パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第6話:飛鳥(前編)





 今回の奈良散歩記の行き先は飛鳥(あすか)である。

 飛鳥は見どころが多いうえ、エリアが広範囲に渡るので、ガイドブックではレンタサイクルや周遊バスによる観光を勧めている。しかしこちらは健康管理のために歩くことが第一目的なので、自転車やバスは論外である。そうなると、昼頃からしか行動しない私にとって、一度に全て歩くのは時間的に無理があるため、2回に分けて行くことにした。ならば朝早く起きて出掛ければよかったじゃないかという声も聞こえて来そうだが、そこまでの気合は入っていない。のんびりゆったりのゆるゆる散歩なのである。

 第一回目の飛鳥散歩は、近鉄飛鳥駅から石舞台古墳(いしぶたいこふん)まで行って戻って来るというコースに決めて出発した。

 飛鳥は遠い。斑鳩(いかるが)なんかよりずっと南で、もう少し南に下ると山にぶつかる辺りである。そして、その山を越えると、桜で有名な吉野ということになる。乗っていく電車は阿倍野橋駅(あべのばしえき)から出ている近鉄南大阪線(きんてつみなみおおさかせん)で、急行なのに4両編成。始発駅からいきなりたくさんの乗客が乗っていて、人気路線なんだなと感心した。急行で45分走って飛鳥駅に着く。季節は10月下旬。秋らしい高い空に雲ひとつない晴天の土曜日だった。

 駅の名前は飛鳥という漢字だが、村の名前は明日香という漢字を使う。どちらも同じ読み方だが漢字が違うのはどうしてなのか。昔から疑問に思っていたのだが、この時、下調べを兼ねてガイドブックを読み、ようやく分かった。明日香村というのは、3つの村が合併して出来た新しい村だったのだ。合併した3つの村のうちの一つが飛鳥村で、このまま飛鳥の漢字を使うと吸収合併みたいで他の2つの村の手前、具合が悪かったのだろう。町村合併ってなかなか難しいからなぁ。

 駅から最初にどこに行くかと考えたが、まずは散歩の主要ルートから少し外れることになる高松塚古墳(たかまつづかこふん)に行くことにした。あとの訪問場所はほぼ同じ道沿いにあるのだが、高松塚古墳だけは南にずれたエリアに位置しているのである。

 ところが、冒頭でいきなりトラブル発生。道を間違えて違う方向に向かってしまった。持って行った地図が少々分かりにくかったのである。スマホならGPS機能が付いているのでこんな失敗はなかろうが、当時持っていたのはまだガラケーで、しかも古い機種なので、GPSが使えないうえサイト閲覧もままならない。ガイドブックの地図だけが頼りの、アナログな道行きなのである。

 道中に高松塚古墳を示す案内板があって、その方角から、間違った道を歩いていることに気付いた。大きくは道をそれていなかったので、横から高松塚古墳のある公園に入ることになった。分かれ道のところに標識を立てておいて欲しかったなぁ。





 高松塚古墳は有名だが、実は誰が埋葬されているのか定かではない。そんな誰のものとも知れぬ墳墓がかくも有名なのは、発掘作業中に見つかった女子群像の壁画のお蔭だろう。盗掘はされていたが、壁画は色鮮やかな状態で残っていた。今では教科書などにも載っている有名な絵で、誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。

 壁画には、女子群像以外にも男子群像、朱雀(すざく)以外の四神(青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ))、太陽、月、星座などが描かれていた。これらは全て国宝に指定されている。こうした壁画は、たまたま高松塚古墳にだけあったわけではなく、本来、同時期の他の古墳にもあったのだろう。しかし、たいていの古墳は盗掘の被害に遭っているので、その際外部の空気が入り、カビなどによって侵食され失われたのではないか。そうだとすれば、国宝級の宝が随分失われたことになる。実に残念な話だ。

 高松塚古墳は中に入ることが出来ないので、富士山のような小さな山を眺めるだけだが、ここを中心に公園が整備されており、歩いていて気持ちのいいエリアである。

 さて、ここからは道を間違えないようにと地図を確かめ、公園を北向きに抜けて飛鳥周遊歩道に出る。あとのルートはだいたいこの道沿いだし、案内板が要所々々にあるため迷うことはなさそうだと安心する。そうは言いつつ迷うことになるのだが・・・。

 飛鳥周遊歩道は自転車や歩行者向けに整備された観光用の歩道で、実に気持ちの良い道である。田畑の中や静かな集落を縫うように走っており、ちょうど稲刈りの時期だったので、農作業の人たちを眺めながらの道行きとなった。道の上にはカエルがいたりバッタが飛んでいたりと、野趣に富んだ散策道である。

 飛鳥周遊歩道に入ると、まずは欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の方向に向かう。しかし、目的地は欽明天皇陵ではなく、その手前にある吉備姫皇女王墓(きびつひめのみこはか)である。更に言えば、この墓を見たいわけではなく、そこに置かれている石像を見たいのである。変なことを言う奴だと思われるかもしれないが、おそらくこの地を訪れる観光客の大半が、同じことを考えているはずだ。





 吉備姫皇女王墓は宮内庁管理なので鉄の柵に囲われて中に入れないのだが、その鉄柵のすぐ内側に全部で4体の不思議な石像がある。これらは、元々この墓のために造られたものではなく、今通って来た道の脇にある池の中から出て来たものだという。造られた理由は分からない。また、どういう経緯でこれらの石像をこの吉備姫皇女王墓内に置いたのかも不明である。いずれにせよ、そのユニークな姿から観光客の注目を集め、天皇陵や皇族の墓よりも有名になったという次第である。

 ついでながら言うと、欽明天皇陵は本当に欽明天皇を埋葬した場所なのか疑問視する声がある。また、吉備姫皇女というのは、欽明天皇の義理の娘に当たり、皇極天皇(こうぎょくてんのう)と孝徳天皇(こうとくてんのう)を生んだ飛鳥時代の皇族である。

 さて、上の写真の石像が猿石(さるいし)と呼ばれているもののうち、左側に置かれている2体だが、見た目の印象からそう呼ばれているだけで、本当は何をかたどったものか不明である。一応それぞれの像に名札が置かれており、写真の像には「山王権現」「女」とあるが、これらは愛称であって、本当に山王権現と女の像なのか分からない。写真には写っていない右側の2体には「僧(法師)」「男」の名札が付いている。愛称を示す名札をわざわざ置くなんて、宮内庁も少しはしゃれたことをするなと感心した。

 ちなみに、鉄柵の向こう側に置かれているので石像の裏側に回ることは出来ないのだが、裏にも別の顔が彫られているらしい。これがいったい何なのかを考えるのも、古代ロマンというものかもしれない。

 この4体の不思議な石像のお仲間が、実はもう一つあることが分かっており、それはここから更に南に行った高取山(たかとりやま)の中に置かれている。これも猿石と呼ばれているのだが、どうやらこの飛鳥から山中へ運ばれたようだ。高取山の猿石は、山道脇にポツリと置いてあるので、近寄ってしげしげと眺めることが可能である。高取山へ行った時の話は、猿石の話も含めて、また別の機会に書こうと思っている。

 さて、猿石を見た後は飛鳥周遊歩道に戻って、来た道を引き返すようにして東に向かい、またもや奇っ怪なものを見に行く。昔から、これはいったい何だと人々を悩ませていたものである。








 飛鳥周遊歩道の傍らに奇怪な巨石が転がっており、そのすぐそばの登り道を上がったところにも、同じように巨石が地面に埋め込まれている。自然にある岩ではなく、運ばれて来て、ここに置かれたものである。昔の人はこれを鬼が使っているものだと見て、上の写真の岩を「鬼の雪隠(せっちん)」、下の写真のものを「鬼の俎(まないた)」と呼んだ。

 鬼の俎のところにある案内板によると、この辺りは昔霧ヶ峰(きりがみね)と呼ばれており、鬼が霧を降らせて人を迷わせ、捕らえて鬼の俎で料理をして食べていると考えたのだ。そして、その近くに鬼のトイレもあるというわけである。いやはや、昔の人々の想像力のたくましさには感心するが、本当にそうだと思っていたとすれば、随分恐ろしい場所だったことになる。

 では、本当のところこれはいったい何だということになるが、墳墓用の石室の一部だというのが定説になっている。解説板には、それぞれの岩が石室のどの部分であるかを示す図まで付けられている。それを見れば、な〜んだ、ということになってしまう。猿石と同じく、正体不明のままの方が、人々の想像を駆り立てて面白いのではないかと思う。

 次は天武・持統天皇陵(てんむ・じとうてんのうりょう)に向かうつもりで飛鳥周遊歩道を進むが、一向にその表示が出ない。地図によるとこの辺りではないかと考えてきょろきょろするが、それらしきものは見当たらない。もっと先かなと思って進むと、天武・持統天皇陵の次に行こうとしていた亀石(かめいし)の案内があった。さては行き過ぎたと思ったが、あれだけ見てても分からないということは、案内板はないのだろうと考え、帰り道にもう一度探すことにして、亀石まで歩を進めた。





 名前を亀石というこの巨石は、全くもって正体不明の存在である。岩の下の部分が亀の頭に見えるからそう呼ばれているが、たまたま岩の形状がそうなっているのではなく、明らかに人の手によって彫られているという。では何のためにこんな形状に彫刻したのか、いまだに謎のままである。そのうえこの巨石が、何気なく道の脇に置かれている。周囲は何もないところであり、ここに置いた意味も分からない。

 傍らの解説板によれば、昔この近くにあった川原寺(かわらでら)の境界を表す標石だったという説があるようだが、どうして寺の標石が、このユーモアあふれる亀なのかは理解に苦しむ。まるでゆるキャラである。寺の標石なら、もう少し威厳のある形をしているのではなかろうか。

 この亀石にまつわる伝説が解説板に書かれていた。この辺りが湖であった頃に、対岸の当麻(たいま)との間で水争いが持ち上がり、結局水を当麻に取られてしまい、干上がった湖で多くの亀が死んだ。村人たちがその供養のために亀の形に岩を彫ったという話だ。今は亀の顔が南西を向いているが、当麻のある西の方を向いたときには、辺り一帯が泥沼になると信じられていたようだ。

 ちなみに当麻は、中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説で有名な當麻寺(たいまでら)のあるところで、後にここを訪問した時の話も別の機会に書きたいと思っている。

 いずれにせよ、正体不明の謎の巨石というところがいい。最初に見た鬼の俎・鬼の雪隠ではないが、物事は分かってしまうと案外面白くなくなるものだから。

 さて、では亀石が川原寺の標石だったという説に敬意を表して川原寺を訪ねることとする。500メートルほど東に歩くと着くが、残念ながら今はもうない。あるのは礎石ばかりの川原寺跡である。





 亀石ではないが、川原寺も謎の多い寺である。大化の改新で有名な天智天皇(てんちてんのう)の時代に建てられたものらしく、「飛鳥の四大寺(しだいじ)」の一つと言われている。他の三つは、今の飛鳥寺(あすかでら)につながる法興寺(ほうこうじ)、西ノ京(にしのきょう)に移転した薬師寺(やくしじ)、今の大安寺(だいあんじ)の元になる大官大寺(だいかんだいじ)である。

 川原寺以外の三つは現存するが、川原寺は上の写真のように礎石しか残っていない。ただ、創建当時は大寺院であったらしい。広々とした敷地からもその様子が伺えるし、先ほどの亀石が寺の標石なら、相当広大な寺領を持っていたことになる。

 そういう説明を聞くと、氏も素性もしっかりした由緒正しき寺院と思われるかもしれないが、正式の記録にはあまり現れない寺なのである。天智天皇の母である皇極天皇が仮の住まいとして住んだ川原宮の跡地に建てられたとする説が有力だが、誰がいつどういう経緯で建てたのかは記録として残っていない。また、飛鳥の四大寺の他の三つ(法興寺、薬師寺、大官大寺)は平城京遷都の際に奈良に移ったが、川原寺は移転していない。いったい何故なのか。どれもこれも謎である。

 巨石といい川原寺といい、謎だらけなのがかえってロマンを生んで、飛鳥の地の魅力を高めている。ふと立ち止まって辺りを見渡しながら、千数百年前の出来事をあれこれと想像してみるのも飛鳥散歩の楽しみの一つである。のどかな田園風景と遥か彼方の歴史がうまく混ざり合って、この地に人々を惹き付けているのだろう。

 川原寺から南に降りていったところにあるのが橘寺(たちばなでら)である。ここは是非寄ってみたい寺だったので、拝観料を払って中に入った。





 橘寺のことは、前回の奈良散歩記で斑鳩に行った際の話でも触れた。聖徳太子が建立に関わっていると伝えられる聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)というのがあり、その中に橘寺も含まれている旨書いたと思う。斑鳩に行った際、法隆寺(ほうりゅうじ)、中宮寺(ちゅうぐうじ)、法起寺(ほうきじ)は訪ねており、葛木寺(かつらぎじ)は現存しないため、飛鳥にある橘寺を訪ねれば奈良県内の聖徳太子建立七大寺は全て回ったことになると書いた。

 ちなみに、奈良県外では、大阪の四天王寺(してんのうじ)と京都の広隆寺(こうりゅうじ)がある。四天王寺は大阪市内の散歩の折に既に立ち寄っていたので、この時点において聖徳太子建立七大寺制覇には、広隆寺を残すのみということになった。札所巡りじゃないから全て回る必要はないが、一つだけ残っているというのは気になるので、そのうち回ろうと、この時誓ったことを覚えている。

 さて、橘寺のことだが、何故この寺と聖徳太子が関係するのかというと、聖徳太子が生まれた場所に建っている寺だからである。元は寺ではなく聖徳太子の祖父に当たる欽明天皇の別宮だったようだ。「えっ、聖徳太子は生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていて、厩戸で生まれたんじゃないの?」という声も聞こえて来そうだが、詳しい事情は知らない(笑)。ただ、ここを寺にするよう命じたのは聖徳太子本人なので、生まれ育ったのがここであるのは間違いないと思う。欽明天皇別宮に厩戸があったんだろうか。でも大きな屋敷なんだから、わざわざそこで子供産まないよなぁ。

 この橘寺に寄ってみたかったのは、聖徳太子建立七大寺制覇に一歩近づくためだけではない。実は、三回目の奈良散歩で訪れた垂仁天皇陵(すいにんてんのうりょう)とちょっとだけ関係があるのである。

 垂仁天皇陵の中に小さな島があり、これが田道間守(たじまもり)の墓と伝えられている旨書いたと思う。田道間守は垂仁天皇の臣下で、天皇に命じられて常世の国に「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」という不老不死の果物を探しに行くが、10年後にその実を持ち帰った時には垂仁天皇は亡くなっていて、嘆き悲しみ亡くなったと伝えられている人物である。

 彼が持ち帰ったのは橘の実とされており、その種を植えたのがこの橘寺の境内なのである。それにちなんで地名も橘と名付けられたらしい。先ほど、欽明天皇の別宮の話を書いたが、この別宮の名も「橘の宮」という。それが寺に改められたので、寺の名前も橘寺になったというわけである。

 ちなみに、この橘寺境内にも不思議な巨石がある。二面石と呼ばれており、文字通りデフォルメされた顔が2つ彫ってある。何の意味があるのか知らないが、人の心の善悪を表しているのではないかとされている。元からこの場所にあるのではないようで、誰が何の目的で造ったのか分かっていない。これも飛鳥ロマンの一つだろうか。





 ところで、田道間守が持ち帰った種を植えて芽が出たという橘はその後どうなったのだろうか。もしかして、その子孫に当たる橘の木でもあるのではないかと、案内に立っていた寺の人に尋ねてみた。

 どうやら橘の木は長年接木に接木を重ねて受け継がれていたらしい。しかし、途中で枯れてしまったようで、今ではオリジナルは伝わっていないと話してくれた。境内に橘の苗が植えられていたが、その後ろにある枯れ木がそうだったのだろうか。いずれにせよ、まことに残念な話である。

 さて、橘寺を出て東に向かい、川沿いののどかな道を南東に向かって歩く。この道が飛鳥周遊歩道の一部なのか定かではないが、実にいい道である。畑の中を抜けて山の麓に差し掛かり、山沿いをくねくねと進む。傍らにはきれいな湧き水が流れる疏水があり、暫く歩くとコスモスが一面に咲く野原があった。そのうち道は鬱蒼と木々が茂る山の麓に入り、この辺りから川が近くを流れ、大きな岩の間を水が音を立てて流れているのが眼下に見て取れる。

 道はそのまま山沿いに続くが、滝のある場所に石橋がかかり、この橋を渡って道をそれると、その先がこの日の終点、石舞台古墳となる。

 石舞台古墳も、高松塚古墳同様、周囲が広大な公園になっており、園内には広い芝生広場もあって、人々が三々五々歩いたり休憩を取ったりしている。この辺りまで来るとかなり山に近いせいか、そろそろ葉が色付き出しているのが分かる。

 園内を暫く歩くと石舞台古墳のある場所につくのだが、ここでは拝観料がいる。拝観料って、古墳内は空っぽなのに、何を拝観するのだろうと思いながら拝観料を払い古墳のエリアに入った。





 またもや巨石だが、これは正体が分かっている。名前の通り古墳であり、墳丘に盛られていた土が失われ、石室だけが残ったというものである。では埋葬者は誰かということになるが、確実な説はなく、おそらくは物部氏(もののべし)を滅ぼして蘇我氏(そがし)全盛時代を築いた蘇我馬子(そがのうまこ)だろうと言われている。こんな剥き出しの状態なので盗掘を繰り返され、何も残っていない。しかし、蘇我氏躍進の立役者の墓がこのざまというのはねぇ。おまけに、周囲の堀の大きさを見ると、権勢を誇った蘇我氏の墓にしては小さい気がした。

 ちなみに、本当に何も残っていないので、石舞台古墳内には自由に入ることが出来る。石室の中に入るってなかなか出来ない経験なので、このためだけでも拝観料を払う価値はあると思う。巨大な石を組み上げた石室に入り、中から上を向いて室内の巨大さに感嘆する。外から見ているとさほど大きいとは思わなかったが、地下にある部分まで入れると結構な広さだ。

 さて、石舞台古墳のある場所から更に東に進むとハイキングコースとなり、多武峰(とうのみね)まで行くことが出来る。ここから4kmほど歩けば十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)で有名な談山神社(たんざんじんじゃ)に着くわけだが、地元の方に聞くと、石舞台古墳からの登りはきついらしい。談山神社については、別の機会に訪れたので、また回を改めて記すことにしたい。

 かくして、天武・持統天皇陵を残してこの日見るべきものは全て見たので、駅まで同じ道のりを引き返す。陽は既に傾き、観光客の数も減って、実に静かな帰り道だった。

 帰り道に探そうと考えていた天武・持統天皇陵だが、さっきの飛鳥周遊歩道沿いでは場所が分からなかったので、途中で道を外れて自動車道沿いを歩く。地図を見ながらこの辺りだろうかと目星を付けてきょろきょろするとバス停があり、まさに停留所名が天武・持統陵と書いてある。しかし、どこにも案内板みたいなものはない。

 これまで幾度か古墳を見て来た経験から、古墳らしい森はないかと辺りを見回すと、道路沿いにこんもりとした小高い丘があり、道路の脇から農道のような土の道が上の方まで続いている。こいつが怪しいと道をたどって上の方に登っていくと、どんぴしゃり、その丘が天武・持統天皇陵だった。





 天武・持統天皇陵に埋葬されている天武天皇と持統天皇は夫婦である。二人で薬師寺を建造した話は、西の京に行った際に書いた。ちなみに、夫婦が一つの陵墓に埋葬されるのは、この時代にあっては珍しいこととされている。

 天武天皇の若い頃の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)であり、皇位をめぐって甥の大友皇子(おおとものおうじ)と争った壬申の乱(じんしんのらん)で有名な人だと言えば、分かってもらえるだろうか。先ほど猿石のところで出て来た吉備姫皇女の孫に当たる人物で、大化の改新で有名な天智天皇の弟である。

 天智天皇は当初、弟の大海人皇子を後継の天皇にというつもりだったようだが、やがて自分の息子である大友皇子を次期天皇にしようと心変わりする。大海人皇子はこれを受け入れて、自ら出家し吉野へ移る。しかし天智天皇が崩御すると、大海人皇子は大友皇子に反旗を翻し挙兵する。これが壬申の乱といわれる大規模な内戦に発展するわけである。一旦大友皇子の皇位継承を呑んだ大海人皇子が、何故突如翻意したのかは謎である。いずれにせよ、クーデターにより大海人皇子は皇位を手に入れた。

 ところで、天智天皇在位中は、都は奈良ではなく近江にあった。朝鮮半島で百済が新羅と唐に攻められた際、同盟国であった日本は百済を助けるため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いに敗れて百済は滅びる。この後都は近江へ移るのである。天武天皇に即位した大海人皇子は、都を再び奈良に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造営し白鳳文化(はくほうぶんか)を育てるが、この飛鳥浄御原宮があったのが、先ほど訪れた川原寺から北に少し行ったところである。飛鳥浄御原宮跡には、2回目の飛鳥散歩で訪れることになる。

 持統天皇は天武天皇の妻であるが、本来皇位を継承するはずの息子、草壁皇子(くさかべのみ)が死んだため、皇后が即位し持統天皇となった。天武天皇の母親も皇極天皇として皇位に就いているし、その前には日本初の女帝推古天皇(すいこてんのう)もいる。この時代の皇室では、皇位継承に際して男女はけっこう平等だったのだなと思う。

 さて、天武天皇には妻の持統天皇以外に、有名な女性がもう一人いた。絶世の美女とうたわれ才媛としても名高い額田王(ぬかたのおおきみ)である。万葉集などにも出て来るので名前は聞いたことがあるだろう。但し、額田王に関しては分からない部分が多い。実在したことは確かだが、実像としてハッキリ言えることはあまり多くない。その謎めいたところが、ファンの心をつかむのだろうか。

 天武・持統天皇陵には当初考えていたのとは違った方向からアプローチしたので、こちらの方向に行くと飛鳥周遊歩道ではないかと思われる道を進んでみることにした。人の家の前を通ったりして、本当に抜けられるのかちょっと心配したが、くねくね曲がった挙句に飛鳥周遊歩道に出た。出てみて、あぁここだったのかと分かったが、案内板はないし、暫く行かないと天武・持統天皇陵には行き着かないしで、たとえ最初の段階でこの道に入っても、途中で諦めたのではないかと思った。

 かくして今回は、最初に高松塚古墳に行こうとして迷ったのと、天武・持統天皇陵が分からず再び悩んだのとで、計2回迷子になったが、私の散歩には迷子が付き物で、それもまた楽しい経験ではないかと思っている。目標に向かって一直線だと時間的な無駄はないが、迷った先で色々な物に出会うこともあるため、迷子の時間は満更無駄ばかりではない。あとになって思い返してみると、そんな失敗ばかり覚えているものだ。

 それにしても今回は、謎のものや巨大なものまで、とにかく岩の多い散歩だった。古墳地帯なので石室に使われる巨石とは縁が深いのだろうが、岩についてこんなに考えさせられる道行きとは思わなかった。寺ばかりではないところが、飛鳥の良いところかもしれない。

 さて、飛鳥散歩の後編は、次回書くことにしよう。







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