パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第24話:磐余の道





 今年も残りわずかとなり、これが奈良散歩記の最後となる。最後を飾る形で紹介するのは、磐余(いわれ)の道である。

 磐余の道はこれまでも何度か触れたことがあるが、奈良から続く山の辺の道(やまのべのみち)の終点である桜井(さくらい)から始まり、飛鳥(あすか)へと続く古い官道で、近代になって道路が整備される中で、一般道に吸収されてしまった道である。

 さて、奈良散歩であるが、この頃になると公共交通機関でアクセスできる範囲ではもう行き尽くした感があり、今まで行ったことのある場所を再訪はするものの、新規開拓はもう諦めていた。もちろん、探せば各駅ごとに名所はあり、新しいコースを開拓出来なくはないが、あまり食指が動く場所はなかった。

 そんな中、年が明けてから暖かい週末に桜井市に出掛けた。桜井は以前、天理市(てんりし)から山の辺の道を歩いた際のゴールの地で、大和朝廷ゆかりの歴史ある場所である。そう言えば、談山神社(たんざんじんじゃ)訪問のおりも、ここが出発点だった。

 この日は市内の旧跡でも見ようかとふらりとやって来た。近鉄の駅を下りて、市内の地図でもないかと観光案内所に寄って棚のパンフレットを見ていたら、老夫婦が入って来て、係の人に「山の辺の道を回りたいが地図が欲しい」と頼んだ。係の人は素早く地図を出して道順を説明している。それを見て私は何気なく「磐余の道の地図ってあるんですか」と訊いた。今は一般道になって失われましたみたいな答えが返って来ると思ったら、その人は即座にマップを出して来た。

 驚いたのは訊いたこっちである。まさかそんなものがあるとは思わなかった。磐余の道は、私がよく利用する近鉄のてくてくまっぷにもないし、手元にある幾つかの奈良観光ガイドブックにも出ていない。従って、磐余の道をたどって歩こうとする人のために整理された地図があるなんて思わなかったのである。渡されたものは、桜井市役所観光まちづくり課作成のものだった。

 ルートを見ると、いずれも自動車道を歩くことになるが、それらしく経路が示され、沿線の旧跡も紹介されている。このルートは歩道が付いているのかと係の人に尋ねると、一部付いていない部分もあるが歩くのに問題ないという。ハイキングコースと銘打って桜井市が地図を作成している以上、そこは確認したうえでのことだろう。それを聞いて、俄然歩いてみたくなった。取りあえずこの日は、貰った地図に記されている磐余の道沿いの旧跡を桜井市内で見るに留め、後日出直して挑戦することにした。

 さて、いよいよ満を持して当日である。1月の寒い日だった。奈良はこの日の朝、氷点下の冷え込みとなったが、幸い風がほとんどないので太陽が出ると気温も上がり、まずまずのコンディションとなった。地図を貰った日に桜井市内をウロウロして道を確認しているから、出だしで迷うことはない。

 近鉄で桜井駅までやって来て南口からスタートする。地図の上では駅がスタート地点だが、磐余の道について調べると、正確な道の始まりはもう少し南に下りた場所らしく、現在では谷東という名の交差点になっている。





 上の写真で、歩道橋脇にこちらを向いて止まっている車の後ろ側が南方向で、ここから南に向かって磐余の道が始まるようだ。この交差点は実に味気ない雰囲気だが、磐余の道以外の三方向の道も、重要な古代の官道なのである。

 まず、左手の白い車の止まっている東西方向の道は国道166号線だが、これはかつての横大路(よこおおじ)である。横大路は、奈良盆地を東西に横切り、東は神の山である三輪山(みわやま)、西はその向こうに極楽浄土があると信じられた二上山(にじょうざん)とつながっている。そのいわれをたどると、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)に行き着くと言われる古い道である。

 この横大路の東端から更に東側に延びているのが、これまた古代の参詣道、初瀬街道(はせかいどう)と伊勢街道(いせかいどう)である。初瀬街道は、観音信仰で有名な長谷寺(はせでら)への参詣道、伊勢街道は、言わずと知れた伊勢神宮(いせじんぐう)への参詣道である。今は横大路といってもポピュラーではないので、一般に伊勢街道と呼ばれることもあるようだ。

 一方、横大路の西端の二上山から西側へは、峠を越えて大阪方面に竹内街道(たけのうちかいどう)が延びている。竹内街道は、近つ飛鳥(ちかつあすか)と呼ばれる河内飛鳥(かわちあすか)に行った際に歩いたが、推古天皇(すいこてんのう)が開いた古代の官道である。河内飛鳥は二上山の向こう側の麓にある。

 代表的な古代の官道だけあって、今でも交通量の多い道である。その割に昔ながらの道だからか幅が狭く、ギリギリ片側一車線で歩道が付いていない。お蔭で歩こうとすると結構怖い。

 さて、もう一つ残った、磐余の道と交差点でぶつかる北側の道、つまり駅の南口からここまで歩いて来た道だが、これは上ツ道(かみつみち)と呼ばれる古代の官道である。北は桜井駅を越えて平城京のあった奈良市まで延びていたという幹線道である。南北方向の道は他に、上ツ道の西側に中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)の二本があったという。これら南北方向三つの官道は飛鳥時代に整備されたもののようだ。

 そして磐余の道だが、これは上ツ道と横大路の交差する場所から南に向かって延びていたと言われている。従って、この交差点から磐余の道が始まることになる。それにしても、古代の官道が集まるこの交差点は、遠い昔から存在していて交通の要所だったことになる。その割には何の表示もないのだが…。皆さん、この交差点の重要性が分かっているのだろうか。

 さて、交差点を渡っていよいよ磐余の道スタートである。道は静かなもので、国道166号線と異なり、あまり車は通らない。両側は住宅で、歩道が付いているが人影もまばらである。歩き始めてすぐのところに神社がある。若桜神社(わかざくらじんじゃ)である。

 この付近に桜の井(さくらのい)という井戸があったという伝承があるが、現在若桜神社の鳥居の横に、復元された桜の井がある。





 観光案内所でもらった地図の説明によれば、履中天皇(りちゅうてんのう)がこの井戸の水を飲んで褒めたという話が古事記に出て来るようだ。

 履中天皇が住んだ宮殿は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)と言われており、桜井市周辺にあったものと推測されている。ただ、履中天皇は古墳時代の天皇で、実在はしただろうが、当時の詳細は不明であり、磐余稚桜宮の具体的場所もハッキリしていない。

 最近の発掘では、ここから南西方向に行った場所にある稚桜神社(わかざくらじんじゃ)の近くに磐余稚桜宮があったのではないかとされている。桜井市には、漢字は違うが同じ呼び名の神社が二つあるらしい。

 さて、桜の井の方だが、この井戸の名前が現在の桜井市の名の由来だという話が、磐余の道の地図に解説されている。では、宮殿名に出て来る磐余という名はどういう謂れなのだろう。

 磐余は、現在の桜井市南部、つまりこの辺り一帯の古い地名のようだ。どのくらい古い名前なのだろうか。実は、初代天皇である神武天皇の即位前の名前は、古事記では神倭伊波礼琵古命、日本書紀では神日本磐余彦尊というが、読み方はいずれも同じで「かむやまといわれひこのみこと」という。つまり、名前の中に、伊波礼、磐余と漢字は違うが、この付近を指す磐余という地名が入っているのである。何故なのか。

 神武天皇が大和地方を平定していく過程で反抗する地元豪族と戦っているのだが、この近辺が主戦場の一つなのである。この攻防の中で土地に付いた名前が磐余邑(いわれむら)というようだ。磐余とは、たくさん人がいる状態を指す古語から来た名前らしい。ここで勝って名を成した神武天皇が更なる進撃を行っていくわけで、華々しい戦果を挙げた土地の名前にちなんで、神倭伊波礼琵古命あるいは神日本磐余彦尊と名付けられたのではなかろうか。

 井戸から地名の話になってしまったが、そもそもの若桜神社について少し記しておこう。境内の案内板によれば、伊波我加利命(いはかがりのみこと)と大彦命(おおひこのみこと)を祭神とする神社だが、神社の縁起などは書いていない。ただ、かなり古い神社ではあるようだ。

 祭神となっている二神は実在の人物のようで、大彦命は第8代天皇である孝元天皇(こうげんてんのう)の息子、そして大彦命の孫が伊波我加利命という関係にある。もっとも、孝元天皇というのが神話時代の天皇なので実在したかどうか定かではない。そういう意味では、実在の人物とは言ったが、神様に近い時代の人である。

 さて、若桜神社を離れてどんどん道を進む。暫く行くと、右手の高台に桜井小学校が見えて来て、その先を更に行くと高校のグラウンドのある交差点に着く。磐余の道はここを右に曲がるのだが、この少し先に上之宮遺跡(うえのみやいせき)というのがあるので寄り道することにする。





 これは何かというと、飛鳥時代の遺構で、位の高い者の館の跡である。大きな庭を持った立派な建物があったようだが、現在見ることが出来るのはその一部であり、周りは住宅街になっている。

 この場所は案内板なしだと分かりにくく、普通の住宅街の中の一軒が遺跡という感じのロケーションである。その道の端に立っても、どこに遺跡があるのか分からない状態である。大きな遺構なので、その全部を保存するわけにはいかなかったのだろう。

 ここに誰が住んでいたかについては諸説あるようだが、よく言われるのが聖徳太子の屋敷跡という話である。聖徳太子は幼少期から上宮(かみつみや/うえのみや)に長く住んでいたとされるが、それがこの場所ではないかというのである。この辺りの地名が上之宮なのでそう推測されているようだが、真偽のほどは定かではない。

 聖徳太子という名前は後世になって付けられたものであり、生前の名前は厩戸(うまやど)である。これは出生の場所にちなんで付けられたものらしいが、他にも幾つか名前があり、その一つが上宮王(かみつみやおう)である。これは上宮に住んでいたから付いた名前なのだろう。

 この上之宮遺跡が聖徳太子の住まいだったかどうかは別にして、幼少時から青年期にかけて聖徳太子が桜井市周辺で過ごしたのは事実のようだ。

 寄り道ついでにこの辺りの話をすると、上之宮遺跡から更に南東方向に道をたどれば、明治期に来日していたフェノロサが激賞した国宝の十一面観音菩薩立像を蔵する聖林寺(しょうりんじ)がある。フェノロサは、岡倉天心(おかくらてんしん)と共に日本美術を再評価して日本画を再興した人物で、日本画に関心のある人なら誰でも知っているだろう。ただ、この十一面観音菩薩立像は聖林寺の本尊ではない。明治期の神仏分離令の下で廃寺となった大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺の仏像を聖林寺がもらい受けたものである。

 聖林寺は山の中腹に建つ小さなお寺であるが、門前からの眺めがいい。大神神社や、卑弥呼(ひみこ)の墓とも言われる箸墓古墳(はしはかこふん)まで見渡せる。十一面観音菩薩立像と併せて人気のあるお寺である。

 その聖林寺から更に山の中に分け入ると、以前に訪れた有名な談山神社(たんざんじんじゃ)があるわけである。ただ、こちら方向に行くと完全に磐余の道から離れてしまう。

 さて、寄り道はこれくらいにして磐余の道に戻ろう。先ほどの高校のグラウンドのある交差点を右に曲がると、そこから先は少し道幅が狭くなり、歩道もなくなる。ここからは少々急な上り坂となっているのだが、その坂のたもとに艸墓古墳(くさはかこふん)への案内板がある。磐余の道の地図でも紹介されている古墳なので、これもまた少々寄り道になるが、見に行くことにする。





 磐余の道からほんのわずかしか離れていない住宅地の中にこの古墳はあるのだが、これが実に意外な場所である。案内板の先には住宅が何軒かあるばかりで道は行き止まりになっている。その道の脇に艸墓古墳の案内板が出ているのだが、なんと住宅と住宅の間にある溝を通るのである。まるで空き巣になった気分で、側溝の脇の細いスペースをたどる。本当にこれでいいのかというような経路である。住宅の裏側に出ると空き地があり、そこにこの古墳がある。

 カラト古墳の別名もあるようだが、埋葬者は分かっていない。この古墳の面白いところは、身をかがめて入れば石室まで行けて石棺を直接見られることだ。入らずとも、入り口から石棺は覗ける。石の蓋が屋根の形をしているのが分かるが、これは古墳時代後半の石棺の特徴らしい。

 奈良では古墳がたくさんあるので、皇族のものは別にして、壊されたり農地に転用されたりしている。市中心部の住宅街のど真ん中で、埋葬者が誰かも分からない古墳をよくぞ残したものだと感心した。

 さて、磐余の道に戻って、先ほどの坂を上る。結構急な坂である。その坂を上り終えると、左手に木立が現れ、今度は下り坂となる。この頂上部分から右側の山に向かって道が延びていて土舞台(つちぶたい)という場所がある。磐余の道の地図でも紹介されている名所なので、また寄り道することにする。

 先ほどの艸墓古墳もそうだが、道の右手は小高い山である。ここを頂上まで登る。途中は斜面に広がる住宅地だが、上は自然がそのまま残っていて、土の道である。ちょうど、先ほど脇を通った桜井小学校の裏山に当たる。その一角に広い空き地があり、そこが土舞台とされる。





 さて、この土舞台とは何かだが、聖徳太子ゆかりの場所である。

 飛鳥時代に百済(くだら)から味摩之(みまし)という人がやって来て伎楽舞(くれのうたまい)という舞いを披露する。現在我々が伎楽(ぎがく)として見ることの出来る、あの仮面をつけて舞う独特の踊りだが、「くれのうたまい」という読み方で分かるように、元々は中国南部の呉(ご)から伝えられたものらしい。

 それを見た聖徳太子が、我が国でもこれをやろうと発案し、貴族の子弟を集めてこの土舞台で練習し、踊りを披露したのである。そのため、日本で初めての国立の演劇教室とか劇場とか言われている。いわば、芸能発祥の地である。

 これが発端となったのかどうかは知らないが、その後寺院の式典などで盛んに伎楽が舞われるようになる。ただ、後世になって次第にすたれ、現在では特別な時にしか伎楽の舞いを見ることはない。

 こうして見ると、聖徳太子と桜井とは縁が深いのだと感じる。生まれが飛鳥だし、後半生は斑鳩(いかるが)にゆかりがあるから、一般に聖徳太子と桜井とは結びつかないが、成長するまでを過ごした地として、何かと馴染みのある場所だったのだろう。

 土舞台は山の上の静かな場所だが、ポツポツと訪ねて来る人はいる。みんな観光で桜井市内を歩いている人のようだ。このエリアは山の上なので見晴らしがいい。ずっと談山神社方面まで見渡せる。来て損のない場所だと思う。

 この土舞台から道沿いに少し行くと、小さな空き地があり、そこに安倍山城跡という説明板が立っている。これは時代がぐっと下がって、南北朝時代の遺構らしい。南朝方の戒重西阿(かいじゅうさいあ)が、ここから北西の桜井市内に城を築いていたが、これを討つために北朝方の細川顕氏(ほそかわあきうじ)が陣を構えたのがここだという。見晴らしの良さから見て、陣を構えるのには都合の良い場所だったのだろう。

 さて、そろそろ山を下りて、元の磐余の道へ戻ることにする。冒頭から寄り道だらけである。

 坂の上から今度は下り坂になるのだが、下り終わった辺りの左手に安倍文殊院(あべもんじゅいん)への入り口がある。こちらは裏口ということになるのだろうか。ここにも立ち寄るわけだが寄り道ではなく、地図によれば磐余の道は、安倍文殊院の境内を通っているのである。道を入ったところは駐車場である。その先に有名な文殊池に浮かぶ金閣浮見堂(きんかくうきみどう)が見える。





 安倍文殊院は日本三文殊の一つとして知られている。他の二つは、京都府の宮津にある智恩寺(ちおんじ)と山形県高畠町にある大聖寺(だいしょうじ)である。宮津の智恩寺は天橋立(あまのはしだて)のたもとにあるのでご存知の方も多いのではないか。別名を切戸の文殊(きれとのもんじゅ)という。もう一つの大聖寺は亀岡文殊(かめおかもんじゅ)の通称で知られているようだ。

 私は宮津の智恩寺には子供時代を含めて何度も行ったことがあるが、山形の大聖寺の方は訪れたことがない。大聖寺へ行けば三文殊全て制覇ということになるが、最寄りの米沢市からも離れているので、なかなか行くのは難しかろう。

 この安倍文殊院の本尊である文殊菩薩は、獅子の上に乗っていて高さが7mもある巨大なものである。鎌倉時代を代表する仏師である快慶(かいけい)の作と伝えられており、国宝に指定されている。この文殊菩薩像には脇侍像が4体付いているのだが、この中の善財童子像(ぜんざいどうじぞう)が人気のようだ。手を合わせて横向きに走り去るような独特のポーズを取っている。表情もあどけなく愛嬌がある。

 安倍文殊院の由来は、飛鳥時代に孝徳天皇(こうとくてんのう)の勅願で、左大臣だった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が建立したというもので、安倍一族の氏寺となった。

 孝徳天皇は大化の改新時代の天皇で、権勢を欲しいままにした有力豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)により殺された乙巳の変(いっしのへん)の直後に、皇極天皇(こうぎょくてんのう)から譲位を受けて皇位に就いている。譲位で天皇になったのは、この人が初めてである。

 孝徳天皇は都を飛鳥から現在の大阪市に遷し難波宮(なにわのみや)を営んだが、この時の政権メンバーが錚々たる顔ぶれである。皇太子に中大兄皇子、天皇の最高顧問である内臣(ないしん)に中臣鎌足という蘇我氏親子を滅ぼしたコンビが就き、左大臣が先ほど述べた安倍倉梯麻呂、右大臣が蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)である。

 安倍倉梯麻呂の安倍の字は、元は阿部という書き方をしていた。従って、阿倍倉梯麻呂とも書くし、阿倍内麻呂(あべのうちまろ)の名前でも知られている。乙巳の変で蘇我氏親子が滅ぼされる以前は、安倍倉梯麻呂は蘇我氏と行動を共にしていた印象がある。しかし、孝徳天皇の政権下で左大臣に任じられたのは、有力豪族として政治バランス上きちんと遇しておく必要や、その娘が孝徳天皇の妃となっていたという事情があったためだとも言われている。





 日本三文殊の一つということで人気のあるお寺らしく、かなりの賑わいである。お昼頃に着いたが、もう駐車場は満車だった。

 最初に掲げた金閣浮見堂が、よく観光ガイドブックに出て来るのだが、これは別名を仲麻呂堂(なかまろどう)とも言い、安倍倉梯麻呂の子孫である阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)ゆかりのお堂である。

 阿倍仲麻呂は奈良時代に遣唐使(けんとうし)として唐に留学し、難関と言われる唐の官吏登用試験、科挙(かきょ)に合格して玄宗皇帝(げんそうこうてい)に仕えた秀才である。仲麻呂は、30年以上唐の官吏として活躍した後、日本に帰ろうとしたが船が難破して果たせなかった。結局故郷に戻ることなく唐で没したと伝えられる。

 金閣浮見堂のある文殊池のたもとには、百人一首にも載っている仲麻呂の有名な和歌を記した歌碑が立っている。

  天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

 誰もが聞いたことのある有名な歌だが、これを仲麻呂が詠んだのは日本ではない。遠く唐にあって、故郷を思って詠んだものである。

 この金閣浮見堂は昔からあった建物ではないようだ。お寺の案内では、昭和60年に完成したようで、阿倍仲麻呂のほか安倍(阿部)一族を祀ったものという。

 この安倍(阿部)一族からは有名な人が幾人も出ているわけだが、安倍文殊院ゆかりの人としてもう一人挙げれば、平安時代に陰陽師として活躍した安倍晴明(あべのせいめい)がいる。安倍文殊院によれば、安倍晴明はここで修業をしたことになっている。

 文殊池の東側に小高い丘があるのだが、ここが安倍晴明が天文観測をした場所だとされていて、天文観測の地と書かれた石碑が立っている。ここに立つと西の方角がきれいに見渡せる。畝傍山(うねびやま)、二上山(にじょうざん)、葛城山(かつらぎさん)なども見える。陰陽師は元々天文や暦も扱う役職で、晴明も星の運行を見ながら占いをしたと言うから、ここでの天文観測は満更嘘でもないかもしれない。ただ、彼が活躍した平安京から遠いのは遠い。





 上の写真は、この天文観測の場所に建つ晴明堂(せいめいどう)である。この建物も金閣浮見堂と同じく新しい。元々晴明堂という建物が境内にあったようだがいつのまにか失われ、それを平成16年に復興したという。傍らの案内板では、安倍晴明の千年忌を機会に200年ぶりに再建したとある。京都の晴明神社(せいめいじんじゃ)はいつも賑わっているから、晴明ブームにあやかったのだろうか。

 安倍晴明は安倍(阿部)一族だが、生まれは大阪の阿倍野(あべの)というのが有力説である。阿倍野は古来、安倍(阿部)一族が暮らした地だが、大阪にこんな場所が出来たのは、孝徳天皇が大阪に都を移して難波宮を建て、安倍文殊院を創建した安倍倉梯麻呂が左大臣として政権中枢に就いたからだと言われている。一族郎党が大阪へ引っ越して来たわけである。やがて都が飛鳥に戻ると大阪の安倍(阿部)一族もすたれるが、全員がいなくなったわけではない。安倍晴明は、そんな大阪在住の安倍(阿部)一族から出たというのが、よく言われている話である。

 昔から伝わる話によれば、安倍晴明の母親は人間ではなく、白狐だったという。晴明の父親が阿倍野より南に下った和泉国(いずみのくに)の信太(しのだ)の森で、猟師に追われているところを助けてやった白狐が人間に化けて嫁いで来て、出来た子供が安倍晴明というわけである。この白狐、名前を葛乃葉(くずのは)という。

 実はこの安倍文殊院の境内に、葛乃葉を祀る葛の葉稲荷というものまである。葛の葉稲荷の案内板では、安倍晴明が生まれたのもこの地ということになっている。ここから信太の森はかなり遠いんだが…。まぁここは安倍(阿部)一族の本拠地だから、安倍晴明がここで生まれたという説も、全く根も葉もない話ではない。

 安倍文殊院のもう一つの見どころとしては、境内に古墳が二つある。文殊院西古墳と文殊院東古墳である。

 東古墳は別名を閼伽井の窟(あかいのくつ)といい、石室につながる羨道の途中に湧き水が出ている。これは智恵の水と呼ばれ、ここにお参りすると知恵が湧くということで信仰の対象になっているようだ。石室入り口に石灯篭が立っているが、石室内には入れない。また、誰が埋葬者かも分かっていない。

 一方、西古墳はもう少し大きなもので、文殊池のたもとにあって石室内に入ってお参り出来る。





 ここの石室の石組は立派で、特別史跡に指定されている。頭をかがめて中に入ると、正面に石に彫られた仏様が祀られている。入り口の案内には願掛け不動とあるが、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)の手作りと解説されている。本当かどうか知らないがかなり古いもののようで、全体がかなり朽ちている。

 さて、この古墳はいったい誰の墓かということになる。確証はないものの、安倍文殊院創建に関わった安倍倉梯麻呂その人の墓ではないかと言われている。仮に安倍倉梯麻呂でなくとも、造りの立派さから見て、安倍(阿部)一族の有力者に違いないと見られているようだ。

 安倍文殊院の話が長くなったので、そろそろここを出て先を急ごう。磐余の道は、安倍文殊院の駐車場から入って境内を通り、正面の山門へ抜ける。合格祈願で有名な智恵の神様だが、これでは裏口入学である。

 山門を出たところで道を左に曲がり、南に進む。地図上の経路は、この先少し行ったところで右折して、並行して走っている裏道を進むように指示されている。こういう道順になっているのは、脇にある史跡公園に安倍寺跡(あべでらあと)があるからだろう。





 先ほど安倍文殊院の説明で、孝徳天皇の勅願で安倍倉梯麻呂が建立したと書いたが、正確に言えば、安倍倉梯麻呂が建てたのは現在の安倍文殊院ではない。その前身となる安倍寺であり、それがこの史跡公園にあったとされている。

 公園の西側に幾つかの土檀があり、南側にも一つ土檀がある。その規模から見てかなり大きな寺だったのではなかろうか。元々この場所に古代の遺構があることは地元では旧知の事実だったようだが、以前は安倍(阿部)一族の屋敷跡だと考えられていたらしい。それを発掘してみたら大規模な寺の跡だと分かったわけで、安倍寺の遺構だと確認されたのである。

 古い記録に崇敬寺(すうきょうじ)というお寺があるのだが、これは安倍寺の別名だとされている。この安倍寺ないし崇敬寺というお寺は飛鳥、奈良、平安期を通じてここにあったわけだが、鎌倉時代に焼失し、現在安倍文殊院のある地に移転して再建されたようだ。再建後にも焼失した歴史があり、安倍文殊院の現在の本堂は江戸時代の建立である。安倍文殊院の正式名称は、安倍山崇敬寺文殊院というようだ。

 さて、ここを中心に栄えた安倍(阿部)一族だが、その発祥はどこにあるのだろうか。伝承によれば、祖先は皇族である。第8代天皇である孝元天皇の息子、大彦命がそもそもの祖先だということになっている。そう、この日最初に訪ねた若桜神社の祭神である。もう一つの祭神である伊波我加利命は、上の方で述べたように大彦命の孫なので、若桜神社は安倍(阿部)一族の祖先を祀ったゆかりの神社ということになる。

 さて、磐余の道の先を急ぐことにする。安倍寺跡のある史跡公園から少し南に下がると幹線道路にぶつかる。ここを渡って、南西方向に斜めに延びる歩道のない自動車道に入る。暫く行くと小山の麓で県道とぶつかる。これが磐余道のメインである県道15号線である。

 ちなみに、この小山の向こう側に、若桜神社のところで話に出した、もう一つの稚桜神社があるようだ。つまり、その周辺に履中天皇が住んだ磐余稚桜宮があったということになろう。

 県道15号線部分の磐余の道が、全体の行程の中では中心部分となろう。つまり桜井と飛鳥を結ぶ道である。この間は、歩道はあるが、大型トラックも含めて結構交通量が多く、騒がしい。従って、本日のメインイベントの行程なのだが、実に味気ない道行きである。

 道の両側は、家と畑の混在する郊外の農村風景である。たまに車が途切れると、辺りを静寂が包む。こうしてみると、本来はのどかな場所なのだろう。ただ、こんな道ゆえ、歩道は付いているのに、他に歩いている人は誰もいない。





 道中に幾つも木材関係の施設がある。実は桜井市は木材の町なのである。

 奈良県は吉野杉に代表されるように森林資源に恵まれ、従来から林業が盛んだった。桜井市はそうした木材の集積場所で、加工も行われていたようだ。郊外に限らず、市内を歩いていても木材関係の施設をよく見掛ける。この日磐余の道を歩く前に、桜井市内をウロウロしたことがあったが、安倍木材団地という地名があり、交差点の名前も安倍木材団地○○というのを幾つか見掛けた。

 さて、味気ない県道15号線をのんびり歩いているうちに、バス停の脇に飛鳥資料館の案内板が出る。気が付けば、県道沿いの行程をもう半分以上来たことになる。まもなく飛鳥エリアである。どれくらいかかるだろうかと思っていたが、想像していたよりも近い。ここから地図では県道を外れて、農村の中の生活道を行くことになる。一転して静かな道である。

 この裏道を1km弱歩くと、次なる目的地、山田寺跡(やまだでらあと)がある。裏道が再び県道15号線に合流する手前に案内板が現れ、その先に小さなお寺と広大な野原が見える。





 このお寺の名前を知ったのは中学生くらいのことだろうか。美術の教科書だったか歴史の資料集だったかに、山田寺仏頭という国宝の仏頭の写真が出ていた。胴体部分は焼け落ちて頭部だけが残ったものだが、それでも国宝というところが印象に残った。それだけ当時の仏像の特徴が良く出ている傑作なのだろう。

 この仏頭は、山田寺の講堂の本尊だったものだが、それを興福寺(こうふくじ)の僧兵が押し入って強奪したというシロモノである。持ち去られた時にはちゃんとした仏像だったのだが、その後の火災で胴体が焼け落ちた。南都北嶺(なんとほくれい)と恐れられた興福寺の悪行が伺えるエピソードである。

 さて、元々ここにあった山田寺だが、創建は、安倍文殊院のところで少し話に出した蘇我倉山田石川麻呂による。難波宮を開いた孝徳天皇の右大臣だった人物である。当時左大臣だった安倍倉梯麻呂が創建した安倍寺と同じ時代に建てられた寺院ということになる。

 蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族であり、暗殺された蘇我蝦夷のおい、入鹿のいとこに当たる。しかし、石川麻呂は蘇我本家とは対立していて、中大兄皇子、中臣鎌足が画策した蘇我氏親子暗殺に加担することになる。

 当時の皇居であった飛鳥の板蓋宮(いたぶきのみや)において、息子の蘇我入鹿を中大兄皇子が斬り殺す計画が立てられた。これは女帝だった皇極天皇の面前で行われている。実行の合図は、石川麻呂が朝鮮使の上表文を読み上げるというものだったが、読み始めても中大兄皇子が斬りかからないので、石川麻呂は焦り始めて震えたという。そこで入鹿に不審に思われたが、その直後に暗殺は実行に移され、殺された入鹿の死骸は建物の外に打ち捨てられた。

 しかし、蘇我入鹿暗殺の実行犯の一人として右大臣に任ぜられた石川麻呂の末路は哀れである。異母弟だった蘇我日向(そがのひむか)によって、石川麻呂に謀反の動きありと密告がなされる。それを受けて孝徳天皇により派遣された兵が山田寺を包囲したところ、石川麻呂は妻子と共に寺院内で自害した。実は石川麻呂は無罪だったことが後日分かったが、この騒動の背後には中大兄皇子と中臣鎌足がいたと言われている。

 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂一家が亡くなった後も存続したが、その後次第に寺勢が衰える。完全に廃寺となったのは明治時代の廃仏毀釈の中でのことらしいが、それ以前にかなり荒れ果てていたのではなかろうか。

 現在傍らにある小さなお寺は、明治時代半ばに再興された山田寺らしい。その境内に史跡山田寺址の石柱が立つ。お寺自体は小さなお堂が建つ簡素なものである。境内には陸軍の慰霊碑などが立っている。

 本来の山田寺の跡は、広い野原に基壇が点在している。冬だったせいか、誰もいない。飛鳥の観光エリアからは少し離れているため、ハイシーズンでもそれ程人は来ていないのではなかろうか。野原にはマムシ注意の立て札があった。奈良はどこも自然に溢れている。

 ここからはまた県道に戻ることになる。といっても、飛鳥はもう目の前である。県道への合流地点から400mほど先の飛鳥資料館のところで、明日香村の表示が出る。ようやく飛鳥に着いたわけだ。

 磐余の道の地図に従えば、飛鳥資料館から3〜400mほど行った先で、道を左に曲がるのだが、特に目標もなく、左折場所が分かりにくい。桜井市作成の地図がやや大雑把だったので、Googleマップで予め調べて信号の数を数えながら進む。飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の正面に出る道が正解なのだが、Googleマップと実際の地理も微妙に違うので、不安になりながら、ここだと思う交差点で曲がる。

 合っているのかなと思いながら暫く進むと、左手に飛鳥坐神社の鳥居が現れた。安堵して階段を上り、飛鳥坐神社に参拝した。





 以前、飛鳥を訪ねた際に、この飛鳥坐神社は紹介していなかったと思う。ただ、あまりに古い神社ゆえ、創建の謂れなどはよく分かっておらず、何をどう紹介していいのか、迷うところである。

 境内にある縁起によれば、祭神は八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)、飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなびみひめのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、高皇産霊神(たかむすびのかみ)の四神である。

 ちょっと興味を惹かれるのは、大物主神は、神の山である三輪山をご神体とする大神神社の祭神だということ、そして八重事代主神はその息子で、以前葛城古道(かつらぎこどう)を訪れた際に説明したように、葛城を支配していた古代豪族が奉じていた神であるということだ。二神とも、神武天皇が大和の地に入って来る前から先住豪族により祀られていた神たちであり、これらの豪族は神武天皇と共存する道を取ったので、滅ぼされることなく大和の地に住み続けた。

 境内の縁起を見ていてもう一つ興味を惹かれたのは、この神社に氏子はなく、第10代の天皇である崇神天皇(すじんてんのう)により命じられた家系が代々神職を務めているという点である。崇神天皇は神話時代の天皇だが、神職を務める者に名前を与えている。その名が大神臣飛鳥直(おおみわのあそんあすかのあたい)であり、今では飛鳥姓を名乗っているとある。現在は87代目だそうだ。

 この飛鳥家に縁のある民俗学者がいる。折口信夫(おりくちしのぶ)である。折口自身が飛鳥家の血を引いているわけではないが、祖父が飛鳥家に養子に入った縁で、何度か参拝に訪れていると、境内の説明板に記されていた。石段脇には歌碑もある。

 どうも今一つ正体をつかみ切れない神社だが、その縁起よりも、飛鳥坐神社と言えばおんだ祭という方がはるかに有名である。何故か境内の説明板には記されていないが、天下の奇祭として、多くの人にその名が知られている。

 この祭りのハイライトは、天狗とおかめの面をした二人が性行為を行うところで、昔のおおらかな時代の産物だろうか。おんだは田や田植えに起源を持つ言葉のようで、元々は豊穣を祈る祭ということになる。祭神に生産を司る高皇産霊神が入っているところを見ると、子孫繁栄などの要素も加わって、今日の姿になったのではあるまいか。年に1回のおんだ祭の日は、境内は大いに賑わうという。

 さて、飛鳥坐神社を見たついでに飛鳥でも寄り道をすることにし、先ほど出て来た中臣鎌足の遺構を見に行くことにする。飛鳥坐神社の脇にある細道を山に向かって東にたどると、道沿いに中臣鎌足生誕の地がある。

 現在生誕の地とされる場所には、大原神社(おおはらじんじゃ)という名の小さな神社が建っているが、本殿裏手に川が流れており、その川べりに鎌足がつかった産湯という井戸が残っている。





 中臣鎌足が生まれた場所については、現在の奈良県橿原市や茨城県鹿嶋市とする説もあると聞く。乙巳の変以前の鎌足はそれ程注目されていたわけではないから、分かっていない部分も多いのだろう。中臣氏は代々祭祀を司る家系で、政治の主人公ではなかったのである。

 境内の案内板を読むと、明治時代まではこの右横に藤原寺(とうげんじ)というお堂もあったようだ。今では周囲はのどかな田園風景である。

 大原神社の入り口には、「大織冠誕生舊跡」と記された古い石碑が立っている。大織冠(たいしょくかん)は中臣鎌足だけが授けられた特別な冠位である。

 共に蘇我氏親子を討った盟友、中大兄皇子はやがて天智天皇(てんちてんのう)として即位する。晩年、病の床に伏した中臣鎌足に対し、その功をねぎらって天智天皇が冠位を送る。この時授けられたのが大織冠の位で、同時に新しい姓も賜った。それが藤原である。鎌足はその翌日に亡くなっている。

 鎌足の墓所は談山神社の奥にある御破裂山(ごはれつやま)山頂だが、談山神社の建つ多武峰(とうのみね)には、桜井市からだけでなく飛鳥からも行ける。今でもハイキングコースとして道が整備されている。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏親子暗殺の謀議を行った談山(かたらいやま)は談山神社の裏手だが、二人は飛鳥側から登ったものと思われる。

 この大原神社のすぐそばには、鎌足の母親の大伴夫人(おおともぶにん)の墓所がある。鎌足の父は中臣御食子(なかとみのみけこ)というが、入鹿暗殺後に自害に追い込まれる蘇我蝦夷とも通じていたし、安倍寺を創建した安倍倉梯麻呂ともつながりがあった。母は名前で分かる通り、有力豪族大伴氏の出身である。





 上の写真が大伴夫人の墓所と伝えられる円墳の中心部分である。小高い台地の中心にこの古墳があり、遠くから見るとなかなか立派な姿である。

 さて、寄り道はこのくらいにして、再び磐余の道に戻ろう。地図によれば、先ほど見た飛鳥坐神社の鳥居前から真っすぐ西に延びる道を進み、途中で左に曲がって飛鳥寺(あすかでら)の前に出る。

 飛鳥寺は、以前飛鳥を散策した際に紹介したので改めて詳しく紹介しないが、蘇我氏の氏寺である法興寺(ほうこうじ)の後身に当たるお寺である。法興寺は、都が平城京に遷った際に移転して元興寺(がんごうじ)となった。しかし、飛鳥の跡地に何もなくなったわけではなく、この飛鳥寺が残った。今では、飛鳥寺は飛鳥観光の華である。

 冬のせいか、ほとんど人がいない。飛鳥寺境内を抜けて裏手に回り、蘇我入鹿の首塚へ行ったが、いつもは賑わっているのに私ひとりである。その向こうに、父の蝦夷が自害に追い込まれた甘樫丘(あまかしのおか)が見える。この丘に蘇我氏邸宅があったと伝えられている。

 再び磐余の道に戻って少し進むと、これも以前紹介した酒船石(さかふねいし)のある小高い丘が左手に見えて来る。この丘は人工の丘であり、日本書紀によれば、大化の改新で皇位に就いた孝徳天皇の死後、重祚して再度皇位に就いた斉明天皇(さいめいてんのう)が命じて造らせたものである。

 斉明天皇は元の皇極天皇だが、公共事業好きだったらしく、他にも大規模な土木工事を命じて批判されている。当時の政治の実権は皇太子だった中大兄皇子が握っていたから、こんなことでもしなければ存在感を発揮できなかったのだろうか。

 地図上では、ルートはこのまま石舞台古墳(いしぶたいこふん)まで続いているが、そこまで行くと遠いし、磐余の道が蘇我馬子(そがのうまこ)の墓所へ向かう道だったというのはおかしな気がする。ここまで見た来たように、磐余の道は安倍寺や山田寺を通る道だったため、考古学の世界では安倍山田道(あべやまだみち)と呼ばれているようだ。磐余と呼ばれた桜井の地から飛鳥へ行く道である以上、飛鳥のエリアに入ればもうゴールということかもしれない。

 そうなるとどこでこの日の行程を終えようかと暫し思案したが、この少し先にある伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)まで行くことにした。

 飛鳥板蓋宮は、まさに蘇我入鹿が中大兄皇子に暗殺された宮殿である。入鹿の首は中大兄皇子を追いかけて宙を舞ったという。本日見た旧跡に関係した中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂、安倍倉梯麻呂らが関わった蘇我親子暗殺劇とそれに続く大化の改新は、ここを舞台に始まったわけである。

 また、この伝飛鳥板蓋宮跡には、それ以前にも飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)があり、飛鳥板蓋宮がなくなった後にも、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)が造営された。つまり、飛鳥における政治の拠点だったわけで、磐余の道散策のゴールとしては、こちらの方がふさわしい気がする。





 この日は、暫し伝飛鳥板蓋宮跡にたたずんで周りの田園風景を楽しんだ後、近鉄の岡寺駅まで歩いて帰った。歩いた歩数は2万1千歩。距離にして16kmだが、これは色々寄り道したり、見学したりしたからだろう。実感としては、桜井と飛鳥は思ったよりも近かった。

 私の奈良散歩記の中で、これでようやく奈良と飛鳥がつながったことになる。山の辺の道を歩き始めてからここに至るまで随分かかったが、この日の道行きで、何か大きな輪が閉じられたような感慨を覚えた。

 かくして1年間かかったが、これで奈良散歩記を終わりにしたいと思う。いつもいつも、実に楽しい道行きだった。こんなに深く奈良の地を旅をすることはもうないだろう。







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