パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第12話:当麻





 前回の奈良散歩は11月の中旬だったが、今回は一気に3月の下旬まで飛ぶ。その間、父親が病気で倒れて入院、手術、療養生活と慌しい日々を過ごし、休日の大半を見舞いに行って過ごした。その間、ウォーキングは中止なうえ、強行軍の田舎帰りの繰り返しがたたったのか、重度のギックリ腰になってしまい、散々な目に遭った。

 そんな中、3月のお彼岸に、ふと奈良に出掛けようかと思い立った。忙中閑ありではないが、こちらの体調管理も大事だし、春のような陽気の中、病院でくすぶっているのももったいないなぁと考え、久し振りの奈良散歩に出掛けることにした。

 そうは言っても、歩くのは久し振りなので、突然の長距離はしんどかろうと、比較的やさしいコースを考えた。目指すは奈良の当麻(たいま)である。

 天王寺までJR環状線で行き、大阪阿倍野橋駅から近鉄南大阪線の準急に乗り込む。目的地の当麻寺駅まで40分弱の道のりである。プラットホームに着いた5両編成の準急に乗ろうとすると、古市駅より先には前2両だけしか行かないというアナウンスが流れる。既にそこそこ人が乗っているので、そんなことで大丈夫かなと思っていたが、最初の停車駅でバラバラと人が降り始め、車内は空き席が目立つ状態になる。ついに当麻寺駅に着いた時には、我が車両に10人も乗っていなかった。なる程、鉄道会社も良く見ているわいと感心した。

 当麻駅に降り立つと、當麻寺(たいまでら)の参道を山の方に進む。細い道ながら次々に自動車が通るので驚いた。すぐ先に国道が横切っているためらしい。

 今回の散歩のテーマは二つあって、一つは中将姫(ちゅうじょうひめ)、もう一つは二上山(にじょうざん、ふたかみやま)である。

 中将姫は、世阿弥(ぜあみ)の謡曲「当麻(たえま)」をはじめ、歌舞伎、浄瑠璃、文楽などで取り上げられている有名な人物なので、どんな人かは知らずとも名前くらいは聞いたことがあるのではないか。その中将姫が極楽浄土を夢見て修行に励んだお寺が當麻寺なのである。

 駅から一直線に東に向かえば當麻寺に着くのだが、国道の手前でちょっと寄り道をする。當麻蹴速(たいまのけはや)の塚である。





 當麻蹴速は、以前山の辺の道を散策した際にも話題に出したが、日本初の天覧相撲を行った力士のひとりである。日本初と言っても本当に遠い昔のことで、日本書紀に出て来る話だ。

 時代は垂仁天皇(すいにんてんのう)の頃ということになっているが、垂仁天皇は日本武尊(やまとたける)のおじいさんに当たる人なので、本当にいたかどうかが疑われている、まさに神代の人物である。ただ、薬師寺(やくしじ)や唐招提寺(とうしょうだいじ)を巡る西の京の散策の折に、垂仁天皇陵を訪ねた話を書いたと思うが、立派なお墓だけは残っているので、まぁそれに当たる人物はいたのかもしれない。

 さて、その垂仁天皇の時代に、當麻の地に當麻蹴速という力自慢がいて、自分より力のある者との対戦を欲しているという話が天皇の耳に入った。天皇は、出雲の国に同じような力自慢がいると聞き、その者を召し出して、天皇の面前で「捔力(すまひ)」を取らせたという。そのとき當麻蹴速と戦ったのが、有名な野見宿禰(のみのすくね)である。

 当時の戦いは今の相撲と大きく違っており、蹴るのはOKだったようで、當麻蹴速の名前も蹴り技が得意なことから来ていると聞く。かくして當麻蹴速と野見宿禰は激しい蹴り合いをして、野見宿禰が當麻蹴速のあばらと腰の骨を折って殺してしまうという結果になった。今の相撲とはまるで様相の違うデスマッチである。

 この天覧試合が行われたのが、山の辺の道の途中にある穴師の集落を山の方へ上がったところにある相撲神社(すもうじんじゃ)であり、相撲発祥の地と言われている。相撲そのものはもっと古い時代からあったようだが、天皇の面前で行われた初めての試合というのが、相撲発祥とされたゆえんであろう。もっとも上に記したように、現在の相撲とはまるで違う格闘技だったわけだが…。

 敗者となった當麻蹴速はあまり名前を知られていないが、地元にはこうして塚があり、脇には葛城市相撲館という立派な資料館まで設けられている。當麻蹴速の素朴で野性的な性格が高貴な人々からは疎まれたようだが、地元の人たちには人気があったらしい。敗者だったにもかかわらず、こうして長らく塚が残っているのもそのためだろう。

 當麻蹴速の塚から少し歩けば国道との交差点で、そこを越えると本日の主役の一つとなる當麻寺の仁王門までわずかである。門前は狭かったが、一歩境内に入ると広々としている。

 まず白鳳時代に造られた国宝の梵鐘が出迎えてくれて、正面に本堂、右手に講堂、左手に金堂がある。左手奥の山際には、共に国宝に指定されている東西二つの三重塔が並ぶ立派さである。本堂の奥には奥院もあり、その他幾つもの建物を擁する堂々たるお寺である。





 縁起によれば、當麻寺は推古天皇(すいこてんのう)の時代に、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟であった麻呂古(まろこ)という親王によって、まずは河内にその基礎となる万宝蔵院(まんぽうぞういん)が建立されたようだ。その後、天武天皇(てんむてんのう)の時代になって、麻呂古の孫によってこの場所に移築され、この地の豪族當麻氏の氏寺になったという歴史を持つ。

 ただ、それだけであれば當麻寺はここまで有名にならなかったのではないか。多くの人々がこの寺を訪れるのは、中将姫ゆかりの寺だからであろう。

 中将姫の伝説とはこういう話である。

 天平時代のこと、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の曾孫に当たる藤原豊成(ふじわらのとよなり)には子供がおらず、長谷寺の観音様に祈願し、ようやく子供を授かる。これがのちの中将姫である。その後、中将姫が5歳の時に母親は亡くなり、豊成は後妻をもらうことになる。

 中将姫は幼くして秀で、皇室から賞賛を受けるが、それが後妻の嫉妬を生み虐待につながる。やがて父親が仕事の都合で地方に出掛けることになり、後妻はこれを好機として中将姫を殺害しようと陰謀を企てる。難を逃れた中将姫は仏教への信仰に傾注し、千巻にわたる写経に励む。

 この写経が完成した時に、夕暮れの空に阿弥陀仏(あみだぶつ)が現れ、空一面に極楽浄土の光景が広がった。あれはどこの空かと訪ね歩き、やがて二上山にたどり着く。そしてその麓にあった當麻寺の門を叩き入門を願うが、當麻寺は女人禁制なので一旦は断られてしまう。しかし、数日にわたり門前で念仏を唱える彼女の熱心さに打たれて特別に入門が許され、剃髪して尼となった。

 出家した中将姫は法如(ほうにょ)と名を改め、もう一度あの極楽浄土の光景を見たいと念じたところ、蓮の茎から取った糸を染めて曼荼羅を織り上げたら願いがかなうというお告げを受ける。言われた通り、蓮の茎を取りよせて糸を取り、その糸を井戸で清めると五色に染め上がった。その糸で一晩にして織り上げたのが、現在當麻寺に伝わる国宝の當麻曼荼羅(たいままんだら)と言われている。

 曼荼羅には中将姫がかつて見た極楽浄土の様子が描かれており、その後、阿弥陀仏の教えを人々に説き続けたところ、12年後の29歳のとき、阿弥陀仏が迎えに来て、生きたまま極楽浄土へ向かったとされている。





 ところで、この中将姫というのは、本当の名前が中将というわけではない。実は本当の名前は伝わっておらず、中将姫という俗名の由来すらハッキリしない。幼少より秀でていたために天皇から中将の官位を授かったためそう呼ばれるようになったという言い伝えもあるが、本当の話かどうかよく分からない。そんな女性が、歌舞伎、浄瑠璃、文楽などで取り上げられる有名人にどうしてなったのか、何とも不思議な気がする。

 私が当麻の名前を初めて知ったのは、高校時代に呼んだ小林秀雄の「当麻」によってである。この評論は、能楽堂で当麻を見たという書き出しから始まる。「美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。」という有名な一文が登場する作品である。その能の主人公が中将姫だったわけで、遠い昔からこの当麻の地と私は、細い細い糸でつながっていたことになる。

 當麻寺では、毎年5月14日に練供養(ねりくよう)という行事が行われ、中将姫が生きて極楽浄土に旅立った様子が再現されると聞く。しかし、中将姫の墓は、この當麻寺にはないのである。少し離れた場所にあるようなので、そこを訪ねることにする。

 本堂の脇から北に抜ける門を出て、ガイドブックの地図に従って行くのだが、どこにも案内表示がなくとまどう。他の観光スポットについては街角に標識があるのだが、中将姫の墓については案内が書いてない。當麻寺と言えば中将姫だろうに、どうして表示を出さないのか不思議だった。

 古い町ゆえに道が入り組んでおり、ガイドブックの地図ではどうにもならない。年末に買ったスマホを使って現在位置と拡大地図で場所を探す。こんなところにと思うような場所に入り口があり、細道を入ると大きな墓地に出る。その入り口近くにある五輪塔と十三重石塔が、中将姫の墓だと伝えられているものだ。これだけ分かりにくかったせいか、他には誰もいなかった。當麻寺境内は結構な人出だったのに…。





 墓地は広く、ここからは見通しが利くので、本日のもう一つの目的である二上山が良く見える。地図に従って、二上山の麓を目指して墓の中の道を行く。山の辺の道を歩いた時にも大きな墓地の中を歩いたが、墓地の中を一般道が通っているのはあまりないことのように思う。この辺りでは一般的なのだろうか。

 墓地が途切れると、その先に鳥居がある。他に道はないので鳥居をくぐるしかない。このままだとどこかの神社に行ってしまいそうで一瞬迷ったが、傍らには二上山登山道入り口の案内があるので、間違いなさそうだ。もう一つ鳥居が見えた辺りで道は別れ、右側の道が登山道に続くようだ。鳥居はこの先にある當麻山口神社(たいまやまぐちじんじゃ)のものらしい。

 この分かれ道の右手に林に囲まれた小さな広場があり、不思議な建物が建っている。柱が中央に一本しかないお堂である。その形から傘堂(かさどう)と呼ばれている。知らない人が見たら、ロケーションから言って、二上山登山の人たちが休めるように造られた休憩所と思うだろう。間違われないように柵で囲って堂内に入れないようになっている。

 建てられたのは1674年というから、中将姫に比べれば遙かに新しいものである。江戸時代にこの辺りを治めていた郡山藩の藩主本多政勝(ほんだまさかつ)の菩提をとむらうために建てられたものらしい。柱の一番上に扉のついた小さな厨子があり、そこに仏像や位牌が納められていたようだ。





 二上山は、駅名としての呼び名は「にじょうざん」だし、今は皆さんそう呼んでいるようだが、昔の和歌に登場する時には「ふたかみやま」という呼び名で詠まれている。名前の通り、雄岳と雌岳の2つの山頂が並んだ特徴的な形をしている。

 昔の人たちは、雄岳と雌岳の間に沈む夕日を見て、この山を特別視していたようだ。中将姫が空に広がる極楽浄土の姿を見て二上山にたどり着いたという話になっているのも、この山が神聖視されていたからだろう。

 以前山の辺の道を訪れた際に立ち寄った三輪山から、西に真っ直ぐ奈良盆地を横切って行った先に二上山があり、共に特別な山が東西に並んでいる形になる。但し、三輪山が神域として立入り禁止になっているのに対して、二上山は自由に登れる山で、こうして見ていると、ポツポツとハイカーが山を降りてくる。

 今回は時間の制約で登らなかったが、なかなか興味深い山だと思う。山の中には古来の石切り場が残されており、古墳に使われている石棺は、ここで切り出されたものと聞く。その近くには、石窟寺院跡もあるようで、話を聞くと、やはり特別な山なのだなぁと思う。4~500mの山なので、初心者でも登れるはずだ。登って下りて計3時間程度らしい。





 もう一つこの山が有名なのは、大津皇子(おおつのみこ)の墓があるからだろう。

 大津皇子は、7世紀後半の天皇である天武天皇の皇子に当たり、歴史上悲劇の皇子として知られている。

 父の天武天皇は、若い頃は大海人皇子(おおあまのおうじ)と言い、甥の大友皇子(おおとものおうじ)と壬申の乱(じんしんのらん)で皇位を争った人物である。また、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に蘇我氏を滅ぼし大化の改新を行った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇の弟でもある。

 大津皇子は、若い頃から文武両道に秀で、人柄も良くて多くの人に慕われたと伝えられている。器量・人望とも天皇の素質充分だったわけである。しかし、皇太子についたのは兄の草壁皇子(くさかべのおうじ)であった。

 やがて父の天武天皇が崩御すると悲劇が起こる。伯父の天智天皇(てんちてんのう)の皇子であり、親しかった川島皇子(かわしまのみこ)が、大津皇子に謀反の疑いありと朝廷に密告したのである。直ちに大津皇子は捕らえられ、自害させられる。享年24歳というから、まだまだこれからの時期だったが、能力識見に優れ人望厚かった大津皇子が、それだけ草壁皇子側から恐れられていたということだろう。

 ただ、この事件で草壁皇子の地位が磐石になったかというとそういうわけではなく、かえって周囲の反感を買ったのか、天皇への即位が行われないまま、わずか28歳で早世している。大津皇子自害から3年後のことである。更にその2年後、密告をした川島皇子も亡くなっている。人を呪わば穴二つということだろうか。

 その大津皇子は、二上山の雄岳の山頂に眠っている。

 さて、傘堂のある登山道入り口から少し行ったところに、高雄寺(たかおじ)という寺があるようなので立ち寄ることにする。いや、正確に言えばあったという方が正しいだろう。今では収蔵庫があるだけだからだ。収蔵庫内には、かつて高雄寺にあった重要文化財の仏像が安置されていると聞く。

 ところが、この高雄寺でまた迷う。道が幾つもあって分かりにくいエリアで、道路にあった案内板通りに曲がったはずなのに、それらしき辺りまで来ても何もない。おかしいと思ってガイドブックで確かめると、どうやら道を行き過ぎていたらしい。

 どうにもならず、またスマホに頼る。あの案内標識が間違っていたようだ。一本手前の道を曲がらないといけなかったみたいで、引き返して正しい道に入る。スマホってなかなか便利なものだと感心する。





 どうして今はなきこんな廃寺に立ち寄ったかと言うと、高雄寺が、役行者(えんのぎょうじゃ)の名前で知られる役小角(えんのおづぬ)が建てたとされる古刹だからである。

 役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した人物で、修験道の開祖であり、安倍晴明(あべのせいめい)ですっかり有名になった呪術の会得者でもある。そう言うと伝説上の架空人物みたいだが、実在の人で、この近くの出身と伝えられる。

 元は賀茂氏(かもし)の系統だが、賀茂氏は、神武東征のおりに神武天皇を導いたとされる3本足の八咫烏(やたがらす)の末裔で、安倍晴明の陰陽道の師匠である賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子も同じ血筋になる。まぁ日本呪術界の出発点に当たるのが役小角ということだろう。

 とにかく伝説の多い人で、鬼を使役することが出来たとか、一晩で富士山を往復したとか、その超人的能力を語る逸話は枚挙にいとまがない。一度朝廷に捕らえられて伊豆に島流しになった記録が残っているが、その理由が、鬼と共謀して神を折檻した罪というのだから恐れ入る。当時からその霊力はつとに知られていたのだろう。

 葛城山や吉野山で修行を重ねるうちに吉野の金峯山(きんぷせん)で蔵王権現(ざおうごんげん)を感得し、その姿を桜の木に刻んで祀ったのが、現在吉野のランドマークになっている金峯山寺(きんぷせんじ)の始まりであり、現在まで脈々と続く修験道の総本山となっている。更に言うと、この時役小角が蔵王権現を刻んだのが桜の木だったため、吉野では桜が神聖視されて次々植樹され、有名な吉野の千本桜が生まれるに至った。こうして見ると、なかなかすごい人物である。

 そんなすごい人物が建てたお寺が今では収蔵庫だけというのも何だかなぁという気がするが、そこまで役小角の法力は効かなかったということか。

 さて、もう今度は迷わないぞと心に誓い、次は石光寺(せっこうじ)を目指す。廃寺と違って現役の寺は自らも宣伝方々案内を出しているので分かりやすい。道自体は曲がりくねって迷いやすいが、案内板に従って無事に門前にたどり着く。ここもまた、中将姫ゆかりの寺である。





 お寺の縁起によれば、飛鳥時代後期に天智天皇の勅願で建てられ、役小角の開山と伝えられている。当時、光る大石が見つかり、この石を彫り込んで弥勒三尊像(みろくさんぞんぞう)を作ったのが始まりで、それを安置するお堂が石光寺の出発点となっている。まさに寺名通りの縁起である。

 いくら役小角の開山といえども、それだけならここまで名を知られるようにはならなかったろう。この寺が有名なのは、別名である染寺(そめでら)の名前に由来する。

 上に中将姫の伝説を書いたが、中将姫が當麻曼荼羅を織るにあたり、蓮の茎から取った糸を染めたという話をした。蓮の茎を取りよせて糸を取り、その糸を井戸で清めると五色に染め上がったということだった。その井戸は染めの井と呼ばれ、この石光寺の中にあるのである。また、染めた糸を懸けて干した桜の木が糸掛桜として残っている。そんなわけで、この寺が染寺と呼ばれているのである。

 最近では花の寺としても有名なようで、牡丹の季節になると大勢の人が訪れるという。そう言えば、當麻寺の牡丹も有名だった。中将姫ゆかりの二つの寺が、同時に牡丹の寺というのも何かの縁だろうか。

 さて、ここからは二上山の麓に向かって行き、山裾をお隣の二上神社口駅目指してのんびり歩くことにする。畑に囲まれた一本道を進み、山裾の集落に入ったところで右手に折れて狭い道路に入る。完全な歩行者用道路ではないが、車はほとんど通らない静かな道である。

 暫く進むと、大きな池の先に賑やかな場所がある。地図で見ると道の駅のようで、次々に車が入って来て賑わっている。その山側に二上山ふるさと公園というのがあったので、休憩方々立ち寄る。まだ3月だということでお茶も持たずに来たのだが、4月並みに暖かい日だったため、歩いているうちに喉が渇いて来た。この辺りでトイレ休憩も兼ねて水分補給をしようと、ビジターセンターで一服する。

 私は本来、ウォーキングの際には本格的な休憩はほとんど取らない。ただ、今日は足慣らしも兼ねての散歩ということで、無理をせずにいこうと思って、のんびり椅子に座って休憩した。自動販売機で飲み物を買って、二上神社口駅までの道行きを地図で調べる。近道は国道沿いを歩くことだが、車が通るそばを歩いても気持ち良くない。多少遠くても引き続き山沿いの道を歩いて行くことに決めた。

 二上山ふるさと公園には展望台があって、そこまで一気に上がっていく階段が有名らしい。





 これを見ると子供はどうしても登りたくなるようで、親子で展望台目指して登っている人たちが多い。456段あると書いてあるので、一気に登るとかなり疲れると思う。一瞬登ろうかとも思ったが、既に二上山ふるさと公園自体が高台にあって眺望がきくし、気温が高いせいか靄がかかって遠くが霞んでしまっているので、展望台に上がって景色を楽しもうという気力が湧かずにやめておいた。

 この階段の下のところにゲートがあって、常時閉まった状態になっている。上り下りする人はゲートを開けて通る必要があるのだが、これはイノシシ対策らしい。この辺りにイノシシが出るとは思わなかった。二上山に生息しているイノシシということになるが、登山に行って出くわしたりするのだろうか。

 さて、飲み物を飲み終わり、トイレにも行って、再び二上神社口駅目指して歩き始める。山沿いの道はアップダウンがあるが、その分、麓に向かって眺望が開けていて気持ちがいい。途中、ハイキングとおぼしき十数名の一団とすれ違う。二上山への登山ルートは二上神社口駅側からも延びているようで、今日は天気も良いのでたくさんの人が頂上目指して登ったのだろう。

 車が一台も通らない静かな道を歩いて二上神社口駅近くまで行き、そこから右手に曲がって国道を渡り、駅まで着いた。電車は1時間に4本しかないので、暫く電車を待つ。プラットホームにいるのは私一人である。やがて、のんびりした感じの各駅停車の電車が来て乗り込んだ。

 この日歩いたのはトータルで1万4000歩弱。当麻に限って言えば1万歩強といったところか。多少アップダウンはあったが、概ね平地を歩くコースだったのでさして疲れることはなかった。この調子なら、春以降にウォーキングを再開しても大丈夫そうだなと安心した一日だった。








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