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== 奈良散歩記 ==






第7話:飛鳥(後編)





 今回の奈良散歩記は、前回の続きで飛鳥(あすか)散歩の後編となる。

 予め書いておくが、実際の飛鳥散歩は、10月下旬の土日2日間に分けて行っており、前回が土曜日、今回が日曜日という日程になる。以下、前日土曜日の散歩の話がたびたび出て来るが、前日なんて書くと混乱するので、全て「前回の飛鳥散歩」という書き方で通していくことにする。

 さて、前日というか、前回の散歩では、近鉄飛鳥駅(きんてつあすかえき)から石舞台古墳(いしぶたいこふん)まで行って戻って来るという行程だった。今回はそれよりも北側のエリアを攻めようということで、蘇我氏(そがし)にまつわる旧跡を中心に回る道行きとなった。

 蘇我氏のことは、日本史の教科書でお馴染みだろう。古墳時代から連綿と続く有力豪族で、大化の改新で大きく勢力をそがれるまで、日本の古代史で主役を張っていた一族である。祖先は、何代にもわたって天皇に仕えた宮中の重臣、武内宿禰(たけうちのすくね)だが、この人は300歳くらいまで生きたことになっているので、あまり真に受けてはいけないかもしれない。

 蘇我氏が活躍した時代は、皇位継承を巡って皇室自体が血で血を洗う殺し合いをしていた時代なので、蘇我氏にまつわる話も謀略と血にまみれていてあまりいい印象はないと思う。私もあまり蘇我氏のことが好きではないのだが、この一族を抜きにしては日本の古代史が語れないのもまた事実である。それにこの時代、天皇の多くも姻戚関係にあったため蘇我氏の血を引いている。良くも悪くも、時代の主役なのだ。

 そんなわけで、10月下旬の日曜日に近鉄の橿原神宮前駅(かしはらじんぐうまええき)に降り立った。前回行った飛鳥駅の2つ手前の駅である。かなり大きな駅のうえ、構造が複雑で、東口に出るために駅構内で結構大きな踏切を渡るという貴重な経験をした。田舎の駅で向かい側ホームに行くのに線路に降りるというのはあるが、何本もの線路を渡る、れっきとした踏切が改札口の中にあるというのは初めてのことだった。

 橿原神宮前駅から目的地の飛鳥エリアまでは遠いので、駅前にはバスやらタクシーやらが待機している。しかし、健康管理のため歩きに来たのだからと、元気に歩き始める。前回は迷ったので、今回は地図を変えて、近鉄が出している詳しめのウォーキングマップを参考にしながらの道行きである。





 駅から暫く歩くとコンクリート塀が現れ、脇から階段で上がれるようになっている。上がってみると大きな池があり、その向こうに島のような巨大な森が見える。池の周囲は歩道がついていてベンチもある。案内板があり、剣池(つるぎいけ)と記されている。どうやら迷わず地図通りに来ているらしい。そうすると、向こうに見える島が孝元天皇陵(こうげんてんのうりょう)ということになる。

 孝元天皇は「古事記」「日本書紀」に名前は出て来るが、何をやったかは記録がなく、本当にいたのかどうか怪しい天皇の一人である。ただ、こうして墓はある。その規模から見て、これを造るのに相当の労力が掛かったろうから、誰か偉い人の墓であることは間違いない。さて、孝元天皇の墓ではないとすれば、いったい誰の墓なんだろうか。

 池の周りを回って歩道に戻り、最初の目的地である向原寺(こうげんじ)に向かう。地図に従って幹線道路を離れ、住宅地に分け入る。目印になるものをかなり細かく書き入れた地図なので助かるのだが、途中で曲がる目印となる美容院がない。この辺りのはずだがときょろきょろすると、住宅街の一角が空き地になっている。もしかして、ここに美容院があったんじゃないかと推理して先に進むと、次の目印にたどり着く。地図の制作年月日は2013年12月になっているから、それから1年しないうちに店をたたんで更地にしたことになる。詳しい地図にも思わぬ落とし穴があることを学んだ。

 住宅地を抜けると一気に田畑の広がる田園風景となり、再び和田池(わだいけ)という大きな池が現れる。実にのどかな風景で、思わず休んで、お茶を飲んだり写真を撮ったりした。飛鳥の散歩はこういう景色が至るところにあるのが嬉しい。

 和田池から畑の脇をほどなく歩くと向原寺に着く。もっと大きなところだと思っていたが、周囲を回って見てもどうやらこれだけのようだ。少し拍子抜けした。





 向原寺は蘇我氏ゆかりの寺である。仏教が初めて日本に伝えられた時に、百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目(そがのいなめ)が試みに祀ったのがこの地で、当時は仏教が正式に認められる前なので寺というものがなく、蘇我氏の邸宅に仏像を安置したと伝えられる。

 この際のエピソードは比較的有名で、後の蘇我・物部(もののべ)の争いの出発点みたいな話である。百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の使者がやって来て、仏像と仏典を天皇に献上したことに話が始まる。当時の天皇は、前回の飛鳥散歩の際に猿石(さるいし)のところで出て来た欽明天皇(きんめいてんのう)である。

 天皇はこの仏像をどうしたものかと部下に尋ねる。蘇我稲目は「他の国で敬っているのに日本だけが従わないわけにはいかない」と仏教擁護論を唱えた。これに対して物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)が「日本は神道の国なので、他の国の神を敬えば神の怒りを買いますよ」と反対した。そこで天皇は、蘇我稲目に試みに仏像を礼拝するように言う。そして稲目が仏像を安置して礼拝した場所がここなのである。

 ところが折悪しく、疫病が流行し死者がたくさん出た。それ見たことかと物部尾輿と中臣鎌子が天皇に申し立て、やむなく天皇は仏像の廃棄を許す。かくしてこの地にあった蘇我稲目の邸宅は焼かれ、仏像は難波の堀江(なにわのほりえ)に捨てられるという結末を迎える。第1回戦は、仏教反対派の勝利に終わったのである。しかし仏教の受入れを巡っての蘇我・物部の争いは、後の代まで繰り広げられ、やがて聖徳太子を交えての蘇我・物部の軍事衝突にまで発展するのである。

 さて、向原寺の方の話に戻ると、焼け落ちた蘇我氏の邸宅跡に、後年になって推古天皇(すいこてんのう)が豊浦宮(とゆらのみや)という宮殿を作り、推古天皇がそこをしりぞくと、豊浦寺(とゆらじ)という寺になった。これが現在の向原寺の前身である。お寺の門前の解説板にも、豊浦寺跡と表記されている。

 上に書いた蘇我稲目の時代の騒動には後日談がある。伝承では、百済の聖明王から贈られた仏像は、物部氏により難波の堀江に捨てられた。推古天皇の時代になってそこを通り掛かった信濃国(しなののくに)の本田善光(ほんだよしみつ)という人物の前に、水中から突然この捨てた仏像が現れる。驚いた本田善光は、家に持ち帰り仏像を祀る堂宇を建てた。これが現在の善光寺(ぜんこうじ)である。当の仏像が今でも本尊となっているが、絶対秘仏とされ、僧侶たちも現物を見ることが出来ない扱いとなっているようだ。

 ところで、向原寺のすぐ近くに祠の建てられた小さな池があり、難波池(なんばいけ)と表示されている。傍らに立つ説明板には、仏像が捨てられたのはこの池だと書かれている。難波の堀江というのは一般に、現在大阪市内を流れる大川(おおかわ)のこととされているが、仏像はそこに捨てられたのではないのだろうか。どうも謎の残る説明板である。

 続いて、向原寺を離れて難波池の脇の道を進み、甘樫丘(あまかしのおか)を目指す。丘の麓も含めて公園になっており、遊歩道も整備され立派な休憩所やトイレもある。





 甘樫丘(あまかしのおか)は標高148メートルの小さな山である。南北二つの展望台があり、北側に大和三山(天香久山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の三つ)、南側に明日香村を望むことができる。甘樫丘の標高自体は、天香久山や耳成山とさして変わりがない。

 この日は北側の展望台にしか行かなかったが、丘の上には遊歩道が整備されており、ハイキングがてら南側の展望台まで行ったら、これはこれで楽しい道行きとなったろう。ただ、南側の主なスポットは前回の飛鳥散歩で見てしまったし、この後丘の麓を散策したかったから、この日は諦めた。

 上の写真にある左端の山が畝傍山で、大和三山の中では最も標高が高い。この日の出発点である橿原神宮前駅は、その少し手前ということになり、駅名にある橿原神宮(かしはらじんぐう)は、畝傍山の麓にある。右端の山は耳成山で、その手前辺りに藤原京(ふじわらきょう)が広がっていたことになる。写真には収まっていないが、耳成山の右隣に天香久山があり、展望台からは三山がきれいに見える。

 ところで、この甘樫丘も蘇我氏と関係のある地である。発掘の結果、おそらく確かだろうと言われているが、この丘の中腹と麓に蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子の屋敷があった。この親子のことは、第4回の奈良散歩で斑鳩を訪れた際に、山背大兄王の墓所のところで記した。

 先ほど向原寺のところで書いたが、仏教の扱いを巡って対立が激化した蘇我・物部の覇者争いで、当時の当主であった蘇我馬子が聖徳太子などと組んで物部氏を滅ぼすと、蘇我氏は豪族の中にあって事実上の一強となり、権勢の絶頂期に到達する。当時は皇室と豪族との姻戚関係が濃密で、豪族の意見も聞きながら次期天皇を選ぶしきたりだったから、こうなると蘇我氏はやりたい放題になり、皇室をないがしろにし権力をほしいままにしていたと伝えられる。その当時の蘇我氏の中心人物が、蘇我蝦夷・入鹿の親子だったわけである。

 その頃から、蘇我氏と反蘇我勢力との対立が激化するが、当初反蘇我勢力に担がれていたのが聖徳太子の一人息子山背大兄王である。しかし、天皇の跡目争いを巡って対立が激化した際、蘇我入鹿は山背大兄王の住む法隆寺を襲って、一族を自害に追い込む。

 それからほどなくして、後に天智天皇(てんちてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や、後に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)となる藤原氏の祖、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが反蘇我勢力として立ち上がる。まず蘇我入鹿を暗殺し、その後蝦夷を自害に追い込む。この際蝦夷は自分の屋敷に火をかけたとされており、発掘の結果、焼けた建材や土器が出土しているようだ。これによって蘇我氏本流は滅びるのである。この乙巳の変(いっしのへん)とその後の改革を合わせて大化の改新と呼んでおり、日本史の教科書では必ず出て来る歴史上の重要事件である。

 蘇我親子の邸宅はどの辺りにあったんだろうかと思いながら甘樫丘を降りると、今度は東に向かい、飛鳥川を渡る。その先の自動車道を横断すると、大きな駐車場があり、その脇に水落遺跡(みずおちいせき)と呼ばれる遺構がある。





 水落遺跡は見た瞬間、何のための施設だろうと思ってしまうのだが、正体はなんと、水時計なのである。もちろん遺構なので、現在これを使って時間を測ることは出来ない。傍らの解説板によると、水を使った時計と、その時刻を人々に知らせる鐘撞き堂のような施設があったのではないかと説明されている。

 日本書紀にも記録されている施設のようで、大化の改新で蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした中大兄皇子が皇太子時代に造ったとされている。その目的は、正確な時刻というものを人々に知らせて、それに基づいて政治や人々の生活に秩序をもたらそうとしたものだったと解説板にある。中国を手本にしたものらしい。

 今から千数百年前の時計というのは、こんなに大きいものだったのである。時を正確に測るのは、当時の技術では難しかったのだろう。地質調査中にたまたま発見されたらしいが、よくぞ見つけたものだと感心した。

 さて、この後は飛鳥寺(あすかでら)に行く予定なのだが、水落遺跡の先にある道が田畑の中を通って気持ち良さそうなので、暫し散歩をする。家の脇を抜けて開けたところに出ると、畑の向こうに次の目的地である飛鳥寺が見える。このお寺は、このあと訪ねて知ったのだが、自由度が高く、勝手に鐘をついてもいいことになっている。そのため、時折鐘の音が響いて来る。これがまたいい感じなのである。背後には、先ほど登った甘樫丘がゆったりと姿を見せており、飛鳥はこれだからいいなぁという気分にさせてくれる。

 畑側からアプローチして飛鳥寺に入るが、その手前にあるのが蘇我入鹿の首塚である。





 蘇我入鹿は先ほど書いたように、大化の改新の際に中大兄皇子や中臣鎌足に暗殺されるのだが、どこで暗殺されたかというと、宮中、しかも皇極天皇(こうぎょくてんのう)の面前で暗殺されている。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだいしかわのまろ)が朝鮮使の上表文を読み上げたのを合図に中大兄皇子らが斬りかかり命を落とす。死体はそのまま戸外に打ち捨てられたとされている。

 この首塚自体がいつ頃からあるのかは不明だが、五輪塔は鎌倉時代に建てられたものだと言われている。ここに首塚があるのは、切られた首がここまで飛んで来たからとか、斬りかかった中大兄皇子を首だけが追い掛けて来たから、なんて伝えられているが、蘇我入鹿が暗殺された宮中は、これから行く飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、ここからかなり遠い。おそらくは、蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺に塚を作ったということだろう。飛鳥寺は当時相当大きな寺だったので、ここも境内だったのではないか。

 なお、中大兄皇子や中臣鎌足らに組して蘇我入鹿暗殺に加担した蘇我倉山田石川麻呂は、ここから1kmほど先の北東方向にあった山田寺(やまだでら)を建てたことでも有名だが、大化の改新により右大臣まで登り詰めた後、謀反の疑いをかけられて一族と共に山田寺で自害している。背後には中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀があったという説もあり、何かと血生臭い権謀術数の時代を象徴するかのようなエピソードである。

 蘇我入鹿の首塚のすぐ先が飛鳥寺である。こちらから入ると裏門から入る恰好になるが、こちらからの風景の方が正面からより風情があっていい。田園風景の中に建つ寺というのが、如何にも飛鳥のイメージにピッタリなのである。





 飛鳥寺は飛鳥観光の目玉だとよく言われる。日本最古の本格的寺院である法興寺(ほうこうじ)に起源を持つ古刹で、この日のテーマである蘇我氏の氏寺でもある。元々この寺を建てたのは、物部氏を打ち破り仏教を受け入れるか否かの論争に終止符を打った蘇我馬子(そがのうまこ)である。この人の墓は、前回の飛鳥散歩で訪れた石舞台古墳だと推測されている。

 飛鳥寺には幾つかの別名がありややこしい。元々の名の法興寺のほか、飛鳥寺裏門の入り口には安居院(あんごいん)という看板も掲げられている。また、本元興寺(もとがんごうじ)という呼び名も登場する。

 前回の飛鳥散歩の際に川原寺跡を訪れたところで書いたが、飛鳥寺は「飛鳥の四大寺」の一つと言われている。今では小さな寺だが、創建当時は3つの金堂と塔、講堂を持つ大規模な寺院であったようだ。当時の復元図が正門脇の案内板やパンフレットに出ているが、この通りだとすれば南北290m、東西200〜250mの巨大寺院である。最強の豪族となっていた蘇我氏の威光を天下に知らしめる役割もあったことを考えれば、そうおかしくはない規模であろう。

 寺院建立に当たって百済から専門家が呼び寄せられ、仏師としては鞍作止利(くらつくりのとり)が来日し、仏像造りを担った。今でも鞍作止利の手になる釈迦如来像、通称、飛鳥大仏(あすかだいぶつ)が飛鳥寺本堂に残っており、飛鳥観光の目玉の一つとされている。

 先ほど、勝手に鐘を鳴らしてよいと書いたが、この寺の自由度の高さを実感したのが本堂に入ってからである。鞍作止利作の飛鳥大仏を見ようと拝観料を払って本堂に入ったところ、写真は自由に撮ってもらって結構という、驚くべき発言が案内の人からあった。京都のお寺ではまず考えられないことだ。





 たしかに、どこにも写真撮影禁止とは書いていない。お蔭で、皆さんバチバチ写真を撮っている。中には、大仏の前に行って一緒に写真に収まっている人までいる。日本最古の寺と言われると如何にも威厳がありそうだが、意外な自由度にビックリする。

 飛鳥寺の歴史を考える時、幸いだったのは、大化の改新により蘇我氏は没落するが、氏寺であったこの飛鳥寺は寺勢を維持し、朝廷の庇護を受け続けたということである。飛鳥の四大寺と称されたのも、こうした朝廷の扱いがあったればこそのことである。

 その後、平城京へ遷都した際、飛鳥寺に大きな転機が訪れる。薬師寺(やくしじ)、大官大寺(だいかんだいじ)と共に、現在の奈良市に移転することになったのである。2回目の奈良散歩で訪れた元興寺(がんごうじ)が、移転後の飛鳥寺である。しかし、全てが移転したわけでなく、引き続き寺としては飛鳥の地に残り、この経緯から本元興寺という呼び名も登場することになった。

 ところが、鎌倉時代に入ると落雷が原因の大火に遭い、伽藍の幾つかを焼失してしまう。その後は衰亡の一途をたどり、江戸時代には本尊の飛鳥大仏を安置する粗末なお堂があるだけの状態だったと伝えられている。飛鳥大仏も随分破損していたようで、現在の飛鳥大仏のうち、オリジナルのままなのは頭部など一部だけだと伝えられている。

 見るに見かねた人々の手で再建が図られたが、往事の勢いは見る影もない。それでも、仏教伝来当時の寺が、とにもかくにも本尊共々こうして元の場所に残っているというのは、素晴らしいことではある。こうして考えると、飛鳥寺は飛鳥観光の目玉だというのもうなずける話である。

 さて、飛鳥大仏を見たあと、飛鳥寺を正門側から出て、今度は南に進路を取り、酒船石(さかふねいし)のある地帯を目指す。前回の続きではないが、またまた謎の巨石群である。場所が分かるだろうかと少々心配したが、遠くからでも、あぁここだなと分かる程度に賑わっている。飛鳥はレンタサイクルで回る人が多いので「自転車の停まっているところ観光スポットあり」である。

 この辺り一帯は酒船石遺跡と呼ばれているが、見どころは3つある。まずは亀形石造物(かめがたせきぞうぶつ)である。





 この遺構は、ちょうど西暦2000年に見つかっている。ここに道路を通そうとして確認のために掘ったら石垣が出て来た。更に掘り進めると、この亀形石造物が出て来たというのが発見の経緯らしい。元々の地面から見ると、かなり深くに埋まっていたことになる。

 案内の人の解説では、世相が暗い中で、吉兆である亀を模した遺跡が西暦2000年という世紀の変わり目に見つかったので、当時大変話題になり、ものすごい数の人がここを訪れたらしい。新世紀なんて言いながら、暗いニュースの方が多かった時代だったから、みんな明るい話題に飢えていたのだろう。

 ところで、この巨石はいったい何のためのものなのか。亀石と違って、一応用途は推定されている。ずばり天皇の禊用施設だったらしい。

 写真右側から小判のような石に水が注がれるのだが、構造上これは湧き水の中でも上澄みの水が流れて来ることになっている。そして、この小判状の石に溜まった水の中でも、更に上澄みの水だけが左側の亀形の石に注がれる。この幾重にも上澄みだけを厳選した水を、天皇が浴びて禊をし、国家安寧などの重要祈願をしたのだと推測されている。かなり古い施設だが、周囲から出土した銭から見て、平安期頃まで使われたのではないかと見られている。

 この禊用の石がどうして亀の形をしているのかについてははっきりしていないが、一応一つの推理がある。第4回の奈良散歩で斑鳩に行った際に中宮寺という寺に立ち寄ったが、ここに天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)という日本最古の刺繍があった。これは、聖徳太子逝去後、太子の妃が命じて、太子がいるであろう天寿国のありさまを刺繍させたものだが、そこに百個の亀甲が刺繍されており、その亀のデザインがこの亀形石造物の亀と似ているのである。そこから推測すると、当時亀というのは、天と地を取り結ぶ特殊な動物と見なされていたらしい。そんな案内の人の話を聞くと、前回の飛鳥散歩で見た亀石も、何か関係があるんじゃないかと思ってしまう。

 亀形石造物を見た後は、脇の階段を上がって小高い丘の上に向かう。この途中に第二の見学スポットがある。

 道の脇に一段低い空き地があり、細長い小屋のようなものが建てられている。中を覗けるようになっていて、見ると石垣がある。脇の案内板によると、今こうして登って来た丘自体が人工のもので、その基礎となる石垣が露出した箇所がここであるらしい。これ自体が人工のものって本当かいなというくらい大きな丘なのだが、日本書紀に石を重ねて丘を造ったという記録が残っているようだ。まぁ古墳の規模を思えば、山の一つや二つ、何てことはないという感じだったんだろうが、こうして登ってみると、現代の公共事業顔負けの規模である。

 この小屋からもう少し先に行くと、有名な酒船石がある。





 この石というか、巨大な岩は、写真で見たことがあると仰る方も多いのではないか。大きさは長さ約5m、幅約2mで、高さが1mもあるから、全体を上から俯瞰するのは難しい。その上には、写真の通り、複雑な模様が彫られており、飾りというより液体を流すための溝のように見える。

 これが、山道の途中にある竹やぶの隅に、ゴロンと置いてある。周囲に他の巨石はない。何とも不思議な情景で、野原の真ん中にポツンとある亀石も奇妙だが、丘の上の竹やぶの中に転がる巨石も、不思議な印象を醸し出すシロモノだ。これを見つけた人はいったい何だと思ったのだろうか。

 実はこの酒船石、用途は分かっていない。傍らの案内板によれば、酒を絞るための槽という説(酒船石の名前はここから来たのだろう)や、油や薬を作るための道具といった説があるほか、近くで水を引くための土管や樋が発見されているので、庭園の一部だったのではという見方もあるようだ。でも庭園って言ったって、石を積んで造った人工の丘の上に庭園作ってどうすんだという気がするし、庭園の遺構がこの岩一つというのも変だ。それを言えば、ここで酒を絞る意味もないし、薬や油作るんだったら丘の下でやればいいじゃないかと思われる。結局、またもや謎の巨石ということになろう。

 酒船石を見た後は、再び麓まで降りて、更に道路を南に歩く。この先にある伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)を見るためだ。

 道路脇に板蓋宮跡に向かう道案内が出ており、そこを折れて路地を少し進むと畑の中に出る。のどかな田園風景の中をたどると、ほどなく伝板蓋宮跡にたどり着く。





 板蓋宮の跡と案内板には表示されているが、話は少々ややこしい。現地に解説板が二つあり、それを合わせ読むとこういうことになる。

 推古天皇から持統天皇(じとうてんのう)の時代にかけて、飛鳥には、飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)と、次々に宮殿が造営されたが、その場所は正確には分かっていない。その中で、板蓋宮についてはこの場所だという言い伝えがあったので発掘してみたら遺構が出て来たので、伝飛鳥板蓋宮跡として紹介された。

 ところが、年代測定してみるとどうも時代が違って、ここにこうして現れているのは飛鳥浄御原宮の遺構らしい。そして、この下にもっと古い年代の遺構があって、そちらが板蓋宮の跡らしい。

 つまり板蓋宮の場所はここらしいが、今ここに見えているのは飛鳥浄御原宮の遺構というわけで、案内板に根本的な間違いはないと言うことは出来よう。まぁいいじゃないか、古い話なんだから。

 で、板蓋宮だが、これは、この日のテーマである蘇我氏との関係で、極めて重要な場所なのである。

 元々板蓋宮の建造を命じたのは、女性天皇である皇極天皇である。この人は、前回の飛鳥散歩のときに猿石のところで出て来た吉備姫皇女王(きびつひめのみこ)の娘である。夫は欽明天皇で、その崩御に伴って即位し、新宮殿建設を命じる。担当したのは、最強豪族の総帥であった蘇我蝦夷であり、出来た宮殿がこの下に埋まっている板蓋宮である。

 そして、蝦夷の息子入鹿と共に蘇我氏の絶頂期を迎えているときに、親子共々中大兄皇子や中臣鎌足に滅ぼされる。その時の話は上の方にも書いたが、まず蘇我入鹿を皇極天皇の面前で暗殺し、その後蝦夷を甘樫丘の自宅で自害に追い込む。いわゆる乙巳の変であり、その後改革が行われ大化の改新となる。

 その最初の蘇我入鹿暗殺が行われたのが、この板蓋宮である。父親が建造の指揮を取った宮殿で、その息子が天皇の面前で殺されるという、蘇我氏の栄光と凋落、光と影を象徴するかのような場所だ。

 ちなみに、自分の面前で重臣が暗殺された皇極天皇は即座に退位し、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に皇位を譲る。孝徳天皇は、さすがにそのまま板蓋宮にいるのが嫌だったのか、今の大阪に難波宮(なにわのみや)を作ってそちらに移ってしまう。その後、十年も経たずに孝徳天皇は亡くなり、一度皇位を退いた皇極天皇が重祚し、斉明天皇(さいめいてんのう)として再度皇位に就く。この時斉明天皇は新しく宮殿を作らず、昔の板蓋宮で再び政治を司ろうとするのだが、直後に火災で板蓋宮は焼失してしまう。何とも因縁めいた話だ。

 そして、板蓋宮を失った斉明天皇が仮の宿りに選んだ場所というのが川原宮(かわらのみや)であり、これが前回の飛鳥散歩の際に、謎の大寺院として紹介した川原寺の前身である。

 飛鳥は現代人にとって古代ロマンの地だが、その歴史をたどると何とも血生臭い陰謀と権力闘争が垣間見えてくる。それぞれの場所の謂れを知れば、また違った飛鳥の素顔が見えるのではなかろうか。

 さて、この日の蘇我氏にまつわる遺構見学はこれで終わりとなる。伝板蓋宮跡から飛鳥寺の方を振り返り、あそこまでは蘇我入鹿の首は飛ばんわなと思いつつ、飛鳥を後にすることにした。

 そのまま南に少々下ると、前回の飛鳥散歩の折に歩いた辺りに出る。そこを西に曲がって、最寄の近鉄岡寺駅(きんてつおかでらえき)に向かうコースを取った。

 曲がった辺りに川原寺跡がある。こうして歩いてみると、板蓋宮と川原宮はすごく近いんだなと実感する。女性天皇だった皇極天皇は、目の前で時の最強豪族の長が暗殺された事実をどう感じたのだろうか。重祚しても板蓋宮を使い、火事で焼けてもすぐ近くに仮宮を造るあたり、案外豪傑な人だったんだろうかと思ってしまう。

 川原寺跡から岡寺駅までは30分程度の道のりだったろうか。合わせて2日間の飛鳥散歩をもう一度振り返りながら歩いた。ここまでの奈良散歩の中では、一番中身の濃い散策だったなと感じた。

 この日歩いた距離は10kmといったところだろうか。やはり飛鳥は見どころが多く、1日で回るのはしんどいし、中身がある分、駆け足で見るのはもったいないと感じた。2日に分けたのは正解だったと思いながら、日の傾きかけた道をのんびりと歩いて駅に向かった。







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