パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第13話:室生寺





 次に奈良に散歩に行ったのは、大阪で桜もあらかた散った4月の中旬のことである。ちょうど桜が満開の時期に、父親の退院と介護施設入所が重なり、あれやこれやと忙しくしているうちに桜は散っていた。少し悔しい気持ちもあって、まだ桜の咲いているところに出掛けてみようかと思い立ったのである。

 この時期必ず満開の桜が見られる確実な場所は、奈良では吉野山であるが、ちょっと思い立ったくらいで行けるものではないと大阪の人に諭された。この季節、吉野行きの特急は指定席売切れで、平日に休んで行っても電車は立ち席だとのこと。よほど気合を入れないと吉野の桜は見られないものらしい。

 そうなると、季節の巡りの遅い山奥に行くしかあるまいと、女人高野(にょにんこうや)の異名を取る室生寺(むろうじ)に行くことにした。

 ただ、行くに当たってはかなり逡巡した。というのも、室生寺や談山神社(たんざんじんじゃ)など山奥にある神社仏閣に行こうとするとバスを使わなくてはならない。奈良の場合、そのバスの便が悪く、室生寺だと日中の一定の時間帯に1時間に1本しかバスがない。どうしたものかと考えたが、まぁ一度バスを使ってみるかと、恐る々々出掛けてみた。

 室生寺への最寄駅は、近鉄大阪線の室生口大野駅である。これは今まで行った中で最も遠い駅である。JR環状線に乗って鶴橋駅まで行き、そこから近鉄大阪線の急行に乗り換える。鶴橋駅から室生口大野駅まで1時間強かかる。以前に行った長谷寺の2つ先の駅になる。

 室生口大野駅を降りると、花びらの舞い散る桜並木が出迎えてくれた。駅情報で確かめると、この辺りの桜は現在満開とのことだったが、既に散り始めている。その桜並木のすぐ近くにバス乗り場があった。

 バスの時間に合わせて電車を選んだので、バス停に座って地図を見ていると、ほどなく運転手がやって来てドアを開けてくれた。出発時点でも車内はスカスカの状態だったので、なるほどこれなら1時間に1本でないとやっていけないわけだと納得した。

 出発時間になるとバスは走り出し、小さな集落を抜けて山の方に上っていく。山に入ると、道沿いに広がる室生川の景観が素晴らしい。大きな岩がゴロゴロ転がる中を、渓流がしぶきを上げながら流れる。両側は森で、所々に満開の山桜が見える。自動車道でなければ歩いて上がってもいいかなと思える景色だが、バスで20分程度かかるので結構な道のりである。

 やがて開けた場所に出て、道沿いに家々が並ぶ辺りまで来ると、そこが終点の室生寺前のバス停である。この辺りの集落が室生の里と呼ばれるところで、土産物屋や旅館が並ぶ参道を暫く行ったところに室生寺の入り口がある。室生川に架かる朱塗りの太鼓橋の先に室生寺の表門がある。この太鼓橋はバス停から歩いて来る途中で見えていたのだが、その脇に巨大な杉がそびえ立っている。





 室生寺にやって来て一番見たかったものの一つは、この三宝杉と呼ばれる巨木である。以前からたびたび、この奈良散歩記に入江泰吉氏の「大和路」という写真集が登場するが、室生寺周辺を写した作品の中に、室生川沿いにそびえるこの三宝杉が出て来るのである。

 入江泰吉氏が写真を撮ったのは紅葉の頃で、背後の山々は鬱蒼と霧に包まれる中、三宝杉がすっと立っている。役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)が建てたという伝説も残る山岳寺院の室生寺の風情が、山の奥深さと共によく表されている印象深い写真である。山門前の室生川沿いの景色として掲載されているので、是非この場所を訪ねてみたいと考えていたのである。

 この三宝杉を題材にしてあんな写真が撮れるとは、さすがプロだなと感心するが、太鼓橋から上流に向けての室生川の情景は、入江作品ならずとも、なかなか味があっていい感じである。ちょうど、風景画の構図取りに恰好のバランスではないかと暫し橋にたたずんで眺める。

 三宝杉は3本の巨大な杉が並んでいるのだが、命名は仏教で言う三宝(さんぽう、さんぼう)から取ったものだろう。仏・法・僧(ぶっぽうそう)の3つを三宝というのは有名な話で、聖徳太子が制定した十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)にも「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という教えが出て来る。たまたま生えている巨木がちょうど3つだったので、これも仏の縁と考えたのではあるまいか。

 太鼓橋を渡ったところに室生寺の表門がある。表門から入れば、表書院や本坊があるエリアに入ることになるが、ここは公開していないため、見学者は、右手に進んだ通用門から境内に入ることになる。この表門脇には「女人高野室生寺」と彫られた石柱が立っている。表門自体の造りは簡素だが、ここで写真を撮っていく人が多く、人気スポットらしい。

 室生寺は、昔から女人高野と呼ばれていたわけではないし、女性の修行を受け入れるために建てられた寺でもない。先に述べたように、役小角が創建したという言い伝えもあるようだが、入り口で貰ったパンフレットによれば、平安京を造った桓武天皇(かんむてんのう)が皇太子だった頃に病気平癒の祈祷が室生の地で行われ、効果があったことから、勅命でここに寺院が建立されることになったという。これが室生寺の始まりとある。

 この病気平癒の祈祷を行ったのも、朝廷の命で寺を建てたのも、興福寺(こうふくじ)の僧侶であったため、室生寺と興福寺とは縁が深かったようだ。ただ、山岳寺院だった室生寺は次第に真言密教との関係を深めていき、ついに江戸時代になって興福寺から独立し、真言宗の寺院となる。真言宗の総本山は高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)だが、高野山が女人禁制だったのに対して室生寺は女性を受け入れたため、女人高野と呼ばれるようになったと伝えられている。つまり、女人高野の名は、江戸時代以降に室生寺に付いた別名なのである。

 拝観用の入り口を入ってすぐのところに鮮やかな朱塗りの門が現れる。これが仁王門(におうもん)で、江戸時代に焼失した後長らく再建されなかったが、昭和の時代に入って今のような形に再建されたらしい。





 仁王門をくぐると左手に、梵字で大日如来(だいにちにょらい)を示す文字をかたどった小さな池がある。静かで趣のある池である。ちなみに、大日如来は真言密教の中心になる仏様である。この池の先を左に曲がると、金堂に続く石段がある。

 この石段は、整形されていない自然の石を積み上げて作られており、下から見た石の並びが鎧のさねの編み上げに似ていることから「鎧坂(よろいざか)」と呼ばれている。この石段の下から見上げると、金堂の屋根が階段の上に見える。室生寺に来たことのない人でも、必ずどこかで見たことのある有名な風景である。

 入江泰吉氏の「大和路」にも、この鎧坂から見上げた金堂の景観が出て来る。鮮やかな新緑とシャクナゲの花が鎧坂の両側を彩り、くすんだ色合いの石段、こけら葺の渋い金堂と相まって、実に美しい風景に仕上がっている。

 入江作品に出て来るシャクナゲは、室生寺を象徴する花である。鎧坂以外にも境内のあちこちに植えられており、その数は三千本とも聞く。比較的高い場所にある室生寺の自然環境がシャクナゲの生育に適しているらしい。お蔭で、花が咲くゴールデンウィーク頃には新緑と共に観光客の人気を博する。

 室生寺の春のハイシーズンは桜の時期ではなくシャクナゲの時期であり、ちょうど同じ時期に咲く長谷寺の牡丹と合わせて、観光客がどっと押し寄せる。1時間に1本しかなかったバスも増便されるようだし、長谷寺と室生寺の両方を見たい人のために、両寺を結ぶ特別のバスも運行されるらしい。

 ではどうしてそういう時期に室生寺を訪問しようと思わなかったかだが、混んでいて深山幽谷の風情が楽しめないだろうと思ったためである。いくら美しいといっても、団体客がわんさか押し寄せている中、人を掻き分け境内を散策しても面白くない。やはり、山奥にたたずむ山岳寺院を鑑賞するなら、静かに見られる時期のほうがいい。

 鎧坂はかなりの段数があり、年配の方にはやや気の毒である。おまけに、長い歴史のうちに無数の人々によって踏みならされ磨り減っているので、少々歩きにくいかもしれない。ただ、ここでへばっているようでは室生寺参詣は無理である。この先もずっと階段が続く。今日のテーマは平地の散策ではなく、ずばり山登りなのである。このまま階段を上り続けて奥の院まで行こうというのが、本日の計画である。

 鎧坂を登ると、石垣の上に張り出した外陣を持つ特徴的な金堂の建物が現れる。平安時代初期の建造とされ、国宝に指定されている。平安初期の山岳寺院のお堂で現存するものは、この金堂だけという貴重な建造物である。





 背後に迫る鬱蒼とした木立に囲まれ、如何にも山寺らしい風情が漂う。ちょうど桜も咲いていて、一幅の風景画を眺めるような美しい景観である。あまり参詣客もおらず、ハイシーズンを外して来た甲斐があったと思った。

 この金堂の左手に重要文化財の弥勒堂(みろくどう)がある。文字通り弥勒を祀っているのだが、この建物は興福寺の伝法院(でんぽういん)を受け継いだと伝えられており、冒頭記したように、興福寺と室生寺の浅からぬ縁を表している。

 また、ほとんどの人は立ち寄らずに通過してしまうが、金堂右手に天神社(てんじんじゃ)拝殿という小さな建物があり、その脇に巨石に彫られた軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)の像がある。軍荼利明王は、真言密教において宝生如来(ほうしょうにょらい)が転じた姿とされており、真言密教の寺としての室生寺の一面を表す石像である。この巨石の由来は分からないらしいが、一般的な軍荼利明王像よりも手の数が多いという謎があると聞く。

 金堂の右と左に、興福寺と縁が深かった古い時代の遺産と、真言宗に傾注していった新しい時代を象徴するものが並んでいるのは、何とも興味深いことである。

 さて、今度は金堂の背後から左に延びる階段を上がり、本堂に行く。





 普通お寺の伽藍配置には様式がある。塔、金堂、講堂といった建物と、それを取り巻く回廊、門をどういう配置にするかで、四天王寺様式、法隆寺様式、薬師寺様式など幾つかのパターンがあることを日本史の教科書で昔習った。こうした伽藍配置が出来るのは、平地にお寺を建造するからで、室生寺のような山岳寺院には無理な相談である。山の斜面の建てやすいところに建物を建てて行き、それを階段で結ぶ。従って、建物はあちこちに点在し、階段の向きも一様ではない。右や左に曲がりながら、階段を上るごとに違う景色が現れる。

 山岳寺院の妙は、こうした自然と一体化した伽藍配置であり、階段を上るたびに新しい景観が現れる。また、建造物が最初からずらりと並ぶわけではないため、威圧感がないし、どこか寂れたやさしい印象がある。一つひとつの建物が、自然の中にくるまれたようにひっそりとたたずんでいる姿は、堂々たる大寺院と違ってどこか女性的で、これもまた女人高野の名にふさわしい有りようかもしれない。

 金堂から上った本堂もまた新しい空間であり、広い敷地に古めかしい建物が現れる。この本堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも呼ばれており、室生寺が真言密教の寺であることを示す重要な施設だと、お寺から貰ったパンフレットに紹介されている。

 密教では、人間が生身のまま悟りを開き仏になることを目指している。いわゆる即身成仏(そくしんじょうぶつ)である。そのためには世俗を離れて修行に励むことが必要とされ、山にこもって修行が行われた。山奥に建てられた室生寺の環境はそうした修行に適していたのだろう。

 修行に当たりどの仏に守り本尊となってもらうかを決める必要があり、そのために行われた儀式が灌頂(かんじょう)というわけである。多くの種類の仏を描いた曼荼羅(まんだら)の上で、目隠しをしたまま樒(しきみ)の葉を落として、守り本尊となる仏を選ぶ。こうした灌頂の儀式がこの本堂の中で行われたようで、儀式の名を取って灌頂堂の別名が付いている。

 本堂が出来たのは鎌倉時代であり、既にその頃から室生寺は真言密教に傾いていたことになる。平安末期から貴族政治が乱れ、武士が台頭し、治安も悪化して民衆の不安は増大した。いわゆる末法思想が広まり、古くからの寺院の権威に陰りが見え始める時代である。鎌倉時代になると更に世は乱れ、旧来の仏教への失望が、即身成仏を唱える真言密教に人々を惹き付けたのだろうか。貴族政治を支えた藤原氏の氏寺だった興福寺からの離脱の芽は、既にその頃に芽生えていたのかもしれない。

 さて、本堂の左脇に階段がある。そこにまわると、階段の先に有名な五重塔が見える。はっとするほど鮮やかな登場であり、多くの室生寺の写真で、五重塔が階段下から見上げるように写されている理由が、ここに来て分かる気がする。下から見上げると、朱塗りの屋根の内側が緑のバックと対象的に組み合わさり、コントラストのハッキリした景観を形作る。その色の組合せの妙が、このアングルの風景を印象的なものに仕上げているのだろう。

 ただ、そんな写真は誰でも知っているだろうから、ここでは階段を上ったところで見上げるようにして撮った写真を掲げておく。





 この五重塔に向かって上がっていく石段の両側にもシャクナゲが植えられている。ガイドブックに載っている五重塔は、シャクナゲの咲く時期に階段下から撮られているのが普通である。入江泰吉氏の「大和路」に出て来る五重塔もシャクナゲと共に撮られている。とにかく室生寺とシャクナゲは切っても切れない関係にあるらしい。ただ、その時期だとこの階段は人で埋め尽くされ、静かな風情の写真を撮ることは望むべくもないだろう。

 ちなみに、五重塔のある場所から更に上がって、少し見下ろす形で五重塔を見ると、かなり印象が変わる。朱塗りの柱が隠れて檜皮葺(ひわだぶき)のくすんだ屋根がメインになるからだろう。そのかわり、周囲の風景に溶け込んでしっとりと落ち着いた風情をかもし出すので、これはこれでいい感じである。見上げるのと見下ろすのとで、違った表情の五重塔が楽しめるのが面白い。

 ところでこの五重塔だが、写真で見ていたのでは気付かないが、現物に近づくとかなり小さいことが分かる。屋外に建つ昔ながらの五重塔では最小サイズらしい。その小ささにちなんでか、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が一夜にして建てたという伝説があるとも聞く。創建当時は興福寺の影響が強かったから、真言密教を奉じる弘法大師の出番はなかったと思われ、後世の作り話の可能性大である。真言密教のお寺として路線替えした室生寺としては、何とか弘法大師の遺構を作りたくて、そんな伝説が生まれたのではなかろうか。

 一方、室生寺の中にあっては、この五重塔が最古の部類に属する建造物らしく、平安時代の初めに建てられている。科学的にも西暦800年頃の作と推定されているが、これは最古といわれる法隆寺の五重塔に次ぐ2番目の古さということになる。もちろん、国宝である。

 室生寺にこんな古い塔が残っているのは、あまりに山奥過ぎて戦火が及んでいないという幸運に恵まれたためだろう。また、興福寺と縁が深いお寺なのに僧兵も擁していなかった。南都北嶺(なんとほくれい)と呼ばれ恐れられた比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と興福寺は、僧兵を引きつれ神木や神輿を奉じて朝廷に強訴に及んだが、室生寺は山岳修行の場だったせいか、そんな無法を働くことなくひっそりと歴史を重ねた。戦略上の要所でもないため、戦国時代の焼き討ちに遭うこともなかった。長い年月、世俗から切り離されて深山幽谷の中で時を重ねたのである。

 さて、多くの参拝者にとって、この五重塔が室生寺観光の最終地点である。ここに至るまでに、かなり長く階段を上って来ており、足腰に自信のない人にとっては、五重塔に来るので精一杯といったところだろう。だから、ガイドブックなどに必ず載っている五重塔を見たら、これで室生寺は全て見たという気になって、ここで引き返す人が多いのである。だが、階段は五重塔の脇から裏手に向かって更に延びている。この先には、室生寺の最奥部、奥の院がある。

 奥の院への階段は、最初はゆるやかで、少し上ってまた降りるという按配なので、この先もずっとこんな調子かと錯覚してしまう。だが、暫くなだらかな道を行き、無明橋と名付けられた小さな太鼓橋を渡った先で上を見上げると、打ちのめされるような長い石段が急斜面に続いている。階段の上の方を歩く人が豆粒のように見える。

 奥の院への道の両脇にはうっそうと巨大な杉が林立していて、昼なお薄暗いといった感じだ。また、周辺にはシダが群生しており、これは天然記念物に指定されている。暖地性のシダが自生する最北端の地が、ここ室生寺周辺らしい。奥の院への道はこうした深山のふところを進み、山の中腹まで続いている。





 最初に表門の前で見た三宝杉も巨大だったが、それに負けず劣らずの巨木があちこちにそびえている。神域なので伐採もされずに長く育ったということもあろうが、周辺に群生するシダのことも考えると、やはりこの地方に雨が多く、植物の生育に適しているという要因もあるのかなと思う。

 この日の天気も昼から晴れるという予報だったが、一向に晴れ間が覗かない。金堂の辺りでは霧雨のような細かい雨が漂う有様で、山の上なので麓とは天候が違うのかもしれない。平地でも前の日まで雨が降ったり止んだりの天気だったが、お蔭で室生寺の石段は水を吸ってしっとりと湿っており滑りやすい。

 深山に湧いた雲が雨を呼び、霧を招く。そのせいか、冒頭述べた入江泰吉氏の写真集「大和路」にある室生寺周辺の写真には晴れ間のものがない。霧に包まれる石段や山々が写されており、それが山岳寺院である室生寺のイメージによく合う。よく晴れた日に来るよりも、雨上がりの霧に包まれた室生寺に来る方が素晴らしい眺めを堪能できるかもしれない。

 室生寺のある辺りは、東に行けばそのまま三重県の山並みに続いており、南に行けば吉野の山奥へとつながる。更にその先には、屋久島(やくしま)と並んで最も雨が多いとされる大台ヶ原(おおだいがはら)がある。周囲は山また山の地で、雨や霧の多いことで知られるエリアである。そうした水つながりということなのか、ここ室生寺は龍神とも縁が深いと聞く。

 室生寺の創建については、桓武天皇が皇太子だった頃に病気平癒の祈祷が室生の地で行われ、効果があったことから勅命で室生寺が建立されることになったと冒頭に書いたが、その祈祷が行われた場所は、正確には今の室生寺のある場所ではない。室生寺から更に数百メートル分け入ると、室生龍穴神社(むろうりゅうけつじんじゃ)という神社があるが、この神社の裏手にある洞窟がその祈祷の場所だと伝えられている。

 洞窟には龍が棲むという伝説があり「吉祥龍穴(きっしょうりゅうけつ)」という名が付けられているが、これが室生龍穴神社の事実上の御神体である。創建の経緯から言えば、室生龍穴神社の方が室生寺よりも古く、神仏習合が進んだ時代には、室生寺は室生龍穴神社の神宮寺だったという関係にある。

 龍は雨の神様なので、病気平癒の祈祷だけでなく、雨乞いの儀式なども盛んに行われたらしい。道理で室生寺に雨が似合うわけだ。

 湿った石段に気を付けながら、鬱蒼とした杉木立の中を上っていくと、途中に湧き水を湛えた石の鉢があり、柄杓を添えて飲めるようになっている。何とも心憎い設えだが、夏場にここを上ろうとすると汗をかきかきだから、喉も渇くだろう。私もうっすらと汗をかいていたので、柄杓ですくって冷たい清水を一杯頂いた。

 石段は四百段程度あるらしい。途中休憩できるような場所はなく、こうした湧き水や石像がある辺りで小休止するのがせいぜいである。急な斜面に設えられた石段なので、途中で振り返って見下ろすと、垂直な崖の上に立っているような錯覚を覚える。高所恐怖症の人にはあまり宜しくない場所である。

 最後の方はかなり急峻なので、上から降りて来た高齢者の方は、後ろ向きになって石段を一つずつ慎重に下っている。前を見ながら石段を降りると、転げ落ちるような気になるのだろう。

 ほとんど休まずに一気に上ったため最後の方は息が切れたが、ようやく奥の院にたどりついた。





 奥の院は狭いスペースで、社務所のほかには、舞台造りの位牌堂(いはいどう)と弘法大師空海の像を安置した御影堂(みえどう)があるばかりである。

 位牌堂は、崖にせり出す形で建てられており、京都の清水寺(きよみずでら)の舞台と同様、床下を太い柱の組み合わせて支える懸造(がけづくり)となっている。奥の院への石段を上るときに、遙か下からでもこの懸造の柱が見え、あそこがゴールだと分かる仕掛けになっている。

 位牌堂は周りをぐるりと一周できるように休憩所を兼ねた舞台が付いているが、木立が邪魔をして、高さの割には雄大な景観を楽しめない。ただ、遙か下にのどかな室生の里がかいま見えて、心なごむひとときではある。

 御影堂は鎌倉時代の建物で、真言密教の灌頂の儀式を執り行っていた本堂と同じ時代に建てられたことになる。既にその時代から弘法大師を祀っていたわけで、本堂と合わせ興福寺から次第に離れていったことを示すものだろう。

 さて、これで室生寺は一通り見たことになるので、あとは山を降りるだけである。時計を見るとあと20分強で駅に向かうバスが出ることになる。それを逃すと1時間は待たねばならない。

 ここに来る前は、下山するときにはバスを使わず、山の中を通る東海自然歩道の山道をハイキングがてら歩いて降りようと考えていたのだが、室生寺境内の足元の悪さを考えると、山道も雨に濡れてぬかるんでいるに違いない。帰り道用に持って来た近鉄発行の地図でも、東海自然歩道の中に幾つか滑りやすい箇所があると注意書きがあり、そんなところで泥だらけになっても大変と、計画を変更しバスに乗って帰ることにした。そうなると、少々急がねばならない。

 奥の院までの急な石段を一気に降り、五重塔、本堂、金堂と戻っていく。金堂の辺りで下から上って来た団体客と行き会うが、高齢の方が多く、みんな階段の連続に参っている様子だ。中には、もうここまででいいとへばっている人もいる。鎧坂の長い石段で疲れたのだろう。かと思えば、降りる途中で湿った石段で滑って転びそうになっているご婦人グループもいて、山岳寺院見学も容易ではない。そもそもが修行のためのお寺なのだから仕方ないとも言えるが、身体の丈夫なうちに見学しておくべき場所だと思う。

 三宝杉のたもとの朱塗りの太鼓橋を渡って自動車道に出たところで、まだバスの出発までに10分弱あった。随分速いペースで降りて来たことになる。土産物店が軒を並べる参道を歩き、名物らしい草餅を食べている時間がないのは惜しかったが、5分前にはバス停に着く。バス停は既に長蛇の列で驚いた。行きのバスのスカスカ度合いとはえらい違いで、この人たちはいったいどこから来たのだろうと不思議に思った。

 ほどなくバスがやって来て乗り込む。来た時と同じ初老の運転手で、この人が一日この路線を運行しているのだろう。席はたちまち埋まり、立ち席のお客さんも多かった。

 このまま終点まで行くと駅だが、一つ手前の大野寺(おおのでら)のバス亭で降りる。同じことを考えている人がたくさんいたみたいで、どっと降りてバスはスカスカになった。

 大野寺は、室生川と合流した宇陀川沿いにある小さなお寺だが、この時期はかなりの人で賑わう。この寺の見どころは二つあって、一つはお寺の向かい側、宇陀川を挟んだ断崖絶壁に彫られた磨崖仏(まがいぶつ)である。





 上の小さな写真では見にくいと思うが、くり貫かれた岩肌に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が線画として彫り込まれている。鎌倉時代初期の作品らしく、興福寺の僧侶によって発願され後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の勅命で開眼供養が行われたと伝えられている。弥勒菩薩の左下脇に、丸くくり貫かれた部分があるが、これは曼荼羅を彫ったものである。

 大野寺から川を隔てた対岸に弥勒磨崖仏がある恰好だが、これは間を流れる宇陀川の対岸を「彼岸(ひがん)」に見立て、磨崖仏のある場所を極楽浄土になぞらえたということらしい。この場所で宇陀川は大きく蛇行しており、広い河原や奇岩、剥き出しの岩肌など、磨崖仏がなくとも人目を惹く景観が広がっている。

 大野寺で貰ったパンフレットには、磨崖仏の線画だけを起こしたイラストが添えられているが、なかなか優雅な姿で、もっときれいに見えれば好評を博すのにと、ちょっと残念な思いがした。彫られてから800年近くも経っているので磨耗が著しいのだろうが、それでも劣化防止のために修復もなされていると聞く。

 この弥勒磨崖仏を拝観するために、大野寺の中に遙拝所が設けられているが、大野寺に入らずとも道路沿いの歩道から真正面に磨崖仏を眺めることは出来る。

 さて、その大野寺だが、寺の縁起によれば白鳳時代に修験道の開祖役小角が創建し、その後、室生寺が出来たときに弘法大師が大野寺を室生寺の西の大門と定めたという沿革がパンフレットに掲載されている。役小角も弘法大師も、修行の果てに悟りを開き即身成仏を目指す密教系の系譜の原点にいる人である。

 その一方で、宇陀川対岸の弥勒磨崖仏は興福寺主導で造られた。藤原氏の氏寺である興福寺は、学僧衆中心の奈良仏教を支えた南都六宗(なんとろくしゅう)の重要な一角である。

 こうして見ていると、宇陀川を境に彼岸と此岸(しがん)に別れていたのは、この世と極楽浄土ではなく、奈良仏教と密教ではなかったかと思えて来る。この大野寺が持つ興福寺と密教との絡み合いは、そのまま室生寺がたどってきた歴史に通じる。大野寺が室生寺と縁の深い寺であり、西の大門と位置づけられたのは、同じ立ち位置、歴史を持っているからではなかろうか。

 大野寺は長い歴史を持つ古刹だが、明治期に火災に遭って全て焼け落ちており、残念ながら境内に残る建造物はそれ以降に建てられたものである。宗派は室生寺と同じで、真言密教系のお寺だが、平地の景勝地に建てられている小さなお寺であることから、ここで修行というわけにはいかないだろう。

 弥勒磨崖仏は境内に入らなくとも見られるのに、大野寺がこの時期多くの観光客を集めるのは、もう一つの見どころに惹かれてのことである。境内に植えられた枝垂桜の古木が見事なのである。私が室生口大野駅に降り立った際、一緒に降りた数名の乗客は、駅員に道を訊いて、全て大野寺を目指して歩いて行った。駅から5分程度なので、バスに乗らずとも歩いて来られる。





 枝垂桜は一本だけではなく、樹齢300年級の小糸桜だけでも2本、樹齢100年級の紅枝垂桜に至っては30本近くある。他にも木蓮などが植えられ、花の寺として売り出そうという意欲が見え見えである。お蔭で、狭い境内はたくさんの観光客ですし詰め状態であり、庭の狭い通路を行き交う際は、お互い譲り合わないと通れない盛況ぶりである。

 近くに大型観光バス用の駐車場があるため、桜巡りの団体客がひっきりなしに訪れる。静かに花見というわけにはいかない人気スポットのようである。もう少しゆっくりしていたかったが、次の団体客が押し寄せたところで退散した。

 大野寺を出て、少し宇陀川沿いを散策する。こちらは大野寺境内と違って静かなものである。そのうえ、大野寺の塀越しに枝垂桜も見える。この川沿いの歩道がもう少し広くて自動車道から離れていたら、恰好の散策道になるのに残念である。

 ふと気が付けば電車の時間が迫っている。こちらは室生寺行きのバスと違って1時間に3本あるから、逃したとしても痛手ではないが、そろそろ帰るのにいい時間になったため駅に向かう。途中にあった大野寺のバス専用駐車場を見ると、並んでいる観光バスの中に吉野山と合わせた桜ツアーのものがあった。この時期吉野山はすごい人出だろうにご苦労なことである。やはり吉野山に行くなら、桜の時期を外すようにしようと心に決めて、駅に向かった。

 この日の歩行距離は1万歩には届かなかった。室生寺からの帰りに東海自然歩道を歩くのを断念したのが大きいのだろう。しかし、室生寺奥の院までの長い石段で、充分足腰が鍛えられた気がする。山に行く時は単に歩数だけではなくアップダウンを含めて考えなければならない。平地を歩く時と同じ程度の歩数で山道を歩き続けたら、へばってしまうに違いない。

 さて次はどこに行こうかと考えながら、大阪行きの急行に乗り込んだ。







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