パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第2話:白毫寺と奈良町 |
大阪暮らしの合間に奈良まで出掛けあちこち歩き回った記録を再編集してアップしようと始めた奈良散歩記だが、今回は2回目となる。 最初下見がてら奈良に行った際、最も観光客が集まる奈良公園周辺の様子を見て、道の混み具合などが分かったので、2回目は典型的な観光コースから少し外れて、観光客の少ない場所を歩いてみようと考えた。ちょうど9月の天気の良い三連休だったため、奈良公園から離れた一般的な場所がハイシーズンにどの程度混雑するのか知りたかったのである。 私は観光がメインで奈良を選んだのではない。健康管理も兼ねて週末にある程度の距離を気分良く歩ける場所を探していた。人ごみの中をそぞろ歩くのも悪くはないが、それでは距離が稼げない。距離を意識すると、ノロノロ歩く大勢の人の後について行くのはストレスが溜まる。ある程度自分のペースでスイスイ歩ける道が望ましい。ついでに言えば、時々立ち寄れる風光明媚なスポットや歴史を感じさせる遺構があればなおいい。そうした条件に合いそうなのが奈良だと思い立ったものの、実際にそれが正しい判断なのか確かめたかったのである。 前回の奈良公園周辺は観光にはいいが、あまり距離を稼ぐ散歩向きではない。皆さん周りの風景に夢中でキョロキョロしながらスローペースで歩くし、至るところに鹿がいて、エサを貰ったり、一緒に写真に収まったりと、路上のアイドルになっている。鹿のいるところ立ち止まる人ありで、歩道の渋滞が生じる。こうした中をウォーキングのやや速い足取りで歩くのは、けっこう疲れる。そんなわけで、今回はややマイナーな場所を探索してみようと考えた。 2回目の奈良散歩の起点も近鉄奈良駅だが、今回は登大路(のぼりおおじ)を真っ直ぐ東に進み、春日大社(かすがたいしゃ)の参道に入って本殿まで上がるコースを取った。最初は観光客や鹿の間を縫いながらノロノロペースで歩いたが、東大寺南大門(とうだいじなんだいもん)への曲がり道のある交差点から春日大社表参道に合流する脇道に入ると、一気に観光客が減った。交差点から東大寺方向を見ると、参道は人で一杯。やはり、皆さん大仏がお目当てらしい。 林の中の道を進み、ほどなく表参道に出て、坂道を登る。春日大社は山の中にあるためか、東大寺ほどの賑わいはない。時代を感じさせる石燈篭が並ぶ参道を進むと、やがて本殿に出る。寺社巡りが目的ではないので参拝はしなかったが、朱塗りで有名な本殿は改装中で、工事用の足場に囲われているのが見えた。 春日大社は、奈良に平城京が出来た頃に、天皇の勅命により藤原氏が造営したものだが、実態は藤原氏の氏神を祀る藤原家のための神社であり、その祭礼が天皇の勅命により行われたのは、藤原氏の政治力が相当なものであった証だろう。ちなみに、藤原氏の氏寺はどこかというと、前回の奈良散歩の際立ち寄った興福寺(こうふくじ)である。藤原氏の後ろ盾を持った興福寺の実力もずば抜けたもので、比叡山延暦寺とともに南都北嶺(なんとほくれい)と恐れられていたのは、日本史の教科書にも出て来る有名な話だ。 さて、春日大社本殿の後は東に向かい、御間道(おあいみち)と呼ばれる趣のある道をたどって、若宮神社(わかみやじんじゃ)に向かった。春日大社は広大な境内にたくさんの神社が並んでいるが、若宮神社もその一つである。藤原家の氏神の子である神を祀っているので若宮という名前が付いている。ここに立ち寄ったのは若宮神社に関心があるからではなく、ここから南に降りていく上の禰宜道(かみのねぎみち)を探すためである。 最初に奈良を散歩した際、高畑(たかばたけ)という地区から春日大社に行くのに、下の禰宜道(しものねぎみち)という山道を使った話を書いた。これは、高畑に住んでいた春日大社の神官や社務職の人たちの通勤路なのだが、禰宜道は一本だけでなく三本ある。上の禰宜道はそうした道の一本で、一番東側の道である。 上の禰宜道も下の禰宜道と同じく完全な山道で、春日山の原生林の中を歩く寂しい道である。上の禰宜道を降りたところから東の山の中に入って行くと柳生街道(やぎゅうかいどう)がある。そのまま森の中の古道をたどれば、柳生一族の故郷、柳生の里(やぎゅうのさと)へとつながっている。 奈良の人に、ウォーキング・コースを探しているんだと言ったら、この柳生街道を歩くことを強く勧められた。「柳生十兵衛も歩いた道ですよ」という説明に心が動いたが、柳生の里までなんと片道5時間! バスは本数が少ないと来ている。最初の頃は無理だと諦めていたが、後に一部だけ歩くことになる。その話は、またの機会にすることにしよう。 さて、散歩の方は、ここから住宅街の中を歩くことになる。ここまで来ると、観光客はほとんどおらず、実に静かな道行きである。これだと、自分のペースで歩ける。おまけに自動車もほとんど通らない。最終目的地は白毫寺(びゃくごうじ)なのだが、そこに行く目印として、まず新薬師寺(しんやくしじ)に向かう。 初めて来る住宅街の中の散歩は、道が分からず容易ではないのだが、幸い新薬師寺と白毫寺は有名なので、所々に手作りの道案内がある。これまで、多くの観光客が地元の人に道順を尋ねて来た積み重ねが、その手作りの道しるべにつながっているのだろう。と同時に、この道しるべがなかったら、いくら地図を持っていても目的地にたどり着くのは容易ではないと実感する。古い町並みが遺されている旧道なので、複雑で分かりにくいのである。 住宅地の中の狭く入り組んだ道を進むうちに新薬師寺に着いた。さすがにここまで来ると、観光客がそこそこいる。みんな車で来たのだろうか。中心部から外れているので、私のように歩いて来る人は少数派だと思う。 新薬師寺は、天平時代に聖武天皇(しょうむてんのう)の眼病治癒のために光明皇后(こうみょうこうごう)が建てた寺だが、今では寺勢が衰えこじんまりした造りになっている。境内にはほぼ本堂があるだけだが、それも本来のお寺の本堂ではなく、僧の修行用に建てられた建物と聞く。おまけに奈良公園近辺の興福寺や東大寺が集まるエリアから遠く離れ、道も分かりにくい。 それなのに観光客が絶えないのは、ここに安置されている薬師如来像とそれを取り囲む十二神将像が人気だからだろう。普通はご本尊の方が人気が高いのだが、ここでは十二神将像の方に注目が集まる。とりわけ「伐折羅(ばさら)大将像」の評価が高い。誰でも一度は写真などで見たことがあるはずだ。 仏像を見に来たわけではないし、時間の関係もあるので、この時は拝観はパスして白毫寺に向かう。新薬師寺のことは、また別の機会に改めて紹介しようと思う。 ここからは「歴史の道」というのをたどればよいと駅で貰ったウォーキングマップに書いてあったので、道の脇に所々埋め込まれている石柱を目印に進む。 石柱脇には「山の辺の道」の表示もある。山の辺の道(やまのべのみち)は、もっと南にあるものと思っていたが、それは石上神宮(いそのかみじんぐう)から桜井(さくらい)までの区間がハイキングコースとして有名なため、そんな錯覚に陥ったのである。山の辺の道自体は、奈良から桜井までを結ぶ日本最古の街道である。おそらく、こうして通っている歴史の道が、山の辺の道と重なっているのだろう。この山の辺の道も後に歩くことになるのだが、その話もまた別の機会に書くことにしようと思う。 新薬師寺までの道も難しかったが、白毫寺までの道も初めてだと分かりにくい。歴史の道の石柱と、所々に掲げられている手作りの道案内を頼りに、ようやく参道にたどり着く。白毫寺は山の上にあるということは分かっているので、ついつい山側に延びる細道を見ると、ここを曲がるのかなと迷ってしまう。地図だけを頼りに歩いていたら、行きつ戻りつしていたと思う。 参道は山に向かって緩やかな坂になっており、その先に山上へと登る階段がある。それを登ったところが入り口になっており、拝観料を払って山門に進む。この日、唯一拝観料を払って中まで入ることになったお寺であった。たまたまそういう気になったのではなく、最初から白毫寺だけは中まできちんと見ようと思っていたのだ。 何ゆえ白毫寺にこだわっていたかというと、その石段である。萩が両側に茂る石段を上りたかったのである。 私がこの寺のことを知ったのは大学生の時だった。写真家である入江泰吉(いりえたいきち)氏の「大和路」というムックを買ったのがきっかけだ。その写真集の中に「白毫寺の萩」という作品があり、古く趣のある石段の両側に萩が咲いている様子が写っていた。私はその写真をひと目で気に入ったが、京都にいたにもかかわらず、結局白毫寺を訪ねることなく大学生活が終わった。 大学時代、奈良には何度か行ったことがあるが、奈良公園近辺や西の京を訪ねたくらいで、白毫寺には行かなかった。インターネットなどない時代のことゆえ情報量が乏しく、車でないと行けないお寺という認識だった。東京に越してからは、益々奈良が遠くなり、主要観光ルートから外れたお寺にわざわざ行くなど、なかなか出来るものではなかった。 そんなわけでようやく念願かなって白毫寺の石段を登ったわけだが、入江泰吉氏の写真とは少々イメージが違った。彼が写真を撮ったのが正確にいつかは知らないが、数十年前であることは確かだ。長い歳月の間に萩は成長し、入江作品では見えている石段両側の塀がすっかり隠れてしまっていた。ただ、入江泰吉氏が撮ったであろうのと同じ場所に立ちカメラを構えたときには、一抹の感慨が胸に湧いて来たことは事実だ。何十年もずっと忘れなかった風景である。 萩の花の時期には早かろうと思い、さして期待していなかったが、いくつか咲いていた。まだ満開とはいかないが、咲いていただけでも良しとしよう。萩は地味な花だが、こうした風景にはよく似合う。おそらく、もっと派手な花だと印象がすっかり変わってしまうだろう。古来より秋の野山に咲き誇り、万葉の人々が愛した花だからこそ、価値があるのだと思う。 石段を登り切ったところに小さな本堂がある。創建のいわれは諸説あってはっきりしないと、入り口でもらったパンフレットに書いてあった。いずれにしても、奈良公園周辺の東大寺や興福寺、春日大社などに比べれば知名度は劣る。また、歴史的に見ても、ここが重要な舞台になったことはなかろう。忘れられたような静かなお寺である。 本道から少し離れたところに、樹齢450年といわれる五色椿(ごしきつばき)があり、周りにも椿が植えられている。ここの五色椿は、奈良の三名椿(さんめいちん)の一つである。寺の由来や有名な仏像で人が集まる奈良にあって、この鄙びた山上の寺が愛されているのは、萩と椿で有名な花の寺だからだろう。 この寺の名物はもう一つある。あるいはこちらの方が有名かもしれないが、境内から見渡せる奈良盆地の眺望が素晴らしいのである。 正面に生駒山があり、ぐるりと奈良周辺が見渡せる。デジカメのズームを使えば興福寺の五重塔も写真に収めることができる。このページの冒頭の写真が、この時撮影した興福寺周辺の様子である。 東大寺付近の大混雑が嘘のように、この鄙びたお寺を訪ねる観光客は少なく、いくらでも好きな場所から眺望を楽しめる。境内にいた人々も、三々五々、思い思いに休んだりそぞろ歩いたりして、休日の午後を楽しんでいる。人の少ないお寺を訪ねると、こんな静かで落ち着いた時間を過ごせるのかと驚いた。天気の良い三連休でこうなのだから、普段の休日なら静寂にひたりながら景色を楽しめるだろう。 夕暮れの時間までいたい気分だったが、更に散歩の先があるので長居はしていられない。後ろ髪を引かれるようにして石段を降りる。石段の上から見ると、萩の脇に土塀が見える。あれが入江泰吉作品にあった塀なんだと一枚写真を撮った。 白毫寺を後にして、そのまま西にコースを取る。ここからは観光客が全くいない一般道を歩く。交通量の多い道路なので散歩向きではないが、連休で渋滞気味なため車が脇をビュンビュン通って怖いということはない。やがて東大寺南大門に続く南北方向の道に出て、そこを北向きに曲がり、暫し道沿いに進む。奈良教育大学のある辺りで、今度は西に延びる道路に入り、そこを1kmほど歩くと、ならまち振興館にたどり着く。駅までの道すがら、古い奈良の街並みを楽しもうという趣向である。 奈良町(ならまち)というのはこの一帯の地名だが、昔ながらの家が残っていて観光客にも人気のエリアである。元々は元興寺(がんごうじ)のお膝もとの街で、戦災にも遭わず、景観規制もあるせいか、静かで落ち着いた街並みがそのまま残っている。 奈良町の中にはいくつか観光案内所のような建物があり、いずれも古い家屋を保存しながらそのまま開放している。たいていは無料で中に入れ、説明を聞くことが出来る。 奈良町を歩いているうちに昔ながらの趣のある漢方薬局の前を通ったのだが、そこで陀羅尼助丸(だらにすけがん)という胃腸薬が売られているのを見つけた。元々は、修験道の開祖で役行者(えんのぎょうじゃ)として有名な役小角(えんのおづぬ)が作ったとされる漢方薬だが、吉野の方で作られており、大阪辺りではめったに売っていない。我が家では以前、奈良の人からこの薬を貰って重宝がっていたのだが、補充のため買おうとしても東京では売っていなくて困ったことを覚えている。家族分と自分の分と二袋買ってお土産とする。散歩に行ってお土産を買うことなどめったにないが、今日は珍しいものを手に入れたと得した気分になった。 奈良町の中心は先ほども触れたが元興寺である。元興寺は、6世紀末に当時の有力豪族、蘇我馬子(そがのうまこ)が飛鳥の地に建立した法興寺(ほうこうじ)を、平城京遷都に伴ってこの場所に移転したものだ。飛鳥の法興寺跡には現在、飛鳥寺(あすかでら)というお寺が残っている。これは今でも飛鳥観光の中心となるお寺である。 法興寺は、日本に仏教を受け入れるのに主導的役割を果たした蘇我氏の氏寺で、本格的な仏教寺院としては日本最古とされている。今でも当時の瓦がいくつか、元興寺本堂の屋根に残っていると聞く。 ただ、往年の寺勢は保てず、当時の広大な敷地は荒れ果てて、やがて奈良町の街並みに変わっていったと伝えられる。従って、奈良町の中にポツポツと、かつての元興寺の痕跡が残っている。 残念ながら、元興寺本堂に着いた頃には拝観時間を終わっていたが、奈良町に残る五重塔跡は見学できた。 ちょうど本堂の裏手に当たる場所に、塔の礎石だけが残っている。周囲には萩の花が咲いていた。観光客もまばらな、忘れられた歴史の一風景である。 後日のこととなるが、この元興寺を訪れたことがある。ある程度の広さはあるが、奈良町全てが境内だった頃のことを思えば、寺勢の衰えは覆うべくもない。 最初、ここが元興寺の本来の中心部分だと思っていたのだが、今残っている伽藍は、元は僧房だったらしい。極楽坊(ごくらくぼう)という名で親しまれる現在の本堂には、智光曼荼羅(ちこうまんだら)と呼ばれる奈良時代の浄土図が伝わっていたようで、平安末期に貴族の間で阿弥陀信仰がはやると人気を博したと聞く。 平城京の時代には東大寺、興福寺と肩を並べる大寺院だった元興寺だが、平安末期にはもうかなり荒廃していたらしい。次第に建物は失われ、元興寺自体もバラバラになっていく。現在の元興寺は独立した寺院ではなく、奈良市西部にある西大寺(さいだいじ)の末寺である。 私が後日訪れた時にはそこそこ観光客の姿があり、外国人も見学に来ていた。境内にはたくさんの石塔、石仏が苔むした庭に並び、シンプルな堂宇とよく合っていた。建物の屋根に使われている瓦は、丸瓦を重ねた行基葺(ぎょうきぶき)と呼ばれるものだが、ここに使われている瓦の幾つかは、元興寺が飛鳥からここに移って来る際に持って来られた日本で初めての瓦らしい。赤茶けた色のものがそれなのだが、灰色の瓦と赤茶の古い瓦が混じって、屋根の色合いがなかなか良かった。 ところで、先ほど陀羅尼助丸の話で出て来た修験道の祖、役小角は、元興寺の前身である飛鳥の法興寺で呪法を学び、その後葛城(かつらぎ)周辺の山々で山岳修行を積んだ。吉野・熊野へ修行のため入るのはその後のことである。今は見る影もない元興寺だが、その歴史を紐解けば、様々な物語があるのだろう。 さて、この日は元興寺の五重塔跡を見たところで、行程は終わりである。その後は猿沢池(さるさわのいけ)経由で商店街を通って近鉄奈良駅へ向かった。この行程でだいたい10km弱歩いたことになる。春日大社や白毫寺で登り道や石段も歩いたから、カロリーはもう少し使っているだろう。 奈良も有名な観光地さえ外せば、天気の良い連休でもそれほど観光客はおらず、自分なりのペースで散歩を楽しめることが分かった。交通量も京都に比べればたいしたことはない。これからは色々計画して散策ルートを開拓していこうと決めた。ほどよく鄙びた感じが何ともいい。やはり大阪市内を歩くのと違って、のどかで楽しい一日だったことを覚えている。 |
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