パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第20話:北・山の辺の道(後編)





 今回は北・山の辺の道散策の続きである。前回は天理市からスタートして北に向かって道をたどり、帯解寺(おびとけでら)まで来たところで一旦切り上げて大阪に戻った。今回はその続きからということで、万葉まほろば線の別名を持つJR桜井線の帯解駅(おびとけえき)へ向かった。

 前回の帰り道に確認したのだが、帯解駅周辺はコンビニやめぼしい飲食店がないため、今回は、大阪のコンビニでお茶とおにぎりを買って持参することにした。山の辺の道は、この辺りの判断を誤ると大変なことになる。

 万葉まほろば線はJR奈良駅が起点なので、JR天王寺駅から大和路快速でJR奈良駅へ向かう。前回話したように万葉まほろば線は単線を走る2両編成ののんびりした電車だが、秋の連休中のうえ晴天とあって、結構な乗客数である。みんなどこまで乗るのか興味があるが、それを確認する間もなくあっという間に帯解駅に着いて電車を降りる。

 電車は運転手一人のワンマンカーで、降りる駅も無人駅なため、料金は車内で運転手に払うことになる。バス並みである。但し、カードの場合は電車内で精算出来ないため、電車を降りてから駅のカードセンサーにタッチして下さいという、おおらかな対応である。

 駅を降りると、まずトイレを済ませる。道中のトイレ事情が分からないため、これも必要なことである。その後、見覚えのある道をそのまま引き返し、前回の終了地点まで行く。この先からが未知のエリアである。

 地図の上では、まずは山の方に向かって一本道を進めばよいことになっている。今日はあまり一般の自動車道を通らないコースであることを祈るばかりである。出だしは、舗装路ながら田畑の中を行くのどかな一本道である。自然の中にポツンと一人でいるような感じで、第一印象はとてもいい。でも、前回も出だしは素晴らしい道だったから、油断は出来ない。

 地図通りに進むと、道の傍らに大きな池が現れる。地図では竜王池とあり、池の反対側には赤い鳥居と祠のある中の島が見える。何か謂われがありそうな池だが、解説板の類はない。





 実はここで致命的な失敗をしたのだが、この時には風景に見とれていて、気付かずにそのまま池を通り過ぎて道を進んだ。相変わらずの舗装路だが、ドンドン自然の中に溶け込んでいくようなのどかな道で、車も通らず、私ひとりきりである。

 田んぼの中ののどかな田舎道は、山の麓に向かって延びている。周囲は鳥の鳴き声しか聞こえない。静寂が辺りを包む素晴らしい道で、いつまでも歩き続けたい気分になる。

 そのうち、五つ塚古墳群という標識が現れた。山裾に5つの古墳が並んだ場所で、方墳と円墳からなっている。その辺りで、おやっと思ったのである。こんなもの地図にあったかと。慌てて地図を見たら、途中で左に折れるところを行き過ぎている。でも左に折れる道なんてあったろうかと思い返すと、脇に古びた鳥居があったことを思い出した。薄暗い竹林の中に道が消えていく感じで、何か分け入るのを躊躇するような雰囲気があった。そうか、あれだったのか。

 仕方なく引き返すことにする。冒頭から大変なロスだったが、のどかな風景の中を歩けたことと、古墳群を見られたことで良しとしよう。奈良散歩に迷子は付き物である。

 それにしても、あの気持ちの良い道をそのまま進むとどこに行くかというと、正暦寺(しょうりゃくじ)である。竜王池のところから4kmほどだろうか。

 あの道のことを考えると、その先も山に分け入って素晴らしい道行きになりそうなので訪ねてみたい気もしたが、さすがに山の辺の道を外れ、山に向けて4km分け入るのは日程的に厳しい。往復すれば相当時間を食ってしまう。そんなわけで、竜王池まで引き返した。下の写真は、古墳群辺りで撮った写真である。





 話は少し横道にそれるが、正暦寺まで続くこの素晴らしい道を、後日歩いたことがある。この道は自動車道なのだが、ほとんど車が通らない。それもそのはずで、五つ塚古墳から更に先に行くと山の中に入って行き、自動車道としては行き止まりになるのである。その先は舗装されているが、森の中の一本道で、かろうじて軽自動車が一台通れる程度の山道となる。そして、森の中の細い舗装路を更にたどると、ぽつりと家屋が建っている先から完全な土の山道となる。それを抜けると正暦寺である。

 この道は、近鉄のてくてくまっぷでも紹介されている自然歩道で、森の中に入ってからも素晴らしい。渓流沿いを行くので、ところどころ水が山から湧き出て道の上を流れている箇所があったりするが、舗装路なので足下がぬかるんで困ることはない。渓流沿いには至るところにカエルがいるらしく、さかんにケケケケといったあまり馴染みのない鳴き声が聞こえる。道の下を流れる渓流だけでなく、道のすぐそばでも鳴いているのだが、立ち止まって探してもカエルの姿は見えない。野趣に富んだ道行きで、実に楽しかった。ただ、正暦寺に出る最後の部分がアップダウンのある山道で、少し足下が険しい箇所があるので、革靴やハイヒールでの踏破は難しかろう。

 せっかくなので、横道にそれついでに正暦寺のことも併せて紹介しておこう。

 正暦寺は山の中にひっそりとたたずむ鄙びたお寺で、周囲は紅葉の名所として名高い。行けば分かるが、周囲の至るところにモミジが植わっている。正暦寺の僧侶に話を伺うと、その数は三千本で、昔からあるため、幹の太い立派な木が多い。京都辺りの紅葉で有名な寺社というと、庭園に見事なモミジが植わっているわけだが、正暦寺の場合にはお寺の周辺がモミジの森というところが変わっている。

 本堂内に往時の寺の様子を伝える絵図が掲げられているが、百以上の僧房を抱える奈良屈指の大寺だったようだ。しかし今では、本堂のほか僅かな建物が残るばかりのこじんまりとしたお寺である。

 歴史も古く、平安時代に一条天皇(いちじょうてんのう)の勅願により兼俊(けんしゅん)僧正により創建されている。兼俊は、有力貴族藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の子であり、兼家は一条天皇の祖父に当たる。

 しかし、由緒正しい大寺だった正暦寺も、平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)の命で行われた南都焼討(なんとやきうち)により、東大寺や興福寺と共に焼失してしまう。南都焼討の背景は、平家一門と皇室・貴族との権力闘争であり、皇室・貴族に縁の深い奈良の大寺は反平氏勢力として平家の攻撃対象にされたわけである。

 その後、興福寺の別当としてその再興に尽力した信円(しんえん)僧正が正暦寺で晩年を過ごすことになり、正暦寺の再興が始まった。徐々に建物が再建され、江戸時代には往時を偲ぶ大伽藍を構えるまでに立ち直ったが、明治期に入り、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹くと再び荒廃し、わずかな建物を残すのみとなったと聞く。





 上の写真は、正暦寺の山門である。現在残っている伽藍はひとところに集まっているが、周囲の道を散策すると、たくさんの石垣が残っているほか、森の中にお堂があったりして、何となく往時を偲ぶことが出来る。ただ、本堂内の絵図に従えば、山そのものが正暦寺の境内であり、少し散策して全体を把握できるような規模ではなかったのだろう。

 訪れた際に正暦寺の方に伺うと、かつては真言密教の修行の場にもなっていたようで、周囲の山々で多くの僧侶が修行を積んでいたらしい。現在の本尊は薬師如来だが、大日如来(だいにちにょらい)や各明王の仏像が残っており、当時の風情を偲ぶことが出来る。

 ところで正暦寺の意外な一面として、ここが清酒発祥の地という話がある。お寺で酒造りというのは何とも不可解だが、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の時代にあっては神も仏も一緒に祀られており、神様にお神酒は付き物ということで、お供え用に造られていたのが起源のようだ。

 そういう意味では酒造りは正暦寺に限られていなかったわけだが、正暦寺の酒造技術がとりわけ優れていたようで、天下一級の美酒を造ることで名が知られていたらしい。この酒造技術が民間の造り酒屋に受け継がれて、やがて清酒が生まれることになる。それで正暦寺が清酒発祥の地とされているわけである。

 正暦寺の話はそれくらいにして、山の辺の道に話を戻そう。

 竜王池のところまで戻り、よく見たら、道路脇の案内板を見落としていたのに気付いた。古びた鳥居をくぐって、山の中に分け入る道を登ると、すぐ先は鬱蒼とした竹藪になっている。

 最初にこの場所を見て何となく違和感を覚えたのは、鳥居があるのに社殿が一切見当たらないからだった。ただ道だけが奥へ奥へと消えていく。いったいどこに続くのだろうかという風情である。道を振り返ってはたと気付いた。あの竜王池の中の島にある神社の鳥居がこれではないかと。つまり、森の中に社殿があるのではなく、森の奥からお参りに来る人のためにあの鳥居が建っているのではないかと。でも、この奥から誰かお参りに来るのだろうか。

 蚊にたかられながら暫く進むと、道の傍らに短い石段があって、上がると、よく整備された空き地にお堂と石碑がある。どうやら次なる目的地が近いようだ。

 再び元の道に戻ると、すぐ先が下りの石段になっていて、傍らに手水鉢が置いてある。そこを下りたところが、次なる目的地、円照寺(えんしょうじ)の参道だった。





 円照寺は、法隆寺(ほうりゅうじ)に隣接する中宮寺(ちゅうぐうじ)、奈良市内にある法華寺(ほっけじ)と並び、大和三門跡尼寺に数えられる由緒ある尼寺である。

 門跡尼寺は、通常の尼寺と違い皇族や貴族の女性が住職となる格式の高い寺であるが、円照寺は、江戸時代に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の娘である大通文智尼(だいつうぶんちに)が創建したものである。

 大通文智尼の生い立ちは不幸なもので、父の後水尾天皇には、時の将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘徳川和子(とくがわまさこ)を中宮に迎える縁談話が進んでいた。ところが女官との間に子供が出来てしまう。これが後の大通文智尼である。

 このことを知った徳川家は激怒して、監督不行届きで世話役の貴族たちが流罪に遭い、当の女官も内裏を追放され、出家して嵯峨野で隠棲することになる。生まれた娘は長じて鷹司家(たかつかさけ)に嫁ぐが、ほどなく離婚する。その後、出家して大通文智尼となり、草庵を修学院に構えたが、これが円照寺の前身である。

 やがて、修学院の地に、父の後水尾上皇が離宮を建設することになる。これが現在の修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)である。この際、大通文智尼は庵をたたみ、奈良に引きこもる決意をする。奈良での生活の基盤として領地を与えたのは、後水尾天皇に嫁いだ徳川和子だったと言われている。

 大通文智尼以降も、代々皇族の女性が住持として円照寺に入り、山村御殿、あるいは山村御所と呼ばれるようになる。

 また、初代の大通文智尼が、父の後水尾天皇のためにと始めた生け花を代々の住持が受け継ぎ、これが華道の山村御流(やまむらごりゅう)につながっている。現在も山村御流の家元は円照寺となっている。

 ただ残念ながら、この円照寺は一般公開をしていない。1年のうち限られた日だけ、応募により人数を限定した特別拝観が行われるようだが、大変人気が高いらしく応募者殺到と聞く。

 この日はお花の会があったのか、たくさんの女性が門から出て来て、参道を下りていく。普段は静かな参道なのだろうが、大賑わいである。この日の山の辺の道の行程で、一番たくさんの人に出会った気がする。

 門前まで行って様子を伺ってから、引き返して森の中の趣のある参道を下る。その途中から、脇の山に向かって山の辺の道が分かれて延びる。味わいのある土の道だ。

 暫く上がると、道中にお地蔵さんと石仏群があり、そこからは竹林の道となる。





 山道だが、道幅を広めに取ってあるので歩きやすい。よく整備された道で、如何にも山の辺の道らしくていい。先ほど鳥居のところから分け入った細い藪の道とは大違いである。

 ところで、少し行くと、その先で道が二つに分かれている。左は柿の木畑らしい空間につながる道で、右はこれまでと同じ山道だが、森の中を曲がりながら下って行く。山道の方が山の辺の道っぽく見え、左の道は農家の作業用の道のようにも思える。ただ、近辺に道標がないので、どちらが正しい道か分からない。地図の上では左の道っぽいのだが、どうにも確信が持てない。

 間違ったら引き返そうと、まずは平坦な左の道を試してみることにした。地図の上ではまもなく次の道標があるはずだから、少し行って道標がなかったら引き返すことにする。柿の木の中を歩き、暫く行った先に、山の辺の道の道標があった。正解だったのである。

 山の中だと、こういうことはよく起こる。山道は一本道ということは少なく、枝道が出ているものだ。地図の上では分かれ道のところには道標が立っていることになっているが、もしかしたら、失われてしまったのかもしれない。

 さて、道標のところから下りの山道になっており、そのまま麓まで下りると、池のたもとに出た。そこにイノシシ除けの鉄の防御柵がある。イノシシ用防御柵は奈良では所々で見掛けるが、山の辺の道では初めての経験である。柵を開けて通り、また閉める。池の周りを半分回るようにして対岸の道路まで出ると、そこが次なる目的地、崇道天皇八嶋陵(すどうてんのうやしまのみささぎ)である。

 今見た池は、天皇陵の前池のようで、天皇陵の森が水面に映って美しい。





 ここは宮内庁管理の正式の天皇陵であるが、歴代の天皇一覧を見ても、この崇道天皇という天皇はいないのである。

 では、崇道天皇とは何者なのか。実は、奈良の平城京から京の平安京に遷都する間、長岡京(ながおかきょう)に都が置かれていた時期があった。しかし、この都はわずか10年間で放棄される。その原因を作ったのが崇道天皇なのである。

 平城京から長岡京への遷都を決断したのは、桓武天皇(かんむてんのう)である。その最大の理由は、平城京近辺に大きな川がなく、水運が利用できなかったことに加え、上下水道を含め水不足に悩まされたからである。ただ、もう一つ理由があると言われており、桓武天皇が新しい政治を行っていくうえで、奈良の寺社勢力や既存の貴族たちから離れたいという思惑もあったという。

 桓武天皇側近として長岡京遷都を主導したのは、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)であるが、長岡京に都が遷ってすぐに、種継が暗殺されるという事件が起きる。陰謀を企てたとして、大伴(おおとも)系の人々が捕らえられる。大伴氏は大和朝廷以来の有力貴族であるが、種継の属する新興貴族藤原氏との間で、朝廷の主導権を巡る争いがあったと言われている。藤原氏主導の遷都について、大伴氏は面白く思っていなかったというわけである。

 加えて、桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)が関与していたとされ、廃嫡という厳しい処分を受ける。早良親王は、母の身分が低かったため、当初は皇位継承の芽がないとして、若くして出家し東大寺などに身を置いていた過去がある。後に父親の光仁天皇(こうにんてんのう)の勧めで僧籍を離れて皇位継承の候補者の一人となっていたが、出家していた縁で奈良の寺社勢力と深い関係にあった。このため疑われたわけである。ただ、確たる証拠があってのことではない。

 これに対し早良親王は無実を訴え、幽閉された長岡京の乙訓寺(おとくにでら)で、抗議のため一切の飲食を拒否した。その後淡路島へ配流となるが、結局淡路島に着く前に亡くなってしまう。それでも流罪は実行され、早良親王の遺体が淡路島まで運ばれて葬られた。

 さて、問題はここからである。

 早良親王の死からほどなくして、桓武天皇の第一皇子、皇后、母親など近親の者が次々に亡くなる。そして、自然災害や流行病などが相次いで起き、これは早良親王の祟りに違いないと言われるようになる。慌てた桓武天皇ら朝廷側は、幾度か早良親王への鎮魂の儀式などを行ったが効果がなく、ついに都を平安京に移す決定がなされる。そして早良親王は崇道天皇として追号され、遺体が淡路島から奈良の地に運ばれ、天皇陵が造営されたのである。

 桓武天皇が正式に構えた都が、遷都後わずか10年で使えなくなるというのは、よほど早良親王の祟りがすごかったわけで、天皇に祀り上げて陵墓を造ったのも納得できるものがある。

 その後、菅原道真(すがわらのみちざね)の祟りが起こるまで、平安京における最大の祟り神は早良親王であり、怨霊を鎮めるため行われた御霊会(ごりょうえ)でも、早良親王が筆頭の怨霊としてお祓いの対象となった。ちなみに、内裏の南の神泉苑(しんせんえん)で行われたこの御霊会が、現在の祇園祭(ぎおんまつり)の起源である。

 さて、悲劇の早良親王のことを思いながら、天皇陵の前の道路を山の方向へ歩く。集落内を通る静かな里道で、車はほとんど来ないし、人も歩いていない。道の脇に広がる田んぼの稲はたわわに実り、コスモスや曼珠沙華が辺り一帯に咲いている。

 集落の家並みが途切れた辺りに、次なる目的地、嶋田神社(しまだじんじゃ)がポツンとあった。





 嶋田神社は小さな神社だが、境内に掲げられてある縁起によれば、なかなか興味深い存在である。

 ここにある社殿は、藤原氏の氏神を祀る奈良の春日大社(かすがたいしゃ)の本殿を移築したものである。春日大社は20年に一度社殿を造り替える習わしがある。千年以上続くこの行事は式年造替(しきねんぞうたい)と呼ばれていて、私が大阪にいた当時も第60次の式年造替が行われていた。その際、古くなった社殿は、他の神社に払い下げられるのだが、嶋田神社の本殿もそうした経緯で春日大社から移って来たものである。

 ただ、この社殿は最初からここに移築されたわけではない。ではどこにあったのかということになるが、それが先ほど見た崇道天皇八嶋陵である。その時の神社の名前は崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)。つまり、早良親王の祟りを鎮めるために置かれた神社なのである。

 天皇陵の整備に併せてこの地に再度移築されたわけだが、現在も崇道天皇(早良親王)が祀られている。ちなみに、崇道天皇社は奈良市内にもあるし、奈良や京都の御霊神社(ごりょうじんじゃ)にも早良親王が祀られている。こうした神社が多くあることが、どれだけ早良親王の祟りが恐れられていたのかを物語っている。

 そんな因縁を背負った嶋田神社だが、実際は何とものどかな神社である。座れる場所があったので、ここで持って来たおにぎりを食べる。そのうち誰か来るだろうかと思っていたが、結局誰一人来なかった。謂れを知らなければ、注目されることのない集落の小さな神社という感じである。

 腹ごしらえをし休憩もした後で、また歩き始める。ここまでで、既にかなりの行程を来たような気になっていたが、地図で確かめるとまだ1/4程度しか来ていない。気合を入れて先を急ぐことにする。

 神社の先の道からは、遠く生駒山が望めて絶景である。こうしてみると、かなり上の方まで上がって来たことが分かる。

 その先に公衆トイレがあったので使わせてもらう。考えてみると、ここまでの行程で、一度もトイレがなかった気がする。山の辺の道の南コースだと、あちこちにハイカー用のトイレが整備されているが、本日のコースはトイレが少ない。やはり、歩く人が少ないせいだろうか。

 その先は、如何にも山の辺の道らしい鄙びた田園風景の道が続いて気持ちがいい。田んぼの中を抜けて林に入り、山裾を歩く。道標もしっかりしていて分かりやすい。やがて山道に入ったところで、山の辺の脇道というのに出会った。





 標識によれば、不動明王の祠経由で歩く道らしい。興味はあったが持っていた地図には案内がなく、どの程度遠回りになるのか距離感が分からないので諦める。ある程度先に進んでからこの脇道との合流点があったので、そこから推測するとたいした寄り道ではなかったことになる。少し損をした気分だったが、まぁ仕方ない。この種の散策時には、冒険は時として大きな失敗を生む。多少の迷子は想定の範囲だが、大ケガしないに越したことはない。

 更に進んでいくと、再びイノシシ除けの防御柵に出会う。そう言えば、田畑の至る所に電流柵が張り巡らされており、被害が多いのかなと思う。

 その先が土手になっており、道が消えかかっている。土手を登る階段を草むらの中に探しながら上がっていく。この草の茂り具合から見て、あまりここを歩いている人はいないのだろうと感じた。

 土手の上は貯水池のようで、その脇を進むと集落にたどりつく。道の途中で集落名について解説する看板があった。寺社の縁起ならともかく、土地の名前の解説とは、なかなか珍しい趣向である。

 看板の解説では、この辺りは鹿野園(ろくやおん)というらしいが、名前の由来が確かに面白い。奈良時代に、東大寺の大仏の開眼法要にインドからやって来た婆羅門の僧正が、インドにあるサールナートという地とこの辺りがよく似ているとして名付けたとある。

 サールナートは、釈迦が悟りを開いて弟子たちに説法した聖地の一つで、鹿がたくさんいる地だったので、漢訳が鹿野園になったというわけである。

 この種の仏教由来の地名は周辺にたくさんあるらしく、忍辱山(にんにくせん)、誓多林(せたりん)、大慈仙(だいじせん)、菩提山(ぼだいせん)なども、インドの地名の漢訳から来ていると言う。なかなか面白い話であり、解説板を掲げる価値はあると思った。ちなみに、最初の方で紹介した正暦寺のある場所が菩提山である。

 解説板のすぐ先に、八阪神社(やさかじんじゃ)という小さな神社があったので入ってみた。山の中腹に本殿があるだけの狭い境内で、人の気配のない静かな神社である。ただ、よく整備されているので感心した。地元の人々の努力の賜物だろうか。





 鳥居脇に掲げられた神社の縁起を読んでいて興味を引いたのが、神社の由来に関して、勤操(ごんそう)が建てた岩淵寺(いわぶちでら)の一院を鎮守するために建てられたという説が紹介されていたことである。前回の最後に立ち寄った帯解寺もそうだったが、この周辺のお寺には、岩淵寺にまつわるものが幾つかある。相当影響力のあったお寺なのだろう。

 神社の周辺は眺めがいい。背後の山の木々が少しずつ色付いているのが見て取れる。標高が高いところなので、紅葉が早いのだろうか。

 さて、ここから先は山を下って麓の道となる。地図を見ると、下り道の途中を右に折れて、北にコースを取るらしい。次なる目的地は、以前にも行ったことのある白毫寺(びゃくごうじ)で、その辺りまで行けば地理は分かる。

 道の途中に白毫寺への分かれ道の道標があったので、そこを折れて草の道を下って行く。こんなところを通るのかというような野趣に富んだ道である。

 ところが、途中から道が草に覆われて分かりにくくなり、そのうち道一面が背の高い笹藪に覆われ通れなくなっていた。すぐ先に石橋が見えているのだが、柵に囲まれた道はとても通れない。仕方なく柵の向こう側の草地へ迂回しようとしたが、草が深くて地面の高さが分からず、危うく転倒しかける。これじゃあ、危なくて通れないなぁと不安を覚える。ここまで徹底的に人が来ていないということだろうか。

 橋を渡った先の道は林の中の土の道だが、生い茂る草で途中から道が消えている。ここも最近、誰も通っていないということか。山の辺の道の北コースは、そこまで人気のない道なのだろうかと首を傾げた。草をかき分けて進むが、この状態だと半ズボンの人には踏破は難しかろう。

 何とか林の中の道を抜けると、畑の間を通るあぜ道のような草の道となる。所々に白毫寺へあと○kmという道案内の標識があるので、道に迷っているはずはないと思っていたのだが、実は重大な誤りを犯していたのである。それが分かったのは、畑を抜け、白毫寺への標識に従って山の中に入った辺りである。





 最初は、何故山の中に入るのかと思ったのである。麓の道のはずである。しかも、手元の地図では、山の辺の道の標識があるはずなのにない。代わりに東海自然歩道の標識が立っている。そこではたと気付いた。ここに来るまでは、山の辺の道と東海自然歩道は重なっていたのだが、先ほどの山からの下り道の途中で、山の辺の道と東海自然歩道はルートが分かれていたのである。

 山の辺の道は平地を行き、東海自然歩道は山あいを行く。概ね平行に走り、いずれも白毫寺に向かうので、行き先の標識しか見ていなかった私は間違いに気付かなかったのである。まぁ、今更気付いてみても仕方ない。ただ、冷静になって考えてみると、山の中を行くこの東海自然歩道の方が、山の辺の道らしい雰囲気を持っている。

 やがて東海自然歩道は、山の上を通る自動車道と合流して、白毫寺の裏山に出た。白毫寺に行くには、一旦麓まで降りてから参道へ行き、再度寺に向けて階段を上るという二度手間なコースをたどることになる。まぁ仕方ない。この程度のことは良しとしよう。

 そんなわけで、当初とは違ったコースで白毫寺にたどり着く。ここは何とも懐かしい場所である。

 私が初めて白毫寺を訪れたのは、ちょうど1年前である。週末の奈良散歩が始まって、下見で1回奈良公園周辺を訪れた後、本格的な散策の事実上のスタートとなったのが、この白毫寺訪問だった。その時のことは、この奈良散歩記の第2回に記した。

 白毫寺は山の辺の道と並んで、私が大学生以来、一度訪ねてみたいと思いながら果たせなかった憧れの地である。入江泰吉氏の「大和路」という写真集にあった「白毫寺の萩」を見たのが白毫寺との出会いだったが、当時奈良の地理に詳しくなかった私は、自動車がないと行くのは無理だと勝手に思い、訪問を諦めてしまった。それから30年以上経って、ようやく初めての訪問となったのが昨年の9月だった。

 白毫寺の前に立ち、あれから1年経ったのかと、暫し感慨にふけった。あれ以来、いったいどれくらい奈良を歩き回ったのだろうか。もう新たな訪問地がないくらい各地を訪れて、再び奈良散歩の原点のような白毫寺の前に立つ。1年前は奈良市内からスタートして、山の辺の道を初めて歩いて白毫寺に着いた。今度は、同じ山の辺の道を南から上って来て白毫寺の門前にたどり着く。ここで一応、山の辺の道の全行程は踏破したということになる。何か大きな輪が閉じたような気分になって、白毫寺を見上げた。





 白毫寺と聞いて思い出すのは萩だが、満開ではないものの、それなりに咲いてはいる。天気がいいこともあり、結構な人出である。これまでたどって来た山の辺の道とは、明らかに人の数が違う。完全に奈良の観光エリアに入った気分になる。

 奈良盆地を一望できる庭の端に立ち、逆光気味の景色を見る。興福寺(こうふくじ)の五重塔もよく見える。本日のゴールは興福寺なので、あと少しというところである。

 休憩方々、境内のベンチに座って、もらったパンフレットを開く。

 白毫寺の創建の謂れは諸説あってハッキリしない。パンフレットを読むと、大化の改新(たいかのかいしん)で有名な天智天皇(てんちてんのう)の息子、志貴皇子(しきのみこ)の離宮の一部が寺になったという説明があるが、他にも、勤操が建てた岩淵寺の一院とする説も紹介されている。ここでもまた、岩淵寺である。

 勤操については、前回、天理市からJR帯解駅まで歩いた際、最後に立ち寄った帯解寺のところで少し書いた。奈良末期から平安時代にかけて活躍した高僧で、天台宗(てんだいしゅう)を開いた最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)を開いた空海(くうかい)とも交流があったと言う。帯解寺の元になった霊松庵(れいしょうあん)を創建したのも勤操である。

 その後、白毫寺は鎌倉時代になって、奈良の西大寺(さいだいじ)など多くの寺院を復興したことで知られる叡尊(えいそん)によって整備・復興されるが、室町時代に大和地方の支配権を巡る武家同士の抗争でほとんどの堂宇を失った。再建されたのは江戸時代に入ってのことで、幕府の支援もあって繁栄するが、明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、再度荒廃の憂き目に遭う。

 こうして見ると、のどかで平和な印象のある鄙びたお寺だが、複雑な栄枯盛衰の歴史をたどって来たことが分かる。

 白毫寺の石段を降りて、元の山の辺の道へ入る。この辺りは、古い民家が多く残るエリアで、自動車道ながら趣がある。次は新薬師寺(しんやくしじ)に立ち寄る予定だが、人気の寺とあって、道案内の標識が要所々々に立っている。そもそも一度来たことのある道なので、歩いているうちに何となく記憶が蘇る。

 暫く行くと、見覚えのある新薬師寺の入り口に着く。ここもまた結構な人である。





 新薬師寺は、昨年9月に白毫寺を訪れた際に立ち寄ったが、その時は門前まで来ただけで、拝観せずに通り過ぎた。今回は二度目なので、再び素通りも悪いと思い、拝観することにした。

 新薬師寺は、天平時代に聖武天皇(しょうむてんのう)の眼病治癒のため、光明皇后(こうみょうこうごう)が建てた寺である。奈良にはもう一つ、西の京に薬師寺(やくしじ)があるが、あちらは天武天皇(てんむてんのう)が皇后の病気回復のために建てようとしたものである。ただ、薬師寺の完成前に天皇の方が亡くなってしまったため、病気だった皇后が即位して持統天皇となり、夫の遺志を継いで完成させたという経緯がある。いずれの薬師寺も名前の通り、薬師如来(やくしにょらい)を本尊としている

 医学の発達しない時代に病気を治すには、病気の原因と考えられた祟りを祓うか、仏に祈るしかなかったわけである。仏に祈るとなると、疾病を治癒して寿命を延ばす力を持った薬師如来にすがるのが当時の習わしであり、薬師如来を祀る寺が方々に建てられたというわけである。

 新薬師寺もかつては、広大な寺地を持ち、金堂や塔が建ち並ぶ大伽藍を有していたようだが、幾度かの自然災害で建物が失われ、現在では本堂を中心にわずかばかりの建物が残るだけの小さなお寺である。その本堂も、本来は修行用に使われたお堂であり、造りから言っても、本堂らしくない。当時の建物として今に残るのはこの本堂だけであり、あとは梵鐘くらいのものか。

 奈良公園近辺の興福寺や東大寺が集まるエリアから遠く離れたこじんまりとしたお寺ながら、ここを訪れる観光客は多い。その理由は、ここに安置されている薬師如来像とそれを取り囲む十二神将像が人気だからだろう。

 普通のお寺ではご本尊の人気が高いのだが、ここでは十二神将像の方に注目が集まる。とりわけ伐折羅(ばさら)大将像が有名で、誰でも一度は写真などで見たことがあるはずだ。ただ、この十二神将像は、元から新薬師寺にあったものではない。先ほどの白毫寺のところに出て来た岩淵寺にあったものを移して来たと伝えられる。今はなきお寺ながら、岩淵寺の存在感にはすごいものがある。

 改めてじっくりと十二神将像を見る。像の造りとしては、伐折羅大将像に限らず、いずれも良くできている。強いて言えば、躍動感と表情で伐折羅大将像がやや勝っているという程度だろうか。

 十二神将像を二周してじっくり見た後、新薬師寺を出ると、山の辺の道終点の興福寺(こうふくじ)に向かう。その先の道も観光客が三々五々歩いている。春日山(かすがやま)方向に抜け、志賀直哉邸(しがなおやてい)の向かいからささやきの小径に入る。ここはもう春日大社(かすがたいしゃ)の神域である。

 ささやきの小径は、前年8月に奈良へ下見方々来たときに通った道である。正式には下の禰宜道(しものねぎみち)と言い、春日大社の神官や社務職の人たちが麓の住まいから春日大社に通うのに使った道と言われている。立ち入り禁止の春日山の原生林の中を歩けるのが魅力で、アップダウンはさほどない。

 ささやきの小径から春日大社の参道へ出て、そこを下り、麓の公園エリアへ向かう。参道には外人観光客が多い。奈良は京都に比べて外人観光客が少ないところだが、奈良公園周辺は別である。皆さん、鹿と一緒に写真を撮るのに夢中な様子だった。

 参道を出ると国立博物館の脇を通り、興福寺境内へ進む。ようやくゴールである。





 興福寺は藤原氏の氏寺であり、平城京への遷都の年に藤原不比等(ふじわらのふひと)が建てたものである。藤原氏の祖であり大化の改新(たいかのかいしん)の立役者でもある中臣鎌足(なかとみのかまたり)の夫人が、夫の病気平癒を祈願して山階寺(やましなでら)を建てたのが、そもそもの始まりと言われている。後に藤原京(ふじわらきょう)へ移されて厩坂寺(うまやさかでら)となり、藤原氏の氏寺となった。その厩坂寺がこの地に移り興福寺となったわけで、ここに至るまでには幾度かの変遷がある。

 藤原氏絶頂期の平安時代には、現在の奈良盆地はほぼ興福寺の勢力下というまでに発展し、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)とともに南都北嶺(なんとほくれい)として恐れられたことは有名だが、今では境内と周辺とが一体化し、開かれたお寺というイメージがある。この辺りを歩いているうちに、興福寺の境内に入っていたといった感があり、結構親しみを覚えるお寺だ。

 ところで、地図の上では興福寺が山の辺の道のゴールだが、山の辺の道が出来た当初のゴールは、果たして奈良のどこだったのだろうか。正式の官道だったとすれば、平城京の中心へ続いていたのだろうか。いやいや、平城京よりも山の辺の道の方が古いはずだ。だとすれば、藤原氏の氏神である春日大社や同じく氏寺である興福寺もなかった時代に、山の辺の道は奈良のどこへ行くのに使われていた道だったのだろうか。ゴールまでたどり着いて、ふとそんな素朴な疑問が浮かんだ。

 まぁいずれにせよ、これで2年がかりの山の辺の道全線踏破は完了したことになる。昨年11月に石上神宮(いそのかみのじんぐう)から第一歩を踏み出して以来、計4回に分けて、あちこちに寄り道しながら歩き続けた。今回も含めて様々に迷い、トラブルもあったが、それも皆、良き思い出である。

 奈良から桜井まで、日本最古の官道と言われる歴史ある道の先には飛鳥があり、最後僅かな距離を占める磐余の道(いわれのみち)が定かでなくなっているのは惜しい話だが、それでも古代の人たちも歩いたであろう足跡をたどっての散策は楽しいものだった。

 この北・山の辺の道を歩き終わった時、この先奈良散歩記に新たに加える未知のルートはないんじゃないかと、一抹の寂しさを覚えたことを記憶している。この日の道行きは 2万歩強で、約16kmの道程だった。最初に道を間違えた時のロスが大きく響いたのかもしれない。







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