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== 奈良散歩記 ==






第8話:佐紀路





 飛鳥(あすか)の散歩を終えたところで次に目指したのは佐紀路(さきじ)である。

 佐紀路の名を知っている人は、それなりに奈良を知っている人だと思う。通常は、佐保路(さほじ)とセットで佐保・佐紀路なんて形で紹介されている。奈良市の東端に東大寺があるが、大仏殿の北西方向に転害門(てんがいもん)があり、ここを起点として突き当たりの法華寺(ほっけじ)まで西向きに延びる道を佐保路と言っている。そして、法華寺の少し北からスタートし、西大寺(さいだいじ)まで西に延びる道を佐紀路と呼んでいる。要するに、奈良市北部で東大寺と西大寺の間を東西に結ぶ地帯と思っていい。

 この名前を最初に知ったのは、第2回の奈良散歩記で、白毫寺(びゃくごうじ)に行った際に触れた写真家入江泰吉(いりえたいきち)氏の「大和路」というムックでのことだ。かれこれ三十数年前ということになろうか。観光客の喧騒とは無縁な静かで落ち着いた場所として紹介され、何枚かの美しい写真が掲載されていた。

 この佐保・佐紀路にあるのは、たくさんの古墳と、平城京の中心であった平城宮跡 (へいじょうきゅうせき)、そして小粒ながら味わいのある寺社といったところだ。今回は、近鉄の駅でもらった散歩用マップに従って、佐紀路周辺を歩いてみようという趣向である。このマップによれば、ウォーキングに最適な道が続いているとあるから、週末散歩にちょうど良いと考えてのことである。合わせて、別の日に歩いた佐保路界隈の見どころも紹介したい。

 今回の散歩の起点になる駅は、近鉄京都線の平城駅(へいじょうえき)である。第2回の奈良散歩で西の京を訪ねた折に、近鉄奈良線の大和西大寺駅(やまとさいだいじえき)で近鉄橿原線(きんてつかしはらせん)に乗り換えたが、近鉄京都線は、同じ駅から橿原線とは反対側の北に延びている線である。平城駅はその一駅目に当たる小さな駅である。家を出てから50分程度で着くので、西の京に行くのとほとんど変わらない。

 季節は10月の終わり。この時期にしては気温の高い日で、歩いているうちに汗ばむような陽気だった。薄着の長袖に、ボトル一本分のお茶持参で電車に乗った。

 平城駅を降りると静かな住宅街である。そもそも乗り降りする人がいない。佐紀路に向かうなら東にコースを取ることになるが、それとは反対に進み、まずは神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)を見に行くことにする。駅からすぐのところにあるので、さして寄り道ではない。わざわざ来たのは、神功皇后という人に興味があったからだ。神功皇后陵とガイドマップには書いてあるが、正式名称は五社神古墳(ごさしこふん)と言うらしい。





 神功皇后は、第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后であるが、この二人については本当にいたかどうか疑問視する意見が優勢なようだ。

 古事記や日本書紀によれば、九州の抵抗勢力だった熊襲(くまそ)を討伐するために仲哀天皇と神功皇后が現在の福岡市東区にある香椎(かしい)へ出向いて、そこに宮殿を築いた。これが香椎宮(かしいぐう)であり、今でも神社として残っている。神功皇后という人はシャーマンであったらしく、時々トランス状態になって神のお告げを口走るような人だ。熊襲討伐に奮闘している最中に、突然神懸かった神功皇后は、「朝鮮半島をお前らにやるから攻撃しろ」という神のお告げを口にする。仲哀天皇にしてみれば、熊襲退治に必死の時に何を言っているんだということで相手にしなかったら、何と死んでしまうのである。

 神の言う通りにしないから怒りに触れたのだということで、神功皇后は妊娠していたにもかかわらず軍団を率いて海を渡り、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、任那(みまな)の3ヶ国を攻めて征服する。世に言う三韓征伐(さんかんせいばつ)である。身重の身体では戦えないので、冷やした石をお腹に当てて、出産時期を遅らせたという。その石は今でも残っており、月読神社(つきよみじんじゃ)などに奉納されている。そして本来の予定日からかなり遅れて生まれた子供が、後の応神天皇(おうじんてんのう)であり、又の名を八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)というわけである。武家に崇められた武運の神として有名だ。

 どう見てもインチキな話だと思うかもしれないが、応神天皇はほぼ実在したことが確認されているし、神功皇后にまつわる遺構は、北九州にかなりの数存在する。また、三韓征伐から凱旋して関西に戻って来た足跡も残っており、大阪の代表的神社の一つである住吉大社(すみよしたいしゃ)の始まりは、神功皇后の故事にちなむものである。おそらく、該当する誰かがいたに違いない。実在した誰かということでは、この神功皇后が卑弥呼(ひみこ)ではないかという説も長く信じられていたようだ。今では、それはないだろうということになっていると聞くが・・・。

 眉唾物語として顧みられないかもしれないが、現にこうして宮内庁が神功皇后の墓として認定した前方後円墳が目の前にある。これだけ立派な墓があるんだから、それなりの人だったんだろうと思う。

 本日の散歩は徹頭徹尾古墳巡りだが、本日回る古墳群は、佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)と呼ばれている。前方後円墳は空中から見ると盾のように見え、佐紀路にはこうした古墳が列を成して並んでいるからこういう名前になったらしい。本日回るのは、そのうち8つである。

 さて、神功皇后陵からもう少し先に行くと秋篠寺(あきしのでら)があるが、寺巡りではないので、この日はパスすることにした。奈良時代に建てられた寺で、本尊は薬師三尊像なのだが、有名なのは伎芸天像(ぎげいてんぞう)である。この仏像は、冒頭に記した写真家入江泰吉氏の「大和路」にも出て来る。やさしく穏やかな表情と優美な姿で多くの人を魅了している。天平の美女、東洋のミューズと呼ばれ、賞賛をほしいままにしている屈指の名仏像である。これを見るためだけにわざわざここに来る人もいると聞く。

 さて、神功皇后陵を見た後は本来のルートに戻って、佐紀路を進むことにする。多くの人は、東大寺転害門から西向きに佐保路を進み、ついで佐紀路へと入るようなので、この日の道は逆をたどっていることになる。近鉄が配っている地図でも、東から西に進むルートで道案内が書いてある。まぁ自動車じゃないんだから、一方通行があるわけでもなし、どう回ろうが大きな支障はあるまい。

 地図を見ながら近鉄京都線の踏切を渡り、静かな住宅街の中を歩く。昔ながらの古い家並みで、どうにか車一台が通れるかという細い道がくねくねと続く。奈良市が定めた「歴史の道」に指定されているルートのようで、所々に石の道標が置かれている。これがないと迷うような複雑なコースである。

 平城駅の東エリアで最初に訪れたのは、成務天皇陵(せいむてんのうりょう)である。





 この辺りの道は、散歩道としては素晴らしい。古墳群のど真ん中で、周りは全て森である。たまに人が通るが、基本は静寂そのものである。

 成務天皇陵は前方後円墳だが、周濠が狭く、歩道はまさに前方後円墳に沿って曲がっている。お蔭で、どこが円形でどこからが方形になるのか、道を見ているとハッキリ分かる。上の写真でも、それが見て取れよう。

 成務天皇は、先ほど行った神功皇后陵に祀られている神功皇后の夫である仲哀天皇より1代前の天皇である。仲哀天皇の実在性に疑問があると書いたが、成務天皇となると、更に実在性に疑問符が付く。まぁでもこうして天皇陵は存在していて、宮内庁も正式に認定をしている。ちなみに正式名称は狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)というらしい。

 続いて、その西隣にも前方後円墳があり、こちらは日葉酢媛命陵(ひばすひめのみことりょう)である。先ほどの道は、この二つの古墳の間を縫うように通っていたわけだ。





 日葉酢媛命というのは、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇后である。垂仁天皇自身の陵は、第2回の奈良散歩の際に訪れた。唐招提寺からやや北に上がったところにあって、臣下の田道間守(たじまもり)の墓が周濠にあるという珍しい前方後円墳である旨紹介したと思う。

 田道間守は垂仁天皇に命じられて常世の国に「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」という不老不死の果物を探しに行くが、10年後にその実を持ち帰った時には垂仁天皇は亡くなっていて、嘆き悲しみ亡くなったという話をその時に書いたと思う。彼が持ち帰ったのは橘の実なのだが、これを垂仁天皇の皇后に献上したと伝えられており、その種が植えられた場所が、飛鳥の橘寺(たちばなでら)だという話も、第5回の奈良散歩記で飛鳥に行った時に紹介した。

 つまり、そのとき田道間守から橘を受け取った皇后の墓が、この日葉酢媛命陵ということになる。日葉酢媛命は丹波国(たんばのくに)の出身ということなので、但馬地方(たじまちほう)出身の田道間守とは、故郷が近いということになろうか。

 先ほどの神功皇后や成務天皇との時代的な関係を言うと、垂仁天皇の方が古い。垂仁天皇が11代目、成務天皇が13代目、神功皇后の夫の仲哀天皇が14代目ということになる。そうなると、本当にいたのかという疑問は、益々高まることになる。

 さて、成務天皇陵と日葉酢媛命陵が隣り合っていると書いたが、成務天皇陵の南隣にもう一つ別の天皇陵がある。称徳天皇高野陵(しょうとくてんのうたかののみささぎ)である。





 この陵はかなり分かりにくい。成務天皇陵の拝所の後ろ側の森が称徳天皇高野陵なのだが、何と古墳の向きが他の天皇陵と違うのである。

 中国の伝統を受け継ぎ、日本では古くから「君子南面す」といって、天皇は公式行事の際に南を正面にして座る。京都の御所も南を正面にしており、南を向いた天皇の右に当たる街区を右京区、左に当たる街区を左京区と名付けている。従って、北を上に書いた地図では、右京区と左京区が左右逆のように見えるのである。

 さて、こうした古代からのしきたりに沿って、前方後円墳型の天皇陵は、前である方形部分が南を向いているのが普通である。ここまで見て来た神功皇后陵、成務天皇陵、日葉酢媛命陵は全て南向きなのに、どういうわけだか地図で見ると、称徳天皇高野陵は西を向いている。だから、拝所の位置が違う方向にある。拝所に行こうとすると遠回りしなければならないようだったので、結局行かなかった。

 称徳天皇高野陵は、ガイドブックによっては孝謙天皇陵(こうけんてんのうりょう)と記述されているものもあり、手元の近鉄発行の地図にも孝謙天皇陵とある。どういうことだと迷うかもしれないが、称徳天皇と孝謙天皇は同一人物である。

 当初は孝謙天皇として即位し、退位後は淳仁天皇(じゅんにんてんのう)が跡を継ぐが、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)に同調した淳仁天皇が退位すると、重祚して称徳天皇となった。時代的には8世紀の天皇なので、この人は確実にいた人だ。ちなみに女性天皇である。

 称徳天皇(孝謙天皇)というのは、時代を騒がせ日本史の教科書でもお馴染みの人である。最初孝謙天皇として在位していた時代には、母方の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と組んで、二人して権勢を振るっていた。その後淳仁天皇が皇位につくと、藤原仲麻呂は益々力を増していき、改名して藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)となる。ところがある時問題が生じる。淳仁天皇時代にあっても隠然たる権力者だった孝謙上皇が、病に臥した際に看病に当たった僧、道鏡(どうきょう)と仲良くなってしまうのである。やがて双方に反目が生まれ、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・恵美押勝という2派に分かれて対立が深刻化していく。ついに軍事行動に出ようとした恵美押勝は、逆に孝謙上皇に先を越され、殺害されてしまう。これが世に言う藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で、日本史の教科書では、道鏡と共に有名な下りだろう。

 こうした歴史の流れを見ていると、称徳天皇というのは女性ながら、権謀術数に優れた人だったのだろう。と同時に、道鏡との関係を見ていると、自由奔放なところもあったのかもしれない。道鏡の存在さえなければもう少し評判が良かった気がする。

 道鏡は、皆さんご存知のように色仕掛けで称徳天皇を篭絡したとか言われているが、最後は嘘の神託を触れ回って自分自身天皇になろうとして、和気清麻呂に見破られるという有名な事件、宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)まで起こし、称徳天皇死後は失脚し下野国で寂しく亡くなった。

 まぁ道鏡の話はそれくらいにして、先を急ごう。3つの天皇陵を南に下ると、森が切れて畑が広がるのどかな場所に出る。奈良散歩はこうでなくちゃ、というような田園地帯である。先ほどの歴史の道の石柱を確かめながら、静かな道を歩く。そうしていると、道標に佐紀神社(さきじんじゃ)の名前が現れた。道中なら寄ってみるかと訪れてみた。





 道の脇に大きな池があり、池沿いに佐紀神社があった。一般のガイドブックには載っていない、いわゆる地元の普通の神社のようだ。この日歩いている佐紀路の名を冠しているところが人目を惹くが、特筆すべきことはさしてない小さな神社だ。

 敢えて言えば、どういうわけだか同じ名前の神社が池を挟んで2つある。瞬間的に、四谷にお岩稲荷(おいわいなり)が向かい合って2つあるのを思い出してしまった。この2つの佐紀神社、元祖はどちらかで争っているのだろうか。あるいは何かいさかいでもあって2つに分かれたのだろうか。鳥居のたもとにあった神社の縁起を読んでみても、特に何も書かれていない。どちらも同じくらいの大きさで、ひっそりとした神社だった。

 佐紀神社の前の道を少し進むと、いきなり視界が開ける。道の南側に広大な空き地が広がっている。平城宮跡である。





 ここは平城京の宮殿があった場所で、訪れた当時も発掘調査中であった。幾つか建物が復元されていて、広大な敷地内に朱塗りの建物がそびえる姿が美しい。公開されている敷地は、東西約1.3km、南北約1kmもあり、歩き放題のウォーキング向きエリアである。ここでかなり歩数を稼いだ。

 上の写真に見えるのは大極殿(だいごくでん)と呼ばれる建物だが、この建物を含めて東西方向180m、南北方向320mの敷地があり、周囲は築地回廊で囲まれている。このエリアが第一次大極殿院と呼ばれており、天皇の即位などの国家儀式や外国使節が来た際の外交儀式が行われた中心的施設である。

 発掘調査によれば、この場所にずっと大極殿院があったわけではなく、平城京に遷都してから恭仁京(くにきょう)へ遷都されるまでの30年間、ここに大極殿院が置かれ、その後はこの東側に移されたらしい。そんなわけで、第一次なんて冠詞が付いているようだ。

 写真の大極殿は第一次大極殿院の北に建っており、南側は広場になっている。大極殿の中には入れるようになっており、外交使節謁見などの際に天皇が座る高御座(たかみくら)が置いてある。大極殿から南を見ると、遙か先に朱塗りの立派な門が見える。朱雀門(すざくもん)である。





 平城京は大雑把に言うと、市街地の北に、政治の中心であった平城宮があり、その入り口にこの朱雀門があった。そして、朱雀門の前から南向きに朱雀大路(すざくおおじ)がまっすぐ延びていて、その先に平城京の入り口である羅生門(らしょうもん)があったようだ。この構成は、京都に造られた平安京と同じである。

 平城京の朱雀大路は幅75m、長さ4kmとされている。ちなみに、羅生門の跡というのは現在の大和郡山市(やまとこおりやまし)にある。大和郡山には、豊臣秀吉の実弟である豊臣秀長(とよとみひでなが)が城主を務めたので有名な郡山城(こおりやまじょう)があるが、石不足の中で石垣を築くために、近くにあった羅生門の礎石を石垣に組み込んでいる。大和郡山も別の機会に訪ねたので、そのうち紹介しようと思う。

 さて、今こうして歩いているのは、約1km四方の宮殿内だけなので、実際の平城京の市街地は、ずっと先まで延びていたことになる。約1km四方の宮殿内といってもこれが充分広く、実はその中を近鉄奈良線の線路が横切っている。従って、朱雀門はそこに見えるのだが、手前に線路が走っており、そのまま真っ直ぐに朱雀門まで進むわけにはいかないのだ。

 回り道をして踏切を渡れば朱雀門まで行けるようだったが、まぁそこまでしなくとも、と思い、結局近くまで行って、線路越しに見ただけで終わった。写真に写っている電線は、電車用に線路の上を走る架線である。

 朱雀門近くまで行った後、今度は平城宮の東エリアへ足を延ばす。道路を横断して東側に移ると、今までいた場所とは違って、一面の野原である。これが実に素晴らしい。

 ススキやセイタカアワダチソウが群生し、緑の中に白や黄色が映える。ポツポツと木々が植わっており、一部が紅葉し始めていて更に色を添えてくれる。バッタが飛び、子供が網を持って追い掛けている。実にのどかでいい散歩道だ。このエリアは歩いていて、とても楽しかったことを覚えている。

 やがて舗装された道に出て、その先に東院庭園(とういんていえん)の施設がある。展示室も併設されていてなかなか立派だ。案内の人がパンフレットをくれたので、それを見て初めて、この一連の施設の管理が文化庁であることを知った。これまで古墳を見て来て、全て宮内庁管理だったので、平城宮跡も宮内庁管理のような気がしていたが、文化庁だったわけだ。そうすると、あの高御座も宮内庁監修じゃなくて文化庁の手によって作られたということになる。なるほどそれで、あんなに開けっ広げに見せてくれていたんだな。写真も撮り放題だったし。

 さて、東院庭園だが、ここは出土した大規模な庭園跡を苦労して復元したものである。この庭は日本庭園の原型とされ、天皇や貴族たちの各種宴の場でもあったようだ。





 今の日本庭園に比べると、植栽があまりなく、すっきりした感じがする。この池に舟を浮かべて遊んだりしたんだろうか、なんて思いながら一周する。あまり人もおらず、静かであった。入場料金はいらないが、夕方になったら入場門がしまってしまう。夜にライトアップしたら美しかろうが、職員数や予算からいって、そこまで手は回らないのだろう。

 東院庭園を出てから北に向かう。道の左右は野原になっており、傾きかけた秋の日にススキの穂が映えて美しい。その向こうに時折大極殿の上部が見え隠れする。このまま入江泰吉氏の「大和路」に出て来そうな風景だが、入江泰吉氏は復元された平城宮を見ることなく亡くなられている。

 道はやがて自動車の行きかう幹線道路に行き当たる。これが本来の佐紀路なのだが、今では県道になっており交通量も多い。この佐紀路に沿って少し西に歩いてから、南北方向に交差する道に入って北上する。この道の名前がいい。歌姫街道(うたひめかいどう)という。かつて平城宮に仕えた女官たちの家がこの辺りにあったからだという。彼女たちの中には、宮殿で歌や踊りを披露する役割の者がいたらしい。その名残が、道の名前に見て取れるというわけだ。

 そういえば、この日は立ち寄らなかったが、先ほどの東院庭園の近くに法華寺というお寺がある。本文冒頭で、佐保路と佐紀路の中間地点にあると紹介した寺である。このお寺に、そうした女官の悲恋物語が伝わっている。

 平城京の時代からずっと下って、平家が台頭していた平安朝末期の物語である。平清盛(たいらのきよもり)の娘である建礼門院(けんれいもんいん)に仕える横笛(よこぶえ)という女官がいた。雑役だったが歌舞音曲に秀でていたらしい。ある日、宴席で横笛が舞を披露したところ、陪席していた平重盛(たいらのしげもり)の家臣、斎藤時頼(さいとうときより)が一目惚れしてしまう。その後二人は恋仲になるのだが、時頼の父は身分の卑しい女と付き合うことに反対し、軋轢に耐えられなくなった時頼は、京の嵯峨野で出家する。

 驚いた横笛は嵯峨野まで時頼に会いに行くが、時頼は面会を拒んだうえ、嵯峨野を離れて女人禁制の高野山に移る。横笛は落胆して出家し、この法華寺に身を寄せるのだが、ほどなくこの寺で短い生涯を終える。訃報を聞いた時頼は益々修行に励み、立派な高野聖(こうやひじり)として知られる存在となったという話である。





 法華寺の中に、今も横笛堂(よこぶえどう)という建物があり、横笛が尼となって住んだお堂だと伝えられている。上の写真が、別の日に訪れた法華寺内の横笛堂である。法華寺は他にも見どころがあるので、意外と横笛堂は注目されていない。惜しいことだと思う。

 この悲恋物語は平家物語に出て来るが、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)がこれを題材に「滝口入道」(たきぐちにゅうどう)という小説を書いて有名になった。滝口入道とは、出家した時頼の名前である。

 法華寺は、藤原家を有力貴族に押し上げた藤原不比等(ふじわらのふひと)の邸宅跡に建っている。不比等の邸宅は娘の光明皇后(こうみょうこうごう)に相続され、皇后宮として使用されたが、後に寺となった。

 法華寺は尼寺だが、通常の尼寺と違い、皇族や貴族の女性が住職となる門跡尼寺であり、格式の高い寺である。大和三門跡尼寺という言葉があるが、そのうちの一つに数えられている。ちなみに残りは中宮寺(ちゅうぐうじ)と円照寺(えんしょうじ)であるが、円照寺は一般公開していない。円照寺は別名、山村御殿(やまむらごてん)と呼ばれ、華道山村流の家元である。大変人気の高い寺らしく、特別拝観時は応募者殺到と聞く。私は門前まで行ったことがあるが、その話はまたの機会に書くことにしよう。

 光明皇后は、奈良の大仏を建立した聖武天皇(しょうむてんのう)の皇后で、仏教の庇護者として名高い。貧しい人を援助するための悲田院(ひでんいん)や医療施設である施薬院(せやくいん)を設置し、今の福祉行政の走りみたいなことを行ったことでも知られている。

 光明皇后の名前は知らなくとも、その逸話については聞いたことのある人が多いのではないか。ある日彼女は夢で仏のお告げを聞き、貴賤を問わず千人の人を風呂に入れ垢を落とすことを始める。屋敷内にそのための浴室を作り、自ら身体を洗ってやったが、千人目に来た人は、当時不治の病として恐れられていた癩病(らいびょう)の患者だった。それでも彼女は躊躇せず、流れる膿を口で吸ってやったところ、癩病患者の身体から光があふれ、仏の姿に変わったという。

 実は、その千人の人たちの身体を洗ってやった場所がこの法華寺で、当時光明皇后が作った浴室が「浴室(からふろ)」として今も残っている。下がその浴室である。





 横笛が短い生涯を終えたお堂といい、光明皇后の浴室といい、法華寺もなかなか見どころのある寺で、佐保・佐紀路にはこの種の小粒ながら味わいのある寺が多い。

 ちなみに、法華寺のすぐ脇には海龍王寺(かいりゅうおうじ)という小さなお寺があるが、これも藤原不比等の屋敷跡である。寺伝によれば、藤原不比等は地元豪族の土師氏(はじし)から屋敷用の土地を譲られるが、そこには土師氏ゆかりのお寺が建っていた。その場所が土地の隅だったので、不比等は寺を壊さずに残し、残りの土地に邸宅を建てた。この昔からあった寺は邸宅の北東隅にあったので隅寺(すみでら)と呼ばれていたという。これが現在の海龍王寺というわけである。境内にある西金堂は奈良時代創建の建物として今日まで残っている貴重な存在である。

 さて、この辺りで話をこの日の散歩に戻そう。

 歌姫街道に一旦入った後、途中を東に折れて住宅地の中を通る。ここに平城天皇陵(へいぜいてんのうりょう)があるはずだがと見るが、単に住宅が並んでいるだけである。と思ったら、住宅と住宅の間に細い道があり、それが天皇陵への入り口だった。これは分かりにくい。





 この天皇陵は謎が多い。宮内庁で平城天皇の陵墓だと認定しているので間違いなかろうが、周辺の発掘により、元々は平城天皇の墓でないことが明らかになっている。

 しかも、この古墳は円墳なのだが、周辺の発掘調査の結果、元は前方後円墳であったことが判明している。平城京がここに出来たときには前方後円墳として存在していたが、工事の関係で邪魔だったので、正面の方形部分が削られて円墳になったのである。

 ところで、埋葬されている平城天皇は、平安時代初期の天皇なので、彼が生まれる前からこの古墳はあったことになる。しかし、誰の古墳だったのかは分からない。おまけに平城京を造るに当たって一部が取り壊されたような古墳なので、当時重要視されていなかったのだろう。

 では、何故ここが平城天皇陵とされているのかだが、導き出される答は一つ。誰のものか分からない墓に、平城天皇が追加で埋葬されたのである。そんなバカなと言いたくなる。れっきとした天皇なんだから、それはあんまりじゃないかと思うのだが、それには理由がありそうなのである。彼が何をしたかが大きく関わっている。

 平城天皇は、桓武天皇(かんむてんのう)の第一皇子として生まれ、父親の崩御により皇位についたが、皇太子時代から行状に問題があり、桓武天皇から白い目で見られていた。よく言われる話としては、自分の妃の母親である藤原薬子(ふじわらのくすこ)に思いを寄せて問題を起こし、父親に、薬子を追放するよう命じられたりしている。

 それでも平城天皇は藤原薬子が忘れられず、即位すると彼女を呼び戻している。しかし、元々病弱ゆえに3年で退位してしまう。皇位は嵯峨天皇(さがてんのう)に譲って自身は上皇になるが、平安京に残らず、平城京に移り住んだ。

 その後健康を回復した平城上皇は、藤原薬子らと共に政権奪還を目指す。平安京の貴族たちに平城京に再び遷都する詔を発したりしたが、嵯峨天皇側にさえぎられて失敗。平城上皇は出家し、藤原薬子は自害する。いわゆる薬子の変(くすこのへん)である。

 まぁそこまでやっちゃあ体制側から憎まれるだろう。そのお蔭か、平城京を愛したゆえかは分からないが、平城宮大極殿の近くに埋葬されたというわけである。他人の陵墓に追葬されたのは、それだけ快く思われていなかったのであろう。

 さて、平城天皇陵を後にして今度は北に上がる。昔ながらの古い家並みの続く道を歩くと、やがて大きな池に出る。その脇の小道を暫く進むと、農家の点在する田園地帯に通じる。そこから今度は東方向に折れて、静かな細い道を歩く。こんもりとした森を抜けると、実に美しい場所に出た。

 北側に池があり、南には遙か先まで畑が広がるのどかな田園風景が続いている。暫し見とれるほど素晴らしい。道の先にはこんもりとした森が広がっているが、どうやらそれが次の目的地、磐之媛命陵(いわのひめのみことりょう)らしい。





 田園地帯を通る道は、森の端にかかると二手に分かれ、一つは真っ直ぐに進み、もう一つは、古墳の外延に沿ってゆるやかに南に折れている。前方後円墳の円形の部分に沿ってカーブしているようだ。

 古墳沿いの道に入ると、石畳の道となる。陽が暮れ始めていることもあって、森に覆われた道は薄暗く、誰も通っていない。地図で見ると、道を挟んで古墳の東隣は自衛隊の幹部学校のようで、こちらも木々に覆われている。寂しい道を暫く行くと拝所への入り口が見えた。

 磐之媛命は、仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇后だが、とても嫉妬深い人だったとわざわざ古事記に書かれている。仁徳天皇が他の女性と密会したことを知り、怒って別居状態になったらしい。現代ではいざしらず、古代において妾の一人や二人、支配階級にある者ならそう珍しくもなかろうと思うのだが、それを許せない女性だったようだ。だから古事記にまで書かれたということかもしれない。

 磐之媛命は別居中に死んでしまい、仁徳天皇は密通していた八田皇女(やたのおうじょ)という女性を皇后として迎えている。これじゃ死んでも浮かばれまい。そんなわけで、堺市にある仁徳天皇陵から遠く離れたこの地に埋葬されたということだろうか。

 私はこの時、磐之媛命を単に嫉妬深かった皇后という程度にしか認識していなかったのだが、その後、奈良を色々散策しているうちに、極めて重要な女性だということに気付かされた。

 磐之媛命は葛城氏(かつらぎし)という豪族の出である。葛城氏は、現在の奈良県御所市(ごせし)南部に拠点を置いた古代豪族だが、その力は当時の天皇家と並ぶ強力なものだったのではないかと見られている。その頃の天皇家は、いわば有力戦国大名に過ぎず、一強として大和地方を統治するには力が足りなかったのである。そこで、土着の有力豪族と手を結んだ。その一つが葛城氏だが、おそらく同盟関係のような結び付きだったのではないかと推測されている。

 磐之媛命と仁徳天皇の間に生まれた子供のうち3人が、後に天皇になっている。履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)の3天皇である。その後の顕宗天皇(けんぞうてんのう)、仁賢天皇(にんけんてんのう)の母も葛城氏の出で、乱暴で残忍だったと伝えられる雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の后も葛城一族である。天皇家にとって、葛城氏は婚姻関係で強く結び付けられた重要な豪族だったのである。仁徳天皇にとって磐之媛命は悪妻だったかもしれないが、妻に迎え入れなければならない重要な理由があったわけである。

 葛城氏のことは、奈良の中でも最も古い伝説に彩られた葛城古道(かつらぎこどう)について書く際に、改めて紹介したいと思う。

 さて、この辺りも古墳が隣り合うように集中しているエリアで、更にあと二つ、前方後円墳を見に行く。磐之媛命陵の拝所を出てちょっと歩くと、小奈辺古墳(こなべこふん)がある。





 この古墳は、周囲を道が取り巻いているので、さえぎるものもなく墳丘を観察できる。お蔭で、大きな古墳ではあるが、前方後円墳の形がハッキリ分かる。円と方形の境目も遠くから視認できる。

 周濠の水が独特の色をしていてきれいだったが、魚釣りのポイントらしく、私が訪れた時にも釣り糸を垂れている人たちがいた。横を通りがてら、聞くともなしに聞いていると、けっこう大物が釣れるらしく、釣果を自慢する声が聞こえた。

 小奈辺古墳に誰が埋葬されているのかは分かっていない。ただ、皇族の埋葬地だろうということで、宮内庁から陵墓参考地として指定を受けている。仁徳天皇の近親者ではないかとも言うのだが、さて誰なんだろうか。

 続いて、小奈辺古墳の南端から東に道を取り、自衛隊施設の正門前を通り過ぎると大きな湖に突き当たる。これが宇和奈辺古墳(うわなべこふん)である。





 ちょうど日が暮れかかる時間帯だったこともあり、この古墳は幻想的なまでに美しかった。あまりにきれいだったので、ほぼ日が沈むまで、ここで古墳を眺めていたほどである。撮った写真も、このままカレンダーに使えるんじゃないかと思ったくらいの出来栄えだった。冒頭の写真も、ここで撮ったものである。素人でも、いい風景に出会えれば、こんな写真が撮れるんだと改めて感じた。

 この古墳を眺めていた周濠沿いの道は、ほとんど誰も通らない静かな場所だった。沈んでいく陽が様々に墳丘を照らし、刻々と色合いが変化していく様子を飽かずに眺めた。どんな美しい絵も、この本物の美には到底かなわない。絵を描く者として、無力感すら覚えさせる壮麗な自然のショーだった。

 やがて、日没となり、帰路につくことにした。宇和奈辺古墳の東に片側二車線の大きな幹線道路がある。国道24号である。そこまで出て、歩道沿いを南に歩いて駅に向かう。

 実は、この幹線道路の向かい側に不退寺(ふたいじ)という寺がある。もし時間があれば寄ってみようかと考えていた寺である。ただ、日没まで宇和奈辺古墳を眺めていたため拝観時間を過ぎていたので諦めた。

 不退寺は、元は平城上皇の住まいである。平城上皇については、先ほど平城天皇陵のところで述べたが、上皇になって以後、平安京を離れて平城京に移り住み、寵愛していた藤原薬子と組んで復権を挑み、平城京に再び遷都する詔を発したりしたが、嵯峨天皇側にさえぎられて失敗し、出家した人である。

 健康問題が理由で退位し上皇になった平城上皇が、奈良に移って来て萱葺きの御殿を建てて住んだのが、今の不退寺である。当時は萱の御所(かやのごしょ)なんて呼ばれていたらしい。その後、その息子である在原業平(ありはらのなりひら)も住んだが、彼が兄である阿保親王(あぼしんのう)の菩提を弔うために自作の仏像を祀ったのが、この寺の始まりらしい。本尊とされる聖観世音菩薩立像は在原業平作として今でも拝観することが出来る。

 在原業平は平安時代にプレイボーイとしてならした人物で、伊勢物語(いせものがたり)の主人公としても有名である。私が他日この不退寺を訪れた際には江戸期作の伊勢物語が展示されていたが、開かれていたページがちょうど高校時代に古文の教科書で取り上げられていた有名な箇所で、少々懐かしかった。

 不退寺は、在原業平が開基したということで業平寺(なりひらでら)の別名もあると聞く。実はもう一つ別名があり「花の寺」とも呼ばれている。様々な花が季節ごとに咲き誇り、訪問者の目を楽しませるから付いた名のようだ。寺というよりは貴族の館といった風情のある本堂と共に親しまれており、あまり有名ではないが、味のあるお寺である。





 上の写真は、別の日に訪れた不退寺本堂の写真である。境内はこじんまりとしていて、あっという間に周れる。その狭い敷地に様々な樹木が植えられて、来た人に楽しんでもらおうというお寺側の心遣いを感じた。

 結局この日は佐紀路周辺を訪ね歩いただけだが、別の日に佐保路も歩いたことがある。東大寺転害門から法華寺へと続く佐保路はいわゆる一条通であり、交通量の多い県道である。一部歩道が整備されている場所もあるが、そうでない箇所も多く、傍らを車がビュンビュン通る中を歩くという、あまり気持ちの良くない道で、散策には向いていない。

 散歩マップなどを見ると、一条通から北に入った住宅街の中の道を散策ルートとして紹介しているケースが多く、本当の佐保路からは外れて歩くことになる。この散策ルートを実際に歩いてみると、こちらの方が静かで気持ちがいいのは確かだ。但し、住宅の間の裏道みたいなところもあり、本当にこの道でいいのかなと不安になる部分もあった。

 佐保路沿いを行くと、東大寺転害門近くに、聖武天皇と光明皇后の陵墓が仲良く並んでいる。佐保川が脇を通るこの辺りの風情はなかなか良い。この前後で道が狭くなっているせいか、車の交通量も少ないように感じた。

 さて、この日は日没まで歩き、暗くなった幹線道路を南下し、近鉄奈良線の新大宮駅(しんおおみやえき)へと向かった。歩数計を見ると十数キロは歩いている。広大な平城宮であちこち歩き回ったのが効いたのだろうか。古墳だらけの一日だったが、佐紀路には美しい古墳も多く、静かで味わいのある散策路と相まって、満足のいく一日だった。







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