パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第16話:吉野山





 次に奈良に行ったのは、5月も後半の週末のことである。ゴールデンウィークは、空き家となった実家の片づけやら東京への帰省やらで慌しかったため、一度も奈良に出掛けることなく終わった。この年のゴールデンウィークは晴天に恵まれた日が多かったので少し残念ではあったが仕方ない。

 1ヶ月近くのブランクの後に出掛けたのは吉野山(よしのやま)である。4月の室生寺(むろうじ)から始まった山登りシリーズを締めくくる意味で、最後を飾るのはここだろうと、満を持して行った。

 実は、吉野山に行くのはこれが初めてではない。以前、桜の季節に、地元の事情通の人に連れて行ってもらったことがある。上の写真はそのときのものである。ただ、この時は車で行って、まさに桜を見ただけで終わったので、山の全貌などはよく分からないままである。5月に入ると桜も散って訪れる人もぐっと少なくなる。我がウォーキングにとっては暑くもなく寒くもなく人もおらずで、これを逃してなるものかという勢いで出発した。

 それにしても吉野山は遠い。奈良散歩史上初めて、家を朝の7時過ぎに出た。吉野までは、阿部野橋駅(あべのばしえき)から近鉄南大阪線を使う。特急と急行の選択肢があり、特急は全席指定で特急料金がかかる。しかし、特急を名乗る割には急行との時間差は十数分しかないので、急行に乗ることにする。

 この吉野行き急行は何度も使ったことがあるのだが、さすがに朝8時台の急行に乗ったことはない。いつも乗る午後の時間帯は4両編成なので、そのつもりでプラットホームに上がると、何と8両編成の急行が既に停車している。こんな時間帯だと車両数が倍になるのかと驚く。おまけに、車内は発車の15分以上前なのに結構人が乗っている。多くは登山用の装備で、重いリュックを背負っている人も多い。私が乗る午後の便だとなかなか見掛けない利用者だ。みんなこんな時間から出掛けているのかと、おのれの怠けぶりに恥じ入りつつ電車に乗り込む。

 満席になって立っている人も出始めた頃に出発する。まず、登山客の皆さんは尺度駅(しゃくどえき)でどっと降りた。ここからは御所線(ごせせん)が出ており、終点の近鉄御所駅(きんてつごせえき)は葛城山(かつらぎさん)への入り口なので、そこに向かったのだろう。その先、橿原神宮前駅(かしはらじんぐうまええき)、飛鳥駅(あすかえき)で結構な人が降りて、電車はガラガラとなる。まぁこんな時期に電車に乗って吉野山まで行く人は少ないのだと思う。

 それでもかなり重装備の登山客が残っていたので、この人たちはこの恰好で吉野山に登るのかと不思議に思っていたら、終点吉野駅の二つ手前の大和上市駅(やまとかみいちえき)で皆さんどっと降りた。いったい何故だろうと後で調べてみたら、この駅から大台ヶ原(おおだいがはら)に向かうバスが出ているのである。大台ヶ原は、秘境という言葉が似合う場所のようで、山全体が特別天然記念物に指定されている珍しいエリアである。

 さて、延々と電車に乗り続けること1時間30分、漸く終点吉野駅に着く。途中で吉野口駅(よしのぐちえき)というのがあったので、もうすぐ着くのかなと思っていたが、そこから更に30分かかった。やはり遠い地なのだと実感する。

 本来はここから山登りだが、中腹まではケーブルカーを使う。電車の到着時間と連動していて、近鉄の駅のすぐ近くから出ている。私はケーブルカーといって、もっと大きなものをイメージしていたが、えっというくらいに小さい。座席は2シートあってそれぞれ4人がけである。これが1時間に4回出る。これでは桜の時期に対応不可能であろう。

 私が乗ったケーブルカーは、今の急行で来た人が乗り込んだわけだが、計8人でちょうど座れた。えっ乗るのこれだけなの、という感じである。

 ケーブルカーの駅を降りると、土産物屋が並んだ静かな道を通る。ほとんど人はいない。暫く歩くと最初に迎えてくれるのは、銅鳥居(かねのとりい)である。





 銅鳥居は、金峯山寺(きんぷせんじ)の第一の鳥居である。ここより俗界を離れて修験道の場という意味があるらしく、皆ここで厳しい修行への意志がためをすることから発心門(ほっしんもん)とも呼ばれると聞く。逆光で見にくいが、扁額には発心門の字が掲げられている。以前、熊野古道(くまのこどう)を歩いた時も、スタートした地点の王子(おうじ)の名が発心門で、そこから先は熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)の神域という印だった。吉野山でも、ここから先は俗界から離れた浄域ということらしい。

 鳥居自体は文字通り銅で造られている。元々は、奈良の東大寺の大仏を作る際に集めた銅が使われたというが、戦火で一度焼け落ち再興されたようだ。銅製の鳥居としては日本最古のものと聞く。

 吉野と言えば古来より修験道の中心地だが、今や関西の人にとっては、桜の名所としての方が有名である。吉野の桜は何と3万本あるという。それと並んで有名な木は吉野の杉だろうか。吉野杉といえば国産材の高級ブランドである。これもまた実にたくさん植えられている。冒頭に記したが、桜の季節に少しだけ吉野山に来た。桜も美しいが、桜のピンクと杉の緑との色のコントラストが実に印象的だった。

 吉野にある桜は山桜であり、我々が花見の際に楽しむ染井吉野(そめいよしの)ではない。染井吉野は、吉野の名前は付いているが、江戸時代末期に江戸の染井村に多く暮らしていた庭師や植木屋が品種改良して育てた桜であり、本来の吉野山の桜ではない。

 吉野は山深い地なので、桜の開花は平地より少し遅れて始まると聞くし、全山が一度に満開になったりはしない。麓から徐々に開花し、最後の山奥が咲き終わるのがゴールデンウィーク前と言われている。従って、長い期間にわたって花見が楽しめるのが吉野の良いところなのである。この期間中は、吉野山も花見客でごった返す。特急のチケットは、平日でも早くから満席になると聞いた。交通規制が敷かれるうえ、駐車場が少ないものだから、吉野の花見はなかなか大変なのである。

 この桜の開花時期に合わせて、吉野山の桜は幾つかのエリアに分かれている。麓から始まって、下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、そして一番最後に咲くエリアが奥千本(おくせんぼん)である。開花情報もこの区分に分けて伝えられる。それを参考に観光客は山に登るのである。ちなみに、冒頭の吉野の桜の写真は上千本から撮ったものである。

 もう一つ忘れてはならないのは、かつて南北朝時代に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が南朝の朝廷を開いた場所でもあるということだ。歴史的にも数々の逸話がてんこ盛りになっており、奈良市内から遠く離れた山奥なのに、見るにせよ語るにせよ、ちょっとやそっとでは書き尽くせない重要な舞台である。

 吉野山のことを単独の山のように言う人もいるが、正確にはどの山を指しているのか分からない。むしろ、この辺り一帯の山々を総称してそう呼ぶのが一般的なようだ。ここから南は和歌山県まで峰々が連なり、まさに山また山の地である。山伏の修行の場として吉野山から南に延びる大峰山系(おおみねさんけい)が有名だが、こうしたかなり広いエリアを総称して金峰山(きんぷせん)と言うこともあるらしい。これら修行の場はいまだに女人禁制と聞く。

 さて、吉野山の紹介はそれくらいにして、銅鳥居を通り過ぎ暫く行くと、土産物屋の屋根よりはるかに高い門が見えて来る。これは二王門(におうもん)であり、寺院で言うところの仁王門である。国宝なのだが、残念ながら修理中で、屋根の部分しか見えない。それでも門は通れるので、工事現場みたいな門をくぐって、その先の階段を上がる。石段を上がり切ったところが、吉野山のランドマークとも言える金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじざおうどう)の境内である。すごい存在感で圧倒される。これが金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂となる。





 金峯山寺は、言わずと知れた修験道の本山であり、役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)が建てたとされている。役小角は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した人物で、修験道の開祖であり、安倍晴明(あべのせいめい)ですっかり有名になった呪術の会得者でもある。そう言うと伝説上の架空人物みたいだが、実在の人であることは朝廷の記録から明らかである。

 彼の祖先は、神武東征(じんむとうせい)のおりに神武天皇(じんむてんのう)を導いたとされる3本足の八咫烏(やたがらず)の末裔である賀茂氏(かもうじ)の系統で、安倍晴明の陰陽道の師匠である賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子も同じ血筋のようだ。血は争えぬということか。

 金峯山寺蔵王堂に祀られているのは蔵王権現(ざおうごんげん)で、これが修験道の本尊である。修験道オリジナルの存在らしく、仏教でも神道でもない独特の本尊と聞く。蔵王権現が誕生しここに祀られたのは、役小角がこの地で山岳修行をしている最中に出現したからだとされている。悟りを得ようとこの地で激しい修行を繰り返す役小角の前に数々の神仏が現れたが、彼は厳しい神仏が必要だとして望んだところ、この蔵王権現が現れた。金峯山寺の説明では、役小角が祈り出したという表現をしているが、そのエピソード通り、憤怒の表情で怒髪天を衝く恐ろしい姿をしている。修験道の厳しい修行には厳しい本尊が必要という趣旨がよく分かる外観である。ダラダラ修行をしていたら、ぶっ飛ばされそうである。

 役小角は伝説が多く、どこまでが本当の話なのかよく分からない。後世、大いに尾ひれがついて神格化されたのだろう。現在の奈良県御所市辺りの生まれとされ、元々は学僧として修行の道を歩み始めたようだが、たちまち山岳修行の世界に入り、あちこちの山々を訪ね歩いては修行に励み、この吉野で蔵王権現に出会ったという経緯をたどる。当時の国家鎮守のための仏教活動には飽き足らない、一種のアウトロー的な宗教家だと見ることも出来る。山中で超人的な修行を繰り返す彼の姿に、人々は人間を超えた力を感じて数々の伝説が生まれることになったのかもしれない。

 よく言われるのが、役小角は鬼を使役していたという話で、それを表す肖像画も残っている。一度朝廷に捕らえられて伊豆に島流しになっているが、その理由が、鬼と共謀して神を折檻した罪というのだから恐れ入る。伊豆では、一晩で富士山を往復したとか、罪を解かれると空を飛んでどこかに去って行ったとか、その超人的能力を語る逸話は枚挙にいとまがない。当時からその霊力はつとに知られていたのだろう。

 さて、その修験道であるが、山伏の存在などは有名なのに、これが何なのか、なかなか知られていない。一般に言われているのは、古くから存在する自然崇拝を基礎として、神道や仏教が影響して出来上がった日本オリジナルの山岳宗教といった説明である。日本人は古来より、森や木、山、川、海など自然の構成物そのものを神格化し崇拝してきた。そうした中で神が宿る霊山が生まれ、そこで修行することにより俗世の迷いを払拭し悟りを開こうという試みが行われた。それを体系だって一つの形にしたのが役小角ということになるのだろう。従って、金峯山寺はお寺を名乗っているが、一般的に知られる仏教の宗派には属していない。お寺側の説明によると、宗派は金峯山修験本宗となっている。

 金峯山寺の境内は色々見ごたえのあるものが多いが、蔵王堂の西に、是非訪れるべき場所がある。南北朝時代の後醍醐天皇の皇居跡である。一般には吉野行宮(よしののあんぐう)と呼ばれている。行宮とは、一時的な宮殿という意味である。後醍醐天皇は、金峯山寺の塔頭のひとつである実城寺を金輪王寺と改名して仮の御所とした。その場所には、ここで暮らした歴代天皇と臣下の菩提を弔うため、南朝妙法殿(なんちょうみょうほうでん)という塔が建てられている。





 南北朝時代というのは、鎌倉時代と室町時代に挟まれた時期で、武士の主導権争いと皇室の皇位継承を巡る紛争が複雑に絡み合った混乱の時代である。

 元々トラブルの発端は後嵯峨天皇(ごさがてんのう)にある。後嵯峨天皇は息子に皇位を譲り後深草天皇(ごふかくさてんのう)が誕生する。その後院政を敷いていた後嵯峨上皇は後深草天皇に対し、弟に皇位を譲るよう促す。こうして誕生したのが、亀山天皇(かめやまてんのう)である。そして、亀山天皇の息子を皇太子にしたところで、後嵯峨上皇は明確な後継指名を敢えてしないまま亡くなる。亀山天皇の息子が皇太子となったが、兄である後深草上皇にも息子がいた。さて、亀山天皇の次は誰が天皇になるかである。

 この頃は鎌倉幕府による朝廷への介入が進んでいたため、判断は幕府に持ち込まれ、一旦は亀山天皇の息子が即位したが、自分の方が兄貴なのにその息子が天皇になれないことを恨みに思った後深草上皇が巻き返しを図る。この辺りから争いが泥沼化し、やがて幕府は、両方の系統から交互に天皇を出すに至る。いわゆる両統迭立(りょうとうてつりつ)だが、この時、兄の後深草天皇の系統を持明院統(じみょういんとう)と言い、弟の亀山天皇の系統を大覚寺統(だいかくじとう)と言った。こうした中で、持明院統の花園天皇(はなぞのてんのう)の後継として大覚寺統から出て来たのが後醍醐天皇である。

 後醍醐天皇は亀山天皇の孫に当たり、わずか31歳で天皇に即位している。彼は早くから鎌倉幕府を倒すことを目論んでいたと言われており、即位後6年目には最初の倒幕計画が発覚している。この時は、持明院統の有力公家である日野資朝(ひのすけとも)らが捕らえられただけで終わったが、再度の倒幕計画露見の折には、身に危険が及ぶと判断して自ら挙兵した。しかし、軍事力で劣る後醍醐天皇は捕らえられ隠岐島に配流となる。

 その後、再度の挑戦で隠岐島から脱出した後醍醐天皇が鳥取で地元の武将らと挙兵した時、幕府側から追討の命を受けてやって来たのが、足利尊氏(あしかがたかうじ)である。しかし、ここで足利尊氏は後醍醐天皇に同調し、幕府に反旗を翻す。その直後、東国で新田義貞(にったよしさだ)が挙兵し、ついに鎌倉幕府は滅びることになる。後醍醐天皇のみならず、幕府の実権を握る北条氏(ほうじょうし)に不満を持つ勢力がたくさんいたということだろう。

 後醍醐天皇は、幕府を廃止して自らが政治を行うと共に、両統迭立を反故にして持明院統を排除し、自分の子孫が皇位を継承していく形にする。こうした天皇中心の政治体制の復活を建武の新政(けんむのしんせい)と言うが、如何せん、性急で復古的な政治の在り方には武家から不満の声が上がったし、冷や飯を食わされることになった持明院統の皇族・貴族のみならず公家・寺社勢力も反発した。そこに政策の失敗が重なり、ついに足利尊氏が反旗を翻し、建武の新政から離反する。

 後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、ここから後醍醐天皇方と足利尊氏方の争いが展開される。やがて、現在の神戸で行われた有名な湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で、後醍醐天皇方の新田義貞と楠木正成(くすのきまさしげ)が足利尊氏軍に破れ、後醍醐天皇方の敗北が確定した。

 足利尊氏は持明院統から天皇を立て、後醍醐天皇は幽閉される。しかし、幽閉先からの脱出に成功した後醍醐天皇は吉野山に逃れ、自ら朝廷を開く。これが南朝であり、それから60年近く、京都の北朝と吉野の南朝とが独自に天皇を立てることになる。やがて室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋で南北朝が再び合体するまで、南朝では、後醍醐天皇以降、後村上天皇(ごむらかみてんのう)、長慶天皇(ちょうけいてんのう)、後亀山天皇(ごかめやまてんのう)の計4人が南朝の天皇をつとめることになる。

 ちなみに、金峯山寺蔵王堂の前に、石柵に囲われた4本の桜が植えられている。





 俗に四本桜(しほんざくら)と呼ばれているようだが、これは後醍醐天皇が隠岐島から脱出して挙兵した折に、息子であった護良親王(もりよししんのう)が、幕府側との戦いに臨むに当たって、ここで最後の酒宴を催したという場所である。護良親王は、幼少より仏門に入っていたが、父である後醍醐天皇の挙兵の報を聞いて還俗し、幕府軍と戦い続けた。皇族で仏門に入っていながら武芸をたしなむという特異な人だったが、死を覚悟して臨んだ六波羅探題攻略に成功し、後に征夷大将軍に任じられている。

 さて、その桜であるが、四本桜に限らず、吉野の桜は古くから知られている。これ程の数の山桜がここにあるのは、修験道の開祖である役小角に由来する。

 役小角がこの吉野の山で修行を重ねるうちに蔵王権現と出会った話は、先ほど金峯山寺蔵王堂のところで記した。役小角は最初、蔵王権現の姿を木彫りで仏像にしたのだが、その時に使った木が山桜だったのである。そのため、吉野の山では桜は神木として扱われ、大事にされるとともに、その後、多くの桜の苗木の寄進を受けた。花見をした際に、豊臣秀吉も桜の苗木を千本寄進している。

 現在の3万本の桜もすごいと思うが、以前はもっとたくさんの桜があったとも言われている。こうした桜は蔵王権現への寄進だから、金峯山寺蔵王堂に向けて見えるように植えられたと伝えられており、その伝でいけば、一番の花見の好適地は蔵王堂ということになる。今のように展望台から桜を見下ろすのではなく、蔵王堂から桜を見上げるのである。地元の人からその話を聞き、桜の時期に一度訪れた際に蔵王堂の境内から桜を見ると、確かに美しい眺めであった。

 蔵王堂を離れて土産物屋や飲食店の並ぶ参道を山の上の方に向かって歩く。吉野駅の寂しさを見た目には、山の上にこんな立派な商店街があるとは想像もつかないが、宿屋もたくさんあり、宿泊して観光する人も多いのだろう。確かにこの遠さを思えば、日帰りはもったいない気もする。

 沿道の店は、吉野葛(よしのくず)や柿の葉寿司の店が多い。共に吉野の名産品である。柿の葉寿司はこれまでもけっこう食べる機会があったが、吉野葛はまだなので、帰りに立ち寄って葛きりでも食べようかと考える。

 葛は山に自生するマメ科の植物だが、吉野葛というのは、その根から取れるでんぷんのことを指している。元々修験道と縁が深く、山伏が山の中で自活する際、食べ物として採取していたようだが、根からでんぷんを取るのは大変な作業みたいだ。この辺りの飲食店で提供しているのは、葛餅、葛きり、葛湯といった昔ながらの食べ物が多い。

 それにしても、この時期訪れる人はほとんどおらず、店の方もどこか元気がない。以前、桜の季節に来た際、この辺りを少しばかり歩いたが、もう人、人、人ですごかった。店の鼻息も荒く、そこらじゅうから威勢のいい呼び込みが聞こえたが、今日は店の人自体が奥に引っ込んでいて、歩いていてもほとんど声が掛からない。まぁこれはこれで静かでいいのだが・・・。





 静かな商店街を盛んにツバメが行き交う。ちょうど繁殖の時期なんだろうか。よく見ると家の軒下に巣が出来ている。周りは全て山だから、ツバメにとっても餌の獲りやすい恰好の繁殖地なのだろう。

 蔵王堂から3〜400m歩いたところで、参道を左にそれる。この先にある吉水神社(よしみずじんじゃ)に向かうことにする。山の中なので仕方ないがアップダウンが激しい。道を下り、暫く行ってから今度は上っていく。細い道の向こうに山門が見えて、その先が境内である。

 吉水神社は、元々金峯山寺の僧坊の一つだったが、明治時代に神仏分離令が出された際に神社として独立した。僧坊だった時代は吉水院(きっすいいん)という名前で、それが神社の名になっている。

 山門をくぐった左脇に小さな庭があるが、これは豊臣秀吉が訪れた際に造った庭である。実はこの神社、小さな神社なのだが、吉野山を舞台にした数々の歴史的出来事に関わっており、エピソードだけ見てもかなり華麗である。

 後醍醐天皇が足利尊氏方に敗れて幽閉された後、抜け出して吉野山にたどり着き、最初に身を置いた場所が、この僧坊だったと言われている。後醍醐天皇が暮らした部屋は後醍醐天皇玉座として今も残っており、その際使用した身の回りのものも保存されている。いわば、南朝のスタート場所ということになる。

 また、豊臣秀吉が徳川家康ら諸大名を集めて、吉野山で5000人規模といわれる盛大な花見を催した際に、本陣として使われたのも、この僧坊である。先ほどの庭も、この花見に合わせて造成されたもので、小さいながらも鶴、亀、須弥山、蓬莱島など神仙思想に基づいた吉兆を庭に配置した石で表した、凝った造りになっている。この花見の時には、桜を見るだけでなく、茶会や歌会も開かれたほか能も披露され、5日間にわたって宴が続いたと伝えられている。

 この時のエピソードがなかなか面白い。来た当初は雨が続き思うように花見が出来ない。秀吉は怒って、これ以上雨が続いたら吉野山を全て焼き討ちすると宣言し、震え上がった僧侶たちが祈祷をした結果、翌日には晴れたという。

 秀吉は吉野の桜に感じ入ったらしく「一目千本」の言葉を残してその絶景を褒め称えた。桜に限らず、多くの花が見事に咲いている様を「一目○本」なんて表現するが、この時の秀吉の褒め言葉が起源なのだろう。また、「年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」の歌を残している。

 その「一目千本」の絶景を見れる場所が今でも境内に残っている。桜が咲いていなくて残念だが、桜の季節でなくとも充分に美しい景色を楽しめる。





 それにしても、こんな遠くまで諸大名が参集するというのは大変だったに違いない。しかし、絶頂期の秀吉に言われれば従うしかない。かくして吉野の花見は一回限りとなり、その後に行われたのが京都の醍醐寺(だいごじ)での花見である。但し、参加人員は吉野の花見よりぐっと少ない。

 さて、その数々の歴史上の舞台となった吉水神社ご自慢の書院だが、訪れた日には修理中であった。現存する中で日本最古の書院であり、重要文化財にも指定されているのに、外部はすっかりシートに覆われていて見えない。実に残念だった。

 ただ、内部は公開しているので見学させてもらう。ここに来て、書院内部を見ずして帰ったら、何のために来たのか分からない。

 後醍醐天皇の玉座、豊臣秀吉の花見の本陣というだけでも華麗な歴史だが、この書院には、吉野山と切っても切れぬもう一人の歴史上の有名人が滞在している。兄である源頼朝(みなもとのよりとも)に追われていた源義経(みなもとのよしつね)である。

 頼朝と対立し反旗を翻した義経だが、付き従う者は多くなく、滞在していた京都から九州に逃げようとするが失敗し、結局吉野山に身を隠す。その時潜んでいたのがこの僧坊というわけである。

 言い伝えでは、義経は弁慶や静御前を連れて5日間この僧坊に潜むが、ここにも鎌倉から義経追討状が届いたため、山越えでの脱出を図ることになる。義経と弁慶は山伏に姿を変えて大峰山系へと向かうが、今も昔も修験道の山は女人禁制ゆえ、静御前を連れて行けなくなる。これが義経と静御前の今生の別れとなる。従って、二人が最後の日々を過ごしたのがこの書院内ということになるが、その部屋は現在も残っている。

 書院内は撮影OKらしく、皆さんバチバチ写真撮っていたので、私も何枚か撮らせてもらった。こういう時は普通、豪華な飾り付けがされている後醍醐天皇玉座の方をアップするのだろうが、私は個人的に義経と静御前が最後の日々を過ごした部屋の方が印象に残ったので、そちらを掲載しておく。





 しかし、静御前はこの後悲劇に見舞われる。義経は多額の金品を静御前に渡して、伴の者を付けるが、道中、伴の者が裏切り静御前を一人置いて金を持って逃げてしまう。静御前は一人下山して金峯山寺蔵王堂に来たところで捕まり、鎌倉に送られることになるのである。

 宝物類も含めて結構ゆっくり書院内を見学させてもらって吉水神社を後にした。小さながらも見どころたっぷりの神社である。

 さて、再び参道に戻り150mくらい歩いた辺りの右手に、鳥居はあるが本殿の見当たらない空き地がある。勝手神社(かってじんじゃ)というが、むしろ勝手神社跡と言った方が良いかもしれない。社殿は火事で焼け落ち、焼け出されたご神体は、先ほどの吉水神社に保管され、同社が勝手神社の社務を代行しているらしい。本殿があった場所には「勝手神社再建復興ご寄付のお願い」の立て看板があり、何とも哀れを誘う。

 わざわざこんな空き地を見に来たのは、この境内で静御前が舞を舞ったというエピソードがあるからである。

 吉水神社のところで出て来た源義経の逃避行の話で、女人禁制の山に入れなかった静御前が、やがて吉野の僧兵たちに捕らえられたという経緯を書いた。吉野山で静御前がどのような取扱いを受けたのかは知らないが、その際、僧兵たちの前で舞を披露したという話が残っている。

 義経と静御前の話はあまりに有名なので誰でも知っているであろうが、静御前は元は白拍子(しらびょうし)であった。白拍子は、烏帽子に水干という男装で歌を歌いながら舞を舞う女性で、神事に巫女が舞ったのが遠い原点とも言う。静御前が有名になったのは、後白河法皇(ごしらかわほうおう)による雨乞いの神事で舞を舞ったからである。

 日照り続きの折に、後白河法皇が京都御所の神泉苑(しんせんえん)で雨乞いの儀式を行った。神泉苑には龍神が棲むと言われていて、古来より幾度も雨乞いの儀式が行われている。最初に僧侶が百人、祈雨の法を試みたが効果がない。続いて白拍子に舞を舞わせて祈らせることになった。おそらくここで白拍子が登場するのは、白拍子の遠い起源が巫女の神事の舞だったからだろう。さて、99人までは効果がなく、最後に登場したのが静御前である。静が舞うと雨が降り出し、後白河法皇は大いに喜び、静を第一の舞の名手と称えた。これにより、静御前の舞は天下に轟いたわけで、その後も雨乞いの儀式に駆り出されている。義経と静が出会うのも、そうした雨乞いの儀式の一つでだったとされている。

 そんなわけで皆が静御前の舞を見たがった。舞わされたのか、自主的に舞ったのかは知らないが、静御前はこの吉野の勝手神社境内で、僧兵を前に舞を舞ったのである。





 この神社は、もう一人の歴史的有名人ともゆかりがある。後に天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)である。

 大海人皇子は、時代をぐっと遡った飛鳥時代の人である。当時朝廷で権勢を振るっていた蘇我氏を、盟友中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に滅ぼし、大化の改新を行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の弟に当たる。中大兄皇子はやがて即位し天智天皇(てんちてんのう)となる。天智天皇は当初、弟の大海人皇子を後継の天皇に据えるつもりだったようだが、やがて自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を次期天皇にしようと心変わりする。大海人皇子はこれを受け入れて、自ら出家し吉野へ移る。大海人皇子が吉野にいたのはこうした経緯があるからである。

 しかし、天智天皇が崩御すると、出家した大海人皇子が大友皇子に反旗を翻し挙兵する。いわゆる壬申の乱(じんしんのらん)であり、この大規模な内戦により大海人皇子が勝利し、皇位を手に入れ天武天皇として即位する。

 境内にあった神社の解説板によれば、この大海人皇子挙兵に当たって、勝手神社の社殿で琴を奏でたところ、背後の山から天女が袖を翻して舞いながら現れたという。これは吉兆だと言うことで大いに士気が上がったわけだが、元々勝手神社は勝負事や戦の神として武門の崇敬を受けていた神社だったようだ。それでこんな伝承が出来たのだろう。

 この故事にちなんで背後の山を袖振山(そでふるやま)と言うと解説板にあったが、写真に見えているこんもりした丘のような部分のことであろうか。

 さて、この勝手神社までは平坦な道を来たのだが、ここから道が険しくなる。次は竹林院(ちくりんいん)を訪れようとしていたのだが、ここで道が二つに分かれ、道端の案内板では竹林院は右の道となっている。この右の道が結構な坂道なのである。

 舗装はされているのだが、この勾配では山登りをしているのと変わりない。しかも、先ほどからの商店街を離れ、静かなたたずまいの住宅地の道である。一瞬、これでいいのだろうかと迷う。この日はこの先幾度も道の選択で迷いが生じることになるのだが、その最初の迷いはこの道で起きた。

 地図で確かめ、スマホのGPS機能を使って確認をしたが、どうもこの道でよさそうである。しかし、歩きながら本当にそうかという疑念が頭から離れない。そうこうしているうちに、道の先の方からほら貝の勇ましい音が聞こえて来た。どこで鳴らしているのだろうと、音のする場所を目指して歩いていくと、目の前に立派な門と桜本坊(さくらもとぼう)の石碑が現れた。あぁやっぱり合っていたんだと安堵する。





 桜本坊は修験道の根本道場で、勝手神社のところで出て来た大海人皇子ゆかりの寺でもある。吉野に暮らしていた大海人皇子は冬のある日、山中に桜の花が咲き誇る吉夢を見たと言われている。やがて壬申の乱に勝利して天武天皇として即位した大海人皇子は、その桜が咲いていた場所に寺を建てる。そして桜本坊という名前を付けるのである。

 先ほどから聞こえて来たほら貝は、この桜本坊の境内から鳴り響いていたものであり、見れば何人かの山伏姿の人たちが集まっている。ほら貝の後には読経が始まり、朗々とした声が周囲に響く。何とも吉野らしい光景である。

 目的地の竹林院は桜本坊の斜め前という関係にあるから、これでもう間違いはないと竹林院に向かう。

 竹林院はお寺なのだが、宿坊も兼ねており、一般の人も泊まれるし食事も出来る。元は聖徳太子が開いた椿山寺というお寺だったが、その後弘法大師空海が滞在しお寺を拡張、常泉寺と名前が改まる。もらったパンフレットを読むと、現在の竹林院の名前になったのは南北朝時代のようだ。

 古くから修験道の宿坊として使われていたと聞くが、今では立派な旅館であり、普通の人はお寺だと思わないのではないか。公式サイトも観光旅館としてのものである。

 ここが有名なのは、群芳園(ぐんぽうえん)と呼ばれる日本庭園があるからで、元からあった寺院の庭園を、先ほど記した花見の際に豊臣秀吉が千利休に命じて造りかえさせたものだ。池の周りを回遊する形の庭園で、豊臣秀吉がここで花見を楽しんだと言われている。その庭園を見るために立ち寄ったのである。

 それにしても人がいない。群芳園は大和三庭園の一つとされているが、閑古鳥が鳴いている状態である。季節外れの山中の庭園というのは、こんなものかもしれない。お蔭でゆっくり静かに散策できる。庭園の入り口の料金所も閉まっていて、料金をボックスに入れて勝手にパンフレットを取って中に入ることになっていた。

 大きな池に沿ってのんびりと歩く。とにかく静かでいい。ちょうど新緑の季節でもあり、緑が池にも映えて美しい。





 かなり高い場所にあるので周りの景色も楽しみにしていたが、池のある場所は木々が邪魔して必ずしも眺望は利かない。この池の周辺で終わりかと思ったら、池のたもとから奥の小高い丘に向かって道が延びている。時間もあったので道をたどると、丘の頂上に出た。ここからは見晴らしが良く、木々の間から蔵王堂の屋根も見えた。

 頂上は広い芝生広場になっていて、ひなびた東屋の休憩所が二つある。暫し休憩をして持参したお茶を飲んだのだが、まもなく昼ということで、大阪を出るときにコンビニで買って来たオニギリも食べる。季節外れで店が開いていないときのリスクを考えて持参したものである。

 飲食を禁じますという表示はなかったが、芝生広場の休憩所といえども、大和三庭園の一つだから、本当はいけなかったのかもしれない。まぁ、私一人しかいなかったのでお許し願いたい。そんなこんなでのんびり休み、この先の地図なども確かめながら、予想外に長居をした。

 群芳園を出ると、これで蔵王堂周辺は終了ということで、次は吉野の最奥部、奥千本を目指す。と言ってもここからはかなりの距離と高低差があるのでバスを使うことにする。こんな山の中をバスが通っているのかといぶかる向きもあろうが、先ほど乗ったケーブルカーを運営している吉野大峯ケーブル自動車という会社が、吉野山内にバスを走らせているのである。バスといってもマイクロバスで、1時間に1本程度の運行なのだが、これがあるのとないのとで、行動出来る範囲が大いに違って来る。

 停留所は幾つもあるが、竹林院から最寄の停留所に向かう。この停留所の次が終点の奥千本となる。屋根付きのバス停の脇に切符売り場があるが、行ってみると閉まっている。桜や紅葉の季節以外はこんな感じなのだろう。乗るのは私一人かと思っていたら、先客が2人待っている。ベンチに座ったら、更にあと2人来た。こんな季節外れでも奥千本を訪ねる人はいるらしい。ちょっと意外だった。

 10分ほどでバスが来た。これを逃すと次は2時間先なので、否が応でもこれに乗るしかない。ここでマイクロバスに5人も乗れるのかと心配になったが、がら空きなので問題なかった。乗った時に運転手さんに料金を渡す。桜の時期だとこんなことをしていたら時間がかかって仕方ないので切符売り場を設けているのだろう。

 毎度散歩のお伴に持って来る「近鉄てくてくまっぷ」を見ると、バスは奥吉野周遊ドライブウェイという道路を通るらしい。私は片側一車線の立派な道をイメージしていたが、これのどこが周遊ドライブウェイなんだという細い道を結構なスピードで走る。車同士がすれ違うのがやっという道だが、散策中の歩行者もいる。カーブの連続で見通しが利かない道を走るのだが、対向車の方は馴れていないのでカーブの出会いがしらでぶつかりそうになる。運転手は何度も走っている道なので勝手知ったるコースなのであろうが、座席で見ているこっちはひやりとした。

 15分程度で奥千本のバス停に着く。バス停以外にあるのは「修行門」の扁額がかかる金峯神社(きんぷじんじゃ)の鳥居だけである。この鳥居は、最初に見た銅鳥居の発心門に続くもので、吉野山には全部で4つの門があると聞く。最初の銅鳥居の発心門のあとは、この修行門があり、次はここから奥に分け入った大峯山系の山の中に等覚門という門がある。更に、山上ヶ岳頂上付近にある大峯山寺(おおみねさんじ)に第4の門である妙覚門がある。これらを合わせて金峯山四門と言うと、銅鳥居の脇にある説明板に紹介されていた。私は取りあえず、そのうちの2つを制覇したということになる。

 この修行門から舗装路ながらかなりきつい坂が延びている。しかも、それなりに長い距離である。まさに扁額にある通り、修行の始まりといった感じで、ここは上るだけでなく、降りるときにもしんどかった。唯一救われたのは、この坂の上からの眺望が素晴らしいことだ。





 私は思わず見とれて、ここでオニギリを食べれば良かったと後悔した。この辺りを奥千本というわけで、一応桜の名所なのだろうが、見渡す限り吉野杉の連続である。どの辺りに千本もの桜があるのだろうかと探すのだが良く分からない。花が咲けば分かるのだろうか。遠くに見える山は葛城山と金剛山で、共に登山のメッカである。

 坂道を上った先に金峯神社があるが、古くて小さな神社である。 この辺りの地主神を祀っていると言われており、一般の観光客が吉野に分け入るに際に、最奥部にある神社ということになる。

 古くから修験道の場となっていた神社だが、ここには、平安時代に栄華を極めた藤原家の当主、藤原道長(ふじわらのみちなが)も参詣に訪れている。道長は、吉野山の更に奥にある大峯山系に経塚(きょうづか)を造営している。経塚は、文字通りお経を埋めたものだが、56億7千万年後に地上に現れるという弥勒菩薩の時代までお経を伝えるために、金属製の筒や箱の中に入れて地中に埋めたという。全国にたくさんの経塚が残っているが、この道長が造ったものが最古と言われており、出土した経筒は国宝として京都国立博物館に保管されている。

 金峯神社は長い階段の上に拝殿があるが、そこまで上がってみると、拝殿の奥に古い石段が見える。どうも本殿はその更に上にあるらしいが、立入り禁止になっていて、一般参拝客はここで拝むしかないようだ。

 金峯神社はこの拝殿が有名というよりは、脇から山道を降りたところにある隠れ堂という建物がよくガイドブックに紹介されている。隠れ堂というのは修験道の修行に使う建物のようで、境内の説明板では、この堂にこもって扉を閉めると真っ暗になるという。人間が本能的に持つ暗闇への恐怖を克服するという趣旨なのだろう。

 しかし、この隠れ塔に本当に隠れた人がいた。先ほど吉水神社のところで紹介した源義経である。

 義経追討状が吉野にまで届いたことを知った義経は、静御前と別れて弁慶と逃避行を繰り返すのだが、この神社の建物に隠れているところを追っ手に取り囲まれ、窮地を脱するために屋根を蹴破って逃げたという伝説が残されている。今の建物にはちゃんと屋根がついているが、これは再建されたものである。

 そんな経緯から別名を蹴抜の塔(けぬけのとう)というらしい。義経隠れ塔とも呼ばれている。





 隠れ塔は、私が思っていたより大きなものであった。しかも森の中にポツンと建っている。昔は観光客も来ないから、ここに一人置き去りにされて暗闇の中で耐えるというのは、結構怖かったんだろうなぁと思う。

 隠れ塔から少し離れたところに展望台があり、ここからの景色も素晴らしい。奥千本まで来ると、山上からの景観を堪能できるスポットが幾つもあって素晴らしいと思う。この景色を見るためだけでも来る価値はあるような気がする。

 金峯神社へお参りした後は、隠れ塔とは反対にある脇道を進む。石畳の立派な道で、傍らに大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の石柱が立つ。あぁこれは熊野古道の一部だったのかと、改めて感慨にふける。

 熊野は現在の和歌山県にあり、そこには熊野本宮大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の三社がある。この三社を総称して熊野三山(くまのさんざん)と言っている。

 熊野は古来より、死者の魂が集まる聖地と考えられていた。平安時代になって浄土思想が広がると、熊野こそ浄土の地だと考えられるようになり、生前にここに参ると死して後に極楽浄土に往生できると信じられるようになる。その参詣の中心が、熊野三山というわけである。

 熊野古道はこの熊野三山への参詣道のことだが、一つの道ではない。よくガイドブックに載っているのは、和歌山県田辺市から熊野三山を巡る中辺道(なかへち)という道だが、吉野から熊野に向かうこの大峯奥駆道も熊野古道の一部である。そしてもちろん世界遺産となっている。

 世界遺産という意味で言えば、吉野山自体も世界遺産に登録されているし、今日見て来た金峯山寺、吉水神社、今しがた訪れた金峯神社、これら全て世界遺産である。今日の散策は、世界遺産を歩き見学するコースでもある。

 さて、今歩いている大峯奥駈道だが、これは一般的な熊野古道のガイドブックには載っていない。山上ヶ岳、大普賢岳、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳など2000m近い山を上り下りしながら170kmを踏破しなければならず、熊野三山に行くことが目的というより、この道を歩きながら修行することが目的であり、道そのものが修行の場ということになる。従って、一般人が歩くのは無理であり、ここから熊野本宮大社までは、山の中を7-8泊はかかる厳しい行程となる。今でも修行のために分け入る人たちがあり、金峯山寺の僧も毎年大峯奥駈道を踏破する修行を行うと聞く。熊野古道中最も険阻なルートと言われる道を、こうして一部だけでも歩けるのは、まことに意義深いことだと感じる。





 大峯奥駈道を行くのは、この更に奥にあるという西行庵(さいぎょうあん)を訪れるためである。平安時代から鎌倉時代に活躍した僧侶にして歌人の西行(さいぎょう)が一時期暮らした場所である。

 石畳の道を暫く行くと「左 大峯」の古い石柱があり、ここを曲がって土の山道に入る。この辺りは足場が悪く道幅も狭い。塹壕みたいな道を抜けると、開けた場所に出る。休憩用の東屋もある場所で、一瞬ここに西行庵があるのかと勘違いしたがそういうわけではない。傍らに立っていた案内板によれば、ここは「宝塔院跡」と呼ばれる場所で、昔この辺りに大小の寺院が点在していたらしい。全て明治期の廃仏毀釈で失われてしまったが、その跡地だけは残っているようだ。

 そしてこの場所が同時に、大峯奥駈道に点在する修行場の一つらしい。金峯山寺にあった解説板では、大峯奥駈道上の修行場は「靡(なびき)」と呼ばれていて、現在確認されているものとしては75箇所あるとのことである。これを大峯七十五靡と呼んでいる。

 大峯奥駈道を開いたのは、役行者の名前で知られる修験道の開祖役小角だが、修験道の教えでは山川草木ことごとく神仏ということになる。そして、役小角が山中を行くと草木もなびいたということろから、靡(なびき)という言葉が生まれたらしい。この宝塔院跡の靡は、愛染の宿(あいぜんのしゅく)という名のようだ。

 さて、ここではたと悩んだ。傍らの石柱には西行庵は右とあるが、これが杉の切り株が延々と続く林道のような道であり、直感的にこの道ではないような気がする。東屋に座って地図を見ていると、もう一人男性がやって来て、やはり石柱を見て、その先の林道を眺めていたが、暫し考え込んだ末に帰ってしまった。これでぐっと不安が高まった。でもこれほどハッキリ書いてあるのだから、間違ってはいまいと考え、恐る々々歩き始める。

 木の切り株が広がる一帯は「安禅寺蔵王堂跡」の立て札があり、ここも廃仏毀釈で取り壊されたお堂の跡地らしい。その先は林業の人が専ら立ち入るような道になり、これは違うのではないかという気持ちが高まって来る。いつ引き返そうかと迷っていたところに、向こうから二人連れの女性がやって来た。それを見た途端、あぁ合っていたんだと安堵する。

 そのうち、更に広い空き地に出る。ここにも「四方正面堂跡」の立て看板がある。こうして見ると、あちこちに寺の建物があったことが分かる。ただ、この空き地の先の道がおっかない。極端に狭い道で、おまけに周囲は石ころだらけ。足を滑らせたらおしまいじゃないかと心配になる。





 上の写真では見にくかろうが、山の斜面に線を引いたように通っているのが西行庵への道である。足の悪い人及び高所恐怖症の人には、ちと無理かもしれない。この道は狭くて、登山でいうところのガレ場みたいな感じである。

 何とかして西行庵にたどりついたが、結構時間がかかった。それにしても、よくこんな場所を見つけて住んでいたなと感心するばかりである。

 西行は多くの人に知られている歌人であり、出家して全国を巡った漂白の僧侶でもある。桜をこよなく愛したと伝えられる西行だが、桜の名所吉野山で隠棲したのはわずか3年のことという。

 有名なことだが、西行の出自は武士である。それもかなりエリートに属する武士だった。祖先は大百足退治の伝説で有名な俵藤太(たわらのとうた)こと、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)であり、名前の通り平安貴族の藤原家の血筋である。出家前の名は佐藤義清(さとうのりきよ)で、佐藤家は代々天皇の警護役を仰せつかっていた。義清は、父が若くして亡くなったため、跡を継ぎ御所の警護に当たった。官位を授かり、最精鋭とうたわれる北面の武士(ほくめんのぶし)として鳥羽上皇(とばじょうこう)の警護に当たったほか、和歌の名手としても早くから知られていた。

 傍目に見ても順風満帆と思える生活を捨て、佐藤義清はわずか23歳で出家する。出家そのものは珍しくない時代だが、家柄から言えばどこかの寺院に属することも出来たろうに、妻子と別れ漂白の旅に出る。その後は方々の山中に庵を結び、世捨て人のような生活を送った。そうした彼の行状は、その地位・身分からしてかなり特異なものだったが、世の人々はその求道の精神を、むしろ好ましいものとして受け止めていたようだ。

 西行は俗世を捨て何かを求めて出家した。しかし、高僧として名を成すのではなく、求められぬまま漂白の旅を繰り返し、その心情を素直に和歌に吐露している。私はその率直な人間臭さが好きだし、彼の和歌が広く人々に愛されているのも、その人間性ゆえであろう。

 そんな西行が、彼の放浪人生の中で比較的早くに居を構えたのが、この吉野の山奥である。





 私が吉野の奥まで来て見たかったものの第一はこれである。桜がすっかり散った時期にわざわざ奥千本まで行ったと言うと、関西の方々はビックリされるが、それもこれも、ここに西行庵があるがゆえである。

 西行はこの吉野の山奥まで来て、何かを悟れると思ったのかもしれないが、結局3年の後に庵を出て、東北地方へ長旅に出る。奥州藤原氏を訪ねてのことである。

 私は暫しここにたたずんで西行の人生を思った。その間、来る人もなく、静寂の中でひとり西行の和歌などを思い出した。

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ

 西行の代表的な歌であり、教科書にも登場することが多いので、一度は聞かれたことがあるかもしれない。この歌は、当時から名歌の誉れが高かったらしい。新古今和歌集の中で夕ぐれを詠んだ歌のうち秀歌3つを「三夕の歌」と称しているが、そのうちの一つである。

 当時西行がここで何を思い暮らしていたのか定かではないが、この地で作ったとされる歌がある。

 とくとくと落つる岩間の苔清水 汲みほすほどもなき住居(すみか)かな

 後年、西行の足跡を訪ねてこの地にやって来た俳人がいる。松尾芭蕉(まつおばしょう)である。当時は柴刈りに来る人が使う道がかろうじて残るだけの場所だったようだ。彼はこの歌にある苔清水がまだ残っているのを見て次の句を詠んでいる。

 露とくとく こころみに浮世 すすがばや

 世俗を捨てて山奥に庵を結んだ西行が口に含んだであろう清い水で、俗世間の穢れを洗い流してみたいという芭蕉の思いがこの句になっているのだが、わざわざこんな山奥まで西行庵を訪ねて来る人は、多かれ少なかれ俗世の何かを忘れたり捨てたりしたいと思っているのだろう。

 この苔清水は西行庵から少し離れたところにあり、今でもわずかながら湧いている。帰りに苔清水の水を手ですくってその冷たさを実感した。西行庵を訪れ苔清水を見て、私は、訪れる人もないこの山奥で、西行がひとり思い悩む姿を想像した。おそらく西行が抱えていたものは、現世に生きる我々が、大小はともかくとして、心の片隅に持つのと同じようなものだったのだろう。





 西行は、全国を転々としながら、最後は、現在の南河内にある弘川寺(ひろかわでら)でその生涯を閉じている。弘川寺は、この吉野山と縁の深い役小角によって創建されたと伝えられる古刹だが、西行の時代には、後鳥羽天皇が病気の際に平癒を祈願した空寂(くうじゃく)が座主であった。西行は、空寂の法徳を慕って弘川寺を訪れ、裏山に庵を結んで晩年を過ごしたと伝えられている。

 私は後日、この弘川寺を訪れ、境内から延びる山道を登り、西行が最後に結んだ庵の跡まで足を運んだ。山道沿いに立て札があり、そこが西行庵の跡と記されていたが、意外なほどの狭さで驚いた。この吉野の西行庵跡よりもずっと狭いスペースである。

 葛城山に通じる山の中腹で、70歳を超えた西行がどんな暮らしをしていたのか知る由もないが、彼は生前、自分の最期について有名な歌を詠んでいる。

 願はくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ

 如月の満月というのは、旧暦の2月15日を指しているが、この日は仏陀が亡くなった日とされている。今で言えばちょうど桜の咲く時期であり、桜を愛した西行らしい歌である。しかも、西行は、ほぼその通りの2月16日に亡くなっている。享年73で、そのことを知った多くの歌人が感じ入って、追悼の歌を詠んでいる。

 西行の墓は、弘川寺の西行庵跡の近くにある。江戸時代になり、西行を慕う浄土真宗の僧がここを訪れて西行の墓を山中に探し当てたのである。僧の名を似雲(じうん)と言う。似雲は、西行の墓の周りに千本の桜の木を植えて菩提を弔った。そして自らもこの地に庵を結び、そこで生涯を閉じた。似雲の墓も西行の墓の近くにある。





 上の写真が、弘川寺の裏山にある西行の墓である。こんもりとした小さな墳丘であるが、ここを訪れる人は桜の季節以外にはほとんどないのではないか。静かな場所で、晴れた日には木漏れ日が美しい。ただ残念ながら、この吉野の西行庵跡同様にアクセスは難しい。最寄駅からのバスは1時間に1本もなく、よほどゆったりした日程でないと西行の墓や西行庵跡までは登れまい。

 さて、吉野まで来て最も見たかったものを見た私は、杉木立の中の道を宝塔院跡まで戻った。どうせここまで来たのなら、大峯奥駈道をもう少し歩いてみようと思い、更に奥へと進んだ。

 細い土の道が多少のアップダウンを繰り返しながら続く。すれ違う人はおらず、ひとり黙々と木立の中を歩く。やがて道の傍らに、古い石碑と石仏が現れる。石碑には「従是女人結界」の文字が刻まれている。有名な女人結界の石碑で、この先は女性が立ち入れない修験道の聖域であることを示している。





 先ほど金峯神社を訪れた際、一般の観光客が来られる吉野最奥部の神社と書いたが、修行門のところで書いたように、大峯奥駈道上にはもう一つ、大峯山寺がある。吉野山から続く大峯山系の山上ヶ岳頂上付近にある。開祖は役小角であり、藤原道長が最古と言われる経塚を築いたのもこの山と聞く。

 大峯山寺と吉野の金峯山寺は、元は同じ寺だったと言われていて、この大峯山寺にも蔵王権現を祀った蔵王堂がある。このため昔は、大峯山寺蔵王堂を「山上の蔵王堂」と呼び、金峯山寺蔵王堂を「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼んだらしい。そんな山深い場所にあるお寺だと一般人の参詣は無理ではないかと思われるが、山上ヶ岳の麓に洞川温泉(どろがわおんせん)があり、そこから登山の形で参詣できるようだ。但し片道3時間はかかる上級者向けコースで、今でも女人禁制なので女性は登れないと聞く。

 さて、この先が女人禁制の道だということが、先ほど書いた源義経と静御前の悲劇的な別れを生み出すことになる。義経と弁慶が追っ手を振り払いながら山々の奥へと逃げて行った一方で、静御前は伴の者の裏切りに遭って捕らえられ、鎌倉に送られる。その後の話は有名なので、多くの人がご存知だろう。

 鎌倉で、義経の行方を尋ねられても吉野で別れたというばかりの静は、源頼朝と北条政子が鶴岡八幡宮に参拝した際に同道を命じられ、御家人たちの前で舞を舞うよう命じられる。最初は渋ったものの、政子の再三の要請でやむなく舞を舞うのだが、舞に合わせて義経を思う歌を二首吟じる。

 しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな
 吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき

 静が舞い終わった瞬間の御家人たちの様子を、吾妻鏡(あずまかがみ)は「誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。」と記している。しかし、面前で義経への思いを切々と歌う静に源頼朝は激怒する。その場は政子が取り成して事なきを得るが、仮に義経を撃ったとしても子孫の復讐があるかもしれないと恐れた頼朝は、静御前のお腹の子が男なら殺せと命じる。

 かくして3ヵ月後に生まれた静御前の子供は男だったため、由比ヶ浜に投げ捨てられた。静御前の境遇を哀れに思った北条政子とその娘大姫は、多くの宝物類を与えて静を京に返す。しかし、鎌倉を発って以降の静がどうなったのかは、全く分からないのである。

 そんな静御前の末路を思いながらこの女人結界の石碑を見ると、何とも胸に迫るものがある。雪道を踏み分けながら山奥に分け入って行った義経の姿を、静はいつまでも見送っていたのではなかろうか。

 私はそんなことを思いながら、義経と弁慶が分け入った道の先をもう少し歩くことにした。木立が切れた辺りから遠く山々が見渡せる。こうして見ると、山また山の地であることが実感できる。





 あまり奥まで分け入ると帰って来られなくなるので、青根ヶ峰(あおねがみね)山頂への道が分岐する辺りまで行って、戻ることにした。

 さて、ここからどう下山するかだが、奥千本まで来るのに使ったマイクロバスに再び乗って蔵王堂の参道に戻るというのが一般的である。しかし、帰り道に別ルートを通って、まだ見ていないエリアなど覗きながら帰るという手もある。おそらく、こんなふうに吉野山を散策するチャンスは、これっきりだろう。ここまでで既に12000歩を超えているが、どうせ下り道なので、さしてしんどくはないはずだ。かくして、帰りは歩いて降りることにした。

 先ほどのバス停まで戻り、今度はバスが来たのとは逆の道を降り始める。自動車道ではあるが、この季節、めったに車は来ない。野鳥の声など聞きながらのんびり歩く。

 少し行ったところに、道端に幾つも石碑が立っている。何だろうと立ち止まると、どうやら何度大峯奥駈道を通って修行に励んだかを顕彰する碑のようだった。33回とか55回とか驚異的な数字が並んでいる。山中で7、8泊を要する道行きなど、私は一回でも無理だろうと思う。

 この先の道沿いには展望台が二つある。高城山展望台(たかぎやまてんぼうだい)と花矢倉展望台(はなやぐらてんぼうだい)である。どちらも桜の季節は大変な人出だろうが、この季節にはほとんど人がいないはずだ。眺望がきくので立ち寄ってみようかと考える。

 暫く歩くと、高城山展望台への入り口が見えた。名前の通り、展望台は傍らの山の上だから、長い坂道を上っていくしかない。一瞬躊躇したが、これを逃すと二度と来ることはあるまいと思い直して坂を上る。これは結構苦しかった。

 この高城山は、今では展望台として有名だが、南北朝以前には城があったと伝えられる場所である。

 冒頭の金峯山寺蔵王堂の南朝妙法殿や四本桜のところで述べたが、後醍醐天皇は早くから鎌倉幕府を倒すことを目論んでいたが、最初の倒幕計画は実行前に発覚している。この時は難を逃れた後醍醐天皇だが、再度の倒幕計画露見の折には、身に危険が及ぶと判断して御所を脱出し、京都府南部の笠置山(かさぎやま)まで逃げ延びてそこで自ら挙兵した。この時、まだ仏門にいた息子の護良親王も呼応して吉野山で挙兵している。

 当時の吉野山は数多くの寺院が建てられ、防衛拠点として活用できる状態だった。護良親王はこれに加えて、更にその前衛にも防御のための城を作った。こうした城の一部が高城山の上にもあったようである。

 ただ、当時は倒幕軍も劣勢で、吉野山に押し寄せてきた幕府軍に攻め立てられ、多くの犠牲を出しながら、護良親王自身は山伝いに高野山まで落ち延びる羽目になる。

 吉野山でそんな大規模な合戦があったとはにわかに信じがたいが、確かに背後は山また山の地形なので、攻め上がって来る方が圧倒的に不利で、守りは堅そうな場所である。ちなみにこの時護良親王の軍が負けたのは、地理に通じた者の手引きで、幕府軍が背後に回って挟み撃ちにされたからだそうである。

 さて、長い坂道を上り切ると、山頂は意外に平らで広く、芝生広場と展望施設がある。この芝生の部分に城があったのだろうか。いずれにせよ気持ちの良い場所で、私しかいないので独り占めである。展望台からは大阪方面が見渡せ、二上山、葛城山、金剛山などがきれいに見える。なかなかの絶景である。展望台の周りには桜が植えられていて、花の季節は桜の花越しに山々を見渡すことになるのだろう。





 景色を堪能して休憩した後、高城山を降りて道路に戻る。暫く行ったところで、道路端の木立の中に不動明王らしき仏像が立っている。傍らの石碑によれば、神仏に供える神聖な水を汲むための閼伽の井(あかのい)の跡であり、仏像の脇にその井戸がある。井戸を覗くと水が溜まっているが、今でも湧いているのかは不明である。

 更に少し先に、牛頭天王社跡(ごずてんのうしゃあと)がある。高城山展望台にあった護良親王の城の鎮守として創建された社である。しかし、明治期の廃仏毀釈の嵐の中で失われたと傍らの解説板にある。西行庵に向かう際にも廃仏毀釈で失われた幾つもの寺院跡があったが、こうした寺院が護良親王の軍にとっては防御陣地になっていたということだろうか。

 やがて前方の木立の中に人家らしきものが見えたと思ったら、そこが吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)だった。

 創建年代不明の古い神社であるが、門前にある手書きの縁起によれば、既に千年前には公式の記録に現れているらしい。水分(みくまり)というのが意味不明の言葉だが、縁起に書いてあるところでは「水配」の意味らしく、水をほどよく田畑に配分する神のことを指しているとある。日本神話には水分神(みくまりのかみ)という水の分配をつかさどる神が記されているので、それを祀っているということだろう。

 この神社以外で、近くに水分の名前を持つものがもう一つある。先ほど大峯奥駈道を歩いた際に、山頂への道があった青根ヶ峰である。この山の古名は水分山(みくまりやま)であり、ここが東西南北に水が流れ落ちる分水嶺となっている。

 この山を起点に、東へ流れ落ちた水は、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)ゆかりの蜻蛉の滝(せいれいのたき)へと通じ、西に流れると、現在の下市町を流れる秋野川(あきのがわ)となる。北へ流れ落ちた水は、万葉の頃から象の小川(きさのおがわ)の古名で有名な喜佐谷川(きさたにがわ)に注ぎ、南に流れると、現在の黒滝村(くろたきむら)を流れる黒滝川となる。ただ、いずれの流れも最終的には吉野川に注ぐ形になっている。

 ところで、吉野水分神社には、水の神様とは異なるもう一つの顔がある。「みくまり」という言葉が「みこもり」、更には「こもり」と転読されるようになり、勘違いから子供の護り神、そして子供を授ける神と信じられるようになったのである。挙句の果てに、吉野山に花見に来た豊臣秀吉が子供を授かるように祈願したところ、何と淀が秀頼を生んだので、感謝のために今の社殿の造営を命じ、秀頼の時代に完成したという。何とも面白いエピソードを持つ神社である。

 この秀吉の命で建てられた社殿の形が面白い。七つの神様が三つの社殿に祀られており、それが一つの棟続きになっている。水分造という建築様式で、重要文化財に指定されている。更に言えば、この神社も世界遺産である。





 この神社から少し先に、もう一つの展望台である花矢倉展望台がある。ここも桜の名所として名高いが、高城山展望台と同じく歴史の舞台でもある。ここでの主人公は、源義経の家臣で、歌舞伎「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」でも有名な佐藤忠信(さとうただのぶ)である。

 義経追討令が届き、吉野の僧兵たちが義経討伐に動き出した時、逃げる義経一行を守るために佐藤忠信が一人でこの花矢倉に留まり、上って来る僧兵たち相手に壮絶な戦いを展開する。とりわけ、吉野山に滞在していた比叡山きっての豪僧横川覚範(よかわのかくはん)との戦いは有名で、討ち取られた横川覚範の首塚が、花矢倉展望台のすぐ下にある。

 佐藤忠信は義経一行を無事に逃した後、命からがら吉野を脱出し京の都に潜伏する。しかし、鎌倉幕府方の追っ手に潜伏先を急襲され、奮戦するもかなわず、自害して果てた。享年28と伝えられるが、兄の佐藤継信(さとうつぐのぶ)も義経に付き従い屋島の合戦で討ち死にしている。佐藤兄弟は、兄頼朝が鎌倉で挙兵したのに合流しようと滞在先の奥州から旅立つ義経に、奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)がお伴としてつけた郎党である。そして、のちに出家して西行となる北面の武士佐藤義清は、この佐藤兄弟と同族なのである。

 西行は、この吉野の西行庵に3年滞在した後、奥州藤原氏を訪ねて東北への旅に出るのだが、その頃はまだ佐藤兄弟は生まれていない。しかし、東大寺大仏殿再興の勧進のために70歳近くになって再び奥州藤原氏を訪ねた際には、佐藤兄弟は共に亡くなっていた。西行が同族の佐藤兄弟のことをどの程度知っていたのか分からないが、旅の途中に鎌倉で偶然源頼朝と会い、引き止められ滞在している。頼朝はもう少し滞在して欲しかったようだが、西行は振り切って鎌倉を経つ。頼朝がおみやげにと渡した銀製の猫の置物を、頼朝の館を出た途端に門前で遊んでいた幼児に与えている。奥州に着いた西行を、まだ存命だった藤原秀衡は歓待し、東大寺大仏殿再興のため砂金を渡している。

 人の縁というのは様々に交錯するものである。時代を隔てて、吉野山に隠棲した西行と壮絶な戦いを演じた同族の佐藤忠信。西行は佐藤兄弟の故郷奥州を二度訪ね、佐藤兄弟はあとにした故郷に二度と戻ることなく異国で果てた。西行は源頼朝に引き止められて歓待され、その頼朝が放った追っ手によって佐藤忠信は追い詰められる。更に頼朝は、西行と縁の深かった奥州藤原氏を攻めて、ついには滅ぼす。

 悟りを求めてさまよう西行は、平安末期から鎌倉時代にかけての武士の台頭と攻防をどう思っていたのだろうか。出家せずに北面の武士として勤め続ければ、必ずや戦いに巻き込まれていたに違いない。そもそも武士の世を作ろうとした平家の頭領、平清盛(たいらのきよもり)は、西行とは同僚の北面の武士であった。吉野で戦い京で果てた佐藤忠信は、もしかしたら西行自身だったのかもしれないのだ。

 出家後、西行の中から北面の武士時代の佐藤義清が全く消えてしまったわけではない。鎌倉で源頼朝と会った際、西行は兵法について教えを乞われている。最初は全て忘れてしまったと誤魔化していたが、重ねて乞われて、様々なことを語ったようだ。頼朝はそれを書き取らせている。しかし西行は、武家の興亡に対する心情を後世に残すことはなかった。忘れたいと思った過去は封印され、ついに語られることなく西行は奥州藤原氏の元を去った。西行が亡くなったのは、その4年後のことである。

 さて、その花矢倉展望台も今では、花見の時期以外、訪れる人もいない。傍らの茶店も閉まっており、私は一人展望台から、今朝訪れたを金峯山寺蔵王堂と参道を見下ろした。





 ここは、以前桜の時期に訪れた。冒頭の写真は、この展望台からの眺めである。あの時は天気が悪かったわりには大変な人出で、随分と騒がしかったが、今は野鳥の声が聞こえるだけである。ここで佐藤忠信が僧兵相手に死闘を繰り広げたなど、想像も出来ない。

 ここからまた道を下り始めるが、少し行ったところで脇道に入る予定である。このまま行くと、奥千本に行く前に最後に寄った竹林院に出ることになるが、そちら方向ではなく、如意輪寺(にょいりんじ)へ行きたいのである。近鉄の「てくてくまっぷ」では、花矢倉展望台のすぐ下から如意輪寺に抜ける道が出ているように書いてある。

 地図とにらめっこしながら進むと、この辺りかなと思われる場所に細い道が延びている。傍らに案内板が立っているのだが、その矢印がどっちを向いているのか少々分かりにくいうえ、その細道の先にあるのは共同墓地である。これでいいのかと心配になりながら、恐る々々進む。

 共同墓地の先にも道が続いているが、これが完全な土の山道で、吉野に花見に来た観光客が通るような道には見えない。次第に不安は増して来るが、そのうち案内板が現れるのではないかと自らを励ます。かなり下りたので、間違っていた場合引き返すのが大変だろうなぁと心配になるが、間違っているかどうかが確かめられないうちには引き返せない。そうやってドンドン下りていったところで、漸く道の傍らに案内板があった。ドッと安堵の気持ちが湧き上がる。

 しかしそこから先は大峯奥駆道並みの山道で、下り道なのにしんどい道行きだ。分かれ道より前の部分はずっと舗装路を来ていたので、こんな展開は想像していなかった。暫く行くと、地図にも記されている稚児松地蔵(ちごまつじぞう)があり、ようやくここまで来たかとホッとする。その先で、土の道が石畳の道に変わった。

 やがてこの石畳の道は、別の石畳の道と合流する。そこに道標があり、森の中に消えているもう一つの道がある。傍らには「宮滝・桜木神社」という案内板が立っている。あぁ、この道を行くと宮滝(みやたき)に行くのかと暫し立ち止まった。





 上の写真で、私が下りて来たのは右側の曲がり道である。宮滝・桜木神社に行くのは、この奥に向かって木立の中を延びている道である。道標を見て立ち止まってしまったのは、宮滝に未練があったためである。近鉄の「てくてくまっぷ」では、ここから宮滝までは山道を4km弱歩かなければならないので、このまま立ち寄るなど無理な話である。無理なのだが、どうにも吸引力がある名前である。

 この奈良散歩記にたびたび登場する入江泰吉氏の写真集「大和路」に、吉野のページがあるのだが、私がここまで見て来た吉野の名所はひとつも登場しない。登場する場所は、宮滝、菜摘(なつみ)の河原、象の小川、喜佐谷であり、それらは全て、この道の先にある。出来れば訪ねてみたい場所だが、そっちに行くと帰りようがない。出た先に鉄道が通っていないのである。

 この中で一番有名なのは宮滝だろう。吉野川の流域だが、巨岩の続く岩場で風光明媚なところとして知られている。水の流れが色を変える場所のようで、古来より万葉集などで歌の題材にされている。

 それだけなら自然の景勝地で終わるだろうが、この付近には宮滝遺跡(みやたきいせき)の名前で総称されている幾つもの遺跡がある。縄文時代から弥生時代にかけてのものがあるほか、実は飛鳥時代の天皇の離宮である吉野宮(よしののみや)もあったとされている。

 何人かの天皇が離宮をこの場所に持ったようだが、一番有名なのは、前回行った本薬師寺跡(もとやくしじあと)や藤原京(ふじわらきょう)の造営を行った天武天皇とその妻持統天皇(じとうてんのう)である。

 天武天皇は、勝手神社のところで説明したように、即位前の大海人皇子時代に皇位継承にからんで出家し吉野に隠棲している。その場所が、この吉野宮なのである。この時は、後の持統天皇となる妻の皇女や、二人の間に生まれた息子の草壁皇子(くさかべのみこ)も、共に暮らしている。

 夫婦仲が良かったことで知られる天武天皇と持統天皇だが、天武天皇が亡くなった後、この地を偲んで持統天皇は30回以上行幸している。持統天皇以後も歴代の天皇が行幸し、そういう意味でもこの地はすっかり有名になったのである。

 もう一つ挙げれば、象の小川も一度見てみたい渓流である。先ほど奥千本に行った際に、大峯奥駆道の途中から山頂に登れる青根ヶ峰という山があった。分水嶺の山である。この山の北側に流れた水が杉木立の中を流れ落ちて、やがて象の小川という渓流になる。そして、吉野川に合流するのだが、この合流地点までの谷あいが喜佐谷と呼ばれている。象の小川の「象」の読みに、別の漢字が当てられたものである。今では象の小川は喜佐谷川と呼ばれているようだ。

 象の小川は、万葉歌人の大伴旅人(おおとものたびと)が愛した渓流でもある。大宰帥(だざいのそち)として九州に赴いて以降も、思い出して歌に詠んでいる。

 目の前の道は、その象の小川沿いに山中を進み、宮滝に抜けるルートである。時間があれば是非とも歩いてみたい道だが、今日のところは時間的にも、交通事情からいっても無理である。後ろ髪を引かれながら、分かれ道から如意輪寺方向に進む。

 石畳の道を少し行ったところで、細い山道が分かれて木立の中に消えている場所があり、傍らの石柱に如意輪寺と彫られている。またもや悩む羽目になる。まさかこの道は違うだろうという雰囲気だが、確かに石柱には如意輪寺とある。私は最初、石畳の道は如意輪寺につながるが、この土の小道でも裏道として如意輪寺に行けるという意味ではないかと考えた。しかし、手元の地図では、確かに道は二手に分かれており、どうも土の道を行くのが正解のように見える。またもや恐る々々山道に踏み入る。

 この土の道はとんでもなく険しい道だった。こちらは下りる方だからいいようなものの、登る方だとしたら結構きつい。下りる方にしたって、足元を気を付けながら慎重に歩を進めないといけない箇所がある。岩が剥き出しになっていたり、段差の激しい階段があったりと、かなりの難路である。これは女性の場合スカートでは無理だし、ましてハイヒールだと10mも行ったら引き返す羽目になるだろう。今日は道に悩まされる。山の中だから仕方ないが・・・。

 やがて木々の間に駐車場が見えたと思ったら、突然立派な自動車道に出た。そこがどうやら如意輪寺の駐車場らしい。ここに来て、これが完全な裏道だったと分かる。さて、どちらに行けばいいのか分からない。辺りを見渡しても、如意輪寺らしい建物は見当たらない。

 暫し地図とにらめっこするが分からず、駐車場脇に地図があるのを発見し、漸く正確な場所を確認出来た。





 如意輪寺は平安時代に、真言密教を奉じていた修験者、日蔵(にちぞう)によって開かれた寺だが、南北朝時代に後醍醐天皇が京都に帰ることがかなわないまま吉野で崩御し、この寺の裏山に葬られたというので有名である。

 そんな経緯があることから、楠木正成が湊川の戦いで戦死した後、一族の長となった長男の楠木正行(くすのきまさつら)が、四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党143名で後醍醐天皇陵に参拝し、髪を切り仏前に奉納したうえ、過去帳に姓名を記して出陣した。

 元々正行は、湊川の戦いの際に父正成と共に出陣しようとするが、正成に「後に残り忠孝を励め」と止められ、河内に帰って来た経緯がある。これが父子の今生の別れになる。有名な桜井の別れである。河内に帰って来た正行の元に父の戦死の報が入って来た時、一旦自害しようとするが母に諭されて、以後修行を積むのである。

 やがて、四條畷の戦いに出陣する際、楠木正行は南朝の天皇だった後村上天皇に謁見している。この時天皇は、戦いが不利になったら必ず帰って来いと命令している。しかし、正行にはその気がなく、死を覚悟してその足で如意輪寺に向かうのである。

 正行は出陣に当たり、如意輪寺本堂の扉に、矢じりで辞世の句を刻んでいる。

  かへらじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる

 この辞世の句が刻まれた本堂扉は、現在も如意輪寺に残っている。

 正行は、吉野討伐のために送り込まれた足利方の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の軍と四條畷で激突する。足利軍5万に対して正行の軍はわずか5千であった。正行は一気に本陣に突入するが、数ではかなわず足利方の勝利となる。正行は自害し、足利軍は吉野に攻め入る。吉野は陥落し、後村上天皇はじめ南朝方は吉野を逃れることになるのである。

 如意輪寺は、谷を隔てて金峯山寺蔵王堂と向かい合っており、境内から中千本と上千本の桜が一望できるお花見スポットでもある。しかし、葉桜の季節ともなると誰もいない。蔵王堂から離れているのが、観光客を呼び寄せられない原因だろう。お蔭で一人静かに境内を見て回ることが出来た。

 さて、ここに来たのは、今日散策している吉野にまつわる物語の主人公の一人である後醍醐天皇の墓所を見るためである。その墓所、つまり天皇陵だが、境内の背後にある山の上にある。ここまで山を下って来て、今更山登りとは思っていなかったから、結構こたえた。





 有名な天皇だが、こじんまりとした円丘の陵墓である。一応天皇陵である以上宮内庁管理で、正式名称を塔尾陵(とうのおのみささぎ)という。

 後醍醐天皇は吉野で南朝を開いていたが、いつかは京の都に帰ることを願っていた。しかし、思いはかなわず南朝を開いて3年後に崩御した。臨終に当たり「玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」という言葉を残している。北闕は京の都にある御所を指している。

 歴代天皇の陵墓は、「天子は南面す」という古代中国の思想に基づいて南を向いているが、後醍醐天皇の陵墓だけは北向きに造られている。吉野からは、北の方向に京があるからである。このため、北面の陵とも呼ばれているようだ。

 後醍醐天皇崩御の報を聞いた宿敵足利尊氏は、その前年に征夷大将軍になっていた。後に尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に天龍寺(てんりゅうじ)を建てた。尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うことを勧めたのは、臨済宗の禅僧であった夢窓疎石(むそうそせき)である。天龍寺の初代住職も夢窓疎石が勤めている。

 さて、これで見るべきものは全て見たので、吉野を下山することにする。私は当初、如意輪寺から西に道をたどり、午前中に訪れた勝手神社のところに出ようと考えていた。参道で名物の吉野葛の葛きりでも食べて一服する計画だったのである。そこから金峯山寺蔵王堂まで参道を戻ってケーブルカーで山を降りる予定でいた。

 近鉄の「てくてくまっぷ」で見ると僅かな距離と見えたのだが、この地図には高低差が示されていなかった。実際には、如意輪寺と金峯山寺蔵王堂との間には深い谷があり、かなりのアップダウンを覚悟しなければならない。これは完全な計算違いで、ここまでの山道で足が疲れていたので、下りるのはともかくとして、もう一度登る気力はない。仕方がないので、当初の計画を変更して、谷底まで下りて渓流沿いの道を駅まで歩くことにした。

 行きにせっかく買ったケーブルカーの往復切符は無駄になった。取り出して眺めたら、何と「有効期限なし」と印字してある。次に来ることがあれば使おうと自分を慰め、坂道を降り始めた。かくして奥千本から吉野山の麓まで、全て歩くことになった。後で職場の同僚に奥千本から吉野山を歩いて降りたと言ったら、驚愕された。

 下り坂がやや堪えるが、道は石畳で、静かでいい道である。途中から舗装道路になって、谷川沿いを水音を聴きながら進む。当たり前だが誰も歩いていないし、自動車道だが車もほとんど来ない。谷川からはカエルだと思える鳴き声が聞こえるが、今まで聞いたことがない声だ。道沿いの森の中からも、聞き慣れない野鳥の鳴き声が聞こえる。道はすっぽり自然の中である。

 暫く歩いてようやく近鉄の吉野駅に着く。もう夕方になっており、今日は一日中吉野山をさまよったことになる。駅の構内には、山伏姿の皆さんが次の電車を待っている。もしかしたら、桜本坊でほら貝を吹いて読経をしていた人たちだろうか。一緒に座って眺めると、皆さん結構ご年配であることに気付く。この年齢で大峯奥駆道を縦走するのだろうか。私もこの程度でへばっている場合ではないと思った。

 この日の歩数は2万3千歩強だが、歩数以上に上り下りが疲れた。だが、中身の濃い散歩だったと思う。今では桜の名所でしかないが、様々な歴史上の人物の魂が、この山々をさまよっているのだと思う。







目次ページに戻る 本館に戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.