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== 奈良散歩記 ==






第17話:葛城古道





 吉野山に行った後、次なる奈良散歩に出掛けたのは6月中旬の梅雨のさなかのことである。長距離を歩くには天気が安定している必要があるので、本当は梅雨時の奈良散歩はやめておこうと考えていたのだが、朝から晴れ間が広がり、雨が降るのは夜からという天気予報の週末があった。家にくすぶっているのももったいないなぁと考えて出掛けたのが、葛城古道(かつらぎこどう)である。

 ここは最初から行きたいと思っていた場所だが、遠いうえに山登りも含めて十数キロを歩かなければならず、かなり迷っていたコースである。ただ、大阪にいれば一日仕事にはなるが行けることは行ける。しかし、東京に帰ってしまったら、絶対に行くことのない場所である。そう考えると、やはり無理をしてでも行っておかないと、後々後悔するのではないかという気がして、重い腰を上げて出掛けることにした。

 もう一つ、私の背中を後押ししたのが、この直前にたまたま葛城の人に会ったのである。私が週末に奈良を歩いている話をし、葛城古道に行きたいがなかなか遠くて、と言うと、その人がそれは是非行くべきだと、葛城の歴史や魅力について色々話してくれた。その話を聞いて、俄然行きたくなったという事情もある。

 吉野山ほどではないが、一日仕事である。朝9時台に家を出て、環状線で天王寺に向かう。そこから近鉄南大阪線に乗り尺土(しゃくど)という駅で降りて御所線(ごせせん)に乗り換え、終点の御所まで行く。御所線の電車は2両編成のローカル電車で、一両に数人が乗る程度のガラガラ状態である。御所駅は、葛城山(かつらぎさん)に登るロープウェーの最寄駅であるため、多くの登山者が利用するが、たいていは早朝に乗車するため、この時間になると登山姿の人はほとんどいない。

 今日の行程は、御所駅から遠く離れた地点から出発するので、駅からバスに乗らなければならない。てっきり駅前にバス停があると思っていたのだが、それらしきものは見当たらない。一緒に電車を降りた人が駅員にバス停の場所を訊いていたので、その人についていくことにする。葛城古道を歩いたなんて人は自分の周りにいなかったから、下手すると私一人の道行きかと思っていたが、どうやらお仲間がいるらしい。バス停に行くと既にバスを待っている人がいて、同じような地図を見ている。意外に人気のコースのようだ。

 毎度のことながら、バスは1〜2時間に1本しかないので、逃したら大変なことになる。バスの時間なんて道路状況次第で変わるため、あまりあてにならない。少し早めに行って待つ間、地図を眺めて行き先をもう一度おさらいする。

 やがてやって来たバスに乗り込み、国道24号線を南に下りていく。結構な距離である。帰りは駅まで歩く予定なので、バスで走った分ををひたすら歩くことになる。これに山登りが加わるのだ。歩数2万歩超えは確実だろうなぁと考える。

 やがて、本日のスタート地点のバス停で降りる。「風の森(かぜのもり)」というバス停である。何ともいい名前だと思う。ここは是非一度来てみたかった場所である。

 バス停からは、ダラダラとした登り坂が延びている。この日は脱水症状になりそうな蒸し暑い日だった。バスから降りた何人かの人々が、三々五々坂を登り始める。

 まず最初の目標地点に向かおうと、道を右に折れるのだが、そっち方向に行くのはどうやら私だけのようだ。あれれ、みんなここを無視するのかと、少々残念な気がした。暫く行った先にあるのは、バス停の由来になっている風の森神社(かぜのもりじんじゃ)である。





 神社というよりは祠である。実は、案内板も何もなくて、最初はこれがどこにあるのか全く分からなかった。地図を見ながら脇道を入り、この辺りにあるはずなんだがと暫く歩いたのだが、どうも行き過ぎているような気がしてならない。

 道の脇にポツポツと住宅がある静かな道だが、子供の声が聞こえる。道の脇にある空き地でお母さんが子供たちを遊ばせているのだ。やれやれいいところに行き合ったと道を尋ねる。奈良の散歩は概ね静かな田舎道を行くので、ちょうどいいタイミングで地元の人に出会うことがないが、この日はラッキーだった。

 「あれは神社というような立派なものじゃないですが…」と言いながら、行き方を教えてくれた。今来た道の横にあった石段の先に墓地が見えていたが、その墓地の脇から道が延びているらしい。ここは集落の共同墓地だろうと通り過ぎた場所だった。案内板も何もないので、これではとても分からない。そんなわけで何とか見つけることが出来たのだが、果たして、どの程度の人が訪れているのだろうか。

 今では開拓により地形が変わっていて分かりにくいが、風の森神社のある場所は風の森峠という峠の頂上であった。ここは金剛山麓の風の通り道で、年中強い風が吹く。風の森神社は、まさにその風の神を祀った神社である。正式名称は志那都彦神社(しなつひこじんじゃ)というが、志那都彦神(しなつひこのかみ)は風の神なのである。

 実に素朴な信仰である。人々の暮らしの中に多くの神がいると信じられた遠い昔に、ここで農業を営む人々が、風水害から田畑を守ってくれるようにと、この小さな祠を建てたのだ。この古代の素朴な信仰の形が、今日歩く葛城古道を象徴しているように思う。

 葛城古道は、おそらく奈良周辺で最も古い部類に属する伝説の地である。冒頭に、この辺りの歴史に詳しい地元の方に会ったと書いたが、その人の話では、この地の歴史は、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)が大和の地に来た以前に始まっていたという。つまり、大和朝廷が知らない歴史を抱えたエリアなのである。

 次の場所に行こうと地図を開いて気付いたことがある。私が持っていた地図は3種類あって、奈良の散歩用ガイドブック、いつもの近鉄てくてくまっぷ、そして御所駅の案内所にあった御所市観光協会発行の葛城の道コースの散策用地図である。御所市観光協会発行の地図は、御所駅近くのバス停で待っていたときに、他の人も開いていたものだ。ところが、その地図には風の森神社は記されていない。なるほど、それで他の人はさっさと通り過ぎたのかと合点がいった。あまりにみすぼらしい祠だから載せなかったのだろうか。みすぼらしくても訪ねる価値のある場所なんかじゃないかと少々寂しさを感じた。

 元の道に戻り、暫く歩くと正面に赤い鳥居が見えて来た。次なる目的地、高鴨神社(たかかもじんじゃ)である。





 高鴨神社は、この葛城の地を支配していた古代豪族の鴨(かも)一族の氏神を祀る神社である。鴨氏は、賀茂氏と書いたり加茂氏と書いたりもするが、根っこはこの葛城に栄えた豪族であり、それが各地に散らばっていったのである。

 鴨氏は、神武東征(じんむとうせい)のおりに神武天皇を導いたとされる3本足の八咫烏(やたがらず)の末裔である。八咫烏は、今やJリーグですっかりお馴染みだが、鳥ではなく、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)という神様の化身だとされている。鴨氏を神格化した存在なのだろう。

 神武天皇という人が本当にいたのかどうかは分からないが、神武天皇に象徴される新興勢力が九州からこの奈良盆地にやって来たのは事実だろう。そして、関西一円に古くから住む豪族たちと覇権を争った。ある者は敵対して新興勢力と武力衝突したが、ある者は新興勢力と手を組んだ。おそらく鴨氏は、神武天皇と手を組んだ地元豪族の代表格なのだろう。

 古事記によれば、神武天皇が九州から近畿エリアまで侵攻して来るのに十数年かかっている。各地で戦いを繰り広げながら、支配地域を徐々に広げて来たものと思われる。しかし、近畿圏の支配はそう簡単にはいかなかった。現在の東大阪辺りに上陸しようとして地元豪族の抵抗に遭い、神武天皇の兄は亡くなっている。その後、船で海を南下し熊野に回り込んで上陸するが、ここでも地元豪族の激しい抵抗に遭い劣勢に立つ。この時、天界から布都御魂(ふつのみたま)という神剣を与えられ、一気に形勢を逆転させたことになっている。

 以前、山の辺の道を歩いた際に最初に立ち寄った石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神の一つがこの神剣である。これもおそらく、神武天皇側に加勢した豪族がいたということではないか。ちなみに、石上神宮は古代豪族物部(もののべ)一族の氏神である。

 そして、熊野を平定して足場を築いた神武天皇を、熊野の山を越えて奈良盆地に案内したのが八咫烏こと鴨一族ということになる。もちろん、奈良盆地侵入後も地元豪族との激しい戦闘が繰り返されるが、鴨一族同様、神武天皇側に味方した地元豪族もいた。最終的には神武天皇派が勝ち、畝傍山(うねびやま)の麓の橿原神宮(かしはらじんぐう)のある場所で初代天皇として即位するのである。

 この神武東征の過程で、奈良周辺にいた地元豪族のある者は敵対して滅び、ある者は味方についてその後の繁栄の基礎を築いた。滅びた豪族は歴史の闇に消え、鴨一族のように進んで神武天皇を助けた者は、こうして氏神を祀る神社を建て、広大な支配地を得ることになったわけである。

 神武天皇はこの地に来る以前に妻を持っていたが、大和を平定した際にこの地で妻を娶る。名を媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)というのだが、この人が初代皇后ということになる。この女性は、日本書紀によれば事代主(ことしろぬし)の娘ということになっている。事代主は葛城にまつわる神であり、おそらく皇后となったのは、鴨一族の娘だったのではないかとされている。

 その後の2代天皇である綏靖天皇(すいぜいてんのう)、3代天皇である安寧天皇(あんねいてんのう)も事代主の娘や孫娘をもらっている。安寧天皇の皇后に至っては、鴨王の娘という日本書紀の記録も残っており、これが正しければ、鴨氏は神武・綏靖・安寧の初期3代の天皇に皇后を送ったことになる。当時の天皇家が大和の地を治めるのに、鴨氏は無視できない存在だったのだろう。

 鴨氏は葛城の地で古くから水稲栽培を盛んに行っていたようで、上に述べたように農耕の神、事代主(ことしろぬし)を敬っていた。事代主は、七福神のえびす様と同一視されることが多いが、元は葛城の田の神だったようである。高鴨神社でも事代主は祭神のひとりとなっている。

 さて、高鴨神社は、最初入ったときにはこじんまりした神社と思ったのだが、意外に奥が深く、様々な祠が森の中に並んでいる。小さなものが多いが、いずれも謂れがありそうで、一つ一つ見ていけば興味深いものなのだろう。また、本殿は石垣の上にあるのだが、その石垣に面白いものがある。





 上の写真で分かるだろうか。石垣の中に燈篭が組み込まれているのである。近鉄のてくてくまっぷにそう書かれていたのだが、最初、どこに燈篭があるのか分からなかった。石垣のところには一切案内がないので、意識して探さないと絶対に気付かない。故意に組み込んだというより、偶然石の積み方がそう見えるようになったのではなかろうか。特に説明板もなく、他の参拝客は気付かなかったと思う。

 私は、こんな辺鄙な場所にはほとんど人が来ていないだろうと思っていたが、どっこいそんなことはなく、結構な数の参拝者が三々五々やって来る。典型的な奈良観光コースからは外れているが、それなりに有名な神社ということなのだろうか。

 この神社の隣には、「葛城の道歴史文化館」という建物があり、休憩所、トイレのほか、葛城の名所を紹介した写真展示や案内書の配布も行っており、食事も出来る。なかなか快適な施設で、たくさんの人がここで休憩したりお茶を飲んだり食事をしたりしている。公営だと思ったら、地元住民がボランティアで管理運営しているらしい。

 高鴨神社と葛城の道歴史文化館のあるエリアにはバス停もあり、小休止できるベンチも置いてあったりして、なかなか良い場所である。ちょうど昼時なので、木陰のベンチにのんびり座って、持って来たおにぎりを頬張る。奈良はどこに行っても食事事情が悪いので、昼飯を挟む散歩の際はおにぎり持参と決めたのだが、葛城の道歴史文化館で食事できるなら、持って来る必要はなかったなと少々後悔する。

 お腹も大きくなったことだし、次なる目的地、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)に向けて出発する。実はここからが、本日一番苦労することになるパートである。

 高鴨神社前の自動車道を更に進んでいく。片側一車線の立派な道だが、車はほとんど通らない。両側は林や畑で、車道を歩く割にはのどかで静かな道行きである。この先は本格的な山登りとなるのだが、どこから山側に分け入るのか、地図だけではやや心もとない。曲がるところにこれといった目印がないのだ。

 そのうち道幅が狭くなり、ポツポツと人家があるエリアに入っていく。もしかして行き過ぎたのかと心配になるが、勝手な判断で誤った道から山に入っていったのでは目的地に着けないばかりか、本格的な迷子になる。もう少し行ってみようと、不安になりながら進む。さすがにここまで来たら行き過ぎではないかと迷い始めたところで、道路脇に案内板が出ていた。やれやれと思ったが、この道が果たして地図に記載されている通りの道なのか、今ひとつ自信が持てないまま急な坂道を登り始める。舗装されているが、息が切れるほどの急坂が暫く続く。

 やがて、いい加減上ったところで前方に森が現れ、2本の太い丸太の上に注連縄が張ってある三輪鳥居が現れた。この古めかしい独特の鳥居は、以前山の辺の道を散策した折に大神神社(おおみわじんじゃ)周辺で何度も見たものだ。そしてその傍らに「高天彦神社」と書かれた石柱がある。

 この鳥居の向こうは、森の中へと続く本格的な土の山道である。鳥居のところまでいい加減登って来たと思うが、その先もひたすら登り道が続く。休みなしで一気に登って来たものだから、息が切れ汗が吹き出す。山道の途中で小休止してお茶を飲み、息を整えて再び登り始める。やがて道の先に鉄の柵が見え、さてはここが高天彦神社かと思ったら、山の中の植物園的な施設だった。しかも入り口の門は堅く閉じられ、関係者以外立入禁止の札がかかっている。門の先に道が延び、奥へと消えているが、その道には行けない。

 鉄柵に沿って進むとやがて柵が途切れ、森の中になるが、その先が明るくなっており、暫く進むと、いきなり平地に出た。道の先にイノシシ除けのフェンスがあり、扉が閉まっている。フェンスの向こうには田んぼが広がり、自動車道もあって、何台か車が停まっている。その背後に鬱蒼たる山が見える。





 私は予想外の景色に唖然とし、一瞬、間違った道に踏み入り、山の麓に下りてしまったものと錯覚した。上の写真を見れば誰だってそう思うだろう。イノシシ除けのフェンスがここにあるということは、今来たところまでが山のはずだ。ここに広がる田畑をイノシシの被害から守るために、山に向かって柵があるというふうに考えるのが普通だ。

 そこで、来た道を引き返し、途中から分かれていた細い枝道を進んでみたりした。しかし、その小道はかなり行ったところで行き止まりになっている。山の中なのでGPSを使っても皆目検討が付かない。途方に暮れて山の中をウロウロしていたところで、下の方からガイド付きの十数人のツアーの人たちがハイキング姿で上がって来た。それを見て思わず安堵した。おそらくここまでは道を間違っていないのだろうと。

 地図の上では、高天彦神社は山の上にある。ガイドブックの写真でも、神社本殿の背後は森で、山の中にあるように見える。ではいったいここからどうやって行くのだろうか。私はツアーメンバーではないが、あの団体に付いて行くしかない。

 ハイキング姿の一団は、私が先ほど進んだ道を歩いて行き、イノシシ除けの柵を開けて田んぼのあぜ道を進んだ。えっ、もしかして、駐車場の先に神社があるのか。しかしここは山の中ではなく、麓の平地だ。

 そこであることに気付いた。最初に案内板があったところから舗装路、山道と来たが、ここまでの間、ひたすら登り続けて一度も下っていない。ということは、ここは山の上なのか。でも、周囲に広がる風景を見て、どうしても信じられない。これだけの広大な平地が山の上にあるなんて…。しかし、やはり目的の神社はその先にあった。何とも不思議なことである。

 それにしても、このトリッキーな状況が分からないまま山の中をウロウロし、キツイ山道を降りたり登ったりしたので相当消耗した。この日の中で、一番無駄足を踏んだ部分だった。

 さて、神社に行く前に見ておくべきものがある。蜘蛛窟(くもくつ)である。地図の上では、神社の手前にあることになっている。しかし、案内板の類は一切ない。その上蜘蛛窟という史跡がどんな形状のものか、事前にチェックして来なかったので周囲を見渡しても見つけられない。しまったと思ったが、後の祭りである。またもや迷うことになった。

 一つ手掛かりがあった。地図上では蜘蛛窟のそばに鶯宿梅(おうしゅくばい)という史跡がある。こちらはすぐに見つかった。冒頭に掲げた写真がそれである。

 鶯宿梅には、昔この一帯に伽藍が広がっていたという高天寺(たかまでら)にまつわる伝承がある。高天寺の小僧が亡くなり、師匠が嘆き悲しんでいると、梅の木にやって来た鶯が、自分も毎日ここに来るが今日はあの小僧さんに会えなかったという歌を詠い、一緒になって嘆いたというものである。実に素朴な昔話であるが、不思議とこの辺りの雰囲気に合っている。

 さて、鶯宿梅との位置関係からしてこっちの方かなと思い、田んぼの間の細い畦を森の方に進む。田んぼの隅に、雑草にほとんど隠れるようにして看板があった。背後の小高い丘が蜘蛛窟らしいが、立入禁止になっている。仕方ないので、丘の上までは登らず全景を眺めるだけにした。それにしても分かりにくい。先ほど私が来た山道から何人かハイカーがやって来たが、誰一人としてこの埋もれた看板のところまで来る人はいない。おそらく、みんな気付いていないのだろう。





 この蜘蛛窟には、土蜘蛛(つちぐも)にまつわる伝承がある。

 土蜘蛛は、文字通りの蜘蛛の仲間ではない。また妖怪変化でもない。この辺りに住んでいた先住者たちのことである。その先住者の拠点のひとつが、この蜘蛛窟なのである。

 神武天皇に象徴される西からの侵略者が大和地方に侵攻して来た時、鴨一族のように味方についた者もいれば、敵対し抵抗した者もいたと、前の方に書いた。抵抗する者とは戦いになり、優れた武器を持ち戦闘に長けた神武天皇側が勝った。そうして、敵対した先住民たちは滅ぼされていった。おそらく、蜘蛛窟は先住民が最後まで戦った拠点だったのだろう。

 こうした先住民たちは、神武天皇一派が奈良盆地に入って来る前は平和に暮らしていたに違いない。幾つかの部族があり、それぞれ領地を持ち、部族間で時として小競り合いはあったかもしれないが、概ね共存共栄していたのだろう。その平和なバランスは、新しい勢力がここに侵攻して来た時に崩れた。新興勢力に対して地元豪族は敵味方に分かれ、敵対した者は完膚なきまでに滅ぼされ、領土を奪われた。そして、彼らの存在そのものが虫けらのように語られて、歴史の闇に消えた。

 土蜘蛛という呼び名は敗北者への蔑称である。鴨氏と土蜘蛛は、共に同じ場所で領地を分け合って暮らす同胞だったはずだ。しかし、戦いの結果、神武天皇側についた鴨氏は、聖なる八咫烏の末裔、神である賀茂建角身命を先祖に持つ豪族として領地を増やして栄え、敵対し滅ぼされた土蜘蛛は、名前も暮らしぶりも伝えられず、人として存在した歴史そのものを抹消されたのである。

 歴史というのは、常に戦いの勝者が自分に都合よく作っていくものである。敗者は野蛮人のように語られ、成敗されるべき悪者として扱われる。勝者は、そうやって自分の戦いの正当性を築いていくのだ。そのストーリーに合わない事実は記録から消され、別のカバーストーリーが作られる。

 そうして考えると、蜘蛛窟というのは何とももの悲しい史跡である。今や看板も雑草の陰に埋もれ、高天彦神社を訪ねて来る人も見向きもしないという事実も、また哀れを誘う。

 では、土蜘蛛のような先住民が滅ぼされ、その領地であったこの周辺は、誰が支配したのだろうか。それは、この高天彦神社を氏神とするもう一つの有力豪族の葛城(かつらぎ)氏である。

 それでは、その高天彦神社を見に行こう。高天彦神社はごく小さな神社であるが、その古びた趣は深い印象を残す。神を感じるような荘厳さ、神秘さを表す形容詞に「神さびる」という言葉があるが、まさにそのイメージである。

 僅かな長さの参道があるが、その両脇に植えられている杉にまず圧倒される。上の写真で停車した車の背後に小山のような杉がそびえているのが分かるだろうが、これが参道の杉並木であり、私はその巨大さにただただ圧倒された。

 その杉並木を抜けたところにポツリと本殿がある。山に呑み込まれそうだ。





 この高天彦神社の境内の隅に、先ほどの蜘蛛窟で討ち取られた土蜘蛛の塚がある。おそらくはここに遺体がまとめて埋められたのであろう。葛城氏の氏神である神社の境内に、天皇家に敵対して滅ぼされた人々の塚があるのは何とも奇妙だが、彼ら土蜘蛛は、葛城氏にとって見知らぬ他人ではなかったということではないか。

 さて、この神社だが、主神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)である。そして、ご神体は、三輪山をご神体とする大神神社同様、背後にある白雲峯という山である。

 高皇産霊尊というのは、相当古い神である。古事記によれば、天地開闢(てんちかいびゃく)の時に高天原(たかまがはら)に最初に登場する三人の神の一人が高皇産霊尊ということになっている。国生みで有名な伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊(いざなみ)よりも古く、従って皇室の始祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)よりも古い。

 そして、この古びた小さな高天彦神社は、平安時代に編纂され、神社の社格を定めた延喜式(えんぎしき)の中で、最高位の神社と位置づけられているのである。社務所もない山の中の神社が最高位というのは驚くが、その威厳に満ちた雰囲気を見ると、なるほどなぁという気持ちになる。ちなみに、先ほど訪れた高鴨神社も最高位の神社となっている。

 さて、主祭神の高皇産霊尊であるが、この神は皇室とも関係がある。皇室の始祖とされる天照大神の息子と高皇産霊尊の娘とは結婚をしている。そして二人の間に生まれた子供が、あの瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)である。瓊瓊杵尊は天照大神に命じられて高天原から地上に降り立ち、そこを支配するように言われる。有名な天孫降臨(てんそんこうりん)である。

 何とも想像を掻き立てられる物語だと思う。何故かと言えば、高皇産霊尊は葛城氏の祖神であるからである。そして現実の世界でも、仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇后は葛城氏から出ており、二人の間に生まれた子供のうち三人が、後に天皇になっている。履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の三天皇である。その後の顕宗天皇(けんぞうてんのう)、仁賢天皇(にんけんてんのう)の母も葛城氏の出であり、乱暴で残忍だったと伝えられる雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の后も葛城一族である。

 葛城氏は鴨氏同様、天皇家にとって無視できない豪族の一つだったのであろう。そもそも九州から新興勢力がこの地に侵攻して来る以前に、葛城氏はこの地を中心として王朝を築いていたという説もあるようだ。俗に言う葛城王朝である。歴代天皇のうち第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代の開化天皇(かいかてんのう)までの8人の天皇については、その治世下で何を行ったのかという事績が一切記されていない。そのため欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれているが、この間は葛城氏の治世下にあったことを示しているのではないかというのが葛城王朝説の言わんとするところである。

 ただ、葛城氏が栄華を極めるのは雄略天皇の手前までである。雄略天皇の一代前の安康天皇(あんこうてんのう)が暗殺された件で嫌疑をかけられ、皇子時代の雄略天皇によって葛城氏の当主だった葛城円(かつらぎのつぶら)は攻め滅ぼされ、葛城氏は没落することになるのである。

 その後の葛城氏はどうなったのか。鴨一族は賀茂氏や加茂氏といった名前で全国に拡散していくが、葛城氏の名前はあまり聞かない。実は、高天彦神社の案内板には、その後の葛城氏のことが少し書いてあり、それによれば、平群(へぐり)、巨勢(こせ)、蘇我(そが)などの豪族につながっていったとある。どこまでが真実なのかについては分からないが、これらの豪族の出自がハッキリしないのも、また事実である。

 それにしても、一時は天皇家も無視できなかった古代豪族の葛城氏の氏神と、神武天皇に敵対して歴史の闇に葬り去られた土蜘蛛の史跡が向かい合うこの場所は、公式の記録以前の古代史を色々想像させる興味深い地である。そのせいか、こんな辺鄙なところにもかかわらず、結構な人数の観光客が次々にやって来る。麓からここまで自動車道が通っているのが大きいのだろうが、如何せん、全国レベルではまだまだ無名の地である。

 そろそろ次に行こうかと歩き始める。高天彦神社の前を通る道を右に向かうと、小さな集落がある。その先には田畑が広がり、どう見ても平地にしか見えない。お蔭で山の麓の里道を歩いているような妙な錯覚に捉われる。山の上にこれだけの平らな土地が広がっているのが何とも不思議だが、この不思議な空間が何であるかは、田畑の中の道を暫く歩いた先で分かる。

 やがて道は左手に折れて、その先にお寺の屋根が見える。その手前に石柱が立っている。そこには「史跡 高天原」とある。思わず、えっと虚を衝かれる。ここがそうなんですかという感じである。





 高天原は、天地開闢のおりに神々が生まれたとされる場所である。最初に生まれた三神のうちの一人が高皇産霊尊であるという話は先ほど書いたが、日本神話では天照大神がいる天上界が高天原であり、地上の話ではない。ただ、天上界が本当にあったりはしないし、神様が日本の国土を作ったりしたわけではないから、そういう意味での高天原は現実には存在しないのだろう。しかし、神話というのは、何もないところから想像だけで作り出されているわけではなく、何がしかの現実を下敷きに、それを神格化した形で語られることもあるため、もしかしたらモデルになった場所があるのではないかという考えは昔からあったようだ。

 私なぞは日本神話の地というと九州を考えてしまうし、高天原と言われれば宮崎県の高千穂(たかちほ)が真っ先に思い浮かぶのだが、実はここ葛城の地が高天原だという考えは古くからあったらしく、平安時代にはここだと信じられていたようだ。

 そう考えると、当時既に滅びていた葛城氏の氏神を祀る高天彦神社が、どうして延喜式で最高位の社格の神社に祭り上げられているかも理解できる気がする。高天原に最初に現れた高皇産霊尊を祀る神社が古くからここにあるのは、平安時代の人にとっては、ごく自然なことと受け止められたのだろう。

 また、この高天原の地を支配していた葛城氏が、何代にもわたって皇族と婚姻関係を持ち当時の日本を支配していた事実は、先ほど述べた天照大神の息子と高皇産霊尊の娘が結婚して瓊瓊杵尊を生み、地上界統治のために降臨したという神話と一致するわけで、やはりここが高天原だろうと信じたとしても不思議はない。

 今歩いて来た広大な平地は、金剛山(こんごうさん)という山の台地である。金剛山は古くより高天山(たかまやま)という別名を持っており、その名は昔から歌にも詠われている。また、先ほどは高天彦神社の前を右側に進んで来たのだが、左側に行くと金剛山への古い登山道になる。そこにあった案内板によると、この道を高天道と言うようだ。従って、この台地の部分が高天原と呼ばれていても、特に取ってつけたような命名とは思えない。こうして、神さびる高天彦神社を見た後に広大な台地を歩いていると、何だかここが高天原だろうという気になるから不思議だ。

 さて、先ほど「史跡 高天原」の石碑の向こうにお寺の屋根が見えると書いたが、そのお寺が橋本院(はしもといん)である。





 葛城古道と呼ばれる道はこの先、橋本院の境内を通って山を下って行くのだが、橋本院自体は小さなお寺である。しかし、それは現在の姿であって、かつては大寺院だったと言われている。

 橋本院の正式名称は高天寺橋本院である。高天寺の名は、先ほど鶯宿梅のところでも出て来た。

 お寺の縁起を読むと、奈良の大仏の造営を取り仕切った高僧行基(ぎょうき)がこの地を訪れた際に霊感を感じ、一宇を建てて祈祷したところ十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)が現れた。その話を聞いた元正天皇(げんしょうてんのう)の勅命で建てられたのが高天寺であるというものだ。

 その後の天皇にも篤く信仰され、「高天千軒」と呼ばれる大伽藍を持つ格式の高い寺となった。苦難の渡航の末に日本に渡って来た鑑真和上(がんじんわじょう)もここの住職を務めている。

 もう一人、ここで修行をした有名人がいる。役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)である。修験道の開祖にして呪術の会得者で、前回訪れた吉野山の主人公である。

 彼の祖先は、高鴨神社を氏神と仰ぐ鴨一族であり、生まれは本日の出発点である近鉄御所駅の近くだと言われている。最初は、当時飛鳥にあった元興寺(がんごうじ)で呪法を学び、その後葛城周辺の山々で山岳修行を積んだ。吉野・熊野へ修行のため入るのはその後のことである。高天寺は葛城修験宗の根本道場であったらしく、そんな縁で役小角がここで修行に励んだらしい。

 そんな大寺院の高天寺が没落するのは、南北朝時代のことである。高天寺は南朝側につき、陰ながら援助を行っていたのだが、それが北朝側に知られ、畠山基国(はたけやまもとくに)、高師直(こうのもろなお)らの軍勢に攻められ、焼き討ちに遭う。一旦灰燼に帰した高天寺だが、350年後に一院が建てられ復活する。これが今の橋本院である。

 今の橋本院は小さなものだが、開けた感じの庭がなかなかいい。お寺の庭っぽくなく、広々と芝生がはってある。その庭の中を道が続き、やがてイノシシ除けの鉄柵にぶつかる。ここから先は山の中で、険しい土の道を麓めがけて下って行くことになる。

 登りもきつかったが、下りもなかなかの難路である。切り通しのような足場の悪い道をたどり、急な坂を下りる。前の日の雨で滑りやすくなっており、慎重に足を運んだ。道がゆるやかになると杉木立の趣のある山道となり、その先では、砂防ダム上に細い橋が川の上にかかっている。高所恐怖症だと少々怖いのではないかと思った。なるほど皆さんハイキング姿なのもうなずける。スカートじゃあとても無理だ。ただ、如何にも古道の赴きがある。

 やがて山道を脱し、麓のイノシシ除けの柵を越えたら、家々が見えて来た。降り着いたら再び交通量の多い自動車道で、うんざりする。葛城古道と言いながら、本当に古道の趣があるのは一部に過ぎないのが残念だ。道は険しくても、山の中の道の方がよい。激しいアップダウンには少々うんざりだが…。

 下りて来た場所のすぐ傍らに極楽寺(ごくらくじ)というお寺があるので立ち寄る。





 このお寺は、門の上に鐘撞き堂がついた鐘楼門(しょうろうもん)で有名らしい。平安時代に興福寺の一和上人(いちわしょうにん)が庵を結んで静かに修行をしたいと適地を探し求めていたところ、夜に光を放つ場所があり、地面を掘ると仏頭が出て来た。ここが探していた場所と思い庵を結んだのが、この寺の始まりだと伝えられている。

 静かな山寺といった風情だが、この寺名が周囲の地名にもなっている。そして、極楽寺から先ほどの自動車道を越えて東に数百メートルほど行ったところに、極楽寺ヒビキ遺跡という遺構がある。ここでは、焼け落ちたと見られる館跡が出土している。

 興味があったのだが、持っていた3種類の地図のうち、一番古い地図にしかこの遺構は記されていない。しかも道は点線表記になっており、果たしてたどり着くのか不安があったし、新しい地図に記載がないということは、現在は公開していないかもしれない。そんなわけで、結局行くのを諦めたのだが、この遺構に興味があったのは、この館が葛城氏最後の当主葛城円の邸宅なのではないかと見られているためだ。

 高天彦神社のところで書いたが、当時幾代もの天皇と血縁関係のあった葛城氏は、安康天皇が暗殺された件で嫌疑をかけられ、皇子時代の雄略天皇によって攻められる。館を取り囲まれた大臣の葛城円は、娘と領地を差し出すので命は助けてくれと嘆願するが、雄略は娘だけもらって館に火をつけ葛城円を焼き殺した。極楽寺ヒビキ遺跡の館跡に焼土が混じっているのは、この史実と一致する。

 元々雄略天皇は歴代天皇の中でも残忍な性格で、「大悪天皇」の異名を持つ。皇子時代からライバルをことごとく殺して来た非情な天皇で、安康天皇暗殺の件でも、自分の兄弟を一方的に容疑者扱いして殺す。この時殺されそうになった皇族が逃げ込んだ先が葛城円の邸宅だったわけで、彼らも葛城円と共に焼き殺されている。その後も皇位につく可能性のある親族を殺し、ライバルがいなくなったところで天皇に即位する。この他にも非道な行いは数知れず、古事記や日本書紀の記述が正しければゴロツキと変わらない。

 極楽寺ヒビキ遺跡の近くには、二光寺(にこうじ)と呼ばれる大きな寺院跡もあると古いガイドブックには出ている。

 二光寺は出土品から推定すると飛鳥時代のお寺のようだが、謎の寺とされている。当時の記録には一切記述がなく、二光寺という名前も、その辺りの地名からつけられたに過ぎない。この周辺には、朝妻廃寺や高宮廃寺といった古代寺院の遺構が残っており、当時はかなり栄えた地だったと推測できる。

 訪ね歩けば興味深い地なのだろうが、最近の観光マップに出ていないということは、埋め戻されたり、非公開扱いになったりしているということなのだろうか。民間の土地になっている場合などは一般公開や観光客向けの整備は難しいのだろうが、葛城古道の観光を充実させるためには、わずかでも見学できるよう整備してもらえるとありがたいと思う。

 さて、極楽寺を出て騒がしい自動車道に戻ると、暫く行ったところを脇道にそれて東向きに分け入る。自動車道から外れると突然静かでのどかな道となる。舗装路で車も通るが、その数はわずかである。ゆるやかにカーブしながら進むと住吉神社がある。ここを右に曲がり、名柄(ながら)の集落を目指す。

 静かな里道なのだが、枝道がたびたびあり、果たしてこれでいいのか迷う。そうこうしているうちに、向こうから歩いて来るハイカーのグループと出会う。やっぱりこの道で良かったのだと安心する。今日は同好の士に随分と助けられる。こんなに葛城古道を歩いている人がいるとは思わなかった。

 やがて名柄の古い街並みに入り、この辺りでは有名らしい中村家住宅までたどりつく。





 私がここまで通って来た道は名柄街道と呼ばれており、葛城地方の山々の麓を南北に走っている。もう一本、名柄の集落内で東西に交差する道があり、これを水越街道(みずこしかいどう)と言う。水越街道は、葛城山と金剛山の間を抜ける水越峠(みずこしとうげ)を通って大阪方面に通じている古い街道である。名柄という集落は、この両街道の交差する場所にあり、交通の便の良さもあって宿場町として発展したと聞く。

 今でも街道沿いに古い民家が並び、人気があるようだ。古民家の近くでは何組も観光客に会った。その古民家の中で一番古いといわれる中村家住宅は、江戸時代初めに建てられた代官屋敷である。

 名柄周辺を古くから支配していたのは吐田(はんだ)氏だが、織田信長の下で大和地方に地盤を築いた戦国大名の筒井順慶(つついじゅんけい)と対立して滅ぼされた。その吐田氏の子孫が中村家住宅を建てた中村氏なのである。ちなみに中村家住宅は重要文化財に指定されている。

 他にも造り酒屋や醤油蔵などが街道沿いに並び、古い街並みが好きな人にはいい場所だと思う。また、変わったところでは、大正初期に建てられた郵便局舎がそのまま残っている。これは、薄いピンク色の木造平屋建てのレトロな建物で、かなり人目を引く。

 名柄の集落内でもう一つ見るべきものと言えば、水越街道を名柄街道との交差点から少し東に行ったところにある長柄神社(ながらじんじゃ)である。





 集落に埋もれる小さな神社という感じで、見た目はこれといって特徴ないのだが、かなりの歴史がある。

 日本書紀に、天武天皇(てんむてんのう)がこの神社の境内で流鏑馬(やぶさめ)を見学したという記述がある。681年の出来事なので、今から約1300年前ということになる。そもそも、この境内のどこで流鏑馬なんか出来たのか不思議だが、当時はもっと広かったのかもしれない。

 天武天皇は、かつて朝廷で権勢を振るっていた有力豪族の蘇我氏を、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に滅ぼし、大化の改新を行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の弟である。中大兄皇子はやがて即位し天智天皇(てんちてんのう)となるが、その跡目を巡って、天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)と争い、勝利して即位したのが大海人皇子(おおあまのおうじ)、すなわち後の天武天皇である。

 ではこの神社、いったいいつ頃からあったのかということになるが、創建年代、由緒とも不明である。おそらく、この地にあるということから推測して、名柄街道や水越街道の成立ち同様に古いのだろう。

 何気ない神社だが、有名なようで、境内を訪れる観光客がちらほらといる。神社名の長柄と、街道や集落の名前である名柄は漢字が違うが、長柄の方が古い書き方で、元は長江(ながえ)という地名だったようだ。その漢字を長柄に変えて「ながえ」と読んでいたらしいが、読み方が「ながら」に変わり漢字も変わっていったと神社の案内板に解説してあった。元々の長江は、ゆるやかに長く続く葛城の山々の稜線を形容してついたものとのことである。

 歩き出した頃は青空が広がっていたが、この辺りですっかり曇る。夜には雨が降るという天気予報だったので覚悟はしていたが、雲が広がるのが予想外に早く、雨が降らないかと少々心配になる。先を急ごうと、早々に長柄神社を出発した。次に目指すは、葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)である。

 名柄街道に沿って続く味わいのある街並みを進むと、やがて道の脇に鳥居が見え、そこから山に向かって西側に道が延びている。一言主神社は山の中腹にあるので、かなり長い参道だ。参道は、自動車道の下を潜り、その先にも鳥居がある。そこまで行くと、田んぼの広がるのどかな田園風景で、山の中腹に神社が見える。

 並木の続く参道を神社の石段まで進む。高天原まで登ったことを考えるとたいした高さではないが、高天原への山道で迷って消耗したせいか、こんな石段でも身体にこたえる。石段の上が本殿で、さほど大きくはないが山を背後にどっしりと存在感がある。





 関西の人たちはこの神社のことを「いちごんさん」と呼んでいる。願い事を一言だけかなえてくれる神社だからである。古事記や日本書紀にも登場する古い神社で、先ほど古代豪族葛城氏のところで出て来た雄略天皇とこの神にまつわる言い伝えが、社伝に記されている。

 雄略天皇が葛城の山々で狩りをしていた時、天皇と同じ姿で全く同じ動きをし、同じことをしゃべる者と出会う。何者だと問うたところ、「吾(あ)は雖悪事(まがごと)も一言、雖善事(よごと)も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神なり」と相手が答えた。天皇は驚いてひれ伏したという話である。

 しかし、その後編纂された続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、雄略天皇と葛城一言主は争いになり、雄略天皇が勝って一言主は土佐に流されたことになっている。葛城氏のところで書いたが、雄略天皇は獰猛で残忍な性格であった。一言主相手にひれ伏すとは思えないので、続日本書紀の記述の方が現実味がある気がする(笑)。

 一言主に関しては、もう一つ伝承がある。役行者こと役小角にまつわるものである。

 役小角は吉野を中心として金峰山(きんぷせん)で修行をしていたが、以前修行を積んでいた葛城山と金峰山との間に石橋を架けようと思い立つ。鬼を使役する霊力を持つ役小角は、諸国の神々を動員するが、一言主はその醜い姿を気にして昼間は働かなかった。役行者は怒って一言主を谷に縛りつける。たまりかねた一言主は天皇に、役小角が謀叛を企んでいると訴えたため、朝廷は役小角の母親を人質に取って役小角を捕らえ、伊豆大島に島流しにしたというものだ。一見バカバカしい話だが、朝廷の公式記録に残っているというから驚く。

 続日本紀の話や役小角の伝承を読むと、一言主はあまり強力な神には見えない。ただ、これが神ではなく人、例えば古代の豪族を神格化したものを捉えると、雄略天皇との出会いなどは、現実の事件が背景にあるのではないかとも思えて来る。雄略天皇が手を結ぼうとしたのか滅ぼそうとしたのかは分からないが、当時の天皇家とこの地方の有力豪族との攻防を暗に物語る話かもしれない。そうなると、一言主とは果たして誰だったのだろうか。

 地元豪族との攻防ということでは、この一言主神社にも土蜘蛛の塚がある。大きな石でフタがしてあるのだが、神武天皇によって成敗された土蜘蛛で、二度と復活しないように手足をバラバラにして埋められたらしい。上に置かれた大きな石は、土の中から出て来られないようにするためのものだろう。

 神武天皇に象徴される新興勢力に敵対した大和地方の先住民は、全て土蜘蛛とひとくくりにされ抹殺された。古事記や日本書紀、各地の伝承では、土蜘蛛は一般人にはない異常な外観をしていると記され、ある者は手足が長く、ある者は尾があったなどと書かれている。侵略者が先住民を殺して領土を奪ったというのでは、正当性が主張できなかったのだろう。だから、先住民を人間ではない者として記録に残し、退治しても問題がない存在にまで貶めた。ただ、征服者たちも滅ぼした土蜘蛛の怨念は恐れていたわけだ。

 後世になり、土蜘蛛の怨念は妖怪変化の類として描かれるようになる。一言主神社の境内にも謡曲の「土蜘蛛」の話が紹介されている。これは、平安時代中期の有名な武将源頼光(みなもとのらいこう)を主人公にした物語である。

 あるとき源頼光が病に臥せっていると、夜更けに見知らぬ法師が病床に現れ、具合を尋ねる。怪しんだ頼光が何者だと尋ねると、法師は大きな蜘蛛に姿を変えて頼光に白い糸を投げ掛ける。頼光が枕元に置いた名刀「膝丸」を抜いて切りつけると、蜘蛛の姿は消える。何事かと駆けつけた家来に、頼光は今の出来事を伝え、血の跡を追うよう命じる。血の跡をたどると土の塚があり、そこを崩すと大きな蜘蛛が現れる。ここで蜘蛛は、自分は大昔から葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だと正体を明かす。家来たちは蜘蛛を取り囲んで退治する。

 まぁざっとこういう話であるが、謡曲になるくらいここの土蜘蛛は有名だったんだなと感心する。先住民を公式記録で人間以外の存在と扱い、後世それが妖怪とされていく。謡曲ではすっかり悪者扱いだが、よく考えると悲しい話である。

 さて、空模様を気にしながら先を急ぐことにする。次に目指すは九品寺(くほんじ)である。一言主神社の右手に山の方に延びる道があり、これを進む。

 最初は集落の中を通るアスファルトの道だったが、途中から土の道に変わる。一部がぬかるんでいたが、のどかないい道である。田んぼや畑の中を通っており、山の中腹なので眺めもいい。かつて歩いた山の辺の道を思わせる風情がある。

 この道の脇にある森の端に、ポツリと石柱が立っている。「綏靖天皇葛城高丘宮跡(すいぜいてんのうかつらぎたかおかのみやあと)」とある。





 ここは、第2代の天皇である綏靖天皇の宮廷があった場所だとされている。その宮廷の名前が高丘宮(たかおかのみや)というわけである。

 高鴨神社のところでも書いたが、初代の神武天皇から始まって綏靖・安寧の計3代の天皇に嫁いだ皇后は、古代豪族の鴨氏から出たと推測される。この周辺は鴨一族の勢力範囲だったはずで、ここに皇居があったとすれば、初期天皇家と鴨一族の関係の深さがしのばれる。

 そんなふうに当初は繁栄を極めた鴨氏だが、第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の時代に滅ぼされ、拠点としていたこの地を去ったと伝えられる。高鴨神社の縁起ではそう記されているが、理由はよく分からない。その後、鴨一族は方々に散ったようだが、一つの拠点となったのは、古くは「やましろ(山代・山背)」と呼ばれた、現在の京都である。

 京都の上賀茂神社(かみがもじんじゃ)や下鴨神社(しもがもじんじゃ)は、最初に訪れた高鴨神社の系列である。そんな関係で、両社の祠官家は代々鴨一族が担ったようだ。また、鎌倉時代に方丈記(ほうじょうき)を書いた鴨長明(かものちょうめい)や江戸時代の国学者、賀茂真淵(かものまぶち)も鴨一族で、京都の上賀茂神社・下鴨神社から出ている。ちょっと変わったところでは、安倍晴明(あべのせいめい)の陰陽道の師匠である賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子も鴨一族の末裔である。強力な霊力を駆使したという修験道の開祖役小角も鴨一族に属する人物なので、加持祈祷、呪術は鴨一族の得意分野なのかもしれない。

 ところで、高天彦神社のところでも書いたが、第2代の綏靖天皇から第9代の開化天皇までの8人の天皇については、その治世下で何を行ったのかという事績が一切記されていない。実在したのだろうかという疑いもあるようで、欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれている。仮に、綏靖天皇が実在しないということになると、ここにあった高丘宮というのは、誰の宮殿だったのだろうか。

 葛城王朝説というのを紹介した際に、欠史八代の時代は、大和の地は葛城氏の治世下にあったのではないかという話をしたが、仮にそうだとすれば、鴨氏と葛城氏の関係はどういうことになるのだろうか。歴史的には、最初にこの地に鴨一族があり、初期3代の天皇に皇后を送り栄えたが、第10代の崇神天皇の時代に滅ぼされ、この地を離れている。その後、葛城氏が台頭し、第15代の仁徳天皇から第21代の雄略天皇までのほとんどの天皇と縁戚関係を結んでいたが、これもまた雄略天皇のより滅ぼされた、という流れになる。

 ちなみに、これも上の方で書いたが、仁徳天皇の皇后は葛城氏の出で、名前を磐之媛命(いわのひめのみこと)というが、彼女の歌には「葛城高宮 吾家のあたり」というフレーズがあり、出身地はこの辺りということになっている。かつての鴨氏の勢力範囲に葛城氏の拠点があったということだろう。

 鴨氏と葛城氏の関係はどうもよく分からない。時代をたがえて台頭した別の豪族だったのか、何らかの姻戚関係があったのか。ただ、神武天皇がこの地に入って以降、初期の段階で何代にもわたって天皇家に皇后を出す有力豪族が葛城周辺に長くあったのは事実だろう。初期の天皇家もまた、彼らの力にすがらないとこの地を統治が出来なかったに違いない。やがて力を付けた天皇家が、同盟関係にあった有力豪族を滅ぼし一強を目指す過程が、この葛城の支配者の盛衰につながっているのであろう。

 私は、歴史家でもないし考古学者でもないので、見て来た事実からあれやこれや自由に想像するだけだが、そんな勝手気ままな想像が許されるほど、本当の歴史がハッキリしないのが古代史の魅力かもしれない。鴨一族、葛城一族、そして滅ぼされた先住民たちである土蜘蛛、天皇家の陰に隠れて公式の記録にはハッキリ記されない彼らこそが、本日散策している葛城の地の主人公なのである。

 さて、九品寺までの道を急ごう。考えていたよりも距離があったが、道に迷うことなくたどり着く。

 九品寺は一見普通の小さなお寺なのだが、本堂の脇にある細い道をたどって裏山に上がり、九十九折をたどると、えっという風景が広がる。





 千体石仏とよばれる石仏群である。ひな壇式に並べられた石仏のほかに、周囲至るところ石仏だらけで、その数は1600以上と言われている。

 この石仏の由来は南北朝時代に遡るようだ。橋本院のところで、かつて大伽藍を構えた高天寺が隠れて南朝を支援したため、北朝の武将の攻撃を受けて灰燼に帰したという話をしたが、この地を治めていた御所城主の楢原氏も南朝側についた。この楢原氏の菩提寺が九品寺なのである。楢原氏の兵たちは出陣に当たり、自分の身代わりとして石仏をこの寺に納めた。これが今に残っているわけだ。

 さて、この九品寺自体は高天寺同様、奈良の大仏の造営を取り仕切った高僧行基の創建と伝えられる。そうしてみると奈良時代から続く寺ということになるが、その割にはさっぱりとしていて、新しい寺という印象を受ける。

 行基はたくさんの寺を創建しているが、奈良時代の仏教は国家維持のためのものであり、一般の民衆に広く布教してまわることは、当時の僧侶には許されていなかった。それを破って民衆の中に入り、各地でお寺を建てて布教したのが行基であり、それゆえ朝廷からは弾圧を受けた。しかし、行基の布教が社会にいい影響を与えていたことに加え、人々から圧倒的な支持を受けていたため、朝廷も途中から折れて行基の活動を認めるようになる。行基はやがて奈良の大仏造営の取り仕切りを任されるまでになり、仏教界最高位の大僧正の称号を我が国で初めて得るに至る。

 行基創建と伝わるお寺は近畿地方を中心に無数にあるし、ゆかりの地も多い。人気のある僧侶だったことが偲ばれる。

 さて、九品寺を出たところで、地図にある脇道が分からなくなる。道路脇を工事していたので、あの工事現場の陰に目指す道があったのかもしれないと今になって思う。仕方ないので、再び騒がしい自動車道を歩く。これだと迷うことはないが、車が猛スピードでひっきりなしに通るので、歩いていて楽しくない。

 次に目指すは集落の中にあるお地蔵さんなのだが、これが少々変わっている。自動車道をそれて山に向かって延びる細い道に分け入り、暫く進んだ道路のど真ん中に、目指すお地蔵さんがあった。





 六体のお地蔵さんが彫られたこの巨石は何かというと、土石流で山から流れて来たものである。それで、こんな道の真ん中に鎮座しているわけだ。

 これがあるのは、御所市櫛羅(ごせしくじら)という場所だが、ここから600mほど山に向かって行くと、葛城山のロープウェー乗り場がある。その終点である山頂付近を始まりとする川がこの道沿いに流れており、昔からたびたび氾濫が起きたようだ。地名である櫛羅(くじら)の由来も「崩れる」という言葉に端を発しているらしい。

 この巨石が流れて来たのは室町時代と言われており、生き残った村人たちが表面に六体のお地蔵さんを彫った。六体という数は仏教で言う六道(ろくどう)を意味している。

 仏教の教えによれば、世界は天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つから成っており、人は死して後、このいずれかの世界に生まれ変わることになっている。どの世界に生まれ変わっても地蔵菩薩が助けてくれるようにと、それぞれの世界に一体ずつ、計六体のお地蔵さんを祀るという民衆信仰が、この六地蔵の背景にある。

 突然の土石流という自然災害にたびたび見舞われ運命を翻弄され続けた村人たちの悲痛な祈りが、この六地蔵に込められているわけである。

 さて、ほぼ本日の出発地点である近鉄御所駅近くまで北上して来たので、あとは東に歩いて駅を目指すだけだが、最後にすぐ近くにある鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)に立ち寄ることにする。

 場所は六地蔵の少し東で、たいした距離ではない。





 以前、大和三山の畝傍山(うねびやま)に登ったときにも山口神社があったが、奈良にはたくさんの山口神社がある。いずれも山に関わる神社だから、山の口にある神社、すなわち山口神社と名前がついているようだ。そんなわけで鴨山口神社も、葛城山の山口神社ということになろうか。祭神の大山祇神(おおやまつみのかみ)は、まさに山をつかさどる神らしい。

 名前から分かる通り、鴨一族の系列の神社である。山口神社と名前が付く神社は、山から雲が湧き雨を降らせることから、雨乞いの儀式と関わりが深いケースが多いようだ。水稲栽培を古くから行っていた鴨氏にとって、水は極めて大切な資源である。最初に訪れた風の森神社は、風水害から田畑を守ってくれるようにと、峠を渡る風を祀った神社だが、同じような農業に絡む信仰が背景にあるのだろう。

 小さくて地味な印象の神社だが、古くからある格式の高い神社と聞く。私が訪れた時には、子供を遊ばせる父親がいただけで、静かなたたずまいだった。

 空模様がいよいよ怪しくなって来たため、駅までの道を急ぐことにする。あとは、街中の一般道を東に向かうだけである。駅に着いた時点で夕方になっていた。この日は山の中で迷って消耗したうえ、歩行距離がかなりあったので、いつにも増して疲れた。歩数にして2万6000歩強、距離にして20km少々。今までの中でも最も歩いた部類ではないか。

 帰りの電車でこの日一日を振り返り、やはり無理をしてでも葛城に来て良かったなと思った。大和朝廷が出来る前の先住民族たちの息遣いが聞こえて来そうな道行きだった。おそらくは奈良の最も古い部分、公的な記録が残っていない歴史の断片をたどることが出来て、意義深い一日だった。







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