パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第15話:大和三山 |
![]() 次に奈良に出掛けたのは、まもなくゴールデンウィークも始まろうかという4月も下旬のことであった。この年の4月は天候不順で、日照不足のために野菜の生育に影響が出るような生憎の春の始まりだったが、ゴールデンウィーク前になって、ようやく晴天に恵まれる日が多くなり、当日は絶好の散歩日和であった。 今回の散歩は、ここ最近の山登りの続きで、万葉集にも詠われる大和三山(やまとさんざん)に登ろうという企画である。大和三山は天香久山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の3つであり、この3つを結ぶと耳成山を北の頂点として、ちょうど二等辺三角形になるように並んでいる。 いずれも標高は低くて、140~200m程度の低山であるため、3つとも登ってもそう大変ではないが、如何せん、山と山との間はそれなりに距離があるので、全て登ると全行程15kmとなり、そこに山登りまで加わると、いささか疲れそうだ。そこで、このうち2つに登ることにした。どれとどれに登ろうか迷ったのだが、途中の道に一番見どころの多い天香久山と畝傍山に登ることにし、耳成山は眺めるだけにした。 登る山の選び方で降りる駅が違って来るが、天香久山と畝傍山ということであれば、近鉄南大阪線橿原神宮前駅が最寄駅ということになる。ただ、この線の急行の終点は吉野山なので、桜のシーズンは電車が混む。まずは吉野山の桜の開花情報を見て、一番開花の遅い奥千本まで葉桜になっていることを確認してから出掛けた。JR環状線で天王寺駅まで行き、そこから近鉄に乗り換える。ここから橿原神宮前駅までは急行で40分の距離である。 駅自体が畝傍山の麓にあるので、そのまま登っていけるわけだが、まずは周辺を色々見学してから畝傍山に登ることにする。最初に訪ねたのは、今来た線路の脇にある久米寺(くめでら)である。 ![]() お寺の入り口が電車から見えていたが、いざ駅を降りて歩き出すとどうも場所が分かりにくい。こんなところで迷うはずがないと思いながら迷う。駅の構造が複雑なうえ道路が真っ直ぐに通っていないことに原因があるのではないかと愚痴りながら、線路沿いを目指し、脇から久米寺に入る。 それ程大きな境内ではないが、久米寺は何かと話題の多い寺である。 まずは、そもそも誰がこの寺を創建したのかという点だ。境内にあるお寺の縁起を書いた案内板によると、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟である来目皇子(くめのみこ)ゆかりの寺だということになっている。来目皇子が幼少時に眼病を患い目が見えなくなった際、聖徳太子の勧めで薬師如来(やくしにょらい)に祈願したところ治ったため、叔母の推古天皇(すいこてんのう)の勅願でこの寺が建てられたという逸話が紹介されている。もちろん本尊は薬師如来坐像である。 ところが、境内の案内板では、元々この場所には、古代の豪族大伴氏の下で軍事を司った久米部(くめべ)の人々の氏寺があったと、さりげなく書かれている。久米部の人々はこの一帯に居住していたようで、それにちなんで久米という地名が古くから使われている。そんな寺院が建っていたところに、何故わざわざ天皇の勅願寺院を建てたのだろうか。畝傍山の麓は広いのだから、場所ならいくらでもあったはずだ。 もう一つの説は、今昔物語に登場する有名な久米仙人(くめのせんにん)が建てたというもので、境内には久米仙人の石像まである。久米仙人は吉野の山で修行して空を飛ぶ能力を得たが、空を飛んでいる最中に、川で洗濯している女性の太ももに見とれて空から落ち、以後空を飛べなくなったというエピソードで知られている。この話には続きがあり、その女性と結婚して普通の生活を送っていた久米仙人が都の建設作業に従事していた際、役人に乞われて再度法力を駆使し材木を運んだため、天皇から褒美にと広大な田んぼもらった。その蓄えで建てた寺が久米寺だという話が今昔物語に紹介されている。もちろん、空を飛べる人はいないから作り話だろう。 そんなわけで、どうも久米寺の由来がハッキリとはしないのだが、現在このお寺は、京都の仁和寺(にんなじ)の別格本山であり、宗派も真言宗御室派である。境内にある重要文化財の多宝塔も、仁和寺から移築されたもののようだ。 真言宗と言えば弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が開祖だが、久米寺と空海も縁が深い。空海が唐に渡る前に国内で修行に励んでいた頃、重要な教えを説いた経典が久米寺の東塔にあるという夢のお告げを受け、ここで密教の根本経典である大日経(だいにちきょう)を見つけたと伝えられている。そのため、真言宗発祥の寺とも言われているが、現在境内にはその東塔はない。山門を入った正面に塔の礎石だけは残っているが、これがかなり立派なもので驚いた。在りし日の姿はどんなものだったんだろうか。 さて、久米寺から畝傍山登山に向かうと、自動的に橿原神宮(かしはらじんぐう)の中を通ることになる。まずは、線路の向こうに渡らないといけないのだが、さっき来たのとは別の裏口からお寺を出ると、門と踏切とが直結している。門を出て振り返ると、なるほどここが電車から見えていた入り口なのかと納得する。 踏切を渡って自動車道に沿って歩くと、橿原神宮の鳥居のすぐそばに出る。そもそも駅自体がこの神社のためにあるようなもので、駅前を黙って進めば、自動的にこの神社に到着する構造になっている。畝傍山への登山口もこの神社内から出ている。 ちょっと意外だったのが、駅から神社正面に至る一般道が、あまり賑わいのないひっそりした道だったことだ。神社近くまで来ると土産物屋が2-3軒あるが、飲食店はほとんどなく、実に寂しい感じである。 ![]() 橿原神宮は、広大な敷地を有する堂々たる神社である。巨大な森に囲まれ荘厳な感じがする。あまり参拝客はいないだろうと思って来たのだが、この日は陶器市をやっていたせいか、神社内はそこそこ人が訪れていた。 ここに祀られているのは、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)であり、神武東征により大和を平定した後、神武天皇が畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)を建てたとされる畝傍山の麓に建立されている。上の写真の背景にあるのが畝傍山である。ちなみに神武天皇はこの畝傍橿原宮で即位している。即位前の名前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)で、天皇即位後には始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を名のったと、日本書紀は記している。 そう書くと随分古くからある神社のように聞こえるが、創建は明治時代である。神社の縁起によれば、江戸時代末期に畝傍橿原宮があった場所が特定され、明治時代に入ると宮殿跡に記念碑を建てるなり神社を創建するなりしてはどうかという世論が興り、これに明治政府が応えて神社創建の認可を下したという。政治が武家中心から天皇中心に移った時期で、伝説上の初代天皇を祀ることによって皇室の権威を高めようという力が働いたのだろう。明治政府の意気込みが感じられるのは、橿原神宮の社殿として、京都御所の賢所と神嘉殿の2棟を移築したという事実である。 橿原神宮は、その後長い年月をかけて拡張工事が行われ、神武天皇即位2600年にあたる昭和15年には、紀元2600年奉祝紀元節記念大祭が挙行されている。この年の正月三が日だけで125万人が参拝したと社伝にある。すごい熱狂振りだったんだと思うが、今でも奈良県では初詣に多くの人が橿原神宮を訪れると聞く。 創建時に京都御所から移築された賢所が現在の本殿であり、重要文化財に指定されているが、残念ながら我々が行けるのは外拝殿までであり、その姿を見ることは出来ない。上の写真に写っているのが、その外拝殿であり、ここから内拝殿とその奥にある本殿を拝む形になる。また、同じく御所から移築された神嘉殿は神楽殿として戦後もずっとあったのだが、平成に入って火事で焼失していて、現存していない。 橿原神宮にお参りをして本日の散歩の安全を祈願したところでいよいよ畝傍山登山である。さっきは南神門から入って来たのだが、今度は反対側の北神門から出て、鬱蒼とした森に囲まれた静かな玉砂利の参道を歩く。暫く行って先に鳥居が見えて来た辺りで、左手に畝傍山登山口の案内板があった。ここを折れて森の中に入り、山道を上がっていく。 登山道は神社が管理しているのだろうか。よく整備されていて歩きやすい。途中から道が細くなるが、全体的にゆるい登りが延々と続く感じで、休みなしで歩いてもしんどくはない。 山の中ではあちこちからウグイスの鳴き声が聞こえて来る。一本道かと思っていたら、枝分かれしていく道があちこちにある。ここで迷うと違った方向に出てしまう惧れがあるので、まずは山頂目指して歩きながら、分岐点をいちいち記憶に留めておく。 ほとんど休みなしで登って山頂に出る。山頂は全方向というわけにはいかないが、ある程度眺望がきく。畝傍山の標高は198mで、大和三山の中では最も高い山である。 ![]() 畝傍山の麓に神武天皇の畝傍橿原宮があったとされることからも分かるように、かなり古くから開けた地であり、山の名前も「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明寺山」「御峯山」「瑞山」と様々な漢字が当てられていたようだ。最初の2つに火の文字が使われているのは、この山が死火山だからだろうか。 山頂には石碑が立っており「畝火山口神社社殿跡」と彫られている。この名前は、山頂に上がって来る途中でも見た。来たのと反対側に降りていくのと思しき分かれ道に「畝火山口神社」という案内があったのだ。 この神社については、由来の分からない神社として特に縁起などは記されていないが、山の麓にあった案内板によれば、大和三山はいずれも古代豪族が神を祀るなどして信仰していたようなので、神武東征以前に住み着いていた豪族などの信仰の対象がこうした形で残ったのかもしれない。一時期確かに山頂に社殿があったようだが、橿原神宮の造営に伴い、神武天皇を見下ろすとはけしからんということで、橿原神宮とは反対側の西の麓に移らされたらしい。やはり橿原神宮造営は、国家の威信をかけた権威高揚のための事業だったんだなと思わせるエピソードである。 山頂には幾つか木のベンチが置かれていて、座ってお弁当を食べている人もいる。来る前は、畝傍山に登る人なんかいないだろうと思っていたが、これがとんでもない間違いで、実に多くの人と登山道で行きあった。 登り道がゆるいせいか、かなり年配の方も登っておられるし、ご婦人が普段着で日傘を差しながら降りて来られるのにも出くわした。橿原神宮に来たついでに登るかという感じで、皆さん気楽な登山なのだろう。標高198mと聞くと、山というより丘という受け止め方かもしれない。 さて、降りるときは道を間違えないように、来た道をそのまま戻った。山頂から降りるところで、もう一方の道を降りた方が、次に行く場所への近道になるのではないかと暫し迷ったが、正確な降り口が分からないところを行くのはリスクがあると考え、真っ直ぐ元来た道を降りることにした。 登山口まで降りると、既に8600歩も歩いていることに気付く。今日は確実に2万歩を超えそうな気がした。登山口から北側に歩き自動車道に出て、先ほど降りた橿原神宮前駅の一つ北側にある畝傍御陵前駅に向かう。この駅は今日乗って来た近鉄南大阪線の駅ではなく、橿原線の駅である。橿原神宮前駅というのは、南大阪線、橿原線、吉野線と近鉄の3つの線が集まる駅で、かなり複雑な構造の駅なのである 畝傍御陵前駅は電車に乗るために来たのではなく、この下をくぐって線路の東側に出るためである。駅前から延びる一般道を東に歩く。この方向に天香久山がある。 決して交通量は多くないものの、時折双方向から車がやって来る。分離された歩道はなく、歩いていてもあまり楽しくない道である。そんな道を選んだのは、この道沿いに本薬師寺跡(もとやくしじあと)があるからである。 地図を見ても特に目印となるものはなく、見落とさないか心配しながら歩いていると、道の右側に案内板があった。この案内板がないと、絶対見落とすようなロケーションに本薬師寺跡はある。 ![]() 跡というだけあって、ほとんど何も残っておらず、金堂や塔の心柱の礎石があるのみである。おまけに、このスペースにはお堂のほかに一般の家も建っており、家の庭と本薬師寺跡とに境界線がないため、いったいどこまで入って行ってよいのやら悩む。 垣根の向こうは広大な畑地で、その中にも同じような礎石がある。畑地の方は農道を歩いて礎石を見に行けるが、何とものどかな光景で、こういう道をずっと歩きたいなと思わせる場所である。冒頭に掲げた写真は、こうした畑の中の礎石の一つを撮ったものである。 本薬師寺は、天武天皇(てんむてんのう)が皇后の病気平癒を祈願して建立した寺院である。 天武天皇は、即位前は大海人皇子(おおあまのおうじ)といい、朝廷で権勢を振るっていた蘇我氏を滅ぼし大化の改新を断行して天皇となった天智天皇の弟に当たる。天智天皇は当初、弟の大海人皇子を後継の天皇に据えるつもりだったようだが、やがて自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を次期天皇にしようと心変わりする。大海人皇子はこれを受け入れ、自ら出家し吉野へ移る。ところが、天智天皇が崩御すると、出家した大海人皇子が大友皇子に反旗を翻し挙兵する。いわゆる壬申の乱(じんしんのらん)であり、この大規模な内戦により大海人皇子が勝利し、皇位を手に入れ即位する。 一方、天武天皇の皇后は鸕野讚良(うののさらら)というのだが、実は兄の天智天皇の娘である。つまり鸕野讚良は叔父に嫁いだことになる。当時の皇族男子は複数の妻を持つことが珍しくなく大海人皇子もそうだったのだが、鸕野讚良は壬申の乱の際も夫と苦楽を共にし、夫婦の絆は深かったと言われている。天皇即位後、天武天皇は大臣を置かず、皇后となった鸕野讚良に政治の相談をしたほどである。 そんな中で皇后が病に倒れる。天武天皇が皇后の病気平癒のため建立を思い立ったのが、薬師如来を本尊とする薬師寺である。 しかし運命は皮肉なものである。寺院建造中に今度は天武天皇が病になる。そして快復かなわず、天皇は亡くなってしまう。薬師寺建造事業は皇后が受け継ぐことになるが、皇位継承を巡ってまたもや問題が起こる。 天皇と皇后の間に生まれた子は草壁皇子(くさかべのおうじ)といったが、皇后の姉だった大田皇女(おおたのひめみこ)と天武天皇との間にも、大津皇子(おおつのみこ)という子供がいた。大津皇子は、若い頃から器量・人望とも草壁皇子より上回っていたが、皇太子についたのは草壁皇子であった。皇后の実子だったという関係がものをいったのだろう。ちなみに、大津皇子の母である大田皇女は、天武天皇が即位する前に他界している。 やがて天武天皇が病で崩御すると、天智天皇の皇子だった川島皇子(かわしまのみこ)が、大津皇子に謀反の疑いありと朝廷に密告する。直ちに大津皇子は捕らえられ、自害させられた。そしてその3年後には、今度は草壁皇子が早世してしまう。皇后は草壁皇子の子である軽皇子(かるのみこ)を皇位につけたいと願うが、幼すぎて無理である。どうしようもなくなって、自らが即位することになる。持統天皇(じとうてんのう)の誕生である。 結局薬師寺が完成するのは持統天皇時代だが、その後、平城京遷都に当たり薬師寺は西ノ京に移ることになる。これが現在一般に薬師寺と言われている寺で、この場所にあった元の薬師寺は本薬師寺と呼ばれるようになる。 ただ、西ノ京に移ったといっても、本薬師寺が根こそぎなくなったわけではなく、寺院としてはその後も存続したと案内板に解説があった。ただ、寺勢は次第に衰え、いつとも知れずになくなってしまったようだ。 さて、本薬師寺跡をあとにして、また同じ道を歩く。やがて川に差し掛かり橋を渡る。飛鳥川である。川を渡ると明日香村になるらしい。渡ったところを右に折れて、川沿いを南に歩く。 今度は紀寺跡(きでらあと)に立ち寄ろうと考えているのだが、これがなかなか分かりにくい。目印になるものが道端にほとんどないのである。手元の地図でも目印に困ったらしく、竹やぶとかロードミラーを挙げているが、そんなもの、この辺りに幾つもある。道路の様子などから推測して、ここかなと曲がったところを暫く行くと、遠くにテニスコートが見えて来た。目的の場所は、どうやらその先らしい。 ![]() 上の写真では単なる野原にしか見えないが、紀寺と呼ばれる大寺院跡である。今では案内板がある以外には何もないので、普通は通り過ぎてしまうような野原だが、今回の経路を計画するに当たって参考にさせてもらったガイドブックに、紀寺跡があるという記述があったので立ち寄ってみた。 紀寺は謎の多い寺であるが、過去に発掘調査が行われている。回廊の中に金堂、講堂を擁し、中門のほか南大門も備えた大きな寺で、240m四方の敷地があったという程度のことは判明しているが、さて、誰が何のために建てたのかは定かでない。明治の初め頃には、僅かに礎石の一部が残っていたようだが、今では何もない。 上にも述べた天武天皇の時代にこの寺があったことは、朝廷が編纂した「続日本紀」(しょくにほんぎ)にも記述が残っているようだが、誰が建てその後どうなったのかは記されていない。一説によると、平城京に遷都するのに合わせて移され、その後身が現在奈良市内にある璉城寺(れんじょうじ)だという見方もあるようだ。璉城寺の住所は奈良市西紀寺町であり、その地名に紀寺が使われている。仮にそうだとすると、璉城寺が古代豪族紀(き)氏の庇護を受けていたことからして、紀氏一族が紀寺建立に関わっているということだろう。ただ、紀氏はそれほど強力な政治力を持っていたわけではなく、我々が知っている一族の有名人は、古今和歌集の選者である紀貫之(きのつらゆき)くらいのものではなかろうか。 案内板には、紀氏一族の氏寺だという説のほかに、先ほど見た本薬師寺と同じような官寺のひとつだったのではないかという説も紹介している。 奈良を巡る散歩で面白いのは、こうした断片的な記録しか残っていない遺構を見て、あれこれと想像をたくましくしてみることである。詳細な記録が残っているものは、素人のつけ入る隙がなく、学者が全て整理してしまっている。一方、謎の多い遺構は、記録のない部分を推測で補うしかないから、我々にも参加の余地がある。古代ロマンの魅力の一端は、こんなところにもあるのではなかろうか。 この場所からは天香久山がよく見える。ここに来るまでの間、天香久山が多少見え隠れする場所があったが、全景がある程度見える場所は意外にない。先ほど登った畝傍山から耳成山はよく見えるのだが、天香久山は木々が邪魔して全景は見えなかった。 ![]() さて、いよいよ天香久山登山だが、これまた道が分かりにくい。山の裾野まで近づくと、またもや目印になるものがないのだ。地図に従って、麓の集落の中に分け入る。自動車が通るのは到底無理と思える細い路地裏のような道をくねくね曲がる。もはや目印は、柿の木ありとか、集落の案内板ありとか、そういうレベルである。 途中で道の脇に登山口を示す小さな案内板があったが、これが地図にあるのと違う方向を指している。暫し迷うが、地図を信じて歩く。やがて、この先はどう見ても人の家の庭だろうというようなところに来たが、その脇から人ひとりがかろうじて通れるような細い登り道が林の中に続いている。ただ、この入り口、本当に先に行って大丈夫かと思うような感じである。しかし、ここまで来たら仕方ない。地図を信じてそのまま上がる。 細い道を暫く行くと、開けた場所に出て、脇から登り口が山の上に続いている。どうも地図は正しかったようだが、おそらく先ほどの案内板の通りに行っても、別のルートから山には登れたのではないかと思う。 今回の登山道は畝傍山のものと違って、あまり整備されていない。所々崩れた土の階段が続くが、中央部がぬかるんでいて歩きにくい。しかも急な山道で、階段をひたすら登る強行軍である。 これは結構きついなと思っていると、わっと薮蚊の大群が襲って来る。すごい数の薮蚊に取り囲まれ、途中で休もうとすると目の前に何匹も寄って来てプーンという羽音が絶えず聞こえる。追い払っても逃げないので、歩き続けるしかないが、薮蚊は執拗に追って来て、そのまま山頂まで同行する羽目になった。よほどエサに飢えているのだろう。確かに誰にも会わないし、そもそも登山道に溜まった落ち葉の厚さからして、最近人が登った形跡すらない。 こんな調子で薮蚊に追い立てられ、しかも登りが一本調子の階段だったから、あっという間に山頂に着いた。山頂は眺望がきかないとガイドブックにあったが、木々の間から展望できる箇所はある。しかし、ここでゆっくり景色を眺めようとすると再び薮蚊にたかられる。畝傍山ではこんなことはなかったのにと、早々に山頂を退散する羽目になった。 天香久山は、標高152mで、大和三山の中では畝傍山に次いで高い山ということになる。この山は何といっても名前がいい。一度聞くとなかなか忘れられない名前だ。その名の通り、古代から神聖視されていたと伝えられるが、一説によると、この山は天から降って来たことになっているらしい。何と自由奔放な発想なのだろう。古代の人の想像力には、毎度のことながら感心させられる。 畝傍山の山頂にはかつて畝火山口神社があったという話をしたが、天香久山の山頂にも鄙びた小さな神社がある。こちらはどかされることなく、ずっとそのまま存在しているということだろう。名前を国常立神社(くにとこたちじんじゃ)といい、龍神を祀っているようだ。傍らの案内板によれば、干天が続いた時にはここで雨乞いの儀式が行われたと書かれている。 さて、下山に当たっては地図に従って、来たのと反対側に降りる。下山する道も一本調子のきつい坂道で、これを登って来るのはしんどいだろうと思う。山頂まで付いて来た薮蚊の大群と一緒に、負われるようにして下山する。やがて降りたところはひなびた神社の境内である。天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)という小さな神社で、境内に歌碑が幾つかある。 天香久山は大和三山の中にあって、最も歌の題材にされている山だ。歌碑の中には、天香久山と聞けば誰でも知っている和歌もあった。 春過ぎて夏来たるらし 白たへの衣干したり 天の香具山 万葉集に収録されている持統天皇の歌である。この日は初夏を思わせる気温の高い日で、晴れ渡った青空を見上げると、まさにピッタリの歌だなと思った。そして、昔から知っているこの和歌に、歌の舞台となった天香久山で改めて出会うというのも何とも感慨深いものである。 これで、本日登る予定だった二つの山は無事にこなしたことになる。さすがにもう一つの耳成山に登ろうというのは無謀だったんだと実感する。あとは近鉄の駅まで戻るわけだが、帰り道に今度は藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)を訪れることにする。大和三山と密接に関わる、本日の隠れたもう一つのテーマである。 天香山神社を出て北に道を取る。この辺りは完全な農業地帯で、山裾に集落が点在しているのどかなエリアである。水面に藻が繁殖した大きな池を回りこむように歩いていると、池のどこかから複数のウシガエルが鳴く声が聞こえる。後ろからエンジンの音が聞こえて来たので、車かと思って振り返ったら耕運機だった。 そんな場所ゆえ、またもや目印となるものがない。細い道が幾つも枝分かれしているが、どこで曲がるのだろうかと迷う。ポイントは村の案内板と傍らの消火器というのだから、何とも心もとない。やがてそれらしき場所があり、不安ながらも曲がる。その先も、何度か集落内をくねくねと折れながら進む。どうやら一本道で抜けている道がないのでこういう複雑な経路をたどるようだ。 やがて集落を抜けたところで、いきなり広大な空間が目の前に広がる。この辺りが藤原宮跡らしい。暫く進むと、案内板のある小さな広場に出る。木のベンチが幾つかあり周囲を眺められるようになっているが、誰も人はいない。 ![]() ここは藤原京(ふじわらきょう)の中心施設である藤原宮のあった場所とされており、発掘調査の結果判明した主要な建物の場所には、目印として赤い支柱が建てられている。藤原京自体はもっと広大で、大和三山を全て飲み込むところまで敷地は広がっていたようだ。 赤い支柱がそこここに見えるが、それにしても広い。そして、この場所に立つと、初めて平地から大和三山の全貌がきれいに見える。藤原京と大和三山は、切っても切り離せない関係にあるのだろう。 藤原京は、上に出て来た持統天皇が築いた都で、平城京に移るまでの16年間しか使われなかったが、それまでと違って、唐の長安を手本に造られた本格的な首都だったことが特徴として挙げられる。従来は、新しい天皇が即位するたびに政治の中心である宮殿を建設して来たが、藤原京は、何代にも渡って天皇が定住する首都そのものを造ってしまおうという発想で造営された巨大都市である。 都市全体の構成は、南北に朱雀大路を通し、それを中心に碁盤の目状に大路を配する条坊制(じょうぼうせい)を初めて取り入れ、政治や国家的儀式の中心となる藤原宮には、大極殿、朝堂院、内裏などの建物を集中させた。我々が古代の都として想像するような姿を兼ね備えた最初の都市が藤原京だったのである。 持統天皇が造った都ではあるが、そのプランを練ったのは、夫の天武天皇だと言われている。だが、上に記したように天武天皇は志半ばにして病に倒れ帰らぬ人となる。夫のプランを引き継ぎ持統天皇が新都の建設を始め遷都した。この図式は、先ほど訪れた本薬師寺の完成までとよく似ているのだが、実は他にも天武天皇が企画立案し持統天皇が受け継いで完成させたものがたくさんあるようで、二人まとめてこの時代のことを天武・持統朝なんて呼ぶこともある。 藤原京の建設が始まったのが西暦690年で、それまでいた飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)から藤原宮に遷都したのが694年ということになっているが、藤原京という都市そのものの建設はその後も続いたようだ。しかし、遷都から16年後の710年に都は平城京に移ることになる。永続的な首都を目指して建設された藤原京の命は、意外に短かったわけである。それでも、持統・文武・元明の三代の天皇が藤原京で政治を行った。複数代の天皇が同じ宮殿で政治を行うということはそれまでなかったことなので、これだけでも画期的なことだったのかもしれない。 ちなみに、藤原京から平城京への遷都は文武天皇(もんむてんのう)時代に検討が始まり、次の元明天皇(げんめいてんのう)の時に実施された。文武天皇は、先ほど出て来た草壁皇子の長男である軽皇子であり、持統天皇の孫に当たる。また、元明天皇は草壁皇子の妃である。唐に倣って永続的な首都を造るという天武天皇の夢は、一旦妻により実現したが、孫により変更が計画され、義理の娘によってついえ去ったというわけである。平城京の計画が始まった時点で既に亡くなっていた持統天皇は、草葉の陰でどう思ったんだろうか。 この広大な野原には、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモスの季節は素晴らしい眺めだと聞く。天武天皇と持統天皇が夢見た永遠の都への手向けの花ということだろうか。天武天皇と持統天皇は夫婦一緒に一つの陵に埋葬されている。以前飛鳥に行った際、この天武・持統天皇陵を訪れたことがあった。しかし、この夫婦の魂は、静かに大和三山が見守っている夢の都の跡をさまよっているような気がするのである。 さて、最後に残った山が耳成山である。この辺りからきれいに見える。 ![]() 耳成山は標高139mで、大和三山の中で一番低いが、そうはいっても、天香久山との差は僅かである。前回、前々回と奈良散歩に出かける折に近鉄大阪線を使ったが、耳成山はこの線の車窓からもきれいに見える。非常に均整の取れた美しい形をしており、周囲は平野なのに、この山だけがポツンとある光景はなかなか印象的である。 平地に均整の取れた山が一つだけあることから、古墳ではないかという説もあるらしい。ただ、誰も発掘作業などはしていない。あまりに大き過ぎてどこから手を付けていいのか分からないのだろう。古墳かどうかはさておき、畝傍山のところでも述べたように、古代豪族の信仰の地ではあったのだろう。 耳成山にも他の山同様、神社があると聞く。耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)といって、山の中腹にあるらしい。畝傍山にある神社も同じく山口神社だったが、山口と名前が付く神社は山の口、すなわち入り口あるという意味で名前が付けられているようだ。耳成山口神社も創建の経緯は不明で、遠い昔からある神社なのだろう。当初は神社という形すらなく、単なる信仰の対象として耳成山だけが存在していた状態だったのかもしれない。 さて、本日の散歩も最終盤ということで、藤原宮跡の広大な敷地を縫うように整備されている遊歩道をゆっくり歩く。野鳥が飛ぶほかは、周囲に動くものとてない。とても静かで、時折吹く風が心地良い。駅の方向は南西だから、まずは西方向に進み、やがて自動車道に出ると、藤原宮跡と背景の天香久山を左手に見ながら南に向かう。 駅に行く前に、最後に神武天皇陵(じんむてんのうりょう)を見ようと思い、天皇陵につながる幹線道路まで来るとそこを折れて西に進む。暫く行くと、先ほど渡った飛鳥川を渡り、線路沿いの国道との交差点まで来る。この交差点を渡ったところに、神武御陵の名を刻んだ古めかしい石柱があった。この先は参道という扱いなのだろうか。 近鉄橿原線の踏切を渡ると、前方に鬱蒼とした森が見えて来る。森までたどり着くと、少し南に神武天皇陵への入り口がある。橿原神宮造営の折に一体で整備されたのだと思うが、幅の広い立派な参道が森の中を続く。とてもおごそかな空間であり、今まで見た天皇陵のどれよりも権威を感じる設えである。 ゆったりと曲がった参道の先に、威厳に満ちた御陵が見えて来る。間口の広さも、これまで見たどの天皇陵よりも広く、立派なものである。 ![]() 陵自体は円丘に堀を巡らした形で、宮内庁では畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と命名している。ただ、その全景はここからでは見えない。神武天皇が亡くなったのは、畝傍橿原宮で即位してから76年後のことで、享年は127歳だとされている。 神武天皇が本当にいたのかは定かでなく、畝傍橿原宮も神武天皇陵も古事記や日本書紀の記述を前提に推定されているに過ぎない。ただ、九州からやって来た新興勢力と、奈良土着の支配集団との間で軍事衝突があり、新興勢力が勝って新しい支配体制を確立したという動乱の歴史はあったのではないか。おそらく古事記や日本書紀の記述は、それを神武天皇という一人の人物に託して、擬人化して語っているのであろう。 神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命は、以前山の辺の道を訪れた際に立ち寄った日本最古の神社、大神神社(おおみわじんじゃ)に祀られている大物主(おおものぬし)の娘だとされている。神武東征の時点で既に存在していたとされる大神神社は、土着豪族の信仰の対象である。神武天皇がその祭神の娘と結婚したという記述は、新勢力と旧支配層との間で何らかの和睦が行われ、新しい支配体制が確立したということを物語っているのではないか。 さてそうなると、この古墳はいったい誰のものかという謎が残る。神武天皇のモデルとなった人のものか、それとも関係のない誰かのものか。宮内庁管理である以上、発掘するわけにはいかず、永遠の謎であろう。 これで本日のプログラムは全て終わりということで、このまま南に下がって駅を目指す。神武天皇陵は最初に訪れた橿原神宮の北にあるが、畝傍山の麓につながって存在しており、森という意味では同じ敷地にある。神武天皇陵を出た後は、森の中の散策道を歩いた。巨木があちこちにそびえる美しい道で、傾き出した日の光が枝の間から差し込んで、幻想的な光景である。 広い敷地なので暫し時間はかかったものの、最初に来た橿原神宮の入り口までたどり着き、そこから駅まで静かな一般道を歩く。この日の歩数は2万4千歩弱。山登りの分があるから、平地を歩くよりカロリーを消費したと思う。 大和三山と天武・持統天皇が夢見た永遠の都のことを思いながら、大阪行きの急行に乗った。 |
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