パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第21話:柳生街道





 次に奈良散歩に出掛けたのは、紅葉にはまだ早い10月中旬のことである。朝から曇り空で、時折薄日は差すものの、雲の方が優勢という空模様だったが、幸い一日を通じて降水確率はゼロ・パーセント。気温も低めで、まずまずのウォーキング日和と言える。

 今回ご紹介するのは、柳生街道(やぎゅうかいどう)である。奈良は殆ど行き尽くしたとか言っていたくせに、まだ行っていない場所があるじゃないかと責められそうだが、実はここにはおそらく行けないだろうと、最初からあきらめていた場所である。

 奈良の春日山(かすがやま)を更に奥深く分け入って行くと、柳生の里(やぎゅうのさと)があるが、柳生街道は、この柳生の里と奈良市とを結ぶ古道である。週末に奈良を散策していると奈良の人に話すと、何人もの地元の人から、柳生街道は絶対お勧めだから歩きなさいとアドバイスされた。

 しかし、問題は距離である。柳生の里まで峠を幾つか越えながら20km以上あり、唯一の交通手段であるバスの本数は、一日に数本しかない。季節にもよるだろうが、そのバスが結構混むと聞いた。そのうえ、道中はマムシが出るとも…。まぁこれで、最初から行くのは無理とあきらめていたのである。

 こうして一旦、奈良散歩の計画から消えた柳生街道であったが、新規ルートのネタが尽き始め、以前歩いた道を再度歩いたりするようになって、柳生街道のことが再び思い出された。東京に戻ったら絶対に行けない道である。それに、現地の人があれだけ推薦しているのだから、きっといい道に違いない。もう一度、検討してみる価値はあるのではないかと、地図を広げて思案し始めた。

 柳生の里まで行こうとするから無理が生じるわけで、柳生街道を歩くことを第一目的にし、歩けるだけ歩いて途中で引き返しても良いのではないかと考え直した。そうなると、中途半端だが、途中にある峠の茶屋まで行き、そこから引き返すことにすれば、往復しても十分歩ける距離となる。そんなわけで、今更ながら新規コースが登場したという次第である。

 柳生街道への入り口は、これまで何度も通っている奈良市の高畑(たかばたけ)から東に進んだ山の麓にある。高畑は、かつては春日大社(かすがたいしゃ)に仕える神官や社務に従事した人たちが住んでいた場所だが、今では閑静な住宅地になっており、志賀直哉(しがなおや)がかつて住んだ邸宅もこの一角にある。

 柳生街道の入り口を目指して高畑の静かな住宅地を山の方向に歩いていると、小さなお寺があり、門前に石碑が立っている。「空也上人舊跡」と刻まれている。





 門前には何の説明もないため、このお寺と空也(くうや)とがどういう関係にあるのか分からない。それでも足を止めて眺めたのは、空也という僧が、有名なわりには分かっていないことが多い人だからだ。

 空也は平安時代中期の僧だが、どの宗派にも属さず、ただ市井に出て念仏を唱え、寄付を募っては仏像を造った。鉦(かね)を叩きながら念仏を唱える踊念仏(おどりねんぶつ)を初めて行ったとされるが、記録が殆どないため確かなことは分からない。

 分からないと言えば、その出自も不明である。踊念仏を始めた経緯も分からず、若い頃から諸国を巡りながら活動を行っていたと伝えられているだけだ。市井の人々に教えを広め、時として道の整備や橋の建設なども行った。

 空也は京に西光寺(さいこうじ)というお寺を建てて十一面観音を祀った。これが現在京都にある六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)である。彼はここで70歳の生涯を終えるが、修行せずとも念仏を唱えれば極楽浄土へ行けるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の考えが本格的に花開くのは、鎌倉時代になってからのこととなる。

 目の前のお寺と空也がどういう縁で結ばれているのか、説明板がない以上、全く分からないが、こんなところにも空也はやって来ていたということだろう。都が移転した後とはいえ、ここは一大勢力を誇る藤原氏の氏寺、興福寺(こうふくじ)のお膝元である。彼はこんな場所でもかまわずに布教していたのだろうか。

 さて、高畑の住宅街を通る道路は山に近付くにつれて狭くなり、そのうち谷川沿いの道となる。思ったより柳生街道入り口までのアプローチは長い。

 こうして歩いていると、前後にハイキング姿の人を何人も見掛ける。一人のこともあれば、グループもいるし、夫婦連れと思しき人も歩いている。この先は柳生街道への一本道なので、同好の士ということだろう。ただ、皆さん、格好が本格的なハイキング・スタイルで、私のように普段着に肩掛けの薄いショルダーなんて人はいない。ちょっと不安になる。

 やがて家並みが途切れ、上り道となった辺りから森の中に入り、土の道に変わる。その山道の先に石灯籠が現れ、そこから少し行くと石畳の道が渓流に沿って延びている。いよいよ柳生街道である。





 道中の案内板に解説があったが、この石畳は、江戸時代初期に奈良奉行が整備したものだと言う。当時の柳生は徳川将軍家の剣術指南役であり、それなりの権威があったのだろう。

 この道は長く使われていたようで、昭和の初めまで、柳生の里方面から米や薪、炭などを牛や馬に載せて奈良市へ運ぶのに利用されていたと解説板に説明されていた。今では、別ルートの自動車道が開通しているので、ここはハイカーが通るだけである。文化庁が定める歴史の道百選(れきしのみちひゃくせん)というのがあるが、たくさんの古道がある奈良県で、この歴史の道に指定されているのは柳生街道だけである。

 石畳の道の脇を渓流が流れる。能登川(のとがわ)というらしい。春日山と高円山(たかまどやま)の間の谷に沿って道が延びているのだが、ちょうど山から湧き出す水もここに集まるのだろう。沢山の水があちこちから集まるせいか、結構水量がある。この辺りの道を俗に滝坂の道(たきさかのみち)と呼んでいる。

 滝坂の道とはよく言ったもので、道自体はゆるやかに上り坂になっているうえ、渓流には幾つもの小さな滝がある。このため、道を歩く間は水の流れが絶えず聞こえる。秋もこの時期になると水の音を聞かずとも涼しいが、夏場にここを通ったら渓流の音に癒されるだろう。

 ただ、渓流沿いによくある問題点だが、蛇が多い。夏場は結構マムシが出るという。この日も、マムシには出会わなかったものの、蛇には2回出くわした。奈良の散歩でトカゲはよく見るが、蛇にはなかなかお目に掛かれない。それだけ蛇の餌が渓流周辺に多いということだろう。

 暫く歩くと、道の傍らに大きな岩がゴロリと転がり、そこにお供えが置いてある。よく目を凝らすと、転がった岩の表面には、仏様が逆さまに彫られている。傍らには寝仏(ねぼとけ)という立て札が立っていた。





 言われてみれば、仏様が寝転がっているように見えるが、これはいったいどうしたことかと思ってしまう。

 私がこの日持参した、毎度お馴染みの近鉄発行のてくてくまっぷの説明によれば、この近くにある石仏のうちの一つが転がり落ちたもののようだ。残りがどこにあるのかは分からないのだが、どうやらこれは大日如来(だいにちにょらい)らしい。大日如来と言えば真言密教の仏様である。どういう由来でこの辺りに彫られたのかは知らないが、室町時代前期の作と見られているようだ。

 さて、そのてくてくまっぷによれば、柳生街道は、この滝坂の道と、その先にある剣豪の里コースとに分かれている。てくてくまっぷ上の滝坂の道コースは、近鉄奈良駅から終点の円成寺(えんじょうじ)までの約12kmであり、その先の柳生の里までの剣豪の里コースは約9kmの道のりである。合わせれば約21kmの行程となる。これを往復すると42kmで、マラソン並みの距離である。まぁ、私のように昼頃からしか歩かない人間が踏破できる距離ではない。

 歩き始めたばかりだが、この石畳の道は素晴らしい。頻繁に蛇行して姿を変える渓流の趣きや、両側から包むように迫る岩山や巨木、また所々に染み出る湧水が作り出す苔の美しさ、そうしたものがうまく組み合わさって、道のどの部分を切り取っても絵になる。

 今まで山の辺の道をはじめ、幾つか奈良の古道を歩いたが、その美しさでは滝坂の道は上を行く。奈良の人々が、幾度も私にこの道のことを推薦した理由が、ここに来てひしひしと分かる。

 景観に見とれながら石畳の道を進むと、傍らに夕日観音(ゆうひかんのん)の立て札があり、見上げると、岩に三体のお地蔵さんが彫ってある。





 最初はこれが夕日観音かと思ったのだが、どう見てもこれは観音様じゃない。おかしいと思って、てくてくまっぷを広げると、どうやらこれは三体地蔵(さんたいじぞう)という名の石仏である。しかし、三体地蔵という立て札はない。ちょっと紛らわしい案内板だ。

 そうなると、夕日観音はどこかにあるはずだ。わざわざ足下の危ない木立の中に分け入り、三体地蔵のある絶壁の麓まで行って辺りを見渡すが、それらしきものは見当たらない。もう一度立て札のところに立って目を凝らして絶壁の上の方を見回すと、かなり高い断崖絶壁の上に何かが彫られているように見える。カメラの望遠レンズで確かめて、ようやくそれが観音様であることが分かった。

 まるで、間違い探しのようだ。ここを通りがかった何割かの人は、三体地蔵と夕日観音を取り違えているのではないかと心配になる。名前の通り、夕日を浴びた状態で見なければ、姿がハッキリ見えないのだろうか。これは弥勒菩薩(みろくぼさつ)らしく、鎌倉時代の作とマップには解説があった。





 ところで、この柳生街道の終点にある柳生の里は、柳生谷とも呼ばれている。有名な柳生一族の領地だったところだが、柳生一族とこの土地とのそもそもの結び付きについては、私もよくは知らない。

 柳生の先祖は元々平安貴族だったと言われている。多くの武家がそうであったように、やがて生きていくために武士の道を選び、土着の武家集団として柳生の里を根城に活動したようだ。

 歴史の舞台に柳生の動向が現れるのは南北朝時代で、柳生は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に就いて戦ったと伝えられている。その後戦国の世を生き抜き、その名が広く知られるようになるのは、戦国から江戸時代までを生きた剣豪、柳生宗厳(やぎゅうむねよし)辺りからだろう。宗厳の号は石舟斎(せきしゅうさい)であり、普通は柳生石舟斎としての方が有名だと思う。

 この先、柳生一族にまつわる話など書きながら、滝坂の道を進んでいくこととしたい。

 道はやがて素朴な石橋がかかる場所に差し掛かり、ここで渓流をまたいで反対側に移る。その先に巨石が組み合わさった滝があり、そこを越えて暫く行くと、朝日観音(あさひかんのん)の立て札がある。渓流の向こう岸の岩肌に、また観音様が彫られている。

 間近にあるため、夕日観音のように分かりにくくはなく、その姿もハッキリしている。





 三体の仏様が彫られているが、てくてくまっぷによれば、真ん中の大きい仏様が弥勒菩薩で、両側の小さな仏様は地蔵菩薩らしい。対岸なので近寄ってまじまじとは見られないが、どうもこの石仏には銘が彫られているそうで、それによれば1265年、鎌倉時代中期の作ということである。

 ここまでで幾つもの石仏を見て来たが、この先にも石仏があるようだ。この石仏はいったい何なのか。柳生とどういう関係があるのか。

 実はこの滝坂の道の歴史は、平安貴族を始祖とする柳生の歴史よりもずっと古いと言われている。奈良時代にこの辺りは、興福寺、東大寺(とうだいじ)、西大寺(さいだいじ)、薬師寺(やくしじ)などの南都七大寺(なんとしちだいじ)の僧の修行の場だったようだ。その名残で、柳生のような武家だけでなく、多くの僧や山伏がこの場所を訪れ、ある者は住み着いたと伝えられる。多数の石仏が彫られたのは、そうした経緯によるものだろう。原生林のような森の中には、まだ発見されていない石仏が埋もれているかもしれないし、朽ちて砕けて定かでなくなったものもあると思われる。

 この道は、柳生一族のほか、柳生の名声を聞いて全国から集まった剣豪たちが歩いた道であるが、その頃にも同じ石仏が道の傍らで彼らのことを見ていたのだろう。それと同じ石仏を自分もこうして眺めているわけで、何やら感慨深いものがある。

 石畳の道の両脇に、やがて何本かの巨大な杉が現れる。これもまた、この古道の歴史を実感させられる存在である。





 上で述べた柳生石舟斎こと柳生宗厳だが、彼は柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の始祖であり、伝説的な剣豪として時代劇や時代小説にも登場する。彼はいったいどうやって、その凄腕を磨いたのだろうか。

 戦国時代の柳生は一武家集団に過ぎず、多くの有力戦国武将が入り乱れて大和地方の覇権を争う中で、主君を乗り換えながら生き延びたと伝えられる。南北朝時代の北朝の武家勢力であった筒井家に仕えていた柳生は、摂津の守護代三好家の家臣だった松永久秀(まつながひさひで)が大和地方に侵攻して来ると、そちらに寝返る。この種の主君乗換えは戦国時代には珍しいことではなく、柳生宗厳が節操のない人だったというわけではない。。

 柳生宗厳は、戦乱の世を生き抜くために剣の腕を磨いていた。佐々木小次郎(ささきこじろう)も門人だったという富田流(とだりゅう)の使い手、鐘捲自斎(かねまきじざい)や、剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)が編み出した新当流(しんとうりゅう)の名手、神取新十郎(かとりしんじゅうろう)らに教えを乞い、その腕前は畿内屈指とうたわれたようだ。松永久秀の下でも合戦で活躍し、その実力を存分に見せつけ名を高めたと伝えられる。

 そんな中で柳生宗厳は、幾つかの流派を統合して新陰流(しんかげりゅう)を編み出した上泉信綱(かみいずみのぶつな)と運命の出会いをする。信綱は、合戦により主君を失った後、門弟を連れて諸国を放浪し、新陰流の普及を図ろうとしていた。その道中で、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の祖にして興福寺宝蔵院の院主だった胤栄(いんえい)のことを知り、身を寄せる。上泉信綱の強さに舌を巻いた胤栄は、かねてから付き合いのあった柳生宗厳に手紙を書き、信綱のことを知らせる。

 宝蔵院にやって来た柳生宗厳に対して上泉信綱は、弟子と試合をするように言う。既に畿内に名を知られた剣豪であった宗厳はプライドを傷つけられながらも試合に応じたが、あっけなく負ける。この後、師である信綱とも戦うが、全く相手にならなかったと言う。宗厳は信綱に弟子入りを乞い、柳生の里に信綱を迎え入れる。

 柳生の里で宗厳は、信綱から新陰流を伝授される。信綱が柳生を去った後も技を磨き、宗厳は柳生新陰流を完成させるのである。

 ただ、戦国時代の終息を告げる織田信長や豊臣秀吉の治世では、柳生はさして取り立てられることもなく不遇であった。この時代、宗厳は石舟斎を名乗って柳生の里で隠居生活に入っている。

 この宗厳にチャンスが訪れる。黒田長政(くろだながまさ)の仲介により京に滞在中の徳川家康に剣の腕を披露する機会を与えられる。この時、宗厳が披露したのが柳生新陰流の極意、無刀取り(むとうどり)である。剣を構える相手に対して素手で立ち向かい、相手の剣を奪うという技を披露した宗厳に対し、家康は剣術指南役として自分に仕えるように言う。しかし宗厳は、高齢を理由にこれを断り、代わりに同行させていた息子の宗矩(むねのり)を推挙した。こうして柳生は、その剣術で世に出るきっかけを得るのである。

 さて、巨杉の先に進むと、石畳の向こうに小さな建物が現れる。建物はトイレと休憩所であり、その周囲が広く開けたエリアになっている。山の中にこんな場所があるなんて、ハイカーのことをよく考えてくれていると思う。





 ここで休憩して、持参したおにぎりを食べる。絶対に飲食店や売店がないのは分かっていたので、大阪を出る前にコンビニに寄って昼ご飯を買ってあったのだ。問題は食べる場所で、柳生街道の途中に、座っておにぎりを頬張る場所なんてあるのだろうかと心配していたのである。

 他のハイカーの皆さんも行動は概ね同じで、ここに集まって食事を取ったり、道についての情報交換をしたりしている。柳生街道は、色々な道から合流出来るようで、思わぬところからこの道に入って来た人もいることを知った。ここで何となく色々な人が喋っているのを聞いたのが、後で役に立ったのである。

 さて、柳生一族の話の続きである。今度は徳川将軍家の兵法指南役をつとめた柳生宗矩の話である。

 父の柳生宗厳が徳川家康の前で無刀取りを披露し剣術指南役への道が開けた際に、父に代わって家康に仕えることになった宗矩だが、最初から剣の名手として活躍したのではなく、関ケ原の戦いに向けて後方で様々な工作を行うことから彼のキャリアがスタートする。関ケ原の合戦そのものにも出陣して家康のお眼鏡にかない、めでたく2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の剣術指南役となるのである。

 その後、徳川秀忠に従って大坂の陣に臨むことになった柳生宗矩だが、夏の陣において秀忠に迫った複数名の豊臣方武者を瞬殺したと伝えられる。柳生新陰流の面目躍如といったところだろう。

 宗矩は、2代将軍秀忠に続き、3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の兵法指南役に就任する。宗矩は家光の深い信認を獲得し、但馬守(たじまのかみ)の地位を得て、柳生但馬守を名乗ることになる。その後もトントン拍子に出世して、宗矩は大名となり、柳生の里は正式に柳生藩となる。柳生再興のきっかけを作ったのは柳生宗厳だが、柳生の地位を確固たるものとしたのは、息子の柳生宗矩ということになる。

 宗矩は柳生新陰流の名を大いに高め、全国に広めていくが、彼自身の武勇伝というのは意外に伝わっていない。時代劇や時代小説では超人的な剣術を披露しているわけだが、歴史的に残っているのは、上に書いた大坂夏の陣での刺客の瞬殺くらいのものではないか。

 代わって彼が発揮したのは、有能な幕臣としての政治能力である。家光の信認が殊のほか篤かったという事情もあるが、実務能力にもたけ、諸大名からも一目置かれていたという。また、人格的にもすぐれ、将軍の良き相談役でもあったと伝えられている。

 さて、お腹も一杯になったし、十分休憩も取ったしで、再び歩き始めることにするが、この休憩エリアには、一つ見どころとなるものがある。首切地蔵という立て札が傍らにある比較的大きなお地蔵さんである。名前の通り、首のところで横一文字に切られて、つなげられている。





 立て札には、このお地蔵さんを相手に、江戸初期の剣豪として有名な荒木又右衛門(あらきまたえもん)が試し斬りをしたとある。お地蔵さん自体は、鎌倉時代の作らしい。

 柳生新陰流は有名だったゆえ、多くの剣士が試合を申し込みに来たという。その一人が荒木又右衛門というわけだが、彼がここに来たのがいつ頃なのかは分からない。

 荒木又右衛門は、鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)と呼ばれる仇討の際に助太刀として参加して名を馳せた。この仇討は歌舞伎や講談などですっかり有名となり、荒木又右衛門の36人斬りとして後世に伝えられているが、実際にはそんなにたくさん斬っていないと言われている。

 元は伊賀の人で、若い頃に剣術修行に励んだ。この時期に柳生新陰流を学んだとも言うが、真偽のほどは定かではない。仮に柳生の里に来たというのであれば、この頃のことになろうか。

 荒木又右衛門はその剣術の腕を買われ、奈良の郡山藩(こおりやまはん)に剣術師範として出仕することになる。その頃に持ち上がったのが、義理の弟の仇討騒動である。

 荒木又右衛門は、父の同僚の娘と結婚していたが、岡山藩に出仕していた妻の弟、渡辺源太夫(わたなべげんだゆう)が同僚の河合又五郎(かわいまたごろう)に殺害されるという事件が起きる。犯人の又五郎は江戸に逃走して旗本の屋敷にかくまわれる。岡山藩が犯人引渡しを求めるが旗本の側はこれを拒否し、幕府が間に入る騒ぎとなる。幕府としては早々の幕引きを望んでいたところにちょうど岡山藩主が亡くなり、喧嘩両成敗として軽微な処分で事件は一旦終結した。

 一方、岡山藩側では藩主の遺言で河合又五郎を討つようにとの命が遺されたため、亡くなった渡辺源太夫の兄である数馬(かずま)が、脱藩して仇討を行うことになる。ただ、数馬は武芸の心得に不安があったため、助太刀を頼んだのが義理の兄にあたる荒木又右衛門ということになる。

 仇討の際に荒木又右衛門がいったい何人を斬ったのかは分からないが、少なくとも河合又五郎の護衛についていた郡山藩の剣術師範と尼崎藩の槍術師範を斬ったのは確かなようだ。それなりの剣術の腕前だったということだろう。

 仇討の後、荒木又右衛門は、岡山藩から国替えとなって鳥取藩主となっていた池田家から誘いがあって鳥取に移るが、その直後に急死している。

 さて、道を急ごう。この首切地蔵のところは幾つかの道が交わる結節点であるが、予定としてはここから地獄谷(じごくだに)に向かうことにする。一般的な柳生街道のコースからは外れるが、地獄谷を回る道はその先で柳生街道に合流する。その合流地点の少し先が、本日の目的地、峠の茶屋なので、帰り道は本来の柳生街道のコースをたどればいいと考えたのである。

 地獄谷へ向かうコースの入り口には大きな池がある。これが静寂そのものの世界で、何とも安らかな気持ちにさせてくれる。この池の周囲を半周ほど歩いた先から、地獄谷に向かう山道に入った。





 池に架かる橋を渡ると、そこから先は、ほとんど人も通らない山道である。石畳の道を歩いていた間ずっと聞こえていた渓流の水音はなくなり、静寂そのものである。先ほど沢山いたハイカーも、前後に全くいなくなる。皆さんは通常のルートを進んだのだろう。暫く山道を進むと、片側一車線の立派な自動車道に出る。標識が立っていて、ここは有料自動車道らしい。

 地獄谷への道の続きは有料自動車道を渡った先なのだが、この自動車道、暫く待っても車一台通らない。それで歩いて自動車道を利用しようとする人もいるのだろうか、歩行者通行禁止の立て札が立っている。

 その先の道は針葉樹林の中を抜けて行く山道だが、人の手が入っていて、木に番号が書かれ、切り株にはビニール袋がかけられている。この針葉樹林の森のところまでは山道といっても、さしてアップダウンもきつくない普通の土の道だが、その先からが次第にきつくなる。

 道が狭くなり、上り下りが激しい。山道を水が流れた後や、このところ晴天続きなのにかなりぬかるんだ場所があり、雨上がりの直後に来たりすると、少々難儀かもしれない。

 やがてその先の道沿いに、この地獄谷の見どころである地獄谷石窟仏(じごくだにせっくつぶつ)が現れた。金網越しに見る形になるが、石仏は良く見える。





 人工的に岩をくり抜いた場所の壁面に仏様が線刻で描かれているのだが、驚くのは、この場所に聖(ひじり)が住んでいたということである。それで聖人窟の別名がある。

 上の方で、この滝坂の道のエリアが古くから僧や山伏の修行の場だったと書いたが、こんな石窟に住みながら修行した者もいたということだろう。この石窟仏がある脇の方にも、岩を穿って作られた大きな石窟がある。いったい、どんな生活ぶりだったのだろうか。

 石窟仏は中央に三体、見にくいが右の壁面にもう一体彫られている。中央が廬舎那仏(るしゃなぶつ)又は弥勒菩薩(みろくぼさつ)と見られ、その右が十一面観音、左が薬師如来、そして右の壁面の仏様が妙見菩薩(みょうけんぼさつ)とされている。奈良時代の作とも伝わるが、彫られた年代はまちまちとも言う。

 びっくりするのが色彩が施されていることで、屋外の吹きさらしのところでいまだに色が残っているのに驚く。

 私は仏像の専門家でも何でもないが、素人目に見ても、これまで見て来た岩壁の石仏に比べ、かなり文化的価値が高いもののように思われる。改めて、地獄谷に回って来て良かったと思った。

 さて、この先にその地獄谷がある。道は次第に原始林の中を行くような雰囲気になり、道幅も狭くなっていく。おまけにシマヘビにも逢った。山道をふさぐように道一杯に広がって休憩中だったので、珍しさのあまり何枚か写真を撮ったが、近付いてもなかなか逃げない堂々たる態度に感心した。お蔭でいい写真が撮れたが、蛇嫌いの方がおられたら申し訳ないので、ここには掲載しないことにする。

 山道は地獄谷に向かってドンドン降りて行き、やがて名前の由来となっている深い谷に着く。谷の上を粗末な橋が架かるが、この辺りは道がすごく狭く、足下は崖という高所恐怖症の人には難儀な道である。平坦な道なのに鎖が付いていることで、難所であることがお分かり頂けるだろう。ただ、私は鎖のお世話にはならずに歩いて行けた。





 その先は上る一方かというとそうでもなく、激しいアップダウンが繰り返しあって、想像した以上にキツい道である。また、曲がりくねっているせいか、思った以上に距離がある。軽い気持ちで地獄谷コースに回ると後悔するかもしれない。

 さて、この辺りでまた柳生一族の話をしよう。

 柳生宗矩は柳生を大名家に押し上げた中興の祖だが、その子、三厳(みつよし)の方が一般には知られている。柳生三厳という名は知らずとも、彼の俗称である柳生十兵衞(やぎゅうじゅうべえ)の名なら、誰でも一度は聞いたことがあるのではないか。

 柳生三厳は柳生の里で生まれたが、2代将軍徳川秀忠の剣術指南役だった父の柳生宗矩の計らいで、わずか13歳で徳川家光の小姓となっている。

 家光の剣術指南役に父宗矩が就任すると、三厳は剣術の稽古にも同席する格別の扱いを受けるわけだが、何らかの理由で家光と三厳は折り合いが悪くなり、三厳は謹慎を命じられる。三厳はこの時20歳だったと伝えられるが、その後謹慎が解けるまでに10年以上かかっている。

 謹慎中の三厳の動向は必ずしも明らかではなく、おそらく柳生の里に隠棲して剣術修行をしていたと見られる。しかし、武者修行のために全国を渡り歩いたという言い伝えもあり、これが剣豪柳生十兵衞の伝説につながっているようだ。向かって来た十数人の盗賊を一人で倒したといったエピソードはこの時代のものである。

 父柳生宗矩に匹敵する柳生新陰流の使い手と伝わるが、宗矩の実戦における剣術エピソードでハッキリしているものが少ないように、三厳の剣術の凄さを物語る歴史上の史実も意外にない。戦国の世が去り、剣士同士が皆の前で刃を交える機会がなくなったことが大きいのではなかろうか。

 謹慎が明けた後の三厳は、再び家光に仕える。江戸にのぼるに当たり、三厳は故郷の柳生の里に一本の杉を植えたという。この杉は今でも柳生の里に生えていて、十兵衞杉(じゅうべえすぎ)と呼ばれている。

 ただ、幕府復帰後の三厳は、父の宗矩のように家光から篤い信認を得たわけではなかったようで、役目を終えた後は柳生の里に戻り、晩年を故郷で過ごしたようだ。

 小説などで描かれる三厳は、黒い眼帯を付けた隻眼の凄腕剣士として登場するが、彼が片目を失明していたという確固たる証拠もないと聞く。色々史実を探ると、我々が知る柳生十兵衞のイメージが崩れてしまうが、それだけ小説家の想像力を掻き立てる魅力的なキャラクターだったということではなかろうか。柳生一族の中で、これほど有名で、小説や映画・ドラマへの登場回数の多い人は他にはいない。

 小説や映画・ドラマということでは、昔、小池一夫(こいけかずお)原作の漫画「子連れ狼」に、主人公拝一刀(おがみいっとう)の宿敵として裏柳生の総帥、柳生烈堂(やぎゅうれつどう)という人物が登場していた。この人は実在の人物で、柳生三厳の弟である。しかし、現実の柳生烈堂は、幼くして京都の大徳寺(だいとくじ)で出家した僧侶であり、柳生宗矩が柳生の里に開いた柳生家の菩提寺、芳徳寺(ほうとくじ)の初代住持となっている。我々の柳生一族に対するイメージは小説や映画・ドラマなどの創作の世界に大きく影響され過ぎているのかもしれない。

 さて、汗をかきかき地獄谷周遊コースを踏破して出た先は、意外なことに舗装路だった。傍らを軽自動車が通り過ぎる。あの石畳の道に合流するものだとばかり思っていたので意外だった。してみると、石畳の道はどこに行ったのか。

 最初は道を間違えていないかと心配したが、舗装路に出たところにある道案内だと、もう少し先に峠の茶屋があることになっている。何はともあれ、一旦ゴールに行こうと舗装路を歩きだした。

 ほどなくすると、道の傍らに古い家屋が現れる。これが峠の茶屋らしい。





 最初、店に誰もいないので休みかと思っていたら、奥からおじいさんが出て来て、わらび餅はどうですかと声を掛けられた。わらび餅を食べる気分ではなかったが、店頭の草餅が美味しそうだったので注文する。地獄谷の道で汗だくになったこともあり、ちょっと甘いものが欲しかったのである。

 店の縁側に座って自家製という甘さ控えめの草餅を食べながら、茶店のご主人と暫し話をした。ここを通るたいていの人は円成寺まで歩き、そこからバスに乗って帰るらしい。柳生の里まで歩く人もいるというが、そうした人も勿論帰りはバスである。要するに、行く人はいるが、戻る人はめったにいないということだろう。

 地獄谷経由で来たというと、あそこはキツい道だという話になる。案の定、夏場はマムシが出るという。ただ、秋になっても出ますよということだった。飛びかかって来るから頭を踏みつけないと危ないなんて言っていたが、まぁ、それはいくら何でも可哀想というものだ。

 この辺りは11月半ば辺りから紅葉するらしいが、その頃がハイカーのピークだという。冬になると誰も来ないらしい。まぁそうかもしれない。寒い中を延々歩くのはしんどいものだ。

 当初はここで引き返す予定だったが、店の主人に聞くと、すぐ先に集落があって、その外れに江戸時代の石灯籠があるという。何キロも先のことではないようなので、予定を変更してそれを見て帰ることにする。

 峠の茶屋からほんの少し行ったところに小さな集落があり、名を誓多林(せたりん)という。変った名前だが、これはインドの地名から付けられたものだ。

 以前、北・山の辺の道を歩いている時に、鹿野園(ろくやおん)という集落を通過したが、その際、奈良市近郊に散らばるインド由来の地名について書いたと思う。奈良時代に東大寺の大仏開眼法要にインドからやって来た婆羅門の僧正が、インドにある仏教の聖地に似た景観の土地に、該当する聖地の名を漢訳して付けたことが、不思議な地名の由来だと言う。誓多林もそうした地名の一つである。

 集落はすぐに終わり、その先の田んぼに囲まれたのどかな田舎道を行くと、突き当りで道は左右に分かれる。左に行くと円成寺に行くのだが、これを右に行ってすぐのところにその石灯篭があった。





 峠の茶屋の主人によれば、地元の人は、おかげ灯籠と呼んでいるという。案内板も何もないから灯篭の由来は分からない。てくてくまっぷを見ても、江戸時代の石灯籠と紹介されているだけである。峠の茶屋の主人は、みんながおかげさんと感謝しながら暮らしているからおかげ灯籠と言うんだといった趣旨の話をしていた。なかなかいい話である。

 分かれ道を円成寺の方向に行くと、暫くしたところから大慈山(だいじせん)に向かう道が北側に延びるが、これもまたインド由来の地名である。

 また、そのまま4kmほど行くと、柳生街道一の古刹と言われる円成寺に着くが、その辺りの地名である忍辱山(にんにくせん)も、同じくインドの聖地の名前から付けられている。円成寺の山号も忍辱山だが、この寺は天平時代に聖武上皇(しょうむじょうこう)と孝謙天皇(こうけんてんのう)の勅願で、鑑真(がんじん)の弟子、虚瀧(ころう)によって建てられたという歴史のある寺である。

 インドの婆羅門の僧正により付けられた仏教の聖地にちなむ名前は全部で5つあり、五大山と呼ばれている。上に挙げた誓多林、鹿野園、大慈山、忍辱山のほかに、菩提山(ぼだいせん)という地名がある。北・山の辺の道を歩いている時に道を間違えて行きそうになった正暦寺(しょうりゃくじ)のある場所が、その菩提山である。五大山のそれぞれにお寺が建てられたらしいが、今に残るのは、円成寺と正暦寺の2つだけである。

 こうして地名を見ていくと、柳生家の台頭と共に有名になったこの柳生街道が通るエリアも、随分古くから開けていたことが分かる。インドの婆羅門僧が訪ねて来ているわけだから、道も何もない山だったわけでもなかろう。当時、婆羅門僧が歩いた道がどういうルートだったのかは分からないが、柳生街道が一番たどりやすい谷沿いの道であることから、ほぼ同じようなところを歩いたのではなかろうか。インドの婆羅門僧の訪問が先だったのか、南都七大寺の修行場が先だったのかは分からないが、奈良時代には既に多くの人がこの辺りを訪れていたのは確かである。

 ところで、この石灯籠から引き返そうとしたところで、畑の背後の小高い丘の上に立派なお地蔵さんがあるのに気付いた。周りは茶畑で、霜よけ用の背の高い扇風機が立てられている。防霜ファンというヤツだろう。どうしてそんな中にポツリとお地蔵さんがあるのか。不思議に思って丘の麓から農道を上がってお地蔵さんを見に行った。





 お地蔵さんの周りには、何の案内板もない。てくてくまっぷによれば、これは五尺地蔵(ごしゃくじぞう)という名前のお地蔵さんらしいが、それ以上の解説はない。まぁ分からないものは仕方ない。

 小高い丘の上から周囲を見渡す。実にのどかな風景が広がっている。田んぼには刈入れを待つ稲が穂を重く垂らして金色に輝いている。周囲の山々はまだ紅葉には早いが、それでも緑がかなりくすみ、幾つかの木は色を変えつつある。そんな中に埋もれるように、誓多林の鄙びた集落がある。時間が止まったような景色である。

 円城寺方向には山が続いている。ここから十数キロ先には柳生の里がある。私は後に、職場の同僚に車に乗せてもらって柳生の里を訪ねたことがある。この日の誓多林の様子から見て柳生の里も山あいの小さな集落だろうというイメージでいたが、実際には思った以上に家々が連なり、広々とした場所だった。こんな山の中にもこれだけの人が暮らしているのかと感心すると同時に、柳生藩の繁栄の一端を見る思いがした。

 その昔、全国から剣豪が腕試しに集まったという柳生新陰流の本拠地も、今では柳生の菩提寺や家老屋敷が残るだけである。柳生の里を訪ねた日に、柳生一族が剣術の稽古に励んだという鍛錬場の跡を訪れた。

 鍛錬場と言っても、道場のような建物があるわけではない。道路から山へ向かって延びる坂道を上がり森の中を行くと、傍らの林の中に巨石が幾つも転がる場所にたどり着く。その先に鳥居が立ち、天乃石立神社(あまのいわたてじんじゃ)という小さな神社が現れる。この辺りが、柳生家の鍛錬の場だったらしい。巨石の転がる中で山を駆け巡り修行をしたということだろうか。

 天乃石立神社は面白い神社で、巨石の一つが御神体である。ただその巨石、驚くべき大きさと形である。一枚の大きな壁のような自然石が斜めに地面にささっている。神社の伝承が傍らの案内板に書かれているが、日本神話における天岩戸(あまのいわと)の伝説にちなんだものである。

 天界である高天原(たかまがはら)で、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の狼藉の数々に怒った天照大神(あまてらすおおみかみ)は天岩戸にこもってしまう。天界が闇に包まれ困った神々は天岩戸の前に集まり、天照大神の関心を引いて岩戸を開けさせようと天宇受賣命(あめのうずめのみこと)に踊りを踊らせる。囃子たてる神々の歓声を聞いた天照大神が岩戸の隙間から顔を出したところを、力持ちの天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)が引きずり出し、天界に光が戻ったというのが天岩戸の伝説である。この時、天手力雄神が力任せに引き破った岩戸がここまで飛んできたというのが、この巨石の謂れになっている。そんなバカなという話だが、昔の人ならそう信じたかもしれないスケールの岩である。

 さて、この神社の奥の林の中に、柳生石舟斎ゆかりの一刀石(いっとうせき)という巨石がある。これもまたビックリするほどの大きな岩だが、真ん中から一刀両断にスッパリと斬られたように割れている。柳生石舟斎がここで修行中に森から天狗が現れたので、これを斬り捨てたが、翌朝見ると天狗の死体はなく、縦に割れたこの岩だけが残っていたという言い伝えのある岩である。





 さて、柳生の里の話は一旦それくらいにして、この日の散歩の話に戻ろう。

 誓多林の石灯籠やお地蔵様を見たところで、そろそろ道を戻ることにする。のどかな山村の風景を眺めていると、このまま円成寺まで行ってみたい気もするが、バスで帰るならともかく、歩いて戻るとなるとあまりに道のりが長くなり過ぎる。せっかく来たのだから、あの素晴らしい石畳の道をもう一度歩きたいし、来るときに通らなかったルートも見てみたい。そんなわけで、来た道を引き返し始めた。

 誓多林の集落を抜け、峠の茶屋の前を通り過ぎる。もう主人は奥に引っ込んでいたが、先ほど草餅を食べている間、足下にいた猫が店の前に出て見送ってくれる。地獄谷へ行く別れ道を過ぎると、ここからはまだ歩いたことのない道である。どこまで戻れば石畳の道になるのかと思いながら舗装路を進む。

 途中、道の脇に赤いビニールテープが張られている一角がある。立ち止まって何かと見ると蜂の巣があるので注意の表示があった。そう言えば、地獄谷の山道で、何度か蜂に出逢ったことを思い出す。自然の中には、色々危険があるものだ。更にその先にももう一つ、蜂に注意の表示と赤いテープ。こちらの方は、頭上に蜂の巣ありと書かれている。立ち止まって見上げたのだがどこなのか分からないし、蜂も飛んでいない。活動のピークは過ぎつつあるのだろう。

 その蜂の巣ありの注意書きのすぐ先で、舗装路は片側一車線の立派な自動車道に合流した。先ほど地獄谷の途中でも同じような道を渡った。ただ、この道そのものは有料道路ではないようで、この先で有料自動車道に接続する枝道のようだった。

 ここで、はたと考え込む。自動車道へ出たところに案内板があるのだが、柳生街道滝坂の道の標示がない。また、てくてくまっぷでは、自動車道とほぼ交差する形で対面に滝坂の道が延びているように書いてあるが、舗装路の向かい側は森である。ちなみに、掲げられている案内板によれば、自動車道の片側は若草山山頂と鶯の滝へ通じており、もう一方は地獄谷石窟仏と高円山ドライブウェイと表示されている。

 そこで思い出したのだが、先ほど昼ご飯を食べた休憩所で会話を交わしていたハイカーの中に、若草山山頂から砂利道を通ってここまで来たという女性がいた。若草山方向の自動車道を見ると、暫く行った先が砂利道になっている。何となく、この先に滝坂の道に入る脇道がありそうだ。やはり人の話は聞いておくものである。

 はたして、砂利道を少し行ったところで、森の中に分け入る道があった。傍らの案内板に首切地蔵へとあり、ホッとする。ここからは、石畳の道となる。してみると、滝坂の道はここまでということだろうか。また、自動車道のところの案内板に、滝坂の道への表示がないということは、私のように途中で引き返して滝坂の道を戻る人はいないという想定だろうか。確かに、前後に人はいない。みんな午前中のうちにこの辺りを通過して、円成寺や柳生の里方面に行ってしまったのだろう。

 石畳の道を下って行くと、道の脇に春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)への案内表示がある。崖にかかった木の階段を上る急峻な山道があり、崖の上にたどりつくと、金網の向こうに岩の洞窟に彫り込まれた石仏群があった。





 傍らにある案内板によれば、この石仏には銘があり、平安時代末期に彫られたものであることが分かっているという。ただ、「今如房願意」と刻銘されているが、それが誰なのかは分かっていないらしい。

 ここには、東西に二つの人工の石窟があり、それぞれに仏様が彫られている。上の写真は西窟のものでお地蔵様4体が並んでいる。もう一方の東窟には菩薩が3体彫られている。いずれも結構精巧に出来ており、素人が頑張っても無理な出来栄えである。いったいどういう経緯で彫られたのであろうか。急な山道を登るのはちょっとしんどいかもしれないが、一見の価値はあると思う。

 ここに至るまで、随分沢山の石仏を見て来たが、絶壁の石仏にせよ石窟の石仏にせよ、村人が集落に地蔵を祀るのとはちょっと訳の違うものばかりである。いずれもかなりの苦労を伴う作業であり、修行に来ていた山伏や僧が山中にこもって彫ったのかなという気もする。こうして見ると、柳生を目指した剣豪よりも修行に来た山伏や僧の方が多かったんじゃないかとすら思う。

 山伏や僧と言えば、柳生一族と柳生の里にとって、切っても切り離せない一人の僧がいる。沢庵和尚の名で知られる沢庵宗彭(たくあんそうほう)である。

 柳生宗矩は但馬守であったが、沢庵はその但馬国の出石(いずし)で生まれている。兵庫県の日本海側にある静かな城下町で、皿そばで有名なところである。沢庵は臨済宗(りんざいしゅう)の僧で、若くして大徳寺(だいとくじ)の住持となったが、地位や名声を求めぬ人柄で、僅か3日で住持を辞めてしまったという逸話がある。高僧ではあるが、型破りな人物であったようだ。彼の名は、むしろ沢庵漬けの考案者としての方が有名かもしれない。

 沢庵と柳生宗矩との最初の接点は禅の修行だったと言われるが、詳しいことは分からない。いずれにせよ宗矩は、沢庵から様々な教えを受け、人格形成や兵法・剣術の探求に大いなる影響があったという。敵を倒すための技術に過ぎなかった剣術に、人間形成のための精神的修養の要素が盛り込まれていくのも、こうした禅とのつながりによるものらしい。そういう意味では、武道というものの原点を作ったのが、宗矩と沢庵だったのかもしれない。

 沢庵は大徳寺住持を辞して後、郷里の出石に戻り隠遁生活に入る。そんなおりに起きたのが、有名な紫衣事件(しえじけん)である。

 朝廷は従来より、高僧らに紫衣を贈ったり、上人の号を授けたりしていたが、幕府は勝手に朝廷がそうしたことを行うのを禁じ、幕府に諮るよう定めた。これに対して時の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は反発し、幕府の指示には従わずに紫衣の着用を許した。

 怒った幕府側はこれを無効としたが、朝廷のみならず寺院側からも反発が起き、大徳寺や妙心寺(みょうしんじ)の僧侶たちが抗議文を出した。この時、大徳寺内の取りまとめを行ったのが、郷里で隠棲中の沢庵である。幕府は抗議文に名を連ねた僧侶を流罪にし、沢庵も東北地方の日本海側にあった出羽国(でわのくに)に流された。

 結局この事件は、2代将軍だった徳川秀忠の死と共に恩赦となるが、流罪にされた僧たちの赦免に奔走した一人が、柳生宗矩である。3代将軍の徳川家光が京に上洛したおり、宗矩は沢庵を将軍家光に引き合わせる。家光は沢庵をたいそう気に入り篤くもてなした。この後沢庵は一旦郷里の出石に戻るが、将軍から江戸へ呼び出しがあり、家光の側に仕えることになる。家光は沢庵を頼りにし、禅だけでなく、政治に関わることも相談した。この沢庵と家光との強い結び付きが、紫衣事件の最終的な決着につながり、大徳寺と妙心寺は窮地を完全に脱することが出来たのである。

 沢庵は、家光だけでなく多くの大名、皇族・貴族からも尊敬されたが、地位や名声を求めない性格ゆえ、一禅僧に徹した。後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)が沢庵に国師号を贈ろうとした際も、これを断っている。

 江戸と京を行き来していた沢庵だが、宗矩の求めに応じ、暫し柳生の里に滞在したことがあった。

 沢庵は、柳生の里を気に入ったようで、この時、宗矩の頼みで芳徳寺を開いている。沢庵が開山し、宗矩の父である柳生石舟斎こと柳生宗厳の菩提がここで弔われた。初代住持は先ほども話した通り、宗矩の子、柳生列堂である。芳徳寺はこの後、柳生家の菩提寺となり、柳生一族の墓もそこにある。





 上の写真は、後日、職場の同僚の案内で柳生の里を訪れた際に立ち寄った芳徳寺の柳生一族の墓所である。

 中央の奥まったところにある墓が宗矩のもので、手前にあるその右側の墓が、柳生十兵衞こと柳生三厳の墓である。柳生の里に隠棲した石舟斎の墓は小さなもので、この写真だと見えづらいが、宗矩の墓の右の並びにある。芳徳寺自体が石舟斎の菩提を弔うために建てられた寺なのに、墓の意外な小ささに驚いた。

 この芳徳寺の山門手前の傍らに、石舟斎塁城址の石碑が立っている。芳徳寺は高台にあるが、ここが柳生家の拠点だったのだろう。そして、石舟斎は晩年をこの辺りで過ごし生涯を終えた。

 さて、芳徳寺を創建した沢庵が柳生の里に滞在した時期は、宗矩の子で、柳生十兵衞こと柳生三厳が将軍家光から謹慎を申し付けられ、柳生の里に籠っていた時期でもあった。三厳にとって沢庵は良き相談相手であり、数々の教えを受け大いなる影響を与えられたようだ。

 沢庵は郷里の出石に隠棲したかったようだが、その願いはかなわぬまま江戸で生涯を閉じた。彼は自分の禅を継ぐ者を作らず、自分一代限りの禅とした。弟子に辞世の書を求められた時、ただ一字「夢」とだけ書いた。自分の墓を建ててはならぬと言い残したが、郷里と東京に墓が建てられている。

 さて、沢庵の話はそれくらいにして、この日の散策の話に戻ろう。

 春日山石窟仏を離れて石畳の道に戻り、少し行くと別の山道と交差する。この山道は春日山方面につながっているようだ。そこから坂道を下りると、昼ご飯を食べた休憩所に行き着く。これで一応、歩いていなかった部分は全て踏破したことになる。

 休憩所にはハイカーが一人いるだけだった。最初に来た時の賑わいはなく、暫し休んでお茶を飲んでいる間も誰もやって来ない。滝坂の道を上る人のピークはすっかり過ぎたらしい。後は、一人静かに石畳の道を下るだけである。





 この道を歩いて柳生の里を目指した剣豪がたくさんいたという話をしたが、その一人に有名な宮本武蔵(みやもとむさし)がいる。この滝坂の道も、柳生の里に試合を申込みに行くため、武蔵が歩いた道だと地元の人から教えられた。

 柳生石舟斎こと柳生宗厳や、柳生十兵衞として有名な三厳が、数々の伝説に彩られてその実像とは少々かけ離れているように、宮本武蔵もまた、あまりに多い脚色に埋もれてその実像が不確かな剣豪の一人である。そうなったのは、客観的な公式の記録が少ないことによるものではなかろうか。

 宮本武蔵は、様々な戦いに助っ人として参戦したり、客分として各地で遇されたりしているが、どこかの藩に長らく出仕したわけではないし、幕府と公式の関係があったわけでもない。ただ、剣豪として名は知られ、色々な流派と試合をしたことは間違いない。そうした名声と生涯の空白部分を、後世の創作家が様々に脚色して物語を作ったものだから、どこまでが本当で、どこからがフィクションなのか、きちんと区別して語れる人は稀だろうと思う。

 一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)の決闘を含む京の吉岡一門との対決、宝蔵院流槍術や鎖鎌(くさりがま)など異なる武芸者との決戦、そして一番有名な佐々木小次郎との巌流島(がんりゅうじま)での決闘を含め、六十数回の戦いに全て勝利したというのが、有名な武蔵の武勇伝である。ただ、本当にそうだったのか、あるいはそんな決闘が本当にあったのかについては、どうも定かでない部分もあり、多数の異説があると聞く。まぁ、公式記録の少ない人なのだから仕方なかろう。

 そんな中で語られるのが武蔵と柳生との関わり合いであるが、実際には柳生家の人とは直接戦っていないというのが定説である。また、柳生の里まで実際に足を延ばしたのかどうかも分からない。

 後世の物語の中では、武蔵は手合わせを願って柳生の里まで訪れている。その際のエピソードは有名だろう。

 柳生の里では、当主の柳生石舟斎は高齢で既に隠居している。息子の柳生宗矩は将軍に仕えて江戸にいる。自分の試合の相手をする者がこの里にはいないと分かる。そこに、京の吉岡一門の吉岡伝七郎がやって来て柳生家に試合を申し込むが、柳生石舟斎から丁重な断りの手紙が届けられる。吉岡伝七郎は手紙を見て京に帰るが、手紙に添えられていたシャクヤクの切り花が武蔵の目に留まる。柔らかいシャクヤクの茎が、花も散らさずに鮮やかに切られている。その切り口を見て、武蔵は柳生石舟斎の剣の実力を悟るというものである。

 シャクヤクの話の真偽は知らないが、上の方に述べた一刀石の伝承とも通じる話であり、なかなか興味深い。武蔵同様、柳生石舟斎も伝説の人なのである。

 さて、渓流沿いの景色を楽しみながら滝坂の道を下り、高畑の住宅街に戻って、ここで柳生街道散策は終わりとなるが、最後に一つ、立ち寄りたい場所がある。

 高畑の志賀直哉旧居(しがなおやきゅうきょ)の前から春日山原生林の中を通るささやきの小径に入る。ささやきの小径はもう何度も通ったが、正式には下の禰宜道(しものねぎみち)と言い、春日大社の神官や社務職の人たちが麓の住まいから春日大社に通うのに使った古道である。この道は春日大社の参道の途中へと抜けられ、そこを下りると麓の奈良公園エリアとなる。

 私が向かったのは公園内に建つ奈良国立博物館であり、工事中の本館の脇にこんな石碑が立っている。





 ここが興福寺の子院の一つ、宝蔵院があった場所である。つまり、胤栄により宝蔵院流槍術が編み出された地であり、柳生石舟斎こと柳生宗厳が、新陰流を編み出した上泉信綱と運命の出会いをした場所ということになる。

 上泉信綱と出会わなければ柳生宗厳の無刀取りは生まれなかったわけで、徳川家康にその秘儀を披露して剣術指南役の道が開けることもなかったろう。つまり、柳生一族の隆盛のきっかけを作ったのが、この場所なのである。先ほど紹介した芳徳寺の柳生家の墓所の中に、上泉信綱の供養塔である柳眼塔が立っている。柳生家にとって、上泉信綱は忘れがたい人なのである。

 奈良公園を訪れる人のほとんどが知らずに通り過ぎてしまう宝蔵院の跡地に立つと、不思議な感慨におそわれる。かつてこの地に、宝蔵院流槍術の胤栄と、新陰流の上泉信綱、そして剣の腕前は知られながら世の流れに乗り切れない柳生宗厳が立っていた。そんな特別な場所を最終目的地にして、本日の散策を終えたい。

 この日歩いたのは結局2万3000歩、距離にして約17kmとなる。長い間心に引っ掛かっていた柳生街道を、一部なりとも歩くことが出来て、素晴らしい一日であった。後日柳生の里を訪ねた際に、この日歩いた柳生街道のことを思い出した。こうして東京に戻って来てもう何年も経つが、柳生街道と柳生の里は忘れがたい場所である。おそらく、もう一度歩く機会はないだろうが…。







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