パソコン絵画徒然草

== 関西徒然訪問記 ==






■大阪城あれこれ





 大阪市内でウォーキングやジョギングに恰好な場所として多くの人が候補に挙げるのは、大阪城公園ではなかろうか。市内に大きな公園の少ない大阪市で、屈指の広さを誇る。もちろん、郊外まで出れば万博記念公園など広域の緑地施設があるが、市内の中心部でとなると、ここ一択になると思う。対抗馬は淀川や大川など川沿いの遊歩道ぐらいだろうか。

 私も大阪城公園には散策方々何度か行ったことがある。城あり、濠あり、梅あり、桜あり、ついでに芝生広場もありで何でも揃っている。ジョギングするにも散策するにも、そして家族でお弁当を広げるにも、最適の場所である。まだ薄暗い早朝から散歩や運動する人で賑わうと聞くが、それも不思議ではない環境である。

 大阪城は、大阪のシンボルであり市民の憩いの場であると同時に、東京、大阪、京都と回る海外旅行者にとって、日本の城らしい外観を持つ唯一の存在でもある。私が大阪に住んでいた当時、朝の通勤時間帯から既にたくさんの観光バスが大阪城周辺に並んでいた。多くは中国からの旅行者だと思うが、園内を歩くと各国からたくさんの人が観光に来ているのが分かる。

 歴史的に見ても、大阪の街は、この城のある場所を中心に発展し、時に破壊を受け、そしてまた再生を果たして来た。今回は、そんな大阪市の中心として歴史を歩み続けた大阪城とその周辺を紹介しておきたいと思う。なお、大阪城は歴史的には大坂城と書くのが正しいが、紛らわしいので以下全て、現在使われている大阪城の表記で統一して書くことにするのでご了解願いたい。

 大阪城公園は大阪城の敷地を公園にしたもので、上町台地(うえまちだいち)という大阪市内を南北に延びる丘陵地帯の北端にある。遠い昔は、上町台地は南から北に向かって海に突き出るように延びる細長い岬のような存在で、今の大阪市の大半は海だったようだ。そう聞けば、海の神を祀る住吉大社(すみよしたいしゃ)が上町台地の南端にあるのもうなずける。現在の大阪市内の大半は、淀川などの川が運んできた土砂が河口に堆積して出来た陸地だとされている。

 つまり、大阪城は昔海に突き出ていた岬の先端に位置し、南を除けば三方を海で囲まれていた地形に陣取っていることになる。もちろん、城が建った時代には土砂の堆積が進み陸地化していただろうが、北と東西方向は川の河口で地盤が弱い。そして、城のすぐ北には、旧淀川(現在の大川(おおかわ)、堂島川(どうじまがわ)、安治川(あじがわ))が流れていたから、大雨や満潮時には足元がぬかるむような土地だったと言われている。守りの堅い場所であったことは事実で、大阪城が出来る前にここにあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)を織田信長が10年にわたり攻めあぐねたのは有名な話である。

 さて、大阪城の話に入る前に、この石山本願寺の話をしておこう。ここに元々あった石山本願寺は浄土真宗の寺だが、戦国時代においてはお寺も武装することが珍しくなく、石山本願寺も堀をめぐらし城に近い機能を持った要塞だった。上に述べたように地形上有利な場所にあるため、もっぱら地盤のしっかりしていた南側を守れば良かったのである。

 また、各地において浄土真宗の信者自体も領主から離れて自治的・自警的な集団を形成することが多かったようで、各地で一揆を起こし領主を苦しめた。今では仏教と言えば平和なイメージだが、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)や奈良の興福寺(こうふくじ)が僧兵を従えてたびたび朝廷に強訴に及び南都北嶺(なんとほくれい)といって恐れられたことからも分かるように、お寺や信者集団も当時は武装していた。時として大名と組んで武力を行使するケースもあったようで、織田信長は武器を持たない無辜の民をなで斬りにしたわけではないのだ。

 織田信長と石山本願寺との武力衝突は、一般に石山合戦(いしやまがっせん)と呼ばれている。この時石山本願寺を率いていたのは本願寺第11世宗主の顕如(けんにょ)である。織田信長が一方的に攻めたというより、顕如自身が織田信長を仏敵と見なして、他の大名と共に反織田信長連合の一角を担っていたから、衝突は必定だったのだろう。

 石山本願寺の敷地が、現在の大阪城とどの程度重なっていたのかは定かではない。その後の城の造営のため、大規模な土木工事が行われ、基礎部分も含めて遺構がほとんど残っていないと聞く。その中で、当時を偲ぶものとして大阪城公園内にあるのが、蓮如上人袈裟懸の松(れんにょしょうにんけさがけのまつ)である。





 松といっても今に残っているのは根の跡だけである。幾多の戦乱があったわけだから安土桃山時代の松がそのまま残っている方が不思議だ。また、袈裟を懸けたのは、織田信長と戦った顕如ではなく、第8世宗主の蓮如(れんにょ)である。この根だけが残る松の枝に、本当に蓮如が袈裟を懸けたのかは定かではないが、袈裟を懸けて祈らなければならなかった浄土真宗本願寺派の動向の方にポイントがあるのである。

 織田信長を悩ませ続けた顕如と浄土真宗信者(門徒)だが、その3代前の蓮如の時代には、浄土真宗本願寺派は衰退の一途をたどっていたのである。

 元々浄土真宗にせよ、その元になった浄土宗にせよ、当時は新興宗教に過ぎず、既存の仏教とは教えも行いも大きく違い、反発を食らっていた。既存仏教界の文句の原因は数々あったが、修行しなくともお経だけあげていれば極楽浄土に行けるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の考えはいたく気に障ったらしい。当時の仏教界の頂点にいた比叡山延暦寺と奈良の興福寺、いわゆる南都北嶺から朝廷に対し、その教えを止めさせろという抗議の奏状が届いたほどである。

 一新興勢力に対し、南都北嶺のような仏教界の権威がわざわざ朝廷に奏状まで出して圧力をかけたのは、そのお手軽さから当時専修念仏を信奉する信者が燎原の火のように拡大していたためであろう。最初は悠然と構えていた朝廷も、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が寵愛していた側近女性(女房)の松虫(まつむし)・鈴虫(すずむし)の姉妹が専修念仏の教えに傾倒して出家するに及び、ついに弾圧に乗り出す。僧籍を剥奪したうえで中心人物を死罪・流罪に処すが、このとき浄土宗開祖の法然(ほうねん)と、その弟子で後の浄土真宗の祖となる親鸞(しんらん)は、それぞれ別の地へ流罪となった。

 親鸞が流罪となったのは現在の新潟県であるが、その折に東国で教えを広めたため、後の浄土真宗の拠点の一つが東国となるのである。その後二百年以上を経て蓮如の時代となるわけだが、浄土真宗の正統な継承寺院として京都に置かれた本願寺は、独立した寺を打ち立てたものの、実際には天台宗の青蓮院(しょうれんいん)の末寺であり、その上には比叡山延暦寺がいて、本願寺の手足をがんじがらめに縛っていた。一方で、京都仏教界の力が弱い東国では、親鸞の弟子たちが着々と信仰の基礎を築き、西の拠点として京都に佛光寺(ぶっこうじ)を開いていた。当時の寺勢は本願寺より佛光寺の方が上で、浄土真宗は事実上、本願寺派と佛光寺派に分かれていたのである。

 第8世宗主に就任した蓮如は、まず比叡山延暦寺の束縛から逃れようと上納金の支払いを拒絶する。これに対して延暦寺は本願寺打壊しに出て、蓮如は現在の滋賀県に逃れることになる。自身の隠居を条件に延暦寺と和解した蓮如は、北陸への旅に出て布教に務める。それから十年の時を経て、京都の山科に再び本願寺を再興するのである。これにより山科に人が集まり活気を呈していく。このように寺を中心に信者や商工業者が集まって出来た町を寺内町(じないちょう)というが、今の山科の賑わいの基礎を作ったのは、この山科本願寺のようだ。蓮如の地道な布教により、浄土真宗本願寺派の信徒は確実に勢力を増していたのである。

 その後蓮如は余生を送るために大坂の石山の地に石山御坊(いしやまごぼう)を建ててそこに移り住む。これが後の石山本願寺である。幾多の困難を経た後に、この地の松に袈裟を懸けて自派の隆盛を願った蓮如の気持ちは、彼の生涯をたどってみるとよく分かる。ただ、そのことが分かってこの場所を訪れている人がいるかというと、ほとんどいないのではないか(笑)。

 では、石山本願寺はどこにあったかということになると、上にも記したように不明のままである。おそらく、大阪城公園内のどこかということだろう。ちなみに、蓮如上人袈裟懸の松から西に300mほど歩くと、石山本願寺推定地の石碑が立っている。





 ここにあったと確認が取れているわけではなく、おそらくこの近くなんだろうなぁという程度の推定地である。ただ、山科本願寺と同様、この石山本願寺にも寺内町が形成される。これが、現在の大阪市の起こりの一つであるのは確かだろう。大阪の旧名である大坂も、歴史に初めて登場するのは蓮如が信者に当てた手紙の中である。場所としては石山本願寺周辺を指していた。石山本願寺が出来る以前は、もっと南にあった四天王寺(してんのうじ)や住吉大社(すみよしたいしゃ)周辺の方が多くの信仰を集めて賑わっていたのではないか。

 さて、その石山本願寺だが、弾圧され続けていた浄土真宗本願寺派が武闘集団と化していくのはいつ頃からなのだろうか。蓮如が布教を行った北陸の地で、有名な加賀一向一揆(かがいっこういっき)が、蓮如在命中に起きている。元々加賀では、応仁の乱の際に富樫政親(とがしまさちか)・幸千代(こうちよ)兄弟が東軍と西軍に分かれて戦い、跡目を巡って紛糾していた。この時兄の政親は、一旦弟の幸千代に敗れて加賀を追われるのだが、蓮如に助力を請うて本願寺派信徒を動員し、今度は幸千代を加賀から追い出すことに成功する。しかし、この時に本願寺派信徒の恐ろしさを知った政親は、守護に就いて後、弾圧に出る。これに反発した本願寺派信徒と、政親に不満を抱いていた地元勢力とが組んで一揆を起こし、政親は高尾城で包囲され自刃に追い込まれる。この後百年近く、加賀は本願寺派信徒によって支配され続けることになるのである。

 比叡山延暦寺に首根っこを押さえられ衰退の一途をたどっていた浄土真宗本願寺派が何故蓮如の登場からわずかのうちにこんな挙動に出られたのかといぶかる向きもあろうが、南都北嶺の存在から分かるように、当時の仏教勢力は政治に口を出すし、武力も行使する立派な権力者だったわけである。逆に言えば、富を蓄え武力を持ってこそ、ようやく一人前の宗教勢力と言えた。全てはそんな時代の物語である。

 浄土真宗本願寺派が本格的な武闘集団になっていくのは、蓮如の後継である第9世宗主の実如(じつにょ)の時代からではなかろうか。一向一揆のような信徒集団の武力行使ではなく、本願寺として戦国時代の武士同士の戦に参戦したのは実如が初めてだからである。時代も、室町幕府の権威が失墜し戦国大名が割拠する戦国時代に突入していた。こうした中で、蓮如が再興した山科の本願寺も、本願寺派に脅威を感じていた戦国大名細川晴元(ほそかわはるもと)と六角定頼(ろっかくさだより)、そして日蓮宗の信徒らの連合軍に攻められ焼け落ちるのである。これにより本願寺派の本拠は、蓮如が建てた大坂の石山御坊に移り、石山本願寺が誕生する。実如の後を継いだ第10世宗主の証如(しょうにょ)の時代のことである。

 証如は、皇族・公家のほか武家勢力とも親交を温めて政治力を増すと共に、城郭造営の専門家を集めて石山本願寺を要塞化していく。石山本願寺周辺に寺内町が生まれて栄えたと書いたが、この寺内町も濠や土塁で囲まれ、防御を施していた。多くの職人や商人がそこで暮らし、2000軒を超える家々が軒を連ね「六町の構」と呼ばれていたという。当時浄土真宗本願寺派は、その数において宗教界最大の勢力を有する武闘集団になっていたのである。本願寺派の実力を恐れた細川晴元は、山科本願寺を焼討ちにした後、石山本願寺にも攻め入っているが、全く歯が立たなかった。これを見た戦国大名たちは、次々に石山本願寺と同盟を結んだと言われている。

 石山本願寺が出来てから30年近く経った頃に、次期将軍候補の足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛して来たのが織田信長である。義昭は、室町幕府13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の弟である。その血筋と信長の武力が組み合わさった以上、将軍就任は確実となった。

 信長は、まず石山本願寺に対して京都御所再興のための金銭を要求した。当時の宗主顕如はこれを払う。信長はその後、大坂石山から本願寺が立ち退くよう要求する。もちろん顕如はこれに応じず、全国から信徒を参集させて戦支度を始める。石山合戦の始まりである。

 信長にしてみれば、戦国大名をしのぐ武力・財力と政治力を持つ石山本願寺が、河川交通の要所である淀川流域に難攻不落の要塞を築いていたのでは、天下統一の道が開けない。しかも、本願寺派信徒は他の地域にも根を張り、一向一揆を起こしては地元の武家勢力を翻弄する。武士はしょせん権力欲と恩賞目当てだが、本願寺派信徒は信仰という強力な精神的絆で結束している。これは絶対に滅ぼさないとダメだと心に強く思ったに違いない。





 上の写真は、蓮如上人袈裟懸の松の隣にある石柱で、蓮如の筆跡による「南無阿弥陀仏」の6文字が彫られている。冒頭の「南無」は「帰依する」の意味で、この「阿弥陀仏に帰依する」という6文字を唱えるだけで極楽往生が約束されるというのが浄土真宗本願寺派の教義の中心である。極楽往生を約束された信徒たちは、顕如が仏敵であると名指しした信長相手に死に物狂いで戦った。現代で言えば、イスラム教過激派の聖戦と変わりなかったのかもしれない。

 戦国きっての戦上手の信長も、石山本願寺には手を焼く。緒戦は、石山本願寺の近くで起こった三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と織田信長軍との戦いである。戦いの口火を切ったのは三好三人衆側であるが、増援を得た織田軍に次第に追い込まれ劣勢に立つ。そこにいきなり参戦してきたのが石山本願寺の信徒たちである。このときの戦いは決着がつかないまま終わったが、これ以降、石山本願寺の対織田信長攻略は激しさを増すことになる。

 三好三人衆と織田軍との戦いへの参戦と同時に、現在の三重県で長島一向一揆(ながしまいっこういっき)が起きている。緒戦で長島城を落とした一揆軍は尾張領内に攻め入り、信長の弟・織田信興(おだのぶおき)の居城である古木江城(こきえじょう)を攻撃し、信興を自害に追い込んだ。信長は、この長島一向一揆を鎮圧するために三度にわたる攻撃を仕掛け、足掛け4年を費やしている。

 信長は石山本願寺とだけ戦っていたわけではなく、反信長連合の強力な一角である北近江の戦国大名浅井長政(あざいながまさ)や越前の戦国大名朝倉義景(あさくらよしかげ)とも戦い、苦労の末これを滅ぼしている。ところが、その後越前で越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)が起きて、事実上本願寺派信徒に一国を統治される事態に陥った。信長はこれを鎮圧するため、柴田勝家(しばたかついえ)、羽柴秀吉(はしば ひでよし)、明智光秀(あけちみつひで)などオールスターの武将に3万の兵をつけて送り出す羽目になる。

 石山本願寺側の指揮官である顕如は、本陣である石山本願寺で信徒と共に籠城を決め込んでいたが、信長軍による猛攻にもよく耐え、結局武力で落城させられることはなかった。この間の10年は、いつも戦い続けていたわけでなく、ある時は信長側から、またある時は顕如側から停戦のための和議が申し入れられ、小康状態を保っていた時期もあった。

 また、顕如と石山本願寺は孤独のうちに信長と戦っていたわけではなく、アンチ信長の諸大名とも通じていた。そもそも専横的な信長に反感を抱いた当時の将軍足利義昭と気脈を通じていたし、三好三人衆との戦いで石山本願寺参戦後に織田軍の背後で動き出した北近江の浅井長政や越前の朝倉義景とも連絡を取っていたはずである。更に、甲斐の戦国大名武田信玄(たけだしんげん)や西国で力を増していた毛利輝元(もうりてるもと)など、遠く離れた地にも味方を持っていた。とりわけ、籠城戦を戦う石山本願寺に水路で補給を行った毛利水軍の活躍は、何年か前に本屋大賞に輝いた「村上海賊の娘」にも詳しく描かれている。

 しかし、この村上海賊を主力とした無敵の毛利水軍が、織田軍の奇策で破れる辺りから形勢は石山本願寺に不利になっていく。織田側は、火薬を使った毛利水軍の攻撃をかわすため、鉄の装甲を持つ船を造るという奇策に出る。そして、この船に大砲を据えて、毛利軍の指揮船を破壊していくという前代未聞の戦法に出て毛利水軍を撃破する。

 これにより事実上命運が尽きた顕如は朝廷を通じて和睦の道を探り、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命により和睦が成って、顕如は石山本願寺を退去することになる。顕如は石山本願寺を長男の教如(きょうにょ)に託すが、教如は和睦の趣旨に反して強硬派幹部と共に明け渡しを拒否する。数ヵ月後、説得に応じて教如は石山本願寺明け渡しに応じるが、直後に失火し石山本願寺と寺内町は灰燼に帰した。原因は不明であるが、最初の大坂の町はこれにより消滅したのである。

 教如の行動は、父である顕如が進めた和睦をないがしろにするものであったため、顕如は教如と親子の縁を切り、改めて三男の准如(じゅんにょ)に跡を継がせる。しかし、本能寺の変で信長が滅びると、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から顕如に対して教如を許してはどうかとの提案があり、顕如は受け入れることにする。この一連の経緯が後に本願寺の分裂を生むのである。

 豊臣の時代になって顕如が亡くなると、復縁かなった長男の教如が一旦その跡を継ぐが、顕如の妻の働きかけで秀吉より教如に対し、弟の准如に跡を譲るよう命が下る。これに従って事実上引退をすることになった教如だが、その後も大坂に拠点を築き、以前と同じように宗主として振舞った。このため本願寺は、長男の教如を中心とするグループと三男の准如を中心とするグループに分かれてしまうのである。

 やがて秀吉が亡くなった後、徳川家康が寄進をした京都の土地に長男の教如が寺院を設立する。これが今の東本願寺であり、三男の准如が後を継いだ本来の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。まぁ秀吉にせよ家康にせよ、敵に回すと厄介な本願寺派勢力が分裂してくれるのは好都合というものである。間違っても両者を仲直りさせようなんて思っていなかったはずである。

 さて、石山本願寺と寺内町が灰燼に帰したところで、いよいよ大阪城である。ここまでのアプローチがちと長過ぎたが、石山本願寺の攻防の歴史を知ると、何故秀吉がここに城を建てたのかが分かろうというものである。自分の師であり戦いの天才であった信長が、10年間攻めあぐねて結局武力では屈服させられなかった経緯を脇で見て来ている。しかもそれが、交通の要所に存在している。ここを押さえないでどうするということだろう。





 ただ、石山本願寺がなくなってから秀吉が大阪城を築くまでには紆余曲折がある。信長は、石山本願寺の焼け跡を丹羽長秀(にわながひで)に管理させる。当時長秀は、戦績では劣るものの、柴田勝家と並ぶ織田家の重臣である。その後、四国で勢力を延ばしていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と戦うために、信長の三男である織田信孝(おだのぶたか)を総大将にした遠征軍が組まれた際、同じく家臣であった津田信澄(つだのぶすみ)が石山本願寺跡に陣を敷いたという記録があるようだ。

 ところが、本能寺の変が起こると、津田信澄は明智光秀の娘婿であったため、織田信孝、丹羽長秀らに討たれてしまう。石山本願寺跡をどう管理するかは、織田家の世継ぎを誰にするかを決める清洲会議(きよすかいぎ)において、織田家の所領をどう分割するかという議題の中で決められることになった。この時、石山本願寺跡は、大坂・尼崎・兵庫の12万石を領有することになった池田恒興(いけだつねおき)の手に渡る。しかし、その翌年、恒興は美濃国13万石を拝領することになり大垣城主となる。これにより、石山本願寺跡地は秀吉のものとなるのである。

 ご存知のように、清洲会議では、信長の三男信孝を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる幼児三法師(さんぼうし)を擁立する秀吉との対立が起こり、秀吉が勝っている。それまで織田家臣団の実力者であった柴田勝家は主導権を失い、秀吉が頭角を現すのである。池田恒興が突然美濃を拝領することになり大坂を手放すことになったのは、石山本願寺跡地が欲しかった秀吉が、実力に物を言わせて工作をしたのではなかろうか。

 秀吉は、石山本願寺跡地を手に入れると、すぐに城の建設に取り掛かる。この時の大規模な土木工事により、石山本願寺と寺内町の遺構はほぼ完全に失われてしまうのである。お蔭で石山本願寺の正確な位置すら分からず、当時の記録を元に推測するしかないわけで、何とも残念な話である。

 さて、大阪城の建築だが、堀や門などの全体の配置を考案したのは、名軍師と謳われた黒田官兵衛(くろだかんべえ)である。本丸を造った後、長い年月をかけて二の丸、三の丸を建設し、堀と運河に囲まれた堅牢な城が完成する。秀吉の死後、徳川方と豊臣方が争った大坂冬の陣では、この堅牢な城に徳川方は苦しめられることになる。

 本丸に建てられた天守閣には、金の茶室があったと伝えられている。秀吉に仕えた千利休(せんのりきゅう)のわび茶とは対極をなす設えであり、利休切腹に至る両者の反目の原点になったのではないかとも言われているが、真相は定かではない。

 天守閣はふんだんに金の金具などの装飾が施され、それを引き立たせるために外観は黒塗りだったと伝えられるが、徳川方と豊臣方が争った大坂の陣で失われてしまい、現存しない。上の写真に掲げた大阪城は、昭和の時代に建てられた鉄筋コンクリート製である。

 実は、天守閣どころか今我々が見ている大阪城は、石垣も含めてほぼ全てが、秀吉が建てたものではない。全ては、大坂夏の陣で失われてしまったのである。大阪の人は太閤さんのお城と言っているが、残念ながら太閤さんのお城は、地中深く遺跡として眠っているというのが真相だ。

 しかし、当時の大阪城や城下町建設の名残を幾らか感じられる場所が、大阪市内にある。例えば、大阪城建設のための砂や砂利を蓄えていた砂場である。





 砂場があったのは大阪城から4kmほど西に行った辺りで、今で言うと長堀通りと四ツ橋筋との交差点から少し西に行った場所である。ここにある新町南公園内に元砂場だったことを記した石碑が立っているが、この場所が今でも話題に上るのは、砂場の脇で蕎麦屋が開業して繁盛したからである。正式の屋号は砂場ではないが、砂場という愛称の方が有名になったようで、徳川の時代になってこの蕎麦屋が江戸に進出した際も、通り名の砂場を名乗っている。今でも東京に老舗蕎麦屋として砂場は残っているが、残念ながら本家本元の大阪には、かつて砂場にあった蕎麦屋は現存しない。

 他では堺筋も秀吉ゆかりの場所になる。これは、海外との貿易を担う堺の商人の価値に目をつけた秀吉が、彼らを強制的に大阪城近くに住まわせた政策の名残らしい。秀吉は城下町にもこだわりを持っていたのである。現在も残る国内製薬メーカーの集積地道修町(どしょうまち)は、そうした堺の商人が開いた薬問屋街である。江戸時代に大阪に進出してきた三井呉服店が店を構えたのも堺筋であり、その後も大阪のメインストリートとして発展し続けた。

 現在の大阪のメインストリートは、衆目の一致するところ御堂筋(みどうすじ)だろうが、この大通りが出来たのは昭和の時代になってのことである。ただ、名前の由来となった南北の御堂は、秀吉の時代に出来ている。

 上に述べた石山本願寺明け渡しを巡り、顕如の長男教如が抵抗したため、父顕如により親子の縁を切られたという話を書いた。その後和解がなって一旦本願寺を教如が継ぐが、秀吉より弟の准如に本願寺宗主を譲り引退するよう命じられる。この後秀吉は引退勧告した教如に大阪城近くの土地を譲り、教如はそこに大谷本願寺を建てる。これが今の南御堂(みなみみどう)である。後に徳川家康から寄進された土地に東本願寺を建てるまで、この南御堂が東本願寺派の中心になっていたのである。

 ちなみに、江戸時代の俳人松尾芭蕉は、この南御堂の前にあった花屋仁左衛門の屋敷の離れで亡くなっている。今では道路が拡張されているので、南御堂の向かいの屋敷跡といっても御堂筋のど真ん中である。分離帯にポツンと芭蕉終焉の地の石碑が立つが、見ている人などいない。何とも寂しい話である。





 ではもう一つの御堂である北御堂(きたみどう)というのは何かと言うと、こちらは弟の准如が継いだ本願寺派の大坂における拠点である。石山本願寺が大坂からなくなってしまったので、在阪の信徒が集まれる場所を造ったのが北御堂の始まりとされている。

 まぁ出来た当初は南北の御堂で路線が違ったわけだから、二つをつなぐ御堂筋なんて道路はいらなかったのである。しかし、こんなところにも石山合戦の痕跡が残っているということだ。

 他に秀吉にちなむ大阪市内の場所としてよく挙がるのが、住吉大社参詣や堺訪問のおりに好んで立ち寄った有名な茶屋があったという天下茶屋(てんがちゃや)であるが、話がどんどん脇道にそれていくので、それはまた別の機会に紹介することにし、大阪城に話題を戻そう。

 そんな秀吉が建てた豪勢な大阪城が、石山本願寺同様灰燼に帰すことになったのは、大坂夏の陣における落城によるものである。冬と夏の二度にわたる大坂の陣、そしてその前哨戦とも言える関が原の戦いは、有名な出来事なので誰でも知っているだろう。大坂の陣の直前には、徳川家康の力は圧倒的になっており、大名は全て徳川方についていた。そこに方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起きる。豊臣が再興した京都の方広寺の鐘に、家康を呪う文字が隠し刻まれていると難癖をつけられた事件である。これによって戦いの口実を得た家康は大阪城攻略にかかる。

 当時の征夷大将軍は既に家康の息子徳川秀忠(とくがわひでただ)に世襲で渡っており、誰の目にも徳川家が堂々たる武家の中心であることは明らかだった。そのため、豊臣方が参集をかけても、どの大名も馳せ参じはしなかった。結局、豊臣方が集めたのは、関が原の戦いで石田三成(いしだみつなり)の西軍について処分された長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)や真田昌幸(さなだまさゆき)の息子信繁(のぶしげ)といった浪人、あるいは黒田長政(くろだながまさ)の元を出奔した後藤基次(ごとうもとつぐ)、キリシタン武将の明石全登(あかしたけのり)など反主流派メンバーである。

 結局は寄せ集め部隊だったが、真田幸村(さなだゆきむら)の別名で知られる知略家真田信繁や、黒田二十四騎に数えられ後藤又兵衛(ごとうまたべえ)として有名な後藤基次など、実力者がいたことは事実である。また、この時点でも豊臣方には豊富な富が蓄えられており、浪人を雇うにも武器を買うにも兵糧を調達するにも、困ることはなかった。

 ただ、彼らは積極的に打って出ることはせず、基本は大阪城での籠城戦を目指した。何故そうしたのかはよく分からないが、やはり織田信長を十年にわたって苦しめ、結局武力では屈しなかった石山本願寺の存在が脳裏に焼きついていたのではなかったか。更に大阪城は、名軍師黒田官兵衛が設計している。石山本願寺をパワーアップした防御力を持ち、幾らでも攻撃に耐えられるはずだと過信したのではなかろうか。

 事実、家康は大阪城の強固な守りに苦しんだ。とりわけ、最初に勃発した大坂冬の陣では、大阪城の唯一の攻め口である南側に真田幸村こと真田信繁が真田丸(さなだまる)という出城を築き、知略を尽くして徳川方に甚大な被害を及ぼしている。この真田丸があった場所は必ずしもはっきりしないが、現在の玉造(たまつくり)だと言われている。





 上の写真は玉造にある三光神社(さんこうじんじゃ)境内で、背後にある小高い丘は宰相山(さいしょうやま)、別名真田山(さなだやま)と呼ばれている。ここと大阪城とは地下道で結ばれていたという説もあり、その一部とされる穴の出入り口が写真左に写っている。JR環状線で言えば、大阪城公園の南端の森ノ宮駅と三光神社のある玉造駅とは隣同士であり、充分歩いて行ける距離にある。

 しかし、時代は石山本願寺の時とは違う。大阪城を包囲するのは大名の連合軍で、その数は20万人とも言われている。それがぐるりと周囲を取り囲み、途切れることなく大砲を撃ち砲弾を浴びせ続けた。結局11月下旬に始まった戦いは、年を越すことなく12月下旬に和議が結ばれることになった。もちろん、徳川方の実質的勝利である。

 家康は、天然の要塞大阪城に懲りて、徹底的に堀を埋めて城を丸裸にした。これにより籠城戦は出来なくなったわけである。

 翌年春になると大坂周辺に不穏な動きありとして、家康は豊臣方が抱える浪人勢を解雇するか大阪城を立ち退くかを求める。いずれも無理な話として、豊臣方は再度の戦いを決意する。しかし堀を埋められた以上、籠城戦は無理なため、進軍して来る徳川方を途中で迎撃する作戦に出る。大坂夏の陣の始まりである。

 奈良方面から大坂に向かう徳川勢を豊臣方が迎え撃つが、兵力のケタが違う徳川方が優位で、豊臣方はドンドン大坂方面に追い込まれていく。かくして、夏の陣の最大にして最後の決戦は現在の天王寺周辺で行われている。この時に歴史に名を残す壮絶な戦いをしたのが真田幸村で、敵陣の正面から突撃して切り崩し、背後の本陣にいた家康の近くまで達した。本陣は大混乱に陥り、逃げ回る家康はこのとき、切腹を覚悟したと伝えられる。

 しかし、真田幸村の奮闘もここまでで、数に勝る徳川軍が徐々に押し返す。豊臣方を打ち破った徳川勢は、丸裸となっている大阪城に突入する。すぐに火の手が上がり、大阪城は焼け落ちるのである。

 この時城にいた豊臣一族は淀(よど)と豊臣秀頼(とよとみひでより)、その正室千姫(せんひめ)だが、時の将軍徳川秀忠の娘である千姫は、家康の命により城を脱出することができた。残った淀と秀頼は櫓の中で自害をした。この周辺が二人の最期の地というところに弔いの碑が立っている。





 ここには何度か来たが、観光客の流れから少し離れた場所にあるせいか、いつもあまり人がいない。何となく寂しさを感じさせる場所である。ただ、いつ来ても花が手向けられている。いったい誰が世話をしているのだろうと不思議に思ったものだ。

 秀頼には二人の子供がいたが、息子の国松(くにまつ)は落城前に密かに城を出る。しかし、後日見つかって処刑されている。もう一人は娘で、千姫が母親ではなかったが、千姫の養女とし出家することを条件に助けられた。娘は、縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺(とうけいじ)に入り天秀尼(てんしゅうに)と名乗った。やがて30年後に死去し、豊臣の血脈は途絶えることになる。

 この大坂の陣では、秀吉が整備した大坂の街並みが合戦により壊滅的打撃を受けただけでなく、徳川方の雑兵が城下の民衆に襲いかかり殺戮、略奪、乱暴を繰り返し、奴隷として捕らえられた者も多数いた。こうして秀吉が造った大阪城と城下町は失われるのである。かくして二度目の大坂の町壊滅ということになる。

 さて、落城後の大阪城跡地は、一旦徳川一族の松平忠明(まつだいらただあきら)が管理することになるが、数年のうちに徳川幕府が直轄管理する天領となった。天領となった後、二代将軍の徳川秀忠によって城の再建が始まる。

 その際、大規模な土木工事が行われ、秀吉の建てた大阪城の基礎部分の上に盛り土がされた。このため、石垣さえも地中に埋まり、今見える大阪城には秀吉時代のものは何も残っていない。何とも寂しい話である。

 近代になって市内が再開発される中で、秀吉の建てた古い大阪城の石垣が出土した例がある。今でも我々が見られるものとしては、お堀端に建つドーンセンターの脇に当時の石垣が展示されている。これは秀吉時代の大阪城三の丸の石垣らしく、傍らの掲示板によれば地下2mから発掘されたという。





 現在の大阪城の石垣に比べると、小ぶりの自然石が積み重ねられた感じで、武骨な印象を受ける。これは、滋賀県大津市にある穴太(あのう)の石工集団が作った穴太衆積みの石垣(あのうしゅうづみのいしがき)というものだろう。

 穴太には昔から優秀な石工集団が住んでおり、比叡山の寺社のために多くの石垣を造った。現在でも比叡山の麓の坂本に行けば、穴太衆が組んだ石垣が街中の随所に見られる。彼らが得意とするのは、加工を施さない自然石を積み上げ、隙間に小石を詰めて石垣を作る技術である。

 織田信長や豊臣秀吉は、穴太衆の石垣の技術を比叡山などで見て、自分たちの城の石垣造りを担わせた。これが全国の大名にも知られ、多くの穴太衆が各地の城の石垣造りに参加するようになったという。

 さて、二度にわたり壊滅的打撃を受けた大坂の町も、江戸時代になり次第に復興を果たしていく。元々、京から南に向かうための交通の要所であったため、江戸幕府も大坂の整備には力を入れた。河川や水路を整備して橋を架け、八百八橋の通称で知られる水の都として水運が発達する。これに伴い諸大名も大坂に蔵屋敷を置くようになり、米取引が盛んになる。世界初と言われる米の先物市場も生まれ、商業の中心としての大坂の街が形成されていくのである。やがて物流の拠点として「天下の台所」と呼ばれるようになり、こうした経済的繁栄を背景に、大坂を中心とした元禄文化(げんろくぶんか)が花開く。

 江戸期の大阪城だが、秀忠は、秀吉が建てた城を踏襲せずに独自に城を設計した。そのため、天守閣も形が変わり、色も白の漆喰を基調にしたものになったようだ。しかし、この天守閣の命も三十数年しか持たなかった。落雷のために焼失した天守は再建されることなく、江戸時代の大半は天守閣なき大阪城という状態であったという。





 江戸時代の大阪城は天領であるから、城主は徳川将軍本人である。しかし、将軍は江戸に居るので、大阪城は徳川家と親しい大名から選ばれた城代が管理していた。ただ、わずかの期間ながら将軍自らがここに居座ったことがある。最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)である。

 薩長との軍事衝突から内戦が勃発するのを避けるため、政権を天皇に返上する、いわゆる大政奉還(たいせいほうかん)を行った徳川慶喜は、京を出て大阪城に移る。薩長との武力衝突も予想される中で大阪城に移動したのは、ここが守りの堅い城であることを知っていたからだろうか。しかし、現実には籠城戦など起こることはなく、むしろ薩長の挑発に乗った幕府側が京都に攻め入る形となる。鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)から始まる戊辰戦争(ぼしんせんそう)の幕開けである。

 結局、徳川が建てた大阪城は、一度も合戦の舞台となることなく明治期を迎える。ただ、江戸時代に度重なる火災で損傷し、落雷で天守閣を失ったままであった。そんな大阪城が明治時代どうなったかというと、新政府により軍用地となったのである。大阪の砲兵工廠が建てられたのも大阪城内だった。

 しかし、昭和の時代に入り、昭和天皇即位記念事業として、大阪城の天守閣を再建しようという計画が持ち上がる。市民から多額の寄付が集まり、鉄筋コンクリートの天守閣が完成したのは昭和6年だった。5層の天守閣のうち、下から4層目までは徳川時代の白漆喰の外壁のデザインが採用され、最上層の5層には秀吉の建てた金の装飾を活かすための黒い外壁が採用されたという。

 その後第二次大戦に突入するが、師団司令部や砲兵工廠があったため、大阪城は幾度となく米軍機の爆撃を受ける。空襲により徳川時代に建てられた多くの櫓が失われ、大阪城は甚大な被害を蒙った。しかし天守閣だけは、破損はしたものの破壊は奇跡的に免れるのである。我々が現在見ている大阪城は、この第二次大戦の空襲をくぐり抜けた昭和初期の大阪城ということになる。

 ただ、大阪の街の方は、第二次大戦の空襲により甚大な被害を蒙る。大阪城周辺は一面焼け野原となり、江戸時代から続いて来た商都は灰燼に帰すのである。かくしてこれで、三度目の大阪の町消滅ということになろうか。

 今や、徳川が建てた大阪城の面影を偲ぶものとしては、空襲に耐えて残った幾つかの門や櫓、蔵、井戸といったものしかない。ただ、建築物と言えるかどうかは分からないが、徳川将軍家の威光を存分に見せ付けるものとしては、石垣などに使われている巨石があると思う。





 これは、南側の桜門から本丸に上がる道の正面にある蛸石(たこいし)である。名前の由来は、表面の模様が蛸に見えるからというものらしいが、私にはよく判別できない。城内で一番大きい石と言われているが、他にもこうした巨石がふんだんに使われている。こんな大きな岩をどうやって運んで組み上げたのか、驚くばかりである。

 こうした石には、どの藩が担当したものかを示す刻印が施されている。天守閣の南側には、こうした刻印を施した石を並べて展示してあるエリアもあり、どの藩がどの刻印かといった解説もある。我が故郷の藩の刻印を押した石もあり、少々感慨深かった。

 秀吉の大阪城が隠れてしまうほどに土盛りをして、これだけの巨石を集めて石垣を築く。とにかく途方もない土木工事が行われたわけだが、自分が居城するわけでもない大阪城にこれだけの労力と費用を費やしたのは、仕事を割り振られた各藩の財力を削るためだったと見られている。こうした築城は徳川氏の指示により全国で行われ、天下普請(てんかぶしん)の名で知られているが、城を築くことではなく、金を使わせることに目的があったというのが、策謀家の徳川らしい所業である。

 この石垣の下には秀吉時代の石垣も眠っているわけで、上下二層の石垣があることになる。更に言えば、石山本願寺の元になった石山御坊を蓮如が建てた際、地中から大きな石が幾つも出て来たという言い伝えがある。それがゆえに石山の名前が付されたという説まであるほどだ。どうして、そんな石が地中に埋まっていたのか。その謎を解く遺構が大阪城公園の南にある。





 ここは、阪神高速を挟んで大阪城公園の南に位置する難波宮(なにわのみや)の跡で、奈良の平城京よりも古い皇居の跡ということになる。奈良盆地からここに都が移って来たのは、昔日本史の教科書に出て来た大化の改新(たいかのかいしん)のときである。

 話は飛鳥時代に遡る。仏教の扱いを巡って対立が激化した蘇我・物部の覇者争いで、仏教擁護派の蘇我馬子(そがのうまこ)が聖徳太子などと組んで物部氏を滅ぼすと、蘇我氏は豪族の中にあって事実上の一強となり、権勢の絶頂期に到達する。当時は皇室と豪族との姻戚関係が濃密で、豪族の意見も聞きながら次期天皇を選ぶしきたりだったから、蘇我氏は皇室をないがしろにし権力をほしいままにしていた。その当時の蘇我氏の中心人物は、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)の親子である。

 そうした状況を苦々しく思っていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智天皇(てんちてんのう))や中臣鎌足(なかとみのかまたり/後の藤原鎌足(ふじわらのかまたり))らが反蘇我勢力として立ち上がる。まず蘇我入鹿を、飛鳥にあった板蓋宮(いたぶきのみや)の宮殿で暗殺し、その後蝦夷を甘樫丘(あまかしのおか)にあった自宅で襲って自害に追い込む。このクーデターを乙巳の変(いっしのへん)と呼ぶが、これにより蘇我氏本流は滅びるのである。

 このとき蘇我入鹿は、板蓋宮の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の面前で暗殺される。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだいしかわのまろ)が朝鮮使の上表文を読み上げたのを合図に中大兄皇子らが斬りかかり命を落とす。死体はそのまま戸外に打ち捨てられたとされている。

 自分の面前で重臣が暗殺された女帝の皇極天皇は即座に退位し、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に皇位を譲る。この孝徳天皇が板蓋宮を引き払い、今の大阪に都を移す。そのときに造ったのが難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)、つまりこの難波宮なのである。

 当時の宮殿は、平城京や平安京の内裏のような荘厳なものではなかったが、それまで飛鳥にあった宮殿に比べると、規模や造りが格段に立派だったようだ。孝徳天皇は蘇我氏因縁の地飛鳥から離れ、それまでの豪族を中心とした政治から天皇を中心とした政治へ流れを変えたかったのではないか。新しい政策を示す改新の詔(かいしんのみことのり)が発せられたのも、この難波宮でのことである。そういう意味では、まさに大化の改新の華々しい舞台でもあったわけだ。





 しかし、当時の朝廷の実権を孝徳天皇が握っていたかというと、そうとも言えない。元々皇極天皇は、クーデターを起こした中大兄皇子に皇位を譲ろうとしていた。だが、彼は固辞をし、当時軽皇子(かるのみこ)と呼ばれていた孝徳天皇を推挙する。これに対して軽皇子は何度か辞退したが最終的に即位することになる。但し、孝徳天皇下の皇太子は中大兄皇子で、天皇の最高顧問に当たる内臣は中臣鎌足という乙巳の変のクーデター・コンビだから、政治の実権は彼らが握っていたと見るのが妥当だろう。

 実際、途中で孝徳天皇と仲違いした中大兄皇子が飛鳥に戻ると、臣下の貴族たちも中大兄皇子と一緒に飛鳥に移ってしまう。難波宮には実質孝徳天皇だけが残り、孤独のうちに在位10年も経たずに亡くなってしまうのである。何とも哀れな話である。

 その後も中大兄皇子は皇位に就かず、一度皇位を退いた皇極天皇が重祚し、斉明天皇(さいめいてんのう)として再度皇位に就く。この時斉明天皇は新しく宮殿を作らず、昔の板蓋宮で即位する。かくして、政治の舞台は再び飛鳥に移ることになる。

 乙巳の変が起きて孝徳天皇が遷都を行ったのが西暦645年で、宮殿の完成が652年とされている。そしてその翌年である653年には孝徳天皇と仲違いした中大兄皇子が出て行ってしまう。孤独のうちに孝徳天皇が亡くなったのはその翌年の654年であり、皇極天皇が重祚し斉明天皇として板蓋宮で即位したのが翌655年のこと。大化の改新の華々しい舞台であった難波宮の命は意外に短かったのである。

 ただ、難波宮の施設はその後も残り、中大兄皇子の弟である天武天皇(てんむてんのう)の時代には、都は二つ、三つ置くべきだという考えの下、そのまま難波宮を副首都として活用しようということになった。ところがその時になって火事で難波宮は焼失してしまう。686年のことである。この火災の痕跡は、難波宮発掘の際に確認されているという。

 こうして歴史から一旦消えた難波宮だが、その後奈良時代になり聖武天皇(しょうむ てんのう)が再び難波宮を造営し、都を一時ここに移したとも伝えられる。ただ、聖武天皇は宮殿マニアなのか他にも幾つか宮を建設しており、このときの難波宮も一年も持たなかったようだ。

 孝徳天皇時代の難波宮を前期難波宮、聖武天皇時代の難波宮を後期難波宮と言うそうだが、いずれも命短い都だったわけである。しかし、この二回の宮殿造営の時の礎石などが地中に埋まっていたのではないかというのが、石山本願寺にまつわる地中の巨石の謎を解く鍵となる。結局、難波宮から始まって、石山本願寺、大阪城と、権力者の拠点はほぼ同じ場所に置かれていたことになる。

 こうして見て来ると、今の大阪市の中心部であるキタからミナミにかけての辺りは、石山本願寺の寺内町から始まり、幾度もの戦乱で本願寺や大阪城と運命を共にしながら破壊と再生を繰り返して来た。そしてそこは、短い間だったとはいえ、遠い昔、天皇の宮殿が二度も置かれた場所であったわけだ。

 大阪は、良くも悪くもここを中心に歴史を重ね繁栄して来た。そんな貴重な場所が、大都市の市街化の波に飲み込まれず、広大な公園としてきちんと残り市民憩いの場になっていることは、大阪の人にとって大変幸せなことだと思えるのである。そして、そこに建つ城は、太閤さんのお城でも徳川のお城でもなく、大阪市民が寄付で建てた城だということが、これまた素晴らしいことだと感じる。やはりここは大阪のシンボルにふさわしい場所だと改めて思った次第である。







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