パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第3話:西の京 |
奈良散歩記も今回で3回目となる。1回目と2回目は、近鉄奈良駅を起点とする春日山周辺の散歩だったが、3回目は西の京と呼ばれるエリアを歩こうということで、近鉄の大和西大寺駅(やまとさいだいじえき)から橿原線(かしはらせん)に乗り換えて西ノ京駅(にしのきょうえき)へ行き、そこから北向きに歩いて大和西大寺駅に戻るコースを散策することにした。 季節は9月の終わりで、まだ紅葉には早かったが、金木犀が香り、コスモスの花が揺れる田園風景の旅となった。西ノ京駅を降りると、すぐ近くに薬師寺(やくしじ)があり、ここがこの日のスタート地点となる。言わずと知れた、西の京の代表的寺院である。 近鉄の西ノ京駅からそのまま薬師寺に入ると、寺の裏側から回り始めることになる。本来は南門から入るのが正式なコースなので、脇の道から東側に回り込む形で薬師寺の外側を半周する。この道がなかなか良かった。畑がポツポツとある中に古い奈良の家々が並ぶ、落ち着いた感じの道だ。その向こうに川沿いの堤防道が見えるが、これもまた散歩にもってこいの、のどかな道である。 こういうコースを取ったのには、もう一つ理由があった。実は、大学時代に奈良が実家の友人に案内されて来たことがあるのだが、その時、友人の勧めで、寺の横にある観音池越しに薬師寺の三重塔を眺めた覚えがある。あの場所にもう一度行ってみたいという気持ちもあって、東側の道をたどって観音池を目指した。 しかし、たどりついてみると残念なことに、観音池から見える薬師寺東塔は修理中で、まことに味気ない姿をさらすのみだった。ただ、観音池自体の風情はいい。向こう岸に見える民家と森とが、のどかな叙情を醸し出している。暫し池の傍らにたたずみ、数十年ぶりの再訪を思った。 薬師寺は説明するまでもない有名な寺院で、天武天皇(てんむてんのう)の発願により今から1300年以上前に建てられたが、当初はこの地にはなく、飛鳥の藤原京(ふじわらきょう)に造営された。今でも、本薬師寺跡(もとやくしじあと)として、礎石や土壇がその地に残っている。藤原京や本薬師寺跡は、後に訪ねることになるのだが、その話はまた別の機会に書くことにしよう。 そもそもの造営の趣旨は、皇后の病気回復のために天武天皇が薬師如来を本尊とする寺を建てようとしたものだが、なんと完成しないうちに当の天皇が亡くなってしまう。それを受けて皇后が即位して持統天皇(じとうてんのう)となり、夫の遺志を継いで完成させたという経緯がある。よく考えると、何のために建てたんだという話である。その後、平城京に遷都した際、他の大寺院と共にここに移転して来たのである。 由緒あるお寺なのだが、火災や戦火で創建当初の建物はほとんど残っておらず、唯一奈良時代の建築物として残っている東塔は、平成32年まで修理中で見ることが出来ない。 絵を描く身として薬師寺を見ると、中央にある金堂の手前に東西二つの三重塔があり、見る角度によって様々な構図取りが出来る、非常に美しい構成となっている。多くの日本画家たちもこの寺を題材に名作を残しており、絵心を誘う伽藍配置だと言える。 めったにお寺を拝観しない私がこの時薬師寺に参拝したのは、三重塔や金堂を見たかったからではない。ちょうど玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)で、日本画家の平山郁夫(ひらやまいくお)の大唐西域壁画(だいとうさいいきへきが)を公開していたからである。 この壁画は完成時に美術館だったかデパートの特別展だったかで一度見たのだが、この時の玄奘三蔵院伽藍では、非常に恵まれた環境で鑑賞することが出来た。作者が意図した場所に壁画があるから、真に完成した姿で鑑賞できたという理由に加え、私が以前見た時のような混雑はなく、ほとんど参観者がいない中で作品をゆっくりと楽しめたのである。古代の旅路を想像しながら玄奘三蔵の足跡に思いを馳せるには絶好の機会だった。 玄奘三蔵院伽藍を鑑賞した後は、薬師寺の西に出て北向きに道をたどる。次に目指すは唐招提寺(とうしょうだいじ)である。といっても両寺は近くて、せいぜい15分程度の道のりだ。風情ある落ち着いた感じの道を歩くのだが、歩道がないため、時々車が来るのには閉口する。もっとも、細い道ゆえ向こうもゆっくりと運転するので、怖いことはない。歩き始めてまもなく、道の正面に唐招提寺の境内の木々が見え始める。一本道なので迷うことはない。 唐招提寺も、これまた説明するまでもない有名な寺院で、正式の僧となるために必要な戒律を授ける導師として日本に招請された鑑真(がんじん)が、6回の渡航を経てようやく来日し、創建した寺として広く知られている。 唐招提寺のある場所は、元は天武天皇の子だった新田部親王(にいたべしんのう)の屋敷跡で、この地を与えられた鑑真が私的に建てた小さな寺が、唐招提寺の始まりである。鑑真はこの寺で晩年を過ごし亡くなっているが、今のような立派な構成の大寺院になったのは、彼の死後のことである。唐招提寺というと、上の写真にある優美な造形の金堂がまず思い浮かぶが、あれも鑑真が生きていた頃にはなかったものである。 この日は、唐招提寺にも拝観料を払って入った。ここには東山魁夷(ひがしやまかいい)の有名な障壁画があるが、これは年に1回わずかな期間しか公開されないので、それ目当てではない。以前に訪れた時の印象で、寺院内の道が趣があって良かったので、再び歩いてみたいと思ったからである。 金堂脇から西側に進んで戒壇院に行き、その前の道を北にたどる形で境内の外周道を一周する。崩れかけた土塀や苔むした庭、味わいのある土の道などが一体となって、独特の叙情を醸し出す。長い歳月重ねられて来た歴史の厚さが、そこここに感じられる素晴らしい景色である。こうした風情は、興福寺や東大寺、薬師寺などにはない。歴史あるお寺が長い年月をかけて自然の一部に溶け込んでいるような造りで、その寂れ方が絶妙なのである。 薬師寺もそうだったが、唐招提寺もそれ程観光客はいない。お蔭で、静かな散歩が楽しめる。一通り回り終わった頃に、団体客ががやがやと門をくぐって来たのが見えたので、この辺が潮時だろうと唐招提寺を後にすることにした。 さて、西の京の観光というと、薬師寺、唐招提寺を見て終了というのが普通であるが、今回の散歩は大和西大寺駅までなので、唐招提寺を出て西に進み、近鉄の線路を越えてから線路沿いを更に北に進む。次なる目標地は垂仁天皇陵(すいにんてんのうりょう)である。 垂仁天皇陵は唐招提寺から十数分といった道のりだが、踏切を渡ると観光客はほとんど見かけなくなる。この道中がまことにのどかな田園風景で、ススキの穂が風になびき、色付いた柿の実が傾きかけた陽を浴びていたのを覚えている。西の京の魅力は、こうした鄙びた風情が至るところにあることではないかと思った。奈良公園近辺の雑踏など微塵もない。観光客も興福寺や東大寺に比べると桁違いに少ない。 垂仁天皇陵は畑や田んぼに囲まれるようにしてたたずんでいる。遠くから見ると小さな山だが、近づけば湖に浮かぶ島である。宮内庁が管理しているので、参道が設けられており、墳墓に参拝する拝所が設えられ、係員らしき人が傍らの小屋に常駐している。前方後円墳なので、拝所のある南側が方形で、奥に当たる北側が円になっていると思われるが、大きな墳墓なので、拝所から見ていても全景は分からない。 ここに祀られている垂仁天皇は11代目の天皇ということになっているが、日本武尊(やまとたけるのみこと)のお爺さんにあたる人なので、本当にいたかどうか疑問視する学説もあるらしい。しかし、こうして古墳はちゃんと残っている。 写真右端に小さな島があるが、これが田道間守(たじまもり)の墓だと言われている。垂仁天皇陵の拝所とは別に、東側に田道間守の墓に参拝できる場所があり、そこに田道間守の塚である旨の石碑が建っていた。 田道間守の一族は兵庫県北部の但馬地方の出で、垂仁天皇の臣下だったが、天皇に命じられて常世の国に「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」という不老不死の果物を探しに行く。十年後、その実を持ち帰った時には垂仁天皇は既に亡くなっていて、田道間守は嘆き悲しみ亡くなったと伝えられている。垂仁天皇の後を継いでいた景行天皇が、田道間守の忠義を思い、垂仁天皇陵に墓を作らせたというのが、この小島の謂れである。 彼が持ち帰ったのは橘の実とされており、当時希少な菓子として珍重されたことから、田道間守はお菓子の神様とされ、全国の菓子商の信仰の対象となった。彼の故郷である但馬地方には中嶋神社があり、ここに祭神として祀られている。一般には知られていない神社であるが、毎年4月に菓子祭が行われ、全国の菓子業者で賑わう。ちなみに、神社名の中嶋は、この垂仁天皇陵に浮かぶ田道間守の小島を指しているらしい。 垂仁天皇陵の周囲は道になっており、ぐるりと半周した。道中、垂仁天皇陵の森をじっくり見ると、方形と円の継ぎ目に当たる窪み部分が何となく判った気がした。この周濠沿いの道も畑に囲まれ、のどかでいい感じである。半周した辺りで住宅街となり、そこから北向きに抜けて、次は菅原の里(すがわらのさと)を目指すことにした。 菅原の里の菅原とは、あの学問の神様、菅原道真(すがわらのみちざね)の一族のことである。菅原道真というと、京都や北九州のイメージが強いが、生まれは西の京ということで、奈良の人だったのである。 菅原の里への道中、垂仁天皇陵から細い道をたどりながら北上し、阪奈道路の下をくぐってから西に曲がると、目立つ位置に喜光寺(きこうじ)の門と本堂が見える。堂々とした風格のあるお寺で、中には入らなかったものの、門の脇にある案内板で寺の縁起を読んだ。 寺の縁起によれば、奈良時代に仏教を民衆に広めようと布教活動をしたことで知られる行基(ぎょうき)によって創建された歴史あるお寺らしい。行基はその後、聖武天皇の命により東大寺の大仏建立を指揮したが、その際、この喜光寺本堂を参考にしたと伝えられている。そのためここの本堂は「大仏殿の試みの堂」という別称を持っていると案内板にあった。最初見たとき、どこかで見たことがある寺だなと思っていたが、なるほどそう言われてみると、東大寺の大仏殿によく似ている。 解説板には、この辺り一帯が菅原の里と呼ばれていたため、当初「菅原寺」という名前だったとある。名前が菅原寺から喜光寺に変わったのは、さては菅原道真追い落としを企てた藤原氏の陰謀か、なんて勘ぐる向きもあるかもしれないが、さにあらず。名称変更のきっかけは、聖武天皇がこの寺に参詣したおり、本尊より放たれる不思議な光明を感じて喜んだからと寺の縁起に書かれている。つまり、菅原道真が生まれた時には、既に喜光寺という名前に変わっていたのである。 さて、その菅原道真であるが、生まれた場所はこの近くということで、喜光寺から北に暫く行ったところにある菅原天満宮を目指すことにした。ちなみに、現在のこの辺りの地名は菅原の里ではなく、菅原町である。 喜光寺の脇の道をほんの数分歩けば、右手に菅原天満宮がある。それほど大きくはないが、全国にあまたある天神さんの中で、道真の生まれ故郷にある天神さんということで、一等格上に思える。菅原天満宮の門前にある解説板を読むと、創建年代は不明とあるが、元々は菅原一族の祖先である天穂日命(あまのほひのみこと)と野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を祀るための神社だったのではないかと思われる。 この解説版を読むと、東に百メートルばかり行ったところに、菅原道真誕生時に産湯として使った天神堀が残っているとあるので、それを探すべく住宅街の中を歩く。どうみても単なる住宅街としか思えない家並みに忽然と池が現れた。傍らに案内板が立っており、これがどうやら天神堀らしい。 現在では、とてもここを、生まれたての赤ん坊の産湯に利用しようという発想にはならないが、平安時代にはきれいな水をたたえた池であったに違いない。菅原道真の墓の上に建つ太宰府天満宮に行ったことのある人はたくさんいるだろうが、生誕の地に立ったことのある人はごく少なかろう。こんな穴場に行き会うのも、散歩の楽しいところである。 さてここまで来れば、大和西大寺駅はもう少しである。あとは北に向かって住宅地を進むのみ。いや、最後に駅前の西大寺に立ち寄ってみるかと、地図で位置を確かめる。 静かな裏道を進むこと約20分。駅に近づくにつれて人の姿が増える。まもなく駅というところで、道の左側に西大寺の門が現れた。大きな駐車場を持つ立派な寺だが、最盛期に比べると、寺勢の衰えは隠すべくもなかろう。 駅名にもなっている西大寺は、名前のとおり東大寺と並ぶ西の大寺院という位置付けで創建されたもので、東大寺とほぼ同じ時代に建てられている。平城京を間に挟んで、東大寺と西大寺が東西に並んでいたわけだ。さぞかし壮観な眺めだったことだろう。 奈良時代に朝廷の保護を受けていた平城京周辺の7つの大寺院を南都七大寺(なんとしちだいじ)と呼ぶが、西大寺もこの中に含まれている。他の6つは、東大寺のほかに興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺、法隆寺といった有名寺院ばかりで、こうして見ると、既に3回の奈良散歩で5つを訪ねたことになる。 西大寺は、最盛期にはこの辺り一帯に百十以上の建物を擁する巨大寺院だったようだが、火災などに遭って衰退し、今では本堂、四王堂、愛染堂、鐘楼などが残る程度で、いずれも後に再建されたものばかりである。本堂の前には、かつて東西に二つあった五重塔のうち東塔の基壇が残っている。 戦乱に遭ったり火事に見舞われたりして、多くの建物を失ったのは東大寺も同じだが、復興に向けての後世の人々の後押しが、東西の大寺では違っていて、その後の命運を分けたのである。やはり東大寺は、大仏の存在が大きかったのだろうか。こじんまりとした西大寺の本堂を見ていると、平城京を代表する東西両寺院がたどったその後の道のりの差に、何とも言えない感慨を催すのである。 ここでこの日の散歩は終わりとなった。合わせて7〜8kmの道のりということになろうか。思ったほどの距離ではなかった。もう少し寄り道をしても良かったかなと少々後悔した。奈良公園近辺とは趣の異なる田園地帯の道行きを経験し、どうせ歩くなら、こういう鄙びた感じの場所がいいなぁと思ったことを覚えている。 |
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