パソコン絵画徒然草
== 関西徒然訪問記 ==
■道頓堀散歩 |
![]() 奈良の散歩記が終わったところで、せっかくだから奈良以外で訪れた関西各地について、当時の思い出話も織り交ぜながら、紹介方々綴ってみようかと思い、再び筆を取った。今回も予めお断りしておくが、これから書く話は、いずれも私が大阪で勤務していた2014年から2016年にかけての話である。紹介する場所が現在どうなっているかはいちいち確認していないので、そのつもりで読んで頂きたい。 まずは、住んでいた大阪のことから書き始めよう。 大阪に住んでいる間、週末に市内を歩くというと、天気に左右されない地下街やアーケード付きの商店街(大阪には中心部にはたくさん残っている)へ買い物方々出掛けることが多かったが、単なる繁華街の風情を綴っても退屈だろう。ただそうした中で、道頓堀(どうとんぼり)周辺は大阪らしい風情もあって好きな場所なので、覚書的に書いておこうかと思う。 大阪の繁華街を紹介する記事の中に「キタ」と「ミナミ」という言葉が出て来ることが多い。東京に住む人にとっては、それがどこを指しているのかピンと来ない。東京だと、新宿とか渋谷とか繁華街の地名を言うのが普通なので、単に方角だけ言われても分からないということだろう。 一般に「キタ」と言うときには、大阪の人はJR大阪駅のある梅田周辺の繁華街のことを言っている。一方、「ミナミ」というのは、なんばや、さらにその南にある天王寺のことを指す。どちらも高度な商業集積地で、地下街が縦横無尽に走り、地下鉄や私鉄、JRが一堂に集まる交通の要でもある。今回私が紹介する道頓堀は、ミナミに属する繁華街である。 道頓堀といわれて、大阪に馴染みのない人がイメージするのは、ビルのネオンサインが川面に映る夜の風景と、巨大なカニの看板やくいだおれ太郎の人形だろう。ネオンサインの中でもとりわけ有名なのはグリコの縦長のものだが、私が大阪に行った年に、これが十数年振りに掛け替わった。 ![]() 架け替え工事中は、女優の綾瀬はるかがグリコのランナーと同じ恰好でゴールインする姿がプリントされた超巨大な工事幕が設置されていたが、道頓堀橋の上から写真を撮る人は、この期間限定の特別工事幕の時の方が多かったような印象を受けた。 このネオンサインで有名な道頓堀川と平行して道頓堀通りがあり、そこに飲食店がひしめいている。「くいだおれ」の街と称されるゆえんである。その道頓堀通りの少し南に「水かけ不動」で有名な法善寺(ほうぜんじ)がある。 私はこの界隈に何度も散歩に行った。大阪独特の風情があるほか、地下街やアーケード付きの商店街が発達していて、天気の急変でも慌てることなく雨をしのげるのが便利だったからだ。散歩コースも行くたびにまちまちで、「ここをこう行って」といった道程を書こうにも、そのつどたどる道順が違うのだから書きようがない。従って、記憶をたどりながら近隣の名所を幾つか紹介する形にしたい。大阪の人にとっては言わずもがなの場所ばかりだが、大阪を知らない人には面白いのではないかと思ってのことだ。 道頓堀の名前の由来は、この堀の普請に携わった奉行の名前から来ている。江戸時代からたくさんの芝居小屋がかかり、賑やかな場所だったと伝えられている。今でも歌舞伎座や文楽劇場、松竹や吉本の劇場などが近隣にあるのは、その頃の名残だろうか。 こうした大きな施設以外にも小さな娯楽の拠点があり、一度馴染みの人に連れられて寄席に行ったことがあった。こんなところに寄席が、と思うような狭いホールで月に一回落語がかかる。常連さん中心の客構成で、舞台までの距離が近い。大きな演芸場とは違った一体感があり、如何にも大阪らしいなごやかな雰囲気で、大いに楽しんだ。 しかし、こうした賑やかな道頓堀のそのすぐ南には、その昔、処刑場や火葬場、大規模な墓地があったと聞く。処刑された人だけでなく、無縁仏もここに葬られた。近隣のお寺が弔いも兼ねて千日念仏を唱えていたため、それが近隣の地名になったという説が一般に信じられている。今の「千日前」(せんにちまえ)の名前の由来である。そして、この千日念仏を唱えていたお寺の一つが、法善寺というわけである。 昭和の時代に、千日前通りに建っていた千日デパートで火災が発生し多数の犠牲者が出たことがあったが、その際にこの土地のいわれが因縁話のように蒸し返されたと聞く。今では明るく活気にあふれた街だが、大阪の人々の記憶の奥底に、そんな古い言い伝えが残っているのも事実だろう。道頓堀界隈は、元々の生まれからして、光と影、陽と陰を抱えた場所なのだ。 さて、その法善寺だが、道頓堀通りから南に少し入った商店街の中にこじんまりと存在している。その脇にあるのが法善寺横町で、昔、流行歌の舞台にもなった石畳の狭い路地の両側に渋い風情の飲食店が並んでいる。横丁の東西の入り口には額が掲げられ、一方は藤山寛美(ふじやまかんび)、もう一方は桂春団治(かつらはるだんじ)が書いている。桂春団治は伝説的な天才落語家として唄にも歌われているが、字が読めなかったはずなのにどうして額の字が書けたのかと不思議に思っていたら、初代ではなく三代目が書いたものらしい。 この三代目桂春団治も上方落語の四天王の一人とされ、随分人気があった。所作が優雅で品の良い芸風だったらしいが、私が関西勤務を始めた頃には療養生活に入っており、私のいる間に亡くなった。四天王の最後の一人で、多くの人に残念がられ、追悼公演などが行われた。 話を法善寺に戻すが、境内といってもごく小さなもので、本堂はなく、水かけ不動と金毘羅堂があるばかりだ。こんなに小さな寺だが、その知名度は京都の有名寺社に匹敵するものがある。何とも不思議なお寺である。 ![]() 元々は大きなお寺であったようだが、第二次大戦時に空襲で焼け落ち、水かけ不動だけが残ったらしい。どうして再建されなかったのか知らないが、既に周辺は飲食店で埋め尽くされている。こうなった事情を大阪の人に尋ねると、こうした飲食店の幾つかは、法善寺が大きなお寺だった頃に境内に出ていた屋台だったという。なるほど、お寺の再建の目処が経たない中で屋台の方が先に再建したというわけだ。しかし、こうなると、昔の姿に戻すのは不可能だと思う。 水かけ不動はなかなかの人気で、多い時には拝むのに長い行列が出来る。でもたまに、誰も並んでいない時間帯もある。みんな賽銭をまいて不動明王の像に水をかける。水をかけられ続けたせいで、上の写真にあるように、お不動さんの全身は苔だらけになっており、今ではどういうお顔かも分からない有様だ。 この水かけ不動の横に、「夫婦善哉」(めおとぜんざい)という小さなぜんざい屋がある。文字通り、ぜんざいしかメニューにないらしいが、一風変わっているのは、一人前のぜんざいを二椀に分けて出すところだ。まさに夫婦のぜんざいというわけで、夫婦なので二人で分けたりせず、二椀を一人で食べるのが作法らしい。この店も小説の題名になったりしてすっかり有名だが、私は何度も法善寺に足を運びながら、結局一度も食べなかった。 職場の同僚などに尋ねたことがあるが、大阪の人は意外に夫婦善哉や法善寺横町で飲み食いをしたことがない。更に言えば、くいだおれ太郎で有名なくいだおれビルで食事をしたという人にもついぞ出会わなかった。結局、観光客向けの施設ということなのだろうか。 このくいだおれ太郎が立っていたかつてのくいだおれビルは、今はない。たしか数年前に閉店したのだったと思う。その時にニュースで放映されたのを覚えている。ただ、長年道頓堀の顔として親しまれたくいだおれ太郎の人形は、今でも別のビルの前で道行く人に愛想を振りまいている。 くいだおれ太郎だけでなく、道頓堀そのものの様相も昔とは変わったと思う。私は子供の頃、大阪市内の親戚に遊びに来た際、何度か道頓堀まで連れて来てもらったことがある。その頃おぼろげに記憶している街並みに比べると、泥臭さが薄れて現代風の様相になった。また、川べりに下りて河畔を散歩できるようになっていて、しゃれた雰囲気に模様替えしている。道頓堀川の水質も、昔は真っ黒だったという記憶があるが、今ではそれ程汚いとは感じない。 かくしておしゃれ感が増した道頓堀だが、それでもこの界隈の大阪らしさは充分残っているように思う。同じような見てくれの繁華街は他の都市にもあるのかもしれないが、どこか猥雑さの混じる喧騒と活気は、この周辺ならではのものだ。 さて、道頓堀橋を南に下ると戎橋筋商店街(えびすばしすじしょうてんがい)になり、千日前通りを越えて更に進むと、突き当りがなんばの中心部である。南海電車のターミナル駅とタカシマヤデパート、複合商業施設の入る巨大ビルが構えているが、この周辺も賑やかな場所である。 ここから東に延びるアーケード付きの商店街群も、また独特の活気と大阪らしさが漂う庶民の街である。なんば南海通商店街を東に進み、千日前商店街との交差点で南に曲がると、吉本の劇場街がある。更にその先が、東京の合羽橋商店街に当たる千日前道具屋筋(せんにちまえどうぐやすじ)となる。また、千日前商店街との交差点を過ぎて更にそのままなんば南海通商店街を東に進むと、大阪の台所と呼ばれる黒門市場(くろもんいちば)がある。周辺は昔ながらの商店街だらけなのである。 ![]() 吉本新喜劇は、東京ではテレビ放映していなかったと思うので、東京の人には全く馴染みがなかろうが、大阪のお笑い文化の代表のようなものである。私は関西出身なので子供の頃にテレビで吉本新喜劇を見ていた。大阪に勤務して同僚に話を聞くと、たいていの人はこれを見ていて、共通の文化のようになっている。今回、同僚と連れだって劇場まで見に行ったが、出演メンバーはすっかり入れ替わっていて、隔世の感があった。でも、あのバカバカしいお笑いは健在で、やはり大阪の看板の一つなのだなぁと思った。 さて、お店がひしめくこの界隈だが、一番有名なのは黒門市場だろう。年末の風景として東京だとアメ横が紹介されるが、大阪だと黒門市場、京都だと錦市場(にしきいちば)ということになる。 黒門市場のメインは鮮魚店で、年末の風景としてテレビで放映されるのも、こうした店で魚介類を買い求める人の姿である。私も大阪にいた頃、年末年始に家族を呼んで暮れの黒門市場に正月の買出しのために出掛けたことがある。それはもう大変な人出でなかなか身動きが取れない。そこに方々の店から威勢のいい掛け声が飛び交う。テレビで見たのと同じ光景である。 その時に興味を引いたのはふぐである。ふぐを扱う店が多く、中には調理前のふぐをずらりと並べた店まである。後で大阪の人に、あのふぐは家に帰って調理しなければならないのかと訊いたら、一匹丸ごと買って、店の人にどういうふうに食べたいか言えば調理した上で包んでくれるという。たしかに猛毒のフグを家で調理するなんて無理だから、相応のサービスをしてくれるのだろう。 大阪ではふぐのことを鉄砲という。昔の言い方だから今は使われないが、その名残が料理屋の看板に並ぶ「てっちり」や「てっさ」に見て取れる。鉄砲のちり鍋だから「てっちり」、鉄砲の刺身は「てっさ」というわけである。高級魚だから庶民の食卓に並ぶことはないが、正月などのめでたい時には家でふぐを食べる人もいますよと地元の人が解説してくれた。黒門市場にふぐが並んでいるのは、そのためであろう。 黒門市場は鮮魚店ばかりではない。野菜や肉を扱う店や惣菜を売る店、はたまた一般的なスーパーなど色々な店がひしめいている。また、飲食店も多く、衣料品店もある。東京の築地場外市場をイメージして行くと、ちょっと感じが違って、これはこれで面白いと思う。なお、築地のように、すし屋がひしめいているというわけではない。 市場の名前の由来は、かつてあったと伝えられる黒門なのだが、火事で焼失して今はない。昔この辺りにあったお寺の門前に、魚を扱う商人が集まって市を開いていたのがこの市場の始まりらしい。その門が黒塗りだったので、黒門市場というわけだ。 ちなみに、大阪における現在の水産物の卸売り市場は、福島区にある大阪市中央卸売市場だが、黒門市場からは随分と離れている。築地卸売市場と築地場外市場との位置関係とは比べ物にならないほどの距離だが、それでも脈々と黒門市場が続いているのは、大阪の人たちが贔屓にし続けているからだろう。 ![]() さて、この黒門市場を少し南に下がると、東京の秋葉原に当たる日本橋電気街となる。読み方は「にほんばし」ではなく「にっぽんばし」である。で、その名前の由来になっている日本橋という橋はどこにあるかというと、電気街からずっと北の道頓堀川にかかっている。電気街の北端は日本橋3丁目の交差点だから、歩いて700mくらい離れている。地下鉄の日本橋の駅からも400mくらいの距離だから、秋葉原のように駅と電気街がほぼ直結しているわけではない。 私は殆ど行くことがなかったが、メインストリートとなる堺筋沿いを歩いた感じでは、電気店やパーツ・道具類を扱う店よりも、ホビー、オタク系の店の方が優勢な印象を受けた。秋葉原だって、昔の電気街の面影が薄れつつあるから、同じような傾向なのだろう。 あとは、中国人観光客を意識した店もけっこう見掛けた。客引きの店員さんが中国語で呼び込みをしていたり、店頭の宣伝文句が中国語だったり・・・。商売というのは旺盛な買い物意欲を持っている人に引きずられるのが世の習いだから、これも仕方ないのだろう。 電気街は、日本橋3丁目の交差点から恵美須町の交差点まで堺筋沿いに続いており、南端まで歩いて行くと、目の前に通天閣が見える。長さにすれば1kmくらいだろうか。なかなか立派な商店街である。 今はどうなっているのか知らないが、私がいた頃は、この日本橋電気街に限らず、ミナミ一帯にはたくさんの海外旅行客が押しかけ、大変な賑わいであった。中国を中心に東南アジア系の人が多いのでパッと見た目には分からないが、耳を澄ませば聞こえて来るのはみんな日本語以外ということもあった。飲食店に入ると中国の旅行客の賑やかな声が飛び交い、路上では両手一杯に買い物袋を持った人たちが足早に通り過ぎる。今のミナミの賑わいの相当部分は、こうした海外からの観光客に支えられていることは確かだろう。 面白いと思ったのは、キタとミナミと二つある繁華街のうち、中国の爆買いが多いのはミナミである。理由を訊くと、大型観光バスの駐車スペースがあるのはミナミだからだと言う。いったいどこにバスが駐車するのかと思ったら、千日前通や御堂筋での路上駐車だった(笑)。たしかに梅田周辺だと、最寄りにバスが駐車していられるスペースがない。路上駐車のしやすさで外人観光客の行く先が変わるのというのは、何とも意外な話である。 こうした客層の変化を反映して、街は少しずつ変わりつつあると大阪の人たちは言う。心斎橋や戎橋の商店街の店の構成も海外からのお客さんを意識したものに変わりつつあるし、黒門市場にも立ち食いが出来る店が増えたと聞く。そうした変化を受けて、昔から愛されて来た店がなくなり、街並みが変わっていくのを寂しそうに語る地元の人たちがいるのも事実である。また、外国人が多くなったのでミナミには行かなくなったという人もいた。 ただ、客層は変わっていっても、街並みの芯の部分は変化せずに残っている。それは、他の街の繁華街にはない大阪らしい賑やかさと猥雑さであり、庶民的で飾らない雰囲気である。大阪の人は経済の地盤沈下を嘆くが、どっこい昔からのたくましさが健在なのは、この街を歩いていると分かる。中国人観光客なんかに呑み込まれるはずはない。大阪人のDNAはしたたかで、そう簡単に滅びることはないのである。 |
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