パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■元禄の大阪を訪ねて





 この関西徒然訪問記で、最初の回に大阪のミナミを紹介した。買い物方々、ちょくちょく散歩に行っていた場所なので真っ先に取り上げたが、今回はもう一つの繁華街キタを紹介しようと思う。ミナミを紹介したときに書いたが、キタは、JR大阪駅のある梅田周辺の繁華街である。

 といっても、現在のキタについて書くと、ショッピングや飲食店の話になってしまう。それでは味気ないし、幾らでも詳しい最新情報がネットに掲載されているので、今更私が2年以上前の話を書いても仕方なかろう。そこで、歴史散歩チックに今に残るキタの旧跡をたどることにしたい。

 前回、大阪城の歴史を紹介した際、大阪城の北側は元々海で、長い年月をかけて川が運んだ堆積物が溜まって陸地化していったという話をした。その場所がまさに今の大阪駅南側に広がるキタの繁華街なのだが、豊臣対徳川の攻防を見ても分かる通り、当時でもこの周辺は足元の悪い湿地帯で、大雨のたびに淀川が氾濫して、土地利用にはリスクがあった。やがて、そんな湿地帯に盛り土をして整備し、田畑として活用する開拓事業が始まる。この頃に付いた土地の名前が、埋めて作った田畑ということで「埋田(うめだ)」である。しかし、あまり良い名前ではないので、江戸時代に漢字を変えて「梅田」になった。それが地名として今日まで使われているのである。

 そんなわけで、キタの歴史というのは江戸時代以降ということになる。当時の大阪の中では比較的新しいエリアで、田畑が次第に市街地化され、曾根崎村(そねざきむら)という名前も付いたようだ。今日は、主に曽根崎通(そねざきどおり)を東から西に歩きながら、江戸時代から明治初期にかけての歴史の痕跡を訪ねることにしたい。

 スタート地点は、JR環状線の桜ノ宮駅(さくらのみやえき)である。駅を降りるとそこは大川(おおかわ)のほとりである。川沿いに公園が広がり、桜並木が続く。この辺りは駅名通り桜の名所で、私もお花見の時期に環状線で何度か通ったが、電車の中からでもハッとするような満開の桜を堪能できる。

 駅のすぐそばにある源八橋(げんぱちばし)を渡って大阪駅方向に歩く。橋からの眺めはのどかで、遠くに大阪城が見える。





 写真の右が西岸で、これから行こうとしている方角、左側が東岸で、さっき降りた桜ノ宮駅があるところである。ちなみに、右にそびえるのは帝国ホテルで、左側には桜ノ宮公園という川沿いの公園が広がっている。なかなかのどかで気持ちのいい場所である。

 ここに流れている大川は、昔の淀川である。今の淀川はもっと北側を流れているのだが、これは明治期の大洪水の際に河川改修が強く望まれ、対策として新淀川放水路が開削されて河川が付け替えられたためである。

 この源八橋は当時はなく、橋が架けられたのは昭和11年のことらしい。それまではどうしていたかだが、長い間ここには渡し舟があったようだ。その名が「源八の渡し」だったので、そのまま橋名になったと、橋の途中にある解説板に説明があった。

 源八は船頭さんの名前ではなく、川の真ん中にあった砂州の呼び名が「源発」だったため、それにちなんだものと解説されている。渡し舟は江戸時代には既にあったようだが、その頃は、写真右の西岸には大阪城代配下の与力たちの家があり、左の東岸には農村が広がっていたらしい。そんな場所だったが、京から大阪への交通路だったことや、この辺りが梅や桜の名所だったため、渡し舟は結構賑わっていたようだ。

 橋の途中にある解説板には、大阪生まれの江戸期の俳人与謝蕪村(よさぶそん)の句が紹介されていた。

  源八をわたりてうめのあるじかな

 だから「埋田」が「梅田」になったのかと思いながら、橋を渡る。その先の交差点を左に折れて、南に向けて進む。暫く行くと、先ほど川縁に見えていた帝国ホテルの立派な建物が道路脇にそびえ立っている。すごい存在感である。その少し先にある高校の手前を右に曲がる。休日のせいか、広い道なのに車はおろか、人の姿もない。高校のグラウンドの先に龍海寺(りゅうかいじ)という曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺がある。ここに、江戸末期の蘭学者にして医師であった緒方洪庵(おがたこうあん)の墓がある。





 緒方洪庵は元々備中国、つまり今の岡山県に生まれた武士である。父は下級武士だったが、大坂にあった藩の蔵屋敷勤務を命じられて、洪庵も大坂に移り住むことになる。やがて、大坂で蘭学を広めようと活動していた中天游(なかてんゆう)という蘭学者兼医者の塾に入ったのが、蘭学との出会いとなる。それから、江戸、長崎と蘭学を学ぶために移り住み、やがて大坂に戻って医者として開業する。この時同時に船場(せんば)に開いた蘭学の塾が、有名な適々斎塾(てきてきさいじゅく)、俗に言う適塾(てきじゅく)である。

 緒方洪庵は、予防接種により天然痘を撲滅することに尽力したことで有名だが、自身も8歳の時に天然痘に罹っている。天然痘は古代エジプト時代から人類を苦しめた感染力の強い伝染病で、弱めた天然痘ウイルスを接種して抗体を作ることで予防できることが古くから知られていた。しかし、これが必ずしもうまく行かず、予防接種によって本格的に感染し死に至る例もあって、その改良が望まれていた。

 こうした中で、牛が感染する牛痘(ぎゅうとう)という伝染病のウイルスが天然痘ウイルスに近く、かつ人間が感染しても軽度で済むことが発見され、これを使った予防接種が安全で効果的なことが判明した。洪庵が大坂で取り組んだのが、この牛痘による予防接種だった。

 さて、お墓まで行こうかと思っていたが、お寺の門が閉ざされていたため断念。ここには、緒方洪庵と妻の八重の墓が並んでいるらしいが、洪庵自身の本来の墓は東京にあると聞く。これは、洪庵の天然痘予防接種の活動が徳川幕府から公認され、請われて江戸に移って14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍医として出仕し、そこで亡くなったからである。なお、洪庵の師である蘭学者中天游の墓もこの龍海寺にある。

 龍海寺を後にして、そのまま南に下り曽根崎通に出る。ここからは暫し、曽根崎通沿いを歩き、あちこち寄りながら西に進もうと思う。その前に、ちょっと手前の東側に戻ることにしたい。東天満の交差点を渡り、もう少し東に行ったところに、こんな石柱がある。





 「大塩の乱 槐跡」と彫られている。大塩の乱とは、江戸時代後期に起きた有名な大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)のことで、槐(えんじゅ)というのは木の名前である。

 大塩平八郎は、代々大坂東町奉行所の与力を務める武士の家に生まれ、自身も奉行所与力であった。清廉潔白で正義感の強い人だったと伝えられる。やがて、与力の職を養子であった大塩格之助(おおしおかくのすけ)に譲り、自身は引退してしまう。

 与力を辞して後、大塩平八郎は陽明学を独学で学び、自身が開いていた私塾 洗心洞(せんしんどう)で、弟子たちを指導していた。そうした中で起きたのが、天保の飢饉(てんぽうのききん)である。

 天保の飢饉は、享保、天明とあわせて三大飢饉と称される江戸時代最大級の飢饉で、暴風雨に伴う洪水と冷害が数年続き、農作物は大凶作となった。今で言う異常気象ということだろう。食糧危機から各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、世情は大いに乱れた。

 大坂では、当時の大坂東町奉行だった跡部良弼(あとべよしすけ)が、大坂の窮状を救うどころか、大坂のコメを江戸に回して幕府のご機嫌取りを行い、大坂の豪商たちがコメの買占めで価格釣り上げを行うのを見て見ぬふりをした。まぁとんでもない人物だが、実の兄は賄賂を取っては金をばらまいて出世街道を驀進した老中水野忠邦(みずの ただくに)なので、血は争えないという気がする。

 これに対して大塩平八郎は、幕府保有のコメの放出や豪商の買占めの禁止を求めて再三提言を行うが、ことごとく無視される。やがて、私財を投げ打って飢餓民の救済を行うのだが、彼の私財で解決できるはずもなく、もはや武力を持って奉行と豪商を打ち据えるよりないと武装蜂起を決断する。

 密告により幕府方に奉行暗殺計画が知られてしまうが、それでも大塩らは強行に武装蜂起する。大塩平八郎は弟子だけではなく民衆にも決起を呼び掛けており、火が上がったら蜂起と言い渡してあったので、自らの家に火をかけ、次いで最初の大砲を撃つ。この玉は、大塩平八郎の家の向かいにあった、東町奉行所与力の朝岡助之丞(あさおかえんのじょう)の家の庭に撃ち込まれ、槐の木に当たる。木は裂けたと伝えられるが、その槐が植わっていたのが、この石碑の場所なのである。なお、砲弾を食らって裂けた槐の木は、その後も枯れることなくこの場所にあったが、150年近くを経て昭和59年に枯れてしまったらしい。老衰による大往生といったところだろう。

 その後の大塩ら蜂起軍は、船場にあった豪商の邸宅を次々に襲って火をかけ、奪った金銀やコメを民衆に分け与えた。しかし、この火が延焼して大火となり、大坂の2割程度の市中が焼け野原となってしまう。やがて、幕府方の鎮圧部隊に取り押さえられ、大塩らの反乱は半日で幕を閉じるが、大塩平八郎・格之助親子は逃走し、その後40日余り潜伏する。やがて、大坂市中に潜んでいたところを見つかり幕府方に急襲されるが、自ら火薬に火を点けて爆死した。

 奉行所の与力だった大塩平八郎がこうした行動に出たことは世に強い衝撃を与えたようで、これに触発されて全国で反乱が頻発した。大塩親子が爆死したため、さらし首にならなかったという事情が憶測を呼び、まだどこかで生きているのではないかという噂も、反乱頻発に拍車をかけたようだ。

 その大塩平八郎の家があったのは、このすぐ近くだが、今では造幣局(ぞうへいきょく)の敷地内となっている。「大塩の乱 槐跡」の石柱のある場所も、造幣局の敷地前である。そんなわけで、曽根崎通をもう少し東に戻って造幣局も見ていこう。

 ここまでのところ、源八の渡し、緒方洪庵墓所、大塩平八郎の乱の石碑と、江戸時代ゆかりの場所を見て来たが、もちろん造幣局は江戸時代にはなかった。しかし、江戸から明治に時代が変わってすぐに造幣局が設立されている。そもそも、ここに貨幣工場を建てることが決まったのは、江戸時代末期である。王政復古の大号令の直後に新政府側によって立案され、建設開始は明治元年と聞く。まぁ限りなく江戸時代に近い存在と言えよう。

 現在の造幣局の建物は石造りのどっしりとしたものだが、これは明治期に建設されたものではない。では、明治期の建物はもう残っていないのかというと、造幣局と曽根崎通を挟んだ反対側に、明治期の造幣局を偲ぶ建物が残っている。名前を泉布観(せんぷかん)という。





 泉布観は明治4年に完成した造幣局の応接所で、翌5年に明治天皇が近畿、四国、中国地方を行幸した際に、この応接所に宿泊したと伝えられている。泉布観という名称は、明治天皇自身の命名である。

 泉布は、古代の中国で貨幣、金銭を意味する言葉だったらしい。明治天皇はこの応接所に滞在していたおり、ベランダからの眺めにいたく感動したようで、その時の景色と、貨幣が川のように流通する様子を掛け合わせて命名したと伝えられている。泉布観の「観」には、立派な建物という意味もあるらしい。深い教養を感じさせる命名だと感心する。

 泉布観はその後も多くの賓客を受け入れたようだが、所管は造幣局から宮内省に移り、更に大正時代に大阪市に移管され現在に至っている。この周辺では現存する最古の建物であり、国の重要文化財に指定されていると聞く。

 通貨の発行というのは国の一大事業であり、独立国家の根幹の一つだが、徳川幕府から政権を奪還した新政府が、どうして造幣局を江戸ではなく大坂に置こうとしたのか、そこはよく分からない。大坂に造幣工場を建てることが決まったのは、王政復古の大号令が発せられた翌年のことで、同じ年に江戸城は無血開城している。別に江戸に造幣工場を造っても良かったはずだが、当時の判断としては大坂に造るということになった。このお蔭で、造幣局は国の機関の中で唯一本部が大阪に置かれた組織となったわけである。

 ところで、今や大阪で造幣局と言えば、貨幣を造っている機関というよりも、桜の通り抜けの方が馴染みがあって有名だろう。大阪の人は皆これを楽しみにしているらしく、期間中には近隣の県からも多くの人が訪れると聞く。

 桜の通り抜けは、造幣局本館の大川沿いの敷地に植えられている桜を見ながら造幣局内を歩くお花見行事のことで、4月に1週間程度行われる。誰でも無料で見学できるが、とにかくとんでもない数の人が訪れるため、周辺の道路は交通規制が敷かれるほどの大騒ぎとなる。天気のいい休日ともなると、のんびりそぞろ歩くというわけにはいかず、人並みに押されながら進むことになる。

 夜9時までやっているので、私も大阪に住んでいた時に、夕方から夜にかけて桜の通り抜けに出掛けた。実は、源八の渡しのところで説明したように、この界隈は江戸時代から桜や梅の名所で、今でも大川沿いの堤防には桜の木がずらりと並んで植えられていて、お花見の時期は見事な眺めである。しかし、造幣局の桜の通り抜けの方が圧倒的な人気を誇っているのは、そこに植えられている桜の種類の多さによるものではないかと思った。

 桜の通り抜けの順路内には、120を超える種類の桜が350本以上植えられている。桜の花の色、大きさ、形状がまちまちで、見たことのないような珍種のものも、ここでなら見られる。その珍しさに惹かれて、1週間で数十万人が訪れるわけである。

 元々この辺りは藤堂藩の蔵屋敷だった場所で、藤堂藩は敷地内で里桜を育成していた。その桜が、桜の通り抜けの原型となったそうである。当初は造幣局の職員だけで楽しんでいたが、明治16年に当時の造幣局長が「せっかくだから一般市民にも開放しよう」と決断したのが桜の通り抜けの始まりである。実に長い歴史のある行事であり、今では大阪の春の風物詩として、地元のニュース番組で必ず季節の話題として登場するほどである。

 さて、造幣局の話題はこれくらいにして、次に移ろう。曽根崎通を西に向かい、大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)を訪れることにする。造幣局から1kmほどの距離だが、幹線道路沿いを歩くと騒がしいし、静かな道を歩くよりも長く感じる。曽根崎通からだと裏口から入った方が近いが、天満宮の正式の入り口は南側なので、回り込んで正面から入る。





 大阪の人は、この神社を大阪天満宮と正式名では呼ばず、単に「天神さん」とか「天満の天神さん」と言っている。この神社に関して最も有名なのは、日本三大祭の一つ、天神祭(てんじんまつり)であり、そこから単に天神さんと呼んでいるのかなと思う。

 実は、天神祭は一度も見たことがない。その賑わいは知っているが、大川でやる有名な船渡御(ふなとぎょ)の日は、いずれも別用があって見に行けなかったのである。もっとも、大阪の人に聞くと、川べりは大混雑になるので、船渡御を見ようと思ったら大変だという。出掛けて行っても、果たして見られていたかは保証の限りではない。

 大阪に限らず全国の天満宮は、平安時代に朝廷で活躍した菅原道真(すがわらのみちざね)を祀っているが、道真の命日である25日にちなんで行われるお祭りが天神祭である。大阪の場合は、毎年7月に行っている。

 お祭り自体は大阪天満宮が創建されて以来行われていて、最初は近くの川べりから鉾(ほこ)を流し、流れ着いた場所に斎場を設け禊払いをするというものだったらしい。この行事に船が参加するようになって船渡御の原型が出来上がるわけだが、大きな祭りになったのは、大坂が天下の台所として栄えた元禄時代以降と聞く。

 現在でも、この鉾を流す神事は大川で行われているが、御旅所(おたびしょ)が固定化されたため、鉾の流れ着いた場所で祭事を行うということはもう行われていない。今の天神祭のメインは、大阪天満宮を出たお神輿が、陸渡御(りくとぎょ)と船渡御を行って御旅所に向かう道中であり、陸渡御では様々な山車などが、船渡御ではたくさんの伴の船が、お神輿に付き添って道中を盛り上げる。とりわけ船渡御が人気のようで、これを見に大川周辺に人々が集まるのである。

 ところで、天満宮のある場所の多くは、菅原道真ゆかりの地である。しかし、道真の活躍した平安時代には、大阪天満宮のある場所は川の河口だったはずで、どうしてこんな場所に天満宮があるのか、以前から不思議に思っていた。今回、大阪天満宮を訪ねてその謎が解けたのだが、実はこの場所の由来は、遠く難波宮(なにわのみや)の時代まで遡るのである。

 難波宮については、大阪城について書いたときにも説明した。飛鳥時代の話だから、平安時代よりもずっと昔のことである。

 豪族の中にあって事実上の一強となり皇室をないがしろにし権力をほしいままにしていた蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)の親子を、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが攻め滅ぼすというクーデターが起こる。いわゆる乙巳の変(いっしのへん)である。

 当時の皇極天皇(こうぎょくてんのう)は事件後直ちに退位し、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に皇位を譲る。この孝徳天皇が飛鳥にあった板蓋宮(いたぶきのみや)を引き払い、今の大阪に都を移す。そのときに造ったのが難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)、つまり難波宮である。

 当時のことだから、魑魅魍魎の侵入から難波宮を防ぐために、易学的に重要な方角では神事が定期的に執り行われた。やがて難波宮がなくなると、神事の行われていた場所に社が置かれた。今の大阪天満宮のある場所に置かれたのは、方位神(ほういじん)の一つである大将軍(たいしょうぐん)を祀る大将軍社である。

 菅原道真は大宰府に流されるに当たって、この大将軍社に参詣したのである。方位神に、道中の安全を祈願したのであろう。それから50年近く経って、大将軍社の前に7本の松が生え出し、夜になるとその幹が光るという超常現象が起きる。ご存知のように、菅原道真の死後、その祟りだとされる不幸が朝廷で次々に起き、ついには会議中の清涼殿に雷が落ち朝廷の要人に多くの死傷者が出るという事件があった後のことである。当時の村上天皇(むらかみてんのう)は、不思議な7本松の話を聞くと勅命でこの地に天満宮を建てた。菅原道真ゆかりの地と聞いて、放ってはおけなかったのだろう。今から千年以上前のことである。

 かくして、ここは菅原道真を祀る天満宮になったわけだが、実は今も境内に大将軍社がある。最寄の地下鉄の駅名である南森町(みなみもりまち)は、大将軍社の森だった場所という説明書きが大将軍社の前にあった。かなり大きな神社だったのだろう。

 それにしても、天神祭りの賑わいと比べると意外に狭い境内である。ただ、人気の神社らしく、縁日でも何でもない日なのに、次々と人が訪れて繁盛している。大阪の人に親しまれているのだなと感じる賑わいである。

 さて、大阪天満宮を北向きに抜けて曽根崎通に戻ろうとすると、出てすぐのところに寄席がある。天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)である。





 私は一度入ったことがあるだけなのだが、大阪の皆さんは単に「繁昌亭」と呼んでいて、随分人気があるようだ。しかし、お笑いの本場大阪で、常時落語を楽しめる寄席がここしかないというのは意外だし、2006年にこの繁昌亭がオープンするまで、60年近くにわたり寄席が全くない状態が続いていたという事実には、もっと驚かされる。大阪と言えば、上方落語(かみがたらくご)の中心地だろうに、どうしてそんなことになったのか。

 落語という、最後に落ちを持って来て笑わせる滑稽噺の遠い起源は、江戸時代の関西にあったと言われている。17世紀終わりから18世紀初頭にかけて関西を中心に栄えた元禄文化(げんろくぶんか)の中で、神社の境内で滑稽噺をして聴衆からお金をもらう噺家が登場し、やがて寄席の原型である常設の小屋も大阪で生まれたと、繁昌亭の案内板に説明があった。桂、笑福亭、立川、林家など今に続く落語の名門は上方で生まれたものだし、そこから皆さんご存知の人気落語家がごまんと輩出している。

 そんな上方落語が戦後衰退して行ったのは、大阪における漫才の台頭と関係があると大阪の人から聞いたことがある。大阪人はとにかく面白い話が好きで、日常会話の中にも落ちを付けるのが得意である。要するにサービス精神が旺盛な人たちの集まりなのだろう。話の相手を笑わせてやろうと、いつも考えながら話している。「東京の人の話は落ちがないからつまらん」なんて陰口を叩かれる始末である。そんな人たちだから面白い話には敏感で、落語よりも漫才の方が面白かったんですわ、と大阪の人たちは解説してくれた。

 東京には、鈴本演芸場(すずもとえんげいじょう)、新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)、池袋演芸場(いけぶくろえんげいじょう)など常設の寄席が幾つもあり、多くの人で賑わっている。東京の落語は、大阪とはまた違った形で発展し、現在に至っているようで、上方落語とは幾つか違いがあるようだ。

 道頓堀散歩の時に書いたが、私は大阪にいた当時、昔馴染みの友人に連れられて道頓堀で開かれる落語会に行ったことがある。小さなホールで月に一度行われるこじんまりした会で、なかなか面白かった。この時、壇上の落語家がちょっと解説してくれたのが東京の落語との違いで、上方落語では噺家は見台(けんだい)というものを使用する。座布団に座って書きものをするときに使う木製の机である。東京で落語を聴きに行ったことがあるが、確かにこんなものは使っていなかった。

 あと、友人が語るところによれば、大阪では全ての話には落ちがないとつまらないという哲学(?)があるので、落ちのない人情噺の類は大阪では伝統的に受けないらしい。なるほど笑いの文化の中心地なんだなぁと妙に感心したことを覚えている。

 さて、そんな上方落語の定席であるこの繁昌亭を作った功労者は、6代目桂文枝(かつらぶんし)であるが、私などはむしろ若い頃の名である桂三枝(かつらさんし)と言ってもらった方が分かりやすい。繁昌亭のあるこの辺りは、戦前8軒もの寄席が集まり「天満八軒」と呼ばれていた上方落語のメッカであったと、繁昌亭の案内板に説明があった。そんな縁もあって、大阪天満宮の土地を提供してもらい、市民の寄付でこの寄席が誕生したと聞く。新しく刺激的な漫才もいいが、よく練られたストーリーを、鍛え抜かれた話芸でじっくり聴かせる落語は、味があっていいものである。今後末永く繁昌亭が続くことを期待する。

 繁昌亭からそのまま北に上がり曽根崎通に出ても良かったのだが、せっかくだから西にそれて、天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)に立ち寄る。南北に3km弱続く日本一長い商店街として有名である。





 この日は立ち寄らなかったが、大阪天満宮をそのまま南に下がり、大川の川べりまで行くと、南天満公園(みなみてんまこうえん)という桜の名所がある。この公園に天満青物市場跡(てんまあおものいちばあと)と記された石碑が立っている。天神橋筋商店街は、この天満青物市場を中心に発展して来た商店街である。

 江戸時代、天下の台所と称された大坂には、三つの市場があった。米を取り扱う堂島(どうじま)、魚を取り扱う雑喉場(ざこば)、そして野菜や果物を扱う天満である。天満青物市場は幕府の許可を得た公式の市場であり、大正時代まで栄えたが、昭和になって大阪市中央卸売市場が出来たことから、廃止となった。

 天神橋筋商店街は天満青物市場を中心に発展して来たのだが、青物市場が廃止になっても商店街は残った。現在でも600店舗がひしめくアーケード付き商店街であり、けっこう賑わっている。

 全国的に見ると、昔ながらの商店街は凋落の一途をたどっており、シャッター通りと化した市中心部の商店街が、地方の衰退の象徴としてテレビや新聞・雑誌などに取り上げられるが、大阪に関して言えば、依然元気な商店街が多いように思う。もちろん、寂れた商店街があるのは事実だし、この天神橋筋商店街も3km全てが賑わっているわけではない。しかし、東京の商店街に比べると、まだまだ元気がある気がするのだ。

 同じことはデパートにも言えて、東京のデパートが寂れつつあるのと対象的に、大阪では大手デパート中心に商業集積が出来ていて人を集めている印象がある。キタやミナミの商業集積はそうした典型だし、これらの場所には広大な地下商店街も発達している。デパート、商店街、地下街などというと、昭和の時代の商業の中心であるかのようだが、大阪ではまだ健在で、世代的にも幅広く利用されているように見える。

 そう言えば、アーケード付きで3kmにわたる天神橋筋商店街は、ウォーキングにちょうどいいという話を大阪の人がしていた。天気を気にせず歩けるし、喉が渇いてもお腹が空いても、幾らでも休憩できる場所があって便利だというのだ。こうして歩いてみると確かにその通りで、もう少し近くにあったら私も利用するのになぁ、と少々惜しい気がしたのも事実である。

 ここをずっと歩いていると時間がどんどん過ぎてしまうので、また元の曽根崎通に戻って更に西に進む。次に目指すは、露天神社(つゆのてんじんじゃ)である。天神橋筋商店街から1km程の道のりだが、車がビュンビュン通り過ぎる傍らを歩くのはあまり気持ちの良いものではない。阪神高速の下を潜り、梅田新道との交差点を目指す。まぁこの界隈、散歩のために歩いているのは私くらいではないかと思う。

 ようやく着いた交差点は交通量の激しい場所で、歩行者は歩道橋を渡るしかない。曽根崎通と交差する梅田新道と御堂筋が作る三角形のエリアの真ん中に露天神社はある。まさに、こんなところに神社があるの、といった感じの場所である。ビル街のど真ん中にあるエアポケットのような場所だった。





 この神社の原型は、この場所がまだ川であった頃から存在していたようだ。境内にある神社の縁起を読むと、昔ここに曽根洲という小島があり、曽弥神という神様を祀る祠があったらしい。やがて、河口に土砂が堆積し続け、南北朝の時代には曽根洲は陸地とつながって、曽根崎と呼ばれるようになる。今通って来た曽根崎通など、この辺りの地名に使われている曽根崎は、この頃に付いた名前のようだ。

 曽根崎が陸地として形成されると移住して来る人が増えて、冒頭紹介したように、曽根崎村が出来る。この時、村人たちは、昔からあった祠を自分たちの守護神である産土神(うぶすながみ)とした。こうして露天神社が生まれたというわけである。

 ところで、この神社がどうして露天神社という名になったのかについては、先ほどの大阪天満宮の話に出て来た菅原道真が関わっている。

 菅原道真が大宰府に左遷されたおり、大阪天満宮の場所にあった大将軍社に参ったという話をしたが、その後、この露天神社辺りを通っている。その時、露に濡れた道を歩きながら歌を詠む。

  露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば

 この歌にちなんで露天神社と呼ばれるようになったというのが、有力説らしい。でもその前は、どういう名前の神社だったんだろうか。

 さて、この神社には、菅原道真以上にゆかりの人物がいる。元禄文化を代表する人形浄瑠璃・歌舞伎の作者である近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が書いた曽根崎心中(そねざきしんじゅう)のモデルとなったお初(おはつ)と徳兵衛(とくべい)である。

 実際に起こった事件は、堂島新地にあった天満屋の女郎おはつと、醤油業を営む平野屋の手代徳兵衛が、露天神社の森で心中したというものである。現世で夫婦になれない者同士が死んで後にあの世で結ばれるというストーリーが共感を集め、人形浄瑠璃、歌舞伎とも大ヒットとなる。これを契機として心中ものがブームとなり、近松門左衛門は傑作として名高い「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を発表している。

 心中ものの芝居に感化された人々が実際に心中事件を起こすようになり、ついに幕府が乗り出して心中ものの発表を禁止するとともに、心中を企てようとした者を厳しく罰するようになる。ただ、自由な恋愛がなかなか許されなかった当時の状況下で、心中は人々の心をつかみ、幕府が取締りをするようになってからも相次いだと伝えられている。

 この心中事件が近松門左衛門により有名になってから、露天神社は、心中のヒロインである女郎のお初の名前を取って、お初天神と呼ばれるようになる。今でも大阪の人はお初天神と普通に言っている。悲恋の主人公お初と徳兵衛が、学問の神様菅原道真に勝ったわけである。まぁ古今東西、恋に落ちて学問を投げ出した人はいても、学問にかぶれて恋を投げ捨てた人はいないからなぁ。

 露天神社の方でも、お初と徳兵衛にあやかって、最近は恋結びの神社として売り出しているようだ。そのせいか、ビルの谷間の神社なのに結構賑わっていて、若いカップルも何組かいた。やはり大阪だけあって商魂たくましいなぁと感心する。

 女郎のお初がいたのは堂島新地にあった天満屋だが、堂島新地というのは川に面したエリアで、その対岸は曽根崎新地であった。この両新地の間を流れていた川は、中之島の北側を流れる今の堂島川ではなく、その支流である曽根崎川という川である。今は埋め立てられてなくなっているが、かつてあった曽根崎川の跡を訪ねることにする。





 ここを流れていた曽根崎川と、現在の堂島川(昔の淀川)との間には砂洲があり、これを堂島と呼んでいたらしい。江戸時代初期に土木・建築で財を成した豪商の河村瑞賢(かわむらずいけん)が河川改修に乗り出し、堂島を開発して堂島新地を作った。この地はやがて米の取引の中心地となり、商業地として大いに栄える。ここに集う商人たちをもてなすために堂島新地や対岸の曽根崎新地に飲食店などが増え、特に曽根崎新地は歓楽街として栄えるのである。

 お初がいた天満屋は、曽根崎川南岸の堂島新地の側にあったが、場所はもっと西で、現在で言えばJR大阪駅とJR福島駅の中間地点から南に降りて行った辺りである。曽根崎川は曽根崎心中にも登場し、お初と徳兵衛が二人で川沿いを歩く場面があるという。当時はこの川で蜆(しじみ)がよく獲れたようで、別名を蜆川(しじみがわ)とも言うらしい。

 この曽根崎川はその後長らくあったのだが、明治末期に大火でこの辺り一帯が焼けた際に埋立てが始まり、大正時代にはすっかり埋め立てられて姿を消したようだ。しかし、曽根崎新地の歓楽街だけはその後も残った。これが今のキタの盛り場である北新地である。

 上の写真の場所も、北新地の歓楽街の中をウロウロしながら探したもので、案内板がないからかなり迷った。社用族でもなければ夜にこの辺りに来ることはないため、そもそも土地勘がない。でも、昼間ながらじっくり歩いて、こんなところなのかと勉強になった。江戸時代は米相場で稼ぐ豪商がこの地に通ったのだろうが、今では大阪で稼いでいる富裕層の人たちが夜な夜な利用する高級クラブ街である。まぁ心中しようとする人は今はいないだろう。

 さて、次はかつての堂島新地、今の堂島に入って行き、南に抜けて堂島川まで出る。ちょうど、堂島川べりに出たところにこんなモニュメントがある。





 江戸時代に堂島にあった米市場を記念する石碑とモニュメントである。

 堂島の米市場のことは、天神橋筋商店街のところでも少し述べた。当時の大坂にあった三大市場の一つで、天満の青物市場や雑喉場の魚市場と並ぶ存在だった。正式には堂島米会所(どうじまこめかいしょ)と言うらしい。

 元々ここには各藩の蔵屋敷が並んでいた。ここが選ばれた理由は、米を運んで来るのに水運が発達していて便利だったからだが、そのための河川整備をしたのは徳川幕府である。冬の陣、夏の陣で荒れ果てた大坂を復興するため、河川や水路を整備して橋を架け、八百八橋(はっぴゃくやばし)の通称で知られる水の都として、その後の経済的繁栄の基礎を作ったことが大きい。

 最初に蔵屋敷を造ったのは加賀藩らしいが、地の利に着目してその後続々と各藩が蔵屋敷を建てた。この蔵屋敷に集まる米を売買する商人が登場し、堂島の米市場は発展する。こうした経済的繁栄が、大坂や京などの上方を中心に花開いた元禄文化のバックボーンにあるわけだ。それにしても、どうして江戸に幕府を置く徳川が、敵地だった大坂を整備して経済的な繁栄をもたらそうとしたのか。

 最終的に大坂夏の陣で豊臣方が滅びた際、徳川方の雑兵が城下の民衆に襲いかかり殺戮、略奪、乱暴を繰り返し、奴隷として捕らえられた者も多数いた。大坂の人々からすれば、徳川は憎んでも余りある存在だったに違いない。この荒れ果てた状態で放置しておいて、反徳川の拠点になると困るということで、罪滅ぼしも兼ねて人気取り政策に出たのではないか。政治は江戸だが、経済は大坂という区分けをして、大坂の城下にも富をもたらし民衆に再び豊かな暮らしを約束する。こうした方針が、以後数百年にわたり大阪に経済の中心という地位を築かせることになる。今では東京一極集中が批判されるが、東京が経済の中心になったのは、さして古い話ではない。

 さて、堂島米会所に話を戻すが、この米市場がすごかったのは、世界で初めて先物取引を始めたことである。

 米は秋に収穫されて蔵に運び込まれるが、現物の売買だけだと季節が限定される。収穫期でない時期にも取引が出来るようにと、商人の間で編み出されたのが先物取引で、将来の米の取引を予め約定し、現実の取引との価格差を差金として決済するやり方が導入される。当時の取引方法は、現在の先物取引とほぼ同じで、商人は証拠金を積んで先物取引をし、決済時点で差金決済をした。今では商品市場に限らず、金融市場でも一般的に行われる先物取引を世界で最初に行ったのが大坂商人だったという点は、さすがに商人の町、天下の台所と感心することしきりである。

 ただ蔵屋敷は、明治になって政治体制が変わり廃止されてしまう。これに伴い堂島米会所も一旦機能を停止する。しかし、明治の初めには商品取引所として堂島米会所が復活し、昭和初期まで続く。ところが、米の配給制導入と共に再び廃止となり、長い歴史を閉じることになる。

 蔵屋敷のなくなった堂島はその後ビジネス街として再出発し、今では高層ビルが立ち並び大企業が集まる近代的なオフィス街へと変貌を遂げている。

 さて、この後は大江橋を渡って中之島に移る。中之島の名前は、大阪に来たことのない人でも一度は耳にしたことがあるだろう。昔の淀川の真ん中にある巨大な中洲である。今では、中之島の北側を流れる川を堂島川、南側を流れる川を土佐堀川と呼んでいる。元をたどれば、最初に電車を降りた後渡った大川である。

 ここは商業ビルだけでなく、日本銀行大阪支店、中之島図書館や中央公会堂(中之島公会堂)など、威風堂々とした歴史的建物が建っているが、昔は大阪大学もここにあった。私が子供時代に大阪に遊びに来ていた頃は、まだ医学部と附属病院があったが、今では全て移転してしまって、大規模な再開発がなされたようだ。

 中之島のシンボルと言えば中央公会堂、いわゆる中之島公会堂だろう。





 この公会堂は、公立ではなく一人の富豪が建てたものである。明治から大正にかけて活躍し、北浜の風雲児と異名をとった相場師の岩本栄之助(いわもとえいのすけ)がその人で、米国視察の折に富豪たちが寄付で社会インフラを整備したり、慈善事業を助けている姿を見て、巨額の寄付をしてここに公会堂を作る計画を立てる。彼は訪米以前にも、子供の教育のために私塾を作ったりしており、株式の世界に身を投じながら、公益にも深い関心を有していた人であったようだ。今の日本のお金持ちは守銭奴が多く、こんなスケールの大きなことをする人がほとんどいないのは寂しい限りである。

 ただ、運命とは皮肉なもので、岩本栄之助は第一次大戦の株式相場を見誤って破綻し、中之島公会堂の完成を見ることなく自殺している。

 現在の中之島公会堂は、一般人でも申し込めば借りられるそうで、色々な催し物が行われているらしい。ここの半地下にレストランがあって入ったことがあるが、なかなか趣のある内装で雰囲気がいい。私は別のものを食べたのだが、オムライスがおいしいと大阪の人たちは言っていた。

 私が訪れたのは日曜日だったが、中之島公会堂周辺が歩行者天国になっていて、散歩にはもってこいの環境だった。元々中之島は周囲を川に囲まれた典型的リバーサイドで、開放的で気持ちのいい場所だ。幾つも架かっている歴史のある橋を眺めながら、川沿いをゆっくりと散歩させてもらった。ここに至るまで、曽根崎通を中心に、たくさんの車が行き交う騒がしい場所を歩いて来ただけに、静けさがひときわ心地良い。

 再開発されたせいか、中之島公会堂周辺は、歩行者専用スペースが広く取られており、オープンカフェなどもあって、開放感のあるエリアである。中之島に限らず、対岸のビジネス街にもウォーターフロントの飲食店が増え、川沿いのオープンスペースで食事をしたり、お茶を飲んだり出来るようになっている。おしゃれな感じで、こういった場所は、なかなか東京にはない。

 大江橋を渡って中之島に入り、日銀大阪支店前から市役所、中之島図書館、中之島公会堂と通り、難波橋を渡って南に進み、北浜に出る。この北浜の交差点には、「大阪俵物会所跡(おおさかたわらものかいしょあと)」の石碑が立っている。





 これはいったい何かということになるが、なかなか面白いので少し説明しておく。

 まず、俵物が何かということになるが、これはふかのヒレ、干しなまこ、干しあわびなどの海産物である。「あれ、海産物の市場って雑喉場じゃないの?」という声が聞こえて来そうだが、これらの海産物は別格の扱いだったのである。何故か? これは江戸時代の海外貿易と関係している。

 鎖国をしていた江戸時代にも、限られた港で海外と貿易が行われていたことはご存知だろうが、普通は、海外との貿易決済に金銀が用いられていた。しかし、珍しい輸入品を買っていると日本からドンドン金銀が海外に流出する。これでは困るので、海外で需要のあるふかのヒレ、干しなまこ、干しあわびなどを金銀の代わりに用いて代金決済をしていたのである。そのために、各地からこうした海産物を集めて取引する会所が作られたというわけだ。さすが天下の台所という気がする。

 さて、この後は川沿いから一本南に入った通りを西に進む。この一帯はビジネス街なので、幹線道路を一本裏に入ると、日曜日は静かなものである。ほとんど車も通らない道を暫く歩くと、次なる目標地が見えて来る。ビル街の中に昔風の日本家屋。かつての適塾である。





 適塾の話は、最初の方で訪れた緒方洪庵の墓所のところでも少し説明した。緒方洪庵が蘭学を教えた私塾で、江戸時代の後期に作られている。門下生は600名とも言われているが、幕末から明治にかけて日本の近代化に寄与した逸材がここから巣立っている。

 緒方洪庵は医者だが、同じ医者ということでは、日本で初めて医学博士となり東京帝国大学初代医学部綜理を務めた池田謙斎(いけだけんさい)や、陸軍軍医総監の石坂 惟寛(いしざかいかん)、ちょっと変わったところでは、手塚治虫の曾祖父である医者の手塚良仙(てづかりょうせん)もここの門下生である。私は読破したことはないのだが、手塚作品で「陽だまりの樹」というのがあり、適塾と手塚良仙を軸に物語が語られているようだ。

 他には、医者ではないが科学者としては、世界で初めてアドレナリンを発見した高峰譲吉(たかみねじょうきち)が出ている。

 また、医者ながら日本陸軍の創始者でもある大村益次郎(おおむらますじろう)や、慶応義塾の創始者福澤諭吉(ふくざわゆきち)、幕末に福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の側近として活躍し安政の大獄で処刑された橋本左内(はしもとさない)らも門下生である。福澤諭吉は東京の人という印象があるが、実は生まれもこの近くで、JR福島駅から南に降りて行った堂島川近くに生家があった。

 他にも挙げればきりがないくらい有名人を輩出しているが、同時にこの適塾が元になって大阪帝国大学が出来ている。

 緒方洪庵の息子緒方惟準(おがたこれよし)や適塾門下生の協力で大阪に仮病院と仮医学校が出来るが、これが核となって大阪帝国大学が生まれる。誕生当時の大阪帝大は医学と科学を中心にした理系の大学だったようだ。そんな縁で、この適塾の建物も、管理は大阪大学が行っている。

 さて、適塾を後にしてそのまま西に道をたどり、御堂筋に出る。すぐ先に地下鉄の淀屋橋の駅があるので、このまま地下鉄で帰るつもりだが、最後に、淀屋橋のたもとの土佐堀川沿いに足を延ばした。ここが、地名にもなっている豪商淀屋(よどや)の屋敷跡である。





 淀屋は元々土木工事や材木を取り扱う商人で、川の中州に過ぎなかった中之島を開拓したのも淀屋である。やがて商業にも手を出し、上の方でも紹介した、魚を取り扱う雑喉場や野菜や果物を扱う青物市場を自ら始め、堂島米会所の前身となる米の取扱いを、蔵屋敷の建ち並ぶ中之島で主導した。つまり、当時の米、農作物、魚の三大市場を実質的に支配していたわけである。

 とりわけ米取引では莫大な財を成したようで、川を渡って中之島に行くために私財を投じて淀屋が架けた橋が淀屋橋である。

 栄華を極めた大坂きっての豪商淀屋だが、五代目の淀屋辰五郎(よどやたつごろう)の時代に、町人の分際を超えた豪奢な暮らしを幕府にとがめられ、全財産を没収されたうえ、上方から所払いに遭って没落した。元禄時代の大坂の繁栄を支えた豪商は、かくして一瞬にして消え去ったのである。

 数万平方メートルにも及んだという淀屋の屋敷跡には寂しく記念碑が立つだけで、立ち止まって眺める人すらいない。しかし、彼のような豪商たちが天下の台所を支え、その経済的繁栄の下に元禄文化が育った。商都大阪の基礎は、大坂の陣の荒廃の中から立ち上がった商魂たくましい商人たちによって作られていったのである。

 さて、そろそろ帰ろうかと地下鉄の駅に向かった。この日の歩行距離は1万4000歩弱。交通量の激しい幹線道路を歩くことが多かった分、あまりリフレッシュは出来なかった。やはり散歩は静かな田舎道に限ると実感した一日だった。







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