パソコン絵画徒然草

== 折々の記 ==






1月 1日(日) 「再びのスタート」




 実に久方ぶりのご挨拶となる。地方転勤に伴い休業を宣言してから、かれこれ2年半が過ぎた。その間、父が大病を患って、入院・手術・介護生活へと進み、私の生活にも変化が起きた。前回の地方勤務時にも母が病気になってやがて亡くなるという大きな出来事があったが、今回も父が倒れて大混乱に見舞われ、どうなることやらと途方に暮れる日々であった。私の人生というのは、不思議と地方勤務時にビッグイベントが発生するものらしい。

 昨年東京に戻って来て、新しい仕事にも慣れたところで、この正月を区切りにもう一度サイトを再開しようと考えた。かくしてこれで、二度目の再スタートということになる。ただ、いきなり元通りというわけにもいかず、今の生活ペースに合わせた新しい落ち着きようを探ろうと思う。更新ペースにせよ内容にせよ、無理なく按配のいい運営方法に持っていけばよいという気持ちでいる。

 前回の活動再開のときにも記したが、絵に関しては感覚を取り戻すのに苦労する。お蔭で久し振りに作品を更新したものの、やや心もとない筆使いでのスタートとなった。前はどうやっていたのか思い出そうとするのだが、如何にも自然にやっていた当時の感覚がよみがえらない。確か前回のサイト再開時もそんな感じだったなと、あまり悩まないことにした。徐々に慣れてきて元に戻るのだろう。それをじっくり待つとしよう。

 一方、このパソコン絵画徒然草に関してはちょっと趣向を変えて、この2年ばかりの地方勤務時代の散歩日記を、思い出語り的に書こうと考えている。サイトを再開しようと考えた理由の大きな部分は、この散歩日記をキチンとまとめ、形あるものに残しておきたいという気持ちによるところが大きい。そんなわけで、絵画制作中心の従来の更新に比べ、かなり変則的な運営となる。ただ、自分で言うのも何だが、関西をよく知らない方にはそれなりに目新しく、面白い読み物になる気がする。

 また、サイトの構成についても今回色々と見直した。掲示板やリンクのページを削り、その他のコンテンツも多少手直しした。

 掲示板については、前回の再開時に記したが、一度ロックして地方勤務に出掛けたものの、回復用のパスワードをうっかりなくしてしまい長らく機能しなくなっていた。このまま放置しておくのもどうかと思い、再開に合わせ削除した。

 リンクもやや機能しなくなっていたので、この際思い切ってページごとなくしてしまった。昔は個人のホームページ同士で相互にリンクを張って交流の輪を広げるのが一般的だったが、現在はFacebookやブログなどが個人サイトの中心になっており、このサイトのような個人による手作りのホームページはすたれつつある。再開を機にリンク先を当たってみたところ、多くのサイトが廃止や長期休業となっていた。色々迷ったのだが、これも再スタートに合わせ削ることにした。

 色々変えて、またいちから出直しである。初心者に戻った気持ちで、再び第一歩を踏み出そうと思う。新しい休日画廊を宜しくお願いします。





4月 2日(日) 「桜咲く」




 桜が咲いた。まだ満開とは言えぬが、日当たりのよい場所では、ある程度見栄えの良い咲き具合である。今年の開花は遅めのようで、卒業式ではなく入学式に咲く形となった。卒業式にせよ入学式にせよ、桜は別れと出会いを彩る格好の花だと思う。

 今回桜の絵を制作したが、これは今年東京で見たものではなく、大阪勤務時代に見た山桜を題材にしたものだ。花見の代表格となるソメイヨシノと山桜は開花時期が多少ずれるため、まだ山桜の花は見かけない。4月の中下旬になると、週末のウォーキングコースの一つに山桜の咲く場所があるので、毎年楽しみにしている。

 関西で山桜の名所と言えば吉野山だが、吉野山を訪れた時のことを思い出しながら今回の作品を制作した。吉野山のこともそのうち奈良散歩記に書こうと思っているのだが、訪ねた順番に書いていっているため、吉野山が登場するのはまだ先になりそうである。

 考えてみれば、サイト再開後、早3ヶ月が過ぎた。本当はもっと頻繁にこの折々の記を書こうと目論んでいたのだが、奈良散歩記の編集に結構労力を費やしていて、思うに任せない。奈良散歩記の原稿は、大阪時代に記した詳細な散歩メモ書きに肉付けしていく形で作っており、昨秋一度粗々完成させていたのでさして手間はかからないだろうと踏んでいたのだが、いざ掲載を始めてみると、これがとんでもない見当違いだった。掲載に当たりもう一度見直してみると色々手直ししたり書き加えたりしたくなる箇所が出て来て、毎回結構な時間を作業に費やしている。

 一方、絵の制作の方はだいぶ慣れた。最初の頃は、どうやって描いていたんだっけと戸惑うこともあったが、何度か練習しているうちに昔の感覚が戻って来た。今回は多少描き方を変えて新しい表現を追求したりもしているのだが、まだ暗中模索の部分も多い。ご覧になっている方はいったいどこが変わったのか分からないだろうが、アヒルの水かきのような裏方仕事のことゆえ、気付かれなくとも仕方ないと思う。

 また頃合いを見てこの折々の記も書き加えていきたいが、果たして次に書くのはいつになるのか心もとない。まぁ無理なく長続きするよう、焦らずマイペースで行こう。





5月 7日(日) 「亀戸の藤」




 ゴールデンウィークが終わった。東京では天気のいい日が続き、連日のお出掛け日和だった。これだけ天気に恵まれるゴールデンウィークは珍しいのではないか。

 残念ながら我が家は、入院している父の容体があまり良くないこともあって泊りがけの旅行はしなかったものの、陽気に誘われてウォーキングや日帰りの行楽を楽しむことが出来た。海外旅行組に比べれば慎ましいものだが、まずまず満足のいく連休だった。

 探せば都内でも色々見どころはある。我が家では連休の一日、夫婦で亀戸天神まで足を延ばし、藤の花を楽しんだ。

 天神さんは全国至るところにあり、東京都内でも湯島天神の方が人気が高いかもしれない。ただ、亀戸天神は江戸の昔から藤の名所として知られ、歌川広重の浮世絵にも登場する。広重の名所江戸百景に描かれた亀戸天神は、境内の太鼓橋と藤棚との組合せが印象に残る構図になっているが、今でもそのままの景色を味わえるところがミソだろう。

 最近、この太鼓橋と藤棚の組合せに新たに加わったのが東京スカイツリーで、境内から藤棚の上に聳え立つスカイツリーを楽しむことが出来る。藤の鑑賞に来た人々も、何とかスカイツリーと藤を組み合わせた写真を撮ろうと、要所要所でカメラやスマホを構えておられた。広重が今の亀戸天神の情景を見たら、どんな構図の浮世絵が出来上がるのか、楽しみではある。

 昔ながらの情緒が楽しめる亀戸天神だが、周囲の街の風景には江戸時代の名残はほとんどない。このエリアは、江戸時代には本所として知られた一帯だったはずだ。江戸の庶民が暮らす下町の代表だが、歴史を遡れば、墨田川よりも東の地は下総の国であり、狭義の江戸ではなかったようだ。徳川幕府が栄えて江戸の人口が増え市街地が拡大していく過程で、江戸に編入されていったと聞く。

 現代の東京に住む人間が、江戸時代の街の様子を想像するのはなかなか難しい。あまりに都市の変貌スピードが速いため、昔の痕跡がドンドン消されて行ってしまうためだ。今では西側のエリアが栄えている東京だが、江戸時代の街の重心は皇居よりも東側にあった。品川や新宿が江戸の外にある宿場町だったことを思えば、如何に我々の認識する東京の中心がずれてしまったかに気付くはずだ。

 以前、先祖代々東京という生粋の江戸っ子の年配者から、子供時代は浅草が最大の繁華街で、休みの日に家族で出掛けるのが楽しみだったという話を聞いて、意外な思いがしたことを覚えている。現在の東京の繁華街が、案外と歴史の浅いものであることに改めて気付かされたからだ。若者の集まる原宿や表参道だって、昔ながらの繁華街ではない。明治天皇を祀る明治神宮が出来て以降発展した場所だし、神宮外苑をはじめとする一帯の広大な記念施設を建設できたのは、大正時代にはそこがまだ市街地になっていなかったからだろう。

 新陳代謝の激しい大都市では、歴史は一瞬のうちに忘れ去られる。新しい流行の波が街を覆い、それまでの最先端はあっという間に古くなる。そこに生きる我々は、今の街の姿が昔からあったかのように錯覚するのだが、その認識もまた近い将来、新しい波に上書きされるのだろう。

 ただ一つ、そうした街の歴史の書き換えに耐えて残り続けているのが、お寺や神社などの宗教施設だというのは、何とも面白い。日頃ほとんど顧みられることのない無名の寺社も、案外古い記憶のアンカーとして重要な役割を果たしているのかもしれない。

 日本人は総じて宗教には淡白だが、寺社の存在にはもう少し敬意を払ってもいいかもしれない。檀家が減ってお寺が廃寺になったり、神社の氏子がいなくなって社殿が荒れてしまったりという話を最近よく聞くが、寺社がなくなることはその地域の歴史が少しずつ失われることでもある。歴史というのは、今を生きる上ではほとんど役に立たないものだが、そこに住む人々の心の拠り所としては、案外大事なものではなかろうか。亀戸天神まで足を延ばし、そんなことに改めて気付かされた連休の一日であった。





8月13日(日) 「お盆の季節」




 折々の記をさぼっているうちに暦は進み、お盆の季節となった。東京では7月にお盆という家もあるが、田舎育ちの私にとってのお盆は8月である。

 8月は夏真っ盛りで、最も生命が躍動する時期ということになるが、それにもかかわらず厳粛な気持ちになるのは、お盆のほかにも、広島、長崎への原爆投下、その後の終戦の日が8月に集中しており、死者を弔う追悼行事が重なるからだろう。

 我が家は浄土真宗なので、お盆といっても特別な行事はなかった。菩提寺から住職をお招きして仏壇に読経して頂くのと、お盆の間に毎日お墓参りに行ったという記憶ぐらいである。宗派によっては、迎え火や送り火を焚くほか、盆提灯を飾り精霊棚を設けることもある。しかし、浄土真宗では、先祖は全て阿弥陀仏の力で成仏して浄土におり、お盆に帰って来たりしないという教えなので、先祖を迎えるための特別なことは行わない。そのため、他の家に比べるとシンプルなお盆だったのかもしれない。

 ただ、当時は何とも思わなかったものの、一般的なお盆の迎え方と比べて特異な点があった。私の故郷では、お盆の墓参りや親戚宅の訪問は、もっぱら夜に行っていたのである。

 私の子供時代はもう数十年前であり、住んでいたのも地方の町だったため、当時は子供が夜に戸外を歩くなんてことはなかった。午後8時には町はひっそりとして、目抜き通りを歩く人とてまばらだった。夜に小学生がひとりで歩いていようものなら、何をしているのかと大人から声を掛けられるのが当たり前のご時世だった。現代の都市部では考えられないことである。

 そんな保守的な土地柄の中にあって、お盆というのは特別な日だった。お墓へお参りに行く人や、親戚の仏壇を拝みに行く人で、夜の街にも賑わいがあり、親に連れられて子供も夜の街を闊歩した。普段だと出歩かない時間帯に街中を歩くというのは非日常的なことであり、子供時代の私にとって思い出深い行事だったように思う。

 ただ、今になって考えてみると、何故お盆の行事が夜だったのかと言えば、真夏で昼間が暑かったからの一語に尽きる気がする。昼間にお墓参りをしたり、親戚の仏壇を拝みに行ったりしてはいけないという決まりはない。むしろ、足元の暗い中を夜にお墓に行くのは危ないし、夕食後に他人の家を訪ねるのも迷惑というものである。季節が良ければ昼間に行った方が良いに決まっている。お彼岸のお墓参りは昼間に行くが、これは気候が良い時期だからだろう。

 当時子供だった私は、何の疑いもなくお盆は夜の行事だと信じ切っていたが、単に暑い昼間に出歩きたくないという大人の事情によって夜に行っていたということになると、伝統や慣習なんてものは案外と根拠薄弱なものだと気付かされる。また、その根拠を調べることもなく、どこでもお盆の行事は夜に行うものだと単純に信じていた自分も、浅はかだったのかもしれない。

 しかし、今になって振り返ると、どの墓にも灯篭が建てられ、その蝋燭の明かりでほのかに明るくなった夜の墓場の情景は美しかった。人工の光でなく、昔ながらの自然な灯りに照らし出された光景は、昔から変わらない私の田舎のお盆の情景であり、子供時代の夏休みの思い出の一コマということになる。

 この時期、全国の寺院で行われる万灯会のニュースを聞くたびに、私は子供時代のお盆の墓地の光景を思い出す。あれは、便利さの陰でいつの間にか日本人が忘れてしまった温もりのある自然の灯りが創り出した世界であったと、今さらながら気付かされるのである。





9月17日(日) 「彼岸に寄せて」




 振り返ると、今年の夏はおかしな天候だった。東京では雨の日が多く、日中涼しく夜もしのぎやすい日が結構あった。毎年猛暑に苦しむ身からすれば幸運だったが、天候不順で野菜が値上がりし、困ったことも多かった。やはり、暑い時期には暑く、寒い時期には寒くということでないと、この世はうまく行かぬものらしい。

 さて、そんな夏ももう終わり、まもなく秋のお彼岸となる。暑さ寒さも彼岸までというが、この先の天候はどうなるのだろう。昨今、異常気象が取り沙汰されることが多いから、秋の天候も気になるところだ。

 あまりここに書かなかったが、春から夏にかけて私の身に様々なことが起こった。その一つは父の死である。

 亡くなったのは5月なので、既に4ヶ月経つ。私が喪主となって葬儀を執り行ったのは初めての経験だった。とはいえ、脳出血により認知機能が失われた後に東京に引き取ったため、父の親類縁者、友人知人は東京にいない。普通に葬儀を行ったとて、父が一度も会ったことのない私の職場関係の参列者が集まるだけだし、郷里に連絡して東京まで葬儀に出て来てもらうのも気の毒だ。そこで、初めての経験ではあったが今流行の家族葬の形で質素な葬儀を行った。田舎で亡くなり通常の葬儀をした母とは対照的だが、家族葬というのはなかなか良い葬式だと思った。

 たくさんの縁者に見送られての葬儀に比べて寂しい感はあるが、ごく近しい家族だけで静かに式が進んでいくのは、亡き父を偲ぶ環境としてはしっくり来る。普通の葬儀では、対外的な式のしつらえで失礼がないか心配したり、親しい会葬者に挨拶をしたり、受付などの手助けをしてくれる方々をねぎらったりと、何かと慌ただしい中で時間が過ぎていく。母の葬儀の時に感じたが、粗相のないよう葬儀が終わることに気が向いて、故人を厳かに偲ぶ気持ちが幾ばくか削がれる。

 家族葬にはそうした要素はほとんどなく、家族だけで静かに故人を見送る形になる。僧侶が読経する中、父の思い出が自然と心に浮かび、厳かな気持ちで冥福を祈ることに集中できる。もちろん、故郷にいる親類や友人知人に参列してもらえないという悔いは残るし、僅かな人数の見送りで父も寂しいのではないかという申し訳なさはあるが、こんな厳粛で濃密な雰囲気の葬儀は初めてだったのは事実だ。

 そんな話を知人にしたところ「昔のお通夜はそんな感じだったよ」という答が返って来た。そう言われてみれば、子供時代に一般の弔問客はお通夜には行かず本葬へ行くんだといった趣旨の話を聞いた記憶がある。お通夜は、家族など近親者が亡くなった人に一晩付き添い、故人の思い出などを語り合って過ごす場だという話だった。

 現在のお通夜には、そうした雰囲気は微塵もない。弔問客はお通夜でも本葬でも都合のいい方に来るし、日中は働いている人が多いので、ヘタをするとお通夜にお参りに来る人の方が多いのではないか。また、故人の遺体に親族が一晩中付き添うなんて風習も、今の東京には残っていないと思う。父のお通夜の際にも、会場は夜にロックされるので、家族は一定の時刻までに会場を出るよう言われた。

 私が家族葬で経験した内輪の親族だけが集まった別れの場というのが、現代にもあっていい気がするし、そうした機会が珍しくなったがゆえに、逆に自分が経験してみて新鮮な印象を受けたのではなかろうか。

 そんな感想を幾人かの友人知人にしたところ「最近の家族葬は一般の弔問客を受け入れる方式が増えていて、家族葬であっても弔問OKなケースが多いですよ」なんて話をしてくれた知人がいた。彼曰く、家族葬と連絡を受けても弔問可能か訊いてみるそうな…。

 その話を聞いて、お通夜が本葬と変わらない弔問の場と化したのは、かつて同じような動きがあってのことではなかったかと思った。仮にそうだとすれば、家族葬も時が経てば本葬とさして変わらない形になるのだろう。そうなった時の家族葬と本葬の違いって、何なのだろうか。

 弔いの慣習が時代と共に変化していくのは当然だろうが、イタチごっこのような堂々巡りには少々呆れるところもある。ただ、この親族と弔問客のイタチごっこの背景には、故人にお別れを言いたい人がたくさんいるという事情があるのだろう。葬儀は故人のためにするのではなく残された者たちの心の整理のために執り行われると言う人もいる。葬儀に参列できなかった人は、故人の逝去について心を整理する機会を逸してしまうわけである。そうした事情が、本葬に参列できない人をお通夜へ向かわせ、家族葬と聞いても弔問の可否を問い合わせる動きにつながるのであろう。

 それを考えると家族葬という方式は、家族にとってはしめやかな心の整理の場となるのだが、置いてきぼりを喰らった親類縁者、友人知人には申し訳のないことをしたなぁと思う。あちらを立てればこちらが立たず。葬儀というのは、なかなか厄介な行事である。





10月29日(日) 「家を閉じる」




 暦は進み11月も間近となった。先月の折々の記でも天候の話をしたが、10月も誠におかしな天気だった。上旬は気温が30度近くになる日があり夏に逆戻りしたかのようだったが、その後の記録的長雨と共に気温が一気に下がり、冬を思わせる日が続いた。その長雨も超大型台風と共に終わり、ようやくこの季節らしい気候となったのもつかの間、再度の台風襲来で、下旬は台風に翻弄されることになった。振り返ると、まるでジェットコースターのような1ヶ月だった。

 この夏以降、私が心を砕いて来たことの一つに、空き家となった故郷の実家の片付けと処分がある。父が亡くなって以降、遺品整理も兼ねて実家の中を捜索し、家族のアルバムなど残しておくべきものを発掘した。そしてその後、プロの片付け業者の手を借りて、家財など一切合切を廃棄した。手を付ける前から大変だろうなと憂慮していたが、実際かなりの苦労だった。

 実家を片付けるというのは、自分の思い出を片付けるのと同義である。そこには、生まれてから実家を出て行くまでの自分の歴史が埋まっている。子供時代から共に過ごした家族の記憶も家の隅々に刻まれている。何を残すべきかと言われれば、出来ることなら全てを残したいという結論になる。しかし、管理する人もいない遠方の家をこの先ずっと維持し続けるのは並大抵の苦労ではない。従って、残すべきものを厳選して手元に留め、選から漏れたものは処分するしかない。

 私は実家に18年間暮らした。生まれてから大学に行くまで、ずっと同じ家に住み続けた。その家を建てたのは私の祖父であり、父は私よりもはるかに長く実家に住んでいた。

 実家暮らしの歳月の長短は、人それぞれである。転勤族の父を持てば、ひとところにじっとすることなく引越しを繰り返すから、最後に両親が住んだ家との関係は希薄だという人もいる。一方、生まれてから現在まで、両親の家でずっと暮らし続けている人もいる。私はその中間に位置するわけだが、実家での18年間は、私が現在までに住んだ家の中で最も長い記録となる。

 現在暮らす東京の家にこのまま住み続ければ、最長記録の18年を超えるのは難しくないが、大人になってから住み続けた家と、子供時代を過ごした家とでは、まるで価値が異なる。子供時代のおぼろげな思い出の中で、我が実家は現れては消える霧の海の灯台のようなものだ。幼少期の曖昧な記憶も、実家という現場へ行けば、細部が明瞭になって様々に思い出されることがある。仮に灯台の役割を果たす実家がなくなれば、幼い日の思い出もまた霧の海の中に消えていくのだろう。そう考えると、アルバム類だけでなく、家の存在そのものが私にとって貴重だったことになる。

 結局私は、祖父母や両親がずっと暮らした家というより、自分が大学に行くまでを過ごした家として、実家に価値を見出していたのである。例えば、私が大学へ行った後に両親が引越しをして別の家に住み始めていたら、その家の処分にさほど悩ましい思いを抱かず、もっと淡々と作業を進めていたことだろう。家への思い入れとしては、格段の差があったはずだ。

 何はともあれ、私は実家の歴史に幕を下ろし、先祖が長い間暮らして来た地に別れを告げた。そうなることは、私が東京に出て来てからずっと分かっていたことだが、なんだか遠い未来のことのように考えていた。しかしその日は、想像したよりずっと早く、しかも突然にやって来た。私は何とも言えない思いで実家を片付け、後ろ髪を引かれながら家を処分した。

 これでまた故郷との縁がひとつ切れた。最後にブレーカーを下ろし鍵を閉めて実家を後にした日のことを、私は生涯忘れることはないだろう。霧の海を照らし続けた灯台の灯は、かくして永遠に消えたのである。





11月19日(日) 「月に雁」




 今年もあと1ヶ月少々となった。毎年この時期になると、月日の流れの速さに驚くことが多い。年を取った証拠だろうか。

 先月、この折々の記で実家の片付けと処分の話を書いた。元々年に1-2度しか帰省していなかったため、実家に置いたままになっている自分のものなどじっくりと見たことはなかった。それをこの夏の暑い盛りに、二日ほどかけて家中の押し入れの中までじっくり探索した。アルバム類を持ち帰るのが主な目的だったが、思わぬものが残っていたりして、懐かしい思いに駆られることが何度かあった。

 そうした思い出の掘り出し物の一つに、切手帳があった。私が小学生の頃に集めていたものだ。友人たちも集めていて、ちょっとしたブームだったのかもしれない。そうは言っても小遣いの少ない子供のことゆえ、たいしたものは集められない。記念切手を郵便局で買うこともあったが、家に来た郵便物に貼られていた珍しい切手を剥がしたものが多かった。そんなことをしているのが知られると、近所の人や親戚が郵便物に貼ってある切手を切り取って渡してくれることもあった。

 子供のコレクションのことゆえ、価値のある高額な切手などない。私は子供の頃から絵が好きだったので、図案のきれいなものを気に入っていた。第一次国宝シリーズの切手は、消印付きのものもあったが、全て持っていた。切手の図案を通じて知った美術作品も沢山ある。インターネットのない時代、画像情報は少なかったのである。

 そのうち、外国の切手に素晴らしい図案のものが多くあることを知り、都会のデパートに行った時などに詰め合わせになった使用済み切手の安いパックを買ったり、お土産でもらったりして、少しずつ集め始めた。外国切手には鮮やかな色を使った大判のものや、三角形など変わった形のものもあり、日本切手を見慣れた目には新鮮だった。

 そんな昔の切手集めの話を再び思い出したのは、先日夜道で月を見上げた時だ。晩秋の澄んだ空に煌々と月がかかっていた。その時ふいにある切手のことが思い出された。有名な「月に雁」(つきにかり)である。

 私が切手を集めていた子供時代、「月に雁」は「見返り美人」と並ぶ高額切手の代表だった。当時切手コレクター向けに、値の張る高級切手を売値と共に紹介した小冊子が売られていたが、その冒頭にこの2枚の切手が並んでいたように思う。切手集めを趣味にしていた同級生たちは、この2枚の切手をみんな知っていた。知らなきゃモグリというくらい有名な切手だった。当時の価格で1枚1万円くらいだったろうか。とても子供に手の出るシロモノではなく、垂涎の的だった。デパートの切手売場でショーケースの中に置かれている本物の「月に雁」を見た時には感動したことを覚えている。

 「月に雁」も「見返り美人」も、切手収集の普及を図るために設けられた切手趣味週間の初期の記念切手である。切手趣味週間の記念切手は、その後も毎年のように発行され続けたが、浮世絵や絵画作品を図案化したものが多く、私のお気に入りのシリーズだった。実家にあった切手帳を見返してみると、上村松園の「序の舞」、藤島武二の「蝶」、黒田清輝の「湖畔」、土田麦僊の「舞妓林泉」、小林古径の「髪」、鏑木清方の「築地明石町」、中村岳陵の「気球揚る」、岸田劉生の「住吉詣」、伊東深水の「指」などは全て集めていた。

 私にとって貴重だったのは、上村松園、土田麦僊、小林古径、鏑木清方、中村岳陵、伊東深水といった、子供にはあまり馴染みのない日本画家の存在を、切手の図案を通じて知ったことである。とりわけ、上村松園の「序の舞」は、切手を見た瞬間に美しい絵だと感じ、強く印象に残ったことを覚えている。後年、実物の「序の舞」を上村松園展で見た時も、この切手趣味週間の記念切手を思い出した。

 さて、話を少し戻して「月に雁」の話だが、「月に雁」と「見返り美人」は浮世絵から図案を取った切手である。「月に雁」は歌川広重、「見返り美人」は菱川師宣の作品である。先日、月を見上げて「月に雁」の切手を思い出した際にふと考えたのだが、「月に雁」に描かれたような、煌々と照る月をバックに雁が群れで飛ぶ光景なんて見たことがない。そんな絵に描いたような光景に出会うことってあるんだろうか、と。

 雁は遠くシベリアなどから越冬のために日本へ渡って来る。海の上では休むところもなかろうから、おそらくは夜も休まずに飛び続けるのだろう。従って、夜に月を背景に雁が飛ぶことはあろう。チャンスがあれば月夜をバックに雁の飛ぶさまに出会えるのかもしれない。しかし、夜に出歩くことはあまりないし、外出時にも夜道は暗いから、ついつい足元を見ながら歩くことになる。これでは「月に雁」の光景には出会えまい。

 けれど、一度は見てみたいものだ、月をバックに雁の飛ぶさまを。その時にはもう一度「月に雁」の切手を思い出すだろう。子供時代に憧れながら眺めた記憶と共に。





12月24日(日) 「この一年を振り返って」




 今年もそろそろ終わりが近づいている。私にとってこの1年は、サイトを再開したということ以外に、実に様々な出来事があった忘れがたい年だった。年の初めにこんな形で年末を迎えるということは想像すらしていなかった。そういう意味で、例年にも増して格別の思いで年の瀬を迎えている。

 暮れに向けて、人間社会は気ぜわしくなっていき、それに反比例するように、自然のたたずまいは静寂になっていく。山の様子を四季折々に表す俳句の季語があるが、冬の山については「山眠る」という言い方がされる。「冬山惨淡として眠るが如く」と評した中国の山水画家郭煕(かくき)の言葉から来たもので、まさに自然は眠りにつく季節である。

 この1年、休日画廊を再開し、ぼちぼちマイペースでやって来たが、このパソコン絵画徒然草については従来の運営と異なり、大阪勤務時代に奈良を散歩して回った記録を長々と掲載した。振り返ると、実に多くの場所を訪れたものだと感慨ひとしおである。

 奈良散歩記には、絵画作品の鑑賞記録がついているわけではないし、絵の題材も出て来ない。ましてや絵画論も登場しない。ただ歩き、見て回る。それだけである。しかし、そうして色々見た後、一旦は記憶の奥底に沈んだ風景の幾つかが、長い年月を経てふと意識の上に何らかの形で甦り、作品として実を結ぶことがある。

 私の描く風景画は基本的に想像画であり、現実にない景色を題材にしている。だが、その構図のどこかに、かつて見た光景が投影しているように思う。そういう意味では、散歩に出掛け様々な風景を見ることが、絵を描く肥やしになっているのである。関西で散歩の道々に見た景色が、どういう形で作品に結実していくのか、当の私にもよく分からない。焦らず熟成するのを待つことにしよう。

 さて、奈良散歩記は今年でおしまいだが、来年は奈良以外の場所に行った時の記録を書こうと考えている。奈良散歩記で味をしめたわけではないが、よく考えれば奈良だけえこ贔屓にするのは不平等というものだ。奈良散歩記を書きながら、他に訪れた場所を色々思い返し、奈良以外にも紹介すべきスポットがたくさんあるなぁと思い始めたのである。関西には、訪れる価値のあるところがあまたある。その中から、私なりに気に入った場所を紹介したいと思う。如何にも典型的な人気スポットの羅列とならないようにしたい。さて、どんな場所が登場するかは来年のお楽しみである。

 来年が良き年になることを願いつつ筆を置くことにしたい。皆様もどうか良いお年を。






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