パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■熊野古道−熊野速玉大社と熊野三山の始まり |
前回、熊野古道(くまのこどう)の中辺路(なかへち)を通って、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)へ行った話を書いた。 熊野三山(くまのさんざん)と呼ばれる熊野詣の目的地は、熊野本宮大社のほかに熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)と熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)がある。 前回も書いたが、京都から熊野詣に出発した参詣者たちは、淀川を船で下って今の大阪に上陸し、紀伊路を通って現在の和歌山県田辺市に行き、そこから中辺路を歩いて、まず熊野本宮大社に詣でた。その後、熊野川を船で下って熊野速玉大社にお参りをし、海岸沿いの中辺路を通って熊野那智大社へ詣でるという順番で、熊野三山を参詣したようだ。 今回は、この参詣の順番に沿って、熊野速玉大社を紹介したい。 熊野速玉大社を訪れたのは、中辺路を歩いて熊野本宮大社へ行った翌年のことである。今年も熊野古道に挑戦しようという職場の有志で、この年は泊りがけで熊野速玉大社のある新宮市(しんぐうし)へ出掛けた。 当初の予定では、かつての熊野詣の一行がたどったのと同じように、まずは熊野本宮大社まで行って、そこから船に乗って熊野川を下り熊野速玉大社へ行く計画だった。ところが11月のハイシーズンに旅行の計画を立てたものだから、船下りが予約で一杯で、やむなく断念。最初から陸路で熊野速玉大社へ行くことになったのである。 前回中辺路を歩いた際に行った田辺から今回の目的地新宮までは、他にもルートはあろうが、今回は熊野古道の大辺路(おおへち)をなぞるように海岸線を走った。この海岸線を走る国道42号線の別名は、ズバリ熊野街道(くまのかいどう)である。熊野詣にはふさわしいルートだが、田辺・新宮間の海岸線は南に大きく広がっており、その先端には本州最南端と言われる潮岬(しおのみさき)が突き出ている。お蔭で少々時間がかかる。 熊野三山を順ぐりに回る昔ながらの参詣ルートに大辺路は登場しない。最後の熊野那智大社まで参ると、通常は熊野速玉大社、熊野本宮大社と、来た道を戻る形で帰路につくのだが、熊野本宮大社と熊野速玉大社の間は熊野川の舟下りを利用していたため、増水するとこの経路では戻れなかったという。その時には、熊野那智大社から山越えで熊野本宮大社へ行く大雲取越(おおぐもとりごえ)・小雲取越(こぐもとりごえ)があるのだが、これが難路だったために、代替ルートとして大辺路が使われたなんていう話を聞いたことがある。ただ、皇族の熊野御幸でも登場しないルートであり、真偽は定かではない。 さて、このルートを車で走ると、潮岬のある串本(くしもと)を通ることになるのだが、道路沿いに有名な橋杭岩(はしくいいわ)を見ることが出来る。電車で新宮まで行っても車窓から眺めることができ、わざわざ車内アナウンスしてくれるほどの名所である。 上の写真で見て分かる通り、海岸線に一直線に並ぶ奇岩群である。全部で40近くの岩が並ぶが、全景を撮れないので、上の写真は一部のみである。これらの奇岩が並ぶさまが、橋の杭のように見えるので橋杭岩というわけである。 これらの岩は自然の浸食作用が造り上げたものだが、何とも不思議な景観である。この脇に道の駅があって、その2階の展望デッキからも全景を見られるが、傍らの解説板を見ると、全ての岩に名前が付けられているとのことで驚く。 浜辺に下りられて、岩場伝いに橋杭岩の近くまで行ける。下は砂地というよりは平らな岩盤が続く独特の地形で、この辺りでは多く見掛ける海岸風景である。干潮時にはかなり近くまでアクセスできるらしい。 この橋杭岩に限らず、周辺の海岸線は奇岩の多いところで、眺めの良いスポットが幾つもある。その代わりに砂浜が乏しく、海水浴に適した場所はほとんどないと聞く。夏場に白浜温泉の白良浜(しららはま)が海水浴場として賑わうが、これは、観光地としての白浜の知名度によるものだけでなく、和歌山県の海岸線に広い砂浜が少ないせいらしい。 さて、串本を出て海岸線を暫く走ると、熊野那智大社の玄関口に当たる那智勝浦(なちかつうら)へ着く。この海岸線沿いに幾つか興味深いスポットがあるので、ご紹介しておこう。 最初にご紹介するのは、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)である。この寺は国道42号線、通称熊野街道沿いにある。 このお寺には、補陀落渡海(ふだらくとかい)という不思議な宗教儀式が伝えられている。 元々この寺を建てたのは、仁徳天皇(にんとくてんのう)の時代に天竺(現在のインド)から来た裸形上人(らぎょうしょうにん)とされる。この人は近くの浜辺に流れ着いた後、この地に暫し留まり修行を行った。彼が那智の滝で修行しているうちに滝壺の中に小さな如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)があるのを発見し、草庵を建てて安置したのが、那智の青岸渡寺(せいがんとじ)の始まりと伝えられている。 この裸形上人だが、船で浜辺に流れ着き、那智で修行した後、再び船に乗って旅立ったとされている。どこに旅立ったのか。インドから来たのでインドに帰ったのかというとそうではなく、補陀洛山(ふだらくさん)へ旅立ったのだとまことしやかに言われた。補陀洛山とは観音菩薩(かんのんぼさつ)が住む浄土で、遙か南の海にあると信じられていた。 海のかなたからやって来た裸形上人が再び大海に漕ぎ出て補陀洛山に向かったという伝承に倣って、補陀洛山への渡海が試みられるようになった。これが補陀落渡海である。 補陀落渡海を試みる者は、四方に鳥居を建てた小さな船に一人乗り込み、補陀洛山を目指して船出する。この船を再現したものが補陀洛山寺の境内にあるが、人が一人乗り込むだけの、まことに小さなものである。操舵するものは何もなく、風や波に任せて海を漂うだけの絶望的な造りで、とても大海を踏破できるような船ではない。 出て行った船がどういう末路をたどったのかは誰も知らないし、記録もない。ほとんどが帰らなかった悲惨な船旅だったが、一人だけ補陀洛山にたどり着いてそこで過ごしたと言って帰って来た者がいる。鎌倉時代の武将で後に出家した下河辺行秀(しもかわべゆきひで)である。この出家者の自慢話が広まり、益々渡航に拍車がかかったという。何とも罪作りな話である。 補陀洛山寺の境内に、補陀落渡海に出掛けた者の名前が記された石碑があるが、上人として紹介されている者の多くは補陀洛山の住職のようである。この中で目立つ存在は、平清盛(たいらのきよもり)の直系の孫である平維盛(たいらのこれもり)だろう。 美貌の貴公子として知られる平維盛は、源平の合戦で都落ちし西に敗走する平家一門から密かに離脱し、海伝いに今の和歌山まで来る。そして高野山に入って出家し、熊野にたどりつき、小船でこの浜から漕ぎ出して極楽浄土へ旅立つ補陀落渡海を行って命を絶った。形を変えた入水自殺である。 この維盛の船を見送ったのが、父の平重盛(たいらのしげもり)に仕えていた家臣の斎藤時頼(さいとうときより)である。当時時頼は出家しており滝口入道(たきぐちにゅうどう)を名乗っていた。平家物語で、建礼門院(けんれいもんいん)に使える美貌の女官横笛(よこぶえ)との悲恋物語に登場する人物である。 補陀洛山寺の裏山を上がったところに、補陀洛渡航した上人達の墓所がある。墓所といっても遺体はないので慰霊碑というべきであろう。その中に平維盛のものもある。もしかしたら、昔はここから海が臨めたのかもしれないが、今では木立や建物にさえぎられて海はよく見えない。 さて、この補陀洛山寺と境内を接して、もう一つ古い木造の社が建っている。最初は、補陀洛山寺の堂宇かと思ったがそうではなく、独立した神社である。名を熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)という。 この神社は、熊野古道と関わりの深い神社であり、かつては浜の宮王子(はまのみやおうじ)という熊野古道の王子の一つだったのである。従って、ここに熊野古道が通っていたわけで、熊野街道と呼ばれる国道42号線とほぼ一致していることが分かる。 境内の案内板によれば、祭神は社名の通り、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのおおかみ)、速玉大神(はやたまのおおかみ)の熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)である。かつては補陀洛山寺と一体のものとしてあったようで、神仏習合の時代にはごく当たり前のことだったのであろう。 実は、この浜の宮王子というのは、先ほど紹介した平維盛に関連して平家物語の中にも登場する。そこでは、維盛はこの浜の宮王子の前の浜から船で補陀落渡海に旅立ったとある。つまり、当時この前はすぐに海だったのだろう。昔は熊野那智大社に参詣する際には、浜の宮王子で潮垢離(しおごり)をしたとも伝えられるので、王子の中でも特別な場所だったのかもしれない。別名を渚宮(なぎさのみや)とも言うと、鳥居脇に解説があった。 この解説板にはもう一つ面白いことが書いてある。皇族と共に熊野御幸(くまのごこう)に随行した人々が官位、姓名と参詣回数を板に書き、それを社殿に打ち付けたというのである。これを連書と言っていたとあるが、それなりの規模を誇った重要な王子であったことが偲ばれる。 ここにはもう一つ、熊野古道と関係の深いものがある。振分石(ふりわけいし)と呼ばれる石碑である。これは補陀洛山寺前の広場の隅にあるので見落としやすいが、大辺路と中辺路の分岐点を示す重要なものである。補陀洛山寺の遺構というより、浜の宮王子に付随するものだろう。つまり、ここで大辺路は終わり、熊野速玉大社と熊野那智大社を結ぶ中辺路と合流するのである。 また、当時の名残として、熊野三所大神社の鳥居脇に巨大な楠がある。ここに浜の宮王子跡の案内板が立っており、楠の圧倒するような存在感に歴史の重さを感じさせられる。 この楠の巨木の反対側の木立の中には、神武天皇頓宮跡(じんむてんのうとんぐうあと)と記された石碑が立っている。この周辺には神武天皇が上陸したという伝承の地が幾つかあり、ここもその一つのようである。頓宮は一時的に使われる仮の宮殿であり、神武天皇が上陸後に臨時に居留した場所ということになる。 神武天皇が九州からこの近畿地方にやって来た時に、熊野に上陸したというのは有名な話である。 当初は、現在の大阪南部に上陸しようとして地元豪族の激しい抵抗に遭い、神武天皇の兄の一人は重傷を負って、後に亡くなっている。神武天皇軍は上陸地点を探しながら、海沿いを転々と南下し、最後は潮岬から熊野川までの間のどこかに上陸したと伝えられている。ただ、幾つか上陸地点と言われているところはあって定かではない。ここから新宮に行く途中にも「神武東征上陸地」と看板の出ている箇所がある。 熊野に上陸した後も劣勢に立った神武天皇軍だが、彼らに助太刀するのが現在の熊野本宮大社を守る一族であったという話は前回書いた。これにより形勢が逆転し、神武天皇軍は反抗する地元豪族に勝利する。 その後、神武天皇軍を大和の地に案内するのが、八咫烏(やたがらす)を名乗る一族だったことも書いたが、この時、八咫烏が神武天皇軍を案内するのに使った道が、熊野古道の一つ、大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)だったという話を地元のガイドさんから聞いたことがある。大峯奥駆道は、熊野本宮大社から奈良の吉野山まで続く修験道の修行の道で、修験道の祖にして役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)ゆかりの古道である。 さて、道草を食いながら延々と走って、ようやく熊野速玉大社がある和歌山県新宮市に入った。途中で昼ご飯を食べたり、橋杭岩などに立ち寄っていたこともあり、朝7時台に大阪を出たにもかかわらず、新宮市に入ったのは午後である。 新宮市は、和歌山県の一番東端で、熊野川が太平洋に注ぐところにある。熊野川を越えれば三重県ということで、県境に位置するわけである。かつては、熊野川の水運を利用して豊富な木材資源を集積する地としてたいそう栄えたようだが、今では県境の静かな町である。 新宮の歴史は古く、日本書紀にも登場する。当時の名前は熊野神邑(くまのかむのむら)というようで、名前の通り、熊野三山のお膝元として古来より賑わったようだ。江戸時代には紀伊徳川家の家老の城下町としても栄えた。江戸時代の和歌山県は、みかんや材木など優良な特産品をたくさん持っていて、経済的に豊かだったのである。 新宮市は大阪からは遠い場所である。大阪の天王寺駅から特急で約4時間。思いついて行こうかというような距離ではないし、相当な強行日程でもない限り日帰りは困難だろう。従って、ここにある熊野速玉大社も遠い場所なのである。 それでは、今回の話の中心である熊野速玉大社をご紹介することにしよう。 熊野速玉大社は、新宮市内の熊野川沿いにある。冒頭にも記した通り、熊野本宮大社からは熊野川を舟で下ってここに来るため、川の参詣道とも呼ばれている。道ではないが、これも熊野古道の一つという扱いらしい。お蔭で、熊野川のこの部分は世界遺産に登録されている。 熊野本宮大社も、現在は川から少し離れた高台にあるが、明治時代に熊野川の氾濫で流されてしまうまでは、熊野川沿いの地にあった。現在その場所は、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれて大きな鳥居が建っているが、本当に川のすぐ横である。そこから舟に乗って同じ熊野川の流域にある熊野速玉大社に来るというのが、一般的な参詣ルートだったわけである。 熊野本宮大社から熊野速玉大社までは、川沿いに37kmあるらしい。昔の船下りだと、この間を4時間でつないでいた。さすがに川下りだけあって、圧倒的な速さである。しかし、熊野は雨の多い地ゆえ熊野川が氾濫することがある。そうなると、この川の参詣道は使えないという問題があったようだ。 熊野速玉大社の祭神としては、熊野三山共通の熊野権現の12神を祀っているわけだが、その中で主祭神となっているのは、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)である。この二人は、日本神話において国産み・神産みを行った原初の神、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)であるとされている。 現在の社殿は昭和の時代に再建されたものだが、鎌倉時代の社殿の様子などを描いた熊野曼荼羅(くまのまんだら)に基づき建立されたようで、当時の姿を再現したものということになる。境内はそれほど広いわけではないが、結構な人出で驚いた。大型の観光バスも何台か止まっており、熊野古道ブームを反映してのことなのだろうか。 境内に熊野神宝館があるが、ここは国宝だらけである。裁縫用と思われる銀製の針に至るまで国宝で、いったいどういうことかと思ったら、これは熊野速玉大社に古くから伝わる神宝を一括して国宝に指定した結果らしい。その数は1200点に及ぶというから驚く。これらの品々は、代々の朝廷が寄進したほか、将軍家や諸藩の大名からも多数の奉納があったことを反映してのものらしい。さすがに熊野三山の神社だと感嘆する。これだけの数の国宝を一度に見たのは初めてだが、そのわりには誰も見学していない。 この神宝館の向かいにあるのが、有名な梛(なぎ)の巨木で、平重盛(たいらのしげもり)お手植えと伝わる。 平重盛は、上の補陀落渡海で出て来た平維盛の父であり、平清盛の嫡男である。武将としての活躍もさることながら人格も優れていたようで、清盛の後継者と目されていたが、病気のために父清盛よりも先に亡くなった。重盛お手植えのこの梛は樹齢千年ということになり、天然記念物に指定されている。 梛は凪(なぎ)に通じ、道中の安全や家内の平穏に御利益があるという。このため、熊野詣の道中安全のためのお守りとされるようになり、この梛の葉をお守りに人々は熊野古道を歩いたと伝わる。鎌倉時代初期の公家で歌人として名高い藤原定家(ふじわらのていか)の歌に「千早ふる熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る」というのがあり、当時から広く知られていたことが覗える。現在では、この梛の実をあしらったお守りが境内で売られている。 もう一つ、境内の案内板に書かれていた話で面白いと思ったのは、京の五条大橋で牛若丸(うしわかまる)と対決した武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)と熊野三山の関係である。 弁慶の生涯は謎に包まれている部分が多いが、紀伊の出身で熊野別当(くまのべっとう)の親族だったというのが、源義経(みなもとのよしつね)の生涯を描いた義経記(ぎけいき)の説明である。熊野別当は熊野三山を統括する任務を与えられた公職であり、田辺と新宮の複数の家が代々担当をしていたようだ。 話は少々脱線するが、前回ご紹介した熊野本宮大社に向かう熊野古道中辺路ルートの現在の玄関口は和歌山県田辺市である。この田辺市内に闘鶏神社(とうけいじんじゃ)という変わった名前の神社がある。創建は飛鳥時代よりも前で、非常に古い神社である。 闘鶏神社の名前は元からあったわけではなく、源氏と平氏が争った時代の故事に由来するもので、元は田辺宮と言ったようだ。この田辺宮は元々熊野三山の神を勧請した神社で、熊野本宮大社と関係が深い。かつての熊野詣の際には、熊野本宮大社に行く前に田辺宮に立ち寄る習慣があったという。 さて、この熊野三山ゆかりの神社が闘鶏神社と呼ばれるようになった時代に、弁慶が関係する。当時この田辺宮を管理していたのは熊野別当の湛増(たんぞう)であり、宗教勢力も武装していた時代にあって、熊野の衆徒を率いて強大な軍事力を誇った。 源氏と平氏が争う中で、どちらにつくかで揺れる熊野の人々をまとめるために、湛増は田辺宮で赤と白の鶏を闘わせて占いをしたと伝えられる。これが闘鶏神社の名前の由来で、闘鶏の結果に従って源氏の味方に付くことを決定した熊野衆徒は、強力な武力を誇る熊野水軍を出動させて、壇ノ浦の合戦に参戦する。 この話と弁慶とがどう関係するかだが、実は弁慶は湛増の子供だと伝えられている。現在の闘鶏神社境内には、湛増・弁慶親子の前で闘鶏が行われている像が立っているが、仮にそうだとすれば、平氏討伐に邁進する源義経の一の家来である弁慶が身内にいるのに、それを裏切って湛増がわざわざ平氏につく可能性は薄く、この闘鶏もみんなを納得させるための計らいだったのではないかとも考えられる。 上の写真が、別の機会に訪れた闘鶏神社である。ここには熊野三山の神が勧請され祀られているのだが、この神社の姿は、明治時代の洪水で流される前の熊野本宮大社に似せて造られているとも伝えられる。かつては、熊野三山に直接参らなくとも、この闘鶏神社に参れば同じご利益が得られると信じられたようだ。 さて、弁慶にまつわる話はそれくらいにして、熊野速玉大社の話に戻ろう。 熊野速玉大社は熊野川沿いにあると書いたが、本当に歩いて行ける距離である。河原に出て熊野川下流を眺めたが、川幅は広くゆったりと流れ、氾濫するなんて考えられない。しかし、2011年の台風12号による紀伊半島豪雨をはじめ、何度も氾濫を起こし流域に多大な被害を負わせている。 昔の熊野川は、熊野詣だけではなく水運の要所で、多くの人が行き来した。こうした人を相手に商売も盛んに行われたが、氾濫しやすい熊野川の恐ろしさも踏まえ、川原家(かわらや)という特殊な店舗が造られたという。これは釘を使わない簡易な住宅で、素人でも短時間で解体して持ち運びが出来た。大雨が降って洪水が起きそうになると、店主は文字通り店をたたんで高台に避難したわけである。 こうした簡易店舗は江戸時代から熊野川沿いに発達したようで、熊野川の河原に川原家が並ぶ様子を写した写真が現地に掲げられている。旅人や商売人の需要に合わせて、宿屋、飲食店から銭湯まで、様々な店が一通り揃って賑わったという。 この川原家を再現した出店のエリアが熊野速玉大社近くの一角にある。 名前を川原家横丁(かわらやよこちょう)と言うらしいが、観光客相手に地元の特産品を売ったり、簡単な飲食が出来るようになっている。ちょっと覗いてみたが、なかなか面白い。かつての賑わいは望むべくもなかろうが、熊野速玉大社の駐車場脇というロケーションなので、参拝客がもっと立ち寄るようになれば繁盛するのではないか。 元の川原家は大正時代までは流域にたくさんあったようだが、橋が架かり熊野川を使った水運が衰退してバスが通るようになると、一軒また一軒と店の数が少なくなり、最後の一軒が終戦後まもなくになくなって完全に消滅したようだ。最後の一軒は鍛冶屋だったというから驚く。 ところで、熊野速玉大社の創建年代は他の二社同様、不明である。前述のように、神武天皇が熊野に上陸する前からあった信仰の場なので、大和朝廷の歴史には登場しないのだろう。しかし、熊野速玉大社のそもそもの始まりという場所が、新宮市の別のところにある。それが、神倉山(かんのくらやま)である。 神倉山は、新宮市の北にある千穂ヶ峯(ちほがみね)の一部であり、約200mの低山ながら急峻な斜面を持つ険しい表情の山である。この神倉山の山上にはゴトビキ岩と言われる巨石があり、熊野三山よりも早くに神が地上に降り立った岩だとされている。 古代の磐座(いわくら)信仰の典型だが、日本における神社の原型が磐座に対する信仰だったことを考えれば、ゴトビキ岩に対する信仰は、熊野三山の原始の姿だったと見ることも出来る。このゴトビキ岩のことを最初に教えてくれたのは新宮市に住む人だったが、彼は熊野三山の始まりという言い方をしていた。 このゴトビキ岩へのアクセスは、神倉山の麓から538段もの急峻な石段を上がらねばならず、この石段は下から見ると、垂直とも思えるくらいの圧倒的な傾斜角度である。また、使われている石材が自然石であり、大きさも不揃いなために注意しないと足を踏み外しそうになる。この石段は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が寄進したものと伝えられている。 以前、上がったことのある人に話を聞いたら、下りる時は怖くなって後ろ向きになって這うように下りたと言っていたが、その時は笑ったものの、現地で石段を見上げると、あながちバカに出来ないことを思い知る。私が訪れた時も、後ろ向きに下りて来る人を見掛けた。 息を切らしながら石段を登ると山頂に出る。ここにゴトビキ岩が聳えており、その存在感は見る者を圧倒する。これが古代より転げ落ちずに山頂にあり続けたということ自体が奇跡のように思える。古代の人々がこの巨岩に神が宿ると考えたのも、あながち不思議ではない気持ちになる。 ゴトビキ岩は今でもご神体であり、ここには神倉神社(かみくらじんじゃ)という小さな祠が建っている。麓に社務所はあるものの無人のようで、現在神倉神社は熊野速玉大社の摂社の扱いである。しかし、歴史的な経緯から考えれば、熊野三山のオリジンなので、親が神倉神社で、子が熊野速玉大社を含む熊野三山というのが正しい位置付けだろう。ちなみに、神倉神社も世界遺産である。 このゴトビキ岩のある場所からは眺望が利き、新宮市を眼下に一望できる。実は、神武天皇が熊野に上陸した後、熊野神邑(くまのみわのむら)で天磐盾(あめのいわたて)に登ったという記述が日本書紀にあるが、その天磐盾が神倉山だとされているようだ。確かに周囲の様子を俯瞰するには絶好のロケーションである。ゴトビキ岩の磐座信仰の歴史は縄文時代にまで遡ると言われているので、神武天皇がやって来た時には、既に有名な場所だったのだろう。 この神倉山から、いつの時代かは分からないが神社は熊野川沿いに移築された。最初に移ったのは阿須賀神社(あすかじんじゃ)と言われている。これは熊野速玉大社よりも下流の熊野川沿いに今もある。蓬莱山(ほうらいさん)という小さな丘陵の麓にあるが、ここには弥生時代の遺跡もあって、古くから開けた場所とされている。 やがて、この阿須賀神社から熊野の神が移る先が熊野本宮大社と熊野速玉大社ということになる。そんなわけでこの地では、神倉神社を元宮、熊野速玉大社を新宮と呼ぶ。これが現在の新宮市の名前の由来であり、市名は熊野速玉大社を指しているわけである。 上の写真が神倉神社とゴトビキ岩だが、ここを舞台にした有名なお祭りがある。名前を御燈祭(おとうまつり)という。 祭礼自体は、新年に神倉神社で熾した火を、人々が家に持ち帰って、その年の火として使うというものだが、問題はその持ち帰り方である。この祭りには禊をした男子しか参加出来ず、山上の神倉神社に集まって新しい火をもらった参加者が、一斉に走って先ほどの538段の石段を駆け下りるのである。夜に火を全て落とした暗闇の中で行われ、真っ暗な中で急峻な石段を多数の男子がたいまつを掲げて駆け下りるというのだから、驚くほかはない。 私が上り下りした経験からすると、暗闇の中でここを駆け下りるというのは自殺行為としか思えないが、これが不思議と大惨事にならないのだと言う。やはり地元の人の慣れなんだろうか。それとも熊野三山のご加護か。ちなみに、現在は2月に行われるらしく、県の無形民俗文化財に指定されている。 この祭礼の起源は古く、神武天皇が熊野の地に上陸した時の出迎えに端を発するという言い伝えもある。一体いつ頃から駆け下りるようになったのであろうか。 ところで、この御燈祭における神聖な火を家に持ち帰り使うという部分は、最近日本でも流行りのハロウィーンの原点に、どこか似ていると思った。 現在のハロウィーンは子供の楽しいお祭りだが、元をたどれば古代ケルト人が10月末に行っていたサウィン祭という宗教行事にたどりつく。古代ケルト人が信じていたのはドルイド教という宗教だが、彼らの考えでは、昼の時間と夜の時間が同じになる日には、魔物が人間界に侵入して来るとされていた。この魔物が家の中に入って来ないように、ドルイドの司祭が焚いた聖火を受け継ぐ形で家の暖炉に火を入れるということを行っていた。これがサウィン祭の中核部分である。 ドルイド教がキリスト教に飲み込まれ改宗が進む過程で、魔物が家に入ってくるという部分だけが残って、子供たちがお化けに扮して家々を回ってお菓子をねだる形になったわけである。 ところで、神武天皇の話を先ほど出したが、神倉神社以外にも神武天皇ゆかりの場所が新宮市にはある。市内の海岸近くにある熊野古道の王子の一つ、浜王子(はまおうじ)である。 日本書紀によれば、熊野神邑で天磐盾に登った後、神武天皇軍は再び船で移動する。ところが、そこに暴風雨が襲い一行は遭難の危機に見舞われる。この時、神武天皇の兄の稻飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)が、船上から海に身を投げて暴風雨を鎮める。この二人の兄を祀ったのが浜王子の始まりというのである。 これが時代の進展と共に熊野古道の王子社と形を変え、浜王子して知られるようになる。今日でも社殿は残っている。 さて、熊野古道にまつわる話は以上で終わりだが、新宮市にはもう一つ面白いところがあるので、最後に紹介しておきたい。それは徐福(じょふく)の墓である。残念ながら私自身は見たことはないが、この墓がある徐福公園(じょふくこうえん)はJR新宮駅の目の前なので、駅から公園入り口の立派な楼門を見たことはある。 以下は、地元の人に聞いた話が中心である。 徐福は、紀元前数百年前の人で、中国の秦(しん)において古代の方術を行う方士(ほうし)だったようだ。東方の三神山に不老不死の霊薬があると始皇帝(しこうてい)に奏上し、これを持ち帰るため、数千人を引き連れて日本に渡って来たとされている。 中国側の記録では、渡った先で広い領土を得て、再び中国に帰って来ることはなかったと伝えられている。一方日本国内では、徐福に関する伝説は九州から関東まで広く分布しており、どうやら全く根拠のない話でもないようだ。 ここ新宮にある伝説では、徐福は熊野山中で天台烏薬(てんだいうやく)という不老長寿の霊薬を発見したが、熊野が良い土地だったため、ここに住み着いて生涯を終えたという。引き連れて来た秦の人々には技術者も多数含まれていたため、彼らの定住により大陸の様々な技術がもたらされたと伝えられている。新宮市に徐福の墓があるのはこうした伝説に基づくものだが、本当に徐福の遺骨が埋まっているということではなく、伝説にちなんで墓が建てられたということだろう。 不老長寿の霊薬である天台烏薬ってどんなものなんだということになるが、これは植物の名前である。葉っぱだけだが、こんなものである。 この何気ない葉っぱが不老長寿の霊薬なんてことは、当たり前だがあり得ない。これは新宮市で採取したものではなく、和歌山県の別の場所で木の持ち主から記念にもらったものである。実は最初に徐福の話を聞いたのは、この人からである。 見た感じは背の低い木だったが、徐福公園内にも天台烏薬の木があると聞いた。興味がある方はそこで実物を見られる。漢方薬としては葉ではなく根を使うらしいが、薬効は胃の働きを良くするというものらしい。 さて、熊野速玉大社と熊野三山の始まりである神倉神社を中心とした話はこれで終わりである。次回は、熊野三山最後となる熊野那智大社にまつわる話を書こうと思う。熊野古道で最も有名な大門坂の紹介と、熊野古道最難関と言われる大雲取越(おおぐもとりごえ)を踏破した時の話もあわせてを記すことにしたい。 |
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