パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第22話:近つ飛鳥





 次に奈良散歩の新たなコースに向かったのは、10月も下旬にさしかかろうという頃である。この年の11月の週末は、東京での会議や職場の宿泊旅行、有志によるハイキングなど予定が目白押しだったため、週末の長距離散歩に行くなら、10月しかないと思って出掛けたのである。

 それにしても、奈良散歩の新規コースが枯渇したとか言いながら、よくもまぁ次々新手が出て来るものだと呆れられるかもしれないが、今回も、前回の柳生街道(やぎゅうかいどう)同様、初期の頃から散歩コース候補に浮かんでは消え、消えては浮かびしていた幻のコースである。

 今回訪ねたのは、河内飛鳥(かわちあすか)である。冒頭からやや反則技的なことを記すと、ここは奈良ではなく、河内という名が示す通り住所としては大阪府である。ただ、飛鳥と名前が付いていることから分かるように、飛鳥時代の奈良とかなり関係が深い。別名を「近つ飛鳥(ちかつあすか)」というが、奈良の二上山(にじょうざん)の西側の麓にあたり、4人の天皇と聖徳太子(しょうとくたいし)が眠る王陵の谷(おうりょうのたに)や、遣隋使(けんずいし)として大陸に渡った小野妹子(おののいもこ)の墓があることで知られている。

 ではどうしてここが最初から散歩コースとして登場しなかったかというと、最寄りの駅から遠いうえ、見どころとなるエリアがあちこちに散らばっていて、一日の散策に収まり切らなかったためである。もちろん、朝早くから出掛ければその問題も克服出来たかもしれないが、ご存知のように昼頃から活動しない物ぐさな人間ゆえ、それは最初から断念していた。

 ただ、新規コースが枯渇してくるにつれ、東京に戻ったら二度と行けない場所なんだから少々無理をしてでも行っておいた方がいいんじゃないかという気持ちが日増しに高まって、計画を再考することとなった。柳生街道の時同様、一度に全てを見ようとするから計画が破綻するのだという視点から再検討して、とにかく聖徳太子の陵墓を中心に半日程度で歩ける範囲を周ることにしたのである。

 本日のスタート地点は、近鉄南大阪線の上ノ太子駅(かみのたいしえき)である。もう駅の名前からして、聖徳太子が前面に出ている観がある。ちなみに町の名前も太子町(たいしちょう)で、町のマスコットキャラクターも「たいしくん」という。1万円札から聖徳太子が消えた時には寂しかったに違いない。

 上ノ太子駅に着くと、電車からたくさんの人が降りたのでビックリする。みんなどこに行くのだろうか。私のような散策ルートを歩く人には見えなかった。地元の人でもなかろう。とりあえず私は駅の北側改札から出る。目の前は丘で、その上に墓地が見える。そこを回りこむようにゆるい坂道を上っていった。

 道の脇にはブドウ畑が広がる。その先にワイナリーがあった。工場内を見学者の一団が歩いているのが見える。さては電車から降りた一群は、この見学会の人たちだったのか。

 途中で脇道にそれて、静かな道をゆるく下っていく。道の横に小高い小山があり、上に向かって石段が延びている。本日最初の訪問場所、飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)である。





 思った通り、参拝客はいない。仮に先客がいたとすると、手狭さを感じるくらい小さな神社である。傍らは果樹園で、実にのどかな雰囲気だ。忘れられたような静けさの中に暫したたずむ。

 飛鳥戸神社は、飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)という古代豪族の氏神が祀られていたとされる神社である。境内の案内板によれば、飛鳥戸造一族は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に朝鮮半島からやって来た渡来人で、その祖先は百済(くだら)の王族だとされている。従って、ここに本来祀られていたのは、その一族の祖先だったはずだが、現在の祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)である。

 ここに氏神があることから分かる通り、飛鳥戸造一族はこの周辺を拠点に活動していたと考えられる。

 ところで、先ほど町の名前は太子町と紹介したが、この飛鳥戸神社のある場所は羽曳野市(はびきのし)である。駅を挟んで南北で行政区が変わるらしい。

 ちなみに、羽曳野市は日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの町であり、ここから北西方向に暫く行くと、日本武尊の白鳥陵(しらとりのみささぎ)がある。

 日本武尊は、景行天皇(けいこうてんのう)の皇子だが、若い頃から乱暴者で父の景行天皇から疎んじられていた。日本武尊を近辺に置いておくと危ないと考えた景行天皇は、日本武尊に西日本の平定を命じ、それに成功するとすぐさま東日本の平定を命じる。日本武尊は八面六臂の活躍で父の命に応えるが、自分自身、父から必ずしも愛されていないと感じながら戦い続ける。そして、東国から大和に帰って来る途中で、受けた傷が元になって伊勢で死去する。

 故郷を前にして亡くなる直前に詠んだ有名な思国歌(くにしのびうた)の郷愁の調べが、もの悲しさをただよわせる。

  大和は国のまほろば
  たたなづく青垣
  山ごもれる大和しうるはし

 望郷の念に駆られながら亡くなった日本武尊は、死後白鳥となって奈良の御所(ごせ)を経由して羽曳野の古市(ふるいち)に飛来し、羽を曳くようにして再び空へ飛び去ったと伝えられており、これが羽曳野市の名前の由来になっている。古市は、白鳥陵以外に、複数の天皇陵を含む100基以上の古墳が集中する古市古墳群(ふるいちこふんぐん)として有名で、この周辺はどこもかしこも古代の遺構だらけというわけだ。

 さて、脇道を引き返して元の道に戻り、広域農道という名の立派な自動車道を横切る。その先には「この先行き止まり」と書かれた看板が立っているが、かまわずその坂を上る。やがてブドウ畑の先に池が見えて来た。池の傍らには、イノシシ注意の立て札や、猟銃による駆除を行うので朝夕は注意せよといった、おどろおどろしい看板が並んでいる。

 看板のところを左に折れて、池の脇を通って反対側に出ると、横にそびえる山に向かって、急な石段が延びている。どうやら、この石段の上が次の目的地らしい。





 かなり急な石段で少々息が切れたが、頑張って上ると山頂に石室があり、開放されている。但し、入り口は狭いので中には入れない。

 この古墳を観音塚古墳(かんのんづかこふん)と言う。傍らに案内板が立っているが、飛鳥時代に造られた古墳で、周囲には100基以上の円墳が散在しているようだ。これらの古墳群は河内飛鳥の千塚(かわちあすかのせんづか)と呼ばれていると説明が書かれている。

 観音塚古墳の築造にはかなり高度な技術が使われたと見られ、大陸からもたらされた技術ではないかとの見方もある。確かに、石室を覗くと、大きな岩が丁寧に加工されてピッタリと合わさっており、うまく出来ているなと感心する。先に見た飛鳥戸神社の存在と併せ考えると、古代においてこの周囲は、優れた技術を持つ渡来系豪族の拠点だったと見られる。

 ところで、古墳から眺める周囲の景色が素晴らしい。一帯は延々とブドウ畑が続く。しんどい思いをして石段を上った価値はあった。ただ、このブドウ畑の拡大に伴い、古墳もその中に埋もれたり、開墾の際に破壊されたりしているようだ。皇族の陵墓を別にすると、豪族の古墳は私有地にあることが多いので、長い年月のうちにこうした運命をたどるのは珍しいことではない。これまでの奈良散歩で、そんな例をたくさん見て来たため、今更話を聞いても驚かなくなった。

 この見渡す限りのブドウ畑だが、意外なことに大阪府はぶどうの産地である。昭和初期には全国一の生産高だったという。最初地元の人からこの話を聞いた時にはにわかに信じがたかったが、事実のようだ。今でも全国十指に入るらしい。とりわけ、デラウェア種の栽培が盛んだと聞く。

 大阪府の中でブドウの栽培に適しているのが柏原市(かしわらし)、羽曳野市、太子町といったところで、温暖な気候で雪が降らず、降雨量が比較的少ないという好条件に恵まれているようだ。そのため、この地域の丘陵地にはブドウ畑が広がっている。そういう意味で古墳は、栽培に適した丘陵地と見なされたのだろう。

 生食だけでなくワイン造りも盛んなようで、かつてはサントリーの赤玉ポートワインの原料となるブドウも、この地域から出荷されていたと聞く。先ほども来がけにワイナリーを見たが、他にも幾つかワイナリーがあり、地元産ワインを醸造している。先ほどのワイナリーのように体験イベントを行っているところもあり、人気を博しているようだ。

 観音塚古墳から下りて、来た道を引き返す。駅のある辺りまで戻って、今度は踏切を渡って南側に出る。一般道を暫く進んで、やがて道路が左にゆるくカーブするところで、そのまま旧道のような細い道に入る。

 この道は、山の辺の道と同じように、大和朝廷により整備された最古の官道の一つ、竹内街道(たけのうちかいどう)である。





 古道らしく、ゆるやかにうねるように細い道が延びる。町としても観光名所にしたいらしく、至るところに竹内街道をアピールする立て札やベンチ、案内板がある。ただ、交通量がそこそこあるので、その点が玉に瑕である。

 車一台がやっと通れるこの道が対面通行なのに驚く。お蔭で、行き合う車によりアクロバティックなすれ違いが行われる。軽自動車同士だから可能なのだろう。自分が運転するなら通りたくない道だ。

 古代において、海の玄関口である難波(なにわ)と、朝廷の中心であった飛鳥とを結ぶ道が整備されたとされるが、竹内街道はその中心を占める古道である。日本書紀では、推古天皇(すいこてんのう)の時代に「難波より京に至る大道を置く」と記されている。京とは飛鳥のことである。

 竹内街道は、そのまま西に行くと今の堺市に抜けているが、これは現在の大阪市の大半が当時海だったからである。現在大阪市の南部にある住吉大社(すみよしたいしゃ)のある辺りは、かつては海岸だった。住吉の神は海の神なので、古くからある住吉神社はかつての海岸線にあるのが普通だ。住吉大社近くには住吉津(すみのえのつ)という港もあった。堺から少し北に上がれば、もう海だったわけである。

 竹内街道沿いには多くの古墳群と古い寺社が存在し、官道として整備される以前から、人々が行き来するのに利用していたと考えられている。先ほどの古市古墳群のほか、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)を含む100基以上の古墳が存在したと伝えられる堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)も、竹内街道沿いにある。

 今いるのは大阪側であるが、竹内街道はこのまま東に進み、二上山の南を抜けて奈良へ延びる。大阪と奈良の境にある峠が竹内峠(たけのうちとうげ)であり、この峠を抜けた先に、有名な當麻寺(たいまでら)がある。

 なお、この竹内街道は、古代の官道としてだけではなく、現在に至るまで奈良と大阪南部を結ぶ交通路として利用され続け、一部は国道になっている。今でも竹内街道の名は、国道の通称として使われている。

 今歩いている辺りの竹内街道は拡張されておらず、比較的古道の面影を残している。近代以前は、お伊勢参りの際に竹内街道が利用されたとも言うので、結構賑わった道なのではなかろうか。

 暫く行ったところで道を折れて、今度は西方向に進む。幹線道路と並行する古い道である。自動車は幹線道路を通るため、この道は静かでいい。両側の家並みも昔ながらのものだろうか、年代を感じさせる造りのものがたくさんある。

 やがて自動車道と交差した先に、次の目的地である叡福寺(えいふくじ)の看板が現れた。ここが本日訪れる目玉の一つとなる。





 叡福寺は、聖徳太子の墓を守るために建立された寺である。立派なお寺で、屋内型の休憩所まである。参拝客も多いのだろう。

 聖徳太子は、自らの墓の場所をこの地と定めて亡くなっている。太子の墓を守るため、時の推古天皇(すいこてんのう)が堂宇を建て墓守を置いた。これが叡福寺の始まりである。最初は、石川寺、磯長寺、太子寺など様々な呼び名があったようだ。

 伽藍が整うのは奈良時代に入ってのことで、聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願により境内の建物の建設が行われた。叡福寺の名は、その当時の伽藍の一部に付けられていたものだと、境内の縁起に記してあった。

 仏教が広まると、日本における仏教の礎を築いた聖徳太子は篤く敬われ、聖徳太子その人を信仰の対象とする太子信仰(たいししんこう)というものが広まるようになる。聖徳太子は仏の生まれ変わりであるかのように言われ、叡福寺は四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)と並ぶ太子信仰の中心寺院だったらしい。

 やがて、隣の羽曳野市にある野中寺(やちゅうじ)や、大阪府八尾市の大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)も、太子ゆかりの寺として太子信仰のメッカとなる。叡福寺を含めたこの近隣の三寺についてはそれぞれ、叡福寺を上の太子、野中寺を中の太子、大聖勝軍寺を下の太子と呼んでいる。本日降りた近鉄南大阪線の上ノ太子駅の名は、叡福寺のこの別名から来ているようだ。

 やがて太子信仰は全国に広まり、各地の寺院にも聖徳太子像を祀った太子堂というものが建てられるようになる。天皇ではなかった皇族で、ここまで広く信仰の対象とされている人は珍しいのではないか。他に思いつく例は、三韓征伐(さんかんせいばつ)で有名な神功皇后(じんぐうこうごう)や、その子で八幡神(やはたのかみ)として武家に崇められた応神天皇(おうじんてんのう)くらいだが、いずれもは神話時代の人なので、存在そのものが半分神様である。

 叡福寺は特定の宗派に属していないようで、真言宗の単立寺院である。ただ、聖徳太子の墓を守る寺ということで、歴代天皇のほか、仏教各宗派の開祖たちも崇敬していたようだ。高野山を開いた真言宗開祖の空海(くうかい)、浄土真宗開祖の親鸞(しんらん)、時宗開祖の一遍(いっぺん)、日蓮宗開祖の日蓮(にちれん)など、錚々たる顔ぶれの宗派開祖たちが訪れたと、境内の縁起に記されている。





 聖徳太子は歴史上最も有名な皇族であり、日本人なら誰でも知っていよう。そうなった理由はご存知の通り、長く一万円札の肖像画として登場していたからだ。現在お札から聖徳太子が消えているが、これが長い間続くと将来聖徳太子は忘れ去られてしまうのだろうか。

 そんな心配はさておき、聖徳太子のことを少し書いておこう。有名な話が多いので、皆さんよくご存知かもしれないが…。

 聖徳太子が活躍したのは、都が飛鳥に置かれていた時代で、敏達天皇(びだつてんのう)から推古天皇にかけての頃である。この両天皇は夫婦であり、妻の推古天皇は日本初の女性天皇として知られている。

 太子の父は用明天皇(ようめいてんのう)で、母は欽明天皇(きんめいてんのう)の娘だった。出生したのが厩戸(うまやど)の前だったというのは有名な話で、私も子供の頃にそう聞いたが、皇族同士の夫婦の子供が厩戸の前で生まれるというのはどういうシチュエーションだったのか、どうもよく分からない。ただ、聖徳太子の本名が厩戸なので、何か関係はあったのだろう。

 ちなみに、生まれた場所は、奈良の橘寺(たちばなでら)とされており、以前、飛鳥を訪れた際にこの寺に立ち寄った。元は聖徳太子の祖父に当たる欽明天皇の別宮だったと言われ、それを後に寺に改めたのは聖徳太子自身である。聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)の一つとされている。厩戸の前で生まれたというからには、この別宮の敷地内に厩戸があったのだろう。

 橘寺という名前の由来は、聖徳太子よりもはるか昔の垂仁天皇(すいにんてんのう)の頃に、家臣の田道間守(たじまもり)が常世の国から持ち帰った「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」の種を植えた場所がここだったとされるからで、その実は今で言う橘だったという話である。田道間守は常世の国へ不老不死の果物を探しに行って来いと天皇に命じられるが、10年後にその実を持ち帰ると天皇は亡くなっていて、嘆き悲しみ亡くなったと伝えられている。

 聖徳太子は聡明で、特別の能力を持っていたという伝説が数々ある。有名なのは、一度に10人の言うことを聞き、それに的確に答えたというもので、皇子の時代に願い事を言いに来た人への対応時の逸話である。このため、豊聡耳(とよさとみみ)という別名を持っている。また、予知能力を持っていたという言い伝えもある。他にも超人的な逸話があるが、その多くは後世の脚色だろう。

 どうして天皇になったわけでもない一皇族に、ここまでたくさんの超人的なエピソードが残っているのか不思議である。





 聖徳太子は、叔母である推古天皇の時代に皇太子として活躍したが、その当時実行された政策は画期的なものが多く、日本史の教科書ではよく触れられているので、皆さんもご存じだろう。

 幾つか挙げておくと、まず、日本初の冠位・位階制度を作っている。いわゆる冠位十二階(かんいじゅうにかい)というもので、この制度の下で天皇の臣下は12の等級に分けられ、その地位ごとに冠を授けられた。これが画期的だったのは、等級は家柄に付いて回るのではなく、個人の能力に従って授けられたという点にある。従って、世襲できなかったわけだ。

 また「和を以て貴しと為し」という有名なフレーズで始まる十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定している。この中には「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」という仏教重視の考え方も登場する。これらは、天皇の臣下の心得を説いたものであり、現在のような国家の在り方を定める憲法とは、異なる位置付けの法制である。

 もう一つ挙げると、日本の国書を持った使者を、中国にあった帝国、隋(ずい)に派遣している。いわゆる遣隋使であるが、この時の使者が、冒頭でも少し触れた小野妹子である。誤解なきよう言っておくが、男性である。彼の墓は、ここから西に2kmほど行った山の麓にある。

 この時、小野妹子ら遣隋使から隋の皇帝煬帝(ようだい)に渡された国書が「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」という有名なもので、これを読んだ煬帝は、海の向こうの小国が自分達のような大国と同等であるかのような手紙を寄越したと、たいそう立腹したと伝えられる。

 ちなみに、先ほど通った竹内街道を整備したのも聖徳太子である。遣隋使はこの道を通って海辺まで行き、住吉大社近くの住吉津から船に乗って隋に向かった。

 このように挙げただけでも、数々の重要な政策が聖徳太子主導で行われたわけだが、彼自身は天皇に即位することなく、推古天皇在任中に亡くなっている。病だったと言われるが、詳しいことは分かっていないし、記録にも残っていない。そして、聖徳太子自身が墓所と定めたこの地に埋葬された。

 下の写真が、叡福寺境内から見た聖徳太子の陵墓である。こんもりとした森が陵であり、来る道の途中からもこの森は見えていた。





 この墓は叡福寺境内の北にある。叡福寺北古墳と呼ばれているようだが、宮内庁により皇族の陵墓として指定され、磯長墓(しながのはか)という名前も付いている。

 ここに葬られているのは聖徳太子だけでなく、その母と妃の一人も合葬されている。このため、三骨一廟(さんこついちびょう)と呼ばれている旨、境内の縁起に記されていた。聖徳太子の母は、聖徳太子が亡くなる1年前に逝去し、聖徳太子と妃は相次いで亡くなっている。

 立派な霊廟の前に立って、私が何となく思い出したのは、聖徳太子ゆかりの斑鳩の里(いかるがのさと)を訪ねた際に知った有力豪族蘇我(そが)氏との関係である。

 聖徳太子がまだ皇子だった頃は、仏教の扱いを巡って朝廷内が二分していた時代である。そもそもは、聖徳太子の祖父である欽明天皇の頃に、百済の聖明王(せいめいおう)の使者がやって来て、仏像と仏典を天皇に献上したことに始まる。

 天皇はこの仏像をどうしたものかと部下に尋ねる。当時の蘇我氏の長である蘇我稲目(そがのいなめ)は「他の国で敬っているのに日本だけが従わないわけにはいかない」と仏教擁護論を唱えた。これに対して、物部(もののべ)氏の長である物部尾輿(もののべのおこし)が「日本は神道の国なので、他の国の神を敬えば神の怒りを買う」と反対した。そこで天皇は、蘇我稲目に試みに仏像を礼拝するように言う。そして稲目が邸宅に仏像を安置して礼拝するようになる。

 ところが折悪しく、疫病が流行し死者がたくさん出た。それ見たことかと物部尾輿が天皇に申し立て、やむなく天皇は仏像の廃棄を許す。仏像を安置していた蘇我稲目の邸宅は焼かれ、仏像は難波の堀江(なにわのほりえ)に捨てられるという結末を迎える。ちなみに捨てられた仏像はその後回収され、推古天皇の命により今の長野県に運ばれ、これを安置する寺が出来た。これが現在の善光寺(ぜんこうじ)である。

 こうして仏教反対派が一旦勝利するのだが、蘇我氏も簡単には諦めなかった。かくして仏教の受入れを巡っての蘇我・物部の争いは、次の蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の代に持ち越されるのである。





 上の写真が聖徳太子の霊廟である。他の天皇陵と違って、円墳の前に、神社でよく見掛ける唐破風(からはふ)と、瓦葺の切妻屋根2つが重なったような、不思議な建物が見える。その形状は上の写真よりも、冒頭に掲げた、斜めから撮ったものの方が分かりやすいかもしれない。それにしても、聖徳太子がどうしてこの地を埋葬地に選んだのか、そこはどうも分からない。

 さて、蘇我・物部の仏教受入れを巡る争いの続きである。蘇我馬子と物部守屋の代になって、ようやく聖徳太子も登場する。

 仏教反対派が一旦勝利した後も、疫病が流行し天皇や豪族が次々病に倒れ、蘇我氏は不利な立場に立つのだが、聖徳太子の父の用明天皇は仏教に理解があり、再度仏教の受け入れを臣下に問うている。

 当時、用明天皇は病を得ており、仏教の力で快復を図ろうとしていたとも言う。そして、用明天皇が病で崩御すると、病気快癒を願うために仏教を信奉しようとした蘇我氏と、昔ながらの神道を重んじて異国の宗教を嫌った物部氏の対立が頂点に達する。ついに暗闘が始まるのである。

 用明天皇の後継を巡って、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を立てようと画策していたが、蘇我馬子はこの穴穂部皇子を暗殺し、次いで穴穂部皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も殺す。これをきっかけに、仏教の扱いと天皇後継を巡って蘇我氏と物部氏は全面対決となり、双方が兵を挙げて軍事衝突した。この時蘇我氏側について参戦したのが厩戸皇子、つまり後の聖徳太子である。

 聖徳太子の父である用明天皇は仏教に理解があったし、聖徳太子自身も幼少時から仏法を尊んだと言われている。だから、基本は仏教擁護派で蘇我氏に賛同するというのは自然な流れだが、実は聖徳太子自身に、蘇我氏の血が色濃く流れているのである。

 聖徳太子の母は、仏教伝来時の欽明天皇の娘だと上に書いたが、名を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と言う。この人の母は蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)といって、最初に仏像を私邸に安置して祀った蘇我稲目の娘である。つまり聖徳太子は蘇我稲目の曾孫ということになる。

 また、聖徳太子の父の用明天皇だが、その母親の堅塩媛(きたしひめ)の父親もまた蘇我稲目である。つまり、父方の曾祖父も蘇我稲目なのである。

 こうして考えると、聖徳太子と蘇我氏とは、かなり濃い血で結ばれている。どう見ても、聖徳太子が物部氏側につく要素はないわけである。

 さて、物部氏は古くから朝廷内で軍事を預かっている一族なので、簡単には負けない。一旦は蘇我・聖徳太子軍が劣勢になるのだが、この時聖徳太子は四天王(してんのう)に戦勝祈願して、軍勢を立て直したと伝えられる。これが功を奏したのか、最終的に物部氏は滅ぼされる。聖徳太子は四天王に感謝して、今の大阪の天王寺に四天王寺(してんのうじ)を建てたのである。

 その後の推古天皇の治世では、聖徳太子と蘇我馬子は強力なパートナーだったと言われている。二人は物部氏と戦った戦友であり、濃い血でもつながっている。後の世でその子孫同士が軍事衝突し、聖徳太子の一族が蘇我氏によって滅ぼされるなど、お互いに想像もしていなかったに違いない。

 さて、そろそろ叡福寺を出ることにし、山門前の道を渡って、その先に延びる坂道を上がる。坂道の上に赤い門があり、門をくぐると西方院(さいほういん)という寺院がある。





 西方院もまた、聖徳太子ゆかりの寺である。

 聖徳太子が死去した後、ゆかりのあった三人の侍女が出家した。門前の案内板によれば、三人は乳母として、太子の養育係を担っていたようだ。俗名を月益、日益、玉照というが、この三人の素性がすごい。

 月益は、聖徳太子の盟友で共に物部氏と戦った蘇我馬子の娘である。出家して善信尼(ぜんしんに)と名乗った。また、聖徳太子が隋の皇帝煬帝に遣隋使を派遣し国書を渡したという話を上に書いたが、日益は、この遣隋使だった小野妹子の娘で、出家後は禅蔵尼(ぜんぞうに)と名乗った。そして最後の一人、玉照だが、この人は、聖徳太子と蘇我馬子が滅ぼした物部守屋の娘なのである。玉照は出家して恵善尼(えぜんに)と名乗った。

 三人は聖徳太子逝去の後、聖徳太子廟の前に堂宇を建て、太子が作った阿弥陀如来像と遺髪を納め、太子の菩提を弔って余生を過ごした。確かに西方院のある坂の上からは、叡福寺がよく見える。

 境内は狭く静かなお寺である。現在も尼寺なのかどうか知らないが、赤い鐘楼堂がかわいらしく、何となく尼寺の風情が漂う。

 ここで余生を送った三人の尼の廟と言われる石塔が境内にある。聖徳太子の生前の思い出話などしながら仲よく暮らし、この地で生涯を閉じたのであろう。





 聖徳太子の死後、その子孫はどうして滅びてしまったのだろうか。

 聖徳太子の息子は山背大兄王(やましろのおおえのおう)であり、蘇我馬子の息子は蘇我蝦夷(そがのえみし)である。

 蝦夷の時代の蘇我氏は絶頂期にあり、皇室をないがしろにし権力をほしいままにしていたと伝えられる。その頃から、蘇我氏と反蘇我勢力との対立が激化するが、反蘇我勢力に担がれていたのが山背大兄王なのである。蘇我蝦夷の息子が蘇我入鹿(そがのいるか)だが、実権が入鹿に移って来た辺りから、天皇の跡目争いを巡って再び対立が激化する。

 対立は深刻になり、ついに蘇我入鹿が山背大兄王の住む法隆寺(ほうりゅうじ)を襲う。防戦した山背大兄王は一旦法隆寺を脱するが、軍勢を立て直して入鹿を討つよう進言した家臣に対して、戦争になって民に迷惑をかけることは避けなければならないと諭し、一族もろとも自害して果てる。これにより、聖徳太子の家系は滅びるのである。

 蘇我・物部の武力衝突の際に蘇我氏を助けた聖徳太子の息子を、助けられた蘇我馬子の孫が襲って一族もろとも滅亡に追い込むというのは、何ともむごい話である。ただ、この蘇我氏の横暴が朝廷内の反発を生み、やがて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり/後の藤原鎌足)によって蘇我蝦夷・入鹿親子は滅ぼされる。しかし、蘇我氏の横暴に憤った中臣鎌足の子孫こそが、平安時代に同じような権勢を振るった藤原氏なのだから、因果は巡るということになる。

 さて、先を急ごう。西方院の横を通る道から脇道に入り、曲がりくねった細道をたどって古い家並みを抜ける。迷路のような道で、住宅だけでなく畑あり、竹藪ありと、変化に富んでいる。

 地元の人しか使わないような細道を抜けて、高校の裏側にたどり着き、一旦自動車道に出た。その先で曲がって、川沿いの静かな道に入る。暫く行ったところで、再び脇道へ入り坂道を上る。このルートには道路上に案内板がなく、地図なしでは絶対無理である。

 坂を上ったところの左手に、次の目的地である敏達天皇陵へのアクセス路がある。思わず通り過ぎそうになったほど目立たない。ここからは宮内庁管理となる。





 敏達天皇は推古天皇の夫であり、聖徳太子と同時代の人である。ちなみに、今日は訪れないが、ここから東に2km弱行ったところに推古天皇の陵墓がある。

 今回の散歩記の冒頭に、ここには4人の天皇と聖徳太子が眠る王陵の谷があると書いたが、敏達天皇と推古天皇以外でここに陵墓があるのは、聖徳太子の父の用明天皇と、敏達天皇の孫で大化の改新の時代の天皇である孝徳天皇(こうとくてんのう)である。用明天皇陵はここから北東に1kmほど行ったところで、孝徳天皇の陵墓はその先更に1kmほど行ったところにある。皇族以外にも多数の古墳があり、その数は30近くあるという。

 冒頭にも書いたが、この辺りは二上山の西の麓に当たる。地形的には傾斜の緩い谷のようになっているが、これを磯長谷(しながだに)という。4天皇と聖徳太子の陵墓を含めた周辺の古墳群は、この谷の名前を取って、磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)と呼ばれているようだ。

 ちなみに、4天皇と聖徳太子の陵墓については、その並び方が梅の花に似ているので、梅鉢御陵(うめばちごりょう)の別名があると聞くが、地図上で見ても、これをどう見たら梅の花なのかよく分からない。私の想像力が足りないのだろうか。

 古墳ということで言えば、ここから南東に2kmほど行った山の麓に、近つ飛鳥風土記の丘(ちかつあすかふどきのおか)という大阪府立の公園がある。ここは、巨大古墳群で、その数250基という。昭和40年代に宅地化の波が押し寄せ、これらの古墳を壊して住宅にされようとしていたのを、大阪府が買い取り公園化して開放している。

 ここに眠るのは皇族ではなく、おそらく最初に見た飛鳥戸造一族ら、渡来系の人々ではないかと見られている。その古墳の数からして、多くの渡来人がこの周辺に住み、大陸から持ち込んだ高度な技術で、その存在感を誇示していたのだろう。

 さて、敏達天皇陵であるが、入り口からゆるい坂道が延びていて、アプローチが思った以上に長い。道の脇はブドウ畑だが、またもや「この付近イノシシ出没」の看板がある。どこもかしこもイノシシだらけである。ブドウを狙ってやって来るのだろうか。

 坂を上り終わると杉並木の参道が天皇陵まで延びていて、なかなか印象的な構えである。陵はぐるりと木立に囲まれ、山の中の静かな空間にひっそりとたたずんでいる。





 木立に囲まれているせいか、ひんやりとして気持ち良い。お茶を飲んで暫し休憩する。この日は10月も下旬にさしかかろうというのに、結構暑い日だった。

 さて、敏達天皇陵を出て、陵の入り口まで来た道を、そのまま先に進む。暫し歩くと、視界が開けて二上山がきれいに見える場所があった。その西側一帯がこんな巨大古墳群になっているのには驚くが、二上山を眺めているうちに、以前に奈良の当麻(たいま)を訪ねた時のことをふと思い出した。

 今見ている二上山の向こう側、つまり東の麓が当麻になるが、そこには有名な當麻寺がある。中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説が残る寺である。

 當麻寺の縁起によれば、推古天皇の時代に、聖徳太子の弟に当たる麻呂古(まろこ)という親王によって、まずはこの近つ飛鳥に万宝蔵院(まんぽうぞういん)という寺院が建立された。万宝蔵院については、先に述べた小野妹子の墓の近くにその跡がある。その後、天武天皇(てんむてんのう)の時代に、麻呂古の孫によって万宝蔵院が当麻に移築され、その地の豪族當麻氏の氏寺になったという歴史を持つ。従って、當麻寺は近つ飛鳥由来の寺なのである。

 さて、私が思い出したのは中将姫の伝説である。

 中将姫は天平時代の人で、藤原鎌足の曾孫に当たる藤原豊成(ふじわらのとよなり)の娘である。中将姫が5歳の時に母親は亡くなり、豊成は後妻をもらう。

 中将姫は幼くして秀で皇室から賞賛を受けるが、それが後妻の嫉妬を生み虐待につながる。やがて後妻に殺害されそうになった中将姫は、仏教への信仰に傾注し、千巻にわたる写経に励む。

 この写経が完成した時に、夕暮れの空に阿弥陀仏が現れ、空一面に極楽浄土の光景が広がった。あれはどこの空かと訪ね歩き、やがて二上山にたどり着く。そしてその麓にあった當麻寺の門を叩き入門を願うが、女人禁制なので一旦は断られる。しかし、彼女の熱心さに打たれて特別に入門が許され、剃髪して尼となった。

 出家した中将姫は法如(ほうにょ)と名を改め、阿弥陀仏の教えを人々に説き続けたところ、12年後の29歳のとき、阿弥陀仏が迎えに来て、生きたまま極楽浄土へ向かったとされている。

 二上山は名前の通り、雄岳と雌岳の2つの山頂が並んだ特徴的な形をしている。昔の人たちは、雄岳と雌岳の間に沈む夕日を見て、この山を特別視していたようだ。中将姫が空に広がる極楽浄土の姿を見て二上山にたどり着いたのも、この山が神聖視されていたからだろう。

 極楽浄土は阿弥陀仏の住む地であり、それは西の彼方にあるとされている。西方浄土(さいほうじょうど)と言われるゆえんでもある。夕日が沈む二上山の向こうに西方浄土があると思ったがゆえに、中将姫は麓の當麻寺にやって来たのである。では、その二上山の西の向こうに何があったかと言うと、王陵の谷をはじめとする膨大な古墳群である。

 仏教を篤く敬った聖徳太子とその時代の天皇の陵墓が二上山の西の麓にあるのは、もちろんここが蘇我氏の勢力圏だったということもあろうが、ただそれだけでもないような気がするのである。

 さて、二上山の見える場所から地図を見ながら先に進むと、そのうち住宅地となる。ほどなくして自動車道と交差するところに出たが、その角に立派なお地蔵さんがある。泥掛地蔵(どろかけじぞう)と言うらしい。





 正面から見るとかなり厳重に守られている感じのお地蔵さんだが、横と後ろからはご本尊が覗ける不思議な構造になっている。

 詳しい縁起は分からないが、近くの池の泥を掛けて拝むと願いがかなえられるという伝説があって、こういう名前になっているらしい。泥を掛けて拝むという地蔵は、どこか他にもあったように記憶しているが、共通の風習でもあるのだろうか。

 泥掛地蔵から暫く行くと川に突き当たる。近くにかかっている橋を渡り向こう岸を歩く。街中の川だが、川辺が広めで水の流れの脇に岩と草が広がる。野鳥がそこを行きかい、時々餌をついばむしぐさをする。いったい何を取っているのだろうか。

 護岸には一面、季節外れの朝顔が咲いていてきれいだった。この紫の朝顔は色々なところで見掛けるが、夏場以外でも花を咲かせている。子供の頃に夏休みの自由研究で育てたものと、品種が違うのだろうか。

 川沿いの道は、その先で幹線道路に交差している。交通量の多い道路へ入って暫く進んだところで、脇道に入る。脇道は静かで、いつの間にか山沿いの道となる。山の裾野に共同墓地があるが、次の目的地はその向こうにある。

 脇道から墓地へ入り、そこを抜けると山道となる。少し行くとブドウ畑である。農道の上を木の橋が渡っているところで、傍らに小さな板が立っている。手書きで「源氏墓」と記されていた。その横から上の農道に上がり、ブドウ畑の脇を通って曲がり込むと、目の前に小山が現れた。これが次なる目的地、源頼信(みなもとのよりのぶ)の墓である。

 源頼信は、平安時代中期の武将だが、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)や室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)の遠い祖先にあたる源氏(げんじ)の祖である。

 ここまで古代の渡来人の足跡や、4人の天皇と聖徳太子が眠る王陵の谷のことに触れて来たが、この近つ飛鳥と呼ばれる河内飛鳥には、もう一つの顔がある。武家の棟梁として知られる源氏発祥の地なのである。





 源氏は元々、天皇の血筋である。平安時代以降、皇族が増えて朝廷の財政を圧迫するようになると、皇族の身分を離れて貴族に身分を変えるということが行われるようになる。これを臣籍降下(しんせきこうか)と言うが、その際、天皇から姓を授けられる。そうして授けられた姓の一つが源(みなもと)であり、これはその者の源が天皇家にあることを表している。

 源氏と一口に言うが、嵯峨天皇(さがてんのう)が初めてその姓を授けて以降、幾人もの天皇が臣籍降下の際にその姓を授けているものだから、天皇別に21の家系がある。これを一般に源氏二十一流(げんじにじゅういちりゅう)と言っている。

 この墓に葬られている源頼信は、源氏二十一流のうち、清和天皇(せいわてんのう)の時代に臣籍降下した、いわゆる清和源氏(せいわげんじ)の一つであり、土着した土地の名前から河内源氏(かわちげんじ)と呼ばれている。

 源氏二十一流と言ったが、それぞれの源氏にもたくさんの家系がある。例えば、清和天皇の時代に臣籍降下して源氏を名乗ったものは10名を超える。このうち、源頼信につながるのは、清和天皇の第6皇子だった貞純親王(さだずみしんのう)の子で、臣籍降下して源経基(みなもとのつねもと)を名乗った。この家系は経基流清和源氏と呼ばれており、やがて武家の棟梁の源氏となるのである。

 他の源氏はどうなったかというと、そもそもみんなが武家になったわけではない。天皇家の出なので、最初は臣下の貴族として暮らすのだが、そのうち生活が立ち行かなくなり、地方官吏になったりしているうちに落ちぶれる。そうした中から幾つかの家系が武士として朝廷や貴族に仕えて生計を立てるようになる。そういうわけで、源氏を名乗る武家は幾つもあるのだが、将軍家につながる源氏は、清和源氏の中でも源経基を先祖に持つ系統ということになる。

 源経基も最初から武士ではなく、地方官吏として臣下の道をスタートする。今の東京の北にあった武蔵国(むさしのくに)に赴任するが、ここで統治を巡ってひと悶着おこした相手が、有名な平将門(たいらのまさかど)である。ちなみに平氏(へいし)も臣籍降下した家系で、天皇の血筋である。その後の展開はご存知の通りで、乱を起こした平将門は討ち取られたものの、その祟りは現在でも残っていると言われている。

 源経基の長男を源満仲(みなもとのみつなか)と言うが、この辺りから本格的な武家集団となる。満仲は武士として藤原家に仕え、現在の大阪市南部に当たる摂津国(せっつのくに)に土着した。その後本拠を、大阪府と兵庫県の県境に位置する現在の川西市に移し、ここで清和源氏の武家集団を作る。この地は多田(ただ)と呼ばれていて、現在も源氏ゆかりの多田神社(ただじんじゃ)がある。私も他日訪れたことがあるが、源満仲ら源氏の祖を祀る立派な神社である。

 この満仲の長男が、有名な源頼光(みなもとのらいこう)である。源頼光は伝説の多い人で、一条戻橋(いちじょうもどりばし)の鬼で有名な渡辺綱(わたなべのつな)や、金太郎として有名な坂田金時(さかたのきんとき)など頼光四天王として知られる家来を従え、大江山(おおえやま)の酒呑童子(しゅてんどうじ)を討伐した話や、巨大な土蜘蛛(つちぐも)を退治した話など、おとぎ話にもなっている数々のエピソードで知られる。ちなみに、上に述べた多田神社の境内には、頼光が大江山で成敗した酒呑童子の首を洗ったという井戸が残されている。

 さて、この墓の主である源頼信であるが、この人は源満仲の三男で、源頼光の弟ということになる。兄の頼光のような有名なエピソードはないが、後の源氏の基礎となる東国への足掛かりを作ったことで有名だ。

 現在の千葉に当たる房総で、地元の豪族である平忠常(たいらのただつね)が朝廷派遣の地方官吏に反抗して乱を起こす。ちなみに平忠常は、先に出て来た平将門の子孫の一人である。この平忠常の乱の平定に向かって成功したのが源頼信で、当初、桓武平氏(かんむへいし)の当主である平直方(たいらのなおかた)が討伐に出掛けて長期戦にもつれ込んだのを、かわって源頼信が討伐の長に任じられた途端、平忠常は降伏したと伝えられる。この乱の平定以降、東国の平氏は源頼信に従うようになり、源氏は東国に基礎を築くことになるのである。

 さて、次に進もう。畑の中の道を戻り、今度は先ほどの農道の上に差し掛けられた木橋を渡って森の中に入る。この辺りには、河内源氏の祖である源頼信を始めとする初期三代の墓があるが、次は有名な源義家(みなもとのよしいえ)の墓である。鬱蒼とした森の中に、また小山が築かれている。これが義家の墓である。





 源義家は八幡太郎(はちまんたろう)の俗称で知られる英雄で、河内源氏の三代目に当たる。八幡太郎の名は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服したために付いた名だと言われている。

 源義家が名をあげるのは、後三年の役(ごさんねんのえき)と言われる東北地方日本海側で起きた地元豪族の大規模な内紛によってである。

 当時、この地方を実質的に治めていたのは清原氏(きよはらし)である。清原氏は元々蝦夷(えみし)と呼ばれる先住民で、朝廷に服従した後、東北地方日本海側を勢力圏に収め、実質的に支配していた。ところが源義家の時代に、清原氏一族内で主導権争いと跡目相続を巡って内紛が起きる。

 当時の清原氏の当主である清原真衡(きよはらのさねひら)には子がなかったため、清原成衡(きよはらのなりひら)という養子を取る。この成衡は平氏の血筋である。そしてその妻に源義家の妹を迎える。これは清原真衡の目論見に基づく婚姻だったとされ、共に武家の名門である源氏と平氏両方に縁戚関係のある家系を作ろうとしたと見られている。

 清原成衡が跡を継げば、清原氏の本来の血筋は絶える。清原一族の長老格である吉彦秀武(きみこのひでたけ)はそのことに不満を持っており、清原成衡の婚礼の対応を巡って対立が激化して、ついに武力衝突に発展する。吉彦秀武は、兄の真衡と不仲であった弟の清衡(きよひら)と家衡(いえひら)を味方に引き込み真衡を襲うが、一旦は引き分けとなる。

 そんな中で国司(こくし)を命じられて陸奥国(むつのくに)に入って来たのが源義家なのである。吉彦秀武や弟らと対立していた当主の清原真衡は、養子の婚姻によって縁戚関係となった源氏の棟梁の陸奥入りを歓待する。その後の戦で真衡と源義家は弟の清衡・家衡を打ち破るが、ここで真衡は病気になり突然亡くなってしまう。

 源義家は清原氏の跡目の仲裁に入って、弟の清衡・家衡に真衡の所領を分け与えるのだが、家衡はこの裁定を不服とし、清衡の住居を襲って一族を殺害する。清衡自身はかろうじて生き延び、義家と共に家衡を討とうとするが、一旦は敗れ去る。この清衡らに味方をしたのが吉彦秀武であり、結局家衡は討ち取られ、清衡が清原氏を継ぐことになるのである。





 義家の墓所のあるところは、先ほどの頼信の墓と違って、周りが広い。その広い空間に幾つもの墓石が並んでいる。形や朽ち具合から見て、最近のものではない。

 最初は義家の郎党たちの墓かと思っていたが、近寄って墓碑を読むと、僧侶の墓ではないかと思われるものが幾つかあった。

 ところで、先ほどの後三年の役の話で、清衡が清原氏を継ぐことになったと書いたが、不思議なことにこの清衡は、清原氏の血を引いていない。先代の清原真衡の父、清原武貞(きよはらのたけさだ)が妻とした女性の連れ子なのである。武貞はこの子を養子とし、清衡と名付けた。清衡の本当の父は、近江三上山(おうみのみかみやま)の大百足退治の伝説で有名な俵藤太(たわらのとうた)こと、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で、名を藤原経清(ふじわらのつねきよ)と言う。

 清原氏を継いだ清原清衡は、実の父の名前に戻って藤原氏を名乗り、奥州の支配者となる。これが奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の興りなのだが、後に奥州藤原氏は源義経(みなもとのよしつね)をかくまって源頼朝と対立し、鎌倉幕府に滅ぼされる。清原氏と源氏とは幾重にも張り巡らされた運命の糸で絡み合っているのである。

 ところで、後三年の役を平定した源義家だが、この功績は朝廷に認められず、戦費を支払われなかったばかりか陸奥守を解任されてしまう。このため源義家は、自らの元に馳せ参じた関東の武者たちに私財を投げうって恩賞を分け与えたと言われ、この行為が関東における源氏の地盤をいよいよ強固なものにしていく。

 さて、義家の墓である小山の周囲をぐるりと一周して、今度は次なる墓所に向かう。

 墓所の背後に急な土の階段があり、森の中を麓まで降りて行くようになっている。下り道は滑りやすそうで、おまけに至るところにクヌギの実が落ちているため、踏んづけてバランスを崩しそうになる。麓まで下りてみると、ここにもまたイノシシ注意の立て札があった。危なっかしい階段を下りている時にイノシシでも現れたら、絶体絶命である。

 麓まで下りると舗装路となる。この道を少し進むと次なる墓所がある。ここに眠るのは、河内源氏初期三代の二代目、源頼義(みなもとのよりよし)である。





 源頼義は、初代源頼信の長男で、先ほど墓所を訪ねた八幡太郎こと源義家の父となる。

 源頼義は若い頃から勇壮な武者として知られ、父頼信に付き従い、先ほど出て来た平忠常の乱の平定にも参加している。また、この乱の際に、最初に出兵して平定に失敗した桓武平氏の当主、平直方からその腕前を見込まれ、娘を妻に迎えている。この時、頼義は平直方から関東にいた桓武平氏の郎党たちを引き継いでおり、関東における源氏の地盤はこれにより強固となる。平直方の娘との間に生まれたのが源義家であり、義家は源氏と平氏両方の血を引いていることになる。

 その後、陸奥国で地元の豪族の安倍氏(あべし)が反乱を起こすという事件が勃発する。前九年の役(ぜんくねんのえき)と呼ばれる騒乱である。

 安倍氏は、上の後三年の役に出て来る清原氏と同様、元は蝦夷と呼ばれる先住民だったのではないかとされるが、中央にルーツを持つとの説もあって出自がハッキリしない。相当の軍事力を有し、陸奥に幾つもの城砦を築いて、独立的な支配権を持っていたと言われている。一応、朝廷には服従していたが、源頼義の時代には次第に反抗的となり、貢物が途絶え始めた。

 朝廷側は安倍氏討伐を計画するが大敗を喫し、その後に陸奥守として送り込まれたのが源頼義である。頼義の名を聞いた安倍氏は恭順の意を示し、直後に朝廷側で大規模な恩赦があったため、安倍氏の罪も許されることになる。結局、頼義は陸奥守として赴任したものの、戦闘は行われないまま沙汰止みとなった。

 しかし、まもなく陸奥守としての任期が明ける頃になって、源頼義の配下の者が襲われるという事件が起きる。当時の安倍氏の棟梁は安倍頼時(あべのよりとき)だったが、その息子貞任(さだとう)に嫌疑がかけられる。事情を聴くため、頼義は貞任の出頭を命じるが、安倍氏はこれを拒否する。これがきっかけとなり、源頼義と安倍氏の間でついに戦火が交えられることになるのである。

 この時、最初の安倍氏討伐戦では安倍氏側についたが、源頼義が陸奥守となって以降は頼義の配下に加わった者として、平永衡(たいらのながひら)と、後三年の役のところで出て来た藤原経清の二人がいた。この二人の妻はいずれも安倍頼時の娘だったため、安倍氏と争うとなると、再び裏切るのではないかと疑われていた。とりわけ平永衡は、当初は朝廷側の人間だったが安倍氏側に寝返った過去があるため、讒言により殺害される。これを知った藤原経清は自らの身も危ないと察し、安倍氏側に寝返る。

 安倍氏と源頼義との戦いは一進一退を繰り返し、やがて安倍氏が優勢となるが、形成が一気に逆転する事態が起きる。それまで中立を保っていた出羽の豪族清原氏が、源頼義の願いを聞き入れ参戦するのである。数の上で不利だった朝廷軍は一気に盛り返して安倍氏の城砦を次々と陥落させ、最終的に勝利する。これにより安倍氏は滅亡し、その領土は清原氏のものとなるのである。

 ところで、源頼義の墓所の近くには、源氏館跡(げんじやかたあと)の石碑が立っている。





 ここまで墓所を見て来た河内源氏三代だが、その館がどこにあったのか、正確な位置は特定されておらず、遺構も発見されていないようだ。ただ、ここに石碑はあるものの、実際の館はもっと北にあったというのが一般的な見解らしい。

 さて、前九年の役の後の話は、上に述べた後三年の役に続くわけだが、清原氏と源氏との関係は源頼義以来のものであり、安倍氏との戦いには八幡太郎こと源義家も参加していたから、後三年の役で清原氏の内紛に義家がからむのは、運命的とも言えるだろう。

 運命的ということでは、安倍氏との戦いに際して源頼義の元を去った藤原経清のことを忘れてはなるまい。藤原経清は捕らえられて、錆びた刀で首をのこぎり挽きにして処刑されるが、安倍頼時の娘だった経清の妻、有加一乃末陪(あるかいちのまえ)は、安倍氏滅亡に手を貸した清原武貞と再婚するという道を選ぶ。この時、藤原経清との間に生まれた子は殺されずに清原武貞の養子となり、清原清衡を名乗る。

 後三年の役で清原氏の跡取りとなったのは、安倍氏の血を引くこの清衡だったことは上に書いた。そして清衡は、源頼義・義家父子に処刑された亡き父の藤原の名を継いで奥州藤原氏の祖となる。その奥州藤原氏も、後世になって源義経をかくまったことをきっかけとして源頼朝に滅ぼされる。安倍氏と源氏との因縁は、清原氏と源氏同様、何と深いのだろうと思ってしまう。

 ところで、この源頼義の墓と源氏館跡の石碑は、平坦な野原の中にあるのだが、ここにはかつてお寺が建っていた。よく見ると、草に埋もれた礎石があるし、鐘のない鐘楼も隅の方に建っている。あと、この野原に上がる場所には山門もある。しかし、堂宇は一切ない。

 実は、ここは河内源氏の菩提寺、通法寺(つうほうじ)の跡なのである。山門上部には「源氏祖郷」の文字も見える。先ほど通って来た共同墓地には通法寺共同墓地の名もあったし、源義家の墓所周辺の古い墓石も、考えてみれば、通法寺の僧侶たちの墓だったのかもしれない。

 通法寺は、河内源氏の二代目、源頼義が堂宇を建て千手観音(せんじゅかんのん)を祀ったことに始まると伝わる。頼義は後に浄土宗(じょうどしゅう)に帰依し、通法寺は河内源氏の菩提寺となり栄えるのだが、明治になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れる中で廃寺となってしまう。





 ところで、その後の河内源氏はどうなったのだろうか。実は鎌倉幕府を開く源頼朝の代までの源氏は、内紛などもあり衰退するのである。

 後三年の役から凱旋帰国した八幡太郎義家だが、その嫡男の源義親(みなもとのよしちか)が対馬の国司へ赴任後、現地で略奪や殺人の罪を犯し、朝廷によって誅殺されている。結局、河内源氏四代目を継いだのは次男の源義忠(みなもとのよしただ)だが、この人も叔父の源義光(みなもとのよしみつ)の策略により暗殺されてしまう。この背後には、河内源氏の棟梁の座を巡る内紛があったが、一連の事件の中で源氏は実力者たちを失って衰退していく。かわって武家の表舞台に登場するのが平氏というわけである。

 四代目の源義親暗殺後に、混乱の中で河内源氏を継ぐのは、朝廷によって誅殺された源義親の子、源為義(みなもとのためよし)である。しかし為義は朝廷の信認をなかなか得られず、京の治安維持を務める検非違使(けびいし)の職を解任されたりしている。そうした中で起きたのが、保元の乱(ほうげんのらん)である。

 保元の乱の背景は少々ややこしいのだが、天皇の後継を巡る争いと、藤原家内の内紛とが絡み合い、そこに源氏や平氏も分裂した形で参加するという複雑な構図になっている。

 事の起こりは鳥羽法皇(とばほうおう)である。

 鳥羽法皇は、待賢門院(たいけんもんいん)の名で知られる中宮の藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にもうけた子に皇位を譲り、崇徳天皇(すとくてんのう)とし、自分は院政を敷いた。

 ところが、鳥羽法皇は美福門院(びふくもんいん)の名で知られる藤原得子(ふじわらのなりこ)を寵愛するようになり、生まれた子を天皇にするべく、崇徳天皇を退位させてしまう。こうして誕生したのが近衛天皇(このえてんのう)である。

 異母弟が皇位に就いたことで崇徳天皇は院政を敷けず、実権のないまま退位して恨みを抱くようになる。

 一方、天皇の補佐役である藤原摂関家にも内紛が生じていた。この時代、院政に押さえつけられて実権を失っていた藤原摂関家だが、藤原家の長である藤原忠通(ふじわらのただみち)が鳥羽天皇時代に関白に就任し、徐々に力を盛り返す。

 その忠通は世継ぎとなる男子に恵まれなかったため、かなり年の離れた弟である藤原頼長(ふじわらのよりなが)を養子にする。ところが、40歳を過ぎてから次々男子に恵まれるようになり、実子の基実(もとざね)に摂関家を継がせるべく、頼長との養子縁組を解消してしまう。

 これに対して頼長が腹を立てただけでなく、忠通・頼長兄弟の父である藤原忠実(ふじわらのただざね)も立腹して弟の頼長の側についた。その後、幾度かの揉め事があり、忠通と忠実・頼長の間は修復不可能なほどこじれるのである。

 そんな中で近衛天皇が若くして崩御する。この後継としては崇徳上皇の皇子が有力候補だったが、美福門院と藤原忠通が組み、美福門院の養子となっていた守仁親王(もりひとしんのう)を推す策略が進行する。

 結果は、守仁親王が若過ぎたため、その間にもう一人天皇を挟むことになり、守仁親王の父で鳥羽法皇の皇子の一人だった雅仁親王(まさひとしんのう)が即位することとなり、後白河天皇(ごしらかわてんのう)が誕生する。

 この時、急きょ候補に浮上した雅仁親王の背後には、乳母の夫であった僧、信西(しんぜい)の画策があったと伝えられる。信西は後白河天皇の政治ブレーンとして力を伸ばし、やがて政権を差配するまでになるのである。

 一方、今度こそ自分の皇子を即位させて院政を敷こうとしていた崇徳上皇は、トンビに油揚げをさらわれた格好になって怒る。かくして、皇室と藤原摂関家は、後白河天皇・藤原忠通派と崇徳上皇・藤原頼長派に分裂して対立する。折悪しく鳥羽法皇が崩御すると、重しが外れて情勢は一気に緊迫した。

 両派は源氏・平氏の武士を配下に従え始める。この時源氏側では、源為義が崇徳上皇・藤原頼長派につき、その息子で東国で力を蓄えていた源義朝(みなもとのよしとも)は後白河天皇・藤原忠通派につく。かくして親子は敵味方に分かれて戦うことになるのである。

 ちなみに平氏は、平清盛(たいらのきよもり)が後白河天皇・藤原忠通派につき、清盛と対立していた叔父の平忠正(たいらのただまさ)が崇徳上皇・藤原頼長派についた。

 かくして、皇族、摂関家、源氏、平氏がそれぞれ内部分裂し、敵味方に分かれて睨み合うことになる。戦端が切られたのは7月の未明で、翌朝には雌雄が決していた。

 平清盛・源義朝を中軸とした後白河天皇・藤原忠通派が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流となる。藤原頼長は合戦のさなかに重傷を負って亡くなった。要するに、ここまでの対立で割を食って虐げられていた側が負けたわけである。崇徳上皇は失意のうちに数年後に讃岐で亡くなり、その祟りが都を襲うことになる。

 一方、敗軍となった源為義と平忠正は捕らえられて死罪となる。為義の首をはねたのは息子の源義朝だった。平忠正の首をはねたのも、おいの平清盛だった。この時点では、源義朝も平清盛も同じ陣営であり、共に親族を斬首するという立場に立たされるのである。

 この二人が敵味方に分かれるのは、次の平治の乱(へいじのらん)でのことである。





 保元の乱の後、まもなくして次の政争の火種が現れる。かつて鳥羽法皇の寵愛を受けていた藤原得子、つまり美福門院である。後白河天皇が即位した時の取り決めで、後白河天皇の任期は美福門院の養子だった守仁親王が即位するまでとなっていた。美福門院は約束通り、成長した守仁親王の即位を求める。美福門院と後白河天皇の側近である信西の話し合いにより、後白河天皇は譲位して、ここに二条天皇(にじょうてんのう)が誕生する。

 従来であれば退位した後白河上皇が院政を敷いて自由に政治を差配できるはずだったが、二条天皇の背後には美福門院がついており、後白河上皇の政治ブレーンは信西だけという状況にあった。そのうえ信西も美福門院に理解があり、後白河上皇としては、完全に自分の側に付いてくれる側近が必要だった。

 白羽の矢を立てられたのが藤原信頼(ふじわらののぶより)であり、信頼は後白河上皇の信認を受けて院政の舞台で大きく台頭して信西と対立することになる。この信頼と親密な関係にあったのが河内源氏の棟梁、源義朝である。そして、信西の側には平清盛がついていた。

 二条天皇側には美福門院がつき、後白河上皇側には信西と藤原信頼がついていたが、信西と信頼は対立していた。こうした構図の下で、平清盛一行が熊野詣に出掛けた隙をついて、藤原信頼は信西を襲って一派を滅亡させる。

 藤原信頼は平清盛と縁戚関係を結んでおり、信西を排除してしまいさえすれば清盛は自分につくと信じていたが、信頼の強引な政権奪取に反感を持った貴族たちが密かに信頼排除を狙っていた。二条天皇側も同じ思いであり、やがて藤原信頼と源義朝への追討の宣旨が出される。

 藤原信頼は慌てたが、時既に遅く、戦端が開かれる。平氏との本格的な合戦を予定していなかった源義朝は、源氏の拠点である東国からわずかな兵しか連れて来ておらず、平氏の拠点である六波羅に迫るものの、六条河原で雌雄が決する。

 息子の頼朝と共に東国目指して敗走した源義朝だったが、途中ではぐれ、長年の家人を頼って立ち寄った先で、裏切られて殺害される。父義朝とはぐれた頼朝は捕らえられ、処刑されそうになる。この時わずか13歳だった頼朝を見た平清盛の継母、池禅尼(いけのぜんに)は、早世した我が子にそっくりだと助命嘆願し、頼朝は伊豆国への流罪となる。

 この後の話は誰もが御存じだろう。河内源氏三代が築いた東国の基盤を活かして、源氏は再び態勢を整えて平氏を討つ。源義朝の子である源頼朝・義経の兄弟、義朝のおいである木曾義仲(きそよしなか)などが立ち上がり、平氏は滅亡し、鎌倉幕府が出来る。河内源氏初代の源頼信がこの地に定着して以来、約150年の時を経て、武士の世が誕生するのである。

 さて、通法寺を出た後、昔ながらの家並みが所々に残る細い道をたどる。その突き当りに鳥居が見え、急な石段が背後の丘の上に向かって一直線に延びている。壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)である。





 壺井八幡宮は小さな神社であるが由緒は正しく、河内源氏の氏神である。上に述べた前九年の役の後、凱旋帰国した源頼義・義家親子がここに八幡宮(はちまんぐう)を建てたのが始まりである。前九年の役に向かうおりに、頼義は石清水八幡宮に参拝して戦勝祈願している。その感謝の意味を込めて、ここに八幡宮を勧請したらしい。

 八幡神は義家の俗称八幡太郎の名にも出て来るが、応神天皇を神格化した軍神であり、全国の武家の崇敬を集め、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも称される。

 源頼義は、桓武平氏の平直方の娘を娶った際、直方から関東の桓武平氏の郎党たちを引き継いだという話を上に書いたが、関東における源氏の地盤を強固なものにするため、鎌倉にも河内源氏の八幡宮を建てる。これが現在の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)であるが、後に源頼朝が鎌倉幕府を開くと、源氏の氏神は鶴岡八幡宮に移ってしまう。

 しかし、河内源氏の氏神だった壺井八幡宮はその後も大事にされ、幾度か戦火に遭って焼失するも再建が図られている。現在の社殿は、徳川5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)の命で幕府側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が再建したものと伝えられる。

 境内をぐるりと見て回ったが、立派な構えの神社である。境内の手入れも行き届いており、周囲に駐車場も完備されている。今でもそれなりの参拝客があるということだろう。また、境内には楠の巨木があって目を引く。樹齢千年と聞くが、そう言われても違和感がないほどの大きさで、圧倒される。

 先ほど通法寺跡を見て来た目には、氏寺と氏神でその後たどった道がこんなに違うものかと驚いてしまう。通法寺は墓地のあった場所や源氏三代の墓所の散らばり具合から見て、それなりの寺域を持って長く栄えていたに違いないが、明治になって廃寺となり消え去ってしまう。一方、氏神の壺井八幡宮は、源氏の氏神を鶴岡八幡宮に持って行かれて久しいが、それでもこれだけ立派な神社として今に至っている。明治期の廃仏毀釈のなせるわざと言ってしまえばそれまでだが、何だか釈然としない思いだ。

 ところで、この神社の名前である壺井の由来となった遺構が、先ほど上がって来た石段の傍らにあるので、立ち寄ることにする。





 見ての通り井戸であるが、傍らの案内板では清泉「壺井」(せいせん つぼい)として紹介されている。この壺井という名が壺井八幡宮の名の由来になっていると同時に、この土地の名前にもなっている。

 案内板によれば、上に書いた前九年の役のおり、源頼義の軍勢は飲み水の不足に苦しんだ。そのとき頼義は、弓の先で崖をつき崩して冷泉を得ることに成功し、これにより軍勢の士気があがったという。

 前九年の役から凱旋した頼義は、この冷泉の水を壺に入れて持ち帰る。館の南の麓に井戸を掘り、そこに冷泉の水を注ぎ、苦戦の記念とした。それがこの井戸であり、壺井の名前はこうして付いた。

 この記録が正しければ、河内源氏の拠点となる館は、今の壺井八幡宮とほぼ同じところにあったことになる。壺井八幡宮の縁起でも、館の東側に八幡宮を勧請したことになっているようだ。先ほど通法寺跡で源氏館跡の石碑を見た際に、その場所に館はなかったというのが一般的な見解だと紹介したのは、こうした記録があるからである。

 ところで、前九年の役の後にここが壺井と呼ばれるようになる以前は、どういう地名だったのだろうか。これが意外なことに、香炉峰(こうろほう)という名の土地だったのである。

 意外と言っては失礼だが、香炉峰と言えば、中国の景勝地廬山(ろざん)の中にある峰の一つで、この峰から雲が立ち上るさまが、香炉から煙が立ち上るのに似ているためにこの名前が付いたという名峰である。高校の頃、古文・漢文の授業でその名前を聞いたことがある方も多かろう。

 一つは、白楽天(はくらくてん)の名で知られる唐の詩人白居易(はくきょい)が詠んだ詩の中に登場する。

 遺愛寺鐘欹枕聴(いあいじのかねはまくらをそばたててきき)
 香炉峰雪撥簾看(こうろほうのゆきはすだれをあげてみる)

 この詩は白居易が左遷されて江州にいた頃に詠んだもので、栄達を求めずに心静かに地方生活を送る様子を描いている。

 これを踏まえた話が清少納言(せいしょうなごん)の枕草子(まくらのそうし)の中に出て来る。これは有名なのでご存知の方も多かろう。どういう話かというと、雪の日に、清少納言が仕えていた中宮定子(ちゅうぐうていし)を囲んで女房たちが歓談していた時のエピソードである。

 清少納言に対して中宮定子が「香炉峰の雪はどうだろうな」と問う。清少納言は何も言わず、下ろされていた御格子(みかうし)を上げさせて御簾(みす)を巻き上げる。それを見て、中宮定子は笑うのである。

 白楽天の上の詩をお互い知ったうえでの清少納言の返しであり、漢詩に関する教養がないとこのマネは出来ない。清少納言の機知に富んだところが伺え、同時にその機知を試すような中宮定子の問い掛けが、清少納言の覚えのめでたさを物語っている。

 こんなふうに平安貴族たちの間でも有名だった香炉峰の名が、壺井八幡宮のある小山に付いているというのは、何とも意外だった。勇壮な武家好みの命名ではないように思うが、さりとて、ある程度の教養がないと付けられない名称だ。いったい誰がこの名を付けたのか、興味をそそられた。

 さて、見るべきものは概ね見たので、最初に降りた上ノ太子駅へ戻ることにする。壺井八幡宮の脇から延びる細道をたどって南阪奈道のところまで出る。その向こうに、線路沿いを走る近鉄電車が見える。距離にして1.5km程度の道のりである。

 上ノ太子駅は、各停と準急しか止まらない駅である。次の電車まで20分ほど時間があったので、プラットホームのベンチに座ってお茶を飲む。急行がホームを通過しますというアナウンスがあって、急行が入って来たが、何故か突然停車。あれっと思っていたら、ドアを開けてくれた。こんなことってあるんだろうか。これ幸いと急行に乗って帰った。今もって不思議な出来事である。

 この日の歩数は2万歩で、距離にして約15km。ちょっと道を間違えて別方向に歩いた部分があったので少々道草を食った。

 それにしてもこのコースの問題点は、途中に飲食店がないことである。この点は奈良と似ている。コンビニは一軒見かけただけで、仮にそこでおにぎりを買っても、ゆっくり座って食べる場所がない。叡福寺の屋内休憩所に、食事禁止の表示があった理由がよく分かる。あそこくらいしか、座って食べられそうな場所がないのである。

 古代から始まって源氏にたどり着く本日の散歩、意外とバラエティーに富んだ内容だったと思う。しかし、後日大阪の人にこの日の話をしたが、このエリアを知っている人は少なかった。知っているという人も、家族でブドウ狩りに行ったということで、歴史には何ら関心はないようだった。せっかくこれだけの遺構が残っているのにもったいないと思う。東京にこれだけの観光資源があったら、幾らでも人が呼べそうな気がするが、何とも贅沢な話である。







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