パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第9話:山の辺の道(前編) |
ここまでの奈良散歩で、奈良市を中心とした一般的な名所はあらかた歩いたことになる。当初行こうと思っていた散歩コースで、最後に残ったのは「山の辺の道(やまのべのみち)」である。 山の辺の道は、奈良と飛鳥を結ぶ日本最古の官道である。ともに神の山とされる春日山(かすがやま)と三輪山(みわやま)を南北に結んでいる。今の地図で言えば、奈良市と桜井市を結ぶ形になるが、桜井市のすぐ南が飛鳥なので、奈良と飛鳥を結んでいるとも言えるだろう。ちなみに、桜井と飛鳥を結ぶ古道としては、磐余の道(いわれのみち)があるが、これは現在、大半が一般道になっていると言われており、ガイドブックなどにも登場しない忘れられた道になっている。 山の辺の道は文字通り、春日山と三輪山の間に連なる奈良盆地東部の山々の裾を縫うように延びている。そのうち、市で言えば、奈良市と天理市を結ぶ山の辺の道を「北・山の辺の道」と呼んでいる。一般に「山の辺の道」と言うときはこれとは別に、その南側となる天理市から桜井市までを指している。これは、天理市から桜井市までの道がよく整備されており、ハイキングコースとして親しまれているからのようだ。私も地元の人のアドバイスに従って、天理市から桜井市までを歩くことにした。 天理市から桜井市までの山の辺の道は、全長16〜7kmある。あちこち立ち寄りながら歩けば20数キロは確実だろう。そうなると、朝から歩き始めれば別だが、私のように午後から歩く人には、一日で全行程走破は無理である。季節は11月なので、午後5時には暗くなる。市街地ならまだしも、日が暮れてから山道を歩くのは危ないため、飛鳥のときのように行程を二日に分けることにした。ちょうど真ん中辺りを取って、天理市から柳本町までと、柳本町から桜井市までの二つに分けて、二日間かけて周る計画を立てた。そんなわけで今回は、天理市から柳本町までの散歩記ということになる。 季節は11月の初め。JR環状線で鶴橋駅まで行き、近鉄奈良線に乗り換えて大和西大寺駅まで行く。そこから同じ近鉄の橿原線を走る天理行き電車をつかまえるという方法を使った。天理市までは別の行き方もあるが、一度乗ったことのある線を使った方が勝手が分かるだろうと思ってのことだ。家を出てから1時間15分程度かかる。今まで行った中では、最も遠い場所だろう。 天理から始まる山の辺の道のスタート地点は、天理市の東に連なる山の麓にある石上神宮(いそのかみじんぐう)である。ここに行くのに、天理駅から徒歩で30分くらいかかる。ガイドブックでは、あとの長い行程を考えてタクシーの利用を勧めたりしているが、こちらは健康管理のために歩きに来たのだし、行程も2回に分けたので、何の心配もいらない。ということで、駅から歩いて石上神宮に向かう。 アーケード付きの長い商店街をひたすら歩く。天理市は、天理教の関係施設が集中する総本山であり、そこここに黒い法被を着た信者の人がいる。アーケードが切れたところに天理教本部があり、その立派さに驚く。周りは全て天理教の関連施設らしい。さすが、宗教名が市名になるだけのことはあると感心した。 天理教本部を東に抜けると山は目の前で、その麓に石上神宮がある。山の辺の道の標識を見つけて、あとは道案内に沿って歩く。暫く行くと石上神宮の鳥居が見えた。 石上神宮は、古事記、日本書紀に伊勢神宮と並んで登場する非常に古い神社で、一般に神社と呼ばれる存在では、日本最古と言われている。長い歴史を持つため、幾つもの別名があるらしい。 以前に飛鳥を散策した際、百済より日本に仏教が伝えられたおり、仏教を受け入れようとした蘇我氏(そがし)と、神道を重んじて異教を拒否した物部氏(もののべし)が対立し、やがて軍事衝突が起きたという話を書いたが、その仏教受入れ反対派の筆頭だった物部氏の氏神が、この石上神宮なのである。 古い神社とあって、ご神体や創建の経緯なども、一般の神社とは異なる。普通の神社だと「○○ぬしのみこと」を祀っているみたいな形になるが、ここに祀られている3つの主祭神はなかなか興味深い。 まず最初は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)というのだが、おそらくほとんどの人は聞いたことすらない名前だろう。日本神話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)が武甕雷神(たけみかづちのかみ)を遣わして下界、すなわち人間界を平定したということになっているが、その時に武甕雷神が持っていた神剣を布都御魂(ふつのみたま)と言う。石上神宮の主祭神の第一は、この神剣なのである。 ちなみにこの神剣は、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)が九州を出発し大和を平定するまでの、いわゆる神武東征(じんむとうせい)の際にも登場している。熊野で劣勢に立った神武天皇に武甕雷神がこの神剣を授け、一気に形勢が逆転する。神武天皇は在位中にこの神剣を宮中に祀っていたが、その祭祀を任されていたのが物部氏の祖先なのである。そんな縁で、崇神天皇(すじんてんのう)の時代になって、物部氏の祖先により石上神宮に移され、ここの御神体となったという経緯がある。 第二の主祭神は、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)というのだが、これも誰も知らないだろう。神武東征のおりに大和地方で神武天皇に帰順した饒速日命(にぎはやひのみこと)が天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)という神宝を持っていた。これには、死んだ人間を生き返らせる力があったらしい。その神宝に宿るパワーを布留御魂大神と呼んでおり、これが第二の主祭神というわけである。ちなみに、饒速日命は物部氏の祖先であり、物部家に代々伝わる家宝を主祭神に据えたということになる。 第三の主祭神は、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)という。これもまた聞いたことない名前だが、由来を聞けば「あぁ」となるシロモノである。天照大神の弟である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する際に使った剣を天十握剣(あめのとつかのつるぎ)というのだが、その剣に宿るパワーのことを布都斯魂大神と呼んで祀っているのである。「えっ、でも八岐大蛇の尾を切った際に、尾の中にあった草那芸之大刀(くさなぎのたち)に当たって天十握剣の刃が欠けちゃったんじゃないの」という声が聞こえて来そうだが、そこのところの詮索をすると御霊験に陰りが出そうなので止めておこう。 さて、由緒はそれくらいにして、この神社の歴史を見ると、蘇我氏と物部氏の軍事衝突で物部氏は滅びるが、石上神宮は衰退することなく信仰を集め、一定の勢力を維持していたようだ。しかし、戦国時代に織田信長の侵攻を受け、所領は没収されて衰退していった。その後は、明治期になるまで地域の氏子に支えられながら、何とかしのいで来たというのが実態である 境内を暫し散策したが、それほど広いわけではない。ただ、鬱蒼とした森の中にいる感じで、古語に「神さびる」という言葉があるが、まさにそんな印象を受ける神社である。それと、立派な鶏が多数放し飼いにされている。神社の案内を見ると、鶏は神の使いとして神聖視されているらしい。数十羽いるというが、寝る時も原則屋外らしい。その他には、境内の池にワタカという日本特産の淡水魚が棲んでいると案内板にあった。奈良県内では、ここと東大寺鏡池にしかいない天然記念物である。確かに魚が何匹も泳いでいたが、あれがワタカだったのだろうか。 さて、これからいよいよ山の辺の道を歩くことになる。山の辺の道は、石上神宮の境内を通っており、ここが北山の辺の道と、通常の山の辺の道の結節点になるようだ。道標に沿って山裾を南に歩き出した。 山の辺の道は、土の部分もあればコンクリート舗装されている部分もある。一部は自動車道と交わり、時には山の中を歩く。アップダウンも結構ある。ただ、至るところに道標が完備されていて、道に迷うことはない。それに、かなりの数の人が歩いている。人の流れを見れば、どこが山の辺の道か一目瞭然である。 やがて山の辺の道は畑の中を通り、大きな池にたどり着く。ここは内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の跡と伝えられる場所である。池のほとりには芭蕉の句碑と「萱御所跡」(かやのごしょあと)の石碑が立っている。 内山永久寺は、平安時代に鳥羽天皇(とばてんのう)の勅願により、藤原家の氏寺である興福寺(こうふくじ)と縁の深い寺として創建された。40以上の伽藍を備えた巨大寺院であったらしく、江戸時代に至るまで寺勢を維持し、多くの参拝者を集めたようだ。池の傍らに、ありし日の寺の見取り図が掲示してあるが、この池など境内のほんの一部でしかない。見取り図通りの広がりだとすると、見渡す限り境内だったことになる。 では、近世まで続いた大寺院がどうして跡形もなく消えうせたのか。実は、明治政府が行った神仏分離政策により、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れ、その犠牲になった内山永久寺は、廃寺となり僧侶も離れ、破壊と略奪の対象となり滅んだのである。 どうしてこんなことになったのかを探っていくと、仏教の流入にまで問題は遡る。蘇我氏と物部氏の争いで蘇我氏が勝利し、仏教が日本に入って来ると、元からあった神道との関係が色々と問題になった。そうなるだろうと思って物部氏は仏教受入れに反対していたわけだが、後の祭りである。 教義の違う二つの宗教を一つの国の中で共に尊重しようとすれば、双方の歩み寄りしかない。神道と仏教は次第に融合していき、神道は仏教に取り込まれていってしまう。こうした現象を日本史の教科書では「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)なんて言葉で解説していたことを記憶している人もいよう。 現に内山永久寺も、先に見た石上神宮に付属する寺とみなされるようになった。こういう寺のことを日本史の教科書では「神宮寺」(じんぐうじ)と呼んでいた。 ところが明治政府の登場で、状況はガラリと変わる。天皇の権威を中心に統治体制を作ろうとした明治政府は、神道と仏教の分離を試みる。元々皇室の祖先は天照大神であり、神道中心で行くのが新しい時代にふさわしい。しかし、過去の動きはどちらかというと仏教優位であり、新しい国家観を生み出すためにはこれを打破せねばならない。まぁそんな考えで、神道から仏教を引き離そうとしたわけだが、これが仏教の棄却に結び付き、寺や仏像の破壊運動が全国に吹き荒れたという次第である。 この時全国で破壊され失われた、伝統ある寺院建築や仏像、仏宝の量を考えると、日本国民として気が遠くなる。この内山永久寺にも、その歴史と寺勢の賜物とも言うべき国宝級の収蔵品が山のようにあったらしいが、全て失われた。実にもったいない話である。 この内山永久寺跡(うちやまえいきゅうじあと)に立った人は、当時の日本人の愚かな行いに思いを馳せ、国民の選択というのは時に恐ろしい事態を引き起こすことを肝に銘じた方がいい気がする。 ところで、石碑にある萱御所跡っていうのは何かという疑問が湧く。 実は、鎌倉幕府を倒して建武の新政(けんむのしんせい)を行った後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が、離反した足利尊氏(あしかがたかうじ)の攻勢を受けて一時ここに隠れ住んだのである。その時の館の名前が萱御所というわけである。その後、後醍醐天皇は吉野山に逃れ南朝を築くことになるのは、皆様ご存じの通りである。 さて、先を急ごう。内山永久寺跡から道は次第に山へと入り、森の中を少し登ってから、石畳の急な坂道を降りて行く。この石畳の急坂は少々下りるのに難儀した。前の人たちも恐る々々下りているのが見える。足腰の弱い人には無理だと思う。どうも地図を見ると、もう少しゆるい回り道があるらしい。この石畳の坂道は近道ということだろう。 山の辺の道の解説で、今日歩こうとしている部分は健脚者向けで、のんびり行きたい人は桜井と長岳寺の間を歩くなんて記述があったが、確かにそうかもしれないと思った。いずれにせよ、飛鳥と違って自転車は無理である。 平地近くに下りてきて、広々とした畑の中を抜けていった先に鳥居があり、夜都伎神社(やとぎじんじゃ)の案内板がある。 鳥居をくぐって石段を上がると、これはいったい何だろうという珍しい建物がある。昔の農家のような茅葺屋根の建物の前に、狛犬と燈篭が立っている。実はこれ、神社の拝殿であるが、こんな拝殿初めて見た。 この神社は、奈良にある藤原氏の氏神、春日大社(かすがたいしゃ)に関係した神社で、祭神も同じである。そのため、春日神社という別名もあるようだ。以前は、この神社から春日大社にお供えを献上し、かわりに春日大社が60年毎に、古くなった社殿と鳥居を渡すという習慣があったらしい。今ではそうした関係はすたれてしまったが、過去に春日大社から運ばれた鳥居と本殿は、この拝殿の奥に残っているようだ。 ところで、鳥居の前にあった案内板には、本来の夜都伎神社は別にあったと書いてある。この地には元々、夜都伎神社と春日神社の2つの神社があったが、夜都伎神社の土地を、別の土地と交換し、春日神社だけを残したらしい。そして、春日神社の名前を夜都伎神社に変えた。それなら春日神社という別名があるのも当たり前ということになる。元々の名前なんだから。 しかし、村に二つ神社があるからといって、片方の神社を他の村の土地と交換したりするものなんだろうか。そして、元の夜都伎神社はどこにいってしまったのか。いや、そもそも、夜都伎神社というのは、何を祀った、どういう謂れの神社だったのだろうか。よく考えると、何とも不思議な話である。 夜都伎神社を離れて再び山の辺の道に戻る。少し行くと集落に入り、昔ながらの家々が連なる細い道を歩く。この先に竹之内町、萱生町と町が続いていくが、この二つの町は昔、「環濠集落(かんごうしゅうらく)」だったようで、今でもその名残が見て取れる。 環濠集落というのは、町の周囲に濠を巡らし自衛をしていた町のことを指す。その地形が現在も残っているのは珍しいと聞く。上の写真は萱生町の環濠集落跡だが、面白いことに、この濠は前方後円墳の周濠なのである。写真右に見えている果樹園の小高い丘が前方後円墳の円丘である。 今回はいちいち立ち寄っていないが、本日のコース周辺は、古墳銀座と言ってもいいくらいたくさんの古墳が散在している。この辺りも、俗に「萱生の千塚」なんて言葉があるくらい古墳が多いらしい。 ただ、埋葬者がよく分かっていないものが多く、宮内庁管理になっていないばかりか、通常の風景に埋没していて、単に森や丘として扱われているケースが多々ある。お蔭で立入り自由で墳丘の上に登れたりするし、ここにあるように農業に転用されている例もある。相当古い古墳群だし、この辺りの人は古墳の中に住んでいるようなものだから、いちいち遠慮していたら暮らしていけないということだろう。 萱生町の近くにある古墳のうち、一つは珍しく宮内庁管理になっている。西殿塚古墳(にしとのづかこふん)がそれである。第26代天皇である継体天皇(けいたいてんのう)の皇后、手白香皇女(たしらかこうじょ)の埋葬地とされ、衾田陵(ふすまだりょう)とも呼ばれている。手白香皇女は先代の武烈天皇(ぶれつてんのう)の姉妹でもある。この環濠跡のすぐ東にあったので見に行ったが、相当大きく存在感のある古墳だった。 ただ、この古墳は過去の発掘調査の結果、造営された時期が継体天皇の治世と合っておらず、もっと古い時代の古墳だということが判っている。そうなると、手白香皇女の墓ではないことになる。 実はすぐ近くに西山塚古墳(にしやまづかこふん)という、別の前方後円墳がある。埋葬者は誰か分かっておらず、宮内庁管理にもなっていないのだが、色々検討してみると、こちらの方が手白香皇女の墓ではないかという有力意見があるらしい。 では、その西山塚古墳はどれかというと、さっき写真に写っていた、果樹園になっている古墳がそうなのである。農家がこの円丘を開墾した時に石棺や勾玉などの副葬品が掘り出されたらしいが、宮内庁管理になっていないものだから、それがどこにいったのか不明だと、傍らの案内板にあった。こっちが手白香皇女の墓だったらえらい話だが、そんなことはさして大事ではないくらい古墳がたくさんある地域だということである。 やがて道は萱生町の家並みを抜けて畑に入る。そこを抜けたところで、えっと思うものを目にする。山の辺の道が大きな墓地に突入するのである。一瞬道を間違えたのかと思ったが、向こうからハイキングの恰好をした一団が歩いて来るので山の辺の道に違いないと分かり安心した。 道は墓地の中で大きく曲がり、やがて中山大塚古墳(なかやまおおつかこふん)の円丘沿いに進んでいく。古墳も墓といえば墓だ。要するに、古代の墓の中を行くか、現代の墓の中を行くかの違いだけということか。山の辺の道というのは、この地に眠る多くの人々の傍らをくねくねと曲がりながら通っているわけである。 中山大塚古墳は大きな古墳だが、埋葬者が誰かは分かっていない。年代的には相当古い前方後円墳らしく、ほぼ最古に近いと言っていいようだ。元々山の辺の道周辺の古墳には、何の記録の足がかりもないような古いものが多い。古事記や日本書紀を編纂した時点で、既に遠い昔に出来たとしか言えない状態だったのだろう。埋葬者が特定できないのは珍しいことではない。 この古墳も宮内庁管理になっておらず、先ほどの萱生町の西にある大和神社(おおやまとじんじゃ)の所有となっている。この神社は、元々天照大神(あまてらすおおみかみ)とともに宮中に祀られていた倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮殿外に祀ることになり出来たもので、かなり古い神社である。ちなみに、同名のせいか、戦艦大和の中にこの神社の分霊が祀られていたと聞く。 大和神社では例年4月に大きな祭礼があり、このとき祭礼の一行がこの近辺を練り歩くのだが、その目的地の一つがこの古墳のある場所で、そのために前方後円墳の方形部分が削られて御旅所(おたびしょ)という広場になっている。私もこの日、この御旅所で暫し休憩したが、最初はそれが古墳の一部だとは気付かなかった。大和神社の祠が建っているのはいいのだが、児童遊具まで備え付けてある。古墳が無数にあると、まぁこんな扱いもありなのだろう。 埋葬者不明の古墳は果樹園になったり神社の御旅所になったりと、千数百年の歳月のうちに様々に変化しているわけである。我々は古代の墓を踏みつけて歩いたり、休憩したり遊んだりしている。子供時代に墓でふざけたり遊んだりしてはいけないと親に言われたが、山の辺の道を通っていると、そんなわけにはいかないのである。 大和神社の御旅所から古墳を下って、畑の中に道は降りて行く。あとは、のどかな農村地帯の中を通る。時に車道になることもあるが、畑の中の狭い一本道ということもある。山の辺の道は変幻自在な道である。 この道沿いにはたくさんの青空販売所がある。近隣の農家が、柿やみかん、芋やネギ、ほうれん草などを、山の辺の道にハイキングに来ている人に安くで売っているのである。ザルにひと盛りの柿が百円だったり、たいていの野菜も百円かそこらのようだ。これがたいそう繁盛している。無人販売所の場合もあれば、農家の人がいる場合もある。農家の人がいると、色々野菜の解説をしたり、食べ方を教えたりしている。女性グループなどは、晩ご飯の支度を考えてのことか、ワイワイがやがやと賑やかにやり取りしている。そんなわけで山の辺の道では、背中に背負ったリュックサックからネギがのぞいている人や、柿を入れたビニール袋を下げている人があちこちにいる。 実際この道を歩いていて感じたのだが、誰もが私のように道沿いの旧跡を訪ねるわけではない。むしろ、そんなところで寄り道をしているのは少数派みたいで、道を歩いている人に比べて、寺社の参拝客は少ない。皆さん、ひたすら歩き、道沿いで買い物をし、健脚を競っているかのようだ。私のように行程を二日に分けてのんびり行くのは少数派で、たいていは天理から桜井までのコースを一気に歩くに違いない。それで脇目も振らず、先を急いでいるわけだ。山の辺の道はハイキングコースとこちらの皆さんは言うが、見ていてそういう割り切り方なんだなと得心がいった。 さて、道はまた集落に入り、そろそろ長岳寺(ちょうがくじ)である。 長岳寺は、弘法大師(こうぼうだいし)の名で知られる空海(くうかい)が開いたお寺である。平安時代初期に淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願により建てられたが、元々の位置付けは、先ほど中山大塚古墳のところでも触れた大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺だったようだ。神宮寺は、内山永久寺跡のところで説明したが、神道と仏教が融合していく過程で出来た、神社付属の寺院である。 長岳寺は、放生池越しに見える本堂の景観が美しく、四季折々に花が咲くため、花の寺としても知られている。桜やツツジ、カキツバタ、アジサイ、酔芙蓉、椿などが楽しめるとガイドブックにはあるが、とりわけ参道を埋め尽くすツツジが見事らしい。また、日本最古と伝わる鐘楼門(もちろん国宝)があり、これはなかなか立派である。 私が訪れた日は、ちょうど年に一度の大地獄絵図公開の時期に当たっていたため、拝観料を払って本堂に上がり鑑賞した。狩野山楽(かのうさんらく)作の九幅からなる大作で、十王図という別名もある。十王とは、閻魔大王をはじめとする10人の地獄の裁判官たちを指している。 絵は、三途の川から始まって、閻魔大王ら裁判官の面々、八大地獄に餓鬼・畜生道と、伝えられる地獄の要素が全て盛り込まれている。信心深かった昔の人たちは、これを見てさぞかし恐ろしい思いをしたことだろう。そして、益々信心に励むという構図になっている。地獄絵図は、お寺側にしてみれば便利な布教の道具だったに違いない。 作者の山楽は元々武士だが、豊臣秀吉の命により狩野派の重鎮、狩野永徳(かのうえいとく)の養子になったという変わった経歴を持っている。日本画に関心のある人なら見たことがあるであろう龍虎図屏風を描いた人である。 さて、長岳寺の名物はもう一つあって、重要文化財である庫裏で、名物のそうめんを味わえる。そうめん発祥の地である三輪の手延べひねそうめんを、由緒ある寺院内で食べられるというのは、めったにないことだと思う。この季節には温めてにゅうめんとして出してくれるらしい。お腹は空いていなかったし、あいにく席は埋まっていたので、私は食べずに失礼したが、食事どころの少ない山の辺の道では、貴重な場所かもしれない。 天理市から桜井市までの経路で、長岳寺はちょうど中間くらいに当たる。この日のゴールである柳本駅は、長岳寺から西に行ったところにあるので、そろそろ山の辺の道を外れることにする。 最後にこれだけ見ておこうと、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)に向かった。長岳寺から出て暫く山の辺の道を歩くと目の前に見えてくる大きな前方後円墳で、道はこの古墳に突き当たって曲がり、山の上に向かって延びる。拝所は山を降りる方向に進み国道に出たところにあるが、崇神天皇陵より更に山側にある櫛山古墳(くしやまこふん)も合わせて見ておきたかったので、山の辺の道に沿って山の方に登っていった。 崇神天皇陵の外周に沿って山を上がると、突然大きな池が現れ、森が浮かんでいる。全景を見るのは難しいが、これが櫛山古墳である。 この古墳は形が少々変わっており、一見前方後円墳のようだが、円の反対側にも小さな方形がついている。こういうのを双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)というらしい。その形からして、比較的初期の古墳とされているが、埋葬者が誰かは分かっていない。 この辺りの山の辺の道は櫛山古墳と崇神天皇陵に挟まれていて、なかなか美しい場所だと思う。ここからだと崇神天皇陵を周濠越しに上から見下ろす形となり、その大きさがよく分かる。 山の辺の道はそのまま山の中腹を南に進むが、私の本日の行程はここまでで、山を降りていった先にあるJR柳本駅に向かうため、山の辺の道を外れ、脇道を崇神天皇陵沿いに降りていく。 崇神天皇陵は、周濠沿いに遊歩道のような草の道が整備されており、気持ちよく散策が出来る。今まで何度も宮内庁管理の古墳を見て来たが、こんな散策道を周囲に付けているのは珍しいのではないか。 地元では崇神天皇陵のことを、地名から行燈山古墳(あんどんやまこふん)なんて言うらしいが、宮内庁では「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」と命名している。お堅い正式名称に山の辺の道の名が入っているところが何ともいいなぁと思った。 崇神天皇は第10代の天皇であるが、実在が確実と一般に言われるのは第15代の応神天皇からなので、存在は不確かである。ただ、この崇神天皇に該当する支配者はいただろうと見られており、古代大和朝廷を立ち上げた人物を、古事記や日本書紀が崇神天皇として扱ったのではないかという見方もある。神武天皇と同一視されたり、邪馬台国の支配層に属する人とされたり、定説はないのだが、いずれにせよ相当古いこの地域の支配者の墓ということだろう。 ところで、この崇神天皇陵は、以前、佐紀路の古墳群を見た際に書いた「君子南面す」の原則に従っておらず、前である方形部分が北西を向いている。これはどういうことだろうか。普通は南を向いているものだが、どうも山の辺の道沿いの古墳は、その原則を守っていないものが多い。 実は、この後訪れた黒塚古墳(くろつかこふん)の展示館の人に古墳の向きについて質問したのだが、この周辺の古墳は非常に古いものが多く、「君子南面す」といった中国の考え方が伝わっていない時代に造られたのだろうという話だった。この辺りの古墳は色々な方向を向いているのだが、それは各々地形にうまく沿っていて、造営上の便宜のために方向が決められたのではないかという。 崇神天皇陵を見終えて、そのまま国道を越えて西に道をたどる。このまま真っ直ぐに行けばJR柳本駅に着くのだが、最後に道沿いにある黒塚古墳とその展示館に立ち寄ることにした。 黒塚古墳は、平成の時代に入ってから行われた発掘調査で、33面もの三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土したことで一躍有名になった。古墳としては相当古い部類のようで、埋葬者が誰かは特定されていない。 展示館の案内の人の話では、この黒塚古墳は昔から戦闘用の物見櫓のように使われていて、武家の管理する領域だったらしい。そんなわけで盗賊も近寄れず、盗掘がされていなかったと聞く。 発掘の結果、極めて初期の古墳で、小さな岩を無数に組むという方法で古墳が造られており、棺も木製で既に腐って失われていたという。大きさから見ても埋葬方法から見ても、皇室の外戚に当たる地方豪族の墓ではないかと推測されているようだ。 三角縁神獣鏡を比較的忠実に再現したレプリカを持たせてもらったが、けっこう重い。鏡面のゆがみも現物通りに作られており、光を当てると不思議な影が出来る様子も見せてもらう。この影が作る模様に古代人は神秘を感じたということだった。化粧や身づくろいの際に利用する現代の鏡と違い、祭祀用に使われたと推測されている。 展示室の横に黒塚古墳が横たわっているのだが、なんと古墳に遊歩道がつけられていて、墳丘まで登れる。これは面白そうだと登ってみた。上から眺めると前方後円墳の形がはっきり分かる。本物の古墳でこんな勉強ができるというのは、なかなか得がたい経験だと思う。 それにしても、山の辺の道周辺の無数の古墳の埋葬者が判明しないままになっているのは、とどのつまり、確かな記録のない遠い昔に造られたものが多いからだろう。そういう意味では、この山の辺の道は、今まで歩いた中でも最も古い大和の領域を通っていることになる。まさに人間の歴史と神の世界との境目に当たる辺りを、最古の官道を歩きながら見て周っているのである。それがまぁ、山の辺の道の魅力ということかもしれない。 JR柳本駅まで行って1時間に2本しかない電車を待つ。もちろん無人駅である。おまけに周囲に飲食店もコンビニもない。こんな忘れられたような駅が、山の辺の道にはふさわしい気がする。 本日歩いたのは10km強。寄り道が多いせいか、山の辺の道の実測距離に比べて何割増しか多い。次のスタートはこの駅からということになるが、それはまた別の機会に書くことにしよう。 |
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