パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■熊野古道−熊野那智大社から大雲取越へ |
今回は熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)を紹介したい。熊野詣の参詣順に熊野三山(くまのさんざん)を回る形で各神社を紹介して来たが、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に続き、今回が最後ということになる。 そして、熊野那智大社へアクセスするための熊野古道の代表的な道である大門坂(だいもんざか)と、熊野三山を回り終えた後、出発点の熊野本宮大社に戻るために使われた大雲取越(おおぐもとりごえ)という熊野古道(くまのこどう)最難関のコースを歩いた時のことも、合わせて記しておきたい。 前回、熊野速玉大社について書いた際、この年は泊りがけで熊野古道にやって来たと書いたが、この2日目が大雲取越への挑戦だったのである。 ところで私は、熊野那智大社には以前にも訪れている。大学生の頃だから、もう遠い昔である。大学のゼミの仲間と共に和歌山、三重を旅行した際に、那智の滝を見て熊野那智大社へお参りをした。この時にはまだ熊野古道はポピュラーではなく、熊野那智大社から出る大雲取越はおろか、今では熊野古道のシンボルとなっている大門坂の存在すら知らなかった。世界遺産に指定されるってことは、大変な影響力なんだなと改めて思う。 さて、いよいよ熊野那智大社の具体的な話に入ろう。私は職場の有志と大阪から車で熊野古道歩きに出掛けたわけだが、公共交通機関を利用して行こうとする人にとって、最も行きやすい熊野三山と熊野古道の組合せは、熊野那智大社と大門坂だろう。 熊野那智大社の最寄駅は、JR紀勢本線の那智駅(なちえき)なのだろうが、ここは特急が停まらない無人駅となる。従って、紀伊勝浦駅(きいかつうらえき)で特急を降りて、そこからバスでアクセスするのが最良の方法である。 大阪の天王寺駅から特急に乗って紀伊勝浦駅まで3時間半、そしてそこからバスで大門坂の入り口まで20分である。大門坂を上って熊野那智大社に行くのがしんどいなら、一気に熊野那智大社までバスで行って、下りる方向で大門坂を歩いても良い。この場合のバスの所要時間は、紀伊勝浦駅から30分となる。この路線のバスは1時間に1本程度あるから、充分往復に使える。ただ、大阪からでも日帰りは難しかろう。強行軍なら何とかなるかもしれないが、普通は一泊する必要がある。そういう意味では、公共交通機関で行ける熊野那智大社と大門坂も、大阪からですら遠い地かもしれない。 さて、熊野那智大社や大門坂に行く際に起点となる那智勝浦町だが、ここは天然の良港を抱えマグロ漁の町として名高い。ただ、獲れるマグロはメバチマグロ以下の小型のものが主流で、本マグロはめったに獲れないとも聞く。そうはいっても、冷凍でない生のマグロを食べられるのはうれしいものだ。厚くぶつ切りにしたマグロの刺身を食べると、ほんのりと潮の香りが感じられるようで、ここならではの楽しみである。 まずは大門坂をご紹介しよう。熊野古道と言えば、ポスターやガイドブックに大門坂の写真が載っていることが多い。巨大な杉木立の中を石畳の道が続く光景はあまりにも有名である。 那智勝浦から熊野那智大社へ行くには県道46号線を使うことになる。道路は、那智の滝へ続く那智川沿いを走るが、山を上がって行く九十九折の手前に大門坂の入り口がある。道路脇に案内板が出ているので分かりやすい。 ちなみに、熊野古道自体は、前回ご紹介した補陀洛山寺(ふだらくさんじ)脇の浜の宮王子(はまのみやおうじ)から、この県道46号線に近いところを並行して通っている。私はこの部分の熊野古道は歩かなかったが、山沿いを行く土の道になっていて、途中に市野々王子(いちののおうじ)という王子があるようだ。この熊野古道をたどっても、大門坂入り口に行き着く。浜の宮王子から歩いて1時間半程度の道のりだ。 大門坂は熊野那智大社へ登る参詣道で、かつて実際に門があったと言われている。この道は中辺路の一部であり、樹齢数百年の巨大な杉が並ぶ中を、石畳の坂道が山上へと続く。ここを上がると、熊野那智大社参道である石段の近くに出る。熊野那智大社の社殿には、そこから更に500段近くある石段を登らなければならない。 さて、大門坂へのアプローチだが、県道から暫し舗装された狭い道を歩き、鳥居をくぐると朱塗りの短い橋がある。これは振ヶ瀬橋(ふりがせばし)と呼ばれ、この橋を渡ったところからが熊野那智大社の神域となるらしい。その先に大門坂茶屋(だいもんざかぢゃや)があり、ここで平安時代の参詣衣装を借りることが出来る。私が歩いた時にも女性が二人衣装を着て付近を歩いていた。ちょうどポスターに登場するのと同じ格好である。 この茶屋のすぐ向こうに、圧倒されるような存在感で聳え立つのが、有名な夫婦杉(めおとすぎ)である。案内板では樹齢800年とされているが、地元のガイドさんによれば正確に測ったものではないという。同規模の杉が倒れた時に、その年輪から計測したところ800年だったので、そう推測されているようだ。 夫婦杉から先が本格的な石畳の坂道で、平坦な部分と何段かの石段の組合せが暫し続く。実に素晴らしい光景で、人々が抱く熊野古道のイメージそのものである。この先、距離にして約600mの山道を、高低差にして100m分ほど登ることになる。途中で自動車道と出会う部分があり、苦しくなれば沿線バスが拾ってくれるようだ。ただ、30-40分の道のりなので、普通の人なら踏破は可能だと思う。 少し行くと右手に石碑が現れるが、これが九十九王子の最後となる多富気王子(たふけおうじ)である。多富気というのは、神仏に対する手向け(たむけ)から変化した言葉だとも言う。いずれにせよ、昔の人はこれを見て、ついに長かった熊野詣の最後の地点に来たことを実感したことだろう。自動車でやって来る我々には分からない感慨を、この王子の前で抱いたに違いない。 途中に関所の跡がある。傍らの案内板によれば、かつてはここで料金を取っていたらしい。今ではちょっとした休憩スペースとなっていて、皆さん見学がてら立ち止まり、お茶を飲んだりしている。大門坂は写真でお馴染みの道なので、結構な人が歩いている。上る人より下りる人を多く見掛けたが、これは団体観光客を熊野那智大社までバスに乗せて上がり、帰り道に大門坂を歩かせて熊野古道を堪能してもらおうという旅行会社の趣向によるものらしい。 さて、大門坂を上り切ると、土産物屋が並ぶ自動車道に出る。ここから熊野那智大社へ上る石段が延びるが、大門坂を上がって来てから更に500段近くの石段なので、少々しんどい。暫く上がると大鳥居が見えて、そこからもう少し頑張ると、熊野那智大社の社殿前に出る。 熊野本宮大社や熊野速玉大社と比べると小ぶりの神殿である。山の中で境内が狭いためであろう。本殿の並び方も、熊野本宮大社や熊野速玉大社では横一直線だが、熊野那智大社は山裾にL字型に配置されている。 熊野三山の祭神は熊野権現(くまのごんげん)と総称されるが、元々の氏素性は必ずしも明らかではない。これまでも話した通り、神武天皇(じんむてんのう)が九州から東征して熊野にやって来たときには既にあった神なので、大和朝廷の神話体系が出来上がる以前の古い神ということになろう。昔は単に熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていたという。 現在では、熊野那智大社の主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)ということになっており、これは日本神話で言う伊邪那美(いざなみ)を指しているようだ。夫の伊邪那岐(いざなぎ)と共に国産み・神産みを行った原初の神の一人である。 以前、熊野本宮大社のところで記したように、熊野坐神は合計で12神いる。熊野那智大社でも主祭神と共に残りの11神が祀られているのだが、実は熊野那智大社では合計13神が祀られている。一体多いわけだが、これは那智の滝そのものが神として扱われ、飛瀧権現(ひろうごんげん)として他の12神と共に祀られているためだ。 これらの神は、先ほど記したように拝殿奥に本殿としてL字型に並んでいるが、この角の部分が、2011年にこの地方を襲った台風12号による崖崩れで損壊し、大きな被害を受けた。テレビや新聞で大きく報道されたので、ご記憶の方もあろう。この時には、那智の滝も滝壺近くが崩落したと伝えられる。また、那智の滝からつながる那智川が至るところで氾濫し、崖崩れも複数個所で起きている。私が大阪にいた時も、まだ護岸工事が続いていたほどの大きな被害だった。 さて、熊野那智大社がいつ頃どうやって出来たかなのだが、これは正確なところ不明である。神社側の説明では仁徳天皇(にんとくてんのう)の時代に社殿が出来たとされている。信仰そのものは神武天皇の時代にはあったというが、当初はおそらく、那智の滝を中心とした山岳信仰だったのではないか。元々那智という言葉自体、「ナグチ」「ナギタ」といった地元の言葉から派生したらしく、いずれも山の入り口を意味していたようだ。 熊野那智大社の拝殿脇に立派な楠(くすのき)が聳え立っている。先ほど通った大門坂の夫婦杉に勝るとも劣らない巨木である。これは、平重盛(たいらのしげもり)お手植えと伝わるもので、だとすれば樹齢は夫婦杉同様ということになろう。かたわらの案内板の説明でも、樹齢800年となっている。根元が一部空洞になっていて、そこを人が潜り抜けられるようだ。 平重盛がここに楠を植えたのは、彼が造営奉行となって社殿を整備したという縁によるものと伝えられている。ただ、重盛が整備した社殿自体は、後に織田信長によって焼き討ちに遭い失われている。地元のガイドさんの話では、信長自身が焼き討ちを命じたわけではなく、この付近の信長派と反信長派の武力衝突によって炎上したというのが真相らしい。焼け落ちた社殿を再興したのは豊臣秀吉である。その後も幾度かの大規模な修復を経て今日に至っているようだ。 熊野那智大社の例祭として、毎年7月に那智の火祭(ひまつり)が行われる。これは、熊野那智大社に祀られている熊野権現の神々が、元は那智の滝近くに祀られていたことに由来する神事である。飛瀧権現は滝そのものなので、残りの12神を年に1回、滝壺に面した飛瀧神社(ひろうじんじゃ)に里帰りさせるのである。この祭りの性格からして、熊野那智大社の原始の姿は、滝と背後の山だったのだろう。 那智の火祭では、12の熊野権現のために扇神輿という板状の神輿に扇を飾り、この神輿を飛瀧神社まで運んでいく。この時、一つが50kgという12の大松明が那智の滝の参道を清めるために進み、神輿を迎える。その勇壮さが有名になり那智の火祭という名前が付いたと聞く。正しくは、扇祭(おうぎまつり)と言うようだ。 さて、その那智の滝であるが、幅13m、落差133mという巨大なもので、海からでも見えるという。一般に我々が那智の滝と呼んでいるものは、熊野那智大社では大瀧、あるいは一の瀧と言っている。山の上に、二の瀧、三の瀧があり、他にも弁の瀧、布引の瀧、又別の瀧、新客の瀧など多数の滝があるらしく、それらを総称して那智四十八瀧と言うようだ。 先ほど、那智の滝自体が神様という話をしたが、滝壺周辺は飛瀧神社境内となっている。この神社は熊野那智大社の別宮だが、鳥居はあれど本殿も拝殿もない。お参りする人は、鳥居をくぐって直接滝を拝むことになる。 先ほど熊野那智大社のところで2011年の台風12号被害について触れたが、那智の滝も被災して滝壺が埋まるという被害が出ている。地元のガイドさんから聞いた話では、かつての滝壺は深さが10m近くあって立派なものだったが、現在は3mもないのではなかろうかとのことだった。 この時には大量の雨が降り続いたお蔭で那智の滝の水量が一気に膨れ上がり、滝の上に張られたしめ縄が切れたと言われている。数メートルの高さに張られたしめ縄が切れるくらいの水量となると、爆発的な量だったに違いない。もう何年も経つのに、この時の豪雨の爪痕は滝の周辺に残っており、滝から続く那智川では護岸工事が継続中だった。 さて、那智の滝だが、このしぶきに当たると延命長寿の効果があると伝えられている。また、花山天皇(かざんてんのう)が法皇になって後、九穴の貝(くけつのかい)を滝壺に沈めたという伝説もある。九穴の貝は、貝殻に9つの穴を持つアワビのことらしく、これを食べると寿命が延びるという言い伝えがあった。アワビの穴の数など数えたことがないが、この貝の効果もあって、滝のしぶきを浴びると寿命が延びるのだろうか。ただ残念なことに、飛瀧神社境内で参拝しても滝のしぶきを浴びることはない。滝壺までが遠過ぎるのである。 熊野は吉野と共に山岳修験道の場であるが、多くの滝を抱える熊野那智大社も、古来より修行の場として栄えた。有名なのは、修験道の開祖にして役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)が修行をしたということだろうか。最後に役小角は那智の滝に打たれて不動の秘法を習得したらしい。また、強力な法力を駆使したと言われる真言宗(しんごんしゅう)の僧侶、文覚上人(もんがくしょうにん)が、この那智の滝で繰り返し荒行に挑んだ話も有名である。那智四十八瀧の中に文覚瀧という滝が今でも残っている。 僧侶などの修行者に限らず皇族や貴族からも篤い信仰を集め、先ほど出て来た花山天皇は、退位して法皇になってから、那智の滝の上に庵をもうけ、千日、つまり3ヵ年間籠って修行したという。花山天皇は、19歳の時に在位わずか2年で退位し出家したという変わった経歴の持ち主で、その後の人生を仏教の信仰に費やした。そう書くと聖人君子のように聞こえるが、女性問題と奇行でも有名で、エピソードに事欠かない。陰陽師(おんみょうじ)として有名な安倍晴明(あべのせいめい)と同時代の人で、晴明を重用していたと伝えられる。 ところで、ガイドブックなどに掲載されている那智の滝の写真の中には、手前に赤い三重塔が写っていることが多いが、これは熊野那智大社のものではない。当たり前だが、神社に三重塔などないのである。これは、熊野那智大社の横にある青岸渡寺(せいがんとじ)というお寺のものである。 上の写真が青岸渡寺の本堂であり、実際に行ってみれば分かるが、青岸渡寺と熊野那智大社は事実上くっついている。それもそのはずで、青岸渡寺は昔、熊野那智大社の一部だったのである。 神道と仏教が渾然一体となって信仰されていた神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時代には、多くの寺社で神社と寺院が同じ敷地で活動をしていた。熊野那智大社は古くから修行の場とされていたので、元々、神道系、仏教系それぞれの修行者が入り混じって活動していたものと思われる。神道と仏教が渾然一体となっても、それほど不思議ではない素地が当初から備わっていたのではないか。 また、平安時代になって浄土思想が広がると、熊野こそ浄土の地だと考えられるようになり、生前に熊野に参ると死して後に極楽浄土に往生できると信じられるようになる。本来浄土信仰は仏教の話であり神社は関係ないはずだが、神仏習合の中で違和感なく受け入れられた。これが「蟻の熊野詣」と呼ばれるようなブームを生むことになる。 ところが明治時代になり、神仏習合は廃止となり神道が優位となる中で、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れ、神社内にあった多くの寺院は廃止される。熊野本宮大社、熊野速玉大社でも仏教に関する施設は全て廃止されたが、ここ熊野那智大社では、如意輪堂(にょいりんどう)だけが廃止を免れる。これが現在の青岸渡寺なのである。 青岸渡寺は現在、天台宗に属し如意輪観音(にょいりんかんのん)を本尊としている。また、観音霊場を巡る西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)の第一番札所であるため、札所巡りの人で大いに賑わっている。熊野那智大社同様、創建年代はハッキリしないが、仏教伝来以降であることは間違いなかろう。そういう意味では、大和朝廷の公式の歴史が始まる前から何らかの信仰があった熊野那智大社よりは新しいということになるのだろうか。 開基は、仁徳天皇(にんとくてんのう)の時代に天竺(現在のインド)から来た裸形上人(らぎょうしょうにん)とされている。前回の補陀洛山寺のところでも紹介したが、近くの浜辺に流れ着いたという人である。この裸形上人が那智の滝で修行しているうちに滝壺の中に小さな如意輪観音像があるのを発見し、草庵を建てて安置したのが始まりと伝えられている。 その後推古天皇(すいこてんのう)の時代になって生佛上人(しょうぶつしょうにん)が大きな如意輪観音像を彫り、その体内に滝壺から発見された如意輪観音像を納めて本尊とした。これが現在の本尊である。ただ、この話が本当だとすれば、日本への仏教伝来の遙か以前に、那智に仏教が伝わっていたことになってしまう。 その後、ここが西国三十三所の第一番札所になるわけだが、ここを第一番札所と定めたのは、那智で山に籠って修行をしていた花山法皇だという。 花山法皇は仏教に熱心だったと上に書いたが、兵庫県宝塚市にある中山寺(なかやまでら)に、観音霊場三十三ヶ所の宝印を納めた石棺があるという熊野権現の宣託を元に、この宝印を見つけ出す。この宝印は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍し、奈良の長谷寺(はせでら)を創建した徳道(とくどう)という高僧が石棺に納めたものである。 徳道は一旦亡くなるのだが、あの世で閻魔大王に会い、地獄に送られる死者の数を減らすために、現世で三十三ヶ所の観音霊場を巡って罪滅ぼしをするよう人々に広めろと大王から言われ、この世に戻される。この時閻魔大王から授かった宝印を元に三十三ヶ所の観音霊場を定めて、人々に巡礼を説くが受け入れられず、後の世に伝えるために、宝印を中山寺に納めたのだという。 花山法皇が見つけ出したのはこの徳道の宝印で、上に書いたように法皇が那智の滝の上に庵を開いてこもっていたおりに、熊野権現が現れて宝印のことを法皇に伝えたという話になっている。 花山法皇は自分自身で、熊野から出発し三十三ヶ所の観音霊場を巡礼して回った。これが有名になって現在の西国三十三所巡礼が生まれたらしい。つまり、平安時代には既に西国三十三所は確立していたわけで、熊野古道や熊野三山も古いが、西国三十三所も相当な歴史を持っていることになる。 さて、ここからは熊野古道の話である。熊野三山を回り終えた後、出発点の熊野本宮大社に戻るために使われた大雲取越は、この青岸渡寺の境内からスタートしている。熊野古道最難関と言われたこのコースのことを最後に書いておく。 大雲取越の入り口は、観光客が那智の滝を背景に盛んに記念写真を撮っている脇からスタートする。「熊野道」と書かれた石碑がなければ、青岸渡寺の境内の石段にしか見えない。しかし、道が森の中に消えると、ただひたすらに山肌に沿った石段が続く。しんどさは大門坂の比ではなく、休憩を入れないと上れない。 冒頭に述べたように、熊野詣の参詣者たちは、熊野速玉大社から海岸沿いの道を通って熊野那智大社にやって来た。熊野那智大社に参った後、普通は元来た道を引き返して最初に参詣した熊野本宮大社に戻った。しかし、このルートでは熊野川を舟で遡らなければならない。雨の多い熊野では熊野川が増水して舟が出ないこともあり、このため、陸路として那智の山を越えて熊野本宮大社に戻るコースが生まれた。その時に通る道が、この大雲取越と小雲取越である。とりわけ前半の大雲取越ルートは、標高800m以上の山々を越えて、名前の通り雲の中を行くが如き厳しい道となる。 遠い昔から修行の場とされていた熊野那智大社周辺では、山中の道は修行をする人たちによって古くから開拓されていたのではなかろうか。ただ、修験道の修行者ならともかく、一般の参詣者が踏破するには厳しい道で、山を越えられずに行き倒れになる者が多かったという。このため、更なる迂回路として、熊野那智大社から海沿いを大回りして田辺に帰る大辺路(おおへち)が利用されたと、地元の人から聞いたことがある。 まぁそうは言ってもそれは昔のことである。今ではさすがに行き倒れる人はいない。大雲取越と言えども、吉野から熊野本宮大社まで延びる大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)とは異なり、修行の山伏でないと踏破出来ないようなルートではない。険しいことは険しいが、現在でもハイキングコースとされており、山登りを兼ねて歩く人も多くいる。 手元にある田辺市発行の「熊野古道めぐり地図帳」で現代の行程を見ると、熊野那智大社を出発して、舟見峠(ふなみとうげ)、石倉峠(いしくらとうげ)、越前峠(えちぜんとうげ)などの800m超の険しい道を越え小口(こぐち)の集落に至る大雲取越で丸1日、小口から出発し桜峠(さくらとうげ)、万才峠(ばんぜとうげ)など3〜500m級の山々を越えて熊野川沿いの請川(うけがわ)に至る小雲取越で約半日となっている。険しい箇所が幾つかあるが、足下の装備さえしっかりしていれば踏破は充分可能である。 さて、石段を暫く上がると、道が分岐している。通行止めの表示がある左の道に行くと、阿弥陀寺(あみだじ)というお寺へ行ける。現在この道は閉鎖されているが、林道伝いに車でアクセス出来ると、地元のガイドさんは言っていた。このお寺は、なかなか興味深いお寺である。 通行止めの道の先には標高746mの妙法山(みょうほうざん)があり、その山頂近くにひっそりと阿弥陀寺が建っている。この寺を開いたのは、ここで修業をしていた弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)であり、彼がここにお堂を建てたのは、高野山を開く前年のことであったという。 ただ、妙法山はそれ以前から修行の山であった。お寺の縁起によれば、飛鳥時代に大陸から渡って来た蓮寂(れんじゃく)という僧がこの山で修業し、法華経(ほけきょう)の一つである妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の経典を山頂に埋めた。山の名は、この伝承に基づいて付けられたようだ。 弘法大師の修行が如何ほどであったかは知らないが、妙法山に伝わる修行の話には、壮絶なものが多い。私が以前に読んだものでは、平安時代に編纂された日本霊異記(にほんりょういき)に収録された話として、こんな説話がある。 奈良時代にこの地に永興禅師という高僧がいたが、彼のもとへ法華経を携えた一人の僧が訪ねて来る。1年近く共に活動した後、その僧は山に籠ることにしたと告げる。永興禅師は食べ物など持たせて送り出した。 それから2年ほどして山に入った村人が、法華経を唱える声を聞く。この話を聞いた永興禅師が山に入って探すと、岩から縄で逆さまにぶら下がった骸骨を発見し、残っていた物から、出て行った僧だと知る。その後3年ほど経って、またもや村人が山中で法華経を唱える声を聞く。再度山に入った永興禅師が、崖にぶら下がったままになっていた僧の骸骨を下ろしてやると、僧の舌だけは腐っておらずに生前のままだった。法華経を唱えていたのはこの骸骨だったと知り、永興禅師は法華経の霊験に感じ入ったという。 壮絶な修行ということではもう一つ伝えられている話がある。 平安時代に修行を行っていた応照上人は、身体に油を塗り千年以上にわたって燃え続けたという薬王菩薩(やくおうぼさつ)の話を法華経の中で知り、自らも紙の衣を着て焼身したという。その場所が火生三昧跡(かしょうざんまいあと)として残っているが、伝承では全身を炎に包まれた応照上人は、最期まで読経を止めなかったという。 何故これ程までに過酷な修行が行われたのか。当時は、粗衣粗食で険しい山野を駆け回り、己の身体を責めてこそ、神に近付けるという信仰があり、苦しければ苦しいほど功徳が積まれると信じられていた。その究極の姿が、我が身、我が命を投げ出す捨て身の修行である。現代人の目から見れば一種の自殺なのだが、これもまた修行だというのが、当時の考え方だったようだ。まさに壮絶の一言に尽きる。 ところで、修行僧に限らず熊野に暮らす普通の人にとっても、阿弥陀寺は特別の寺だと言われている。熊野の言い伝えでは、人は死ぬと魂が身体から抜け出し、枕元に供えられた樒(しきみ)の枝を杖代わりにしてこの阿弥陀寺に参るという。そして、山頂のお堂に樒を供え、鐘を撞いて死後の世界に旅立つと伝えられている。阿弥陀寺の鐘は誰もいないのに鳴ると言われており「亡者の一つ鐘」の名がある。また、山頂のお堂周辺には、死者が死後の世界へ旅立つ前に供えた樒の木が密集しており、樒山(しきみやま)とも呼ばれている。 その後、死者の魂はどこに行くのか。大雲取越を越えて浄土に行くらしい。これを「亡者の熊野詣」と呼んでいる。 こんな不思議な言い伝えのある寺がこの大雲取越にあっても、あまり違和感が湧かない。熊野は元々あの世に近い聖域であり、現世を生きる者と死者とが共存する場所である。参詣の者が歩く熊野古道を、死者もまたたどる。熊野古道で行き倒れても浄土に行けると信じられているのは、こんな特別な場所だからであろう。 さて、山に沿って延びる長い石段をひたすら上ると、突然視界が開けて広い空間に出る。那智高原(なちこうげん)である。 雰囲気満点の石段を上って来た身としては、あっけにとられるような光景である。広々とした草原にローラー・スライダーをはじめとする遊具が備え付けられ、家族連れがピクニックに来られる公園になっている。昭和52年に第28回全国植樹祭が行われた場所らしく、その際に公園として整備されたようだ。正式名称は那智高原公園(なちこうげんこうえん)という。 ここには舗装された立派な林道が通じており、車でアクセスできる。トイレも整備されているので、休憩には持って来いだが、歩き始めて30分程度なので、ここでへばっていては仕方ない。 この公園の脇から、再び熊野古道が延びているが、その入り口に石碑がある。石碑は二つあって、右側は林道が開通した記念である。銘文によれば、この林道は大雲取山林道と言うらしい。 むしろ注目すべきは左側にある石碑で、銘文に「狩場刑部左衛門寄附山林碑」と記されている。石碑自体は昭和10年の建立とあるが、狩場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)という人は、昭和の時代の人ではない。石碑が意味しているのは、この辺り一帯の山林を寄付したのは狩場刑部左衛門であり、これを顕彰して碑が建てられたということである。では、狩場刑部左衛門とは何者かということになる。 風土記の伝承では、狩場刑部左衛門は一つだたらを退治した英雄ということになっている。一つだたらは、一つ目で一本足の姿をした妖怪であり、山中に棲み、熊野詣や西国三十三所札所巡りの人を襲って金品を強奪したという。身の丈は4m以上あって、神出鬼没で行動も素早い。一つだたらを退治したら褒美を出すというお触書を受けて、狩場刑部左衛門が山中で待ち伏せして、矢を射かけてこれを退治したと伝わる。その褒美にもらった山林を、近在の村々に寄付をしたことが、先ほどの石碑につながっているわけだ。 現に寄付された土地がある以上、完全な作り話ということでもなかろう。また、旅人を襲って金品を強奪するという所業から見て、妖怪というより山賊ではないかと思われる。実際には懸賞付きで山賊退治が行われたのを、尾ひれがついて妖怪征伐になったような気がする。それほど厄介な山賊だったのだろう。 石碑の脇から熊野古道に戻った後は、登り道を黙々と歩いた。大雲取越には番号を記した道標が立っており、29番で終点となる。先ほどの那智高原公園はまだ2番で、先は長い。 暫く行ったところで、道の脇に盛大に土を掘り返した跡があった。同行してくれた地元のガイドさんによればイノシシが掘った跡のようだ。イノシシはこうしてミミズや沢蟹を探しているという。ミミズは分かるが、川もない山の中でカニがいるとも思えない。しかし、熊野は雨の多い地ゆえ、土壌は水分をたっぷりと吸い込んでいて、山中には沢蟹がいるのだという。何とも意外な話である。 動物の話をすると、今回のスタート地点である青岸渡寺脇の石段付近にマムシ注意の立て看板があった。ガイドさんに訊くと、秋も深まるとそれ程警戒する必要はないが、夏場にはマムシが出るという。加えてスズメバチも出没するらしく、夏は熊野古道巡りは向かない季節だとアドバイスされた。夏こそがハイシーズンと思っていた私には、これもまた意外な話だった。 やがて平坦な林の中に、石垣に囲まれた一角が現れる。登立茶屋(のぼりたてぢゃや)という茶屋があった場所である。 傍らにある案内板を読むと、この茶屋には、山側と海側からそれぞれ特産物が持ち込まれて売買がされていたという。近隣の人々の交易所ということだろうか。単なる旅人の休憩所ではなかったわけである。 更には、現在の国道が整備されるまでは、この熊野古道が大阪や和歌山へ抜ける唯一の幹線道路だったとのことで、地元の人たちにも長い間利用されていたらしい。熊野古道最難関と言われる大雲取越は、巡礼の道以外にも、生活道として大きな役割を担っていたのである。 また、巡礼の道ということでは、この大雲取越は熊野詣のためだけの道ではなかったようで、説明板には、西国三十三所の札所巡りにも使われていたと記されている。ガイドさんによれば、熊野詣が下火になった後も、西国三十三所巡りの人々が利用し続けたとのことだった。 西国三十三所の第一番札所は先ほど訪れた青岸渡寺であるが、第二番札所は、現在の和歌山市にある紀三井寺(きみいでら)となっている。札所巡りの人にとって、熊野詣の逆順路で、熊野那智大社から熊野速玉大社へ戻り熊野川を舟で遡って熊野本宮大社に戻るコースは遠回りであり、道が厳しくても大雲取越・小雲取越を使って熊野本宮大社に戻り、そこから中辺路をたどって紀三井寺に行く方が近道だし船賃もかからないということで、このルートをたどる人が多くなったという。 歴代の上皇・法皇をはじめとする皇族が累計で百数十回訪れた熊野詣だが、この大雲取越だけは、1回しか皇族が利用していない。これはやむにやまれぬ利用だったようで、生涯29回の熊野詣を行った後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の第4回目のことだったと伝えられる。この時、後鳥羽上皇に同行していたのが、公家にして代表的歌人である藤原定家(ふじわらのていか)であり、彼は日記、明月記(めいげつき)の中にその道中の険しさを記している。 一行は大雨の中を出発し、現代の装備でも1泊2日で抜ける大雲取越・小雲取越を一日で踏破するという驚異の行程をこなした。定家は日記で「いまだかくの如きの事に遇わず」と書き、その道中の困難さを吐露しているが、実は後鳥羽上皇も藤原定家も、自分の足で歩いているのではなく、輿(こし)に乗って熊野古道を進んでいるのである。むしろ、このこと自体が驚異である。 大雲取越は上り下りとも急で、道幅も狭い。片側が崖になっている箇所もあり、輿ごと転ぶと大惨事になりかねない。しかも大雨で滑りやすい中を、無茶な速度で駆け抜けたはずで、輿を担ぐ人々はどうやって進んでいたのかと、そちらの方が気になる。登山靴などなく、わらじの時代の話である。 熊野古道の場合、皇族を乗せた輿は通常6人で担いだという。ただ、山中に入ったり、難所と言われる箇所を抜ける時には、交代要員も含めて12人編成で臨んだようだ。6人が重い輿を担いだまま、狭く急な坂道を一日中上り下りするなど、到底できることとは思えないのだが、どんな状態だったのだろうか。 まぁそんな恐ろしい道行きだったせいか、皇族が大雲取越を利用したのはこれ一度だけである。大雲取越には、いわゆる王子が一つもないのだが、これは皇族・貴族の利用がほとんどなかったからだと、ガイドさんが語っていた。 さて、登立茶屋跡から1時間弱くらいかけて登ると、視界の開けた場所へ着く。舟見峠である。ここには屋根付きの休憩所もある。 舟見峠には昔、舟見茶屋という茶屋があったようだ。田辺市が出している「熊野古道めぐり地図帳」では、この休憩所で標高868m。大雲取越には、幾つかピークがあるが、ここも一つのピークである。こうした峰々の連なりを、先ほど出て来た藤原定家の明月記では「手を立つるが如し」と表現している。指の並びを峰々にたとえたものだろう。 ここまで登って来るとすっかり雲の中で、大雲取越・小雲取越の名にふさわしい様相が辺り一面に立ち込める。雲が目の前にハッキリと形を持って現れ、それが山頂を流れる風に乗って移動して行く。 この舟見峠は名前の通り、天気が良い日には熊野灘まで見渡せる絶景ポイントで、森の中をひたすら歩く大雲取越の中にあって、唯一眺望がきく場所らしい。景色が眺められないのは残念だが、雲をつかむが如き風情を味わえて、これはこれで満足である。 さて、ここからは色川辻(いろかわつじ)と呼ばれる地点まで、山を下ることになる。せっかくここまで登って来たのにと思うのだが仕方ない。この下りは八丁坂(はっちょうざか)と呼ばれている。 それにしても、山また山の中を上り下りを繰り返しながら歩くのは、装備の少ない昔の人にとっては大変なことだったろう。途中で病に倒れたり、怪我をしたり、激しい風雨にやり込められて遭難したりと、命懸けの道行きでもあったはずだ。今日と違って、利用者の多かった昔は、道の要所々々に幾つもの茶屋や宿泊施設があったから、そこまでたどり着ければ命をつなぐ手立てはあったかもしれないが、それでも道中で行き倒れになった人が多くいると聞く。 先ほど皇族・貴族の利用がほとんどなかったために大雲取越には王子がないと書いたが、代わって、このコースに断然多いものがある。道の脇の無縁仏である。小さな地蔵だったり、石碑だったりするが、これは行き倒れ者を発見した者が立てたと伝わる。ガイドさんは、あまりコースから外れて林の中をウロウロしない方がいいと言う。苔むして埋もれた無縁仏の碑を蹴飛ばしかねないからである。 かくも行き倒れ者が多いために生まれた伝説のポイントが、この八丁坂にある。名を、亡者の出会い(もうじゃのであい)と言う。 亡者の出会いが正確にどこなのかは分からない。しょせんは言い伝えの世界だから、それも仕方ない。幾つかある熊野古道の地図によっても微妙に位置が違う。私が興味を持っていたので、同行したガイドさんがこの辺りと教えてくれたのだが、もちろん、道標も説明板もない。地元の詳しい人などに色々訊いて、おそらくここだろうと推定された場所ということだった。 ちょうど八丁坂を下りる後半辺りで、坂の途中という感じである。上の写真が教えられた場所だが、もう少し下りたところに無縁仏が祀られている。 亡者の出会いには言い伝えがある。先ほど熊野古道に出る妖怪として、一つだたらを挙げたが、もう一つ、この亡者の出会いに、ダルという妖怪がいると言われている。ダルは、仏教の世界で言う餓鬼(がき)で、道中で行き倒れた者がいる場所に出現する。妖怪ではなく無縁仏の亡霊だという人もいる。 ダルは、道行く旅人に取り付く。取り付かれると、異常な疲労感・空腹感で気絶してしまうが、食べ物を口に入れたり、ないときには米という字を手の平に書いてそれを口に入れるようにすると助かるという伝承がある。 驚異の天才ながら在野で研究を続けた南方熊楠(みなかたくまぐす)は和歌山市の出身で、後半生を田辺に暮らし、熊野で博物学、民俗学の研究に生涯を費やしたが、大雲取越でダルに取りつかれている。彼が書いた記録によれば、歩いているうちに朦朧として気を失い仰向けに倒れたという。幸い植物採取用の容器を背負っていたために頭を強打することなく助かったが、地元の人に教えられて、以後は必ず握り飯を持参して、少しでも兆候が表れると食べたと記している。 現代風に解釈すれば、疲労で血糖値が下がったということだろうか。今では登山時に飴やチョコレートを食べるが、昔はそういった甘いものが容易に手に入らなかったので、防ぎようがなく気を失ってしまう例があったのかもしれない。 もう一つ、亡者の出会いには言い伝えがある。ここでは、道の前後、あるいは脇の木立の中に、亡くなった人が白装束姿で現れることがあるという。まぁ、過労の果てに見た幻想と言ってしまえばそれまでだが、ガイドさんが教えてくれた地元の言い伝えには、こんな話がある。 この坂である人が、反対から歩いて来た知り合いに出会った。その後、目的地に着いてみると、会ったはずの知り合いは、それよりも前に亡くなったという知らせを受ける。最初の方に書いた阿弥陀寺の「亡者の熊野詣」ではないが、熊野古道はやはり、生と死の境界線をたどる道なんだと実感する話である。 熊野という地は古来より、死者の魂が集まる聖地とされていた。故に極楽浄土に一番近いわけである。熊野古道で死者とまみえることはいささかも不思議ではないと、昔の人たちは考えたのだろう。そんな古い言い伝えを聞きながら熊野古道を歩いていると、遠く古代の声がどこからともなく聞こえてくるようで、厳かな気持ちになる。 さて、死者との語らいはそれくらいにして、亡者の出会いのある八丁坂を下りると、舗装された林道に出た。突然、文明社会に戻ったような気分になる。少しだけ、林道を歩いて再び熊野古道に入るのだが、林道の脇から別の道も延びている。標識によれば小麦街道とあるが、まともには歩けそうにない崩れかけた道が、斜面の上に向かっている。おそらくここを上がって行く人はいないと思うが、ガイドさんによれば、富士山を遠望できる富士見台へ行く道だという。肉眼で富士山が捉えられる限界の地点ではないかということだった。 舗装された林道から外れて森の中に分け入ると、今までとは違う世界が広がっていた。一面、苔の世界である。 どこからともなく現れた渓流沿いを熊野古道が延びている。その周りは木も岩も苔に覆われている。そして、道にもまた清水が細々と流れ、足下はぬかるむ。雨は降らなくとも、この付近は年中湿気が漂う場所となっているようだ。上空は木々に覆われ日が差しにくいため、至るところに苔が発生する。転がる岩も小石も苔が密集し、見事である。自分で石に苔を生やそうと思ったら大変な苦労があろうが、ここに石を置いておけば、たちまち苔むした味わいのある石になるのだろう。 この付近は低地だからだろうか、伏流水が多いと言う。低地と言っても、ここでもまだ標高は800m程度ある。この水が更に集まって、この先で大きな渓流になっていく。 ここに生える苔には変わったものがあるとのことだった。ガイドさんお勧めの苔は、杉の葉に似た大型の苔で、確かに今まで見たことのない種類のものだった。これが大きな岩一面にびっしりと生えている光景は、他では見られないものかもしれない。 もう一つ他では見られないものということでは、この苔の生えている岩そのものが、なかなか面白い形をしている。一抱えもある大きなものなのだが、形は卵形にきれいに整っている。こうした形状の岩が、あちこちに転がっているのである。 この辺りの岩は火山によって生成された花崗岩(かこうがん)なのだが、表面の層が風化して、玉ねぎの皮をむくようにはがれ落ち、最後に核となる母岩が残る。これが卵形の岩の正体で、こうした現象を地質学ではタマネギ状剥離と言うらしい。この種の花崗岩は、地層の中に幾つもあって、崖の途中にも、これから表面がはがれて母岩が転げ落ちるだろうと思われる岩が幾つも見える。中には、つい最近転がり落ちたかと思える岩もある。何とも不思議な光景である。 やがて苔の道は途切れて、再び舗装された林道に出る。実は、熊野古道は更に森の中を行くようだが、途中整備されていない区画があり通れないらしい。そのためこの区間だけ林道を迂回することになる。林道の脇には、先ほど道沿いを流れていたのよりも大きな渓流が流れている。 暫く林道を歩くと、道の脇に休憩所が見えて来た。これが地蔵茶屋(じぞうぢゃや)の跡らしい。 上の写真は、脇を流れる渓流を、休憩所から撮ったものである。川べりまで下りられるようになっており、岩伝いに向こう岸に行ける。ここの水は飲めるとガイドさんに言われて、すくって飲んでみたが、くせのない透明な味で実にうまい。 今までの茶屋跡と違って、ここにはトイレもあるし、屋内型の休憩施設もある。何より、林道とはいえ舗装された道路に沿って施設があるから、一見すると山の麓まで下りて来たような錯覚にとらわれるが、これでも標高は700mある。お蔭で携帯電話の電波も届かない。大雲取越に入ると、電話もネットも無理で、GPS頼りのGoogle Mapなど何の役にも立たない。 それにしても、少しの区間だけだが舗装路の歩きやすさを実感する。この林道は、一般の自動車でも利用できるが、用途は材木の積み出しなので、普通の道路のように整備はされていない。お蔭で、木の枝が散乱しているだけではなく、先ほど見て来た卵型の花崗岩が道路脇の崖から風化して転げ落ちている箇所もあり、自動車で来るのは怖そうだ。何より700mという標高なため、道中が雲の中にすっぽり入ることもあり得る。視界が利かない中運転していて、転がっていた岩にガツンとぶつかると、確実にバンパーがへこむだろう。パンクしても、電話が通じないので応援を呼べないという問題もある。 ここで昼過ぎとなっていたので昼食を取る。屋内の休憩所に入っておにぎりを頬張る。休憩所内には幾組もの人がいて、休んだり昼食を取ったりしている。いずれの人も重装備の登山姿で、私のようにウォーキングシューズにトレーナー、普通のパンツ姿というのは珍しい。どうも場違いな感じがして、少々焦る。 ここに来る道中でもそうだったし、この休憩所でもそうなのだが、想像した以上に外国人が多い。欧米系の人たちで、たいていは男女のペアで歩いている。皆さん本格装備で、入念に準備して大雲取越を歩いていることが分かる。道中の標識は全て日本語表記なのだが、どうやって道を確認しているのだろうか。英語版の熊野古道詳細マップを持参なのだろうか。さすが世界遺産と実感する。 ところで、本来の地蔵茶屋があった正確な場所は分からないと聞く。この周辺らしいというだけである。ここまで登立茶屋、舟見茶屋、地蔵茶屋と茶屋跡を見て来たが、こうした茶屋は大正時代頃までは残っていたようだ。近代的な交通網が整備されるにつれて、この難路を歩く人もいなくなり、やがてすたれていったということだろう。 昔の面影を感じさせるものとしては、休憩所の傍らにお地蔵さんを祀るお堂が建っている。このお地蔵さんが、茶屋の名前の由来ということだろうか。かつて、後鳥羽上皇のお供で藤原定家がここを通過した時も、お堂があったようだ。ただ、幾度も建て替えられており、現在のお堂は新しいものである。 さて、昼ご飯を食べて休憩も取り、再び歩き出す。そのまま林道を歩くが、少し先に17番の道標が立っており、終点の29番まで既に半分以上を歩いて来たことを示している。ホッとするが、まだこの先に最大の難所が待っているのである。 やがて林道脇から熊野古道に入る。700m地点まで下りていたので、今度は登りである。この登り道がまた苔の道で、何とも幻想的である。両脇の林の中に、卵型の花崗岩が幾つも転がり、緑の苔にくるまれている。こんな風景は見たことがない。 幻想的な緑の坂道を登り続けると、石倉峠に至る。標高は805mである。距離は短いが、その分登りはしんどい。高低差100m分を一気に登る形になる。しかも、石段が苔に覆われていて、暫し足の置き場に戸惑う。滑りはしまいかという心配と、こんな見事な苔を踏みつぶしても良いのかという躊躇と…。京都のお寺が一生懸命庭の苔を保護しようとしていることを思うと、何とも悩ましい道行きである。 石倉峠には苔むしたお地蔵さんと、歌碑がある。このお地蔵さんも無縁仏を祀るものだろうか。たくさんの賽銭が台座に置かれている。上って来る途中にもお地蔵さんがあったが、それは新しいものだった。一方、石倉峠のお地蔵さんは年季がいっている。とにかく、道中の至るところに信仰を感じる道である。 お地蔵さんの傍らの歌碑には、精神科医にして歌人であった斎藤茂吉(さいとうもきち)の歌が刻まれている。 紀伊のくに大雲取の峰越えに一足ごとにわが汗はおつ ここまでの登りの急なことを思い返せば、素直に頷ける歌である。 斎藤茂吉が大雲取越を歩いたのは大正時代で、アララギ派の仲間だった土屋文明(つちやぶんめい)、武藤善友(むとうぜんゆう)と三人の旅だった。前年の冬に斎藤家の経営する青山脳病院(あおやまのうびょういん)が全焼して多くのものを失った茂吉は、傷心のうちに旅をしながら大雲取越で遍路に会い、強い印象を受けている。ただ、40代半ばの茂吉には、この難路を踏破できるか不安に駆られながらの道行きだったようだ。 さて、石倉峠を越えると今度は急な下りとなり、下り切ったところで一旦林道と合流した後、再び登りの石畳となる。ここを登り切ると、大雲取越のピークとなる越前峠に着く。 標高は870mで、ルート上の最高地点となる。大雲取越の中では有名な峠で、登頂記念のプレートなどが多数飾られている。 上の写真で分かる通り、再び雲の中となる。周囲は木々が聳える森で、眺望は全く利かない。しかし、昔はここから遠く越前まで見渡せたという言い伝えがある。これが峠の名前の由来というが、他にも説があるらしい。 ここにも歌碑がある。今度は、斎藤茂吉と大雲取越を旅した土屋文明の歌である。 輿(こし)の中海の如しと嘆きたり石を踏む丁(よぼろ)のことは傳へ寸(つたえず) この歌は、後鳥羽上皇のお供をして大雲取越・小雲取越を一日で踏破した藤原定家のことを歌ったものである。大雨の中の強行軍で、輿の中も嵐の海に投げ出された如く揺れたと悲鳴を上げた定家に対して、その輿を担いでいた従者の苦労は、何一つ日記に書いていないではないかと皮肉っているのである。丁は輿の担ぎ手たちのことである。 歌碑は他にもあるのだが、それも地蔵茶屋跡を越えてからのことである。ガイドさんによると、大雲取越は幾つかの町にまたがっており、道中は各町ごとに受け持って整備しているため、管理方針が少しずつ違うらしい。歌碑の設置の有無もそうなのだが、例えば番号順に並ぶ道標も、石柱のものが途中で木製に変わるし、道の脇に設置した柵や、地面に埋め込まれた滑り止めも、材質がエリアごとに異なる。言われれば気付くが、たいていの人は歩くのに必死で、気にも留めていないのではないか。 さて、越前峠からが下りになるが、ここが本日最大の難所とガイドさんから言われた。下りが難所というのも変だが、問題はその高低差である。ここから麓まで800mをひたすら下りるのである。 最初はゆっくり、途中から急激に下る。石段の坂道だが滑りやすく、我々一行でも転ぶ人が続出する。坂の途中に胴切坂(どうぎりざか)という案内板が立っている。この辺りが一気に500mほどを急激に下る難所である。 下る方も難儀をするが、上る苦労は並大抵のことではあるまい。胴切坂の名前の由来となった胴を切られるほどの苦しみというのは、上る方のことではあるまいか。この麓が、目指す小口の集落だが、向こう側から上がって来る人も多い。 熊野詣や西国三十三所の札所巡りでは、我々が歩いている方向、つまり胴切坂を下る方向で進んだのだと思うが、地元の人々の幹線道路としては、双方向に使われたはずだ。ガイドさんによれば、この急坂を麓の小口から上がって来て、越前峠から石倉峠を越えて地蔵茶屋に着いた頃には、昔の人は疲労困憊していたに違いない。そして、その先にある八丁坂を登って舟見峠に至る手前で力尽きる人が出たのではないかと、亡者の出会いの行き倒れについて説明してくれた。確かに、天気予報のない時代に貧弱な装備でこの道を行けば、そんなこともあったのかもしれない。 下りのつらさを実感しながらひたすら坂道を下り、ようやく麓に至る。傾斜がゆるやかになり、道の両側が開けた場所となった辺りで、木々の向こうに石垣が見えた。ここは昔の旅籠跡で、楠ノ久保旅籠跡(くすのくぼはたごあと)という。 江戸時代には、この一帯に十数件の旅籠がひしめいていたというから驚く。茶屋と同じく、大正時代頃まで何軒か残っていたようだ。今では石垣が残るのみで、これがなければ単なる森である。傍らの案内板によれば、数軒の屋敷跡が確認されているという。 「豆腐あります、風呂わいてます」が旅籠の宣伝文句だったらしいが、野菜は不足していて山菜類しか食べられなかったと説明されている。畑もあったようだが、野生動物の被害が深刻だったとのことである。 ここにもまた無縁仏がある。道中、いったいどれくらいの野仏を見たことだろうか。行き倒れた人の無念を思うが、熊野古道で亡くなった者は皆極楽へ行けるという熊野詣の言い伝えが唯一の救いである。 さて、この地に暮らしていた人は昭和の頃まで細々といたようだが、現在では山中から全て撤退してしまった。彼らを最終的にこの地から追いやったのは、熊野古道の衰退ではなく、木炭から石炭への転換だったらしい。山に暮らす人々は、豊富な木材を元に炭焼きをして現金収入を得た。しかし、石炭が普及すると木炭の需要は下がり、収入の道が閉ざされたのである。 それにしても、そうした山の中での生活は大変だったのではないか。ガイドさんが話してくれたのだが、この麓の小口の集落から畝畑(うねはた)という村へ抜ける峠がある。通称、辞職峠(じしょくとうげ)と言うらしい。畝畑に赴任して来た若い教師が、峠の途中で音を上げて、とても自分には務まらないと辞表を書いて去ったという。昭和も30年代になって、ようやく自動車でアクセスできるようになったようだが、現代の我々からは想像も出来ない暮らしがあったわけである。 さて、この楠ノ久保旅籠跡のある場所が、24番と25番の道標の間である。29番でゴールとなる大雲取越も、いよいよ最終盤に差し掛かった。我々が最後に訪ねたのは、楠ノ久保旅籠跡から1キロ半ほど下ったところにある円座石(わろうだいし)である。 円座石とは、道の脇にある巨石で、上の方に梵字が彫られている。王子がなく無縁仏以外これといって昔を偲ぶものがない大雲取越において、唯一と言っていいほどシンボリックな存在で、ガイドブックなどにも登場する有名な石である。 地元のガイドさんによれば、三つの梵字は熊野三山を表しているらしい。右から順に、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)、観音菩薩(かんのんぼさつ)を示しているのだが、これがそれぞれ熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の主祭神を仏に置き換えた時の本地仏になっている。この表現の仕方から見て、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時代の産物だろうが、いったい誰がいつここに梵字を彫ったのかは明らかでない。 ちなみに、名前になっている円座(わろうだ)というのは、藁や菅、いぐさなどで渦巻き型に編んだ円形の座布団のことである。今でも使われていて、誰でも一度は見たことがあるはずだ。円座石の梵字の上に丸い模様があるのだが、それが円座に似ているということでこういう名前になったと、傍らの案内板に説明があった。 昔の言い伝えでは、この石の上の円座には、熊野の神様がやって来て座り、談笑していたという。それで、その神様の名前が梵字で彫られているということだろうか。 この大雲取越のシンボル円座石については、私が訪れた前年の冬に大事件があった。円座石は昔から鬱蒼と苔むしていたのだが、それを全て剥ぎ取って岩肌をむき出しにした者がいたのだ。色々なニュースに載っていたので、記憶にある人もいるかもしれない。犯人はいまだに分かっていない。 円座石は相当大きな岩である。その表面にかなりの分厚さで苔が自生していた。それをきれいに剥ぎ取るのには相当の労力が必要である。古代から信仰の道としてたくさんの人に利用され、世界遺産にまで登録されている熊野古道のシンボルに、そこまで執拗に破壊を加える行為は、ふざけてやったというレベルを超えて、明らかに精神的に異常である。地元では精神異常者の犯行だと考えられていると聞いた。確かに、そこまで時間をかけて執拗に苔を剥ぎ取るのは、まともな人間には到底できない所業である。明確な悪意を感じるし、精神を病んだ者の犯行と言われて、素直にうなずける気がする。 精神異常者ということでは、熊野本宮大社に向かう中辺路のシンボル、牛馬童子(ぎゅうばどうじ)の首を切断し持ち去った者もいた。石の像ゆえ、正確に首を切断するには予め道具を用意し、時間をかけてやるしかない。熊野古道が世界遺産登録されて以降の犯行だから、多くの人が見に来る牛馬童子の首を切断するには、周到に準備して人のいない時間に計画的にやるしかない。その異常さと悪意を思えば、これもまた、まともな精神の持ち主が出来る所業ではなかろう。ちなみに、今の牛馬童子像は頭部を修復したものである。 信仰のために人々が通う熊野古道にも悪意の者は昔からいる。山賊もいたというし、茶屋の主人が宿泊客を襲って金品を奪った例もあると聞く。熊野の神々が道のそこここに息づく熊野古道も、善意の者たちばかりの集まりではないのである。 さて、その円座石だが、苔が剥がされた当時に比べ、随分復活したらしい。現在は表面がうっすらとではあるが苔に覆われ、昔の様子に近付いているという。本来は、写真の手前にある石のように、びっしりと苔が密集していたと聞く。私がこれを見た時から既に2年以上経つので、今では元の姿に戻っているのだろうか。 さて、ここまで来たら、もうあとわずかである。森の中を少し行くと、28番の道標があった。木の間から集落が見え始め、やがて川沿いの自動車道に下りた。川辺にゴールである29番の標識があった。 朝7時台に青岸渡寺脇から上り始め、このゴールに着いたのが4時半だった。この日の歩行数は約2万5000歩だが、あれだけのアップダウンを考えれば、その何割か増しのカロリー消費だったに違いない。ガイドさんからは、大雲取越を走破したら「熊野古道を歩きました」と胸張って言えますよと賞賛の言葉を頂いた。前日の大門坂を含めて那智山の麓から登って小口まで下りて来たのだから、大雲取越を全線制覇したと言っていいだろう。 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社と熊野三山を巡り、わずかながらも熊野古道を歩いたわけだが、この道の魅力の何割程度を味わったことになるのかは分からない。ただ、道中の至るところに信仰を感じ、古代の神々の息吹に触れたことで、日本人にとって、この道が如何に重要かは理解できたような気がする。 熊野信仰に教義はない。我々の遠い祖先が、自分たちを超える偉大な存在をここに祀り、敬った。古代の人々は、何者とも知れない超自然の存在を、ただ熊野坐神(くまのにいますかみ)と名付け、素朴に祈った。日本人の原点のような、純粋で敬虔な祈りである。我々の祖先は、人間の小ささを悟り、自然を恐れ、自然に逆らわず、自然と一体になって生活した。その古代から連綿と続く原始的な信仰が、遠く都からも皇族や貴族を引き寄せたわけである。 熊野古道とは、神に最も近い道なのかもしれない。 |
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