。







目次ページに戻る 本館に戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.