パソコン絵画徒然草

== 奈良散歩記 ==






第4話:お水取り





 今回は散歩の話ではない。季節に合わせて東大寺のお水取りの話をしようと思う。

 3月になると、春を呼ぶ行事として有名な東大寺のお水取りが行われる。誰でも一度は名前を聞いたことがあるだろうし、外に張り出した東大寺二月堂(にがつどう)の舞台を、大きなたいまつを持った童子が走り、火の粉が堂下に舞い散る映像を見たことがあるだろう。1200年以上にわたり途絶えることなく続く古式ゆかしき行事である。

 ただ、お水取りという言葉に出て来る水と、あの火祭りみたいなたいまつがどう結び付くのか、説明できる人はなかなかいないと思う。私も以前から不思議に思っていたのだが、大阪勤務時に同僚に誘われて何度かお水取りに行き、ようやくその関係を理解した次第である。

 結論から言うと、お水取りといわれる行事の中核部分は、あのたいまつでも、水でもない。「練行衆(れんぎょうしゅう)」と呼ばれる僧侶たちが二月堂にこもり、世の人々が犯した様々な罪について十一面観音(じゅういちめんかんのん)に懺悔を行い、天下泰平、五穀豊穣などを祈るというのが、最も重要な部分であり、「別火(べっか)」と呼ばれる準備期間も入れると都合3週間以上にわたり行われる息の長い行事である。名前も「修二会(しゅにえ)」というのが正式であり、その中で行われる法要を、十一面観音に懺悔をすることから「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言うらしい。

 1200年以上続く行事ゆえ、祈りの対象となる十一面観音はどんな観音様かと興味が湧くが、実は絶対秘仏となっており、我々一般人はもちろん、修二会を執り行う練行衆すら、その姿を拝んだことはないようだ。誰も見たことのない仏様に向かってずっと古来より祈り続けているというのも、何だか不思議な行事である。

 修二会の「二」は二月に行われるという意味で、それを執り行う場所が二月堂というわけだが、これは旧暦の時代に2月に行っていたからで、今では2月の下旬から3月の上旬にかけて行われている。

 ではいったい、大きなたいまつを持って舞台を駆けるのは何だということになるが、このたいまつは、毎晩、練行衆の僧侶たちが二月堂に入る際に足下を照らす灯りとして使用するものである。

 今は二月堂の前に大勢の観客が押し寄せるので少しは明るくしているが、昔は暗闇の中で修二会が執り行われたようだ。堂内には菜種油を燃やした灯りが少しあるばかりで、二月堂に続く屋根付きの階段は月夜でも真っ暗である。そこを日が暮れてから練行衆が上るのだが、その際転ばないよう、たいまつで石段を照らすのである。

 このたいまつは、江戸時代にはもっと小さなものだったようで、当時描かれた絵を見ると、現在使われているたいまつとは比べ物にならないサイズである。今でも、準備のため先に堂内に入っている一人の練行衆と、下で控えている残りの練行衆との間で登堂前のやり取りが暗闇で行われるが、この時連絡役が石段を上るのに使うたいまつは小さなものである。では何故大きくなったかというと、ひとえに観衆の期待に応えるためらしい。ホントかなと思うような話だが、東大寺の関係者の方からそう聞いた。





 上の写真が、実際に使われているたいまつを二月堂の舞台の上から撮ったものである。これを持つ人の大きさと見比べれば、足下を照らすのに必要な大きさをはるかに超えていることが分かるだろう。

 たいまつを持っているのは東大寺の僧侶ではなく、童子と呼ばれるお世話係の人である。上の写真で、たいまつを持って柱の右側に見えているのが童子である。既にこの時、たいまつに先導された練行衆は二月堂の堂内に入っているので、もはやたいまつは必要ないのだが、火を消す前に童子がたいまつを持って舞台を駆ける。その時に舞い落ちた火の粉をかぶると無病息災と伝えられることから、多くの人々が集まるのである。テレビが放映するのはこの場面なため、お水取りといえば何か火祭りのように捉えられているわけだ。

 では、何故たいまつだけが舞台に出て来て、あんなパフォーマンスをするのかだが、これは昔の練行衆の堂内への入り方に起源があるようだ。

 現在の練行衆は11人だが、昔は20人以上いたらしい。その全員が、石段を登ってすぐの北の扉から堂内に入ったのではなく、半分は分かれて舞台の表側を歩いて通り、南の扉から入ることになっていた。この時、足下を照らすのに、たいまつが先導したのである。当時の人々は、この南扉から入る練行衆がたいまつと共に舞台を進むのを、二月堂下から見ていたわけである。

 その後、練行衆の数は十一面観音に合わせて11人と定まった。そうなると、南北に分かれずともは、全員が石段脇から堂内に入れる。しかし、それでは観客は納得しない。そこでたいまつだけが舞台の上を移動するというパフォーマンスが生まれたらしい。たいまつを大きくしたのも、必要ないのにたいまつだけ舞台上を行くようにしたのも、徹頭徹尾観客へのサービスというところが何とも面白い。

 さて、このたいまつの見せ方だが、何回か見ているうちにパターンが分かって来た。

 まず、たいまつは北側の屋根付き石段、つまり二月堂に向かって左側から上がって来て、舞台左袖に登場する。そこでたいまつを舞台の外に突き出し、何度か回して火をたいまつ全体に行き届かせる。この際、火の粉が散るので、見ている観客からは歓声が上がる。上の写真は、まさにその火の加減を調整している時のものである。火の粉が堂下に散っているのがお分かり頂けるだろう。

 この調整が終わってたいまつに万遍なく火が行き渡ると、童子はたいまつを担いで、一気に舞台を反対側まで駆ける。駆けると簡単に言うが、たいまつの重さは40〜60kgある。誰にでも出来る技ではない。

 駆ける時にも火の粉が散ってまた歓声である。下の写真が、たいまつが舞台を駆けだした時の様子を、下から撮影したものである。





 舞台の上で見ていると、駆けて行くたいまつから、火の粉と煙がもうもうと舞い、堂下から歓声が上がるのが聞こえるが、下を覗き込むことが出来ない位置にいるので、下からの眺めがどんな感じかは分からない。しかし、風の具合で舞台上にも火の粉はこぼれ、煙が吹き込む。舞台の床に散って赤々と燃える火の粉は、脇に控える別の童子が竹ボウキで叩き消す。

 舞台の木の床の上に大量の火の粉がばらまかれると、傍で見ている方はハッとするが、同時に美しくもある。私は子供の頃にやった線香花火を思い出した。線香花火を地面に近付けると火花が地面を這うように延びるが、ちょうどそんな感じである。

 それにしても、世界遺産であり国宝である木造建築の上で、こんなに火の粉をまき散らす行事が毎年行われているというのも驚異である。1200年途絶えることなく続いている行事なので、世界遺産や国宝だからと言って止められないのだろうが、見ている方はヒヤヒヤする。

 さて、舞台を駆けて右端に到達したたいまつは、何度か回転して火の粉を振り払う。おそらく最も火の粉が散るのはこの時で、場合によってはかなり大きなかたまりの状態で、火の粉が落下する。直撃を受けると怪我をするのではないかと思うが、その場所には観光客を入れないように規制をしている。長年の運営で、色々と研究されているのだろう。

 それでも、舞台の真下辺りに陣取った人々は、風に乗って舞う火の粉をまともに浴びているように見える。こうして火の粉をかぶることで無病息災になると言い伝えられているので、皆さん喜んで火の粉をかぶっているわけである。

 下の写真は、舞台の右袖で、まさに火の粉を振り払っているたいまつの様子である。この写真だと、写している私自身も火の粉をかぶっているように見えるが、実際にはもう少し離れたところにいるので、飛んで来た灰が頭に付く程度である。

 こうして身体に付いた灰は縁起物と言えるわけだが、実はお水取りが終わった後で家に戻るとかすかに焦げ臭い。灰だけでなく煙も浴びているからだろう。そこで思わず風呂に入って頭を洗ってしまうわけで、私は毎回こうして、せっかくの運を洗い流していたのである(笑)。





 たいまつからは灰だけでなく、燃え尽きずに残った杉の葉や小枝も落ちる。この燃えさしを持ち帰るとお守り代わりになると信じられているようで、一通りたいまつが終わって観客が帰り始めると、舞台下まで行って燃えさしを探す人がたくさんいる。暗闇の中で地面に落ちた燃えさしを探すのは大変だし、帰ろうとする大勢の人の波とぶつかることもある。警備員も燃えさしを探す人々に注意を促すが、皆さん夢中になっていて、なかなか諦めようとはしない。

 実はこの燃えさし、東大寺の方々が明るくなってから探して拾い、一般の人が持ち帰れるように休憩所に置いてくれている。しかも、焼けた部分の炭で手が汚れないよう、包んで持ち帰れるように切った新聞紙まで脇に置いてある。もちろん無料である。私も記念に持ち帰ったことがあるが、なんて親切なのだろうと感心した。

 必要なくなっても観客のためにたいまつを残した話といい、この燃えさしの取扱いといい、東大寺というお寺は庶民目線のお寺なのだなぁと思う。私は以前、そのステータスからいって、東大寺を格式ばった権威主義的なお寺というイメージで捉えていたが、お水取りに行くようになって随分とイメージが変わった。

 たいまつの話はこのくらいにして、今度は、お水取りの水の話をしよう。ここで言う水というのは、修二会の最中にやる、ある特定の行事に関連している。

 元々の由来を言うと、話は少々ややこしくなる。東大寺はもちろん仏教の寺院なわけだが、昔は神と仏をくっつけて、まとめて敬おうとする、いわゆる神仏習合(しんぶつしゅうごう)が当たり前だった。従って、修二会も純粋の仏教行事というわけではなく、神様も参加する形態になっている。

 さて、そうした中で、諸国の神々が修二会に参集するはずだったのに、若狭国(わかさのくに)の遠敷明神(おにうみょうじん)が魚を獲っていて遅れてしまった。遅れてやって来た遠敷明神は、お詫びとして二月堂の前に清水を湧き出させて十一面観音に奉ったという伝承がある。この時に湧き出た清水は、閼伽井屋(あかいや)という建物の中に今もあると言われている。

 下の写真が、その閼伽井屋である。写真の右上に見えているのが二月堂なので、すぐ近くにあることが分かるだろう。





 この故事を受け継いで、現在では3月12日の真夜中に勤行を中断して練行衆が閼伽井屋まで水を汲みに行き、汲んで来た水を二月堂の十一面観音に献上している。要するに、遠敷明神の代わりに清水を奉っているわけで、この水を汲みに行く部分をお水取りと言っているのである。従って、厳密な意味でお水取りとは、都合3週間にわたる長い行事のうち、3月12日のその部分だけを指し、他はお水取りではないことになる。

 更に言うと、この水を汲みに行くという行事は遠い昔からあったわけだが、お水取りという名前は最初からあったわけではない。この言葉を作ったのは、何と俳人の松尾芭蕉(まつおばしょう)なのである。芭蕉は修二会の頃に二月堂を訪ねていて「水取りやこもりの僧の沓の音」の句を残している。修二会の長い歴史の中で「水取り」という言葉が登場するのは、どうやらこれが最初らしい。芭蕉の造語のようである。

 ちなみに、芭蕉が詠んだ句の中にある「こもりの僧の沓の音」というのは何を言っているのかということになるが、これは修二会に行った人なら誰でも聞いている独特の拍子木のような音のことである。

 練行衆はたいまつの先導で二月堂に上がると、堂の入り口で履物を履き替える。堂内で履かれる履物は差懸(さしかけ)と言って、下駄のようなものである。練行衆は堂内に入ると差懸で四股を踏むようにリズミカルに床を打ち鳴らし内陣の麻の帳の中に入る。この音が、懸造の二月堂の構造により増幅され、舞台下で聞いている観客の耳にハッキリと届くのである。芭蕉はこれを俳句に詠んでいるわけだが、知らずに舞台下でたいまつを見ている人の中には、あれは何の音なのかずっと疑問に思っていましたという方もいる。確かに、下で聞いていると謎の音だろう。

 さて、お水取りで閼伽井屋から二月堂内陣に運び込まれる水を「お香水(おこうずい)」というのだが、これを実際に汲む場面はテレビニュースには出て来ない。一切公開されていないからである。ただ、当日二月堂内で練行衆の勤行に付き合っていれば、一般の人にもこのお香水が配られると聞く。もちろん全員にではないらしく、座る位置によるようだ。差し出した手の平にひしゃくで注いでくれる。ただ、事前に許可を得たわずかの人しか堂内に入れないし、真夜中まで待つ必要がある。要するに、幸運に恵まれないとお香水はもらえないのである。

 私が行っていた当時は、そんな幸運に恵まれない人のために東大寺が瓶に詰めて一般の人々にお香水を頒布していた。下に私が当時購入したお香水の写真を掲げておく。1本300円だった。生の水で飲用を保証されているわけではないが、極めて良質な水なので、鮮度は長く保たれるという。

 面白いことに、このお香水は翌年空き瓶を持って行って再度買うと割引してくれる。いわゆるリターナブル瓶という扱いで、奈良時代から続く格式の高いお寺の割にはしゃれたサービスである。儲けようという意識があまりないのだろう。そもそもお水取りだって入場料金を取っても良さそうなものだが、完全無料である。この辺りが京都のお寺と違うところだなぁと感心する。

 お香水は、一本がタバスコくらいの大きさで、お寺の方に聞くと、このまま飲むものではないらしい。お茶や、薬を飲む際の水にわずかばかりこの水をたらして使うとのこと。私は、コーヒーに少し入れて飲んだが、そのせいかどうか大阪にいる間、健康面で特に問題は生じなかった。お香水のご利益があったのだろうか。





 私は大阪に住んでいる間、都合3回修二会を見に行っているが、いずれも本来の意味でのお水取りの日ではない。3月12日は一つのクライマックスなので東大寺二月堂は入場制限が出る盛況ぶりなうえ、お水取りそのものは夜中の1時過ぎくらいから始まるので、その時までいようと思ったら徹夜覚悟である。そこまでの意欲はないので、たいまつが二月堂舞台を走るところだけ見ようと、別の日に出掛けた。

 ニュースに出て来るのは3月12日のたいまつなので、たいまつが駆けるのはその日だけだと誤解している人もいるようだが、たいまつの目的は冒頭述べたように練行衆の道灯りだから、実は期間中毎日行われているのである。ただ、クライマックスの3月12日のたいまつは、一般に籠たいまつと呼ばれる一回り大きなもので迫力があるという点と、普通の日は10本のたいまつなのに対し、この日は11本上がるという点で違いがある。

 たいまつの違いという点では、最終日の3月14日のたいまつは、1本ずつ間隔を空けて舞台に上がって来るのではなく、続けざまに一気に10本のたいまつが上がって来て、舞台上に10本のたいまつが一度に出そろうという違いがある。練行衆のすぐ後を次のたいまつが続くので、「しりつけたいまつ」の別名がある。

 お水取りのニュースでは、二月堂を下から見上げる形でお堂前の広場に観客が集まり、舞台を駆けるたいまつの火の粉が散って、見物客の上に降りかかるという感じだが、実は昼間二月堂は舞台まで見学に上がれる状態になっており、早めに来ていれば、たいまつの時間になっても二月堂の舞台に居残れる。もちろん寒さ覚悟で7時のたいまつまで待たねばならないが、間近でたいまつを見られるから、それなりの価値はある。

 早めに行って舞台の上でたいまつを見る際の楽しみは、格子越しに二月堂内の様子を見学できることである。

 準備のため一人の練行衆が先に堂内に入っており、残りの練行衆がたいまつと共に階段を上がって来るに当たり、古式にのっとって幾度かやり取りをするのだが、これがなかなか興味深い。昔は時計などなかったから、時間をお香の燃え具合で測った。これが今でも続けられている。残りの練行衆が登堂するに当たり、頃合いを見計らってお香の燃え具合を訊きに来る際のやり取りなどは、1200年続く行事の重みを感じる。

 堂内の帳の中の様子はシルエットでしか分からないが、大きく拝むようにしてから祭壇に向かっているらしい。こうした動きは、舞台から格子越しに覗くことが出来る。他にも、たいまつが終わった後に残って格子越しに中を伺っていると、単に祈りをあげているだけでなく、練行衆が様々に動き回る様子がシルエットとして帳に映る。この帳越しに見る僧侶の動きもなかなか風情がある。

 修二会の期間は約1ヶ月だが、たいまつが見られるのはそのうち2週間ほどである。その時期に奈良に来られない人はこの行事を自分の目で見られないわけだが、他の時期に来ても、その名残くらいは見ることが出来る。

 二月堂の舞台に上がるには、舞台正面左手の石段から上がるか、右手の屋根付きの石段から上がるかだが、この屋根付きの石段が、修二会の際にたいまつを伴った練行衆が登堂するのに使う石段である。ここを上がりながら天井を見て欲しい。

 巨大なたいまつが通る際に煙とすすが天井にこもる。たいまつの大きさを考えると、階段に付いている木造の屋根を焦がすのではないかと心配になるが、そこは童子の熟練の技で延焼はさせない。そのかわり、たいまつの煙とすすで階段上の天板が真っ黒になっているのが分かる。これがお水取りの名残なのである。





 修二会は、奈良に春を呼ぶ行事として毎年テレビで放映されるが、この時まだ春は来ておらず、とりわけ夜間は寒い。私も見学に行く際に「お水取りの時期になると寒くなるんです」と地元の人に言われた。3月上旬だから寒の戻りが来るのである。

 実際に修二会に足を運んだ3回とも、その前には気温が一時的に上がった期間もあったが、当日になるとグッと冷え込み、言われた通りの寒い夜となった。奈良の冬はしんしんと冷える。最近では観光バスで団体観光客が繰り出して来るようで、12日以外でも混雑する。そのため早めに二月堂へ着く必要があるが、たいまつを待つ間の寒さはこたえた。上はかなり着込んでいるのだが、足下から冷えるのである。

 しかし、その寒さに耐えても見る価値はあると思う。実際目の前でたいまつが舞台を駆ける様子を見ると、何とも美しいものである。暗闇の中を舞う炎には、どこか吸い込まれるような妖しげな魅力がある。通常の日だと、登堂する練行衆は10人なので、たいまつは10回続く。同じことの繰り返しだが、飽きずに眺めてしまう。

 掲げられたたいまつから暗闇の中へハラハラと舞い落ちる火の粉もまた、妖しく魅力的である。暫し燃えて闇の中に姿を消すもの、燃えながら落ちていくもの、そうした無数の火の粉に煙がまとわり付き、やがて闇の中に同化していく。火の粉と煙が絡み合うようにして織り成す流れは複雑で、一つとして同じ形を取るものがない。

 闇の中を炎が舞い火の粉が散るというこんな単純なことに、これだけ人が惹きつけられるというのも、考えてみれば不思議なことである。動物は本能的に火を怖がるというが、我々が火に魅せられるのは何故なのだろう。闇を照らす火への安心感だろうか。それとも、動物に対して優位に立てる力の象徴だからだろうか。



 二月堂の舞台を、火の粉を飛ばしながら駆けるたいまつを眺めながら、私は同じように暗闇を照らす火を描いた日本画の作品を思い浮かべていた。

 炎の周りを蛾が舞い飛ぶ速水御舟の「炎舞」、篝火に浮かぶ絢爛たる桜を描いた横山大観の「夜桜」、何作も何作も繰り返し描かれた川合玉堂の「鵜飼」、いずれも美術の教科書に登場する傑作中の傑作である。他にも、古来の仏画、地獄絵図をはじめ、日本画には炎がいくたびも登場する。闇に浮かぶ炎は、昔から画家を魅了してやまなかったのである。

 電気のお蔭で夜でも明るくなった現代ではなかなか実感できなくなったが、暗闇を照らす炎の魅力に触れた修二会の一夜は、日本人が持っていた美の感覚を改めて思い起こさせてくれた貴重な経験であった。昔は一切の灯をともさず、たいまつと堂内のわずかな灯りだけで勤行が行われた。真の闇を照らす炎がどれほど素晴らしかったか。想像するだけで鳥肌が立つような思いがする。







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