パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第10話:山の辺の道(後編) |
今回の奈良散歩記は前回の続きで、山の辺の道の後編である。 前回は天理市から歩き始めて柳本町まで進んだ。今回はその続きということで、柳本町からスタートすべく、JR天王寺駅から大和路快速に乗ってJR奈良駅へ行き、そこから桜井線に乗り換えて柳本駅まで行くコースを取った。季節は11月中旬で、紅葉を期待したが、まだ少し盛りには早かったようだ。 JR桜井線は、前回の帰りに柳本駅から桜井駅まで行くのに使ったが、何とものんびりとした線である。のどかな田園風景の中を二両編成のワンマン運転で走る。駅の多くは無人駅で、先頭車両の一番前のドアから出て、その際運転手に料金を渡す。線路は単線で、30分に一本くらいのペースで電車が走る。この線にはニックネームがあり「万葉まほろば線」という。 柳本駅に着くと、前回の道を逆にたどって、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)に沿うように進み、山の辺の道に入る。崇神天皇陵の背後に連なる山々を眺めているうちに、古事記に出て来る日本武尊(やまとたけるのみこと)の有名な歌を思い出した。 大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる大和しうるはし 日本武尊は、第12代の天皇である景行天皇(けいこうてんのう)の皇子だが、若い頃から乱暴者で父の景行天皇から疎んじられていた。日本武尊を近辺に置いておくと危ないと考えた景行天皇は、日本武尊に西日本の平定を命じる。日本武尊は熊襲(くまそ)や出雲(いずも)と争い、それに成功するとすぐさま東日本の平定を命じられ、今度は蝦夷(えみし)を成敗に出掛ける。まさに八面六臂の活躍で父の命に応えるが、自分自身、父から必ずしも愛されていないと感じながら戦い続ける。そして、東国から大和に帰って来る途中で、受けた傷が元になって伊勢で死去する。故郷を前にして亡くなる直前に詠んだ望郷の歌が、上の有名な思国歌(くにしのびうた)である。伝説的英雄ながら、どこか悲しさもつきまとう人である。 崇神天皇陵からスタートした道は山を下り、やがて開けた平地に出る。その先に存在感のある森が登場するが、これがこの日最初の訪問地となる景行天皇の陵墓である。景行天皇は上に書いた通り、日本武尊の父親に当たる。 すぐ近くの崇神天皇陵には前回訪れたが、同じくらいの大きさである。山の辺の道はこの陵墓の円丘をなぞるように進んでいる。古墳の名前は、所在地である渋谷の名にちなんで渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)と言うらしいが、宮内庁の正式名称は「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」となっている。崇神天皇陵と同じく、こちらにも山の辺の道の名前が入っている。 景行天皇は第12代の天皇であり、その実在性には疑問符が付く。古事記や日本書紀におけるこの時代の記述は、景行天皇の業績よりも日本武尊の活躍の方が多いらしい。乱暴者のドラ息子ではあったが、挙げた実績としては父親よりも優れていたということだろう。 奈良は四方を山に囲まれていて、こうした山々を古代の人々は青垣(あおがき)と呼んだ。先ほどの日本武尊の歌に出て来る青垣がまさにそれである。歌の大意は「大和は素晴らしい場所だ。幾重にも山が重なり、その山々に抱かれた大和は美しい。」といったところだが、望郷の念に駆られながら、若くして異国の地で亡くなった日本武尊の訃報に接し、父親の景行天皇は、日本武尊が平定した東国に出向き、帰路、伊勢に立ち寄っている。 日本武尊は死後に白鳥となり、この大和に舞い降りたと伝えられるが、そんな話が残るあたり、悲劇の英雄に同情する者が多かったということだろう。日本武尊の墓は伊勢にあるらしいが、その魂は青垣に囲まれた大和の地に眠っているのかもしれない。 景行天皇陵を離れると、道は山沿いの畑の脇をゆるやかにカーブしながら進む。暫く行って振り返ると、景行天皇陵がどっしりと横たわっているのが見える。離れて見ると、前方後円墳の全体が見え、かなり大きな陵墓だということが実感できる。 山の辺の道は、所々に畑のある山裾を、アップダウンを繰り返しながら進む。やがて、かなり細い道に入り、暫く行くと穴師の集落付近に出る。一旦、家並みの続く自動車道に合流し、山の方に上がっていくが、途中で右折して細い道に入り、その先で下って次の集落に入る。ここもまだ穴師らしい。道の所々から集落が鳥瞰できる。 穴師は、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)ゆかりの地だったという話を聞いたことがある。 山の辺の道には人麻呂の歌碑がたくさんあるが、前回歩いた中山大塚古墳近辺の歌碑には、人麻呂が山の辺の道を帰りながら亡き妻を偲んで詠んだ歌が刻まれている。 「衾道(ふすまじ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」 引手の山は今の龍王山のことらしく、この日のスタート地点である柳本町のそばにある。人麻呂はそこに妻を葬り、山の辺の道を歩きながら亡き妻を思い、生きる気力を失っていた。家に着いてからも、妻を思い、もう一首詠んでいる。他にもこの辺りのことを詠んだ歌が幾つもあり、住まいも山の辺の道沿いにあったのではないかと見られている。 そうは言っても、人麻呂については歌が残っているだけで、その生涯に関する確かな記録はほとんどない。従って、どこに住んでいたかも特定できない。ただ、彼もこの道を何度か歩いていることだけは事実だ。人麻呂が様々な思いにふけりながら歩き、歌を詠んだのと同じ道をこうして歩いていると、何とも不思議な気分にさせられる。 今回は立ち寄らなかったが、穴師の集落を山の方へ上がったところに、相撲神社(すもうじんじゃ)、更に奥に大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)という二つの神社がある。 相撲神社は、相撲発祥の地とされる場所である。日本書紀によれば、垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に、当麻(たいま)に当麻蹴速(たいまのけはや)という力持ちがいて、戦う相手を探していた。それを聞いた垂仁天皇は、出雲から野見宿禰(のみのすくね)という力自慢を呼び寄せ、自分の見ている前で戦わせた。これが相撲の始まりであり、その場所がここだったとされている。相撲そのものは皆が遊びとしてやっていたのだろうが、稀代の力自慢同士が天皇の前でやった初めての天覧相撲だったという点が、神社まで建立された理由だろう。 大兵主神社の方は少々変わった神社で、本来は別々だった三つの神社を一つにまとめ、本殿が三つ並んでいるという。それぞれの本殿に、兵主神、若御魂神、大兵主神の三つの神様が祀られているが、兵主神は生産・平和・知恵の神様、若御魂神は芸能の神様、大兵主神は相撲の神様らしい。会社の合併はよく聞くが、神社の合併なんてものもあるんだなと妙に感心した。宗教というのは、結構自由度の高いものなのだ。 やがて山の辺の道は、車谷という集落で小さな川に差し掛かる。巻向川(まきむくがわ)である。この川は、柿本人麻呂の歌にも何度か登場するようであるが、橋を渡った先は神の領域となる。川の南側の山は有名な三輪山であり、山自体が御神体なのである。 山の辺の道は三輪山の麓から多少上りになり山道に入る。三輪山側には有刺鉄線付きの木の杭が並び、立入禁止の神域となる。森を抜けると景色の良い山道となり、麓に広がる民家や畑が遠望できる。紅葉にはやや早いが、色付いている木々もあり、のどかな秋の風景にほっと一息つける場所である。 道はその先で、檜原神社(ひばらじんじゃ)の境内に横から入る。二本の木の上に注連縄が張られた三輪の神社特有の鳥居が出迎えてくれる。 檜原神社は、この先にある大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社であり、小さな神社だが、見過ごせないほど重要な神社である。 まずはその姿が人目を惹く。鳥居を3つつなぎ合わせたような三輪鳥居と言われる不思議な鳥居が立ち、神社の中心である本殿や拝殿はない。背後にそびえる三輪山そのものを御神体としているためである。 また、この場所は高台になっているのだが、笠縫邑(かさぬいむら)のあった場所ではないかと言われている。 「日本書紀」によれば、皇室の始祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)は、最初倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)と一緒に宮中に祀られていたが、二つの強力な神を宮中に祀るのは恐れ多いとして、崇神天皇の時代になって外で祀ることになった。このとき天照大神が移った先が、大和の笠縫邑とされている。その後、垂仁天皇の時代になって伊勢に移って伊勢神宮(いせじんぐう)が出来るのである。こうした経緯で檜原神社は、伊勢神宮の元になった神社として「元伊勢(もといせ)」と呼ばれている。 ちなみに、宮中から出されたもう一つの神である倭大国魂神は、前回の山の辺の道散歩の際に触れた大和神社(おおやまとじんじゃ)に祀られている。 天照大神を笠縫邑に移して祀るにあたって、崇神天皇は自分の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を自分の代理としてつけている。彼女は笠縫邑で祭祀を続け、垂仁天皇の時代に交替するまでこの地にいたという。このため、三輪鳥居の脇には豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)もある。写真左の小さな社がそれである。 伊勢神宮に天照大神が移って以降、天皇に代わって伊勢神宮で天照大神に仕えるため、「斎宮(いつきのみや)」と呼ばれる女性が皇族から選ばれ派遣されるしきたりがあったが、その始まりはこの豊鍬入姫命だったともいう。 山の辺の道は、三輪鳥居のすぐ横から森の中へと続いている。境内を堂々と横切っているあたり、最古の官道の存在感がいや増す。道の入り口にはさっきと同じ、二本の木の上に注連縄が張られた独特の鳥居があり、その下には柿本人麻呂の歌碑が置かれている。そこから先は山道となり玄賓庵(げんぴんあん)へと続く。 私が山の辺の道の後半で最も注目していたのが、この檜原神社から玄賓庵へと続く道である。鬱蒼とした森に囲まれた細い山道の傍らに「山邊道」の石碑が立っている。ずっとこの場所を探していたのである。 私がそもそもこの山の辺の道という古い官道の存在を知ったのは大学生の頃であり、その情報源は、この奈良散歩記に何度も登場する写真家入江泰吉氏の「大和路」というムックである。 「大和路」の中には山の辺の道沿いの写真が何枚か掲載され、これがどういう道であるのか、巻末に紹介がある。一足々々が古代を踏んでいると入江泰吉氏は語り、道沿いの見どころを幾つか紹介している。しかし、写真の大半は名所旧跡ではなく、道沿いの何気ない風景である。そしてその中の一枚が、玄賓庵へと通じる道の傍らにある「山邊道」の石碑を写したものだった。私は、その風景に深く魅了され、山の辺の道と聞くとその一枚の写真を思い出すほどだった。 しかし、今回山の辺の道を訪ねるに当たり、不安だった点が一つあった。「山邊道」の石碑は今から数十年前に写されたものであり、果たして今もあるのか分からないという点である。長い歳月のうちに朽ちて失われているかもしれない。そう思いながら、檜原神社から玄賓庵へと続く道をゆっくりと探し歩いた。そして、上の写真にある石碑を見つけたのである。 その石碑の側面に、この味のある題字を揮毫した人の名前が彫られている。覗き込んでハッとした。同じ字体で「小林秀雄」(こばやしひでお)とあった。書道家の字だろうと勝手に思っていた私は、少々虚をつかれた気がした。そうだったのか、と改めて思った。小林秀雄は一時期関西に在住し、奈良にもたびたび来ていた。奈良市内に住んでいた志賀直哉(しがなおや)のもとを訪ねていたようである。ならば山の辺の道も歩いていよう。私は、思いがけぬ人に会ったような気になって、暫し「山邊道」の石碑のそばにたたずんでいた。 ついにあの写真の場所を発見したのである。山の辺の道にあるどんな名所旧跡よりも、私にとっては意味のある場所である。まだ「山邊道」の石碑が健在だったことは幸いだったし、その揮毫者も知った。誰もが立ち止まることもなく通り過ぎるこの場所で、私はこの日の最高潮を迎えた気がして胸が熱くなった。2回目の奈良散歩で、白毫寺(びゃくごうじ)の石段に立ったときと同じような気分だった。 どのくらいこの狭い山道にたたずんでいたのか知らないが、やがて歩を進め玄賓庵に向かうことにした。それでも、幾ばくか後ろ髪を引かれたのは事実である。東京に戻れば、奈良に観光に来ることはあっても、こんな場所まで足を運ぶ余裕はない。おそらく一期一会の出会いになる場所を、去りがたい思いに駆られながら後にした。 下り坂の古い石段の先に岩清水の流れるせせらぎがあり、それを越えると白壁が見える。 玄賓庵は三輪山の麓にある寺院であるが、元は平安初期の高僧で天皇の信任も厚かった玄賓僧都(げんぴんそうず)が隠棲した庵である。庵は元々三輪山の聖域内にあったらしいが、明治政府が行った神仏分離政策によりここに移築されたと聞く。 この玄賓僧都のもとに三輪山の神が美しい女性となって通って来る話を、世阿弥が謡曲「三輪」として書いている。この能は、大神神社で毎年春に披露されるらしい。ただ、後の方でも触れることだが、三輪山の神が人の姿を取って現れるときは、男性というのが普通である。 ほとんど人が立ち寄ることのない小さな寺だが、この日は拝観料を払って中に入った。拝観料といっても定額ではなく、山門に置いてある賽銭箱に寸志を投げ入れればよいことになっている。賽銭箱に幾ら入れたのかを見ている人もいない。すべて善意の世界である。 境内は、傾斜面にわずかな建物が並ぶ小さなものであり、隠棲した僧都が住んでいたのにふさわしい、隠れ家的な味わいがある。そういえば、入江泰吉氏による玄賓庵の写真は、白梅の背後に枯野と背景の山が写っているだけである。おそらく、玄賓僧都も庵から同じような景色を見ていたはずであり、考えてみれば心憎い構図だし、この境内のイメージともよく合う。 玄賓庵を出ると、山の辺の道はのどかな野原へと続いている。その先を暫く行くと橋を渡って山側に入っていく。森の中を進むと、狭井川(さいがわ)という細い川が流れている。気付かずに通り過ぎそうな川だが、古事記にも登場する有名な川である。ここを渡ると狭井神社(さいじんじゃ)の鳥居がある。けっこうな人で賑わっているが、おそらくは大神神社に参拝に来た人がこちらにも立ち寄っているのだろう。 狭井神社は、檜原神社と同じく大神神社の摂社で、三輪山を御神体とする神社群の一つである。 大神神社が三輪山自体を御神体として祀っているという話は何度か書いたが、この狭井神社に祀られているのは、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)だということになっている。摂社には別の神が祀られているのだろうかと最初は思ったのだが、これは、大神神社に祀られている神の荒魂だけを祀っているということらしい。要するに、「大神のうち荒ぶる魂」というわけである。 ではいったい荒ぶる魂って何だということになる。これについては、この狭井神社が病気平癒のための神社だということを知れば、何となく理解できる。この神社の縁起を読むと、春に花粉が飛ぶ頃に様々な病気が流行するので、これを鎮めるために荒ぶる魂を祀ったというのが起源だと書いてある。そのため、垂仁天皇の時代から鎮花祭(はなしずめまつり)という祭事を行っているようで、今でも毎年4月に行われるとある。 神社縁起を読むと誰でも思い当たることがあろう。そう、花粉症である。しかし、花粉症って現代病のように思っていたが、神とも人ともつかない垂仁天皇の時代からあったのだろうか。それとも季節の変わり目なので、風邪のことを指しているんだろうか。 いずれにせよ、病気平癒に効く神社ということで、人々に親しまれている。参詣する人たちのお目当ては、神社の名前にもなっている神聖な井戸「狭井(さい)」のようである。 拝殿の後ろにその井戸があるが、昔からここに湧く水は薬水だと言われている。ロケーションから言って、御神体である三輪山の湧き水だからそう信じられても不思議はなかろう。今でも湧いていて、自由に飲めるし、ボトルを持参して水を汲んでいく人も多いと聞く。しかし、見た目は井戸ではなく石造りの共同水飲み場といった風で、何とボタンを押すと水が出て来る仕掛けだ。花粉症に効くのかどうかは分からないし、私は花粉症ではないので何とも言えないが、喉が渇いていたので備え付けのコップに一杯入れて飲んでみた。信じる者は救われるというが、信心のない私の体調には、その後特に変化はない。 ところで、狭井神社の名前の由来はもう一つあるらしい。「さい」というのは山百合の古名らしく、その根であるユリ根が薬として使われることから、この名前がついたという説もある。今でも山百合は神聖視されており、境内にも山百合に手を触れないよう注意書きがあった。ちなみに、先ほど渡った狭井川も山百合の名所と聞く。むしろ、向こうの方が山百合の本家かもしれない。 もう一つ、この神社を有名にしているのは、御神体である三輪山への登山道が、この神社の拝殿脇から山頂に延びているという点である。但し、自由には登れない。参拝のために登る場合に限って、社務所で初穂料を納めてからたすきをかけて登るという決まりになっている。登るのは参拝のためなので、飲食も写真撮影も禁止である。要するに神社の本殿の中と同じ決まりということだ。窮屈な話ではあるが、明治時代になるまでは一般人の入山は一切禁止だったようなので、制約付きとはいえ登れるようになったこと自体、ありがたいことではある。 山の辺の道を挟んで狭井神社の反対側に久延彦神社(くえひこじんじゃ)という知恵の神を祀る神社があるが、そこにいく途中に展望台があるというので寄ってみた。 ここからは、天香久山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山が一望できる。写真の左から、天香久山、畝傍山、耳成山と並んでいる。その更に向こうにうっすらと見えるのは葛城山や金剛山など、いわゆる葛城山系と呼ばれる山々のようだ。 写真右端に大きな鳥居が写っているが、これは大神神社の鳥居である。国道や電車からもはっきり見える巨大なもので、周囲には高い建物がないため、まさに聳え立っているという感じである。自動車道に立っていて、その大きさは日本一とも言われる。 地元の人に面白い話を聞いた。この大神神社の本来の鳥居はこれではないというのである。元々大神神社には一の鳥居、二の鳥居の二つがあるが、一の鳥居はもっと狭い道にあるらしい。昭和天皇が大神神社に参拝された時に、一の鳥居の道が狭いため、広い自動車道から入ることになったが、昭和天皇が一言「参道に鳥居がなかったね」と言われて、慌ててこの大鳥居を造ったというのである。確かに大鳥居の由緒を見ると、「昭和天皇ご親拝を記念、また御在位60年を奉祝して建立」とあるから、満更嘘ではないかもしれない。 さて、山の辺の道に戻り、いよいよこの神域の中心である大神神社に入る。狭井神社から既に境内を通っているという雰囲気であるが、道の両側には石灯篭が並び、摂社もある。行きかう人の数も多く、人気の高い神社であることが分かる。ほどなく歩くと大神神社拝殿の脇に出る。やはりここでも、山の辺の道は神社の一番中心部を貫くように通っている。 大神神社については、ここに至るまでに何度か触れた。三輪山を御神体とする日本最古の神社で、その歴史は前回山の辺の道を周り始めた時に最初に訪れた石上神宮(いそのかみじんぐう)と並ぶ古さである。といっても、正確な歴史が判っているわけではない。 神社の縁起によれば、この神社を造ったのは神自身ということになっている。「古事記」に創建の下りが出て来るが、因幡の白兎で有名な大国主神(おおくにぬしのかみ/天照大神のおいに当たる神)が国造りに悩んでいたところ、海の果てから光が現れ、自分はお前自身の魂だと名のったという。そして、自分を大和にある三輪山に祀れば国造りはうまくいくと諭した。そこで大国主神は、この魂を大物主神(おおものぬしのかみ)として三輪山に祀った。これが大神神社の起源ということのようだ。 そもそも、初代天皇である神武天皇が九州を出発して大和の地に入ったとき、もうこの神社は存在していたらしい。この地方を支配する豪族により祭祀が営まれていたが、皇室もそれを受け継いで大切にしたと伝えられる。 三輪山が御神体のこの神社には本殿はない。三輪山の中に神の依り代(よりしろ)となる磐座(いわくら)と呼ばれる巨石があって、これが神社の中心である。麓にある大神神社からは、写真に見える拝殿の背後にある三輪鳥居越しに山を拝む形で参拝を行うことになっている。こうした形式は古神道では普通のことだったようだが、そのうち神の依り代のある場所に社殿を建てるようになって、今の神社の形式になったと伝えられる。そういう意味では、大神神社は原始的な神道の様式をそのまま今に伝えている珍しい神社である。 ちなみに、先ほど通って来た道の脇に磐座神社(いわくらじんじゃ)という摂社があるが、ここはまさに磐座がそのまま置いてある原始的な神社形式である。鳥居の向こうに白い柵に囲まれた岩があり、そこには少彦命神(すくなひこなのかみ)が宿っているという。少彦命神は、大神神社を造ったとされる大国主神と共に、国造りを行っていた神である。 ところで、大国主神によって三輪山に祀られた大物主神の実態は蛇神であるとされており、その化身である白蛇が出入りする洞のある杉が拝殿脇にある。この巨大な杉は、巳の神杉(みのかみすぎ)と呼ばれていて、確かに根本に穴が開いている。 大物主神は時として人間の男性の姿となって現れ、幾多の女性と恋に落ちた話が伝わっている。先ほど訪れた檜原神社の西に、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)の墓ではないかと話題になっている箸墓古墳(はしはかこふん)があるが、ここに祀られているのは宮内庁の認定では、第7代天皇である孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とされている。日本書紀によれば、この人も大物主神の恋の相手である。 箸墓古墳は、先ほど行った檜原神社から1.5kmほど西に行ったところにあり、やや遠いため今回は足を運ばなかったが、その横を通る国道から車でその姿を見たことがある。遠くからでもはっきり古墳だと分かる大きなものであった。 さて、日本書紀の言い伝えはこういう話である。崇神天皇の時代に疫病が蔓延したため占ったところ、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑依して「自分を篤く祀れば疫病はおさまる」と告げたので、その通りにすると疫病はおさまった。その後、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となるが、大物主神は夜にならないとやって来ない。姫が昼間に会いたいと告げると「では明日、櫛入れの函を覗いてみよ」と言われた。朝になってが姫が櫛函を開くと蛇が入っていた。姫が驚くと、蛇は人の形となり三輪山の方に飛んで行った。驚いた姫は箸で身体を突いて亡くなってしまう。俗に三輪山伝説と言われるものだが、箸墓古墳の名の由来はこの話に基づいているようだ。 また、大物主神は水や雷などの自然現象も司っているらしく、その本性は善神としてだけでなく、人々に災いをもたらす荒ぶる神としても畏れられていた。先ほどの狭井神社が出来たのも、そうした大物主神の一面を良く表している。 大神神社の拝殿脇から南に行く道が山の辺の道の続きだが、境内を離れると嘘のように人の行き来がなくなる。畑と民家がまばらに連なる静かな道を歩く。ほどなくして道は狭くなり竹林の中に入るが、その手前にあるのが平等寺(びょうどうじ)である。 平等寺は、先ほど訪れた大神神社の神宮寺の一つだった寺で、明治政府が行った神仏分離政策の余波で廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れた際に一旦は廃寺となった。その後、有志の計らいで復興が始まり、昭和50年代になって再び寺院として再スタートしている。廃寺からちょうど百年目のことだったようだ。 ちなみに、大神神社には平等寺、大御輪寺、浄願寺と、三つの大きな神宮寺があったが、平等寺以外の2寺は廃仏毀釈の中で廃寺となり現存していない。 寺の縁起では聖徳太子が開いた寺となっているが、以前に触れた聖徳太子ゆかりの七大寺には入っていない。しかし、古くから多くの学僧を集めて修行の場として栄えていたほか、江戸時代に入って醍醐寺(だいごじ)や興福寺(こうふくじ)とも関係し修験道の霊地にもなっていたらしい。 この寺に対する廃仏毀釈の嵐が激しかったのは、日本最古の神社である大神神社ゆかりの神宮寺だった点が災いしたのだろうか。大神神社から仏教の匂いを完全に無くすという人々の思いが、長い歴史があり寺勢も盛んな大寺院を一つ潰してしまったわけだ。 平等寺を出ると、道は寺を囲む竹林を大きく回りこんで蛇行し、山の縁に沿って進む。ほどなくして金屋の集落の入り口に出る。 山の辺の道には歌碑が多いという話をしたが、石仏もたくさんある。その中でも一番有名なのは、金屋の石仏(かなやのせきぶつ)だろう。 平等寺から暫く行った道沿いにコンクリート造りのお堂がある。一応案内板はあるものの、気を付けていないと通り過ぎてしまうような殺風景な外観である。その中に2枚の石版に彫られた釈迦如来(しゃかにょらい/右)と弥勒菩薩(みろくぼさつ/左)が安置されている。案内板によれば高さ2.2m、幅80cmという、かなり大きなものである。造られたのは平安時代から鎌倉時代の間であろうと推測されている。右の釈迦如来は石棺の蓋に彫られたものらしいが、いったいどこの石棺から取って来たのだろうか。 この石仏は元々ここにあったものではなく、先ほどの平等寺にあったものらしい。廃仏毀釈の嵐の中で壊されそうになっていたのを、村人が運び出して救ったと聞く。げに恐ろしきは廃仏毀釈。こうして何とか難を免れた遺物を見ていると、なくなったものの膨大な価値に、気が遠くなる思いだ。日本国民が熱狂すると、とかく碌なことがないという、いい証拠だと思う。 ここから先は集落の中を歩くことになる。そろそろ山の辺の道も終点となるが、道が大和川(やまとがわ)に差し掛かる手前辺りが海柘榴市跡(つばいちあと)とされる場所である。下の写真は大和川を撮影したものであるが、この左岸の山裾の辺りということになろうか。枕草紙(まくらのそうし)、源氏物語(げんじものがたり)や蜻蛉日記(かげろうにっき)にも登場し、江戸時代は長谷寺(はせでら)や伊勢神宮への参詣の中継点として栄えた場所である。ちなみに、海柘榴(つば)というのは椿の古語だそうである。 海柘榴市は日本最古の市が開かれていた場所である。大阪から大和川を遡って来た船がこの場所に着き、ここから奈良方面へ山の辺の道、飛鳥方面へ磐余(いわれ)の道、更に長谷寺、伊勢神宮方面に抜ける初瀬街道(はせかいどう)が延びており、交通の要所だったと伝えられる。そうした場所に人々が特産品を持って集まり、売買がされたわけである。 大和の外との人の往来もここが起点となった。欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の使者が仏像・仏典を持って上陸したのもこの地だし、聖徳太子が派遣した初の遣隋使もここから大和川を下っている。川べりに「仏教伝来の地」の碑が立っているのも、そうした歴史があってのことである。 また、人がたくさん集まる場所だったため、古代の男女の出会いの場であった歌垣(うたがき)も行なわれていた。春と秋に若い男女が集まり、互いに歌を交わして相手を見つけたらしい。万葉集にも海柘榴市の名前が出て来ると聞く。 この海柘榴市の歌垣にまつわる悲恋物語として、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘、影媛(かげひめ)が登場する。日本書紀に出て来る有名な話で、これを知ったのは、入江泰吉氏の「大和路」の解説文によってである。 第25代の天皇である武烈天皇(ぶれつてんのう)がまだ皇太子だった時代の話である。影媛の評判を聞いて皇太子は言い寄るが、そもそも影媛にその気はない。しかし、即座に断るのも差障りがあると考えて、影媛は海柘榴市の歌垣に来てくれと話す。その歌垣の場で皇太子は、影媛を巡ってライバルの平群鮪(へぐりのしび)と争いになる。歌のやり取りの末に平群鮪が勝つのだが、怒った武烈天皇は兵を派遣し平群鮪を殺してしまう。 もともと武烈天皇は残忍な性格だったらしく、日本書紀でも残虐非道な彼の所業が列挙されている。その記述が正しいのだとすれば、この襲撃事件もさもありなんということだが、哀れなのは影媛である。 日本書紀によれば、平群鮪の死を知った影媛は、半狂乱になって泣きながら山の辺の道を駆け、恋人殺害の現場に向かったという。この様子を詠んだ歌が日本書紀にあり秀歌とされているが、「泣きそぼち行くも影媛あわれ」の言葉で結ばれている。 さて、2回に分けて歩いた山の辺の道散策も、この海柘榴市跡で終わりとなる。日本最古の官道にして神の山の裾野を通る素朴な道のそこここに、多くの古代の面影が宿っているのを実感した。これまで奈良の様々な道を歩いたが、山の辺の道はとりわけ印象に残る道行きだった。 この後、大和川から20分ほど歩いて近鉄の桜井駅に向かう。もう山の辺の道は外れているが、道には駅までの間、案内のタイルが埋め込まれており、観光客が迷わないようにしている。こういうところを見ても、山の辺の道が多くのハイカーに親しまれていることが分かる。 この日歩いたのは10km強。まずまずの距離だろう。心地良い疲労感を覚えながら、桜井駅から急行に乗って大阪まで戻った。 |
目次ページに戻る | 本館に戻る |
(C) 休日画廊/Holidays Gallery. All rights reserved.