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== 奈良散歩記 ==






第5話:斑鳩の里





 今回の奈良散歩記は斑鳩の里(いかるがのさと)である。

 私は奈良に行き始めた頃、斑鳩は遠いところだと思っていた。地図で見ると奈良市内から外れていて、ずっと南の方にある。奈良駅から乗り換えて別の線で行くのだろうと、よく調べもせずに勝手に思い込んでいた。だから、最初は近場から行こうと考えて、奈良公園周辺、西の京という順番でコースを開拓していたのである。

 西の京を歩いた後、市街地から外れたのどかな田園風景を歩く魅力に惹かれて、斑鳩の里まで遠出をするかと思い立ち、インターネットで路線検索をして驚いた。近鉄奈良駅(きんてつならえき)や大和西大寺駅(やまとさいだいじえき)に行くのと時間的に変わらないのである。なんでそうなるんだと不思議に思って路線図を調べて分かった。JRの場合、南側から奈良県に入って奈良市内に向かうのである。この場合、斑鳩の里を歩く際の起点となる法隆寺駅(ほうりゅうじえき)はJR奈良駅のかなり手前にある。天王寺駅から大和路快速(やまとじかいそく)に乗れば3駅目、何と20分強で着く。

 この時も、それ以降も、奈良市周辺の鉄道には色々戸惑うことになった。JR、近鉄とも幾つもの路線が入り乱れていて初心者には難しい。これじゃあ絶対外人さんは無理だなと思ったが、実際に現地に行ってみると、どこにでも個人旅行とおぼしき外人さんがいて、この人たちはいったいどうやって来たんだろうと、驚くことが多かった。

 斑鳩の里と言えば、斑鳩寺(いかるがでら)の別名を持つ法隆寺(ほうりゅうじ)がまず思い浮かび、法隆寺と言えば正岡子規(まさおかしき)の俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が即座に連想される。ならばやはり、柿の季節に行かんといかんだろうと、10月上旬の休日にJR法隆寺駅に降り立った。家を出てから50分程度という信じられない早さだった。

 法隆寺駅から法隆寺までは、歩いて20分程度の道のりであるが、歩く身にとってはあまり面白くない道中である。駅から暫く行って幹線道路に出るのだが、この道がやたらと交通量が多いのである。道の両側に歩道があるため通過する車におびやかされる心配はないが、のどかな田園風景を楽しみながら歩くつもりだったので、当てが外れた気がした。

 暫く歩いて法隆寺参道前に着くと、ここからは静かな道行きとなる。長い松並木の参道を歩いて南大門に達する。しかし、一旦法隆寺に入るとそのまま東側に抜けて中宮寺(ちゅうぐうじ)まで行くのが普通のコースなので、その前に法隆寺近辺でも探索しようと考えた。

 法隆寺南大門の前で西に曲がり、暫く歩くと藤ノ木古墳(ふじのきこふん)がある。この辺りまで来ると、田畑が道の脇に広がり、車も少ない静かな散策となる。斑鳩はこうでなくっちゃという気がした。





 藤ノ木古墳に行こうと考えたのは、私の記憶にその名前があったからである。では何故覚えていたのか。それはよく分からない。藤ノ木古墳の発掘調査が開始されたのは1985年のことであり、かれこれ30年以上前ということになる。未盗掘だったため、豪華な副葬品がそのまま残っており、それが話題を呼んでたびたびニュースで報じられていた。そんなニュースを幾度か見たために、頭の中に残っていたのだろうか。

 こんもりとした円墳で、前方後円墳よりも後の時代に造営されたらしい。観光案内所の解説によれば、出土品から推測して、6世紀後半に造られたもののようだ。石室内にはもちろん入れないが、入り口扉にガラス窓があり、近づくとセンサーが作動して内部を照らしてくれる。お蔭で石に囲まれた廊下の先に石室を見ることが出来る。そこに大きな石造りの石棺が置かれているのだが、これは何と本物である。どう見ても立派な文化財だが、取り出そうにも廊下の幅から言って無理なので、そのまま本物を置きっ放しにしたのではなかろうか。

 ところで、この墳墓はいったい誰の墓なのか。それは不明で、考古学に関心を寄せる人たちからすれば、古代ロマンの格好のネタということになろうか。ちなみに観光案内所の解説では「穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)の合葬説」を有力説として挙げている。

 穴穂部皇子と宅部皇子は共に飛鳥時代の皇子で、有力豪族だった蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)が仏教を受け入れるか否かで争った時代に、物部氏側について、蘇我氏によって殺された人物である。ちなみに、穴穂部皇子の血筋は物部氏ではなく蘇我氏であり、聖徳太子(しょうとくたいし)のおいに当たる。

 当時疫病が流行して天皇や豪族が次々病に倒れた。病気快癒を願うために仏教を信奉しようとした蘇我氏と、昔ながらの神道を重んじて異国の宗教を嫌った物部氏の対立が激化し、ついに用明天皇(ようめいてんのう)が病で崩御すると争いが頂点に達する。当時、物部一族を統率していたのは物部守屋(もののべのもりや)で、穴穂部皇子を用明天皇の後継に据えようと画策した。一方、蘇我氏の総帥は蘇我馬子(そがのうまこ)で、馬子は物部氏の陰謀を阻止すべく穴穂部皇子を暗殺し、次いで穴穂部皇子と親しかった宅部皇子も殺した。

 この後、蘇我氏と物部氏は全面対決となり、双方が兵を挙げて軍事衝突することになる。この時蘇我氏側について参戦したのが厩戸皇子(うまやどのおうじ)、つまり後の聖徳太子であり、蘇我軍が劣勢になった時に四天王(してんのう)に戦勝祈願して、軍勢を立て直したと伝えられる。

 ちなみに四天王というのは、天帝である帝釈天(たいしゃくてん)に仕えて東西南北を守護する持国天(じこくてん)・増長天(ぞうじょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)の各守護神の総称である。

 戦勝祈願のお蔭かどうかは知らないが、物部氏は滅ぼされ、聖徳太子は四天王に感謝して今の大阪の天王寺に四天王寺(してんのうじ)を建てた。ちなみに、この時の主戦場は現在の東大阪市辺りで、そこに物部氏の館があったようだ。

 しかし、反仏教派の物部氏側について暗殺された穴穂部皇子と宅部皇子の墳墓が、仏教擁護派の聖徳太子ゆかりの法隆寺のすぐ近くにあるというのも皮肉なものである。

 藤ノ木古墳のすぐ北には、西里(にしさと)と呼ばれる地域がある。この西里経由で法隆寺に戻ろうと少し北に上がって狭い道に入る。古い家並みが残る風情のある道が法隆寺西大門へと続いている。





 道の入り口に西里を紹介した案内板があり、それによれば法隆寺を支える大工職人たちが住むエリアだったらしい。やがて西里の大工たちは近畿一円で活躍する職能集団となり、豊臣秀吉による大坂城建設にも従事したとある。

 しかし戦乱の世になると、職人だった彼らも戦いの渦中に巻き込まれ、大坂夏の陣のときに徳川方について城攻めに参加している。このため豊臣方から反撃に遭い、この西里も焼き討ちに遭ったようで、その後一族は京都に移ることになる。従って、今は普通の民家が軒を連ねているわけだが、細い路地に沿って昔ながらの風情ある家並みが残っており、静かで趣のあるエリアである。

 さて、西里を抜けたところに法隆寺の西大門があり、そこから境内に入る。西大門から東大門までは長い大通りがまっすぐ通っており、南側の土塀の向こうには、大小様々な伽藍が並ぶ。そして北側には、有名な五重塔や金堂を擁する西院伽藍を中心に、法隆寺の中核となる建物が並び立っている。





 法隆寺について詳しい解説は不要だろう。聖徳太子が創建したと伝えられる世界最古の木造建築であり、寺院内の建物、仏像などは国宝のオンパレードである。正確な統計は知らないが、これだけの数の国宝を持っている寺院というのは、他にないのではないか。しかも法隆寺は、明治時代に多くの国宝を皇室に寄贈している。残ったものだけでもこれだけの国宝があるのだから、たいしたものだと言わざるを得ない。

 拝観料を払って西院伽藍に入る。法隆寺内を東西に抜けていくだけなら無料なのだが、実は夢殿を見たかったのである。法隆寺の入場券は変わっていて、3枚綴りで千円となっている。法隆寺内で、拝観料が必要なエリアが3つあり、夢殿もその一つである。従って、夢殿に入ろうと入場券を買うと、自動的に残り2つのエリアの入場券も付いて来る。そんなわけで、まずは西院伽藍に入ったという次第である。

 西院伽藍は、正面の中門、そこから左右に延びる回廊、その中に大講堂、金堂、五重塔などが建てられているが、このエリアはことごとく国宝で、祀られている仏像の多くも国宝である。お寺の回廊が国宝というのも珍しいが、世界最古の木造建造物となればそれくらいの評価は不思議ではないということか。

 それにしても、予想外に観光客が多い。多くは団体客である。修学旅行なのか遠足なのか知らないが、制服姿の生徒の一団とも、何度も行き会った。中心的建物がある西院伽藍は、とりわけ人が多い。お蔭で、建物内を見に入ると渋滞が出来る。たいていは、観光ガイドの解説を集団で聞き入っているために通路が塞がれ、前に進めなくなって人の溜りが生じるのである。仕方なく後ろについて待っているうちに、ガイドさんの解説が聞こえて来るので、得をする面もある。

 西院伽藍を出るとそのまま東に行き、今度は大宝蔵院に入る。いわゆる宝物館で、文字通り国宝が詰まっている。どうしても入りたいわけではないが、これも入場券3点セットの一つなので、ありがたく見学させて頂く。

 この宝物群の中で誰でも知っていると言えば、百済観音(くだらかんのん)と玉虫厨子(たまむしのずし)だろうか。百済観音は、他の仏像には見られないようなすらりとした細長い姿で、ファッションモデルのようだといつも思う。

 玉虫厨子は昔小学校の教科書に出て来たので、同世代ならみんな知っている有名な厨子だが、一見するとどこに玉虫の羽が使われたのか分からないというのが、見学者を悩ますポイントである。正解は、昆虫の羽という性格から長い年月のうちに朽ちて失われてしまったということらしい。探しても分からないはずである。

 百済観音も玉虫厨子も国宝であり、人が賑わう展示物である。

 大宝蔵院を出ると東に向かい東大門を通って更に進む。正面に見えるのが、夢殿のある東院伽藍である。





 夢殿に思い入れがあるのはどうしてなのかよく分からない。確かに形が素晴らしいし、渋い木造作りがいい味を出している。絵の題材にもなりそうだし、ネーミングも魅力的だ。しかし、そうした要件なら、夢殿以外でも兼ね備えている木造建築は多々ありそうだ。

 私は子供の頃から夢殿という建物の存在は知っていて、その形も写真や絵で見て知っていた。本物の夢殿に出会ったのは小学校の修学旅行の時だったと思うが、感動したことを覚えている。

 まぁ何はともあれせっかく来たのだからと、暫し木造のベンチに座って夢殿をじっくり鑑賞した。最後に見たのはいつのことだったかと思い返すが、どうにも思い出せない。修学旅行以降に確かに見たはずだ。大学生の時じゃあなかったよなあ、なんて思いながら、ここでゆっくり過ごした。

 さて、夢殿がある東院伽藍の脇に、中宮寺がある。夢殿を出た、ほんのすぐ先である。一応中宮寺という立て札は立っているが、果たしてどれくらいの人が参拝しているのだろうか。

 私は、中宮寺のことをかわいそうな寺だと思っている。

 中宮寺は、聖徳太子の母が建立した寺院で、元から尼寺だったようだ。場所はこの地ではなく、法隆寺から離れた場所にあり、塔や金堂を配した立派な大寺院だったと伝えられる。しかし、平安時代には衰退し、宝物は法隆寺に引き取られた。寺の解説によれば、最後は、有名な本尊の菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)を祀った草堂が一つあるきりのみすぼらしい状態だったようだ。一時復興が図られるが、火災などに遭い、結局避難先だったこの法隆寺の片隅で、少しずつ建物を建て増して、今の形となっている。居候の仮住まいとあまり変わるところがない。

 菩薩半跏像を見たかったのと、寺への同情とで、法隆寺に続いてここにも拝観料を払って入った。菩薩半跏像を祀る本堂は妙に近代的だが、それもそのはず、昭和になってから耐火・耐震に配慮した建物に立て替えたのである。中宮寺は代々、皇族が住持する門跡尼寺であり、関係の深かった高松宮妃殿下の力添えもあって、こうした形になったらしい。

 この近代的な本堂に入って国宝の菩薩半跏像に参拝し、傍らに展示されている天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)のレプリカ(本物は国宝)を見れば、中宮寺の見学は終わりである。私は個人的にここの菩薩半跏像が好きなので、以前にも来たことがあるが、夢殿での観光客の数に比べて、人はほとんどいない。この時には、私のほかに2人しかいなかったことを覚えている。

 さて、東院伽藍を出ると北に進み、土塀に囲まれた細い路地を歩く。法隆寺のエリアを離れると、ほとんど観光客はいない。次に目指すのは法輪寺(ほうりんじ)である。

 法隆寺界隈の住宅地を抜けると、如何にも斑鳩らしいのどかな風情の道となる。田んぼや畑が道の両脇に現れ、稲穂がたわわに実をつけて頭を垂れている。この地方では観光客向けに休耕田などにたくさんのコスモスを植えているので、時折一面のコスモス畑に出会う。草むらからは秋の虫の音が聞こえ、木々の上では野鳥が鳴いている。やはり来て良かったと思える道行きである。

 のどかな風景を進むとやがて溜め池が現れ、そこを曲がる辺りから、山の麓に法輪寺の三重塔が姿を現す。背景となる山々と溶け合い、素晴らしい眺めである。この辺りから再び観光客が増えて来て、周囲の駐車場にもそこそこの数の車が停まっている。





 法輪寺にはシンボルとなる三重塔があるが、これは昭和50年に再建されたものである。それ以前にあった三重塔は国宝だったが、昭和19年に落雷によって焼失している。

 この三重塔の再建にまつわる話が、以前に触れた写真家入江泰吉氏の「大和路」というムックに出て来る。1300年の長きにわたって風雪に耐えて来た国宝の三重塔が燃え落ちた時、法輪寺の住職は地にひれ伏して再建を誓う。以来、再建のため全国を行脚し、ようやく準備が整った翌年、無理のし過ぎで住職は他界する。その遺志を息子が引き継ぎ、寄進の輪も広がって30年の歳月の末に再建がかなう。今の三重塔は国宝ではないが、執念が結実した塔なのだ。

 斑鳩には、斑鳩三塔(いかるがさんとう)と呼ばれる3つの塔がある。一つは法隆寺の五重塔、もう一つがこの法輪寺の三重塔である。そして、最後の一つが、法輪寺の次に訪ねようとしている法起寺(ほうきじ)の三重塔で、今回の斑鳩散歩の元々の趣旨は、この斑鳩三塔を歩いて巡るというものだ。

 なお、法起寺の三重塔は創建当時のまま残っており、三重塔としては国内最古である。もちろん国宝に指定されている。どうせなら、法輪寺の三重塔が焼けずに残っていたら、全て国宝として揃っていたのに惜しい限りだ。

 さて、法輪寺であるが、創建者が誰かというのはよく分かっていない。お寺側の解説によれば二説あり、一つは、聖徳太子が病に臥した際、息子であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)が病気平癒を願って建てたというもの、もう一つは、蘇我入鹿(そがのいるか)の襲撃で法隆寺が焼失した後に百済の僧たちにより建てられたとする説なのだが、いずれにせよ飛鳥時代創建の古刹であることは間違いない。

 法輪寺にはもう一つの売りがあり、それは別名である三井寺(みいでら)の名に由来している。三井寺と言うと、一般的には滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)のことが思い浮かぶに違いない。園城寺が三井寺と呼ばれるのは、寺院内に湧く泉が、天智(てんち)・天武(てんむ)・持統(じとう)の三代の天皇の産湯として使われたことに由来するが、法輪寺が三井寺と呼ばれるのは井戸と関係がある。

 実はこの近辺に、聖徳太子が開いたと言われる三つの井戸があったようで、それにちなんで一帯は、昔から三井と呼ばれていた。今も地名は三井である。その地名を取って三井寺というわけだが、その三つの井戸のうち一つは、この寺の裏手に現存しているというので、それを探しに集落の中を歩く。

 この井戸については、何の案内板もなく、探すのに難儀した。法輪寺に来た観光客も集落には行かず、そのまま法起寺に向かうので、井戸を探しているのは私ばかりという有様である。観光客がいれば分かりやすいのだが致し方ない。おまけに、ひっそりとした集落で、表を歩く人も見掛けない。細い路地が複雑に走る集落内を歩き回って、ようやくその井戸を見つけた。





 上の写真では分かりにくいだろうが、覗き込むと水が溜まっているのが見える。今でも水が湧き出ているそうだが、実際に使われているわけではない。

 道案内の表示くらい付けて欲しいものだが、集落の人たちからしてみれば、自分たちの居住エリアにどやどやと観光客が踏み込んでくるのは勘弁して欲しいということか。静かで落ち着いた集落で、道端の柿の実が色付き、ざくろがたわわに実っていたのが印象に残っている。まぁ、道に迷って色々な光景に出くわすのも、散歩の楽しみではある。

 法輪寺を後にして、今度は東向きに山沿いの道を歩く。このコースはきちんと歩道が整備されており、そこを歩く人も多い。私と同じように斑鳩三塔を巡るコースで観光を楽しんでいる人が多いということだろう。

 周囲は田畑が広がる典型的な田園風景で、柿やいちじくを販売している小さな販売所もある。かごに盛られた立派な柿が300円というのはお買い得なのだろうが、単身赴任の身としては、この量では持て余すと思い買わなかった。

 やがて歩道脇に、妙な向きで案内板があるのに気付く。案内板を読もうとすると、山を背にして、道の向こうにある田畑を望むことになる。その田畑の先には、目立つ存在の見栄えのいい丘があった。案内板には「(伝)山背大兄王の墓所」とあった。





 案内板によれば、この丘は地元で岡の原と呼ばれているらしい。宮内庁が皇族の墳墓と認めているようだが、本当に山背大兄王の墓所かどうか確認できないため、陵墓参考地(りょうぼさんこうち)という扱いになっているようだ。ちなみに宮内庁側の正式名称は「富郷陵墓参考地」という。

 法輪寺が見える前から人目を引く丘だったのだが、まさか山背大兄王の墓とは思わなかった。しかしよく見ると、中腹に柿の木畑と思われる一角があって、実がたわわに実っているのが見える。陵墓なのにいいのだろうかと思ってしまう。まぁ地元の人にしてみれば、単なる丘だったわけだから仕方のないことかもしれない。

 山背大兄王は聖徳太子の息子で、先に見た法輪寺を創建したかもしれない人である。ただ、蘇我氏に攻め入られて一族もろとも法隆寺で自害したという悲しい運命をたどっている。

 冒頭の藤ノ木古墳のところで書いた蘇我・物部の覇者争いの後、蘇我氏は急速に勢力を拡大していく。当時の皇室のしきたりでは、天皇の長男が皇位につくとは決まっておらず、皇室を取り巻く豪族の意見なども取り入れながら、皇室の中からふさわしい人物が選ばれる慣例になっていた。勢力を拡大したい豪族は、なるべく自分の意のままに動いてくれる皇子を皇位につけようと画策する。当時の蘇我氏がまさにそれだったのである。

 蘇我・物部の覇者争い当時の蘇我氏の実権は蘇我馬子が握っていたが、山背大兄王が歴史に登場する頃には、その息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)に代替わりしていた。当時は蘇我氏の絶頂期であり、皇室をないがしろにし権力をほしいままにしていたと伝えられる。その頃から、蘇我氏と反蘇我勢力との対立が激化するが、反蘇我勢力に担がれていたのが山背大兄王である。蘇我蝦夷の息子が蘇我入鹿だが、実権が入鹿に移って来た辺りから、天皇の跡目争いを巡って再び対立が激化する。そしてついに蘇我入鹿は山背大兄王の住む法隆寺を襲って、一族を自害に追い込むことになる。

 蘇我・物部の覇者争い時に蘇我氏を助けた聖徳太子の息子を、盟友だった蘇我馬子の孫が襲って滅亡に追い込むというのは、何ともむごいエピソードだが、皇室や豪族を巡る当時の権力闘争というのは、多分に血生臭いものだったのだろう。この蘇我氏の横暴がやがて大化の改新(たいかのかいしん)につながり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり/後の藤原鎌足)によって蘇我蝦夷・入鹿親子は滅ぼされる。因果応報というやつである。しかし、蘇我氏専横に憤った中臣鎌足の子孫こそが、平安時代に同じような権勢を振るった藤原氏なのだから、因果は巡るということになる。

 ちなみに、聖徳太子の血筋は蘇我氏系であり、入鹿に殺された山背大兄王も蘇我氏の血を受けている。権力を巡って親族同士で殺し合いを行う世が、こののどかな斑鳩の地で実際にあったというのは、何とも信じがたい話である。

 さて、聖徳太子一族の悲運に思いを馳せながら田園風景を歩くうちに、前方に三重塔が見えて来た。法起寺である。





 先ほど寺の呼び方について「ほうきじ」と書いたが、実はもう一つ「ほっきじ」という呼び方もある。これは元の呼び名である。法隆寺とあわせてこの法起寺を世界遺産に登録するに当たり、両寺の「法」の字の読み方を統一することになり、呼び名を変えたのだと言う。ただ、昔から斑鳩を知る人は、いまだに「ほっきじ」と呼ぶらしい。

 お寺側の解説では、法起寺は元々岡本宮という聖徳太子の住まいであり、そこで聖徳太子が法華経を講説したのが起源になっているとのこと。その後、聖徳太子の遺言により、息子の山背大兄王がこれを寺に改めたと伝えられている。中宮寺と同じく尼寺であり、池後尼寺の別称を持っている。

 ここの三重塔が、斑鳩三塔を巡る散策の最後となるが、最初の方にも書いたとおり、三重塔としては日本最古であり、薬師寺の三重塔についで2番目に高い。ちなみに創建当時のまま残っている建物は、法起寺内ではこの三重塔だけである。

 法起寺も法輪寺同様、拝観料を払って中には入らなかったが、ここは中よりも外の方が、人が多い気がした。と言うのも、周囲が田畑で囲まれているのだが、休耕田にコスモスが植えられ、周囲一面コスモス畑である。その中を散策できるようになっており、たくさんの人が思い思いの場所で写真を撮っている。

 見ていると、三重塔をコスモス畑越しに撮るか、稲穂越しに撮るかが一番人気であり、立派なカメラを三脚に据えつけたベテラン・カメラマンがあちこちでシャッターを押している。ちなみに、先ほど紹介した入江泰吉氏の「大和路」では、春の菜の花越しに法起寺三重塔を撮っている。なるほど、季節が変わればそういう手もあるか。

 この日の散歩の中で、一番斑鳩の里のイメージに近かったのが、この田畑越しに見た法起寺である。のどかな風景を眺めながら、畑の中の土の道をぐるりと一周するだけで、ここまで歩いて来た価値が充分あると思える素晴らしいひとときだった。

 ちなみに、聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)という言葉がある。聖徳太子が建立に関わっていると伝えられる七つの寺のことで、この日見た法隆寺、中宮寺、法起寺のほかには、奈良県内に橘寺、葛木寺があり、大阪に四天王寺が、京都に広隆寺がある。このうち、葛木寺は現存せず、奈良県内で訪ねるとすれば、あとは飛鳥にある橘寺だけということになる。

 法起寺周辺をゆっくり散策した後、最後に三井瓦窯跡(みいかわらがまあと)を見ようと、山の方に向かった。

 三井瓦窯は文字通り、瓦を焼くためにこの三井の地にあった登り窯である。法隆寺をはじめとするその時代の主要寺院の瓦がここで造られたが、その跡がまだ残っているのである。

 しかしこれが、法輪寺近くにあった聖徳太子の井戸同様、すごく分かりにくい。案内板は一切なく、地図を頼りに観光客など一人もいない道をとぼとぼ歩く。本当にここでいいのだろうかと不安になるが、他に人など歩いていないので、訊きようがない。

 何とか地図にあった溜め池を見つけ、更に進むと、小さな空き地の片隅に掲示板がある。それが三井瓦窯跡の解説板だった。その解説板前にかろうじて人が踏み入ったと見分けられる跡が山の上に続いており、そこを登ると三井瓦窯跡があった。これはなかなか分からない。ここまで来ている観光客なんて、ほとんどいないのではなかろうか。





 登り窯自体は保護のため、小さな建物に覆われているが、鉄柵越しに登り窯を眺めることが出来る。周囲は柿や栗が植わっており、農家が植樹のためにこの辺りを開墾している最中に偶然発見されたらしい。歴史のある地域だから、この辺りは掘れば何がしか出て来るのかもしれない。

 千数百年前の窯の跡なのだからもっと宣伝しても良さそうだが、果樹園の中だから、あまり人が来てもらいたくないという事情があるのだろうか。いずれにせよ、今後も観光客が頻繁に訪れることはあるまい。

 さて、ここから法隆寺までの帰り道には選択肢が二つある。法起寺の近くに幹線道路が通っているが、それを南に降りて、最初に駅から法隆寺まで歩いた幹線道路と合流するという道順、もう一つは、元来た道を戻るというやり方である。

 幹線道路を南に降りると、途中に中宮寺の跡がある。上に述べたように、中宮寺は現在法隆寺に居候しているような状態だが、元は大小の伽藍を備えた大寺であり、その跡が発掘されているらしい。中宮寺を見たのだから、元の姿を偲ぶ場所を訪れたいという気持ちもあったが、交差点に立っているとやたらと車の数が多くて騒々しい。暫し考えた末に、元来た道を戻ることにした。

 中宮寺跡に心残りはあったが、帰りの道は素晴らしかった。日は傾き、辺りは夕暮れ前の静けさに包まれている。道行く観光客も僅かになっており、静かな道をのんびりと歩く。あちこちの畑からは野焼きの煙が上がり、それが弱い風になびいている。その煙の向こうには、山背大兄王の墓所と伝わる岡の原が見える。昼間から聞こえていた虫の音が一層大きく響き、柿の実が、傾きかけた午後の日に鈍く光っていた。

 法隆寺まで着くと、まもまく拝観時間は終わりということで、参拝客はまばらになっていた。静かな境内を歩きながら、聖徳太子や滅んでいった彼らの一族のことを思った。こんな静かな境内も、千数百年前には蘇我氏と山背大兄王一族が激突した戦場だったのである。今ではのどかな田園風景として人気のある斑鳩の里の悲しくはかない歴史を振り返りながら駅に向かった。

 この日の散歩はだいたい10km強。そこそこ歩いたと満足した一日だった。聖徳太子に親しんだ縁で、聖徳太子建立七大寺を訪ねてみるのもいいなぁと思った。奈良県内でまだ行っていないのは橘寺である。それでは次は飛鳥を目指そうかと考えたが、それはまた次の話ということになる。







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