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== 奈良散歩記 ==






第19話:北・山の辺の道(前編)





 今回の奈良散歩は、前回から一気に飛んで、秋のお彼岸の頃の話である。この頃になると、次第に新規のウォーキングルートが枯渇して来て、めぼしい行先はほとんど行ってしまった。従って、奈良へ散歩には出掛けるものの、既存ルートをもう一度回ったりしていて、ここに新たに書くような散歩記は、この間なかったのである。

 それに加え、この年の夏は酷暑に見舞われ高温注意情報がたびたび出ていたほか、大気の状態が不安定な日が多く、突然どしゃぶりの雷雨に見舞われたりする不順な天候だった。9月になったらなったで、今度はしぶとい秋の長雨にたたられ続け、なかなか週末に好天の日が巡って来なかった。この間、京都や滋賀に出掛けたりはしたが、本格的に自然の中を歩こうという気になったのは、天気も安定し涼しい風も吹き始めたお彼岸の頃となったわけである。

 未だ行っていないコースで自然の中を歩けるということになると、ここじゃないかと選んだのは、北・山の辺の道(きた・やまのべのみち)である。地図で言えば、奈良市から天理市までの山沿いのハイキング・ルートである。

 山の辺の道(やまのべのみち)は以前にも訪れたが、その時歩いたのは天理市から桜井市までである。今度は、そのコースの北側を歩くということで、名前も北・山の辺の道ということになる。北とわざわざ付いているが、ここも一応、山の辺の道の一部だ。

 前にも説明したが、山の辺の道は、奈良と飛鳥を結ぶ日本最古の官道である。ともに神の山とされる春日山(かすがやま)と三輪山(みわやま)を南北に結んでいる。今の地図で言えば、奈良市と桜井市を結ぶ形になるが、桜井市のすぐ南が飛鳥なので、奈良と飛鳥を結んでいるとも言える。ちなみに、桜井と飛鳥を結ぶ古道としては、磐余の道(いわれのみち)があったが、これは現在ガイドブックなどにも登場しない忘れられた道になっている。桜井市のある場所が重要だったのは、当時、大和川沿いの海上交通の要所であったためであり、仏教伝来の際の仏像と経典も、船でやって来て桜井に上陸している。

 以前歩いた天理市から桜井市までの山の辺の道はよく整備されており、関西の人々からハイキングコースとして親しまれているが、今回歩く奈良市と天理市を結ぶ北・山の辺の道は、ガタッと人気の落ちるコースである。そもそも、途中で道が途切れているとか、私有地で通れないところがあるとか、色々な噂を聞いたし、私の周囲でこのコースを歩いた人は一人もいなかった。そんなわけで歩くのを躊躇していたのだが、私が奈良散歩でお世話になっている近鉄発行のてくてくマップでは、一部迂回路はあるものの、何とか道は通じているように見える。それなら一度チャレンジしてみようかということで、今回の奈良散歩となったわけである。

 スタートを奈良市からにするのか天理市からにするのか少々迷ったが、前回の山の辺の道の時にも天理市からスタートしたので、今回も天理市からにしようと決めた。

 近鉄に乗って久し振りに天理市にやって来たが、相変わらず法被を着た天理教の信者の人たちが目立つ。本来なら、駅から延々と続く商店街は一気に通過することになるが、山の辺の道の途中で食事ができるところがあるとは思えないので、少々早かったが、商店街で昼ご飯を食べた。まだ準備もそこそこの飲食店に、その日の客第一号として入ることになった。

 奈良に来ると、毎度のことながら昼ご飯の心配をすることになる。京都と違って食事が出来るところが少ないのである。とりわけ山の辺の道は飲食店がなく、人気のある天理から桜井までの南コースでもほとんど食べるところがなかったから、マイナーな北コースになると、推して知るべしである。まぁ、ハイキングコースなのだから仕方ない。

 商店街で食事をした後、天理教の本部を左手に見ながら山の麓まで歩き、石上神宮(いそのかみじんぐう)に着く。久し振りに来た石上神宮では、あの威厳を持った神さびた森が出迎えてくれる。前回来た時から1年は経っていないが、懐かしい気分にさせられる。最初に、憧れの山の辺の道に足を踏み入れた時の感動が何となく蘇って来た。





 石上神宮については前回山の辺の道を歩いた時にも紹介したが、もう一度簡単に説明しておこう。なんと言っても、山の辺の道のランドマーク的存在なのだから。

 この神社は、古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)にも登場する非常に古い神社で、一般に神社と呼ばれる存在では、日本最古と言われている。長い歴史を持つため、幾つもの別名がある。

 百済より日本に仏教が伝えられたおり、仏教を受け入れようとした蘇我氏(そがし)と、神道を重んじて異教を拒否した物部氏(もののべし)の二大豪族が対立し、やがて軍事衝突が起きたのだが、その仏教受入れ反対派の筆頭だった物部氏の氏神が、この石上神宮なのである。この軍事衝突は蘇我氏の勝利に終わり物部氏は衰退するのだが、氏神の石上神宮は引き続き信仰を集め、今日まで続いている。

 この神社の主祭神は、天皇家初代の神武天皇(じんむてんのう)ゆかりの神剣だから、物部氏の神社といっても、おいそれと潰すわけにはいかなかったのだろう。この主祭神は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)という名で呼ばれていて、神武天皇が使った神剣に宿っていた神のことを指している。

 日本神話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)を遣わして下界、すなわち人間界を平定したということになっているが、その時に武甕雷神が持っていた神剣が布都御魂(ふつのみたま)である。

 神武天皇が九州を出発し大和を平定するまでの、いわゆる神武東征(じんむとうせい)のおり、熊野に上陸して地元豪族と軍事衝突し劣勢に立つが、その際、武甕雷神がこの神剣を神武天皇に授け、一気に形勢が逆転するのである。神話上では、神武天皇が神剣を持っただけで、敵は斬り倒されたという恐ろしいシロモノである。

 神武天皇は在位中にこの神剣を宮中に祀っていたが、その祭祀を任されていたのが物部氏の祖先である。そんな縁で、崇神天皇(すじんてんのう)の時代になって、物部氏の祖先により石上神宮に移され、ここの御神体となったという経緯がある。

 さて、山の辺の道の話だが、南北のコースの結節点が、この石上神宮の境内ということになる。以前歩いた桜井までの南コースは、ワタカという日本特産の淡水魚が棲んでいる池の脇からスタートしていたが、本日歩く山の辺の道の北コースは、本殿の前を通る古道からスタートする。

 今日歩くのは、北コースの半分、石上神宮からJR帯解駅(おびとけえき)までである。以前の南コースの時も2回に分けて歩いたが、色々見ながらゆっくり歩こうとすればこうなってしまう。もっとも、朝早くから歩き始めれば問題はないのだが、そこまでガッツのない私は、いつものんびりと家を出て来るものだからこうなる。





 北コースの最初は、鬱蒼とした森の中を抜ける情緒ある石畳の道で、如何にも山の辺の道という風情がある。暫くしてそこを抜けると、のどかな田園風景の中を山の方へ延びる舗装路に出る。こうした田舎道が奈良散歩の醍醐味である。京都ではこうは行かない。

 ところが、冒頭から少々トラブルに見舞われる。山の裾野を通る舗装路の途中で、脇に下っていく土の道へ下りなければならなかったのに、気付かずに通り過ぎ、いきなり道に迷う。道標があったのだが、風景を眺めていて見落としてしまったのである。だいぶ先に行ってから地図との違いに気付いて引き返した。お蔭で少々無駄足を踏んでしまった。まぁこんなことは、奈良散策では良くあることだ。

 分岐点まで引き返し、木の枝が覆いかぶさる、道とも思えない土の傾斜路を下りていく。やがて、谷川沿いまで下りると、その先に鉄製の橋がかかっている。

 橋の名前を布留の高橋(ふるのたかはし)と言う。布留川(ふるがわ)という谷川の上に架かる小さな橋である。誰も気にせず通り過ぎてしまうような無味乾燥な橋だが、同じ名前の橋が万葉集(まんようしゅう)にも登場することで有名である。

   石上(いそのかみ)布留(ふる)の高橋高高(たかたか)に
   妹が待つらむ夜ぞ更けにける

 橋の傍らの案内板に記された和歌で、万葉集の12巻に登場する読み人知らずの歌である。

 この辺りの布留川は橋のかなり下を流れているので、当時架かっていた橋も高い場所にあったのだろう。それに引っ掛けて、自分が来るのを高々と背伸びしながら、今か今かと待ちわびる女の姿を詠んでいる。男の方は、何かの事情で遅くなり、夜も更けた頃に急いで駆けつけることになったのであろう。





 布留の高橋を有名にしているもう一つの話は、日本書紀に出て来る影媛(かげひめ)にまつわるものである。影媛は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘で、話の舞台は山の辺の道の南の終点、大和川に接する辺りに昔あったという海柘榴市(つばいち)である。

 海柘榴市は日本最古の市が開かれていた場所である。大阪方面から大和川を遡って来た船がこの地に着き、ここから奈良方面へ山の辺の道、飛鳥方面へ磐余の道(いわれのみち)、更に伊勢方面へ初瀬街道(はせかいどう)が延びており、交通の要所であった。そうした場所に人々が特産品を持って集まり、売買がされたわけである。

 この場所ではまた、古代の男女の出会いの場でもある歌垣(うたがき)も行なわれていた。春と秋に若い男女が集まり、互いに歌を交わして相手を見つける行事である。

 さて、美しい影媛の評判を聞いた皇太子時代の武烈天皇(ぶれつてんのう)が彼女に言い寄ったのが話の始まりである。しかし、当の影媛には応じる気がない。ただ、相手が相手だけに、即座に断るのも差障りがあると考え、影媛は海柘榴市の歌垣に来てくれと話す。その歌垣の場で皇太子は、影媛を巡ってライバルの平群鮪(へぐりのしび)と争いになる。歌のやり取りの末に平群鮪が勝つのだが、怒った武烈天皇は兵を派遣し平群鮪を殺してしまう。

 もともと武烈天皇は残忍な性格だったらしく、日本書紀でも残虐非道な彼の所業が列挙されている。その記述が正しいのだとすれば、この襲撃事件もさもありなんということだが、哀れなのは影媛である。

 日本書紀によれば、平群鮪の死を知った影媛は、半狂乱になって泣きながら山の辺の道を駆け、恋人殺害の現場に向かったという。この様子を詠んだ歌が日本書紀にあり秀歌とされているが、ここに布留の高橋が登場するのである。

「石上(いそのかみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過ぎ 物多(ものさは)に」で始まるこの歌は、恋人の無残な死を知り、半狂乱になって山の辺の道を駆ける影媛の姿を歌ったものである。この中に山の辺の道沿いの地名が次々に登場し、遠い昔から知られていた道であることが改めて分かる。この歌の最後は「泣きそぼち行くも影媛あわれ」の言葉で結ばれている。

 さて、橋の上から川の上流側を見ると、この橋は本流と支流が合流する場所に架かっており、それぞれに滝がある。二つの滝つぼが合わさって、池のようになっており、変化に富んだ川のポイントである。昔はここで、石上神宮の神事が行われていたと、橋に掲げられた説明板に書いてある。かなり有名な場所だったのだろう。





 布留の高橋だけでなく、布留川が登場する歌も万葉集に二つある。今では何気ない谷川で、ここを通る人はその名前も気に留めないかもしれないが、万葉の歌人たちにとっては有名な川だったのだろう。

 ところで、この布留川の謂れについては、石上神宮の公式サイトに面白い説話が紹介されている。概要はこういうものである。

 昔、若い娘がこの川で洗濯をしていると、上流から剣が流れて来る。そして、この剣に触れるものは、木であれ岩であれ、ドンドン真っ二つに切られていく。娘は剣を避けようとしたが、洗っていた白い布の中に剣が流れ込む。剣によって布も真っ二つかと思ったら、剣は布の中でピタリと留まった。これは神の所業と感じた娘は、剣を石上神宮に奉納する。剣が布によって留まった場所ということで、ここの地名が布留と付いたという話である。

 石上神宮のところで書いたが、主祭神は布都御魂という神剣に宿る布都御魂大神だったが、他の祭神の中にも神剣に宿る神様がある。天照大神の弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する際に使った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿っていた布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)がそれである。この2つ以外にも国宝に指定されている七支刀(しちしとう)という剣が石上神宮に残されている。これは通常の刃の部分に左右3つずつの小さな刃が枝のように突き出している剣で、誰でも一度は絵や写真で見たことがあるはずだ。更にその上に、布留川を流れて来た神剣があるとすれば、石上神宮は剣だらけということになる。

 神社に神剣が伝わることは珍しくないが、神話に登場するようなものを含めて複数の神剣が残されているのは珍しいと言える。何故か、ということになるが、古代において物部氏が大和朝廷の軍事を司っていたことと関係すると見られている。

 物部氏はとても古い土着の豪族で、神武天皇が九州からこの地にやって来た時には、既にこの地に根付いて繁栄していたと言われる。日本書紀でも物部氏の祖先である神は、神武東征以前に大和地方に降臨したことになっている。従って、天皇家を古くから支えていた一族と言え、武器の製造・管理など軍事面を担っていたようだ。天皇家ゆかりの神剣の管理を任されたのも、一族のこうした性格によるものだろう。かくして神の力を宿すとされた強力な神剣は、戦に備えて物部氏の氏神だった石上神宮に収められたというわけである。

 さて、橋を渡ると、その向こうは草の道で、ほどなくして道路に出る。しかし、そこに案内板がないので、地図を持っていないと向かう方角が分からない。多くの人が歩く山の辺の道南コースだとこういうことはなく、改めて北コースの人気のなさを痛感する。

 地図に従って、一般道から再び脇道に入る。そのすぐ先に古びた鳥居が見える。豊日神社(とよひじんじゃ)である。よく知らない神社だが、境内に入ってみる。





 鳥居から細長く境内が続くが、社務所も含めて人の気配がない。境内は狭く、簡素で静かな小さな神社である。山の麓に拝殿があり、その上の山の斜面に本殿がある。私が行った時には本殿は修復中らしかった。感心したのは、誰もいないにもかかわらず、境内がきれいに掃き清められていたことだ。今でも地元の信仰が篤いのだろう。

 鳥居の脇に神社の縁起が書かれているが、創建はかなり古いようだ。但し、その由来は不明だとある。現在は菅原道真(すがわらみちざね)を祀る天神社の一つとなっているが、それ以前には雷神を祀っていたのではないかと解説がある。稲妻(いなづま)は文字通り稲の妻であり、豊穣をもたらすものとして農家から信仰されていたようだ。要するに、雨をもたらす神としてありがたがられていたのだろう。

 菅原道真が雷と結びつけられたのは、平安時代に道真の祟りについて話し合うため内裏の清涼殿に集まった関係者めがけて雷が落ち、公卿にたくさんの死傷者が出た事件があったからだろうか。道真は雷を操る天神と見なされたため、それ以後、全国の農村地帯にあった雷神を祀る神社が天神社となったと解説板にはある。この豊日神社も、その一つというわけだ。なるほど、田舎の片隅にまで天神社が張り巡らされているのは、そういうわけだったのか。

 さて、豊日神社を出て、境内脇から山沿いに延びる小道を歩く。ちょうどお彼岸なので、至るところに曼珠沙華が咲いていてきれいである。少し行くと家や建物の裏の一段高いところを道が通り、果たしてこんなところを歩いていいのかと思うような裏道となる。そして、ほどなくして山の中に入り、林の中を抜ける。

 暫く歩くと土の道が終わり、横からやって来た舗装路と合流する。その先に天理教の施設があるのだが、ここからは先は山の辺の道迂回路を通るよう指示する標識が立っていた。舗装路の先にまた土の道が延びているが、何等かの事情でその先が通れないのだろう。こういうところが、北コースは道が整備されていないと言われるゆえんなのかもしれない。仕方ないので山の辺の道を外れて、一般道へ出ることにする。

 案内板の通り一般道に出てみると、歩道は整備されているものの、交通量の多い幹線道路で、大型トラックが何台も傍らを通り過ぎる。奈良散歩の風情は微塵もなく、歩いていて気持ちの良いものではない。

 暫し我慢して歩いた先に案内板があって、そこからは主要幹線道路を外れ、静かな脇道へ入る。これもまた自動車道だが、ほとんど車はいないので、ホッとする。家並みが途切れると、溜め池と柿の木が並ぶのどかな道となる。柿の実がたわわに実っていて、熟し過ぎたものが道端に落ちている。舗装路はその先で突然山に分け入り、ここからは山の辺の道らしくなる。

 この先は、山の辺の道にしては珍しく、竹林の中を行く道となる。涼しげでなかなか良い。その静かな竹藪の道を歩いていると、脇に小さな立て札がある。石上大塚古墳(いそのかみおおつかこふん)を案内する立て札である。この横の竹藪の中にその古墳があると説明がある。一段高いところにただ竹藪が広がっているだけの様子を見て、一瞬躊躇したものの、30m先という説明を見て、まぁ何事も経験と、行ってみることにした。





 道とも知れぬ中を上がっていくと、こんもりとした竹の小山が目の前にある。傍らに立て札があり、どうやらこれがそうらしい。それ以上上がるのは大変そうだったので止めたが、よくこの古墳を見つけたものだと驚く。でも、これだけ密に竹が生えていたら、発掘は容易ではなかったろう。

 案内板によれば、100m級の前方後円墳らしいが、竹藪の中なので起伏が分かるだけで、形はとても判別できない。大きな丘があるという程度だろうか。遠くから離れて見れば古墳と分かるのかもしれないが、ここまで近づくと全景は把握できない。それと、竹藪の中で道らしい道もないなか、地面が多少ぬかるんでおり、雨の後だと足下が不安だと思う。

 再び竹藪の道に戻り先を進む。やがて竹藪が途切れたところに、道標と案内板があった。この案内板の脇にウワナリ塚古墳(うわなりづかこふん)という別の古墳があるらしい。しかし、案内板の指す先には、こんもりとした丘に果樹園が広がっているだけである。どうやらそれが古墳らしい。山の辺の道の古墳にはよくあることなので、この種の古墳の扱いにはもう驚かくなった。

 蜘蛛の巣を払いながら果樹園脇の道を歩いて行くと、古墳の案内板があった。全長100m以上の立派な前方後円墳で石室も確認されているものの、石棺は行方不明らしい。後でこの古墳のことを調べたら、石室の保存状態は良いらしく、中に入ることが出来るとある。さて、果樹園の周りを少し歩いたが、どこに石室への入り口があったのだろうか。ただ、石室内は真っ暗なため懐中電灯の準備が必要らしく、入り口が分かっても内部見学は無理だったと諦めがついた。

 下の写真は、しばらく先に行ったところから古墳の全景を撮ったものだが、すっかり農地になっているのが分かる。





 古墳の上の果樹園を後にして、左手に折れて森の中の土の道を下りて行く。麓まで下り切ると配水タンクがあり、そこからはまた一般道となる。自動車道だが、幸い通る車はない。自動車道から少し離れたところを高速道路が並行して走っている。

 Vの字にタンクを回り込むように進み、田畑の中の道路を歩く。その先に脇道があり、そちらに折れて高速道路の下をくぐり向こう側に渡る。高速道路下のトンネルの壁面に、スプレーで山の辺の道と書いてある。何とも手作り感満載だが、それでも案内があるのはありがたい。南コースに比べて道標は少ないし、行き交う人もめったにいないので、コース選択は少々不安になる。

 トンネルを抜けたところに広い自動車道があるが、高速道路脇のためかほとんど車が通らない。辺りを見ても案内板はなく、また地図に頼って行く方向を決める。少し行ったところに脇道に入る案内表示があったが、トンネル出てすぐのところにも案内板を置いて欲しいものである。

 自動車道を左に折れて暫く進むと、突然開けたように巨大な湖が現れる。白川(しらかわ)ダムによって造られた人造湖である。





 白川ダムは、平成の時代に造られた比較的新しいダムである。元は農業用に昭和初期に造られた溜池があったらしいが、治水と農業用水確保のために現在のような立派なダムに改修されたようだ。

 このダム湖は釣りのメッカらしく、あちこちに車が停まり、釣り人が糸を垂れている。道沿いの案内板では1日千円らしい。さて、どれくらいの釣果があるものか知らないが、結構な数の釣り人である。

 後で調べたところ、ヘラブナを目当てに来る人が多いようだ。そう言えば、子供時代に田んぼ脇の用水路に行くとフナが泳いでいたが、今ではフナを見掛けることなどない。コイは庭園の池などに飼われているのでお馴染みだが、フナを見られるところは、今や水族館くらいのものだろうか。滋賀県の鮒ずしも、原料確保が大変だと聞く。

 小学生の頃に竹製の釣竿を買って友達と池や川で釣りをしたが、あの頃釣れたのはフナばかりであった。コイが釣れないものかと友達と話をしたものだが、今ではフナの方が希少なのだろう。「釣りはフナにはじまりフナに終わる」という話を何度も聞いたことがあるが、子供時代のフナ釣りは、そんなに貴重で面白い機会だったのだろうかと思う。ついにコイを釣ることなく子供時代が終わったが、今から考えると、魚を釣るより友達と並んで釣り糸を垂れ、他愛もない話に興じていた方がよほど面白かった。しかし、目の前の釣り人たちは隣の人と話もせず、真剣に浮きの動きを眺めている。

 このダムの周囲には他にも、運動場や子供広場などがあり、家族連れで来て遊べるようになっている。湖が見えて以降、対岸の建物辺りから何度も歓声が聞こえるが、体育館でもあるのだろうか。

 湖沿いの東屋でお茶を飲んで一服した後、地図に従って管理棟の脇から坂を下る。この先に古墳公園(こふんこうえん)があると地図に記載があるが、下まで降りても見当たらない。どうやら道を間違えたようだ。自動車道を下りれば分かりやすかったのに、遊歩道を下りたものだから看板が出ていなかったのである。仕方ないので引き返して、ようやく見つける。小さな公園で、先ほど遊歩道からも一部が見えていたが、まさかこことは思わなかった、





 古墳公園は、和爾小倉谷古墳群(わにおぐらだにこふんぐん)が保存されている公園で、元々これらはダム建設現場で見つかった古墳群らしい。それをこの公園に移したということで、元あった場所は湖の底ということなのだろうか。どうやらこの辺りは古墳だらけらしい。

 確認できただけで3つあったが、いずれも小さなもので、6〜7世紀の古墳時代後期のもののようだ。公園内の解説板では豪族の墳墓ということだが、石室を構成する石組みなども見られてなかなか面白い。私が行った時には2組くらい家族連れがいたが、子供が公園内を駆けまわるだけで、皆さん古墳には関心がなさそうだった。まぁ湖に遊びに来た人たちなのだから、仕方なかろう。

 古墳公園を見つけたことで、最初遊歩道を下りて行った場所が、完全に山の辺の道を外れていたことに気付いた。危うく道を間違えるところで、古墳公園にこだわっていなかったら、また迷子になる可能性があった。

 今度は自動車道に沿って正しい道をたどり、暫し交通量の多い一般道を歩いた後、脇道にそれて一般道から外れる。脇道の先は山あいの田舎道へつながり、先ほどとはうって変わって、山に囲まれたのどかな田園風景が眼前に広がる。こういうところが奈良の魅力だ。

 両側の山と畑を見ながら歩いて行くと、やがて周りを無数の赤トンボが飛び交い始める。道路脇の柿の木には色付いた実がなっていて、傍らの草むらからは虫の音が聞こえる。絵に描いたような田舎の秋の情景である。

 のどかな気持ちで奥へ奥へと道を進むと、山あいの集落が現れる。虚空蔵町(こくぞうちょう)の表示が道路脇にある。まもなく次の目的地だと分かる。

 道標に従って道を左に折れると、池の脇から趣のある石段が、森の中を緩やかに続いている。その石段を登り切ると、山の中腹に空間が開けてお寺の本堂が現れる。弘仁寺(こうにんじ)である。





 山の辺の道はそのまま弘仁寺の境内につながっており、道の真ん中に粗末な木の箱がある。そこに志納料として200円を入れることになっている。見ている人は誰もいないので、訪問者の善意が試されるというわけだ。

 境内には人の気配がなく、まだわずかに残っているツクツクボウシの鳴き声が、山の方からかすかに聞こえるだけである。山の中のエアポケットに入ったような不思議な静寂が辺りを包む。

 背後に山をいただく本堂は古びているが、実に堂々として立派な佇まいである。山の辺の道にふさわしい古刹の趣がある。

 門前に置いてあった一枚紙の案内によれば、弘仁寺の創建にまつわる話は二説あるようだ。

 一つは、平安時代前期に嵯峨天皇(さがてんのう)の夢に老人が現れ、奈良の南に霊山があり、夜に光を放って多くの仏が現れ、読経の音が絶えないので、そこに寺を建てよと伝えた。探してみると、それは虚空蔵山(こくぞうやま)と分かり、弘仁寺が建てられたというものである。

 今一つは、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が虚空蔵山に流星が落ちるのを見て、霊山として弘仁寺を建てたというものである。

 いずれにせよ、創建当初は立派な伽藍を持って栄えていたようだが、戦国時代に兵火に見舞われ、大半が焼失している。再興されたのは江戸時代のことで、現在の建物はその頃のものらしい。

 本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、そのため弘仁寺は「高樋の虚空蔵さん(たかひのこくぞうさん)」とも呼ばれるらしい。地元の地名である虚空蔵町や、背後の山の虚空蔵山も、本尊の名前にちなんだものだろう。

 虚空蔵菩薩というのはあまり馴染みがないという人も多いだろう。虚空蔵というのは宇宙を表しているらしく、宇宙のように無限の知恵と徳を持つ仏様らしい。とりわけ、知恵や知識の面が重視されているようで、信仰すれば頭が良くなると言われている。

 そんなこともあってか、虚空蔵菩薩を祀るお寺では、13歳になった子供がお参りをして厄を払ってもらい知恵を授かるという十三詣り(じゅうさんまいり)という行事が行われることが多いが、ここ弘仁寺にも十三詣りがあるらしい。これがこの寺の人気に一役買っているものと思われる。親心を微妙にくすぐるのだろう。

 十三詣りの際には、お参りに来た子供は紙に一字書いて奉納するようだが、どんな漢字でもいいらしい。その由来がよく分からないのだが、それぞれこだわりのある一字を書くのだそうだ。

 弘仁寺で社務所の縁側に座って暫し休んだ後、反対側の門から出て傍らの石段を降りる。山の麓まで下りると、そこからはまた舗装した一般道となる。最初の方は畑の脇を通るのどかな道で、火の見櫓があったり、古い石碑があったりして、田舎らしい雰囲気がただよう。しかし、正暦寺(しょうりゃくじ)へ続く自動車道との分岐点まで来ると、道は交通量の比較的多い一般道に合流し、ここから先はあまり楽しくない道中であった。危険だとは思わないが、次々に来る車にうんざりする。歩道がないため、よけいそう感じるのだろう。

 あとは一般道を進み、途中で、本日のゴールであるJR帯解駅方向へ分岐する道を見つければよい。地図では駅に向かう道への分岐が少々分かりにくそうだったが、現場に着いてみると見晴らしの良い場所で、周囲が見渡せて助かった。ここからは、奈良の若草山がハッキリ分かるし、田んぼの果てには興福寺の五重塔まで確認できる。

 JR帯解駅までは1kmほどの道だが、ついでだからと駅近くの帯解寺(おびとけでら)に寄ってみることにする。

 帯解寺は街中の狭い道沿いにあるが、人気のお寺らしく、次々と参拝者の車がやって来る。周囲に信号がなく放っておくと大混乱になるため、何人もの警備員が辺り一帯の辻に立って交通整理をしていた。最初見たときは、あまりの警備員の多さに、てっきり道路工事でもやっているのだろうと思ったのだが、全て参拝の車を整理する人たちだった。





 帯解寺は、関西の人にとっては安産祈願の寺ということになるが、歴史はかなり古い。元は、奈良末期から平安時代にかけて活躍した高僧、勤操(ごんそう)が開いた霊松庵(れいしょうあん)と言われている。勤操は、天台宗(てんだいしゅう)を開いた最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)を開いた空海(くうかい)とも交流があったようで、この北・山の辺の道ルートにある白毫寺(びゃくごうじ)も彼の創建という説がある。

 平安前期の文徳天皇(もんとくてんのう)の時代に、文徳天皇の伯父であり有力貴族だった藤原良房(ふじわらのよしふさ)の娘、明子(あきらけいこ)が皇后となっていたが、天皇との間に長らく子が出来なかった。そこで藤原氏の氏神に祈願したところ、霊松庵で祈願せよとのお告げがあった。勅使が祈願に来て、ほどなくして皇后は懐妊し、後に清和天皇(せいわてんのう)となる男子を出産することが出来た。喜んだ文徳天皇が勅命で霊松庵に伽藍を建て、名を帯解寺に改めたというのがお寺側の説明する縁起である。

 時代は下り、徳川時代のことである。2代将軍秀忠(ひでただ)の正室は、戦国武将浅井長政(あざいながまさ)と織田信長の妹、市(いち)との間に生まれた有名な浅井三姉妹の末っ子、江(ごう)であったが、世継ぎに恵まれず、帯解寺に祈願する。そうしたら、後に3代将軍家光(いえみつ)となる男子を授かる。そして、その家光もなかなか男子が生まれなかったため、側室が帯解寺に祈願したところ、4代将軍となる家綱(いえつな)が生まれた。

 文徳天皇時代の逸話に加えて徳川家まで子宝に恵まれたということで、帯解寺はすっかり安産祈願の寺として定着したようである。

 ところで、霊験あらたかな帯解寺の本尊は何かというと、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)である。仏教では地蔵菩薩と閻魔大王(えんまだいおう)は同一の存在なのだが、お地蔵さんというと子供を守ってくれる仏様というイメージが強いため、安産祈願の対象になっているようである。

 さて、そろそろ帰るかと、帯解寺の裏にある駅に向かう。ここを通るJR桜井線は、万葉まほろば線などとしゃれた名前が付いているが、30分に一本の単線である。そういえばそうだったなと、前に来た時の記憶をたどりながら、駅舎に座ってのんびりと電車を待つ。暫し経った後に、のどかな田園風景の中を2両編成のワンマン電車がやって来た。

 この日の歩数は2万3000歩ほどである。距離にすれば17km強だが、さすがに涼しくなったので、思ったほどは汗をかかなかった。一般道が多かったのが残念だったが、北コースの後半、ここから奈良までの道に期待をかけよう。さて、残りはどんな道だろうと思いながら大阪へ戻った。







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