パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第14話:談山神社





 次に奈良に出掛けたのは、室生寺(むろうじ)に行った翌週のことである。再度、山登りをしようかと考え、吉野山はまだまだ混んでいるだろうからと、多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)を目指すこととした。

 談山神社も最寄の駅からは遠い。バスで30分弱だから、日帰りで歩いて行ける距離ではない。バスは近鉄大阪線の桜井駅から出ているが、室生寺に行った時同様、バス停の時刻表はスカスカである。のんびり出掛けるずぼらな散歩者としては、桜井駅10時50分発は早いのでパスするとして、その後は12時50分発までないし、それを逃すと次は14時発になってしまう。こうなると、12時50分発の一択となる。

 それに間に合うようにJR環状線経由で鶴橋駅まで行き、近鉄大阪線の急行に乗り換えた。鶴橋駅から桜井駅まではちょうど1時間である。前回の室生口大野駅の4つ手前で、以前天理市から南にたどった山の辺の道の終点の駅である。

 駅を降りてバス停に向かう。出発までに30分弱ある。乗り口で待っていると、出発の10分前くらいになっておばあさんがやって来て、私の前に並ぶ。そうこうしているうちに、その連れらしきもう一人のおばあさんがやって来て、私の前に割り込んだおばあさんと話し始め、これまたちゃっかり割り込む。バスがそろそろ来ようかという時間になると10人以上が並んだが、そこへ40歳台とおぼしき夫婦連れが登場し、旦那の方が「どうせ座れるから」と奥さんに言いながら、おばあさんよりも更に前に割り込んだ。そりゃ先頭に割り込めば座れるわなぁと思いながら、私はのんびりと構えた。

 こんなことを書くと東京の人は、どいつもこいつもとんでもなく行儀の悪い連中だと思われるかもしれないが、私が大阪にやって来てからは日常茶飯事の出来事である。電車に乗る際、多くの人が並んで待っていても、ホームに電車が入って来ると、脇から先頭に割り込む人が結構いる。あるいは、電車が来てドアが開くと総崩れ状態でドッと入り口に殺到することもある。私が子供の頃に大阪の親戚に遊びに来ていた頃の記憶だと、ドア付近に固まって待っているだけで、並んですらいなかった。

 まぁいいじゃないか、それくらい、という鷹揚な心持ちでいないと、関西ではストレスが溜まる。これは電車やバスだけでなく、車を運転する時も同じである。右折レーンに入って来た車が、信号が青に変わった途端に左折の指示器出して前に割り込むなんてこともある。ぶつかりそうにならなければ、後ろの車はたいていクラクションを鳴らさない。みんなお互い様だから、目くじらを立てない。そんな関西のいい加減さというか大らかさというか、私はそれ程嫌いではない。

 さて、バスがやって来て乗り込もうとすると、後ろにいたおばあさんが私を手で押しのけて先に乗り込もうとする。慣れっこになっているので、どうぞどうぞと譲る。自分の前にいくら割り込まれようが、乗る人自体が少ないので、どこでも良ければ座れるのである。ではいったいこの人たちは何故焦って先に乗り込もうとするのかだが、自分の好みの席に座りたいということなのだろうか。

 それにしてもおばあさんが多いなぁと思ったが、要するにこの路線を利用する人の多くが、近隣で生活している人なのである。バスが走り出して暫くするうちに、次々と下りていって、市街地を離れる頃には車内はスカスカになった。

 奈良のバスは生活路線が多く、関西エリア以外からの観光客を意識していない。運賃支払いにしてからがそうである。

 奈良のバスでは運賃を現金で支払うかカードで支払うかだが、この当時、カードは関西エリア発行のカードにしか対応していなかった。使えるのはCI-CA、PiTaPa、ICOCAの3種類だけで、外人観光客や関西以外からの観光客が持っているSuica、PASUMOなど他の地域発行の乗車カードは使えない状態だった。室生寺に行った時もSuicaで乗ろうとして運転手から注意を受けている観光客がいたが、古都奈良は京都と並ぶ国際観光都市だと思っている人が多いから、他地域のカードに対応していないと知ってビックリしたに違いない。

 また、現金支払いの場合もお釣りが出ない。従って、車内で両替してからきっちり指定額を運賃箱に入れる必要がある。外人さんがバスを利用した場合、車内の両替機からジャラジャラ出て来た日本の小銭を正確に識別して指定額を選り分けられるのだろうか。おまけに運転手は英語が出来ないし、車内に英語の説明は一切ない。

 本当に観光客に来てほしいと考えているのかなぁといぶかっていたら、私が関西に住んでいる間に全国の交通系カードに対応することになったというアナウンスが、運営元の奈良交通よりあった。従って、今では東京からSuicaやPASUMOを持って行っても大丈夫なはずである。しかし、京都の市バスのように、片言であっても運転手さんが英語で対応できるようになったかについては不明である(笑)。

 さて、バスは市街地を離れると山道に入り、狭い道を対向車とすれ違いながら進む。これだと、歩いて山に上がるのはかなり危険だ。カーブも多く見通しが悪い。そのわりに交通量はあって、道路脇を歩いていると怖いのではないか。実際、道中で歩行者は見かけなかった。まぁ桜井市から談山神社まで歩いて行こうなんて考える人はいないのだろう。

 やがてバスは、山の上にある終点の停留所に到着する。一般の自動車用も兼ねた広い駐車場があるだけで、あとは道路の向こうに遠くの山々が見えるばかり。どこにも談山神社が見当たらない。キョロキョロすると、駐車場脇に談山神社入り口の矢印がある。行ってみると長い階段が下の方に続き、降り切ったところには竹やぶがある。談山神社って山の上にあるはずなのに、下に降りて行くっていうのはどういうことだろうと思ったが、指示通りに降りる。竹やぶを曲がって更に階段を降りると駐車場が見えた。その先の道の突き当りを左右に通っているのがどうやら参道らしい。地図で見て理解したつもりになっていたが、これはなかなか分かりにくい。地図には高低差が書いていないからだ。

 談山神社入り口に行く前に寄り道をして、摩尼輪塔(まにりんとう)を見に行く。参道を戻るようにして暫く歩くと、道の脇に不思議な形状の石塔が建っている。





 上円部に彫られているのは梵字であり、傍らの解説板によれば「アーク」と読むようだ。この文字は大日如来(だいにちにょらい)を表しているらしいが、大日如来は真言密教の中心になる仏様で、どうしてここで大日如来なのかはよく分からない。

 鎌倉後期の作らしいが、他では見られない珍しいもののようだ。道の脇にポツンと建っているが、重要文化財である。

 ところで、この参道は終点の一つ手前のバス亭から始まっている。多武峰というバス停の横に屋根付きの朱塗りの橋があり、これが参道入り口らしい。橋は屋形橋という。バスはこの橋をぐるりと回るようにして道を曲がるので、車中からもじっくり見られる。橋を渡ると参道は山の中を1kmほど続き、途中に門や石塔がある。摩尼輪塔もそのうちの一つだが、わざわざ引き返して見に来る人はいないようだ。そもそも、屋形橋から参道を上って来る人がいない。駐車場もバス停も神社近くにあるのだから、最初から参道を歩きたいという人以外は通らないだろう。

 摩尼輪塔を見た後は、道を引き返して談山神社の入り口に向かう。先ほどバス停から来た道との交差点の先には土産物屋が並び、神社の参道らしくなっている。ただ、この参道はかなり狭い。道理でバス停があんな離れたところにあるわけだ。

 4月も下旬になろうかという時期だったので桜への期待はなかったが、それでも山中のせいか枝垂桜を中心に幾つか咲いている。ただ、桜よりも新緑がきれいである。近くでウグイスが鳴くのが聞こえる。晴れて気持ちの良い日和であり、何とものんびりとした雰囲気である。

 談山神社へは、赤い鳥居の正面入り口から入った。石段がずっと上の方まで続く。石段の先には拝殿が見える。毎度の如く登場する入江泰吉氏の「大和路」という写真集には、この階段と拝殿を写した作品が出て来る。おそらく新緑の季節だろう。あざやかな黄緑の若葉と拝殿の朱塗りの柱との対比が美しい。それが朝霧の中にほのかに浮かび上がる情景を写した素晴らしい写真である。やはりプロの写真家は、風景が一番引き立つ瞬間を心得ている。午後からやって来るずぼらな散歩者には、そうした決定的瞬間は味わえないのである。

 談山神社は、平安時代を代表する貴族、藤原氏の始祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祀る神社である。

 中臣鎌足については、この奈良散歩記に何度か出て来たので今さら詳しく説明する必要はなかろう。飛鳥時代に、後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と組んで、当時朝廷の実権を握っていた蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子蘇我入鹿(そがのいるか)を倒し、大化の改新(たいかのかいしん)と呼ばれる政治改革を断行した人物である。

 長い階段の途中に左に延びる道があり、そちらに向かう。上がってすぐのところに神廟拝所(しんびょうはいしょ)という建物があり、その先に「けまりの庭」という広場がある。文字通り、ここは蹴鞠をするための場所である。談山神社にとって、蹴鞠はなかなか重要な行事なのである。





 元々中臣氏は伊勢神宮の神職であり、鎌足も家業を継ぐことを求められていたが、密かに当時の政治体制を変えないといけないと決意し、同志となる皇族を探していた。鎌足がどうやって中大兄皇子と知遇を得たかだが、そこで蹴鞠が登場する。当時飛鳥にあった法興寺(ほうこうじ/今の飛鳥寺(あすかでら))で蹴鞠会(けまりえ)が催された際に中大兄皇子に会う機会があり、そこで両者の付き合いが始まったというのが、談山神社側の説明である。

 そうした経緯から、談山神社では蹴鞠を大変重要な伝統行事として扱っているようで、この「けまりの庭」で4月29日(昭和の日)と11月3日(文化の日)に「けまり祭」という行事が行われるようだ。

 さて、その中臣鎌足だが、彼が藤原という姓を名乗るのは、死の直前である。鎌足が病に臥し、病状が重いと知った天智天皇が直接見舞いに来て、新冠位制度の下で大織冠(たいしょくかん)の地位を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を贈った。鎌足が亡くなったのは、その直後である。

 鎌足は、当初摂津国の阿威山(あいやま/現在の大阪府高槻市に所在)に葬られたという。鎌足の長男は真人(まひと)という人物だが、出家して定恵(じょうえ)と名乗り、唐に渡る。次男が、有名な藤原不比等(ふじわらのふひと)で、藤原家繁栄の基礎を築いた人物である。

 その後、長男の定恵が日本に帰って来て弟の不比等と相談し、父鎌足の墓をこの多武峰に移すことを決める。そして、父の供養のために建てたのが、有名な十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)である。

 木造の十三重塔としては現在世界で唯一と言われているが、唐にあった宝池院の十三層の塔を手本に造られたようだ。定恵の留学の成果だろう。ちなみに、これと同じものを石で造った供養塔なら、全国にたくさん残っている。木造の巨大な十三重塔というところが、談山神社の売りなのである。





 十三重塔は十三層の屋根のうち、一番下だけが大きく作ってあり、その上の十二層は同じ大きさである。これが、十三も屋根が付いているのに見た目に安定感がある秘密であり、同時に塔全体が美しく整っている印象を与えるポイントである。建築の妙を感じさせる秀逸な構成だと感心する。

 談山神社は藤原氏の始祖の神社だから、その権力に物を言わせて一気に豪華な社殿が出来たのかと思いきや、この塔からスタートというのが何とも面白い。そうなったのには、当時の中臣一族が微妙な政治的立ち位置にあったためではないかと思う。

 鎌足は上に述べたように中大兄皇子の盟友であり、即位後の天智天皇の側近中の側近だった。だが、鎌足死後の中臣一族を率いたのは、鎌足の子供たちではなく、鎌足の従兄弟であった中臣金(なかとみのかね)という人物である。そして、天智天皇は当初、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を後継の天皇に据えるつもりだったようだが、やがて自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を次期天皇にしようと心変わりする。大海人皇子はこれを受け入れて、自ら出家し吉野へ移る。中臣金は、次期天皇候補となった大友皇子に忠誠を誓い、そのまま朝廷の重臣として政権に残ろうとする。

 しかしここで大波乱が起こる。天智天皇が崩御すると、出家した大海人皇子が大友皇子に反旗を翻し挙兵する。いわゆる壬申の乱(じんしんのらん)であり、この大規模な内戦により大海人皇子が勝利し、皇位を手に入れた。大友皇子は自害に追い込まれ、中臣金は捕らえられ処刑された。その子孫も流罪となり、中臣一族は一旦政権中枢から姿を消すのである。

 壬申の乱を征した大海人皇子はやがて即位して天武天皇となるが、定恵と不比等が相談して父鎌足の墓をこの地に移すのは、そんな時代のことである。最初は十三重塔だけだったが、その後講堂を立て、妙楽寺(みょうらくじ)と名付ける。つまり、談山神社は最初神社ではなくお寺だったのである。最初に談山神社に入った際、石段の途中から左に折れてけまりの庭に出るところで神廟拝所という建物の脇を通ったと書いたが、この神廟拝所が妙楽時の講堂と伝えられている。

 その後、鎌足の木像を安置する神殿が建ち、これが神社の原型ということになる。神仏習合の世の中なので、寺も神社も明確には区分しなくて良かったのだろう。神殿には聖霊院、大織冠社、多武峰社などの別名があったようで、現在は本殿となっている。





 上の写真が本殿だが、これは外からは見えないように建てられている。談山神社に入った時に正面から続いていた石段の先に拝殿があるのだが、横にある楼門から靴を脱いで拝殿に上がり、そこから拝む形で本殿を見ることになる。拝殿内は三脚さえ立てなければ写真撮影は可能という鷹揚な対応になっている。これは、まさに拝殿の中央部分の拝所から撮った写真である。

 拝殿は広い畳敷きの間で、天井は伽羅(きゃら)の香木で作られていると聞く。別名を千畳敷伽羅の間と言うそうだが、残念ながら良い香りはしない。もう伽羅の効力は薄れているのだろう。外の回廊にも出られて、周囲の山々の眺望を楽しめる。回廊には吊灯籠が並んでおり、これがなかなか美しい。

 本殿は彫刻が施されたうえ極彩色に塗られており、かなり豪華な造りである。日光東照宮を造営する際の手本になったとも伝えられている。ただ、この本殿も、上に述べた十三重塔も、創建当時のものではない。前回訪ねた女人高野の室生寺は山奥にあり戦火とは無縁のお寺だったが、同じ山奥にありながら、この談山神社は何度も戦乱の地となっている。しかも、最初の戦乱の原因は、興福寺との仲違いによる、お寺同士の宗教戦争なのである。

 元々そうなってしまった原因は、この談山神社から飛鳥方向に1kmほど行ったところにお墓がある増賀(そうが)という僧侶に原因があると言われている。

 藤原不比等が苦労しながら朝廷でのし上がり、やがて藤原氏の全盛期がやって来る。当時妙楽寺を名乗っていた談山神社は藤原氏の始祖中臣鎌足を祀っているが、一方で藤原不比等は、藤原氏の氏寺として奈良の平城京に興福寺を建てた。元は中臣鎌足の夫人である鏡女王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願って建てた山階寺(やましなでら)なので、妙楽寺同様、中臣鎌足に縁のある由緒正しきお寺である。

 藤原氏の隆盛と共に興福寺は勢力を拡大し、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と並んで南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれ恐れられるようになる。全盛期の興福寺からしてみれば、奈良盆地周辺の寺は全て配下とすら思っていたのではなかろうか。

 ところが、同じ中臣鎌足ゆかりの寺院である妙楽寺が平安時代中期に招いた増賀は、比叡山で修行した天台宗の僧侶なのである。おまけに増賀は数々の奇行や非礼な振る舞いで知られ、「天才と狂気は紙一重」みたいな人物として都でも有名であった。興福寺としては、中臣鎌足ゆかりの寺院にそんな僧侶を招き入れるなど、面白かろうはずがない。この辺りから紛争の火種が仕込まれたのだと思うが、やがて貴族政治が終わりを告げ武家の時代になると、地元の武家勢力を巻き込んで両寺間で領地争いが繰り広げられ、妙楽寺は戦火に遭って何度か焼失している。談山神社のシンボルである十三重塔も、こうした戦火の中で創建当時のものは失われてしまったのである。

 さて、江戸時代に再び平和を取り戻した妙楽寺だが、明治の世になり神仏分離令が出されると、妙楽寺は廃寺となり談山神社となって再出発することになった。幸いなことに、施設をそのまま引き継いで神社になったため、貴重な建物群は取り壊されずに残ったのである。仮に妙楽寺が純粋なお寺であったら、廃仏毀釈の嵐の中で、十三重塔もろとも打ち壊しになっていたのかもしれない。

 十三重塔、本殿と談山神社の中心的な建物を見たところで、いよいよこれから山に登る。冒頭に山登りがテーマと書きながら、バスで山の上にある神社に行っただけじゃないかといぶかっていた方々もおられようが、そういうわけではなく、ちゃんと山登りをするのである。行く先は談山(かたらいやま)である。登山道は談山神社境内から始まっており、境内の案内図にも登山口と表示がある。

 多武峰というのは地名であり、談山神社の住所は「桜井市多武峰319」である。ただ、昔ながらの呼び方で多武峰というときには、この辺り一帯の山を指すものらしい。その中で談山神社がある山の名前が談山というわけである。

 山の名前自体何ともロマンチックだが、誰が何を語らったかというと、蹴鞠で知り合った中臣鎌足と中大兄皇子が、蘇我氏排除とその後の政治の在り方について密かに話し合ったのである。つまり、当時政治の実権を握っていた蘇我蝦夷・入鹿親子を倒し、後に大化の改新と呼ばれる政治改革を実現することについて、二人で謀議を図った場所がこの山の中ということになる。神社の縁起では、二人は山中の藤の花の下で話をしたことになっている。

 登山道は土の道だが、神社が管理をしているのできちんと整備されていて歩きやすい。下流で大和川に合流する渓流があり、最初はその渓流沿いを進む。この渓流が小さな滝となって談山神社境内に流れ込む場所があるが、この辺りを龍ヶ谷といい、パワースポットらしい。古神道の霊地で磐座(いわくら)があり、小さいが社も置かれている。

 登山道は、最初はゆっくり登り、渓流から離れた辺りから長い階段が続く登り道となる。ここは一気に登るとしんどい。やがて、登り切った突き当りで道は左右に分かれ、右に行けば30mほどで談山山頂に着く。標高は566mだが、談山神社自体が山の中腹にあるので、標高通りの本格的登山ではない。





 山頂は狭く「御相談所」と彫られた石碑が建つだけである。周囲は森に囲まれ「談所の森(だんじょのもり)」と呼ばれていると、傍らの案内板に解説がある。周りを見ても藤の花が咲くような場所はなく、藤原氏に掛けた作り話なのかなと思う。

 展望は望めず、長居をするような場所でもないので、来た道を戻る。先ほどの分かれ道のところまで戻り、今度は左の道を進む。目指すはこの先にあるもう一つの山、御破裂山(ごはれつざん)である。

 談山と御破裂山は尾根続きにあり、先ほどの分かれ道から250m行くと御破裂山山頂に着く。御破裂山の方が談山より高く、標高618mである。木々に囲まれた尾根伝いの道を歩く。ここはなかなか気持ちがいい。眺望は利かないが、森林浴を楽しめるコースである。登ったり降りたりがあるが、さっきの分岐点までの急な登り道に比べると、たいしたことはない。

 談山神社への訪問者は多かろうが、ほとんどの人は談山や御破裂山には登らない。既に談山神社本殿に登るだけで疲れてしまうのだろう。更に山道を登る気力のある人は少ないし、土の山道なので革靴やハイヒールでは具合が悪い。お蔭で、山道はひっそりとしている。私が山中で会ったのも、2組の登山客だけである。

 山道をたどると、やがて開けた場所に出て、その先に石の柵と階段、その上に素朴な鳥居が見える。ここが御破裂山山頂であり、鳥居の向こうは中臣鎌足の墓である。墓といっても、鳥居の向こうにこんもりとした山頂部分があるだけで、ここに中臣鎌足の遺骸が本当に埋葬されているのかは定かではない。石室があるわけでもなく、誰も確かめた者はいないはずである。





 御破裂山の名前の由来は、この山頂の案内板に記されている。「国家に不祥事があった際にこの山が鳴動した」というのが理由らしい。破裂などと言うと、火山のように噴火でも起きたのかと思うが、実際には地震のようなものか、地割れにようなものかがあったということだろう。一方、談山神社のパンフレットには、御破裂山が鳴動して談山神社の中臣鎌足の神像に亀裂が走ると書かれている。果たして、破裂するのは山なのか神像なのか、どうもよく分からない。

 分からないと言えば、この御破裂山の山頂に中臣鎌足の遺骸を埋葬したのだとすれば、その供養のために立てた卒塔婆代わりの十三重塔が、どうしてあんなに遠くにあるのかという点である。どうせ同じ山の中なのだから、この近くに十三重塔を建てれば良かったのではないか。

 さて御破裂山にも登ったしと、ここで引き返して下山するのは勿体無い。実は、この墓所の裏側からの眺望が良いのである。ほとんど人も来ない山中の名所をよく知っているなぁと感心されるかもしれないが、ここは有名なスポットらしい。私も、身近な知り合いの方から、この墓所の裏側へ何度も景色を楽しむために行ったという話を聞いた。

 墓所の裾野を回りこむようにして土の道が左右に延びているが、左側から進むと裏側に行ける。ここからは大和三山(やまとさんざん)をはじめ、奈良盆地が一望できる。





 上の写真は、斜め北西方向を見たものだが、一番手前の山が天香久山(あまのかぐやま)、少し上の左から出ている山が畝傍山(うねびやま)、そして遠方に薄っすら見えているのが前々回当麻(たいま)に行った際に見た二上山(にじょうざん、ふたかみやま)である。右を見れば大和三山のもう一つ、耳成山(みみなしやま)も見える。山登りと言えば、この大和三山には全く行ったことがないなぁと改めて思った。山登りついでに挑戦してみるのもいいかもしれない。

 ここからの眺望を楽しんでいて気付くのは、位置関係からするとこの多武峰のすぐ西は飛鳥だということである。桜井市のバス停から30分弱もバスに揺られて来たので、随分と山奥深く来たかのように思うのだが、実は談山神社から西向きに山を下れば飛鳥に出る。その距離4kmで、今でもハイキングコースとして案内板が出ている。

 蘇我氏排除とその後の政治の在り方について話し合うのに人目が気になるのは分かるとしても、どうして貴人である中大兄皇子と中臣鎌足が凄い山奥まで来なければならなかったのかと一瞬疑問に思うのだが、飛鳥から見ればそんなに凄い山奥ではないことになる。飛鳥に降りるハイキングコースの途中に万葉展望台という眺望の利く場所があるそうで、そこからは飛鳥の里はもちろん、遠く金剛・葛城山系や二上山まで見えると言う。昔の人たちもその辺りまでは上がって来ていたのではないか。内密の相談だからとそこから更に奥に分け入ったと考えれば、あながち遠い場所ではない。

 この日は黄砂の影響か、遠方が霞んで見える生憎の天候だったが、春なので仕方ない。それでも、奈良盆地が見渡せて絶景かなという感じである。談山神社まで来ながら、この眺望を見ずに帰るのは勿体無いなぁと思いながら、暫し春霞の奈良盆地を眺め、あれはどの辺りかと傍らの案内図と見比べた。

 御破裂山からの下り道は楽なもので、休憩なしで一気に下山する。あとは、まだ見ていない本殿の東側のエリアを見に行くことにした。

 鳥居から本殿まで上がる長い石段の途中で、最初は左に曲がって神廟拝所からけまりの庭とたどったのだが、今度は石段を右にそれると、ゆるい坂道が長く延びている。この坂道は、入り口でもらったパンフレットによれば「恋の道」という、何ともロマンチックな名前が付いている。およそ中臣鎌足とは縁のなさそうな命名だが、これは坂道を上がったところにある東殿とその脇にある磐座が縁結びで有名なために付けられた名前である。





 パンフレットによれば、東殿は別名、恋神社というらしく、写真で分かる通り、満艦飾のように幟が立っている。若い女性に来てもらおうという魂胆が見え見えである。

 この東殿に祀られているのは、中臣鎌足の夫人である鏡女王、長男である定恵と次男の藤原不比等の三人である。このうち恋神社の主人公は鏡女王ということになる。東殿の壇上にはその鏡女王の木彫りの彫像が置いてある。

 中臣鎌足の盟友だった中大兄皇子は即位して天智天皇となるが、その後継争いで大海人皇子と大友皇子が争う壬申の乱が起こったことは上に書いた。勝者となった大海人皇子は即位して天武天皇となるが、天武天皇には妻の持統天皇以外に、有名な女性がもう一人いた。絶世の美女とうたわれ才媛としても名高い額田王(ぬかたのおおきみ)である。そして、鏡女王というのは、この額田王の姉だと言われている。

 額田王は恋の歌を多く詠んだ歌人だったが、鏡女王も妹同様恋の歌を何首か残しており、こうした人物像から、恋の神様になったのではなかろうか。ただ、額田王は謎の多い人物であり、果たして本当に二人が姉妹だったのかは分からない。日本書紀によれば額田王は鏡王(かがみのおう)の娘だとされており、鏡女王も名前の通り、鏡王の娘ということになっているので、二人は姉妹だと推測されているというだけである。ちなみに、鏡女王が病で亡くなる前に、天武天皇がわざわざ見舞いに来ている。単に兄の天智天皇の盟友中臣鎌足の夫人だったから来たのか、恋人の額田王の姉だからという事情もあるのか。真相は分からないが、こんな逸話も鏡女王を特別な存在にしているのだろう。

 さて、恋神社のもう一つの売りであるむすびの岩座(いわくら)は、東殿のすぐ脇にある。小さな岩に注連縄が飾られており、傍らの案内板には、古来より神が宿るとされた磐座である旨が書かれている。妙楽寺の講堂を建てる際に光る石が発見され、神の宿る磐座として祀られたというのが、その由来らしい。岩に直接触れて願い事をすればかなえられるということだ。もちろん、今では光っていない。

 昔からこういう設えになっていたのか、婚活が言われるようになってから新たな装いにしたのか、本当のところは知らないが、恋愛に効くパワースポットらしいから集客力に期待したいところだ。

 この恋神社エリアから更に奥に入ると三天稲荷神社があるとパンフレットにあったので、どうせならそこも見てみようかと奥へと進む。土の山道が鬱蒼とした森の中へと延びている。すぐに社があるものだと思っていたが、結構距離があり、途中で道が崩れている箇所や木が倒れて道に覆いかぶさっているところがあって、行き着けるのか不安になったが、何とか三天稲荷神社までたどりつく。

 何とも古めかしく寂れた印象で、ほとんど人が訪れていないのだろうと思われた。ただ、帰りがけに感じたが、森林浴にはいい道である。静かで人もいないし、木々に囲まれてくつろげるエリアである。もっとも来る時には、果たして三天稲荷神社まで道がきちんと整備されているのか不安があったのも事実であるが・・・。

 これで談山神社内のものはだいたい見たということで、一旦神社を出て、今度は来たのと反対方向に参道を上がっていく。土産物屋のほかホテルなどもあり、団体客がマイクロバスに乗り込んでいるところだった。

 このまま参道を先に進めば、飛鳥に降りる道に通じる。飛鳥方向へ行けば、道中に増賀上人を埋葬した二段の石積み塚がある念誦崛(ねづき)や、先ほど触れた万葉展望台もある。ハイキングコースは万葉展望台のところで分岐しているようで、片方は飛鳥寺に出て、もう一つは石舞台古墳に通じている。以前、飛鳥を訪れた際、石舞台古墳から先の道が談山神社に通じている旨書いたが、この参道までつながっているわけである。

 参道をそれて少し高台になっているところに登り、談山神社の全景を眺める。新緑が進んでいるが、見頃はもう少し先だろうか。秋の紅葉シーズンには、この辺りは写真を撮る人で一杯になるだろうなぁと思いながら、暫し周囲の景色を楽しんだ。





 あとはバスに乗って帰るだけ。参道を元の方向へ戻ってバス停に向かう。バス停から案内に従い階段を降りて来た人たちから談山神社への道を訊かれる。やはり、誰にとっても分かりにくいのだろう。バス停に戻って来たが、この時間帯だとバスは1時間に1本しかない。仕方ないので、駐車場の休憩場所にある椅子に座ってのんびり待つ。

 午前中から来ていれば、ハイキングコースを通って飛鳥に下りるというプランもあり得たと思うが、そのまま飛鳥駅まで歩くとなると、合計の道のりはかなりのものだ。かといって飛鳥周辺のバスに頼るとなると、同じようにめったに来ないバスを延々と待つことになろう。自家用車がない観光客には、奈良は制約が多い。それでたいていは、団体観光バスツアーになってしまうのだろう。京都のように、自分でオリジナルの計画を立てて好きなところだけ回るというオーダーメイドの観光がしにくいのが、奈良観光の難点である。

 そんなことをつらつら考えているうちにバスが来た。乗り込む人は僅かである。バスで談山神社まで来る人は少ないのだと思う。途中の高齢者総合福祉センターからお年寄りが何人も乗り込んで来た。やはり、生活者向けの路線なんだなぁと実感する。

 30分弱で桜井駅に着き、大阪行きの急行に乗り込んだ。はてさて、次はどこに行こうか。電車で行けるところは概ね行ったし、バスに頼ると日程の制約がある。色々考えながら電車に揺られ、大阪に帰った。本日歩いたのは1万歩少々。でも山登りをやったので、平地を歩くのに比べて、結構なカロリーを消費した気がする。







目次ページに戻る 本館に戻る


(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.