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== 奈良散歩記 ==






第18話:大和郡山





 次に奈良散歩に出掛けたのは7月下旬のことで、ちょうど梅雨明け当日だった。この年の梅雨は雨も多かったうえ、珍しく台風が四国・中国地方を直撃して関西もかなりのダメージを受けた。お蔭で、天気の心配をしなくてよい週末は少なかった気がする。

 雨が降っていなくとも大気が不安定なために雷注意報がたびたび出て、外出中に危うくずぶ濡れになりかけたこともあった。そんなわけで長く戸外を歩くには心配だったため、大事を取って奈良散歩は暫くお休みしていたのである。

 その日は午前・午後とも降水確率は20%以下で、まぶしい夏の日差しが照りつける暑い日だった。クーラーや扇風機のない昔は、こうした暑い日には涼しげなことをして気を紛らわしたと聞く。その一つが金魚である。

 大阪の淀屋橋(よどやばし)にその名を残す難波の豪商淀屋辰五郎(よどやたつごろう)は、自宅の天井をガラス張りにし、そこにたくさんの金魚を放って眺め、涼を楽しんだという。さすがにそんなまねは一般人には出来なかったが、それでも金魚玉に金魚を入れて涼を求めた。街中を回る金魚売りの姿はもうないが、金魚すくいは今でも夏祭りの定番である。そんなわけで、涼を求めて金魚の三大産地の一つである大和郡山(やまとこおりやま)に出掛けることにした。

 大和郡山には駅が二つある。一つはJR、もう一つは近鉄である。街中をぐるりと回る都合上、行きはJR、帰りは近鉄ということにして、大阪のJR天王寺駅から大和路快速の電車に乗る。30分弱でJR郡山駅に到着した。

 暑い盛りだからか、そもそも観光地としてそれ程人気がないからなのか知らないが、電車から降りたのは地元の人らしき数人である。改札を出ると、駅の周辺は静かなもので、人通りもなければ、店もあまりない。まぁ休日のことだから仕方なかろう。

 駅前広場から北に延びる道を歩き、まずは外堀緑地(そとぼりりょくち)に入る。水路沿いに石畳の道が続く気持ちのいい散策道である。





 名前の通り、ここは郡山城(こおりやまじょう)の外堀を公園化したものである。郡山城の城主は何度も変わっているが、この外堀緑地の元になった外堀は、増田長盛(ましたながもり)が築いたものと伝わる。

 増田長盛は豊臣秀吉の家臣であり、石田三成(いしだみつなり)らとともに五奉行と呼ばれて豊臣政権の末期を支えた人物である。増田長盛が郡山城主となったのは、郡山城主にして秀吉の弟であった豊臣秀長(とよとみひでなが)が亡くなった後のことであり、秀吉が絶対君主として権勢をふるった時期でもあった。

 増田長盛は郡山城主になると、外堀を掘り土塁を築くなど大掛かりな普請を行った。この外堀と土塁は、城下町をぐるりと囲むものだったようで、全長は5.5kmだったと、傍らの解説板に説明があった。堀を掘って出た土を積み上げた土塁は、2.7mから4.5mの高さを誇り、結構立派な防衛線が敷かれていたようだ。

 ただ、この外堀と土塁は現在ほとんど姿を消している。幾つか残る池に往時の面影を偲ぶのみだが、その一部をこうして公園として再現したのが外堀緑地で、トイレや休憩所も備えた立派な散策道となっている。

 増田長盛自身は、徳川との攻防で豊臣方に与したが、関が原の戦いには直接参加せず大坂城に駐屯していたため命は助かった。ただ、石田三成が敗れて勝負が決した後、領地没収の憂き目に遭い出家している。その後、大坂の陣の際に息子が豊臣方についたことを咎められて自害した。

 外堀緑地はほとんど通る人もなく、気持ちの良い散歩道だが、距離としては短い。数百メートルで終わりとなってしまう。街中の公園なので致し方ない。終わりの方で一般道と交わるが、ここで外堀緑地を少し外れて、すぐ脇にある神社に立ち寄ることにした。薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)である。





 ごく普通の街中の神社に見えるが、平城京(へいじょうきょう)の昔より続く由緒ある神社である。名前が示す通り、そもそもは疫病対策のために薬草を栽培する薬草園が造られたことに由来する。続日本紀(しょくにほんぎ)の記録によれば、薬園は平城京の一番南を東西に通る九条大路の更に南にあったと言う。平城京の南限は現在の大和郡山市なので、この市内にあったということになる。その薬草園を守るために八幡神(やはたのかみ)を祀ったのが、この神社の始まりである。

 ここに祀られた八幡神は、そもそも東大寺の守護神として九州の宇佐神宮(うさじんぐう)から勧請した八幡神の分霊である。宇佐神宮は全国の八幡宮の総本社であり、八幡神というのは第15代の応神天皇(おうじんてんのう)が神格化されたものである。八幡神は、武家から崇敬された戦いの神であり、神であると同時に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として仏でもあったという不思議な存在だ。薬園の守護神として祀るにはピッタリな存在かもしれない。

 平城京の時代にはこの周囲が薬園だったのかと思ってしまうが、実はこの薬園八幡神社、郡山城を造成する際に市内の別の場所から、ここに移されて来たのである。従って、元の薬園があったのは、もう少し北ということになる。ただ、薬園と冠するからなのか、境内の片隅に小さな花壇があり、どうもそれが薬草見本園らしい。

 私が訪れた際は境内が工事中で、あまりウロウロすると作業の人の迷惑になるため、早々に退散することにした。神社の前の静かな道を西に進むと、まもなく県道108号線との交差点になる。交差点を渡って、すぐのところから細い道が斜め南方向に延びている。ここを暫く進むと、次の目的地である源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)に着く。





 源九郎稲荷神社は小さな神社なのだが、由緒ある稲荷として知られている。名前の源九郎は、源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)の幼名で知られる源義経(みなもとのよしつね)の名を取ったものである。

 義経にまつわる伝説は、この稲荷に祀られている白狐に由来するものである。義経は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)ゆかりの初音の鼓(はつねのつづみ)という鼓を持っていたが、この鼓に張られていたのは年を経た狐の皮だった。この狐の子が、源九郎稲荷神社に祀られている白狐というわけである。

 白狐は親狐を慕って義経に付き従い、義経が兄の源頼朝(みなもとのよりとも)と対立して以降、幾度もの危機を救った。義経が奥州に落ち延びる際、決別の証しにと、この白狐に源九郎の名を贈ったのが、神社命名の由来と伝わる。

 この伝説を元に作られたのが、人形浄瑠璃や歌舞伎で人気の演目の一つ、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)である。義経が愛妾の静御前(しずかごぜん)に初音の鼓を託し、家臣の佐藤忠信(さとうただのぶ)を警護につけるが、この佐藤忠信は初音の鼓を追いかける白狐が化けたもの。その後、追っ手を避けて吉野に分け入った義経の元へ、一旦奥州に戻っていた本物の佐藤忠信が駆けつける。そこへ、静御前を伴った白狐の佐藤忠信が遅れて到着したものだから、混乱が生じる。やがて偽者の佐藤忠信は正体がばれるが、静御前を無事に吉野まで送り届けたお礼にと、義経が初音の鼓を白狐に与える。

 さて、こうして義経と吉野で別れた白狐が、どうして大和郡山に祀られているのかということになるが、これは時代が下って安土桃山時代の話である。

 当時は豊臣の世で、郡山城主は外堀緑地のところで紹介した増田長盛の一代前、豊臣秀長であった。ある時、大和郡山に住む宝譽上人(ほうよしょうにん)という高僧の夢の中に源九郎と名乗る翁が現れ、自分を郡山城に祀ってくれれば城を守ってやると告げる。宝譽上人は早速この話を城主の豊臣秀長に伝え、秀長は城内に源九郎狐を祀る稲荷を建てる。これが大和郡山に源九郎狐が祀られるようになった経緯だが、その後稲荷は現在の場所に移転して来る。これは江戸時代のことという。

 私が訪ねたときには境内に参拝客は誰もいなかったが、社務所の方が気さくに声を掛けてくれた。アットホームでなかなか良い雰囲気の神社である。

 さて、源九郎稲荷神社を出ると、その隣にある洞泉寺(とうせんじ)を訪ねた。ここは源九郎稲荷神社とも縁のあるお寺らしい。





 如何にも現代風のお寺だが、境内は広くて立派である。およそ観光とは無縁の地元のお寺という風情だが、豊臣秀長が創建し宝譽上人が初代住職を務めたという古刹である。ただ、本尊は寺の創建よりも古く、鎌倉時代を代表する仏師である快慶(かいけい)の作と伝わる。

 広い境内には、本堂の向かいにお堂が二つある。その一つには、源九郎天仮本殿の表示があるが、神仏習合の昔にはここに源九郎狐が祀られていたらしい。源九郎稲荷神社と洞泉寺が敷地を接しているのも、昔は同じ境内にあったからだろう。

 もう一つのお堂は、ガイドブックによれば垢抓地蔵堂(あかかきじぞうどう)となっているが、お堂の周囲には何の掲示も解説もなく、黙って通り過ぎてしまいそうな雰囲気である。ここに祀られている垢抓地蔵と、洞泉寺境内にある大きな湯槽石が、奈良の大仏を建立した聖武天皇(しょうむてんのう)の后だった光明皇后(こうみょうこうごう)ゆかりの遺構と伝わっている。

 光明皇后は仏教の庇護者として有名で、貧しい人を援助するための悲田院(ひでんいん)や医療施設である施薬院(せやくいん)を設置したことで知られている。光明皇后の有名な逸話としては、夢で仏のお告げを聞き、貴賤を問わず千人の人を風呂に入れ垢を落とした話がある。屋敷内にそのための浴室を作り、自ら身体を洗ってやったが、千人目に来た人は、当時不治の病として恐れられていた癩病(らいびょう)の患者だった。それでも彼女は躊躇せず、流れる膿を口で吸ってやったところ、癩病患者の身体から光があふれ、仏の姿に変わったという。

 洞泉寺にある垢抓地蔵と湯槽石は、光明皇后が千人の身体を洗うのに使ったものだとガイドブックには書いてある。ここで少し疑問が湧く。

 以前、佐紀路を歩いた際に、法華寺(ほっけじ)というお寺について紹介した。平清盛の娘である建礼門院(けんれいもんいん)に仕える横笛(よこぶえ)という女官の悲恋物語が伝わる古刹である。

 法華寺は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の邸宅を、娘の光明皇后が寺にした大和三門跡尼寺の一つで、当時光明皇后が千人の人たちの身体を洗ってやった浴室が「浴室(からふろ)」として今も残っている。この浴室と、洞泉寺にある垢抓地蔵・湯槽石との関係がよく分からないのである。どうして光明皇后ゆかりの遺構が、法華寺から遠く離れた洞泉寺に伝わるのか。何の解説もないので、謎は謎として残るばかりである。あるいはガイドブックの解説に誤りがあったのか…。

 さて、洞泉寺を出た後、近くにある浄慶寺(じょうけいじ)にも立ち寄ってみたが、ここも先ほどの薬園八幡神社同様、大規模工事中だった。屋根の葺き替えをしているらしく、境内は完全な工事現場の様相だった。





 浄慶寺は、元々奈良市にあったお寺であり、増田長盛が城主の頃にこの地に移って来た。元の浄慶寺は鎌倉時代創建と言うが、詳しい経緯は分からない。湛空(たんくう)という高僧の開基とも伝えられるが、この湛空が、浄土宗(じょうどしゅう)を開いた法然(ほうねん)の高弟の湛空だとすれば、浄慶寺が奈良に創建されたとされる1280年頃には亡くなっているはずである。

 このお寺も先ほどの洞泉寺同様、お寺の創建よりも本尊の方が古い。本尊の阿弥陀如来坐像は平安初期の作とされており、重要文化財に指定されている。元は當麻寺(たいまでら)にあった阿弥陀仏とも言われているが、真偽のほどは定かではない。

 屋根瓦を葺き替える職人さんが忙しそうにしていたので、ゆっくり見ることなど出来ず、これまた薬園八幡神社の時と同じく、早々に立ち去った。

 ここまで、源九郎稲荷神社、洞泉寺、浄慶寺と近くの寺社を立て続けに回ったが、この周囲には古くて立派な木造建築が一杯建っており、街並みに独特の雰囲気がある。最初は不思議に思ったが、後で調べてみると江戸時代の遊郭の跡らしい。そう言われてみると、細い格子の大きな家屋ばかりで、個人の家という感じがしない。遊郭が廃止になってから随分経つわけだが、よく保存されているなぁと感心した。

 旧遊郭街を離れて、静かな道を西へ歩く。このまま真っ直ぐ行くと、近鉄の郡山駅なのだが、途中で左手に折れて南へ進む。大和郡山は古い町なので細い道が幾つもあり、案内板も殆どないため分かりにくい。地図を片手に所々で迷うが、引き返しても大した距離ではないのでロスは少なくて済む。また、旧遊郭街でなくとも、そこここに味のある木造家屋があるのが楽しい。

 そんな散策中に見つけたのが、冒頭の写真に掲げた金魚の泳ぐ電話ボックスである。次に訪れようとしていた郡山八幡神社(こおりやまはちまんじんじゃ)の前にあるコーヒーハウスの店頭にあった。コーヒーハウス自体もガソリンスタンドを改装したもののようで、開放的な雰囲気を持つ、味のある店だった。

 さて、郡山八幡神社であるが、歴史を感じさせる神社で、一種の貫禄を感じる。





 先ほど薬園八幡神社のところで、東大寺が守護神として九州の宇佐神宮から八幡神を勧請したと書いたが、この八幡神が平城京に入る前に、現在の薬師寺の南にある休ヶ丘(やすみがおか)で一泊している。このとき大和郡山の豪族が分霊を勧請して、現在の郡山城の北西にあった丘の上に柳八幡大菩薩として祀った。これが郡山八幡神社の起こりらしい。

 ちなみに、八幡神が一泊したという休ヶ丘にも、現在、薬師寺休ヶ丘八幡宮(やくしじやすみがおかはちまんぐう)という神社が建っている。この八幡宮は、東大寺のへの勧請の際に出来たものではなく、後の時代に直接九州の宇佐神宮から勧請されたようだ。そういう意味では、郡山八幡神社の方が古いということになる。

 最初に出来た柳八幡宮がこの地に移って来たのは、豊臣秀長の時代のことのようだ。郡山八幡神社という名に変わったのは更にその前のことらしいが、その後も柳八幡宮という名前が併用されたと聞く。豊臣秀長が郡山八幡神社をこの地に移して以降、ここは郡山城鎮護の八幡神社となる。そのため、歴代の郡山城主の庇護を受け続けたと言われ、大和郡山の氏神となっている。

 私が訪れた日には、拝殿で竜笛の練習中であった。同好会か何かなのだろうか。竜笛の音の響く中で境内を拝観し、なかなか風情があった。

 郡山八幡神社を出た後、少し道を南に下り、元旅籠という立派な木造家屋のある交差点で進路を西に変えて少し歩いた後、近鉄の踏切の手前で曲がって再び南に進む。いよいよ本日の目的地、金魚の養殖池見学である。

 街並みが途切れると、一面に養殖池が広がる。実にのどかな風景である。養殖池の中は、お祭の金魚すくいのように金魚がうじゃうじゃいるものと勝手に思い込んでいたが、そうでもない。たくさんいるという池でも、隅の方に集まっているという程度で、池一面にうようよというわけではなかった。やや拍子抜けしたが、考えてみれば当たり前のことで、そんなに密集していたら致死率も高いに違いない。





 予想していた以上に、泳いでいる金魚は小さい。これも当たり前のことながら、金魚すくいで見るように大きくなっていたら、既に出荷されてしまっているだろう。それにしても、これが金魚の稚魚なのだろうかと思うような小さな魚もいる。色が黄色なので自然の魚ではなかろう。数から言っても養殖している魚に違いない。眺めていると、意外に飽きない。

 金魚の養殖池の中を通る細い道の脇に側溝があるのだが、驚いたことに、そこにも金魚がいる。これは養殖しているのではなく、明らかに用水路の中を自然の状態で泳いでいるのだ。理由は良く分からないのだが、大雨の時などに養殖池の水が溢れて側溝に逃げ出したのかもしれない。それでも養殖池にはまだたくさん稚魚が残っているから、わざわざ側溝からすくって戻したりはしないのだろう。

 養殖池の中の道はのどかで気持ちのいい散歩道である。自然がそのまま残されている。金魚のために農薬などの混じった水は一切入って来ないようにしているに違いない。

 カエルを方々で見つけた。子供の頃に、田んぼの用水路にカエルやザリガニを捕まえに行ったことを思い出す。ひととき幼少に帰った気持ちになって、池の中や用水路を覗き込む。ガマの穂が風に揺れ、ウシガエルの鳴く声があちこちから聞こえる。こんな環境は、今どき田舎に行ってもなかなかない。懐かしい気分になって、実にゆったりと散策を楽しんだ。この日一番の豊かな時間だった。

 この養殖池の向こうに、こんもりとした丘のような森が見える。近づいてみて分かったが、新木山古墳(にきやまこふん)という古墳らしい。丸山古墳という別名もあるが、誰を埋葬したものかは分かっていない。ただ宮内庁により陵墓参考地に指定されているため、立ち入ることは出来ない。

 この古墳のある交差点から、今度は北に上がっていく。次なる目的地は大納言塚(だいなごんづか)なのだが、これが少々分かりにくい。入っていく場所を間違えたのか、裏口からアプローチすることになった。別方向から近づけば、何か案内板でもあったのだろうか。





 この大納言が誰かと言うと、郡山城主だった豊臣秀長のことである。墓所は、住宅地の中にひっそりと建っている。

 冒頭に書いたように、豊臣秀長は豊臣秀吉の弟だが、父は異にする。秀吉の父は秀吉が幼い頃に亡くなり、母が再婚した相手との間に生まれた子供が、後の秀長である。秀吉は秀長の父と折合いが悪く、若くして家を飛び出しているため、秀長とはあまり馴染みがなかったようだ。

 秀長は長じて秀吉の補佐役として仕え、様々な合戦にも参加するが、前面に出て目覚しい活躍をするというよりは、秀吉の足らざる分を補いながら脇役に徹した。性格も真面目で温厚、良き調整役であったという。秀吉も秀長のことを買っており、秀長の意見にはよく耳を傾けた。そういう意味では、突っ走りがちな秀吉の数少ないストッパー役だったと伝えられる。

 秀長が郡山城主となったのは、当時病気を患っていた秀吉に代わって、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と戦った、いわゆる四国攻め(しこくぜめ)で勝利したことによる褒美である。この時、秀長は所領100万石を有する大名となり、派手さはないが巧みな統治能力で手強い寺社勢力をよくまとめ、内政面でも優秀であることを証明した。その後、大納言に任じられ、大和大納言と称されるようになる。

 ところが、郡山城主となってから間もなくして体調を崩し始める。その後数年で急速に病が悪化し、ついに郡山城内で亡くなる。大和郡山における秀長の治世は6年弱で終わる。

 良き調整役、制御役であった秀長を失った秀吉は、次第にコントロールを失っていく。秀長が亡くなったすぐ後に、秀吉はもう一人の調整役であった千利休(せんのりきゅう)に切腹を命じている。また、朝鮮への出兵を強行し、諸大名を疲弊させて反感を呼び起こす。更に、愛妾の淀(よど)との間に子供が生まれると、一旦関白の職を譲った甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を出家に追い込んだうえ切腹を命じ、一族もことごとく処刑した。こうして一代で天下を取った豊臣政権は、滅亡への道を進み始めることになるのである。

 秀長の死後、秀吉はこの墓所を管理するために大光院(だいこういん)という菩提寺を近くに建て、京都の大徳寺(だいとくじ)の高僧古渓宗陳(こけいそうちん)が住持を務める。しかし、豊臣政権崩壊後、大光院は大徳寺の塔頭として京都に移築され、秀長の墓所は荒れるに任せた。

 その後江戸時代になって、大光院移築の際に秀長の位牌を託された大和郡山の春岳院(しゅんがくいん)の僧たちが、町民の協力も得ながら墓所の整備を進め、今日の姿になったと伝えられる。徳川の治世も後半にならないと、こうした豊臣政権ゆかりの人物の墓所を整備することが出来なかったのだろう。

 大納言塚を後にして更に北に進み、県道にぶつかると今度は法光寺坂という静かな坂道を上がる。この県道を少し西に進むと、江戸時代に鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)と呼ばれる仇討ちで名を馳せた荒木又右衛門(あらきまたえもん)の屋敷跡がある。荒木又右衛門は、大和郡山藩の剣術師範役を務めていた剣豪である。

 そこから更に西に進むと漫画家の赤塚不二夫(あかつかふじお)が子供時代を過ごした家があるらしいが、地元の人からそう聞いただけで詳細は知らない。赤塚不二夫の母親が大和郡山の出身で、終戦で中国大陸から引き揚げて来て、子供時代をその家で過ごしたと聞く。

 さて、次に目指すは永慶寺(えいけいじ)である。





 永慶寺は、江戸時代に現在の山梨県に当たる甲斐国(かいのくに)から郡山藩主として移って来た柳沢家の菩提寺である。永慶寺も元々は甲府にあったが、国替えの際に柳沢家とともにここに移って来た。

 元の永慶寺は、5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)に重用された側用人(そばようにん)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、京都の宇治にある萬福寺(まんぷくじ)の住持を招聘し、甲府に創建した黄檗宗(おうばくしゅう)の寺である。創建当初から柳沢家の菩提寺とされていたようだ。

 綱吉の治世は、堀田正俊(ほったまさとし)が大老として支えていた時代にはうまくいっていたが、正俊が若年寄(わかどしより)だった稲葉正休(いなばまさやす)に江戸城内で刺殺されるという事件が起きると、危機管理のため、老中たちが将軍から遠ざけられるという事態になる。代わって綱吉は、柳沢吉保ら側用人を重用し、将軍の命は側用人経由で伝えられるようになる。いわゆる側用人政治の誕生である。これにより、将軍と老中の合議体での政策決定から、一方通行の将軍の指示で物事が決まるようになる。この頃から綱吉は、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を発するなど失政が増え、幕府の財政も悪化する。

 やがて綱吉が病死し、6代将軍に徳川家宣(とくがわいえのぶ)が就くと、実権を振るっていた柳沢吉保は力を失い、自ら側用人の職を辞して家督を長男の吉里(よしさと)に譲った。側用人政治の悪い点は、側用人の伝える将軍の命令が、果たしてどの程度将軍の真意なのか分からない点で、側用人の権勢を妬んで、綱吉治世の失政の多くが側用人の仕業と見なされがちだったことも、柳沢吉保失脚の原動力になったと言われている。

 その後、6代将軍、7代将軍の治世が短命に終わり、かわって8代将軍に就いた徳川吉宗(とくがわよしむね)が享保の改革(きょうほうのかいかく)を断行する。この改革の中で吉宗は、財政建直しを目論んで幕府直轄領の拡大を図る。これにより、柳沢家の所領である甲斐国は幕府の直轄領となり、吉里は大和郡山藩主となって国を移ることになるのである。

 柳沢家と共に甲斐国から移って来た永慶寺だが、藩主の菩提寺とあって威風堂々としている。山門は豊臣秀長時代の旧郡山城の城門を移築したもので、当時の城の様子を偲ぶ唯一の遺構となっている。また、本堂である大雄宝殿も、黄檗宗らしい造りの特徴ある建物で目を引く。黄檗宗らしいと言えば、朱塗りのきらびやかな弁天門が一番それらしいだろうか。

 ところで、柳沢家の入城により、永慶寺だけでなく、もう一つ甲斐国から移って来たものがある。これが何と、先ほど見て来た金魚の養殖なのである。

 金魚というのは室町時代に日本に伝わって来たものらしい。江戸時代になると国内でも養殖するようになって、当初は下級武士の内職として養殖が行われていたようだ。柳沢家は、大和郡山へ国替えになった際に甲斐国から金魚を持って来たと伝えられている。当時だと長旅だったと思うが、よくぞ死なせずに持って来れたものだと感心する。

 この金魚の養殖技術は次第に大和郡山の農家にも伝えられ、やがてこの地の主要産業の一つとして発展した。現在の養殖業者数は60くらいと市のサイトに紹介されていたが、次第に少なくなっているようだ。

 さて、永慶寺を出た後は、いよいよ郡山城に向かう。永慶寺のある通りをそのまま北に向かうと、かつてのお濠の一部と思われる二つの大きな池の間を通り、如何にも城内といった感じの石垣の残るエリアに入る。道路の脇から天守閣跡の周りをぐるりと回り込むように散策道が延びていたので、そちらから城跡に向かうことにする。





 天守閣の内堀の周囲を巡るように散策道は進むが、道の脇の木々が邪魔になって必ずしも見晴らしは利かない。木々の合間から見え隠れする天守閣跡は、自然な感じの岩がゴツゴツとした感じで積み上げられていて、無骨な印象を与える。

 実はこの地方には、城の石垣を組むのに適した石材がなく、この石垣も苦労して集めた様々な石で組んだものらしい。ゴツゴツした印象を与えるのはそのせいであろう。とにかく石がないので、周辺の寺社の庭石や石塔、果ては墓石や石仏まで、ありとあらゆる石を集めて組み入れてある。大和郡山は平城京の南限という話を上の方で書いたが、この天守閣から東に1km少々行くと羅城門(らじょうもん)の跡がある。石に事欠いて、その礎石まで使ったというから苦労が偲ばれる。

 私が行った当時は石垣整備工事期間中だったため近寄れなかったが、この石垣の中に組み込まれた様々な転用石を探すのが、訪問者の楽しみだったと聞く。有名なのは逆さ地蔵で、石仏が逆向きに石垣に組み込まれている。石垣の整備工事は崩落の危険性があるかららしいが、これだけ色々な石を組んで造ったのでは、強度が弱くなるのは致し方なかろう。よくも長きにわたって天守閣が上に乗っかっていたものだと感心する。

 元々ここに、誰がどういう城を築いたのかはハッキリしない。地元豪族の砦のようなものがあったという話も聞くが、ガイドブックや地元の観光協会の解説書などでは、大和地方に勢力を持っていた松永久秀(まつながひさひで)を破った戦国大名筒井順慶(つついじゅんけい)が本格的な築城を行ったとされている。

 筒井順慶は後に織田信長の配下となるが、その斡旋を行ったのが明智光秀(あけち みつひで)で、両人は仲が良かったとされている。本能寺の変(ほんのうじのへん)により信長が亡くなると、明智光秀は多数派工作を始める。光秀は当然筒井順慶が自分の側についてくれるものと考えていたが、光秀と羽柴秀吉(はしばひでよし)の軍が天王山(てんのうざん)の麓の山崎で激突するのを、山崎南方の洞ヶ峠(ほらがとうげ)から眺め、優勢な側につこうとしたとして、後世日和見な人物と批判を受けている。いわゆる「洞ヶ峠を決め込む」の語源となった出来事だが、これはどうも眉唾らしい。

 筒井順慶はその後秀吉に従うことになるが、本能寺の変の2年後に36歳の若さで病死している。また、跡を継いだ筒井定次(つついさだつぐ)は、秀吉による国替えで伊賀上野に移ったものの、関が原の合戦以降に徳川から改易を申し付けられ、後に自害して筒井家は断絶した。

 筒井定次の後に郡山城主となったのが豊臣秀長だが、上に書いたように、この秀長も城主となった数年後に病死している。

 秀長の後の城主は増田長盛であり、石田三成らとともに五奉行と呼ばれて豊臣政権の末期を支えた。しかし、関が原の戦いで石田三成が敗れると、領地を没収され出家したうえ、大坂の陣の際に息子が豊臣方についたことを咎められ自害している。

 かくして、筒井順慶が郡山城を本格築城して以降、城主になった人々は短命か、不幸な結末を迎えているわけだが、これは多数の石塔、石仏、墓石などを石垣に使った祟りなのではないかという噂もあるようだ。ちなみに、そこまでして石材を集めたのは、大規模な普請を行った豊臣秀長だと言われているので、筒井家の没落は関係ないはずだ。単なる偶然の一致だろうが、もっともらしい話ではある。





 上の写真は追手向櫓だが、もう一つ追手東隅櫓がある。これらの櫓は昭和の時代に再建されたもので、築城当時のものではないが、近鉄の電車に乗っているとよく見えるし、桜の季節に満開の桜と共に写真や観光ポスターに写っている。このためこれを天守閣だと誤解する向きもあるようだが、石垣のところの写真で見たように、天守閣は現存しない。では、あの天守台にはどんな天守閣が乗っていたのだろうか。

 実は、これがどうもよく分からないのである。中には、本当に天守閣は存在したのかという話まであるそうだが、あそこまで苦労して石垣を集めておきながら天守閣を建設しないというのはおかしい。必ず天守閣はあったはずだ。ではその天守閣はどうなったのか。一説によると、増田長盛が城主の時代に地震で崩れて失われたともいう。これも石垣に石塔、石仏、墓石などを使った祟りによるもの、なんて噂まであるようだ。いずれにせよ、江戸時代以降、天守閣はなかったらしい。

 そうは言っても、城主が置かれていた江戸時代までは、天守閣はなくとも本丸、二の丸、三の丸など、城主の住まいや藩政を支える行政部署の建物はあった。しかし、これが幕末の大火で大半が焼けてしまうのである。再建に着手したところで明治維新となり、結局郡山城は廃止されることになる。案内板の解説では、このとき残っていた建物は全て取り払われたという。かくして、江戸時代以前の郡山城の遺構は現在ほとんど残っていない。櫓のほかに追手門があるが、これも昭和の再建と聞く。永慶寺に残る豊臣秀長時代の旧郡山城の城門が如何に貴重なものかが分かろうというものだ。

 現在、天守台の手前にある本丸跡には、柳沢吉保を祭神とする柳澤神社(やなぎさわじんじゃ)があるが、これは明治の時代になってから建てられたものである。この神社がないと、本丸周辺は本当に何もない石垣だけのエリアになってしまう。それだと少々寂しいだろう。

 他にあるものとしては、築城当時の遺構というわけではないが、城の毘沙門曲輪と言われるエリアに、柳沢文庫(やなぎさわぶんこ)という歴史資料館がある。





 これは昭和の時代になってから設立されたもののようだが、建物は明治期の旧柳沢邸がそのまま使われている。柳沢家に伝わる資料類を展示しているらしいが、私が行った日には閉館していた。

 郡山城の遺構はそんなわけで、あいにくほとんどないわけだが、城下町としての名残は現在でも様々に見て取れる。ここまで歩いて来た中で見た、狭い旧道に並ぶ古い木造家屋などがそうだが、この日はあまり立ち寄らなかった市の中心部に、豊臣秀長治世下で形成された箱本十三町(はこもとじゅうさんちょう)が今も残っていると聞く。

 もらったパンフレットによれば、箱本十三町というのは一種の自治制度である。秀長は、移住元や職業別に町を13に分けるとともに、そこに住む職人・商売人には独占営業権や免税特権を与えた。そしてこれらの特権の免状を朱印箱に入れ、各町が1ヶ月ごとに持ち回り、朱印箱を持っている町が全町の治安維持や火事の時の消火活動、情報の伝達などを行うことになった。箱を持っている町が箱本であり、箱本と染めた旗を立てることになっていたようだ。

 豊臣秀長の時代に出来たこの持ち回り当番制は、江戸時代にも続いていたらしいから、よく出来た制度だったのだろう。十三町の構成は、本町、今井町、奈良町、藺町、堺町、茶町、豆腐町、材木町、雑穀町、綿町、紺屋町、魚塩町(現在の魚町・塩町)、柳町だが、このうち、今井町、奈良町、堺町は、それぞれ今井(現橿原市)、奈良、堺から移住して来た人の町で、柳町は、昔からこの地に暮らしていた人の集まった町である。それ以外は、職業別だが、本町は造り酒屋、藺町(いのまち)は畳職人の町、その他は読んで字の如しということになる。

 街並みが当時のまま残っているわけではないが、所々に当時の建物が保存されていると聞く。この日私が歩いたのは、材木町や柳町だが、雰囲気のある建物が幾つか残っていたから、他の町も期待できるのではないか。古い城下町のよすがを訪ねながら市内を散策するのも面白いかもしれない。

 ガイドブックでは、かなり歩くコースみたいなことが書いてあったが、この日散策を終わってみれば1万歩少々で、もう少し色々訪ねる計画にしておいた方が良かったかもしれないと後悔した。歩き慣れない人向けのガイドブックだったのだろうか。まぁ暑い日だったので、あまり無理をするのはよくなかろう。真夏の散策ということを考えれば、健康面ではこのくらいがちょうど良かったのかもしれない。







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